清史紀事本末遼藩の建国(遼藩建国)

要約

明の神宗万暦四十四年春正月、代善らの勧めで努爾哈赤は位に即き、尊号を覆育列国英明皇帝、国号を満洲、建元して天命とした。七月、扈爾漢らが薩哈連部を侵して兀爾簡河南北の三十六寨を取り、黒龍江を渡って十一寨を加え、路長四十八人を招服した。四十五年、東海沿岸の諸部を収め、島に拠る者も小舟で取った。

四十六年四月、祖父の殺害・葉赫の援助・辺民の越境と十人の擅殺・婚約の女の改嫁・耕作の駆逐・使の侮り・哈達の服従強制の七大恨をもって師に誓った。二路に分けて東州・馬根単を取り、撫順の李永芳が降り、台堡寨五百余を下し、追撃の張承蔭らは大風に乗じた攻撃で戦死した。五月に十一堡を陥れ、六月に李維翰の和議を許さず、七月に清河城で鄒儲賢・張斾と兵一万が殉じた。

四十七年正月、葉赫を征して克亦特城・粘罕寨を取り、二月、遼東経略の楊鎬は兵を四路に分け、都城に進むと約した。三月、杜松は薩爾滸山に屯して界凡城を囲んだが、吉林厓の兵と援兵に挟まれ陣没した。尚間厓の馬林は身一つで免れ、龔念遂は戦死、潘宗顔は全軍没し、葉赫兵は遁げた。劉綎は阿布・達里の間で挟撃されて戦死し、康応乾の兵と朝鮮兵二万は没し、姜弘立は降り、楊鎬は軍を返した。六月に開原が落ちて馬林らが死に、七月に鉄嶺で喩成名らが死に、八月に葉赫の二城が落ちて金台吉は屈せず死に、布揚古が降って葉赫国は滅んだ。

泰昌元年、懿路・蒲河を侵し、界凡から撒爾湖に遷った。天啓元年、奉集堡を攻略し、瀋陽では偽りの敗走に誘われた賀世賢が尤世功らと陣没し城は陥ち、四川兵二万を渾河北で殲滅し、白塔鋪の李秉誠らを破り、渡河して董仲貴らを囲んで戦死させた。遼陽では袁応泰が太子河の水を壕に注いだが城は破れ、焼身して死に、遼河以東の七十余城が降った。明・朝鮮・蒙古と接する要地の遼陽に遷都を議した。七月、毛文龍が皮島に拠って鎮江城を取り、内応の陳良策は佟養真を捕らえ、子の豊年ら六十人を殺して降り、湯站・険山の二堡も投じ、民を内地に遷させた。

二年正月、西平堡で羅一貫・高邦佐が死に、孫得功ら四十余の堡官が降り、熊廷弼・王化貞は蓄えを焼いて山海関に入り、義州も陥ち、二人は死罪に論じられた。二月に兀魯特部の明安ら三千余戸が帰附、三月に東京へ遷都した。三年、喀爾喀の拉巴西らが帰附し、扎魯特部の昂安父子を殺し、四年、渾発を侵した文龍の兵を蘇爾東が破り、八月に楞額礼・呉善が皮島を襲って蓄えを焼いた。五年、旅順口城を毀ち、瀋陽に遷って盛京と名づけ、瓦喀部・虎爾哈を征し、科爾沁を援けて察哈爾を退けた。六月に文龍が耀州を攻めて退き、八月は寧遠・山海関二路の兵が耀州で大敗し、文龍も海州の張屯寨を落とせず、六年正月、寧遠では袁崇煥・満桂が籠城し、西洋の巨砲で囲みは解け、覚華の糧を焼いて還り、二十五歳で兵を用いて以来勝たぬことなく、寧遠一城だけ下せぬのを不快とした。四月に喀爾喀を親征し巴林の囊奴克を斃し、五月に文龍が鞍山駅・撒爾湖を侵したが落とせず、八月、靉雞堡の行在で殂した。年六十八、福陵に葬り、武皇帝と追諡、のち高皇帝、廟号は太祖。

年表

努爾哈赤が明神宗万暦四十四年(1616年)に位に即いて覆育列国英明皇帝と号し、国号を満洲、建元を天命として国を建ててから、天啓六年(1626年)に瀋陽の靉雞堡で殂するまでを扱う。万暦四十六年、七大恨をもって師に誓い撫順を陥れて明と開戦し、翌年の薩爾滸の戦いで杜松・馬林・劉綎ら明の四路の大軍を各個に撃破、続いて開原・鉄嶺を落として葉赫を滅ぼした。天啓元年には瀋陽・遼陽を陥れて遼河以東の七十余城を収め、赫図阿喇から東京、さらに盛京(瀋陽)へと都を遷す。西平堡・広寧を取り、蒙古諸部の帰附を得る一方、毛文龍の皮島との攻防が続いた。天啓六年、寧遠城で袁崇煥の西洋砲に阻まれて初めて敗れ、同年八月に六十八歳で没した。

年表(11件)

現代語訳全文

西暦1616年 明神宗万暦四十四年

  • 春正月、満洲の努爾哈赤が帝を称した。これより先、努爾哈赤の子の代善らは、努爾哈赤の功徳が日ごとに盛んなことから、尊号を奉ることを議し、表を奉って即位を勧め、ここに至って位に即いた。貝勒・大臣らはともに尊号を上って覆育列国英明皇帝といい、国号を定めて満洲といい、天命と建元した。
  • 秋七月、満洲の主は大臣の扈爾漢らに命じて師を率いさせ、東海の薩哈連部を侵し、兀爾簡河の南北の三十六寨を取り、そのまま兵を引いて黒龍江を渡り、さらにその十一寨を取り、また使犬路・諾洛路・石拉忻路の路長四十八人を招いて服属させた。

西暦1617年 万暦四十五年

  • 春二月、満洲は東海の沿岸に散り住む諸部を収め服属させ、島に住んで険阻を頼みに服従しない者は、小舟に乗ってことごとくこれを取って帰った。

西暦1618年 万暦四十六年

  • 夏四月、満洲の主は兵を率いて辺境を侵した。出発に臨み、七大恨をもって師に誓った。その大要にいう、「明の辺吏は軽々しく尼堪外蘭の謀を用い、ゆえなく紛争の端を開いて、我が祖父を害した。恨みの一である。明は盟約を守らず、兵を出して境を越え、葉赫を守り助けた。恨みの二である。明の辺民は毎年境を越えて盗みを働き、約定によれば殺すべきであるのに、明はかえって擅殺であることを口実として十人を脅し取り、辺境で罪に当てさせた。恨みの三である。明は境を越えて兵をもって葉赫を助け、我がすでに婚約した女を蒙古に嫁ぎ改めさせた。恨みの四である(「限」は「恨」の誤りか)。我が国の人民が、柴河・三岔・撫安などの路でみな取り決めて田を耕し穀を植えたのに、明は刈り取ることを許さず、兵を遣わして駆逐した。恨みの五である。葉赫が盟に背いて争いを招いたのに、明はかえってその言だけを偏り信じ、使を遣わして罵り、ほしいままに侮辱した。恨みの六である。哈達は葉赫を助けて二度も侵してきて、すでに征服されていたのに、明はまたその国を脅して服従させた。恨みの七である」と。
  • そこで二路に分けて兵を進め、左翼四旗の兵に東州・馬根単の二堡を取らせ、みずから右翼四旗の兵および八旗の護軍を率いて、夜、雨が上がったばかりの機に乗じ、馳せて撫順に至り、遊撃の李永芳が出て降った。東州・馬根単の二城および台・堡・寨あわせて五百余をことごとく下し、まもなく撫順城を毀って退いた。
  • 広寧総兵の張承蔭、遼陽副将の頗廷相、海州参将の蒲世芳が兵一万を率いて追いに行くと、満洲の主は軍を返して立ち向かった。折しも大風が起こり、西に向かって砂塵を巻き上げた。満洲の兵は風に乗じて撃ちかかり、追ってきた兵は支えきれず、そのまま崩れた。承蔭以下、廷相・世芳および遊撃の梁汝貴らはみな戦死した。
  • 五月、満洲の兵は辺境に進入し、撫安堡・花豹衛・三岔の大小の堡あわせて十一を陥れた。
  • 六月、広寧巡撫の李維翰は使者を満洲に遣わして和を議し、あわせて捕虜・鹵獲の返還を求めたが、満洲の主は許さなかった。
  • 秋七月、満洲は清河城を囲んだ。守将の鄒儲賢・張斾は兵一万をもって固く守った。城を攻める兵は雲梯を立て、矢石を冒して上り、守兵はみな崩れ、儲賢・斾および兵一万人はそこに殉じた(「殉馬」は「殉焉」の誤りか)。

西暦1619年 万暦四十七年

  • 春正月、満洲の主は葉赫を征し、克亦特城・粘罕寨を取り、葉赫城の東十里まで至り、大小の屯寨二十余、および蒙古の遊牧の家畜を取った。
  • 二月、遼東経略の楊鎬は兵を瀋陽に集め、四路に分けて満洲を攻めた。一路ごとに兵は六万。その左翼中路は杜松・王喧・趙孟麟・張銓にこれを督させ、清河から烏鴉関に出た。左翼北路は馬林・麻岩・潘宗顔にこれを督させ、開原から葉赫の兵二万を合わせて、三岔口に出た。右翼南路は劉縦(「劉綎」の誤りか)・康応乾にこれを督させ、朝鮮の兵二万と会し、寛甸口に出て、董鄂路に向かい、あわせて満洲の都城に進むことを約した。
  • 三月、左翼中路の杜松の兵は撫順関を出て、三万余の衆をもって薩爾滸山に屯した。みずからは兵二万を率いて鉄背山の上の界凡城を囲んだ。まさに軍を督して吉林厓を仰ぎ攻めていたとき、崖を守る騎兵が築城の人夫たちを率いて山から馳せ下り衝撃を加え、ちょうど界凡を援ける満洲の二旗の兵も至って、これを挟み撃ちにした。杜松は矢に中たって陣没し、死んだ士卒は数え切れなかった。
  • この夜、馬林は北路の軍を率いて富勒哈山の東北、尚間厓のふもとに陣し、営をめぐらして壕を深く掘り、外に火器を並べ、続いて騎兵を並べた。潘宗顔の一軍は飛芬山に拠り、龔念遂の一軍は斡琿鄂謨に屯し、それぞれ尚間厓を去ること数里で、いずれも大車を並べ、堅い盾を持っていた。満洲の主は諸貝勒を督して軍を北に進め、念遂の軍と遭遇し、大いにこれを破り、念遂は戦死した。そこで進んで尚間厓に迫った。馬林の軍は迎え戦ったが、力尽き、死傷者が相次ぎ、林はかろうじて身一つで免れた。満洲の軍は飛芬山に馳せ向かい、潘宗顔を攻め、宗顔の全軍はことごとく没した。葉赫の兵は途中で敗報を聞き、遁げ去った。
  • そのとき劉綎の軍はすでに満洲の都城に近く迫っていた。満洲の主は急を聞き、急いで大臣の扈爾漢、貝勒の阿敏を前後して遣わして兵を率いて防がせ、みずからは大軍を督して続いて進んだ。綎は軍を四つに分け、みずから配下の精鋭を率いて前軍とし、先に阿布・達里の間に入り、山に登って陣を布こうとした。貝勒の皇太極がすでに右翼の兵を率いて先に登り、高きに拠って下に向かって撃った。貝勒の代善もまた左翼の兵を率いて山の西から至り、これを挟み撃ちにした。綎の軍はついに崩れた。綎は力戦して死に、後軍もまた殲滅された。諸貝勒は綎の軍を破ると、そのまま(底本は「從」に作る。「遂」の誤りか)勢いに乗じて康応乾の配下の歩兵および朝鮮の兵を迎え撃ち、二万人はみな戦没し、応乾は逃げ去り、朝鮮の都元帥の姜弘烈(「姜弘立」の誤りか)は残りの衆を率いて降った。楊鎬は三路の兵が敗れたと聞き、急いで総兵の李如柏、副将の賀世賢に檄を飛ばして軍を返させた。
  • 夏六月、満洲は開原城を囲んだ。総兵の馬林は守兵の大半を出して四つの門の外に陣し、残りの衆を督して城を守った。城を攻める兵は虚に乗じて襲いかかり、陣していた兵は四方に崩れ、林および副将の于化龍、遊撃の于守志、守備の何懋官はみな戦死し、内外の守兵はことごとく殲滅された。軍は還って界凡に至り、城を築き小屋を設えて住んだ。
  • 秋七月、満洲の兵は鉄嶺城を攻め陥れ、遊撃の喩成名・史鳳鳴・李克泰がこれに死んだ。
  • 八月、満洲の主は葉赫を侵し、その東西の二城を囲んだ。東城は崩れ、金台吉は捕らえられ、屈せずに死んだ。布揚古は西城をもって降り、葉赫国は滅んだ。

西暦1620年 光宗泰昌元年

  • 秋八月、満洲の兵は懿路・蒲河の二路を侵した。
  • 冬十月、満洲の主は界凡から撒爾湖に遷り、軍民の家屋を建て、十一月に至ってようやく成った。

西暦1621年 熹宗天啓元年

  • 春二月、満洲の主は軍を統べて八路に分け、奉集堡を攻略した。
  • 三月、満洲の兵は進んで瀋陽を攻めた。総兵の賀世賢・尤世功は兵を分けて城に上って守り、城のまわりに壕を幾重にも掘り、まわりに柵をめぐらし(「穡柵」は「木柵」の誤りか)、その上に巨砲を並べ、守備の設備ははなはだ堅固であった。満洲の兵は城を去ること七里のところに軍し、騎兵を遣わして挑戦させ、いつわって敗走して官軍を誘った。世賢は兵を出して迎え戦い、伏兵に遭って敗れた。世賢・世功および参将の夏国卿・張綱、知州の段展、同知の陳柏らが相次いで陣没し、城はついに陥ちた。
  • そのとき総兵の陳策、参将の張名世、遊撃の周敦吉、都司の秦邦屏らが四川の兵二万を督し、渾河を渡って河の北に営し、副将の董仲貴、参将の張大斗が兵一万余を統べて、河の南の奉集堡に営し、総兵の李秉誠、武靖営総兵の朱万良・姜弼が騎兵三万を率いて、白塔鋪に営していた。満洲の主は右翼四旗を遣わして川の兵を襲撃させ、その衆をことごとく殲滅した。皇太極は兵を率いて白塔鋪を襲い撃ち、秉誠らはみな敗れて遁れた。(皇太極は)そのまま河を渡って浙江の営を囲み、仲貴らは力戦して死んだ。
  • 瀋陽がすでに陥ちると(「既援」は「既陥」の誤りか)、勢いに乗じて長駆し、遼陽を取ろうとした。経略の袁応泰は太子河の水を切り開いて城の壕に注ぎ、火器をぐるりと並べ、みずから諸将を督して出て戦った。満洲の主は左翼四旗および護軍の精鋭を遣わしてこれを挟み撃ちにし、城は破れ、応泰は城楼に登って焼身して死に、節に殉じた官吏・将士はなお十余人であった。遼河以東(「遼灑」は「遼河」の誤りか)の堡・寨・営・駅および海州・蓋州・金州・復州の諸衛の大小七十余城は、みな降った。
  • 満洲の主は貝勒・諸臣を集めて議していった、「遼陽の地は、明および朝鮮・蒙古と境を接する要所である。ここに居るのがよい」と。そこで遷都を議定した。
  • 秋七月、満洲は鎮江堡の沿海の住民を内地に遷し、金州の民を復州に遷した。これより先、遼陽・瀋陽が相次いで陥ちると、遼を援ける都司の毛文龍が師を率いて皮島(「皮鳥」は「皮島」の誤りか)に至り、流亡の民を招き集め、哨船を分けて配置し、登州と連携して、犄角の計とした。詔して文龍に参将を授けた。ちょうどそのころ鎮江堡の城中の軍の陳良策が、文龍に内通した。文龍は兵を率いて鎮江城を取り、良策は城守の遊撃の佟養真を捕らえ、その子の豊年ならびに従う者六十人を殺して降った。同時に湯站・険山の二堡もまた守堡官の陳九階・李世科を捕らえて文龍に投じた。満洲の主は急を聞き、子の皇太極らに命じてその民を内地に遷させた。

西暦1622年 天啓二年

  • 春正月、満洲の主は兵を督して遼河を渡り、西平堡を囲んだ。守将の羅一貫・高邦佐がこれに死んだ。遊撃の孫得功らはみな降り、兵が広寧城に至ると、堡の守禦官で衆を率いて降る者はあわせて四十余であった。(明軍が)山海関に至ると、経略の熊廷弼、広寧巡撫の王化貞は前後して難民を護って関に入り、蓄えをことごとく焼いて去り、満洲の兵はそのまま進んで義州を陥れた。廷臣は廷弼・化貞の二人を逮えることを請い、あわせて死罪に論じた。
  • 二月、蒙古の兀魯特部の貝勒、明安ら三千余戸がそろって満洲に帰附した。
  • 三月、満洲は遼陽城の東五里の太子河のほとりに新城を営み、宮室を建て、赫図阿喇からここに都を遷した。名づけて東京という。

西暦1623年 天啓三年

  • 春正月、喀爾喀部の台吉の拉巴西・希壁ら五百戸が満洲に帰附した。
  • 夏四月、満洲の主は台吉の阿巴泰らに命じて師を率いさせ、扎魯物部(「扎魯特部」の誤りか)を征し、貝勒の昂安父子を殺し、貝勒の鐘嫩の子の桑土の妻子を捕らえて帰った。

西暦1624年 天啓四年

  • 夏五月、毛文龍は兵を遣わして満洲の渾発の地を侵し、守将の蘇爾東がこれを破った。
  • 秋八月、満洲の主は大臣の楞額礼・呉善に命じて兵を率いて皮島を襲わせ、(島の)兵は大いに崩れ、島中の蓄えを焼いて還った。

西暦1625年 天啓五年

  • 春正月、満洲の貝勒の莽古爾泰が兵を統べて旅順口城を攻め、城を毀って帰った。
  • 三月、満洲の主は貝勒・諸臣を集めて瀋陽への遷都を議し、瀋陽は形勝の地であり、もし明の辺境に事があれば西に遼河を渡ればよく、道は真っ直ぐで近い。北に蒙古を伐つならば二、三日で至れる。南に朝鮮を征するならば清河路から進むことができる、といった。そこで瀋陽に新しい都を建てて、そこに遷った。名づけて盛京という。
  • この月、東海の瓦喀部を征し、兵は引き返した。
  • 夏六月、毛文龍が耀州を攻めたが、久しく功なく、軍を引いて退いた。
  • 秋八月、寧遠城・山海関の二路の兵が耀州を攻めて大敗し、毛文龍の兵が海州に属する張屯寨を襲ったが、これも落とせなかった。
  • 冬十月、満洲は東海の虎爾哈・封爾察を征し、兵は引き返した。
  • 十一月、満洲は科爾沁部の格勒珠爾根城を援け、兵が至ると、察哈爾は囲みを解いて去った。

西暦1626年 天啓六年

  • 春正月、満洲は大挙して侵入して寧遠に至り、城を過ぎること五里、山海関への大路を横切って軍した。寧遠道の袁崇煥は総兵の満桂らとともに城に籠もって固く守った。満洲の軍が進むと、城上から西洋の巨砲を発し、一発で数百人を傷つけ、攻めては退けられ、また攻めては退けられ、囲みはついに解けた。当時、関外の軍糧はみな覚華(島)に積んであり、満洲の兵がこれを襲い、舟・車・糧・草はことごとく焼かれた。満洲の主は瀋陽に還り、諸貝勒に語っていった、「朕は二十五歳で兵を用いて以来、戦って勝たないことはなく、攻めて落とさないことはなかった。なぜ寧遠の一城だけが下せないのか」と。何日も不快であった。
  • 夏四月、満洲の主はみずから喀爾喀部を征し、八路に分けて兵を進め、巴林部の貝勒の囊奴克の寨に至り、囊奴克は矢に中たって馬から墜ちて死に、西拉木輪河を渡り、大いに掠奪して還った。
  • 五月、毛文龍の兵が鞍山駅と撒爾湖を侵したが、いずれも落とせなかった。
  • 秋八月、満洲の主の努爾哈赤が瀋陽の靉雞堡の行在で殂した。年は六十八。承徳県の石觜頭山に葬り、福陵と号した。崇徳元年、武皇帝と追諡した。康熙元年、諡を改めて高皇帝とし、廟号を太祖とした。
原文(底本)
明神宗萬曆四十四年,春正月,滿洲努爾哈赤稱帝。先是努爾哈赤子代善等,以努爾哈赤功德日盛,議上尊號,奉表勸進,至是即位。貝勒大臣等共上尊號曰覆育列國英明皇帝,定國號曰滿洲,建元天命。 秋七月,滿洲主命大臣扈爾漢等率師侵東海之薩哈連部,取兀爾簡河南北三十六寨,遂引兵渡黑龍江,復取其十一寨,又招服使犬路、諾洛路、石拉忻路路長四十八人。

  四十五年,春二月,滿洲收服東海沿邊散居諸部,其島居負險不服者,乘小舟盡取之而歸。

  四十六年,夏四月,滿洲主將兵侵邊,臨行,以七大恨誓師,略曰:「明邊吏輕用尼堪外蘭之謀,無故啟釁,害我祖父,恨一也;明不守盟約,逞兵越界,衛助葉赫,恨二也;明邊民每歲踰境行竊,依約當殺,而明又以擅殺爲詞脅取十人,抵罪邊境,恨三也;明越境以兵助葉赫,致我已聘之女改適蒙古,限四也;我國人民,於柴河、三岔、撫安等路皆約(當今鐵嶺縣東南境)耕田藝穀,明不容刈獲,遣兵驅逐,恨五也;葉赫渝盟召釁,而明乃偏信其言,遣使詬詈,肆行陵侮,恨六也;哈達助葉赫二次來侵,既被征服,明又脅服其國,恨七也。」於是分兩路進兵,令左翼四旗兵取東州(承德縣東南百一十里)、馬根單(赫圖阿拉城西南二百十里)、二堡,自率右翼四旗兵及八旗護軍乘夜兩新霽,馳抵撫順,遊擊李永芳出降。東州馬根單二城及臺保寨共五百餘悉下,尋毀撫順城而退。廣寧總兵張承蔭、遼陽副將頗廷相、海州参將蒲世芳率兵一萬往追滿洲主迴軍相拒,會大風,西向揚塵。滿洲兵順風縱擊,追兵不支,遂潰。自承蔭以下,廷相、世芳及遊擊梁汝貴等皆戰死。 五月,滿洲兵進邊,陷撫安堡、花豹衛、三岔大小堡凡十一。 六月廣寧巡撫李維翰遣使至滿洲議和並索還俘獲,滿洲主不許。 秋七月,滿洲圍清河城,守將鄒儲賢、張斾以兵一萬固守。攻城兵樹雲梯,冒矢石而上,守兵皆潰,儲賢、斾及兵萬人殉馬。

  四十七年,春正月,滿洲主征葉赫,取克亦特城、粘罕寨,至葉赫城東十里,大小屯寨二十餘,及蒙古遊牧畜產。 二月,遼東經略楊鎬集兵瀋陽,分四路攻滿洲,每路兵六萬,其左翼中路以杜松、王喧、趙孟麟、張銓督之,由清河出烏鴉關(今鳳凰城西北境)。左翼北路以馬林、麻岩、潘宗顏督之。由開原合葉赫兵二萬,出三岔口。右翼南路以劉縱、康應乾督之,會朝鮮兵二萬,出寬甸口(鳳凰城東北二九十里),向董鄂路,約合趨滿洲之都城。 三月,左翼中路,杜松兵出撫順關,以三萬餘眾屯薩爾滸山(興京城西北二十里)。自引兵二萬圍鐵背山上之界凡城。方督軍仰攻吉林厓,守厓騎兵帥築城夫役自山馳下衝擊,適滿洲援界凡之二旗兵亦至,夾攻之,杜松中矢陣歿,士卒死者無算。是夜馬林率北路軍陣富勒哈山(鐵嶺縣東南百里)東北,尚間厓之麓,環營濬壕,外列火器,繼列騎兵。潘宗顏一軍據飛芬山,龔念遂一軍屯斡琿鄂謨,各距尚間厓數里,皆列大車,持堅盾。滿洲主督諸貝勒移軍北進,與念遂軍遇,大敗之,念遂戰死,乃進薄尚間厓。馬林軍迎戰,力竭,死傷相屬,林僅以身免。滿洲軍馳往飛芬山,攻潘宗顏,宗顏全軍盡沒。葉赫兵於中途聞敗報,遁去。時劉綎軍已近逼滿洲之都城,滿洲主聞警,急遣大臣扈爾漢、貝勒阿敏先後引兵往禦,自督大軍繼進。綎分軍為四,自率所部精銳為前軍,先入至阿布、達里間,將登山列陣。貝勒皇太極已引右翼兵先登,據高下擊。貝勒代善又率左翼兵自山之西至,夾擊之。綎軍遂潰。綎力戰以死,後軍亦殲。諸貝勒既破綎軍,從乘勢迎擊康應乾所部步兵及朝鮮兵,二萬人皆戰沒,應乾遁走,朝鮮都元帥姜弘烈帥餘眾降。楊鎬聞三路兵敗,急檄總兵李如柏、副將賀世賢還軍。 夏六月,滿洲圍開原城,總兵馬林出守兵大半,陣四門外,督餘眾守城。攻城兵乘虛掩上,陣兵四潰,林及副將于化龍、遊擊于守志、守備何懋官皆戰死,內外守兵皆殲焉。師還至界凡,築城治屋蘆以居。 秋七月,滿洲兵攻陷鐵嶺城,遊擊喻成名、史鳳鳴、李克泰死之。 八月,滿洲主侵葉赫,圍其東西二城。東城潰,金台吉被執,不屈死。布揚古以西城降,葉赫國亡。

  光宗泰昌元年,秋八月,滿洲兵侵懿路、蒲河二路。 冬十月,滿洲主自界凡遷於撒爾湖,建軍民廬舍,至十一月乃成。

  熹宗天啟元年,春二月,滿洲主統軍分八路,略奉集堡, 三月,滿洲兵進攻瀋陽,總兵賀世賢、尤世功分兵乘城守,環城掘壕塹數重,繞以穡柵,列巨礮其上,守具甚堅。滿洲兵距城七里而軍,遣騎兵挑戰,陽敗北誘師,世賢出兵迎戰,遇伏而敗。世賢、世功及參將夏國卿、張綱、知州段展、同知陳柏等相繼陣歿,城遂陷。時總兵陳策,參將張名世、遊擊周敦吉、都司秦邦屏等督四川兵二萬,渡渾河,營於河北,副將董仲貴、參將張大斗統兵萬餘,營於河南奉集堡,總兵李秉誠、武靖營總兵朱萬良、姜弼領騎兵三萬,營於白塔鋪。滿洲主遣右翼四旗襲擊川兵,盡殲其眾。皇太極引兵掩擊白塔鋪,秉誠等皆敗遁,遂渡河圍浙營,仲貴等力戰死。瀋陽既援,乘勢長驅,以取遼陽。經略袁應泰決太子河水,注城壕,火器環列,自督諸將出戰。滿洲主遣左翼四旗及護軍精銳夾擊之,城破,應泰登城樓自焚死,官吏將士殉節者尚十餘人。遼灑以東,堡、寨、營、驛及海、蓋、金、復諸衛大小七十餘城,俱降。滿洲主集貝勒諸臣議曰:「遼陽之地,乃明及朝鮮、蒙古接壤專區,宜居之。」遂定議遷都。 秋七月,滿洲遷镇江堡沿海居民於內地,金州民於復州。先是,遼、瀋繼陷,援遼都司毛文龍帥師至皮鳥(今海洋鳥),招集流亡,分布哨船,聯接登州,為犄角計。詔授文龍參將,適鎮江堡(鳳凰城東南百二十里),城中軍陳良策,通欵文龍。文龍引兵取鎮江城,良策執城守,遊擊佟養真,殺其子豐年,並從者六十人以降。同時湯站、險山二堡亦執守堡官陳九階、李世科來投文龍,滿洲主聞警,命子皇太極等遷其民內徙。

  二年,春正月,滿洲主督兵渡遼河,圍西平堡。守將羅一貫、高邦佐死之。遊擊孫得功等俱降兵至廣寧城,堡守禦官,帥眾降者凡四十餘。至山海關,經略熊廷弼、廣寧巡撫王化貞先後護難民入關,盡焚積聚而走,滿洲兵遂進陷義州。廷臣請逮廷弼、化貞二人,並論死。 二月,蒙古兀魯特部貝勒、明安等三千餘戶並歸附滿洲。 三月,滿洲營新城於遼陽城東五里之太子河邊,建宮室,自赫圖阿喇徙都焉。名曰東京(後稱盛京)。

  三年,春正月,喀爾喀部台吉拉巴西、希壁等五百戶歸附滿洲。 夏四月,滿洲主命台吉、阿巴泰等帥師征扎魯物部,殺貝勒昂安父子,執貝勒鐘嫩子桑土之妻子而歸。

  四年,夏五月,毛文龍遣兵侵滿洲渾發地,守將蘇爾東敗之。 秋八月,滿洲主命大臣楞額禮、吳善引兵襲皮島,兵大潰,焚島中積聚而還。

  五年,春正月,滿洲貝勒莽古爾泰統兵攻旅順口城,毀城而歸。 三月,滿洲主集貝勒諸臣議遷都瀋陽,謂瀋形勝之地,若有事明邊則西渡遼河,路直且近。北伐蒙古則二三日可至,南征朝鮮則可由清河路以進,遂於瀋陽建新都,遷焉。名曰盛京。是月,征東海瓦喀部,兵引還。 夏六月,毛文龍攻耀州,久無功,引軍退。 秋八月,寧遠城、山海關二路兵攻耀州,大敗,毛文龍兵襲海州所屬張屯寨,亦不克。 冬十月,滿洲征東海虎爾哈,封爾察兵引還。 十一月,滿洲援科爾沁部之格勒珠爾根城,兵至,察哈爾解圍去。

  六年,春正月,滿洲大舉入侵至寧遠,越城五里,橫截山海關大路而軍。寧遠道袁崇煥與總兵滿桂等嬰城固守。滿洲軍進,攻城上發西洋巨礮,一發傷數百人,再攻再卻,圍遂解。時關外軍餉皆積覺華名,滿兵襲之,舟車糧草,悉為所焚。滿洲主還瀋陽,語諸貝勒曰:「朕自二十五歲用兵以來,戰無不勝,攻無不克,何獨寧遠一城不能下耶?不懌累日。」 夏四月,滿洲主親征喀爾喀部,分八路進兵,至巴林部貝勒囊奴克寨,囊奴克中矢,墮馬死,渡西拉木輪河,大掠而還。 五月,毛文龍兵侵鞍山驛與撒爾湖,皆不克。 秋八月,滿洲主努爾哈赤殂於瀋陽之靉雞堡行次,年六十有八,葬於承德縣之石觜頭山,號福陵。崇德元年,追諡武皇帝。康熙元年,改諡高皇帝,廟號太祖。

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