清史紀事本末明末の戦争(明季戦争)

要約

明の熹宗天啓七年正月、満洲は寧遠巡撫の袁崇煥と和を議した。崇煥は新喪に乗じて錦州・大小凌河を修め、弔問の使に虚実を探らせた。使者が巨万の償金と歳幣を求めたが、不順の語ありとして拒んだ。満洲は朝鮮に入り、李倧は江華島に奔って兄弟の国たるを約し、阿敏は掠奪して還った。四月、満洲は遼東の帰属と城堡修繕の禁止を、崇煥は遼東の返付と朝鮮撤兵を求め、和は成らず。五月、錦州を囲んで克てず寧遠に迫ったが、崇煥は車営に槍砲を環列して満洲軍は大敗した。七月、魏忠賢の弾劾で崇煥は辞し、八月に熹宗が崩じて思宗が立ち、十一月に忠賢は誅に伏した。

崇禎元年、再び崇煥を薊遼督師とした。二年六月、崇煥は五年で満洲を滅ぼせると言い、詐りの露見を忌んで双龍島で毛文龍に十二の罪を誣して殺し、将校は離心して孔有徳・耿仲明・尚可喜が叛き、島は満洲に属した。十月、満洲主は蒙古に道を取り、十一月に喜峰口から入って遵化を囲み、王元雅は自死、趙率教は戦没した。北京に逼ると満桂が徳勝門で拒み、崇煥も広渠門外に営したが、反間の太監が密約ありと言い、獄に下された。十二月、固安・良郷が陥ち、満桂は戦死した。

三年正月、永平を陥れ、遵化城外の劉之綸は西洋砲が裂けて全軍と没した。遷安・滦州を抜き、二月に瀋陽へ撤した。五月、張春らが滦州を回復し、永平の阿敏は官民を屠って城を棄て、関内の四城は復した。四年九月、孫承宗の築く大凌河城を囲み、呉襄の放火は逆風で自営を焼き援軍は退いた。十月、堅守した祖大寿が降り、内応を約させて錦州に帰した。五年六月、察哈爾を降し、林丹汗は西へ遁れた。

七年、宣府・大同を掠めたが克てず、林丹汗の妻の竇土門福晋が降って妃とされた。八年、多爾袞が察哈爾を収め、子の額哲が伝国の璽を奉じて降った。九年五月、国号を清と改め崇徳と改元、寛温仁聖皇帝の尊号を奉られた。朝鮮主のみ承服せぬ言があり、六月に阿済格らが辺境を掠め、十二月にみずから朝鮮を征し、多鐸らが朝鮮の国都を襲い、南漢山に退いた朝鮮主を囲んだ。十年正月、中国は流寇に苦しんで援けず、多爾袞は江華島を撃って王妃・王子を捕らえ、朝鮮主は明の勅印を献じて出降し、二王子を質とした。

十一年九月、多爾袞・岳託が塞に入って呉阿衡は敗死し、畿輔の四十八城が下った。盧象昇は戦いを、楊嗣昌は和を主張し、嗣昌は象昇の肩書を落とさせた。象昇は鉅鹿で起潜に援けられず、囲まれて死に、一軍は亡んだ。嗣昌が「よく戦う者は最も重い刑に服する」と言うと帝は責めた。のち何楷が嗣昌を駁したが、帝は枢臣のことは深く追及するに及ばないとした。十二年正月、山東の十六州県を陥れて済南で徳王由樞を捕らえ、三月の松山攻めは金国鳳の死守で囲みが解けた。

十三年、寧遠・錦州を破らねば中原を図れぬとして松山・杏山を攻めたが成らず。十四年、錦州は蒙古兵の内応で外城が破れ、洪承疇が十三万で援けに赴き、八月、清主がみずから松山を囲み、筆架山の貯えを奪うと呉三桂ら六総兵が遁げ、死傷は数知れず。十五年二月、夏承徳の内応で松山は夜に抜かれ、承疇は擒えられ、邱民仰らが殉じ、祖大寿も出降して杏山・塔山も下った。承疇が降ると清主は喜び、これを得たのは水母に蝦がついたようだと言った。北京では承疇の死が伝えられ、帝は十六壇の祭を賜ったが、第九壇で生降の報に取りやめた。十月、帝が和議に馬紹愉を遣わしたが無礼な書を得、のち陳新甲が再び遣わすと義州で殺されかけ、新甲は罪を得て殺された。十一月、清兵は長城を毀って袞州まで八十八城を落とし、十六年に近畿に還って屠掠し、趙光忭は螺山で潰えた。督師を願い出た周廷儒は通州に留まり、清兵の撤退を敵兵退散と言上して帰京した。八月、皇太極は宸妃の死後の慟哭から疾を得て没した。年五十八、昭陵に葬り、子の福臨が立って世祖となり、翌年を順治元年とした。折しも流寇が北京に入り、呉三桂が援軍を乞うたので、機に乗じて中夏に入り、明に代わった。

年表

努爾哈赤の後を継いだ皇太極と明との攻防を、明熹宗天啓七年(1627年)から思宗崇禎十六年(1643年)まで十七年間にわたって述べる。袁崇煥との和議は条件が折り合わずに破れ、寧遠・錦州の攻撃も阻まれたため、皇太極は蒙古に道を取り、崇禎二年に喜峰口から入って北京に逼り、反間の計で袁崇煥を獄に下させた。察哈爾の林丹汗を降して伝国の璽を得、崇禎九年に国号を清、崇徳と改元し、朝鮮を征して臣従を誓わせた。松錦の戦いでは洪承疇の十三万を破り、洪承疇と祖大寿を降して関外の諸城を得た。崇禎十六年八月に皇太極が没し、子の福臨(世祖)が立ち、順治と改元して中国侵入を議していたところへ、流寇の北京入城と呉三桂の援軍要請が届いた。

年表(16件)

現代語訳全文

西暦1627年 明熹宗天啓七年

  • 春正月、満洲が使者を遣わして寧遠巡撫の袁崇煥に書を送り、和議を議した。これより先、崇煥は山海関の内外の諸軍を総統しており、満洲に新たな喪があったと聞き、その隙に乗じて錦州・大凌河・小凌河の諸城を修復し、持久の計としようと考え、使者にラマ僧一人を同行させて弔問に行かせ、ついでにその虚実をうかがわせた。満洲主の皇太極は使者を遣わしてこれに返礼した。ここに至って使者が再び来り、償金と歳幣とを要求したが、その数はそれぞれ巨万であった。崇煥は返書して、書中に不順な語があるので奏聞しがたい、と言った。
  • このとき満洲の兵はすでに朝鮮に入り、前後して義州・定州・安州・平壌などの地を陥れ、その軍をことごとく皆殺しにした。皮島都司の毛文龍は鉄山に屯して守っていたが、これもまた敗走した。満洲の兵は大同江を渡り、中和に宿営し、使者を遣わして朝鮮主に書を送り、詰責することきわめて厳しかった。
  • 二月、満洲は進んで朝鮮の黄州を陥れ、朝鮮主の李倧は江華島へ出奔した。満洲の兵が瑞興に至ると、朝鮮主は上書して和を請い、使者が往復して協議し、三月に和が成り、兄弟の国たることを約した。貝勒の阿敏は兵を放って三日のあいだ大いに掠奪してから還った。
  • 夏四月、満洲は再び使者を遣わして袁崇煥およびラマ僧に書を送り、遼東を満洲に帰属させるよう請い、およそ遼西地方にあるすべての城堡について明人が修繕を加えてはならないとし、あわせて、今後両国が通問する書式は、明の皇帝が天と並び列してはならず、明の諸臣が満洲主と並び列してはならず、それぞれ一格ずつ下げるべきである、と言った。崇煥は返書して、満洲はすでに占領した遼東の地方および俘虜を、酌量して協議のうえ返付すべきであり、あわせて朝鮮の鎮守の兵を撤回し、二度と朝鮮へ進兵しないようにせよ、と言った。事が朝廷に聞こえると、朝廷の旨はその計の非を咎め、しばしば戒め諭した。加えて双方の意見が合わず、和議はついに成らなかった。
  • 五月、満洲が大挙して遼西に進攻した。当時、大凌河城の工事はまだ竣工しておらず、総兵の趙率教が錦州を守り、満洲はこれを囲んだが克てず、軍を移して寧遠に迫った。袁崇煥は諸将に命じて城を背にして壕に拠らせ、車を並べて営とし、槍と砲とを環状に並べ列ねた。満洲軍は偽って退いてこれを誘ったが、(明軍は)動じなかった。満洲軍は衆を指揮して進撃したが、大敗し、士卒の死傷は数えきれなかった。軍を回して錦州を攻めたが、これもまた壕が広くて進めず、大凌河・小凌河の城を毀して還った。
  • 秋七月、魏忠賢が人をやって袁崇煥が錦州を救わなかった罪を弾劾させ、崇煥は辞職を乞うて去り、王之臣がこれに代わった。
  • 八月、熹宗が崩じ、思宗が立った。
  • 冬十一月、魏忠賢が誅に伏した。

西暦1628年 思宗崇禎元年

  • 夏四月、再び袁崇煥を起用して薊遼を督師させた。

西暦1629年 思宗崇禎二年

  • 夏六月、袁崇煥が皮島総兵の毛文龍を殺した。崇煥は寧遠の一勝以来、かなり自ら誇り、満洲人はすでに胆を破っており、地を献じて講和することが望める、と言っていた。再び起用されて召され封ぜられるに及び、ついに五年で満洲を滅ぼせると言った。文龍がその詐りを見抜くことを慮り、深くこれを忌み、ここに至って閲兵を名目として海を渡り双龍島に至り、計略をもって文龍を誘い出し、十二の罪を誣せて、これを殺した。これより島の将校たちは心が離れ、用をなさなくなった。その後、孔有徳・耿仲明・尚可喜らが相次いで叛き去り、島は全部ことごとく満洲に属することとなった。
  • 冬十月、満洲主が軍を率いて辺境に入り、喀喇沁の台吉である布爾噶を嚮導とした。これより先、満洲は遼西に備えがあることを偵知しており、それゆえ蒙古に道を取って進兵したのである。
  • 十一月、満洲の兵は喜峰口から辺牆を毀して入り、遵化を囲んだ。城が陥ちると、巡撫の王元雅は自ら死んだ(底本は「自殌死」に作る。「自縊死」の誤りか)。趙率教は変を聞いて援けに赴いたが、これもまた戦没した。満洲の兵はそのまま薊州へ走り、三河を越え、順義を掠め、進んで北京に逼った。総兵の満桂が軍を率いて徳勝門の外でこれを拒み、ちょうど袁崇煥が山海関から入援し、諸路の勤王の軍を督して広渠門の外に営した。満洲主はもとより崇煥を畏れており、反間の計を用い、捕らえていた太監を放ち帰らせて朝廷で、袁崇煥は満洲と密約がある、と言わせた。当時、都の人士はにわかに兵禍に遭い、怨みと謗りが紛々と起こり、崇煥が兵を擁して坐視していると指弾した。朝廷の士もまた、先に和を通じる議があったことから、崇煥が兵を呼び寄せて和を強い、城下の盟をなそうとしている、と誣告した。思宗もまた崇煥がほしいままに文龍を殺したことから、異志があるのではないかと疑い、これを獄に下した。
  • 十二月、満洲は兵を分けて固安・良郷を陥れ、軍を回して盧溝橋に至り、副将の申甫の営を破り、進んで永定門に宿営した。総兵の満桂が迎え拒んだが、戦死した。まもなく使者を遣わして和議の書を持たせ、徳勝・安定の両城門の外に置かせたが、いずれも返答がなく、そのまま軍を移して通州を越えて来た。

西暦1630年 思宗崇禎三年

  • 春正月、満洲は永平を攻め陥れ、軍を回して兵部侍郎の劉之綸の兵を遵化城外に襲い、その衆をことごとく殲滅し、之綸は戦没した。之綸は自ら木を加工して西洋式の大小の砲を作り、これを用いて満洲の兵を撃ち、死傷は甚だ多かった。のちにその砲が裂けたが、なお十二時間奮闘し、全軍がことごとく没し、之綸もまた傷を負って死んだ。満洲の兵は遷安・滦州(底本は「滐州」に作る)を抜き、兵を分けて山海関へ向かった。守将の官惟賢が力戦してこれを防ぎ、満洲は還って撫寧・昌黎を攻めたが、いずれも克てず、再び書を送って和を議したが、返答はなかった。
  • 二月、満洲は兵を撤して瀋陽に還った。
  • 夏五月、華州監軍道の張春らが攻めて滦州を回復した。満洲の貝勒の阿敏は、当時大軍を擁して永平に屯していたが、(明の)軍勢が甚だしいのを見て(底本は「見軍勢甚」に作り、「甚」の下に字を欠く。「甚盛」の脱字か)援けに赴こうとせず、城中の官民を屠り、遷安および遵化の守将とともに、素城して遁れた(「棄城」の誤りか)。春らはこれを追撃し、襲って殺した者が甚だ多かった。山海関内の四城はみな回復した。

西暦1631年 思宗崇禎四年

  • 秋九月、満洲軍が大凌河を囲んだ。はじめ、督師の孫承宗は関内を恢復し、さらに関外の旧疆をも整理した。七月に工事を起こして大凌河城を築き、昼夜督励した。工事がようやく半ばに達したところで満洲軍がにわかに至り、これを幾重にも囲んだが、城の守りが堅固であったため、攻めても克てなかった。遼東巡撫の邱嘉禾(「邱禾嘉」の誤りか)と総兵の呉襄・宋偉らが軍を連ねて援けに赴いた。満洲主はその陣列が厳整なのを見て、迎え撃とうとせず、軍を引いて還った。連合軍はそこでその夜に大凌河へ走り、長山口に陣した。満洲主が軍を督して進撃したが、偉らは陣を堅くして動かなかった。襄はさらに火を放って満洲軍に逼ったが、にわかに風向きが逆になり、襄の営を焼き、襄は遁走した。偉もまた力尽きて退いた。
  • 冬十月、大凌河の守将の祖大寿が城をあげて満洲に降った。大寿は三か月堅守したが、城中の糧が尽き、人馬を殺して食べた。満洲主はしばしば書をもってこれを招き、ここに至って降った。まもなくこれを放って錦州に帰らせ、内応することを約させ、その城を毀して還った。

西暦1632年 思宗崇禎五年

  • 夏六月、満洲の兵が察哈爾を攻め、その部落数万を降した。これより先、満洲主は数年来、遼本(「遼東」の誤りか)に兵を用いたが、いずれも功がなく、察哈爾が長城の北を遮っていて、その兵が腹地に深く入れないようにしていると考え、ここに至って兵を移してこれを攻めたのである。部長の林丹汗は衆を率いて西へ遁れ、その部落はみな降った。

西暦1634年 思宗崇禎七年

  • 夏五月、満洲主が兵を率いて遼河を渡った。
  • 秋七月、満洲の兵は尚方堡に入り、掠奪をほしいままにして宣府右衛に至り、兵を分けて龍門・新城・懐仁・井砰・小西城・赤城を攻めたが、いずれも克てなかった。
  • 八月、満洲の兵が大同を囲んだが、これもまた克てず、攻城の兵の死傷が相次いだ。
  • 閏八月、満洲主は軍を還し、尚方堡の辺から二十里退いて営を駐めた。当時、察哈爾の部長の林丹汗はすでに死んでおり、その妻の竇土門福晋が国人を連れて降ってきて、満洲主はこれを納れて妃とした。
  • 九月、満洲主が都に還った。

西暦1635年 思宗崇禎八年

  • 夏四月、満洲の貝勒の多爾袞が察哈爾の部落を収めに行き、林丹汗の子の額哲が残った衆を率い、中国歴代の伝国の璽を奉じて降った。

西暦1636年 思宗崇禎九年

  • 夏五月、満洲主が国号を改めて清と言い、崇徳と改元し、群臣はともに尊号を奉って寛温仁聖皇帝と称した。このとき隣邦は一致してこれを承認したが、ひとり朝鮮主に承服しない言があった。そこで往ってこれを侵そうとしたが、中国の兵に牽制されることを恐れ、先に中国に入って擾すことを議した。
  • 夏六月、清主は英郡王の阿済格らに命じ、道を分けて辺境に入らせ、沿道で大いに掠奪し、冷口関から出て帰った。
  • 冬十二月、清主は自ら朝鮮を征し、兵を分けて遼河および海口に屯させて中国に備え、軍は沙河堡に宿営し、睿郡王の多爾袞らに命じて兵を統べて寛甸から長山口に入らせ、豫郡王の多鐸らが軍を率いて密かに朝鮮の国都を襲った。朝鮮主は南漢山に退いて守り、清軍がこれを囲んだ。

西暦1637年 思宗崇禎十年

  • 春正月、清主は漢江を渡り、北岸に営した。はじめ朝鮮は事態が急となり、中国に援けを乞い、あわせて国中の諸道に勤王の兵を檄した。中国は当時ちょうど流寇に苦しんでおり、藩属を顧みる暇がなく、登萊総兵の陳洪範が舟師を率いてこれを救おうとし(底本は「求之」に作る)、海に出たが、風に阻まれて渡れず、その国中の諸道の兵もまた相次いで潰走し、前進しようとしなかった。多爾痛(「多爾袞」の誤りか)は小舟を造ることを厳しく督励し、進んで江華島を撃ち、朝鮮の王妃・王子および宗室・大臣の家族を捕らえた。清主は二度にわたって書をもって降を諭し、朝鮮主は中国から与えられていた勅と印を献じ、群臣を率いて歩いて出降し、歳時の貢献と表を奉っての祝賀とを約した。約が成ると、その君臣の家族を返し、その二人の王子を留めて質とした。

西暦1638年 思宗崇禎十一年

  • 秋九月、清の多爾袞および戍王の岳託らが道を分けて塞に入り、薊遼総督の呉阿衡が敗れて死に、総監の高起潜が牛闌山で迎え戦ったが、これもまた敗れた。清軍はそのまま盧溝橋から良郷へ走り、畿輔の城四十八を下し、詔して盧象昇に督師させ迎え拒がせた。象昇は戦うことを主張し、兵部尚書の楊嗣昌は和を主張し、おのおの一議を持して譲らなかった。清軍はすでに三路に分かれて深く入り、一路は淶水から易州を攻め、一路は新城から雄県を攻め、一路は定興から安粛を攻めた。象昇は涿州から進んで保定に駐し、諸将に道を分けて出て防がせ、慶都で大いに戦い、まだ敗れてはいなかったが、一時に諸城が風を望んで守りを失った。嗣昌はにわかに奏して、象昇の尚書の肩書を落とし、なお侍郎の身分のまま督師させた。象昇は嗣昌に抑えつけられ、兵は少なく兵糧も乏しく、進んで鉅鹿に至ったが、起潜は五十里を隔てた所にいて、援けを乞うても応じなかった。象昇の兵はわずか五千で、嵩水橋まで行ったところで清軍に遭い、幾重にも囲まれた。象昇は奮闘し、身に四本の矢と三か所の刃傷を受け、自らの手で数十人を打ち殺してようやく死に、一軍はことごとく亡んだ。起潜は敗報を聞き、衆を率いて遁れた。
  • これより先、帝がある日六部を召して応対させたとき、楊嗣昌は「城に満ち野に満つるまで人を殺した、よく戦う者は最も重い刑に服する」などと言った。帝は厲しい声でこれを責めて言った、「今は天下が一統されており(底本は「今天天下一統」に作る。「今天下一統」の誤りか)、孟子の時の列国が兵争していた時とは異なる。今は一つの属夷の小醜にも遇わず(「不過」の誤りか。今はただ一つの属夷の小醜にすぎない、の意)、たとい大司馬の九伐の威を伸ばすことができないとしても、どうしてこのような言をなすのか。」あわせて今後は二度と言うなと戒めた。のちに星の変異を論じたとき、嗣昌はまた漢の武帝の疑塞、元和の宣慰、太平興国の連年の敗戦などの故事を引いた。給事中の何楷が奏して反駁したが、帝はかえって枢臣のことは深く追及するに及ばないと言った。その君の信任を独占していたことはこのとおりであった。

西暦1639年 思宗崇禎十二年

  • 春正月、清軍が徳州から河を渡り、山東の州県十六を続けざまに陥れた。山東の重兵はすでに嗣昌の檄によって徳州に移されており、済南は空虚であった。清軍が至ると、徳王の由樞は城が潰えて捕らえられた。
  • 三月、清主は降将の恭順王・孔有徳らに命じて砲をもって松山を囲み攻めさせたが、副将の金国鳳が死守して下らず、有徳らはさらに地に穴を掘って城を攻めることを請うたが、これもまた功がなく、囲みはついに解けた。

西暦1640年 思宗崇禎十三年

  • 春三月、清軍が兵を分けて錦州・寧遠を掠めた。清主は、寧遠・錦州の諸城を破らなければ山海関を得ることができず、山海関を下さなければ中原を図ることができないと知っていた。この年、諸王・貝勒らに命じて、さらに奮って松山・杏山・寧遠・錦州を攻略しに行かせた。しかし年を越えて相持したまま、成功はなかった。

西暦1641年 思宗崇禎十四年

  • 春三月、清の兵が錦州を囲み、城中の蒙古兵が内応して、その外城を破った。
  • 夏五月、遼薊総督の洪承疇らが八人の総兵の軍十三万を率いて援けに赴き、寧遠と錦州の間に屯した。城を守る祖大寿は兵卒を城中から脱出させて言葉を伝えさせ、軍営が敵に遇っても軽々しく戦うなと言い、承疇は慎重に構えて動かなかったが、朝廷の旨が戦いを促したので、ついに兵を進め、松山城の北に陣した。
  • 秋八月、清主が自ら兵を統べて至り、松山を取り巻いて営し、阿済格らを遣わしてその筆架山の貯えを奪い取らせ、呉三桂ら六人の総兵が同時に遁げ去り、途中で伏兵に迎え撃たれ、死傷は数えきれず、海に踏み込んで死んだ者がとりわけ多かった。承疇らは松山に入って固く守った。

西暦1642年 思宗崇禎十五年

  • 春二月、松山の副将の夏承徳が子の夏舒を遣わし、清兵が夜に乗じて梯子を立てて城に登るよう約した。清軍は夜に至り、そのままこれを抜き、総督の洪承疇は擒えられ、巡撫の邱民仰・総兵の曹変蛟・王廷臣はみなこれに殉じて死んだ。錦州城内もまた糧が乏しかったので、祖大寿が衆を率いて出降した。杏山・塔山もみな下った。
  • 夏五月、清主は洪承疇を俘として盛京に入れ、承疇が降ると、清主は喜び、近侍に言った、「私は中原を取ろうとしているが、盲人が道を知らないようなものであった。今、承疇を得たのは、水母に蝦がついているようなものだ。」当時、北京では承疇が屈せずに死んだと伝えられ、帝は驚き悼むことが甚だしく、詔して都城に壇を設け、祭を十六壇賜り、あわせて都城の外に祠を建てるよう命じた。承疇と民仰とを並べて列した。自ら臨んで莫(「奠」の誤りか。供物を捧げて祭ること)を行おうとし、ちょうど第九の壇を祭ったところで、承疇が生きて降ったという知らせが至ったので、そこで取りやめた。
  • 冬十月、兵部尚書の陳新甲を殺した。新甲は武挙の出身で兵部の官を歴任し、楊嗣昌が自分に代わる者として薦めたのは、和議の局面のための布石としてであった。帝もまた和議によって目前の急を緩めようとし、そこで馬紹愉らを建州に遣わしたが、清は謝意を表さず、かえって無礼な書を寄こしたので、帝は大いに悔恨した。のちに新甲が再びその説を述べ、重ねて紹愉を遣わして行かせたが、義州に至ったところで清主が紹愉を殺そうとし、紹愉は遁れ帰り、新甲はこれによって罪を得た。
  • 十一月、清の兵が辺境に至り、長城を毀して入り、薊・遼から道を分けて下り、まっすぐ袞州に至り、あわせて八十八城を攻め落とした。

西暦1643年 思宗崇禎十六年

  • 夏四月、清軍が山東から近畿に還り至り、至る所で屠り掠めて何もかも奪い尽くし、京師は大いに震えた。大学士の周廷儒が自ら督師を願い出たが、出るに及んで通州に宿営し、進もうとしなかった。清の兵が懐柔に至ると、薊遼総督の趙光忭が諸軍を集めて螺山に迎え戦ったが、みな潰えた。総兵の張登科・和応薦は敗れて没した。廷儒は清の兵が還るのを偵知すると、そこで敵兵が退いたと言上し、兵部に下して諸将の功罪を議するよう請い、そのまま北京に帰った。
  • 秋八月、清主の皇太極が死んだ。はじめ、清の宸妃が十四年九月に病没したとき、清主はちょうど軍を督して松山を攻めていたが、訃報を聞き、馳せて京城に返り、関雎宮に居り、朝夕に悲しみ慟き、ついに𦚥疾(底本の字のまま)を患い、言葉は混乱して脈絡がなくなり、この年死んだ。年は五十八(底本は「看五十有八」に作る)、承徳県の隆業山に葬り、昭陵と号した。子の福臨が立ち、これが世祖である。翌年を順治元年とし、ちょうど兵を出して中国を侵すことを議していた。折しも流寇が長駆して北京に入り、呉三桂の援軍を乞う書が届いたので、機に乗じて中夏に入り、明に取って代わったのである。
原文(底本)
明熹宗天啟七年,春正月,滿洲遣使遺寧遠巡撫袁崇煥書議和。先是,崇煥總統關內外諸軍,聞滿洲新喪,欲乘間修復錦州大小淩河諸城,為持久計,遣使偕喇嘛僧一人至弔,因以覘虛實,滿洲主皇太極遣使報之。至是,使者再至,要求償金與歲幣,數各钜萬。崇煥覆書,言書中有不順語,難以奏聞。時滿洲兵已入朝鮮,先後陷義州、定州、安州、平壤等處,盡屠其軍。皮島都司毛文龍屯守鐵山,亦敗走。滿洲兵渡大同江,次中和,遣使至書朝鮮主,詰責備至。 二月,滿洲進陷朝鮮之黃州,朝鮮主李倧出奔江華島。滿洲兵至瑞興,朝鮮主上書請成,使者往返協議,以三月和成,約為兄弟之國。貝勒阿敏縱兵大掠三日而還。 夏四月,滿洲再遣使遺書袁崇煥及喇嘛,請以遼東歸滿洲,凡遼西地方所有城堡,明人不得加修葺,竝言以後兩國通問書式,明皇帝不得與天並列,明諸臣不得與滿洲主竝列,各當遞降一格。崇煥還書,言滿洲當將已經佔領之遼東地方及俘虜,酌議還付,竝撤回朝鮮鎮守兵,以復不得再進兵朝鮮。事聞,朝旨咎其非計,數相戒諭;加以雙方意見不合,和議卒無成。 五月,滿洲大舉進攻遼西,時大淩河城工未竣,總兵趙率教守錦州,圍之不克,移軍簿寧遠。袁崇煥令諸將背城據壕,以車為營,環列槍礮。滿洲軍陽退以誘之,不為動,揮眾進擊,大敗,士卒死傷無算。回軍攻錦州,又以壕廣不得進,毀大小淩河城而還。 秋七月,魏忠賢使人劾袁崇煥不救錦州罪,崇煥乞休去,以王之臣代之。 八月,熹宗崩,思宗立。 冬十一月,魏忠賢伏誅。

  思宗崇禎元年,夏四月,復起袁崇煥督師薊遼。

  二年,夏六月,袁崇煥殺皮島總兵毛文龍。崇煥自寧遠一捷,頗自矜,謂滿洲人已破膽,可望獻地講和。及再起召封,遂言五年可滅滿洲。慮文龍識其詐,深忌之,至是以閱兵為名,泛海抵雙龍島,以計誘文龍,誣以十二罪,殺之。自是島弁離心,不為用。其後孔有德、耿仲明、尚可喜等相繼叛去,全島盡屬於滿洲矣。 冬十月,滿洲主帥師入邊,以喀喇沁台吉布爾噶為嚮導。先是滿洲偵知遼西有備,故取道蒙古進兵。 十一月,滿洲兵由喜峰口毀邊牆入,圍遵化。城陷,巡撫王元雅自殌死。趙率教聞變赴援,亦戰歿。滿洲兵遂趨薊州,越三河,略順義,進逼北京。總兵滿桂帥師相拒於德勝門外,值袁崇煥自山海關入援,督諸路勤王軍,營廣渠門外。滿洲主素畏崇煥,用反間計縱所獲太監歸言於朝,謂袁崇煥與滿洲有密約。時都人士驟遭兵,怨謗紛起,指崇煥擁兵坐視。朝士亦因前通和議,誣其召兵脅和,將為城下之盟。思宗亦以崇煥擅殺文龍,疑其有異志,下之獄。 十二月,滿洲分兵陷固安良鄉,回軍至盧溝橋,破副將申甫營,進次永定門。總兵滿桂迎拒,戰死。尋遣使持議和書,置德勝、安定兩城門外,皆不報,遂移軍越通州而來。

  三年,春正月,滿洲攻陷永平,回軍襲兵部侍郎劉之綸兵於遵化城外,盡殲其眾,之綸戰歿。之綸自製木,為西洋大小礮,用以擊滿洲兵,死傷甚眾。後其礮裂,復奮鬬十二小時,全軍盡沒,之綸亦被創死。滿洲兵拔遷安、滐州,分兵向山海關。守將官惟賢力戰禦之,還攻撫寧、昌黎,皆不克,復遣書議和,不報。 二月,滿洲撤兵還瀋陽。 夏五月,華州監軍道張春等攻復滐州,滿洲貝勒阿敏,時擁皇兵屯永平,見軍勢甚,不敢赴援,屠城中官民,偕遷安及遵化守將,素城遁,春等追擊之,襲殺甚眾。關內四城皆復。

  四年,秋九月,滿洲軍圍大淩河。初,督師孫承宗恢復關內,更理關外舊疆。以七月興工,築大淩河城,畫夜崔督。工程甫半,而滿洲軍驟至,圍之數周,以城守堅固,攻之不克。遼東巡撫邱嘉禾與總兵吳襄、宋偉等聯軍赴援。滿洲主見其列陣嚴整,不敢迎擊,引軍還。聯軍於是夜趨大淩河,陣長山口。滿洲主督軍進擊,偉等堅陣不動。襄復縱火逼滿洲軍,忽反風,毀襄營,襄遁走。偉亦以力盡引退。 冬十月,大淩河守將祖大壽以城降滿洲。大壽堅守三月,城中糧盡,殺人馬以食。滿洲主屢以書招之,至是降。尋縱之歸錦州,約為內應,毀其城而還。

  五年,夏六月,滿洲兵攻察哈爾,降其部落數萬。先是,滿洲主累歲用兵遼本,皆無功,則以察哈爾阻隔長城之北,致其兵不能深入腹地,至是移兵攻之。部長林丹汗帥眾西遁,其部落皆降。

  七年,夏五月,滿洲主將兵渡遼河。 秋七月,滿洲兵入尚方堡,縱掠至宣府右衛,分兵攻龍門、新城、懷仁、井砰、小西城、赤城,皆不克。 八月,滿洲兵圍大同,亦不克,攻城兵死傷相屬。 閏八月,滿洲主班師,退出尚方堡邊二十里駐營,時察哈爾部長林丹汗已殂,其妻竇土門福晉攜國人來降,滿洲主納為妃。 九月,滿洲主還都。

  八年,夏四月,滿洲貝勒多爾袞往收察哈爾部落,林丹汗子額哲帥餘眾,奉中國厯代傳國璽降。

  九年,夏五月,滿洲主更國號曰清,改元崇德,群臣共上尊號曰寬溫仁聖皇帝,時臨邦一致承認,獨朝鮮主有違言,(時朝鮮國書竝無不順語,譒譯官有意挑釁,故將原文譒誤,激國主怒致決裂。)將往侵之,恐為中國兵所牽制,議先入擾。 夏六月,清主命英郡王阿濟格等分道入邊,沿途大掠,出冷口關而歸。 冬十二月,清主親征朝鮮,分兵屯遼河及海口以防中國,師次沙河堡,命睿郡王多爾袞等統兵自寬甸入長山口,豫郡王多鐸等帥師潛襲朝鮮之國都。朝鮮主退保南漢山,清軍圍之。

  十年,春正月,清主渡漢江,營於北岸。初朝鮮事急,乞援於中國,竝檄國中諸道勤王兵。中國時方苦流寇,不暇顧藩屬,登萊總兵陳洪範率舟師求之,出海,阻風,不得渡,其國中諸道兵亦相繼奔潰,不敢前。多爾痛督造小舟,進擊江華島,獲朝鮮王妃、王子及宗室大臣家口。清主兩次以書諭降,朝鮮主獻中國所給敕印,帥群臣步行出降,約歲時貢獻表賀。約成,乃還其君臣家屬,留其二王子為質。

  十一年,秋九月,清多爾袞及戍王岳託等分道入塞,薊遼總督吳阿衡敗死,總監高起潛迎戰於牛阑山,亦败。清军遂由盧溝橋趨良鄉,下畿輔城四十八,詔盧象昇督師迎拒。象昇主戰,兵部尚書楊嗣昌主和,各持一議,不相下。清軍已分三路深入,一由淶水攻易州,一由新城攻雄縣,一由定興攻安肅。象昇自涿州進駐保定,令諸將分道出禦,大戰慶都,猶未敗衂,而一時列城望風失守。嗣昌遽奏,落象昇尚書銜,著仍以侍郎督師。象昇為嗣昌所扼,兵單餉乏,進至钜鹿,起潛相距五十里,乞援不應。象昇兵僅五千,行至嵩水橋遇清軍,圍之數壘。象昇奮鬬,身中四矢三刃,手格殺數十人乃死,一軍盡亡。起潛聞敗,帥眾遁。先是,帝一日召對六部,楊嗣昌言有盈城、盈野善戰者服上刑等語,帝厲聲責之曰:「今天天下一統,與孟子列國兵爭時不同。今不遇一屬夷小醜,縱不能伸大司馬九伐之威,奈何為是言耶?」竝戒以今後勿復言,後論星變。嗣昌又引漢武疑塞、元和宣慰、太平興國連年兵敗諸故事。給事中何楷奏駁,而帝反謂樞臣不必深求,其得君之專如此!

  十二年,春正月,清軍自德州渡河,連陷山東州縣十六。山東重兵已為嗣昌檄移德州,濟南空虛。清軍至,德王由樞以城潰被執。 三月,清主命降將恭順王、孔有德等以礮圍攻松山,副將金國鳳死守不下,有德等復請穴地攻城,亦無功,圍遂解。

  十三年,春三月,清軍分略錦州、寧遠。清主知寧、錦諸城不破,不能得山海關,山海關不下,不能圖中原。是年命諸王貝勒等更奮往略松、杏、寧、錦。而相持曠歲,未有成功。

  十四年,春三月,清兵圍錦州,城中蒙古兵內應,破其外城。 夏五月,遼薊總督洪承疇等帥八總兵師十三萬赴援,屯寧遠、錦州間,城守祖大壽遣卒自城中逸出傳語,以軍營遇敵,毋輕戰,承疇持重不發,而朝旨趨戰,遂進兵,陣於松山城之北。 秋八月,清主親統兵至,環松山而營,遣阿濟格等奪獲其筆架山之積聚,吳三桂等六總兵同時遁去,中途為伏兵邀擊,死傷無算,蹈海死者尤眾,承疇等入松山固守

  十五年,春二月,松山副將夏承德遣子夏舒,約清兵乘夜豎梯登城。清軍夜至,遂拔之,總督洪承疇被擒,巡撫邱民仰、總兵曹變蛟、王廷臣皆死之。錦州城內亦因糧乏,祖大壽帥眾出降。杏山、塔山皆下。 夏五月,清主俘洪承疇入盛京,承疇降,清主喜,謂近侍曰:「吾欲取中原,然如瞽者之不識途徑。今得承疇,猶水母之有蝦也!」时北京傳承疇不屈死,帝驚悼甚,詔設壇都城,賜祭十六,竝命建祠都城外。承疇、民仰竝列。將親臨莫,方祭第九壇。而承疇生降之信至,乃止。 冬十月,殺兵部尚書陳新甲。新甲由武舉厯任本部,楊嗣昌薦以自代,為欵局地也,帝亦欲籍欵以紓目前,遂遣馬紹愉等至建州,清不表謝,而復得嫚書,帝大悔恨。後新甲復申其說,再遣紹愉行,方至義州,清主欲殺紹愉,紹愉遁歸,新甲由是得罪。 十一月,清兵至邊,毀長城而入,自薊遼分道而下,直抵袞州,凡攻克八十八城。

  十六年,夏四月,清軍自山東還至近畿,所至屠掠一空,京師大震。大學士周廷儒自請督師,及出,次通州,不敢進。清兵至懷柔,薊遼總督趙光忭會諸軍邀戰於螺山,皆潰。總兵張登科、和應薦敗歿。廷儒偵清兵還,乃言兵退,請下兵部議諸將功罪,遂反北京。 秋八月,清主皇太極殂。初,清宸妃於十四年九月病卒,時清主方督軍攻松山,聞訃,馳返京城,居關睢宮,朝夕悲慟,遂患𦚥疾,語言昏譫無緒,是年殂,看五十有八,葬承德縣之隆業山,號昭陵。子福臨立,是為世祖,以明年為順治元年,方議出兵侵中國。值流寇長驅入北京,吳三桂乞師書至,遂乘機入中夏,取明而代之。

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