十七史百將傳巻九 唐 李績
現代語訳
Kindle版『現代語訳 十七史百將傳 2 巻六〜巻十』(全2巻の第2巻)として出版する予定です。
要約
李績は字を懋功、曹州離狐の人、旧姓は徐氏。十七歳で翟譲に従い、李密が亡命すると翟譲に説いて主に推させた。
飢えた民の死者が日に万を数えると、黎陽の粟で兵を募れば大事は成ると説き、兵五千で黎陽を襲い倉を開くと十日ほどで兵は二十万に達し、宇文化及も破った。
武徳二年、李密が帰順した。統べる地も人民も魏公のものだとして戸口を李密から上進させ、高祖は純臣だと喜び英国公とした。李密が誅されると遺骸を葬って喪服を着けた。竇建徳に捕らえられたが脱け出して帰順し、秦王に従い王世充を捕らえた。
貞観三年、通漠道行軍総管として突厥を走らせ、軽装で迫れば戦わずして虜を縛れると言うと李靖も意を決した。李績が磧口に先まわりして頡利は沙漠を越えられず、五万の部落が降った。
并州を治めること十六年、帝は、李績に守らせて突厥は南下せず長城にまさると言った。
帝の高麗親征では遼東道行軍大総管として蓋牟・遼東・白崖などを破り、駐畢山の戦いにも功が多い。延陀が乱れると二百騎と突厥の兵で討ち磧北は平定された。
帝は大事を託せると考え、急病には自ら鬚を剪って薬に和し、宴では幼い孤児を託すに公に代わる者なしと言い、李績は指を噛んで血を流した。高宗が立つと尚書左僕射となった。
高麗の男生が援兵を乞うと兵二万で討ち、その国を破り高蔵らを捕らえた。総章二年に卒した。年は八十六。帝は忠孝廉潔で三朝に過ち無しとして厚く賵を贈らせた。
身を寄せた高季輔らを礼遇して皆名臣となり人を知る者とされた。旧知の単雄信は贖えず、号泣して股の肉を割き食べさせ、その子を養った。勝てば功を下の者に譲り金絹は士卒に分けたが法は厳しかった。
孫子はいう、輔けが周ければ国は必ず強い、その功を修めない者は凶、人を択んでこれに任せる、と。并州を守り、功を下の者に譲り、将には必ず福相で年かさの者を選んだのが、これである。
年表
字は懋功、曹州離狐の人で、もとの姓は徐氏(李績)。隋末に十七歳で翟譲の陣営に加わり、のち李密を主に推し、黎陽倉を開いて二十万の兵を集めた。唐に帰してからは河南・山東の兵を統べ、王世充・竇建徳の平定、突厥頡利の降伏、薛延陀・高麗の征討に功があった。并州を十六年鎮め、太宗に「長城にまさる」と評された。太宗・高宗の三朝に仕えて過ちなく、尚書左僕射・太子太師に至った唐初の名将である。戦功を下の者に譲り、得た財貨を士卒に分け、人を見抜く眼で知られた。
年表(4件)
- 西暦619年 武徳二年李密の帰順後、統べていた土地の戸口を李密に上進させ、高祖から黎州総管・英国公を授かり李姓を賜る
- 西暦620年 三年竇建徳に捕らえられ黎陽を守らされていたが、みずから脱け出して唐に帰順する
- 西暦629年 貞観三年通漠道行軍総管として雲中から出撃し、李靖と合して磧口を扼し、突厥の酋長が部落五万を率いて降る
- 西暦669年 総章二年卒する。年は八十六
原文(底本)
李績,字懋功,曹州離狐人。本姓徐氏。隋大業末,韋城翟讓為盜,績年十七,往從之。說曰:「公鄉壤不宜自剽殘,宋、鄧商旅之會,御河在中,舟艦相屬,往邀取之,可以自資。」讓然之。李密亡命雍丘,績說讓推密為主。以奇計破王世充。時河南、山東大水,隋帝令飢人就食黎陽倉,吏不時發,死者日萬數。績說密曰:「天下之亂本於飢,今若取黎陽粟以募兵,大事濟矣。」密以麾下兵五千付績,濟河,襲黎陽,守之。開倉縱食,旬日,勝兵至二十萬。宇文化及引兵北上,密使績守倉,周掘塹以自環。化及攻之,績為地道出鬥,化及敗,引去。武德二年,密歸朝廷,其地東屬海,南至江,西直汝,北抵魏郡,績統之,未有所屬。謂長史郭孝恪曰:「人眾土宇,皆魏公有也。吾若獻之,是利主之敗為己功,吾所羞也。」乃錄郡縣戶口以啟密,請自上之。使至,高祖訝無表,使者以意聞。帝喜曰:「純臣也。」詔授黎州總管,封英國公。賜姓,附宗正屬籍。詔績總河南、山東兵以拒王世充。及密以謀反誅,帝遣使示密反狀。績請收葬,詔從之。績為密服縗絰,葬訖乃釋。俄為竇建德所陷,質其父,使復守黎陽。三年,自拔來歸。從秦王伐東都,戰有功。東略地至虎牢,降鄭州司兵沈悅。平建德,俘世充,乃振旅還,秦王為上將,績為下將,皆服金甲,乘戎輅,告捷於廟。太宗即位,拜并州都督。貞觀三年,為通漠道行軍總管,出雲中,與突厥戰,走之。引兵與李靖合,因曰:「頡利若度磧,保於九姓,恐不可得。我若約齎薄之,不戰縛虜矣。」靖大喜,以與己合,於是意決。靖率眾夜發,績勒兵從之。頡利慾走磧,績前屯磧口,不得度,由是酋長率部落五萬降於績。詔拜光祿大夫,行并州大都督府長史。父喪解,奪哀還官,徙封英。治并州十六年,以威肅聞。帝嘗曰:「煬帝不擇人守邊,勞中國築長城以備虜。今我用績守並,突厥不敢南,賢於長城遠矣!」後帝自將徵高麗,以績為遼東道行軍大總管。破蓋牟、遼東、白崖等城,從戰駐畢山,功多,封一子為郡公。延陀部落亂,詔將二百騎發突厥兵討之,大戰烏德鞬山,破之,降其首領梯貞達干,而可汗咄摩支遁入荒谷,磧北遂定。績既忠力,帝謂可託大事。嘗暴疾,醫曰:「用須灰可治。」帝乃自剪須以和藥。及愈,入謝,頓首流血。帝曰:「吾為社稷計,何謝為!」後留宴,顧曰:「朕思屬幼孤,無易公者。公昔不遺李密,豈負朕哉?」績感涕,因囓指流血。俄大醉,帝親解衣覆之。帝疾,謂太子曰:「爾於績無恩,今以事出之,我死,宜即授以僕射,彼必致死力矣!」乃授疊州都督。高宗立,遂為尚書左僕射。太宗時,績以畫像凌煙閣,至是,帝復命圖其形,自序之。高麗莫離支男生為其弟所逐,遣子乞師。詔績為遼東道行軍大總管,率兵二萬討之。破其國,執高藏、男建等,裂其地州縣之。詔績獻俘昭陵,明先帝意,具軍容告於廟。進位太子太師。總章二年,卒,年八十六。帝曰:「績奉上忠,事親孝,歷三朝未嘗有過,性廉謹,不立產業。今亡,當無贏貲。有司其厚賵卹之。」初,績拔黎陽倉,就食者眾,高季輔、杜正倫往客焉,及平虎牢,獲戴冑,咸引見臥內,推禮之,後皆為名臣,世以績知人。平洛陽,得單雄信,故人也。表其材武,且言:「若貸死,必有以報,請納官爵以贖。」不許。乃號慟,割股肉蹈之曰:「生死永決,此肉同歸於土!」為收養其子焉。其用兵多籌算,料敵應變,皆契事機。聞人善,抵掌嗟嘆。及戰勝,必推功於下。得金帛,盡散之士卒,無私貯。然持法嚴,故人為之用。臨事選將,必訾相其奇厖福艾者遣之。或問其故,答曰:「薄命之人,不足與成功名。」既沒,士皆為流涕。 孫子曰:「輔周則國必強。」績守并州,太宗以謂賢於長城。又曰:「戰勝攻取不修其功者,凶。」績每戰勝必推功於下。又曰:「擇人而任之。」績之選將,必遣奇厖福艾者是也。