十七史百將傳巻六 晋 羊祜(叔子)

現代語訳

Kindle版『現代語訳 十七史百將傳 2 巻六〜巻十』(全2巻の第2巻)として出版する予定です。

要約

羊祜は字を叔子、泰山の南城の人。汶水で老人に、六十にならぬうちに大功を建てると言われた。武帝が吳を滅ぼす志を抱くと都督荊州諸軍事として南夏を鎮め、学校を開いて遠近を安んじた。謀りごとで吳に石城の守備をやめさせ、戍りを減らして八百余頃の田を開き、初め百日分も無かった糧は末年に十年分となった。

軍中では甲を着けず狩猟や漁で政務をおろそかにしたが、軍司の徐嗣が営門をふさぎ、將軍の安危は国家の安危だと諫めると、謝して以後外出はまれになった。

吳の步闡が降り陸抗が急に攻めると、五万で江陵へ出て楊肇に抗を攻めさせたが勝てず、闡は擒にされ、祜は平南將軍に貶され楊肇は庶人とされた。

祜は険要の地に五城を建てて石城以西を晉の有とした。吳人と戦うときは日を定め、偽り欺く策を言う者には濃い酒を飲ませた。略奪された吳の子供を家に還し、節に死んだ陳尚・潘景を葬り、赦された鄧香は部曲を率いて降った。穀を刈れば絹で償ったので、吳人は羊公と称した。

陸抗は祜の徳量を樂毅や諸葛孔明も過ぎられぬと称し、贈られた薬を疑わずに服した。抗は戍りの兵に細かな利を求めるなと告げ、孫皓に詰問されると、信義が無くては彼の徳を際立たせるばかりだと答えた。

祜は上流の勢いに拠るべきだと考え、阿童が江を渡るという吳の童謠を聞いて、小字を阿童という王濬に舟楫を修めさせた。

上疏して、梁・益の兵を水陸ともに下らせ荊楚・平南・豫州・徐楊青兗がそろって進めば、一隅の吳が天下の軍勢に当たり、一箇所傾けば上下が震え動く、吳は水戦のほかは中國に及ばぬと述べ、帝は深くこれを容れた。

秦・涼が敗れると、吳が平らげば胡は自ずと定まると表したが議者は同意せず、断ずべきときに断ぜぬと嘆じた。吳人の寇を追討しなかったことを詰問されると、江夏は八百里離れて歩兵では救えぬ、兵の勢いは合わさるのがよいと説き、使者は詰問できなかった。

病んで入朝し吳を伐つ計を陳べ、張華には、孫皓が没して善き主が立てば後の患いとなる、わが志を成す者はそなただと言った。杜預を挙げて自らに代えさせ、まもなく卒した。

南州の人々は市を罷めて哭し、吳の辺境の將士も泣いた。襄陽の百姓は峴山に碑を建て、望む者はみな涙を流したので杜預は墮淚碑と名づけた。卒して一年で吳は平らぎ、帝は涙を流して羊太傅の功だと言った。

孫子はいう、国を全うするを上となす、その虚を衝く、自らの地に戦うを散地となす、と。徳と信義で吳人を帰り附かせ、一箇所傾けば上下震え動くと見、城を頼む心ありと述べたのがこれ。

原文(底本)
羊祜,字叔子,泰山南城人也。嘗游汶水之濱,遇父老謂之曰:"孺子有好相,年未六十,必建大功於天下。"既而去,莫知所在。武帝將有滅吳之志,以祜為都督荊州諸軍事,出鎮南夏。開設庠序,綏懷遠近,甚得江漢之心。與吳人開布大信,降者欲去皆聽之。吳石城守去襄陽七百餘里,每為邊害,祜患之,卒以詭計令吳罷守。於是戍邏減半,分以墾田八百餘頃,大獲其利。祜之始至也,軍無百日之糧,及至季年,有十年之積。詔罷江北都督,置南中郎將,以所統諸軍在漢東江夏者,皆以益祜。祜在軍常輕裘緩帶,身不被甲,鈴合之下,侍衛者不過十數人,而頗以畋漁廢政。嘗欲夜出,軍司徐嗣執綮當營門,曰:"將軍都督萬里,安可輕脫!將軍之安危,亦國家之安危也。嗣今日若死,此門乃開耳。"祜改容謝之,此後稀出矣。吳西陵督步闡舉城來降。吳將陸抗攻之甚急,詔祜迎闡。祜率五萬出江陵,遣荊州剌史楊肇攻抗,不克,闡終為抗所禽。有司奏:"祜所統八萬餘人,賊眾不過三萬。祜頓兵江陵,使賊備得設。乃遣楊肇偏軍入險,兵少糧單,軍人挫衄。背違詔命,無大臣節。"坐貶為平南將軍,而免楊肇為庶人。祜以孟獻營武牢而鄭人懼,晏弱城東陽而萊子服,乃進據險要,開建五城,收膏腴之地,奪吳人之資,石城以西,盡為晉有。自是前後降者不絕,乃增修德信,以懷柔初附,慨然有吞併之心。每與吳人交兵,克日方戰,不為掩襲之計。將帥有欲進譎詐之策者,輒飲以醇酒,使不得言。人有略吳二兒為俘者,祜遣送還其家。後吳將夏詳、邵顗等來降,二兒之父亦率其屬與俱。吳將陳尚、潘景來寇,祜追斬之,美其死節而厚加殯斂。景、尚子弟迎喪,祜以禮遣還。吳將鄧香掠夏口,祜募生縛香,既至,宥之。香感其恩,率部曲而降。祜出軍行吳境,刈谷為糧,皆計所侵,送絹償之。每會眾江沔遊獵,常止晉地。若禽獸先為吳人所傷,而為晉兵所得者,皆封還之。於是吳人翕然悅服,稱為羊公,不之名也。祜與陸抗相對,使命交通,抗稱祜之德量,雖樂毅、諸葛孔明不能過也。抗嘗病,祜饋之藥,抗服之無疑心。人多諫抗,抗曰:"羊祜豈鴆人者!"時談以為華元、子友復見於今。抗每告其戍曰:"彼專為德,我專為暴,是不戰而自服也。各保分界而已,無求細利。"孫皓聞二境交和,以詰抗。抗曰:"一邑一鄉,不可以無信義,況大國乎!臣不如此,正是彰其德,於祜無傷也。"祜以伐吳必藉上流之勢。又時吳有童謠,曰:"阿童復阿童,銜刀浮渡江。不畏岸上獸,但畏水中龍。"祜聞之曰:"此必水軍有功,但當思應其名者耳。"會益州剌史王濬召為大司農,祜知其可任,濬又小字阿童,因表留濬監益州諸軍事,加龍驤將軍,密令修舟楫,為順流之計。祜繕甲訓卒,廣為戎備。至是上疏曰:"今若引梁益之兵水陸俱下,荊楚之眾進臨江陵、平南、豫州,直指夏口,徐、楊、青、兗並向秣陵,鼓旆以疑之,多方以誤之,以一隅之吳,當天下之眾,勢分形散,所備皆急。巴漢奇兵出其空虛,一處傾壞,則上下震盪。孫皓恣情任意,與下多忌,名臣重將不復自信。將疑於朝,士困於野。平常之日,猶懷去就;兵臨之際,必有應者。終不能齊力致死,已可知也。其俗急速,不能持久,弓弩戟盾不如中國,唯有水戰是其所便。一入其境,則長江非復所固,還保城池,則去長入短。而官軍專進,人有致節之志;吳人戰於其內,有憑城之心。如此,軍不逾時,思可必矣。"帝深納之。會秦涼屢敗,祜復表曰:"吳平則胡自定,但當涉齊大功耳。"而議者多不同,祜嘆曰:"天下不如意事,十居七八。故有當斷不斷,天與不取,豈非更事者恨於後時哉!"會吳人寇弋陽、江夏,略戶口,詔遣侍臣移書詰祜不追討之意,並欲移州復舊之宜。祜曰:"江夏去襄陽八百里,比知賊問,賊去亦已經日矣。步軍方往,安能救之哉!勞師以免責,恐非事宜也。昔魏武置都督,類皆與州相近,兵勢好合惡離。疆場之間,一彼一此,慎守而已,古之善教也。若輒徙州,戰出無常,亦未知州之所宜據也。"使者不能詰。祜寢疾,求入朝。及侍坐,面陳伐吳之計。帝以其病,不宜數入,遣張華問其籌策。祜曰:"吳人虐政已甚,可不戰而克。若孫皓不幸而沒,吳人更立令主,雖百萬之眾,長江未可而越也,將為後患乎!"華深贊成其計。祜謂華曰:"成吾志者,子也。"帝欲使祜臥護諸將,祜疾篤,乃舉杜預自代。尋卒。南州人征市日聞祜喪,莫不號慟,罷市,巷哭者聲相接。吳守邊將士亦為之泣。其仁德所感如此。襄陽百姓於峴山祜平生遊憩之所,建碑立廟,歲時饗祭焉。望其碑者,莫不流涕。杜預因名為墮淚碑。祜卒一歲,而吳平。群臣上壽,帝執爵流涕曰:"此羊太傅之功也。"因以克定之功,策告祜廟。

孫子曰:"全國為上。"祜增修德信,而吳人歸附。又曰:"進而不可御者,沖其虛。"祜料吳人一處傾壞,則上下震盪。又曰:"自戰其地,為散地。"祜謂吳人有憑城之心是也。