清史紀事本末満州の勃興(満州初起)

要約

明の神宗万暦十一年春二月、満洲部の努爾哈赤に建州左衛都督を襲がせた。満洲は粛慎氏より出た通古斯族で、古くは息慎・稷慎・挹婁と称し、北魏に七部に分かれて勿吉、隋唐では靺鞨といい、黒水・粟末が強く、唐の睿宗の朝に大祚栄が渤海郡王に封じられ渤海と号した。後唐の天成元年に契丹が渤海を滅ぼすと、黒水は遼に附いて女真と号し、混同江の東、長白山の下に居り、南岸を熟女真、北岸を生女真といった。生女真の哈富から伝わった太祖阿骨打は政和三年に自立して遼に叛き、二年を越えて国号を金とし、端平元年に宋と蒙古に滅ぼされた。遺族は建州・海西・野人の三部に分かれ、明初に衛所が建てられ、建州衛には満洲部五・長白山部三があった。

満洲はもと満珠と書き、西蔵の丹書は曼珠師利大皇帝と称した。曼殊は妙吉祥の意で国号はこれに由り、洲は仮借である。姓は愛新覚羅氏、愛新は金、覚羅は姓氏、金とはもと同族である。金の末、布庫里雍順が長白山東南の俄朶里城に定住し、数代後の乱で一族が殺され、幼子犯察のみが免れた。数代後の孟特穆は永楽十年に入貢して建州左衛都督とされ、仇敵の子孫四十余人を虎攔哈達山に誘って半ばを誅し半ばを手下とし、赫図阿喇に定住した。その系は充善・錫宝斉篇古・福満と伝わり、福満の第四子覚昌安は赫図阿喇に居り、他の五子は周囲に城を築き、寧古塔六貝勒と称した。覚昌安は子の礼敦らと碩色納・加虎の二族を滅ぼし、五嶺の東・蘇克蘇滸河の西二百里の諸部を収めた。覚昌安の第四子が塔克世、その長子が努爾哈赤で、武略あり騎射を善くし、国人は聡睿貝勒と称した。

図倫城の尼堪外蘭はもと塔克世の部下ながら、李成梁の兵を導いて古勒城を攻めた。城主阿太章京の妻は礼敦の娘で、覚昌安は塔克世と救援に入城したが、尼堪外蘭が城中に阿太を殺して降れと説き、覚昌安父子も殺された。努爾哈赤は辺吏を詰り、朝廷は遺骸を返し、勅書三十道と馬三十匹を与えて龍虎将軍に封じた。引き渡しを拒まれた恨みから、五月、父の遺した鎧十三領で図倫を落とし、八月に甲版を攻めると、尼堪外蘭は撫順所に奔り、容れられず鵝爾渾に逃れた。

十二年に董鄂を侵して伏兵で撃ち、十三年、哲陳を侵すと五城の兵が迎え撃ち、弟の穆爾哈斉らと奮撃して四十五級を斬り、「四人で八百の衆を破ったのは天の助けだ」といった。安土瓜爾佳城を下し、十四年に播一混寨・托漠河・鵝爾渾城を落とすと、辺吏は尼堪外蘭を捕らえて渡し、殺した。十五年に三層の城と宮室を築き、山寨・把爾達城・洞城を取った。十六年に王甲城を落とし、哈達の扈爾干が娘を嫁がせ、索爾果・何和哩・扈喇虎が帰属して費英東は政務を佐け、長女を何和哩に嫁がせ、扈爾漢を養子として侍衛とした。十七年に兆佳城を落とした。

十九年、長白山部の鴨緑江路を収めると葉赫の納林布禄が額爾敏・札庫木の一地を割けと求めたが、叱って帰らせた。二十一年九月、葉赫は哈達・輝発・烏喇・科爾沁ら九国の兵で侵したが、古哷山の険に拠って百騎で挑ませ、布寨は墜馬して殺され、明安は逃れ、四千級を斬って布占泰を捕らえた。同年冬に朱舎里路と訥殷の佛多和山寨、二十三年に輝発の多壁城、二十六年に安褚拉庫路の屯寨二十余か所を取った。二十七年、満文を創立して頒行し、金銀の鉱と製鉄を開き、哈達国を滅ぼした。三十二年正月に葉赫の二城を落として二千余人を捕らえ、三十五年に輝発国を滅ぼした。四十年九月、烏喇が虎爾哈路を侵すと自ら禦いで臨河の五城と金州城を取り、四十一年正月に烏喇国を滅ぼし、扈倫四国の三国が亡びた。葉赫が急を告げると馬時枬らが砲兵千人で守衛し、李永芳に中立を請うたが返答はなかった。四十二年、貢使が来ず蕭伯芝が詰問に赴くと、郊外に出迎え、凶作を理由に翌年の貢市復旧を請うた。三十六年に薊遼総督蹇達と守辺を盟して碑を建て、渥集の諸路を年ごとに取り、四十三年に顧納喀・庫倫を落として一万人を捕らえた。

年表

建州左衛の満洲部から出た愛新覚羅氏の努爾哈赤(ヌルハチ)が、祖父覚昌安・父塔克世を尼堪外蘭の手引きによる明軍の古勒城攻めで失い、遺甲十三をもって挙兵してから勢力を築くまでを述べる。粛慎・挹婁・勿吉・靺鞨から渤海・女真・金へと連なる族の由来を説き起こし、努爾哈赤が図倫・甲版を破って尼堪外蘭を討ち、董鄂・哲陳・蘇克蘇滸河など近隣諸部を次々に併呑した経過を追う。万暦二十一年には葉赫を中心とする九国連合軍を古哷山に迎え撃って大破し、以後、哈達・輝発・烏喇の扈倫三国を滅ぼし、渥集(東海)諸路をも収めた。あわせて満文の創製、金銀鉱と製鉄の開発、明の辺吏との盟約など国制の整備も進んだ。明神宗万暦十一年(1583年)の挙兵から万暦四十三年(1615年)までの三十年余りを扱う。

年表(22件)

現代語訳全文

西暦1583年 明神宗万暦十一年

  • 春二月、満洲部の努爾哈赤(ヌルハチ)をもって建州左衛都督を襲がせ、龍虎将軍を授けた。
  • 満洲はさかのぼれば粛慎氏より出て、古の通古斯(ツングース)族である。有虞氏の二十五年、はじめて中国に通じ、弓矢を献じて、息慎と称した。周の初めにはたびたび入朝して貢し、また稷慎と称した。息・稷と粛とは、音が転じた訛りであろう。
  • 東漢の時にはまた挹婁と称した。その西南の別部を扶餘といい、今の開原以北の地を領有した。東南の別部を諸沃沮といい、北沃沮・南沃沮・東沃沮の諸部があった。
  • 北魏の時、諸部は分裂して七つとなり、粟末・伯咄・安車骨・佛揑・號室・黒水・白山といい、総称して勿吉といった。隋唐の時には靺鞨と称したが、これは南北の方言の訳し当ての違いである。
  • 七部の中では黒水・粟末が強く、はじめ高麗に附き、姓を大氏、名を乞仲象といった。唐の初め、李勣が高麗を破ると、大氏は退いて東年山を保った。睿宗の朝、その部長の大祚栄を渤海郡王に封じ、ついに国号を改めて「渤海」といった。
  • 黒水もはじめは高麗に附き、その部長の突利稽はかつて兵十五万をもって高麗を助け、唐の太宗を安市に破った。開元十年、二月、その帥の倪属利稽が入朝し、黒水郡を置いて都督に拝し、雲麾将軍を授け、黒水経略使を兼ねさせ、姓名を李献誠と賜った。後に渤海に服属し、中国とは往来が絶えた。
  • 後唐の明宗天成元年、通古斯族の別部を契丹といい(底本はここに割注の丸括弧だけがあって中の字が無い)、渤海を滅ぼした。黒水はまた遼に附き、次第にその故土を回復することができ、号を改めて女真といった。代々混同江の東、長白山の下に居た。南岸にいる者は遼の戸籍に属し「熟女真」といい、北岸にいる者は遼の戸籍に属さず「生女真」といった。
  • 生女真の始祖の哈富は高麗から完顔部の阿勒楚喀河のほとりに移り住み、そのまま完顔部の人となった。伝わって景祖の烏古廼に至る。宋の仁宗の宝元の時に当たり、遼はこれを生女真節度使とした。五代を伝えて太祖の阿骨打に至り、宋の徽宗の政和三年に自立して女真の主となった。遼に叛き、たびたび遼兵を破り、混同江付近の諸部を征服した。二年を越えて国号を建てて金といった。宋の理宗の端平元年に至り、宋人が蒙古(底本はここに割注の丸括弧だけがあって中の字が無い)と連合軍を組んでこれを滅ぼした。
  • 蒙古人が入って中夏の主となった後、その遺族は混同江の南北に散り住み、あわせて三部が存した。建州・海西・野人という。明の初め、唐の羈縻州の制に倣って、分けて術所を建てた(「衛所」の誤りか)。そして建州衛の境内には満洲部が五つ、長白山部が三つあった。清室の先祖はその満洲部の一つである。
  • 満洲はもと満珠と書き、二字はどちらも平声に読み、音は曼珠に近い。国を建てた当初、毎年西蔵が丹書を献じたが、いずれも曼珠師利大皇帝と称していた。名義を翻訳すれば、曼殊は妙吉祥である。また曼殊師利とも書き、釈迦牟尼の師である昆盧遮那の本師である。殊と珠は音が同じ、室と師は同じ一音であり、国号を建てた意義は実にここから取ったものであろう。後に漢字が代々そのまま用いられて誤って満洲となったのは、洲の字の意味が地名に近いため、仮借して用いたにすぎず、実際には部族の名であって地名ではない。
  • その姓は愛新覚羅氏という。その国の言葉では金を愛新といい、覚羅は姓氏の意である。つまり金姓ということであり、金とはもと同族なのである。
  • 金の末期に当たり、布庫里雍順という名の者があり、はじめて長白山の東南、俄漠恵の野の俄朶里城に定住した。数代を伝えた後、国内の乱に遭い、一族がこぞって殺され、幼子の犯察が荒野に遁れて難を免れた。また数代を伝えて孟特穆に至る。永楽十年十月に入貢し、勅によって建州左衛都督とされた。
  • 孟特穆は生まれつき智略があり、慨然として恢復の志を抱いていた。先祖の代の仇敵の子孫四十余人を計略で誘い出し、蘇克蘇滸河の虎攔哈達山の下に至らせ、その半数を誅してもって仇を雪ぎ、半数は許してもって手下に用いた。そして赫図阿喇に定住した。すなわち建州左衛の地である。
  • 孟特穆の長子の充善は子を三人もうけ、その末子の錫宝斉篇古が子の福満をもうけた。福満は子を六人もうけ、覚昌安が第四子で、先代の業を承けて赫図阿喇の地に居り、その他の五子はそれぞれ城を築いて周囲を守って住んだ。近い者は四、五里、遠い者は約二十里で、寧古塔六貝勒と称した。
  • このとき近隣の部落の中に碩色納・加虎の二族があり、常に強さを恃んで諸路を侵し陵いでいた。覚昌安は才智に富み、子の礼敦もまた英武で、諸貝勒を率いて攻めに行き、碩色納の子九人を破り、加虎の子七人を滅ぼし、五嶺の東・蘇克蘇滸河の西の二百里以内の諸部をことごとく収め、これによって国はいよいよ強盛となった。
  • 覚昌安の第四子が塔克世である。塔克世の長子の努爾哈赤は、成長して武略があり、騎射を善くし、その国人は彼を「聡睿貝勒」と称した。
  • これより先、蘇克蘇滸部の固倫城(「図倫城」の誤りか)に尼堪外蘭という者があった。もと塔克世の部下の者であったが、ひそかに寧遠伯李成梁の兵を導いて、古勒城を攻めた。城主の阿太章京は、もと建州衛都指揮の王杲の子で、その妻は礼敦の娘であった。覚昌安は急変を聞き、孫娘が陥れられることを恐れ、塔克世とともに救援に向かい、兵を率いて城に入った。城は山に拠って険阻に依り、守りが堅く、急には攻め落とせなかった。尼堪外蘭は城中の者に阿太を殺して降伏するよう説き、やがてことごとくこれを殺戮し、覚昌安父子もともに殺された。
  • 努爾哈赤はこれを聞いて大いに慟哭し、辺境の官吏を詰問した。事が朝廷に聞こえ、使者を遣わしてその遺骸を返した。勅書三十道と馬三十匹を与え、龍虎将軍に封じ、あらためて建州左衛都督の勅書を給して、その職を襲がせた。
  • 夏五月、努爾哈赤は兵を起こし、図倫を取った。これより先、使者が建州に至ったとき、努爾哈赤はかさねて尼堪外蘭を捕らえて引き渡すよう請うたが、使者は許さず、努爾哈赤の恨みはいよいよ深く、日夜復讐を念じていた。ここに至って、みずから父の遺した鎧十三領(の兵)を率いて図倫を攻めに行った。尼堪外蘭はあらかじめこれを察知し、期日に先立って甲版に逃げ、努爾哈赤はその城を攻め落として帰った。
  • 秋八月、努爾哈赤は兵を率いて甲版を攻めた。尼堪外蘭は撫順所に奔り、辺内に入ろうとしたが、辺境の官吏は受け入れず、そこで鵝爾渾に逃れ、城を築いてそこに住んだ。当時は諸部が間を隔てており、追手の兵は境を越えて至ることができなかった。努爾哈赤はそこで順次近隣の部を収め従え、進み取るための計とした。

西暦1584年 万暦十二年

  • 秋七月、満洲は董鄂を侵し、城は今にも陥ちようとしたが、大雪に遭って攻撃をやめた。努爾哈赤は手勢を率いて濃い煙の中に伏せた。城内では兵がすでに退いたと思い、兵を率いて出てきた。努爾哈赤は打って出てこれを撃ち、かなりの斬獲があった。

西暦1585年 万暦十三年

  • 夏四月、満洲は哲陳を侵した。哲陳は間諜によってこれを知り、托漠河・章甲・把爾達・撒爾湖・界凡の五城の兵を起こして迎え撃った。努爾哈赤は弟の穆爾哈斉および近侍の顔布録・兀凌噶を率いてまっすぐ前に出て奮撃し、二十余人を射殺した。敵兵は争って河を渡って遁れた。努爾哈赤はさらに兵を率いて追撃し、四十五級を斬った。また穆爾哈斉とともに吉林厓まで追い、敵兵は多く崖から墜ちて死んだ。軍を収めてのち、努爾哈赤は喜んでいった、「今日の戦いは、四人で八百の衆を破った。天が我を助けたのだ」と。
  • 秋九月、満洲は蘇克蘇滸河の安土瓜爾佳城を攻めてこれを破り、その城主の諾一漠混を殺した。

西暦1586年 万暦十四年

  • 夏五月、満洲は渾河の播一混寨を攻め、これを抜いた。
  • 秋七月、満洲は哲陳の托漠河を攻めてその城を下し、ただちに星の飛ぶように鵝爾渾城に急行し、これを攻め落とした。尼堪外蘭は辺境まで逃れ、努爾哈赤は使者の斉薩ら四十人を遣わして引き渡しを請うた。辺境の官吏は尼堪外蘭を捕らえて斉薩に引き渡し、これを殺した。

西暦1587年 万暦十五年

  • 春正月、満洲は碩里口・虎攔と、遠く東南の加哈河との両境の中間の平らな丘に、三層の城を築き、あわせて宮室を建てた。
  • 夏六月、満洲は哲陳の山寨を破り、寨主の阿爾泰を殺した。
  • 秋八月、満洲の巴図魯額亦都が兵を率いて把爾達城を取り、努爾哈赤はみずから兵を率いて洞城を取り、城主の扎海が降った。

西暦1588年 万暦十六年

  • 夏四月、哈達の貝勒の扈爾干が娘を満洲に嫁がせ、努爾哈赤はこれを納れた。同時に、蘇完部の主の索爾果、董鄂部の何和哩、雅爾古寨の扈喇虎が相次いで自部の軍民を率いて帰属した。努爾哈赤は索爾果の子の費英東に政務を補佐させ、長女を何和哩に嫁がせ、扈喇虎の子の扈爾漢を養子として侍衛に任じた。当時、努爾哈赤は各路を招き寄せ、帰属する者は日ごとに多く、周囲の諸国で命に従わない者はみな平らげ、国勢は日に盛んになった。
  • 秋九月、満洲は王甲城を攻め落とし、その城主の戴度墨爾根を殺した。

西暦1589年 万暦十七年

  • 春正月、満洲は兆佳城を攻めてこれを落とし、その城主の寧古親を殺した。

西暦1591年 万暦十九年

  • 春正月、満洲は長白山部の鴨緑江路を攻略し、その民をことごとく収め、領域は日ごとに広がった。葉赫の貝勒の納林布禄はこれを聞き、自分に不利になることを懼れ、使者を遣わして努爾哈赤に告げていった、「扈倫と満洲は言語が通じ合い、勢いは一国も同じである。今もっている国土は、そちらが多く我らは少ない。額爾敏・札庫木の二地のうち、一つを割いて我らに与えよ」と。努爾哈赤はこれを叱りつけ、その日のうちに帰らせた。

西暦1593年 万暦二十一年

  • 秋九月、葉赫は扈倫部の哈達・輝発・烏喇、および蒙古の科爾沁・錫伯・卦勒察、長白山部の朱舎里・納殷を糾合し、九国の連合軍で満洲を侵し、渾河の北岸に陣した。努爾哈赤は軍を率いてこれを禦ぎ、扎喀城に至って諸将に語っていった、「あちらは部長が多く、兵はみな烏合の衆である。我らは楽にして相手の疲れを待ち、その貝勒の一人二人を傷つければ、その軍勢はおのずと崩れる。我が兵は少ないとはいえ、力を奮って一戦すれば、必ず勝てる」と。そこで翌朝、軍を古哷山に移し、険阻に拠って陣を敷き、百騎を出して挑戦させた。葉赫の西城貝勒の布寨と、科爾沁の貝勒の明安が先を争って突進し、布寨は馬から墜ちて殺され、明安は泥沼にはまり、馬を替えて逃れ、連合軍はついに崩れた。努爾哈赤は兵を放って追い撃ちし、四千級を斬り、馬三千匹、鎧冑千領を獲て、烏喇の貝勒の弟の布占泰を捕虜にした。これより軍威は大いに震った。
  • 冬十月、満洲は朱舎里路を攻め、その路長の紆楞格を捕らえて帰った。
  • 閏十一月、満洲は巴図魯額亦都・費揚古らを遣わして兵を督し、訥殷の佛多和山寨を攻め囲み、三か月かかってようやく落とし、寨長の捜穏寨克什を斬った。

西暦1595年 万暦二十三年

  • 夏六月、満洲は輝発の多壁城を攻め落とし、城を守る克充格・蘇猛格の二人を斬って還った。

西暦1598年 万暦二十六年

  • 春正月、満洲は貝勒の褚英を遣わして兵を統べさせ、安褚拉庫路を侵して、その屯寨二十余か所を取った。

西暦1599年 万暦二十七年

  • 春二月、満洲は蒙古の文字をもとに自国語の表記を作り、満文を創立して、国中に頒行した。
  • 三月、はじめて金銀の鉱山と製鉄を開いた。
  • 秋九月、満洲は哈達国を攻め滅ぼした。これより先、葉赫と哈達とが兵を構え、哈達の貝勒の孟格布禄は人質の子を満洲に遣わして援けを乞い、努爾哈赤は費英東に兵二千を率いて向かわせた。葉赫の貝勒の納林布禄は哈達に書を送り、満洲の援軍の将を誘い出して捕らえ、その援軍を殲滅させようとし、娘を妻として与えることを約束した。孟格布禄はその言葉に惑わされ、これを承知した。事が洩れると、努爾哈赤はみずから哈達に向かい、その城を攻めてこれを落とした。大将の揚古利が孟格布禄を生け捕り、哈達の属城をことごとく服従させ、哈達国は滅んだ。

西暦1604年 万暦三十二年

  • 春正月、満洲の兵は葉赫を侵し、その二城、張と阿気蘭を落とし、その二寨を取り、二千余人を捕虜にして還った。

西暦1607年 万暦三十五年

  • 夏五月、満洲は貝勒の巴雅喇らを遣わして兵を率いさせ、渥集を侵し、赫席黒・俄漠和蘇魯佛訥・赫拕克索の三路の地を取った。それらが烏喇に附き従っていたからである。
  • 秋九月、満洲は輝発国を攻め滅ぼした。

西暦1608年 万暦三十六年

  • 春正月、満洲は烏喇を侵し、その宜罕阿麟城を落として還った。薊遼総督の蹇達は使者を遣わして満洲と盟約を結んだ。これより先、蹇達は春のうちに東方の隠れた憂いを上疏して陳べ、早く備えをなすべきことを説いていた。朝廷は守臣に辺境を厳重に備えるよう命じ、ここに至って遼東副将および撫順所の備禦を遣わし、満洲と、両国の臣民がそれぞれ辺境を守る旨の約を結び、辺境に沿った諸地に碑を建てた。

西暦1609年 万暦三十七年

  • 冬十二月、満洲は侍衛の扈爾漢を遣わして、渥集部に属する滹野路を取った。

西暦1610年 万暦三十八年

  • 冬十一月、満洲は巴図魯額亦都を遣わして兵を率いさせ、渥集を侵して、那木都魯・綏分・寧古塔・尼馬察の四路を取った。

西暦1611年 万暦三十九年

  • 秋七月、満洲は台吉の阿巴泰を遣わして兵を率いさせ、渥集を侵して、烏爾古辰・木倫の二路を取った。
  • 冬十二月、満洲は額駙の何和哩を遣わして兵を率いさせ、渥集の扎庫塔城を落とした。

西暦1612年 万暦四十年

  • 秋九月、烏喇の兵が満洲の虎爾哈路を侵し、努爾哈赤はみずから将としてこれを禦いだ。当時、軍勢は非常に盛んで、烏喇の兵は懼れ、戦わずに退いた。満洲の兵はこれを追い、岸沿いに下って、その河に臨む五城を落とし、さらにその金州城を取って軍を駐めた。

西暦1613年 万暦四十一年

  • 春正月、努爾哈赤はみずから兵を率いて烏喇を侵し、伏爾哈城に至ってこれを攻め抜き、烏喇国は滅んだ。当時、扈倫の四国はすでにその三つが滅び、葉赫は大いに懼れ、使者を遣わして急を告げてきた。(明は)遊撃の馬時枬・周大歧を遣わして砲兵千人を率いさせ、前進して守衛させ、また開原に軍を駐めて、内側へ迫られるのを防いだ。努爾哈赤は撫順所の遊撃の李永芳に書を送り、中国が厳正に中立を守るよう請うたが、返答はなかった。

西暦1614年 万暦四十二年

  • 夏四月、使者を遣わして満洲に入らせ、贈り物と貢のことを取り扱わせた。満洲の貢使は来ず、遼東巡撫の郭光復は材官の蕭伯芝を遣わして詰問に行かせた。伯芝が境内に入ると、郊外まで出迎える礼をとるよう責めた。努爾哈赤は弓袋・矢筒を身に付けて道の左に出迎え、饗応の設けは非常に盛んであった。伯芝が近年貢を絶っている理由を詰ると、努爾哈赤は凶作をもって答え、翌年には貢市を以前どおりにしたいと請い、手厚く伯芝に贈り物をして帰らせた。
  • 冬十一月、満洲は渥集の雅攬・西臨の二路を侵し、降った民二百戸を収め、千人を捕虜にして還った。

西暦1615年 万暦四十三年

  • 冬十一月、満洲は渥集の顧納喀・庫倫を攻め、その城を落とし、一万人を捕獲し、その住民五百戸を収め撫して還った。
原文(底本)
明神宗萬曆十一年,春二月,以滿洲部努爾哈赤襲建州左衛都督,授龍虎將軍。滿洲先出肅慎氏,古通古斯族也。有虞氏二十五年,始通中國,獻弓矢,稱息慎。周初數入朝貢,又稱稷慎,蓋息稷與肅音轉之訛也。東漢時亦稱挹婁,其西南別部爲扶餘,有今開原以北地。東南別爲諸沃沮(即窩集,譯言森林),有北沃沮、南沃沮、東沃沮諸部。北魏時諸部分裂爲七,曰粟末、曰伯咄、曰安車骨、曰佛揑、曰號室、曰黑水、曰白山,總謂之勿吉。隋唐時稱靺鞨,則南北方言譯對之異也。七部之中以黑水、粟末爲強,始附高麗,姓大氏,名乞仲象。唐初李勣破高麗,大氏退保東年山(在瀋陽東二十里),睿宗朝封其部長大祚榮爲渤海郡王,遂改國號曰「渤海」。黑水初亦附高麗,其部長突利稽嘗以兵十五萬助高麗,敗唐太宗於安市(在蓋州東北七十里)。開元十年,二月,其帥倪屬利稽入朝,置黑水郡,拜都督,授雲麾將軍,兼黑水經略使,賜姓名李獻誠,後服屬渤海,與中國絕。後唐明宗天成元年,通古斯族別部曰契丹()滅渤海,黑水又附於遼,而漸得回復其故土,更號曰女真(後避契丹主宗真諱,更爲女直),世居混同江(即松花江)之東,長白山下。在南岸者隸遼籍,曰「熟女真」(即舊滿洲),在北岸者不隸遼籍,曰「生女真」(即新滿洲)。生女真之始祖哈富自高麗徙居完顏部阿勒楚喀河側,遂爲完顏部人,傳至景祖爲烏古廼。當宋仁宗寶元時,遼以爲生女真節度使。五傳至太祖阿骨打,於宋徽宗政和三年自立爲女真主。叛遼,數破遼兵,征服混同江附近諸部。越二年,建國號曰金(以國產大金及有金水源故)。至宋理宗端平元年,宋人與蒙古()聯軍滅之。蒙古人入主中夏後,其遺族散居混同江南北,共存三部:曰建州、曰海西、曰野人。明初仿唐羈縻州之制,分建術所。而建州衛境內有滿洲部五,長白山部三。清室之先即爲滿洲部之一。滿洲本作滿珠,二字皆平讀,音近曼珠。有國之初,每歲西藏獻丹書,皆稱曼珠師利大皇帝,繙譯名義,曼殊爲妙吉祥。又作曼殊師利,爲釋迦牟尼師昆盧遮那之本師。殊珠音同,室師一音,當是建號之義,實取於此。後漢字相沿,誤爲滿洲,則因洲字義近地名,假借用之耳,實則部族而非地名也。其姓曰愛新覺羅氏,以其國語,謂金曰愛新,覺羅則姓氏之義。言即金姓,與金原爲同族也。當金之末造,有名布庫里雍順者,始定居於長白山東南俄漠惠之野俄朶里城(在瑚爾哈河源,勒福善河西岸,去寧古塔西南三百餘里,近金上京地)。數傳而後,遭國內亂,舉族被戕,幼子犯察遁荒野得免。又數傳至孟特穆(後追諡肇祖)。永樂十年十月入貢,勅爲建州左衛都督。孟特穆生有智略,慨然有恢復之志。計誘先世仇人之後四十餘人,至蘇克蘇滸河,虎攔哈達山下,誅其半以雪其仇,釋其半以爲用。遂定居赫圖阿喇(在蘇克蘇滸河、嘉哈河之間,後稱興京),即建州左衛地也。孟特穆之長子充善生子三,其季子錫寶齊篇古生子福滿(後追諡興祖)。福滿生子六,覺昌安(後追諡景祖)居第四,承先業,居赫圖阿喇地,其餘五子各築城環衛而居。近者四五里,遠者約二十里,稱爲寧古塔六貝勒(寧古六數,塔個也,貝勒總治官名)。是時近地部落中,有碩色納、加虎二族,每恃強侵陵諸路。覺昌安多才智,子禮敦又英武,率諸貝勒往攻之,破碩色納子九人,滅加虎子七人,盡收五嶺東、蘇克蘇滸河西二百里內諸部,由此國益強盛。覺昌安第四子爲塔克世(後追諡顯祖),塔克世長子努爾哈赤,長有武略,善騎射,其國人稱之曰「聰睿貝勒」。先是蘇克蘇滸部之固倫城(吉林城西五百六十里)有尼堪外蘭者,故塔克世部人,陰導寧遠伯李成梁兵,攻古勒城(圖倫東十里)。城主阿太章京,故建州衛都指揮王杲之子,其妻乃禮敦女。覺昌安聞警,恐女孫被陷,偕塔克往救,引兵入城。城據山依險,守禦堅,急切不能下。尼堪外蘭說城中人殺阿太出降,已而盡屠之,覺昌安父子皆爲所殺。努爾哈赤聞之大慟,詰邊吏,事聞,遣使歸其喪。與勅三十道、馬三十匹,封龍虎將軍,復給建州左衛都督勅書,俾其襲職。  夏五月,努爾哈赤起兵,取圖倫。先是使者至建州,努爾哈赤復請執送尼堪外蘭,使者不許,努爾哈赤恨益深,日夜以復仇爲念。至是親率其父遺甲十三副,往攻圖倫。尼堪外蘭預知之,先期遁往甲版(在承德縣東一百十里),努爾哈赤克其城而歸。 秋八月,努爾哈赤率兵攻甲版,尼堪外蘭奔至撫順所,欲入邊,邊吏不納,乃逃於鵝爾渾(在齊齊哈爾城西南三十餘里),築城居之。時諸部中隔,追兵不得越境至,努爾哈赤乃次第收復近部,爲進取之計。

  十二年,秋七月,滿洲侵董鄂(屬建州衛之滿洲部),城垂陷,會大雪,罷攻。努爾哈赤率衆伏濃烟中,城內謂兵已退,引衆出。努爾哈赤出擊之,頗有斬獲。

  十三年,夏四月,滿洲侵哲陳(屬滿洲部),哲陳諜知之,起托漠河、章甲、把爾達、撒爾湖、界凡五城兵迎拒。努爾哈赤率弟穆爾哈齊及近侍顏布錄、兀淩噶直前奮擊,射殺二十餘人,敵兵爭渡河而遁,復率兵追斬四十五級。又與穆爾哈齊追至吉林厓,敵兵多墜厓死。既收軍,努爾哈赤喜曰:「今日之戰,以四人而破八百之衆,天助我也!」  秋九月,滿洲攻蘇克蘇滸河(屬滿洲部)之安土瓜爾佳城,破之,殺其城主諾一漠混。

  十四年,夏五月,滿洲攻渾河(屬滿洲部)之播一混寨,拔之。 秋七月,滿洲攻哲陳之托漠河,下其城,即星馳往鵝爾渾城,攻克之。尼堪外蘭逃至邊,努爾哈赤遣使者齊薩等四十人來請,邊吏執尼堪外蘭,付齊薩,殺之。

  十五年,春正月,滿洲於碩里口、虎攔、遠東南加哈河兩界中之平岡,築城三層,並建宮室。 夏六月,滿洲破哲陳之山寨,殺寨主阿爾泰。 秋八月,滿洲巴圖魯額亦都率兵取把爾達城,努爾哈赤自率兵取洞城,城主扎海降。

  十六年,夏四月,哈達(屬海西衛之扈倫部)貝勒扈爾干以女歸滿洲,努爾哈赤納之。同時,蘇完部主索爾果、董鄂部之何和哩、雅爾古寨之扈喇虎先後率本部軍民歸之。努爾哈赤以索爾果之子費英東佐理政務,以長女妻何和哩,以扈喇虎子扈爾漢爲養子,任侍衛。時努爾哈赤招徠各路,歸附日衆,環境諸國,有拒命者皆削平之,國勢日盛。 秋九月,滿洲攻克王甲城,殺其城主戴度墨爾根。

  十七年,春正月,滿洲攻兆佳城,克之,殺其城主寧古親。

  十九年,春正月,滿洲略長白山部(屬建州衛)之鴨綠江路,盡收其衆,疆域日廓。葉赫(屬扈倫部)貝勒納林布祿聞之,懼不利於己,遣使告努爾哈赤曰:「扈倫、滿洲言語相通,勢同一國。今所有國土,爾多我寡,蓋於額爾敏、札庫木二地,割一與我。」努爾哈赤叱之,即日遣歸。

  二十一年,秋九月,葉赫糾合扈倫部之哈達、輝發、烏喇,及蒙古之科爾沁、錫伯、卦勒察、長白山部之朱舍里、納殷九國聯軍侵滿洲,陣渾河北岸。努爾哈赤引軍禦之,至扎喀城,語諸將曰:「彼部長多,兵皆烏合,我以逸待勞,傷其貝勒一二人,其衆自潰。我兵雖少,奮力一戰,可必勝也!」遂於旦日移軍古哷山,據險而陣,發百騎挑戰。葉赫西城貝勒布寨、科爾沁貝勒明安爭先突進,布寨墜馬被殺,明安陷淖,易馬遁,聯軍遂潰。努爾哈赤縱兵掩擊,斬級四千,獲馬三千匹,鎧胄千副,俘烏喇貝勒之弟布占泰,自是軍威大震。 冬十月,滿洲攻朱舍里路,獲其路長紆楞格以歸。 閏十一月,滿洲遣巴圖魯額亦都、費揚古等督兵攻圍訥殷之佛多和山寨,三月乃下,斬寨長搜穩寨克什。

  二十三年,夏六月,滿洲攻克輝發之多壁城,斬城守,克充格、蘇猛格二人還。

  二十六年,春正月,滿洲遣貝勒褚英統兵侵安褚拉庫路,取其屯寨二十餘所。

  二十七年,春二月,滿洲以蒙古字製爲國語,創立滿文,頒行國中。 三月,始開金銀礦、鐵冶。 秋九月,滿洲攻滅哈達國。先是,葉赫與哈達搆兵,哈達貝勒孟格布祿,遣質子至滿洲乞援,努爾哈赤遣費英東率兵二千往。葉赫貝勒納林布祿投書哈達,使其誘執滿州援將,殲其援軍,許妻以女。孟格布祿惑其言,許之。會事洩,努爾哈赤親往哈達,攻其城,克之。大將揚古利生擒孟格布祿,盡服哈達屬城,哈達國亡。

  三十二年,春正月,滿洲兵侵葉赫,克其二城,曰張、曰阿氣蘭,取其二寨,俘二千餘人還。

  三十五年,夏五月,滿洲遣貝勒巴雅喇等率兵侵渥集(屬野人衛,即東海部),取赫席黑俄漠和蘇魯佛訥、赫拕克索三路之地,以其並附烏喇故也。 秋九月,滿洲攻滅輝發國。

  三十六年,春正月,滿洲侵烏喇,克其宜罕阿麟城而還。薊遼總督蹇達遣使與滿洲訂約。先是,蹇達於春間疏陳東方隱憂,宜早爲備。朝命守臣嚴備邊,至是遣遼東副將及撫所備禦,與滿洲訂兩國臣民,各守邊境之約,建碑於延邊諸地。

  三十七年,冬十二月,滿洲遣侍衛扈爾漢取渥集部所屬之滹野路。

  三十八年,冬十一月,滿洲遣巴圖魯額亦都率兵侵渥集,取那木都魯、綏分、寧古塔、尼馬察四路。

  三十九年,秋七月,滿洲遣台吉阿巴泰率兵侵渥集,取烏爾古辰、木倫二路。 冬十二月,滿洲遣額駙何和哩率兵克渥集之扎庫塔城。

  四十年,秋九月,烏喇兵侵滿洲虎爾哈路,努爾哈赤自將禦之。時軍勢甚盛,烏喇兵懼,不戰而退。滿洲兵追之,沿岸而下,克其臨河五城,又取其金州城駐軍。

  四十一年,春正月,努爾哈赤親率兵侵烏喇,至伏爾哈城,攻拔之,烏喇國亡。時扈倫四國,已滅其三,葉赫大懼,使使來告急,遣遊擊馬時枬、周大歧率礮兵千人,前往守衛,又駐軍開原,以防其內偪。努爾哈赤投書撫順所遊擊李永芳,請中國嚴守中立,不報。

  四十二年,夏四月,遣使入滿洲賚貢,滿洲貢使不至,遼撫郭光復遣材官蕭伯芝往詰。伯芝入境,責郊迎禮,努爾哈赤屬橐鞬迎於道左,供張甚盛。伯芝詰比年絕貢之故,努爾哈赤以歲歉對,請明年貢市如初,厚贈伯芝以歸。 冬十一月,滿洲侵渥集之雅攬、西臨二路,收降民二百戶,俘千人還。

  四十三年,冬十一月,滿洲攻渥集之顧納喀、庫倫,克其城,俘獲萬人,收撫其居民五百戶而還。

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