清史紀事本末燕京、賊に陥る(燕京陥賊)

要約

明の思宗崇禎十七年正月朔、帝が早く朝に臨むと鐘鼓を聞かぬ群臣は遅れて至り、中門を通れず文武が入れ違って礼を整えた。乾方の大風は暴兵が城を破る兆とされ、乾清宮の裏に狐の足跡があり、鳳陽の地震で皇陵付近の家屋と人民の倒壊は甚だしく、星が月中に入るのは国破れ君亡ぶ兆とされた。

流賊の李自成が西安で王を称した。米脂の人で幼名は黄来児、崇禎二年に楊肇基の営に投じたが、金県で県令と参将の王国を殺して反し、高迎祥に従って闖将と号した。七年、陳奇瑜に車箱峡で囲まれると顧君恩の策で賄して招撫を請い、険を出るや再び叛き、七州県を陥れて十余年横行した。国号を順、永昌と改元し、名を自晟と改め、暦を造り偽官を置き科目を設け、牛金星の草した檄には「君はそれほど暗愚なのではないが、孤立して覆い蔽われることが実に多い」とあった。

李明睿は親征を請い、密かに南遷のみが急を緩めると説き、帝は久しくその意があるが諸臣が従わぬと嘆じた。曾応遴は紳士富者に財を出させよと請うたが返答はなかった。路振飛は金声桓らを徐州・泗州・清口に配して数万の精鋭を得た。李建泰は私財で兵を募ると称して督師し、帝は郊外で餞して「先生のこのたびの出征は、朕が自ら行くのと同じである」と言い、湯若望を随行させたが、建泰は涿州で家が破られたと聞いて気沮み、畿内に滞った。南京でも地震があった。

張献忠は八大王と号し、武昌で西王と称し大順と建元し、荊州から蜀に入って夔州を陥れた。秦良玉の十三隘を守る請けを陳士奇が用いず、賊は巫山の梅子坡から長駆し、良玉は敗れ、献忠は西川を併せた。二月朔、帝は三月望日を限るという悖逆な賊の書を得て、朝廷は色を失った。自成は汾州・陽城・懐慶・太原を陥れ、王永吉らの寧遠を撤し呉三桂を入衛させる請けも行われず、帝は罪己の詔を下した。周遇吉は代州で十余日戦って賊一万余を殺し、退いて寧武を守った。内官が諸鎮の監軍に遣わされ張縉彦の諫めは容れられず、大雪に凍死する者が出た。謝嘉福は巡撫の徐標を殺して邱茂華と降り、彰徳も陥ちた。

天下に勤王を徴した。李邦華は太子と諸王を旧都に置き天下の望をつなげと請い、会議は決せず、帝は国君は社稷に死ぬと言ったが、左懋第に南中の舟師を調べさせ、魏藻徳・方貢岳を天津・済寧に遣わすなど、南遷の下地は密旨で許していた。三月朔、昌平に兵変があり、京師は戒厳し、張鑻は太子の南京監国を請うた。寧武が陥ちると、遇吉は奮撃し賊営を襲って二十里退かせたが、捕らえられて罵って死に、妻の劉氏は婦女を率いて屋根から射て焼け死に、胡婦二十人は強弩で数百人を斃して火に赴き、王孕懋も自殺した。自成は戦死七万を数えて陝西に還ろうとしたが、姜瓖・王承胤の降表が届いて東へ長駆した。

帝は百官を召したが奏対は常談ばかりで、南遷を勧める者に「諸卿は平日もっぱら門戸を営み、今日は死守するのみ」と怒った。餉は出どころがなく、賊が金で誘って士卒は離散した。曹化淳が忠賢がいたならここまで至らなかったと言うと、帝は誤って信じて忠賢の屍を葬らせた。唐通と杜之秩が降って居庸が陥ち、昌平も陥ちて李守鑅が死に、賊は十二陵を焼いた。李国楨の三万は沙河の砲声に潰え、賊は京師を囲んだ。帝は御案に、文武は人ごとに殺すべきだが百姓は殺すなと書いた。内侍が守城を専らにし、遊騎だと報じて備えず、賀珍らは力戦して死に、外城は化淳が献じて陥ちた。帝は太子と定王・永王を周奎・田弘遇の邸に送らせ、すでに縊れた皇后のほか袁妃と妃嬪数人を斬り、両公主を斬りつけた。夜明けがた内城も陥ち、万寿山で王承恩と縊れた。遺詔には諸臣が国を誤った、冠冕を去り賊の切り裂くに任せ、百姓を傷つけるなとあった。

年表

明思宗崇禎十七年(1644年)の一年、正月の朝班の乱れ・大風・鳳陽の地震といった凶兆から説き起こし、李自成が西安で王を称して国号を順、永昌と改元し、東進して北京を陥れるまでを月日を追って記す。李明睿・李邦華・張鑻らの南遷や太子監国の献策は諸臣の議がまとまらず実行されず、大学士李建泰の督師も涿州で沮喪して進まなかった。張献忠は夔州を陥れて西川を併せ、李自成は汾州・太原・彰徳を経て寧武関で周遇吉の死守に遭うが、姜瓖・王承胤の降表を得て長駆する。唐通・杜之秩が居庸を献じ、京営の兵は新橋で潰え、曹化淳が外城を献じて内城も陥ち、帝は王承恩とともに万寿山で縊れた。

年表(1件)

現代語訳全文

西暦1644年 明思宗崇禎十七年

  • 春正月朔、帝が朝に臨むと、朝班が乱れた。旧例では、文臣の朝班は東にあり、武臣の朝班は西にあった。この日、帝が殿に出御したところ、朝臣で参内した者はわずかに錦衣衛が一人で、百官は鐘鼓の声を聞いておらず、車駕が出たことを知りませんと奏した。けだしこの日、帝が朝に臨むのが早すぎたのである。帝は鐘を鳴らすよう命じたが、久しくしてもなお参内しないので、そこで太廟に謁してのちに朝を受けると諭した。ところが司礼監が鑾輿がまだ用意できていないと奏したので、朝を受けてのちに廟を拝すると諭した。再び座に登ると、群臣はようやくよろめきながら至ったが、帝が注目して見ているので、中門を通る勇気がなく、そこで文官は武班に入ってから東班に転じ、武官は文班に入ってから西班に転じ、無理に礼を整えて退いた。
  • 大風が吹き土煙が立ちこめた。当時の占者は、風が乾の方角から起こるのは、暴兵が城を破ることを主る、と言った。この日、乾清宮の裏手の廡に狐の足跡があった。
  • 鳳陽で地震があり、皇陵付近の家屋と人民は、倒壊がとりわけ甚だしかった。
  • 流賊の李自成が西安で僭して王を称した。自成は陝西米脂の人で、幼い時の名を黄来児、長じてからの名を鴻基といった。同じ里の劉国龍とともに酒を飲んで志を語ったとき、自成は大言して「大丈夫たる者は天下を横行すべきだ」と言った。自成は自立すると、すぐに名を自成と改め、鴻基と号したのである。崇禎二年二月、兵を徴して勤王させ、檄が甘州に至ると、自成は総兵の楊肇基の営に身を投じて隊長となり、参将の王国の麾下に属した。国が調発を奉じて金県を通ったとき、兵が兵糧を求めて騒ぎ、自成は県令および国を殺し、そのまま反した。当時、安塞の人の高迎祥が飢民を糾合して乱をなし、闖王と号していた。自成とは甥と舅の間柄であった。往ってこれに従い、闖将と号し、河州・金県・甘州の間を転々と掠めた。官兵がこれを洮河に追い迫ると、自成はその衆を率いて流れを渉って渡り、まず再び鄖陽・竹山・竹谿・房県を寇し(底本は「先復」に作る。「復」は衍字か)、紫陽へ走り、漢中に入った。七年六月、三辺総督の陳奇瑜(底本は「陝督」に作る)がこれを興安州の車箱峡に囲んだ。ちょうど大雨が二か月続き、賊の中では馬の飼葉が乏しく、倒れ死ぬものが半ばを過ぎた。その仲間の顧君恩の策に従い、奇瑜の左右の者に重い賄賂を贈って招撫を請い、奇瑜はこれを受け入れた。自成は険しい地から出ると、すぐに監視の官を殺し、再び叛き、麟遊・永寿・霊台・崇信・白水・涇州・扶風の七州県を続けざまに陥れ、こうして海内を横行することさらに十余年、ここに至って西安で王を称し、僭って国号を順と言い、永昌と改元した。名を自晟と改め、甲申の暦を造り、偽りの官を置き、科目を設けて士を試験した。偽りの檄文を草し、遠近に伝え広めた。そこには「君はそれほど暗愚なのではないが、孤立して覆い蔽われることが実に多い。臣はみな私を行い、党を組んで公忠なる者はきわめて少ない」とあり、また「獄の囚人は累々として、士には礼に報いる心が無く、徴収は重ね重ねで、民には『ともに亡びよう』という痛みがある」とあった。その弘文館学士である盧氏の挙人、牛金星が原稿を書いたものである。
  • 左中允の李明睿が親征を請うたが(底本は「政請親征」に作る)、実行されなかった。睿は南昌の人で、憲臣の李邦華・督臣の呂大器の特別の推薦により召されて対策を述べ、まず山東に行幸して藩邸に駐蹕し、そのまま鳳陽を行在とし、斉・豫の軍を招き寄せ、二路から挟んで進み、西征して賊を破るべきだと言った。また密かに、賊の気勢は甚だ悪く、ただ南遷だけが目前の急を緩められる、と陳べた。帝は嘆じて「朕には久しくこの意があるが、諸臣が従わないのをどうしようか」と言い、あわせて決して漏らすなと戒めた。
  • 工科の曾応遴が、紳士や富者に財を出させて賑済させるよう請うたが、返答はなかった。応遴は上疏して言った、「紳士や富者は租を衣とし税を食とし、安坐して百姓の骨髄を吸っている。平日は奇貨と余剰を操って民を愚弄し、独りその利を抱えこんでいる。事に臨んで貧民に力を出させて自分たちを護らせようとしても、そんな道理があろうか。」また言った、「秦藩は富が天下に冠たるもので、賊が西安を破れば、府庫の財は千百万を下るまい。もし平日に民から取ることを少なくし、事あるときにこれを出して士を犒っていたなら、必ずしもここまでには至らなかったであろう。」
  • 鳳陽巡撫の路振飛が兵を遣わして河を防がせた。振飛は広平の人。当時、山西の逃亡兵が南下し、江北は震え恐れた。振飛は副将の金声桓を遣わして徐州を守らせ、周任鳳に泗州を守らせ、周爾敬に清口を守らせた。その部下はみな両淮の間の精鋭の兵で、およそ数万人を得た。
  • 星が月の中に入った。当時の占者は、星が月中に入るのは、国が破れ君が亡ぶことを主る、と言った。
  • 大学士の李建泰を遣わして出師させた。建泰は曲沃の人で、性格は慷慨、重い名声を負い、家は巨富であり、かつて財を差し出して軍を助けようとしていた。まだ上奏しないうちに賊はすでに河を渡り、帝は朝に臨んで嘆じた。建泰は言った、「主上のご憂慮がこのようであるのに、臣がどうして駑鈍な力を尽くさずにおられましょうか。願わくは太原へ馳せ至り、私財を出し、決死の士を買い、郷里の者を率い唱えれば、十万の衆を集められましょう。」帝は大いに喜び、ただちに督師して西へ発つよう命じた。出師の日、帝は古の推轂の礼に倣い、自ら郊外で餞し、「先生のこのたびの出征は、朕が自ら行くのと同じである」と言った。またねんごろに、真に討つべきは討ち直ちに撫すべきは撫せよと励まし、あわせて欽天監のドイツ人の湯若望を随行させて火器を修めさせた。進士の程源は随員の職方司主事の凌駟に私かに語って言った、「このたびの行軍は、日を兼ねて太原に到り、三晋を収拾すれば、なお救うことができる。三晋が守りを失えば、もはやどうしようもない。」当時、建泰は家財を恃んで国難を救うことを望んでいたが、涿州に至ったころ、山西の烽火が急であり、その家もまた破られたと聞いて、気はたちまち沮み、畿内でぐずぐずして進もうとしなかった。
  • 南京で地震があった。
  • 流賊の張献忠が菱州(「夔州」の誤りか)を陥れた。献忠は膚施の人。初め従軍したが、淫らな掠奪を犯して死罪に当たり、関中に逃れて盗となった。崇禎三年、王嘉胤が乱を唱えて府谷に拠ると、献忠は米脂の十八寨をもってこれに応じ、賊の中で八大王と号された。かつて督師の洪承疇のもとで招撫を受けたが、年を越えて再び叛き、官兵がこれを討ったが、撃たれるたびにまた起こった。衆を率いて秦中を出て、豫・皖の名城・大藩数十を蹂躙し、ついで長江沿いに上り、武昌を得ると、僭って西王と号し、大順と建元し、武昌を天授府と改めた。ここに至って、荊州から蜀へ向かい、夔州を陥れた。献忠が蜀中に入ることを謀ったとき、石砫土司の女将の秦良玉は全蜀の形勢を図り、これを巡撫(底本は「撫城」に作る)の陳士奇に上って、兵を増やして十三の隘を守るよう請うた。士奇はこれを用いることができず、さらにこれを按臣の劉勃之に上った。勃之はこれを許したが、発すべき兵がなかった。賊は巫山の梅子坡に至り、隘口に守る兵がないのを見て、そのまま長駆して入った。良玉は馳せて援けたが、兵が少なく敗れて帰り、こうして献忠はゆうゆうと近隣の各郡県を収め、西川の土地を併せ有するに至ったのである。
  • 二月朔、帝が朝に臨んで賊の書を得た。この日、朝に出御し、偽りの封書を得たが、言葉は甚だ悖逆で、末尾に三月望日を限りとして順天の会同館に至り斬繳せよとあり(底本の字のまま)、朝廷こぞって色を失った。
  • 李自成が汾州・陽城・懐慶・太原を陥れた。
  • 薊遼総督の王永吉、巡撫の楊鶚、吏科給事中の呉麟徴が、寧遠を撤して呉三桂の兵を都の守りに入れるよう請うたが、実行されなかった。当時、廷臣の主張は人ごとに異なり、そのため阻まれて議されなかった。
  • 帝が詔を下して自らを罪した。当時、李自成は続けざまに黎城・臨晋を陥れ、帝はそこで罪己の詔を下した。
  • 李自成が忻州を陥れ、進んで寧武関に迫り、総兵の周遇吉が力を尽くして拒み守った。遇吉は錦州衛の人。自成は忻州を得ると、進んで代州を攻めたが、遇吉は城に拠って固く守り、十余日続けて戦い、賊一万余を殺した。兵は少なく食糧は尽き、退いて寧武を守った。
  • 内官を遣わして各鎮を監督統制させた。帝は山西が全て陥ちたと聞き、内官の高起潜らに命じて、寧前・天津・通徳・臨津・真定・保定・宣府・順徳・彰徳・大名・広平・衛輝・懐慶・大同・薊鎮・中協・西協などの鎮に分かれ赴かせ、諸将を監督統制させた。本兵の張縉彦は上疏して言った、「糧餉は中断し、兵馬は欠け損じ、総督・巡撫は危うい任を担って防ごうとしております。もし一時に内臣十員を加えれば、物力が続かないばかりでなく、事の権限も分かれて掣肘し、かえって総督・巡撫に口実を与えることになりましょう。」受け入れられなかった。
  • 大雪が降り、凍え死ぬ者が出た。
  • 保定副将の謝嘉福が巡撫の徐標を殺し、真定府の知府である邱茂華を脅し、ともに叛いて、賊に降った。標は済寧の人で、保定巡撫の官にあり、当時は直定(「真定」の誤りか)を守っており、茂華が知府の事を掌っていた。賊の警報を聞いて、先に家人を城外へ出したところ、標は茂華を捕らえ、獄に下した。嘉福は標の麾下の中軍に属していたが、標が城に登るのをうかがってこれを殺し、茂華を獄から出し、ともに賊に降った。
  • 李自成が彰徳を陥れた。
  • 天下の兵を徴して勤王させ、群臣を召して対せしめた。これより先、左都御史の李邦華が上疏して言った、「国家が二つの京を並び建てたのは、もとより時巡に供え、留守に備えるためでした。皇上がたとい南遷なさらないとしても、太子や諸王を旧都に居らせ、天下の望みをつなぎ止めるべきです。」また言った、「臣は南の人ですので、必ず臣が遷都によって自らの便を図っていると言う者がありましょう。臣は皇上に従って鍵を執り、信任の臣と良将とを分け遣わして防ぎ守らせ、南方へ発たせることを願います。」疏はまだ裁可が下りず、諸臣に会議して戦守を議するよう命じたが、衆論は狐疑して、解決の道を知る者がなく、帝もまた国君は社稷に死ぬものだと言った。もっとも帝は南遷の議をもっともでないと思っていたわけではない。先に科臣の左懋第に命じて南中に往かせ舟師と兵馬の数を調べさせ、魏藻徳を河道の総督・屯練として天津に往かせ、方貢岳を漕運の総督・屯練として済寧に往かせ、天津撫臣の馮元颺が漕運を担う三百艘を直沽口で命を待たせるよう請うたのを、密旨で許可したのを見ればわかる。これらはみな南遷の下地であって、けだし自分の意から出すことを望まず、朝廷こぞって固く請うのを待ってから行おうとしたのである。
  • 三月朔、昌平で兵変があり、当時、官民の居室は焼かれ掠められて一空となった。
  • 京師が戒厳した。当時、宣府が急を告げ、京師は騒然として賊がまさに至ると言い伝えられ、帝は鎮朔将軍の王承胤に命じて賊の向かう所を偵察させ、布告して戒厳した。
  • 諸生の張鑻が、太子に南京で監国させるよう請うた。鑻は召見され、三つの策を述べ、まず太子に南京で監国させ、重臣を選んでこれを輔けさせるよう請うた。
  • 李自成が寧武関を陥れ、総兵官の周遇吉、兵備副使の王孕懋がこれに死んだ。自成は関の下に至り、五日で下さなければ皆殺しにすると大声で呼ばわった。遇吉は力を尽くして拒み守り、砲を放って賊一万余を殺した。たまたま火薬が尽きると、門を開いて奮撃し、さらに数千人を殺した。夜、壮士二百を率いて賊の営に入り、再びこれを大いに破り、賊はそのために二十里退き、十日余り相持したが、外の援けは絶望となり、そこで城を出て偽って降り、精兵を伏せてその驍将四人を殺した。部下に胡婦二十人がおり、みな騎射に精しく、きわめて悍いと称され、平日は裨将の俸に準じて粟を支給され、それぞれに壮健な男を一人ずつ配して夫婦のようにして陣に臨ませていた。よほどの急でなければ胡婦を使役しなかった。それゆえ賊を殺すこと並外れていたが、賊は力を尽くしてこれを攻め破った。遇吉は徒歩で跳び回って戦い、自らの手で数十人を打ち殺したが、矢が蝟の毛のように集まり、捕らえられ、賊を罵って死んだ。遇吉の妻の劉氏もまた驍勇で多能であり、婦女を率いて屋根に登って射て、矢は一つも外れなかった。賊が火を放ってこれを焼き、みな死んだ。胡婦二十人は室の中に伏し、その門を大きく開け放っておいた。賊が入ると、胡婦は強弩を発して数百人を斃し、矢が尽きると、みな火に赴いて死んだ。孕懋は霸州の人で、賊の営がかつて人を遣わして降を説いたが、その使者を斬って遇吉とともに守り、ここに至って自殺した。妻の揚氏もまた井戸に身を投げてこれに殉じた。城中の士民には降る者がなかった。自成は前後に戦死した将士を調査させたところ、計七万人にのぼり、言った、「寧武は破ったとはいえ、死傷がなんと多いことか。ここから大同・宣府・居庸を経ていくが、重兵は数十万、もしすべて寧武のようであったなら、我らに生き残る者があろうか。陝西に還って再挙を図る方がよい。」夜が更けて、にわかに大同総兵の姜環(「姜瓖」の誤りか)、宣武総兵の子承胤(「王承胤」の誤りか)の降表が届いたと報じられた。承胤はさらに百騎をもって迎えに来たので、自成はついに一意に長駆して東へ向かった。
  • 帝が百官を召して対せしめた。当時、帝は中極殿に出御し、諸臣に寇を防ぐ策を問うたが、奏対する者はみな、科道を考選し兵を練り餉を加えるといった常套の談ばかりであった。駙馬の鞏永固は南巡し兵を徴して自ら討つよう請うたが、帝の意は決しなかった。諸臣で帝に南遷を勧める者があると、帝は怒って言った、「諸卿は平日もっぱら門戸を営み、朝廷のために力を出さない。今日は死守するのみ、いまさら何を言うか。」城を守る軍に丰載の糧を給することを許したが(底本は「丰載」に作る。「半載=半年」の誤りか)、餉は実際には出どころがなく、賊がまた金で誘ったので、士卒はついに離散した。
  • 魏忠賢の屍を収めて葬るよう命じた。当時、太監の曹化淳を起用し直して城を守らせていた。化淳はもと忠賢の党であり、ここに至って参内して対した。そこで、忠賢がもし在ったなら、時事は必ずここまでは至らなかったでしょうと言い、帝は誤ってこれを信じ、そこで諭を伝えて忠賢の遺骸を収めて葬らせた。
  • 総兵の唐通、太監の杜之秩が叛いて賊に降った。居庸が陥ち、巡撫の何謙が遁げた。京師は大いに震えた。
  • 李自成が昌平州を陥れ、総兵の李守鑅がこれに死んだ。賊は十二陵を焼き、兵を分けて通州を掠めた。
  • 京営の兵が新橋で潰え、賊は京師に迫った。当時、襄城伯の李国楨が兵を練って城を守っていたが、守るのは戦うに及ばないと言い、三万人を発して新橋の南を守らせた。賊が沙河に至り、砲声を聞くと、三万人はみな潰えた。
  • 李自成が京師を囲んだ。この日の早朝、諸臣はみなすすり泣き、涙が目に溢れた。帝は御案に、文武の者は人ごとに殺すべきであるが、百姓は殺すべきでない、と書いた。当時、内侍がもっぱら守城の事を掌り、百司はみな口出しできなかった。急使が城の下を叩いて言った、「遠塵天を銜み、寇は深く入りました。」内侍が騎馬の者にこれを探らせたところ、「遊騎だ」と報じ、備えをしなかった。しばらくして賊が大挙して至り、平則門・彰義門の各門を攻め、城の軍はもはや命に従わなくなった。この日、(底本はここに将の名を欠く)平則門の外に屯し、京営将軍の賀珍は徳勝門の外に屯し、千総の徐文樸とともに、みな力戦して死んだ。
  • 外城が陥ちた。内侍の曹化淳が城を献じたのである。
  • 内城が陥ち、帝は万寿山で崩じた。外城が陥ちると、帝は万寿山に登り(底本はここに割注の丸括弧だけがあって中の字が無い)、烽火が天を焦がすのを望み、嘆じて言った、「我が民を苦しめるばかりだ。」宮に帰り、太子の慈烺、定王の慈炯、永王の慈炤を周奎・田弘遇の邸に送るよう命じ、皇后に自尽を促した。后はすでに縊れていた。帝はさらに自ら刃をとって袁妃および寵愛していた妃嬪数人を斬り、また刃を振るって長平・昭仁の両公主を斬りつけた。夜明けがた、内城もまた陥ちたので、そこで再び万寿山に登り、内侍の王承恩と向かい合って万寿亭で縊れた。遺詔には「諸臣が国を誤った、死んでも祖宗に見える面目がない。冠冕を去り、賊の切り裂くに任せ、百姓を傷つけるな」とあった、という。
原文(底本)
明思宗崇禎十七年,春正月,朔,帝視朝,朝班亂。舊例,文臣朝班在東,武臣朝班在西。是日帝御殿,朝臣至者僅一錦衣衛,奏言百官未聞鐘鼓聲,不知駕出,蓋是日帝視朝過早也。帝命鳴鐘,久之,仍未至,乃諭謁太廟後受朝。而司禮奏言鑾輿未備,乃諭受朝後拜廟。再登座,群臣始踉蹌至,以帝注目視,不敢由中門過,於是文官入武班而轉至東班,武官入文班而轉至西班,勉成禮而退。 大風霾,時占者謂風從乾起,主暴兵破城。是日乾清宮後廡有狐跡。 鳳陽地震,皇陵附近廬舍人民,坍壞尤甚。 流賊李自成僭稱王於西安。自成,陝西米脂人,自幼名黃來兒,長名鴻基,與同里劉國龍偕飲言志,自成大言曰:「大丈夫當橫行天下。」自成自立,即改名自成,號鴻基焉。崇禎二年,二月,徵兵勤王,檄至甘州,自成投總兵楊肇基營為隊長,隸參將王國麾下。國奉調遇金縣,兵嘩餉,自成殺縣令及國,遂反。時安塞人高迎祥糾饑民為亂,號闖王,於自成為甥舅,往從之,號闖將,轉掠河州金縣、甘州間。官兵迫之洮河,自成率其眾涉流而渡,先復寇鄖陽、竹山、竹谿、房縣,走紫陽,入漢中。七年六月,陝督陳奇瑜圍之於興安州之車箱峽(非華陰縣之車箱峽),會大雨兩月,賊中馬乏芻,倒斃者過半。從其黨顧君恩策,重賄奇瑜左右以請撫,奇瑜受之。自成既出險,即殺監視官,復叛,連陷麟遊、永壽、靈臺、崇信、白水、涇州、扶風七州縣,於是橫行海內者又十餘年,至是乃稱王於西安,僭國號曰順,改元永昌。更名自晟,造甲申厯,置偽官,設科目試士。草偽檄,傳布遠近。有曰:「君非甚暗,孤立而煬蔽實多;臣盡行私,比黨而公忠絕少。」又曰:「獄囚累累,士無報禮之心;征斂重重,民有偕亡之痛。」為其弘文館學士盧氏舉人牛金星屬稿。 左中允、李明睿政請親征,不果行。睿,南昌人,以憲臣李邦華、督臣呂大器特薦,召入對,言宜先幸山東,駐蹕藩邸,即以鳳陽為行在,麾召齊豫之師,二路夾進,西征以破賊。又密陳賊氣甚惡,惟南遷可緩目前之急。帝嘆曰:「朕久有此意,奈諸臣不從何?」並戒忽洩。 工科曾應遴請令紳富捐賑,不報。應遴疏言:「紳富衣租食稅,安坐而吸百姓之髓。平日操奇贏以愚民,獨擁其利。臨事,欲貧民出氣力以相護,有是理乎?又言:「秦藩富甲天下,賊破西安,府庫不下千百萬。倘平日少取之民,有事發以犒士,未必至此。」 鳳陽巡撫路振飛遣兵防河。振飛,廣平人,時山西逃兵南下,江北震恐。振飛遣副將金聲桓守徐州,周任鳳守泗州,周爾敬守清口,所部皆兩淮間勁卒,約得數萬人。 星入月中,時占者言星入月中,主國破君亡。 遣大學士李建泰出師。建泰曲沃人,性慷慨,負重名,家鉅富,嘗欲輸財以佐軍。未上而賊已渡河,帝臨朝而嘆,建泰曰:「主憂如此,臣敢不竭駕力?願馳至太原,出私財,購死士,倡率鄉里,十萬之眾可集也。」帝大悅,即命督師西發。出師日,帝仿古推穀禮,親餞郊外,曰:「先生此去,如朕親行。」又諄諄勉以真勦直撫,並命欽天監德意志人湯若望隨行修火器。進士程源私語隨員職方司主事淩駟曰:「此行也,兼程抵太原,收拾三晉,猶可濟也。三晉失守,無可為矣。」時建泰恃家財,冀紆國難,比至涿州,聞山西烽火急,其家且破,氣頓沮,逡巡畿內不敢前。 南京地震。 流賊張獻忠陷菱州。獻忠,膚施人,初從軍,犯淫掠當死,亡關中為盜。崇禎三年,王嘉胤倡亂,據府谷,獻忠以米脂十八寨應之,賊中號為八大王。嘗就撫於督師洪承疇,踰年復叛,官兵勦之,累撲累起。引眾出秦中,蹂躪豫皖名城大藩數十,遂沿江而上,既得武昌,僭號西王,建元大順,改武昌為天授府。至是,自荊州趨蜀,陷夔州。方獻忠之謀入蜀中也,石砫土司女將秦良玉圖全蜀形勢,上之撫城陳士奇請益兵守十三隘。士奇不能用,復上之按臣劉勃之。勃之許之,顧無兵可發。賊至巫山梅子坡,見隘口無兵守遂長驅而入。良玉馳援,兵寡敗歸,於是獻忠從容收旁近各郡縣,而奄有西川之土地矣。 二月朔,帝視朝得賊書,是日御朝,得偽封,詞甚悖,末云限三月望日至順天會同館斬繳,舉朝失色。 李自成陷汾州、陽城、懷慶、太原。 薊遼總督王永吉、巡撫楊鶚、吏科給事中吳麟徵請撤寧遠,吳三桂兵入衛,不果行。時廷臣主人人殊,遂格不議。 帝下詔罪己。時李自成連陷黎城,臨晉,帝乃下罪己詔。 李自成陷忻州,進簿寧武關,總兵周遇吉悉力拒守。遇吉,錦州衛人,自成既得忻州,進攻代州,遇吉憑城固守,連戰十餘日,殺賊萬餘。兵少食盡,退保寧武。 遣內官監制各鎮。帝聞山西全陷,命內官高起潛等分赴寧前、天津、通德、臨津、真定、保定、宣府、順德、彰德、大名、廣平、衛輝、懷慶、大同、薊鎮、中協、西協等鎮,監制諸將。本兵張縉彥疏言:「糧餉中斷,士馬虧折,督撫危擔欲御。若一時添內臣十員,不惟物力不繼,抑且事權分掣,反使督撫藉口,不納。 大雪,人凍死。 保定副將謝嘉福殺巡撫徐標,刧知真定府,邱茂華同叛,降於賊。標,濟寧人,官保定巡撫,時守直定,茂華知府事。聞賊警,先遣家人出城,標執茂華,下之獄。嘉福隸標麾下中軍,伺標登城殺之,出茂華於獄,同降賊。 李自成陷彰德。 徵天下兵勤王,召對群臣。先是,左都御史李邦華疏言:」國家並建二京,原以供時巡,備居守,皇上即不南遷,宜令太子諸王居舊都,一繋天下之望。「且言:「臣南人,必有言臣以遷自便者。臣願隨皇上執管錀,而分遣信臣良將捍牧,圉以南發。」疏未下,命諸臣會議戰守,而眾論狐疑,莫知解決,帝亦以國君死社稷為言,顧帝非不以南遷之議為然。觀前命科臣左懋第往南中察舟師士馬之數,以魏藻德總督河道屯練往天津,方貢岳總督漕運屯練往濟寧,天津撫臣馮元颺請以挽漕之三百艘待命於直沽口,密旨允行。凡此皆南遷地也,蓋不欲出自己意,待舉朝固請而後行之耳。 三月朔,昌平兵變,時官民居室,焚劫一空。 京師戒嚴,時宣府告急,京師洶洶傳賊且至,帝命鎮朔將軍王承胤偵賊所向,宣諭戒嚴。 諸生張鑻請太子監國南京。鑻被召見,言三策,首請以太子監國南京,擇重臣輔之。 李自成陷寧武關,總兵官周遇吉、兵備副使王孕懋死之。自成至關下,大呼五日不下即屠。遇吉悉力拒守,發礮殺賊萬餘。會火藥盡,開門奮擊,復殺數千人。夜率壯士二百入賊營,復大破之,賊為之退二十里,相持旬餘,而外援絕望,乃出城詐降,伏精兵殺其四驍將。部下胡婦二十,皆精騎射,號絕悍,平日支粟視裨將俸,各配以健丁一,如夫婦臨陣。非至急,不役胡婦。故殺賊過當,賊悉力攻破之。遇吉徒步跳蕩,手格殺數十人,矢蝟集,被執罵賊死。遇吉妻劉氏,亦驍勇多能,率婦女登屋而射,矢無虛發。賊縱火焚之,盡死。胡婦二十,伏室中,洞開其門。賊入,胡婦發強弩,斃數百人,矢竭,皆赴火死。孕懋,霸州人,賊營嘗遣人說降,斬其使與遇吉共守,至是自殺。妻揚氏,亦投井殉之。城中士民無降者。自成調查前後戰死將士,計七萬人,曰:「寧武雖破,死傷遏多?此去厯大同、宣府、居庸,重兵數十萬,倘盡如寧武,我輩豈有孑遺哉?不如還陝圖再舉。」夜深,忽報大同總兵姜環、宣武總兵子承胤降表至。承胤且以百騎來迎,自成遂一意長驅而東。 帝召對百官,時帝御中極殿,問諸臣禦寇策,奏對者皆考選科道練兵加餉諸常談。駙馬鞏永固請南巡,徵兵親討,帝意不決。諸臣勸帝南遷者,帝怒曰:「諸卿平日專營門戶,不為朝廷出力。今日死守,夫復何言?」許給城軍丰載糧,而餉實無出,賊復以金誘之,士卒遂解體。 命收葬魏忠賢屍,時起復太監曹化淳守城。化淳故忠賢黨,至是入對。因言忠賢若在,時事必不至此,帝謬信之,乃傳諭收葬忠賢遺骸。 總兵唐通、太監杜之秩叛降於賊。居庸陷,巡撫何謙遁。京師大震。 李自成陷昌平州,總兵李守鑅死之。賊焚十二陵,分兵掠通州。 京營兵潰於新橋,賊簿京師。時襄城伯李國楨練兵守城,謂守不如戰,發三萬人守新橋南。賊至沙河,聞礮聲,三萬人皆潰。 李自成圍京師。是日早朝,諸臣皆噓唏,淚承眬。帝書御案,文武人人可殺,百姓不可殺。時內侍專守城事,百司皆不敢問,有急足叩城下曰:「遠塵銜天,寇深矣。」內侍使騎探之,報曰:「遊騎也。」不為備。須臾,賊大至,攻平則、彰義各門,城軍不復用命。是日,屯平則門外,京營將軍賀珍屯德勝門外,千總徐文樸皆力戰死。 外城陷,內侍曹化淳獻城也。 內城陷,帝崩於萬壽山。外城既陷,帝登萬壽山(),望烽火燭天,嘆曰:「苦我民耳!」回宮,命送太子慈烺、定王慈炯、永王慈炤於周奎、田弘遇第,趣後自盡。后已自經,復手刃袁妃及所御妃嬪數人,又揮刃斬斫長平、昭仁兩公主。昧爽,內城亦陷,乃復登萬壽山,與內侍王承恩對縊於萬壽亭。遺詔以『諸臣誤國,死無面目見祖宗,令去冠冕,任賊分裂,勿傷百姓』云。

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