十七史百將傳巻三 後漢 賈復

現代語訳

Kindle版『現代語訳 十七史百將傳 1 巻一〜巻五』(全2巻の第1巻)として出版する予定です。

要約

賈復は字を君文といい、南陽の冠軍の人である。『尚書』を修め、師の李生は將相の器だと評した。県の掾として塩を受け取りに行き盗賊に遭ったが、同輩が塩を捨てて散るなか賈復だけは無傷で持ち帰り、県中はその信義を称えた。

光武が河北にいたとき鄧禹の口ききで謁見し、破虜將軍となった。青犢を撃ったとき、朝飯にしてよいと言われると、まず敵を破ってのちに食うまでですと答え、真っ先に攻めかかって賊を敗走させた。真定で五校を破ったが甚だしく傷を負い、光武は、敵を軽んじるから別働隊を率いさせなかったと驚いた。病は癒え、薊で追いついて鄴の賊を破った。

即位後は執金吾・冠軍侯となった。帝が郾と宛を誰が撃つかと問うと賈復は郾を願い出た。帝は笑って、執金吾が郾を撃つなら何の心配があろうと言い、賈復は一月余りで尹尊を降した。

賈復は敗れたことがなく身に十二か所の傷を受けた。帝は遠征を命じることまれで常に手もとに従わせ、功を誇らぬ賈復に、賈君の功はわしがよく知っていると言った。膠東侯に改封。鄧禹とともに兵甲を手放して儒学に励み、建武二十一年に卒した。

孫子は「深く考えず敵を侮る者は必ず人に擒られる」と言う。また「人を選んでこれに任せる」と言う。賈復が郾を願い出たのがこれである。

年表

後漢の将、賈復(字は君文)。南陽の冠軍の人で、若くして『尚書』を修め、師から將相の器と評された。光武に従って破虜將軍となり、青犢・五校の討伐で先鋒として奮戦し、身に十二か所の傷を受けながら一度も敗れなかった。光武即位後は執金吾・冠軍侯となり、自ら願い出て郾の尹尊を降して南方を平定した。のち膠東侯に改封され、鄧禹とともに兵を手放して儒学に励み、恩遇の厚い功臣として生涯を終えた。

年表(1件)
原文(底本)
賈復,字君文,南陽冠軍人也。少好學,習《尚書》。事舞陰李生,李生奇之,謂門人曰:"賈君之容貌志氣如此,而勤於學,將相之器也。"王莽末,為縣掾,迎鹽河東,會遇盜賊,等比十餘人皆放散其鹽,復獨完以還縣,縣中稱其信。光武在河北,復因鄧禹得召見。光武奇之,禹亦稱有將帥節,於是以復為破虜將軍督盜賊。復馬羸,光武解左驂以賜之。從擊青犢於射大,大戰至日中,賊陳堅不卻。光武傳召復曰:"吏士皆飢,可且朝飯。"復曰:"先破之,然後食耳。"於是被羽先登,所向皆靡,賊乃敗走。諸將咸服其勇。又北與五校戰於真定,大破之。復傷創甚,光武大驚曰:"我所以不令賈復別將者,為其輕敵也。果然,失吾名將。"病尋愈,追及光武於薊,相見甚歡,大饗士卒,令復居前,擊鄴賊,破之。光武即位,拜為執金吾,封冠軍侯。更始郾王尹尊及諸大將在南方未降者尚多,帝召諸將議兵事,未有言,沉吟久之,乃以檄叩地曰:"郾最強,宛為次,誰當擊之?"復率然對曰:"臣請擊郾。"帝笑曰:"執金吾擊郾,吾復何憂!大司馬當擊宛。"遂遣復擊郾,連破之。月餘,尹尊降,盡定其地。復從征伐,未嘗喪敗,數與諸將潰圍解急,身被十二創。帝以復敢深入,希令遠征,而壯其勇節,常自從之,故復少方面之勛。諸將每論功自伐,復未嘗有言。帝輒曰:"賈君之功,我自知之。"定封膠東侯。復知帝欲偃干戈,修文德,不欲功臣擁眾京師,乃與高密侯鄧禹並剽兵甲,敦儒學。帝深然之。朱祐等薦復宜為宰相,帝方以吏事責三公,故功臣並不用。是時列侯唯高密、固始、膠東三侯與公卿參議國家大事,恩遇甚厚。建武二十一年卒。

孫子曰:"無慮而易敵者,必禽於人。"復常輕敵而光武不令別將。又曰:"擇人而任之。"復請擊郾,而光武以謂"吾復何憂"是也。
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