十七史百將傳巻六 呉 陸抗(勁節)
現代語訳
Kindle版『現代語訳 十七史百將傳 2 巻六〜巻十』(全2巻の第2巻)として出版する予定です。
要約
陸抗は字を勁節、孫策の外孫である。諸葛恪と柴桑で屯を交換する際、城の囲いを修繕し廬や桑も壊させなかったので、恪は毀れた旧屯を恥じた。孫皓の政令に欠けが多いと上疏し、議者が長江と険山だけを恃むのは書伝の末事だと述べた。
鳳凰元年、西陵督の步闡が叛いて晉に降ると、抗は諸軍を西陵へ赴かせ、内は闡を囲み外は寇を防ぐ囲みを築かせた。急ぎ攻めよという諫めは、城は堅固で急には抜けず、北の救援に備えが無ければ内外から難を受けると退けた。
晉の羊祜が江陵へ向かっても、西陵を失えば南山の群夷が騒ぐとして動かず、祜が堰の水で糧を運ぼうとしていると見抜いて張咸に堰を破らせた。祜は船を車に改め、人力を大いに費やした。
楊肇が西陵に至ると、抗は諸將に祜や徐嗣を防がせ、自らは囲みに拠って対した。俞贊が肇のもとへ走ると夷兵を古参の將に入れ替え、翌日その場所を攻めた肇の軍を矢石で撃った。肇は一月で計尽きて夜に逃げ、抗が鼓を鳴らして追うかのようにすると甲を脱ぎ捨てて走ったので、軽兵に追わせて破った。西陵を陥れて闡の一族を誅し、還っても誇らず、大司馬・荊州牧となって卒した。
孫子はいう、城に攻めざる所あり、上兵は謀を伐つ、善く守る者は敵その攻むる所を知らず、と。西陵を攻めず、堰を切って策を破り、吏兵を入れ替えたのがこれ。
年表
字を勁節といい、孫策の外孫にあたる呉の将、陸抗。諸葛恪と屯を交換したさい城塁を修めて渡したことで知られ、孫皓の即位後は政令の乱れを諫める上疏を奉った。西陵で步闡が叛いて晉に降ると、衆議に逆らって城を急攻せず二重の囲みを築き、羊祜の堰の利用を先回りして破り、楊肇を撃退したうえで西陵を回復した。のち大司馬・荊州牧に拝せられ、まもなく卒した。
年表(2件)
- 西暦272年 鳳凰元年西陵督の步闡が城に拠って叛き、使者を遣わして晉に降る
- 西暦272年 鳳凰元年諸軍を部署し、赤溪から故市まで内外二重の囲みを築いて晉の救援に備える
原文(底本)
陸抗,字勁節,孫策外孫也。與諸葛恪換屯柴桑。抗臨去,皆更繕完城圍,葺其牆屋,居廬桑木,不得妄敗。恪入屯,儼然若新。而恪柴桑故屯,頗有毀壞,深以為慚。孫皓即位,政令多闕。抗上疏曰:"臣聞德均則眾者勝寡,力侔則安者制危,蓋六國所以兼併於強秦,齊楚所以北面於漢高也。今敵跨制九報,非徒關右之地,割據九州,豈但鴻溝以西而已。國家外無連國之援,內非西楚之強,庶政陵遲,黎民未乂。而議者所恃,徒以長川峻山,限帶封域,此乃書傳之末事,非智者之所先也。"鳳凰元年,西陵督步闡據城以叛,遣使降晉。抗聞之,即部分諸軍,令將軍左奕、吾彥、蔡貴等徑赴西陵,敕諸營更築嚴圍,自赤溪至故市,內以圍闡,外以禦寇,晝夜催切,如敵已至,眾甚苦之。諸將咸諫曰:"今及三軍之銳,亟以攻闡,比晉救至,闡必可拔。何事於圍,而以弊士民之力乎?"抗曰:"此城處勢既固,糧谷又足,且所繕修備御之具,皆抗所宿規。今反身攻之既非可卒克,且北救必至,至而無備,表裡受難,何以御之?"諸將咸欲攻闡,抗每不許,宜都大守雷譚言至懇切,抗欲服眾,聽令一攻。攻果無利,圍備始合。晉車騎將軍羊祜率師向江陵,諸將咸以抗不宜上,抗曰:"江陵城固兵足,無所憂患。假令敵沒江陵,必不能守,所損者小。如使西陵盤結,則南山群夷皆當擾動,則所憂慮,難可以言也。吾寧棄江陵而赴西陵,況江陵牢固乎?"初,江陵平衍,道路通利,抗敕江陵督張咸作大堰遏水,漸漬乎中,以絕寇叛。祜欲因所遏水,浮船運糧,揚聲將破堰以通步軍。抗聞,使咸亟破之。諸將皆惑,屢諫不聽。祜至當陽,聞堰破,乃改船以車運,大費損功力。晉巴東監軍徐嗣率水軍詣建平,荊州剌史楊肇至西陵。抗令張咸固守其城;公安督孫遵巡南岸御祜;水軍督留慮、鎮西將軍朱琬拒嗣;身率三軍,憑圍對肇。將軍朱喬、營都督俞贊亡詣肇。抗曰:"贊軍中舊吏,知吾虛實者,吾嘗慮夷兵素不簡練,若敵攻圍,必先此處。"即夜易夷兵,皆以舊將充之。明日,肇果攻故夷兵處,抗命旋軍擊之,矢石雨下,肇眾傷死者相屬。肇至經月,計屈夜遁。抗欲追之,而慮闡畜力項領,伺視間隙,兵不足分。於是但鳴鼓戒眾,若將追者。肇眾凶懼,悉解甲挺走。抗使輕兵躡之,肇大破敗,祜等皆引軍還。抗遂陷西陵,誅夷闡族及其將吏,修治城闈。東還樂鄉,貌無矜色,謙沖如常,故得將士歡心。拜大司馬、荊州牧。遂卒。 孫子曰:"城有所不攻。"抗違眾議而不攻西陵。又曰:"上兵伐謀。"抗決堰以破羊祜之策。又曰:"善守者,敵不知其所攻。"抗以舊將易吏兵是也。