十七史百將傳巻四 後漢 王覇(元伯)
現代語訳
Kindle版『現代語訳 十七史百將傳 1 巻一〜巻五』(全2巻の第1巻)として出版する予定です。
要約
王霸は字を元伯といい、潁川の潁陽の人である。光武の功曹令吏となった。王郎が兵を起こし、光武が市中で人を募らせると、市の人は笑って揶揄し、王霸は恥じ入って還った。
滹沱河では候吏が氷が流れ渡れないと告げた。王霸は衆を驚かすのを恐れ、氷は堅いと偽った。河に至ると氷は合わさっており、数騎が渡り終わらぬうちに解けた。
王霸だけが士卒をよく撫でたので、光武は即位すると偏将軍に拝した。建武二年、富波侯に改封。
馬武とともに周建を垂惠に討った。蘇茂に敗れた馬武が救いを求めたが、王霸は、援けないと示せば馬武の戦いは倍になると営を閉ざした。蘇茂・周建が馬武を攻めると精騎にその背を襲わせ、二人は敗走した。
賊がまた挑むと、王霸は出ずに倡楽を奏させ、矢が酒樽に中っても動かず、士を休ませるのは戦わずして人の兵を屈するものだと言った。蘇茂・周建は還ったが、その夜、周誦が反いて城を閉ざし、二人は逃げ去って城は降った。
のち杜茂とともに飛狐道を治めて亭障を築き、匈奴・烏桓と数百戦し、和親と漕運を上書した。淮陵侯に封ぜられ、永平二年に卒した。
孫子はいう、よく士の耳目を愚にする、已むを得ざれば則ち闘う、人の兵を屈するのに戦いによらない、と。氷と偽って渡り、馬武に力戦させ、蘇茂・周建を屈服させたのが、これである。
年表
後漢の将、王霸(字は元伯)。潁川の潁陽の人で、光武が大司馬のとき功曹令吏となった。王郎の追撃を受けた滹沱河では「氷は堅い」と偽って一行を渡らせ、光武に天の瑞と称えられた。士卒をよく撫でることで独り任に堪えると認められて偏将軍となり、垂惠では営を閉ざして馬武を救わず、疲弊した蘇茂・周建を破った。のち飛狐道を修めて代から平城まで亭障を築き、匈奴・烏桓と数百戦して辺事に通じ、淮陵侯に封ぜられた。
年表(2件)
- 西暦26年 建武二年改めて富波侯に封ぜられる
- 西暦59年 永平二年病によって卒する
原文(底本)
王霸,字元伯,潁川潁陽人也。光武為大司馬,以霸為功曹令吏。及王郎起,光武在薊,郎移檄購光武。光武令霸至市中募人,將以擊郎。市人皆大笑,舉手邪榆之,霸慚懅而還。光武即南馳至下曲陽。傳聞王郎兵在後,從者皆恐。及至滹沱河,候吏還白河水流澌,無船,不可濟,官屬大懼。光武令霸往視之。霸恐驚眾,欲且前,阻水,還即詭曰:"冰堅可渡。"官屬皆喜。光武笑曰:"候吏果妄語也。"遂前。北至河,河冰亦合,乃令霸護渡,未畢數騎而冰解。光武謂霸曰:"安吾眾得濟免者,卿之力也。"霸謝曰:"此明公至德,神靈之祐,雖武王白魚之應,無以加此。"光武謂官屬曰:"王霸權以濟事,殆天瑞也。"常與臧宮、傅俊共營,霸獨善撫士卒,死者脫衣以斂之,傷者躬親以養之。光武即位,以霸曉兵愛士,可獨任,拜為偏將軍,並將臧官、傅俊兵,而以宮、俊為騎都尉。建武二年,更封富波侯。帝使霸與捕虜將軍馬武東討周建於垂惠。蘇茂將五校兵四千餘人救建,而先遣精騎遮擊馬武軍糧,武往救之。建從城中出兵來擊武,武恃霸之援,戰不甚力,為茂、建所敗。武軍奔過霸營,大呼求救。霸曰:"賊兵盛,出必兩敗,努力而已。"乃閉營堅壁。軍吏皆爭之,霸曰:"茂兵精銳,其眾又多,吾吏士心恐,而捕虜與吾相恃,兩軍不一,此敗道也。今閉營固守,示不相援,賊必乘勝輕進,捕虜無救,其戰自倍。如此,茂眾疲勞,吾承其弊,乃可克也。"茂、建果悉出攻武。合戰良久,霸軍中壯士路潤等數十人斷髮請戰。霸知士心銳,乃開營後,出精騎襲其背。茂、建前後受敵,驚亂敗走,霸、武各歸營。賊復聚眾挑戰,霸堅臥不出,方饗士作倡樂。茂雨射營中,中霸前酒樽,安坐不動。軍吏皆曰:"茂前日已破,今易擊也。"霸曰:"不然。蘇茂客兵遠來,糧食不足,故數挑戰,以徼一功之勝。今閉營休士,所謂不戰而屈人之兵,善之善者也。"茂、建既不得戰,乃引還營。其夜,建兄子誦反,閉城拒之,茂、建遁去,誦以城降。時盧方與匈奴、烏桓連兵,寇盜尤數,緣邊愁苦。詔霸將弛刑徒六千餘人,與杜茂治飛狐道,堆石布上,築起亭障,自代至平城三百餘里。與匈奴、烏桓大小數百戰,頗識邊事,數上書言宜與匈奴結和親,又陳委輸可從溫水漕,以省陸轉輸之勞。事皆施行。封淮陵侯。永平二年,以病卒。 孫子曰:"能愚士之耳目。"霸詭言冰合而得濟。又曰:"不得已則斗。"霸不救馬武而使之力戰。又曰:"屈人之兵而非戰。"霸閉營休士而屈茂、建是也。