清史紀事本末多爾袞の摂政と諸王の内訌(多爾袞摂政及諸王内訌)
要約
明の崇禎十六年八月、清の世祖が六歳で位を継ぎ、翌年を順治元年とし、叔父の済爾哈朗・多爾袞が輔政となった。十月、多鐸は范文程の妻を奪おうと謀って罰され、知りながら告げなかった豪格も罰された。多鐸は多爾袞の同母弟でその子を嗣子とされ大胆、豪格は帝の兄で忌まれていた。十二月、諸王の辦事院の事務を停め都察院の監察下に置いた。
元年正月、済爾哈朗は諸衙門に、輔政王への事はまず睿親王に啓知し、名もまず睿親王と書けと諭した。二月、多鐸は戸部で八旗の女子を閲し罰科された。四月、河洛会らの訐告で豪格は庶人に落とされ、俄穆克図らは棄市、告発者は賞された。五月、多爾袞の軍が燕京に入り、内監が乗輦を請うと、予は周公が幼主を輔けたのに倣うのだと辞したが、勧められて輦に乗り武英殿で賀を受けた。九月、帝が京師に至った。十月、皇叔父摂政王を加えられ、済爾哈朗は信義輔政叔王、豪格は爵を復し、阿済格・多鐸は親王に進んだ。
二年八月、阿済格は李自成の死を偽報し、旨を待たず帰軍して郡王に降された。十月、多鐸を徳豫親王に加封した。十二月、多爾袞は諸王に、今は予に諂媚するばかりで皇上を尊崇する者がない、太宗の崩後に尊位を請われたのも固辞したと言ったが、多鐸だけは黙っていた。三年、諸王の啓本を停めた。四年正月、済爾哈朗は台基が制を越えたとして罰科され、七月、多鐸が輔政叔徳豫親王とされ鄭王の聴政は停められた。
五年三月、屯斉らの訐告で鄭王は豪格を立てようとしたとして多羅郡王に降され、罪を得た者は数十人に及んだ。豪格は多爾袞が諸王に争わせて幽繋させ、四川の大功を立てて帰ったばかりで獄中に死んだ。十一月、皇叔父摂政王を皇父摂政王と改めた。六年、大同を征したが多鐸の痘を聞き返り、再征も取りやめ、喀爾喀征も元妃の病で返り、十二月に元妃博爾済錦氏が卒した。
七年正月、これを敬孝忠恭正宮元妃と追封し、豪格の福晋を納れて妃とした。七月、辺外に避暑の城を築かせ、令に違って臨幸を請うた錫翰と、罪状を糾さなかった鼇拝を降した。十二月、喀喇城で卒した。年三十九、皇帝の礼で喪を挙げ、信符は内庫に収めた。八年正月、太廟に祔し義皇帝と追尊し成宗と号したが、阿済格は自尽を賜り、二月に罪状が宣布されて廟享を撤し、封典を追奪し家産を籍没し、多爾博の襲爵を停め、多鐸を郡王に降し、剛林らは重典に処された。十年八月、多爾袞が帝の幼少の時に定めた皇后博爾済錦氏を廃し静妃に降した。
編者はいう、多爾袞は鄭王とともに遺詔を受けながら大権を専らにし、謹厚な鄭王まで除こうと謀った。一統の業を成すと権勢は増し、同母弟を輔政叔王に立てて鄭王の聴政を停め、屯斉らに誣告させて粛王を大辟に陥れかけた。粛王が死を全うできず妃まで奪われ、諸王は憤って側目した。驕倨して宮禁に出入りし、批擬に皇父摂政王の旨を用い、信符を府中に収めたので、死後、蘇克薩哈らが帝の服を製し珠宝を隠したと告げて諸王が獄を成した。久しく専擅して奸人を蓄え讒言で骨肉を陥れ、諸王は憎みながら畏れて隠忍し、死後にみな起って攻めたのである。鄭王のように譲る心で君に事えていたなら身を保てたろう。器量が小さく見識が及ばなかったのは惜しい、と。
年表
明の崇禎十六年(1643年)に六歳の世祖が即位し、済爾哈朗と多爾袞が輔政となってから、順治十年(1653年)までの摂政政治と宗室内部の抗争を記す。多爾袞は済爾哈朗を政務から遠ざけ、粛親王豪格を庶人に落として獄死させ、同母弟の多鐸を輔政叔王に引き立てて大権を独占し、皇叔父摂政王から皇父摂政王へと位を進めた。順治七年(1650年)に喀喇城で卒すると当初は帝礼で葬られたが、翌年その罪状が宣布されて廟享を撤され、家産を籍没され、阿済格は自尽を賜り、剛林・譚泰ら一党も相次いで誅された。
年表(10件)
- 西暦1643年 明思宗崇禎十六年六歳の世祖が即位し済爾哈朗と多爾袞が輔政となる
- 西暦1644年 世祖順治元年多爾袞が燕京に入り、加封されて皇叔父摂政王となる
- 西暦1645年 順治二年阿済格を郡王に降し、多爾袞が諸王に皇上尊崇を説き諭す
- 西暦1646年 順治三年諸王大臣が多爾袞へ啓本することを永久に停止させる
- 西暦1647年 順治四年多鐸を輔政叔徳豫親王に冊封し済爾哈朗の聴政を罷める
- 西暦1648年 順治五年鄭親王を郡王に降し、豪格を幽繋して獄死させる
- 西暦1649年 順治六年多鐸が痘で死に、多爾袞は大同・喀爾喀への出征を中途で返す
- 西暦1650年 順治七年多爾袞が喀喇城で卒し、皇帝の礼で喪を挙げることが議される
- 西暦1651年 順治八年多爾袞の罪状が宣布され廟享撤去・家産籍没、一党が誅される
- 西暦1653年 順治十年多爾袞が定めた皇后博爾済錦氏を廃して静妃に降す
現代語訳全文
西暦1643年 明思宗崇禎十六年
- 秋八月、清の世祖が帝位を継ぎ、翌年をもって順治元年とした。帝はこのとき、わずかに六歳であった。諸王・貝勒が集まって議し、鄭親王哈朗(済爾哈朗の誤りか)・睿親王金爾袞(多爾袞の誤りか)をもって輔政とした。二王はいずれも帝の叔父である。
- 冬十月、豫郡王多鐸が、大学士范文程の妻を奪おうと謀ったことで事が発覚し、取り調べて事実と判明し、銀一千両を罰科とし、十五牛彔を取り上げた。粛親王豪格は、事情を知りながら告発しなかったことに座して、銀三十両を罰科とされた。多鐸は多爾袞の同母弟であり、多爾袞には子が無く、多鐸の子の多爾博を嗣子としていたので、多鐸は権勢を恃んで悪事を働くこと、このように大胆であった。豪格は帝の兄であり、多爾袞は平素からこれを忌んでいたので、事にかこつけて過酷に罰し、私憤を晴らしたのである。
- 十二月、諸王・貝勒らが辦事院の事務を判ずることをやめさせ、あわせて都察院に諭して、今後は王・貝勒らをその衙門の監察下に置き、事があって糾弾・参劾すべき場合には、事実に拠って奏聞せよ、とした。このとき多爾袞は大権を独り占めにしようとしており、およそ王・貝勒らが部の事務を管理することは、すべて停止させたのである。
西暦1644年 世祖順治元年
- 春正月、鄭親王済爾哈朗が内三院・六部・都察院・理潘院(理藩院の誤りか)の堂官を集めて、諭して言った。「今後、およそ各衙門が事務を処理するにあたり、輔政王に申し上げるべきもの、あるいは記録に留めるべきものがあれば、みなまず睿親王に啓知せよ。文書に名を書く場合も、まず睿親王の名を書くのがよい。」多爾袞は済爾哈朗が政に関与するのを望まず、済爾哈朗が慎んでこれに譲ったので、この諭が出たのである。
- 二月、豫郡王多鐸が、ほしいままに戸部の衙門に入り、名簿に拠って八旗の女子を集めて閲したことにより、部に下して事実を調べさせ、銀五百両を罰科とした。
- 夏四月、固山額真の河洛会らが、粛親王豪格の言辞が道理に背き妄りであると訐告し、取り調べて事実と判明し、庶人に落とした。豪格は、多爾袞が心中に簒逆をたくらんでいるのを、目の当たりにして不平とし、それが言葉と顔色に現れていた。河洛会は多爾袞に党して附いていたので、そこで真っ先に告発したのである。多爾袞はこれを誹謗と指弾し、ただちに幽閉し、ほどなく釈放して、庶人に落とした。俄穆克図・楊善・伊成格・羅碩らは、豪格に附いて乱をなし、自首して出なかったことに座して、みな棄市とされた。河洛会・潭泰・図頼・索尼らは、告発に功があったとして、それぞれ銀・馬・鞍轡を賞賜され、あわせて俄穆克図らの家産を没収してこれに与えた。多爾袞はほどなく軍を率いて中原を経略した。
- 五月、摂政睿親王多爾袞の軍が燕京に至り、朝陽門から入った。内監が旧明の鹵簿と御輦を皇城の外に並べ、輦に乗るよう請うた。多爾袞は言った。「予は周公が幼主を輔けたのに倣うのであって、輦に乗るべきではない。」衆は言った。「周公もかつて扆を背にして国事を摂しました。今、王は輦に乗られるのがよろしい。」多爾袞は言った。「予は天下を定めに来たのだ、衆の意に従わぬわけにはいかぬ。」そこで鹵簿を並べ、輦に乗って武英殿に入り、御座に升って賀を受けた。
- 秋九月、帝が京師に至った。
- 冬十月、多爾袞を加封して皇叔父摂政王とし、礼部に命じて碑を建ててその功績を記させた。斉爾哈朗(済爾哈朗の誤りか)を信義輔政叔王とし、豪格の粛親王の爵を復した。英郡王阿済格・豫郡王多鐸はともに親王に進め、その他の者もみな差をつけて賜与を受けた。
西暦1645年 順治二年
- 秋八月、英親王阿済格を降して郡王とした。阿済格は多爾袞の同母兄である。流賊を追捕して京に帰るとき、李自成が死んだと偽って報告し、しかも旨を待たずに軍を返し、また出征のときには巡撫を脅して、逮捕取り調べ中の道負(道員の誤りか)を釈放させ、さらに境を越えて鄂爾多斯・土黙特の地方を通ったときには馬匹を索め取った。ここに至って罪を議し、降して郡王とし、なおも流寇を追剿するよう責め命じた。
- 冬十月、和碩豫親王多鐸を加封して和碩徳豫親王とした。
- 十二月、皇叔父摂政王多爾袞が諸王・貝勒・貝子・公・大臣らを召し集め、人を遣わして言葉を伝えさせて言った。「今、諸王大臣を見るに、ただ予一人に詔媚(諂媚の誤りか)することだけを知って、まだ皇上を尊崇する者を見ない。予がどうしてこれを容れられようか。昔、太宗が崩御され、嗣君がまだ立っていなかったとき、英王・豫王が跪いて予に尊位に即くよう請うたが、予は死をもって固く辞し、そこで皇上を奉じて大統を継承させたのだ。あのような危うく疑わしい時でさえ、それが不可であることを知っていた。今になって、そのようなことで予を試そうというのか。今後、皇上に忠を尽くす者があれば、予はこれを重んじ愛そう。さもなくば祖宗の法典がそろって存する、決してお前たちを宥さぬぞ。」このとき諸王・貝勒はみなもっともだとしたが、ただ豫王多鐸だけは黙って答えなかった。
西暦1646年 順治三年
- 夏四月、多爾袞が内閣に諭した。今後、諸王・大臣が外に差遣されたとき、およそ啓奏することがあれば、本を御前に具せよ。予のところへ本を啓することは、永久に停止せよ、と。
西暦1647年 順治四年
- 春正月、輔政鄭親王済爾哈朗に銀二十両を罰科した。王の殿の台基が制を越えていたことと、ほしいままに銅の獅子・亀・鶴を用いたことによる。
- 秋七月、多爾袞が内大臣・各部尚書らに諭して言った。「先に大臣らは、みな和碩徳豫親王が予の末弟であることを理由に、ためらって決めなかった。しかし予は謹んで大政を摂し、賢者を挙げて不肖の者を退けている。国の大典であるから、どうして遠慮などしていられようか。今、お前たちは諸王とともに議を定め、奏聞せよ。」衆はみなもっともだとして、議して上申した。そこで多爾袞は多鐸を進め、これを戒めて言った。「お前は予を継いで(「子」は「予」の誤りか)輔政するのだ、いよいよ勤勉であれ。さすればその名誉は小さなものではないぞ。」翌日、帝が太和殿に御し、多鐸を冊封して輔政叔徳豫親王とした。多爾袞はほどなく内院・都察院・理潘院(理藩院の誤りか)などの衙門に諭して言った。先に輔政徳豫親王と和碩親王とに共に政務を聴かせていたが、今、和碩鄭親王はすでに停め罷めたので、輔政徳豫親王だけに関与させる。およそ各部院の事務のうち、親しく処理すべきもの、輔政徳豫親王に代理させるべきものは、開き列ねて具さに奏せよ、と。
西暦1648年 順治五年
- 春三月、鄭親王を降して多羅郡王とした。貝子の屯斉・尚善・斉哈および公の扎哈納・富喇塔・努賽らが、鄭王済爾哈朗は太宗が崩ぜられたとき、粛王豪格を立てて君とし、帝を太子にしようとした、と訐告した。言葉が多くの人に及び、一同を集めて質し訊ねた。王・大臣らが議して上申したところ、鄭王・粛王ともに死を論じられた。旨を得るに、鄭王は親王の爵を革め去り、降して多羅郡王とし、その他罪を得た者は数十人に及んだ。粛親王は死を免れたが、後に兵官が功を冒したことを察し損ねた事件で死刑に擬せられた。旨を得るに、このような処分はまことに忍びない、行うことを准さぬ、とあった。多爾袞は心中で豪格を忌み、どうしてもこれを除こうとして、諸王・内大臣らに繰り返し奏して争わせ、そこでこれを幽繋するよう命じた。このとき豪格は四川から大功を立てて帰ったばかりで、間もない頃であった。ほどなく獄中で死に、聞く者(間は聞の誤りか)はこれを哀れんだ。
- 冬十一月、覃思(覃恩の誤りか)の大赦を行い、皇叔父摂政王を加えて皇父摂政王とし、およそ進呈する本章・旨意には、みな皇父摂政王と書くこととした。
西暦1649年 順治六年
- 春二月、皇父摂政王多爾袞が兵を統べて大同を征した。
- 三月、多爾袞の軍が寇家寨に入り、輔政豫親王多鐸が痘を発したと聞いて(間は聞の誤りか)、その日のうちに軍を返し、居庸関に至って訃報を得た。この日の暮れ、馬を馳せて京城に入った。
- 夏六月、多爾袞が再び大同を征するにあたり、内三院および部院などの衙門の官に諭して言った。「予は軍を率いて西に行くが、日ならずして帰るであろう。お前たちはそれぞれ職掌に勤めるがよい。」また譚泰・河洛会・冷僧機・剛林・范文程に諭して言った。「各部院の事務は、お前たちに裁決させる。その軍国の大事は、英親王らが公同で商議せよ。緩うしてよいものは、予の帰りを待て。緩うできぬものは、ただちに啓知せよ。」
- 秋七月、多爾袞が阿魯席巴爾台に至り、大同行きを取りやめ、狩りをして還った。
- 冬十月、多爾袞が軍を率いて喀爾哈部(喀爾喀部の誤りか)の二楚虎爾を征し、帝が自ら見送った。
- 十一月、多爾袞の軍が喀呑布勒克に至ったが、元妃が病であると聞いて、軍を返した。
- 十二月、多爾袞の元妃博爾済錦氏が卒した。
西暦1650年 順治七年
- 春正月、多爾袞が玉宝をもってその妃博爾済錦氏を敬孝忠恭正宮元妃と追封し、まもなく粛親王豪格の福晋である博爾済錦氏を納れて妃とした。
- 夏五月、多爾袞が諸王・大臣を率いて山海関に出て狩りをした。
- 秋七月、多爾袞が工部に諭して、辺外に城を築き、夏の日の避暑の地とさせた。ある日、貝子の錫翰らが多爾袞の王府に詣でて病を見舞ったところ、多爾袞は憤って言った。「このごろ予(子は予の誤りか)はこの上ない憂いに遭って、体がもとどおり快くならぬ。上は人主であられるとはいえ、この大事を念われるなら、やはり家人の礼に循って、ひとたび臨幸なさるのがよかろう。もし上はまだ幼少であるからと言うなら、お前たちはみな親近の大臣ではないか。」またこうも言った。「お前たちは予を主としてほしいままに臨幸を請うてはならぬ。」しばらくして駕が至った。多爾袞は錫翰らを責めて言った。「お前たちはことさらに予の令に違い(達は違の誤りか、子は予の誤りか)、ほしいままに駕の臨むことを請うた。その心は、上がお出でになれば、それに借りてお前たちの罪を釈くことができるとでも思ったのか。」言い終わると、錫翰らに向かって跪き、かつ拝した。ここに至って錫翰らを下して鞫し訊ね、錫翰を降して集国公とし、また一等精奇尼哈番の鼇拝は、錫翰らの罪状を目にしながら、ただちに捕らえて訊ねなかったとして、降して一等阿思哈番とし、その他の者も差をつけて降黜された。
- 冬十一月、多爾袞は病があって楽しまず、諸王・貝勒・貝子・公らおよび八旗の固山・額真・官兵を率いて辺外で狩りをした。
- 十二月、多爾袞が喀喇城で卒した。年は三十九であった。臣民に詔して服を易えて喪を挙げさせ、すべて皇帝の礼を用いることを議した。ほどなく王府にあるすべての信符を、内庫に収め貯えるよう命じた。また吏部に命じて賞功の冊を取って大内に進めさせた。
西暦1651年 順治八年
- 春正月、多爾袞の主を太廟に祔し、追尊して義皇帝とし、廟号を成宗とした。英親王阿済格は罪があって自尽を賜り、その党で罪を議して正法された者が数人あった。
- 二月、戸部・工部の二部に諭して辺外の築城工事を停止させた。ほどなく旨があって、多爾袞の罪状を宣布し、廟享を撤去し、その母・妻の封典はことごとく追奪し、家産を籍没し、その嗣子多爾博が爵を襲うことを停め、その弟の豫親王多鐸を降して郡王とし、大学士の剛林・祁充格はいずれも阿附したことで重典に処し、范文程は寛に従って免職とし、河洛会・英拝・羅什博爾恵(「羅什」「博爾恵」の2名か)・譚泰・鞏阿岱・錫翰・席訥布庫・冷僧機はみな前後して誅に伏し、拝尹図は年老いていることをもって死を免じ、獄中に禁錮した。
西暦1653年 順治十年
- 秋八月、皇后の博爾済錦氏を廃して静妃に降し、側宮に移し住まわせた。この后は、多爾袞が帝の幼少の時に、婚を親しく定めたもので、選択を経ていなかったからである。
史論(編者曰)
- はじめ多爾袞は鄭王とともに遺詔を受けて輔政となったが、大権を専らにしようとして、日夜、鄭王を除くことを謀った。鄭王は人となりが謹厚で、事に遇えば遜り譲ったが、多爾袞の意はなおさら満たされなかった。しかし諸王・貝勒と盟誓を交わしたのが先にあったので、あえて衆に背いてほしいままに振る舞うことはできなかった。兵を統べて関に入り、国を定めて基を開き、一統の業を成すに及んで、その功は最も著しく、権勢はいよいよ増し、党して附く者は日ごとに多くなった。同母の北豫王(弟の誤りか)を引き立てて輔政叔王とし、鄭王が政を聴くことを停止させ、また平素から粛王を忌んでいたので、その党である貝子の屯斉らを使って、鄭王は策を定めるとき粛王に心を寄せ、密かに推戴を謀った、と誣告させ、あやうく粛王を大辟に陥れるところであった。その後、粛王はその死に方を全うできず、さらにその妃を奪われ、諸王らは初めてひそかに内心に憤り、みな側目するようになった。多爾袞はまた自ら元輔の懿親であるとして、勢いを恃んで驕り倨り、宮禁に出入りし、逆らう跡が外に明らかとなって、君臣の間にはもはや形や跡といったものが存しなくなった。およそ批擬するものがあれば、すぐに皇父摂政王の旨を用い、また信符を収めてその府中に入れた。死んだときには恩礼はなお厚かったが、まもなくその近持(近侍の誤りか)である蘇克薩哈・詹岱・穆済倫らが、多爾袞が私かに帝の服を製し、御用の珠宝を隠し蔵していたと真っ先に告げ、これを密かに不軌を図った証拠であると指弾した。詔を下して廷議させると、鄭巽(「鄭」「巽」の2王か)・端重・敬謹の諸王が言葉を合わせてその獄を証し成したので、罪を得るに至った。これはもとより多爾袞が摂政して年を経て、専擅すること日久しく、多くの奸人を蓄え養い、讒言をもって骨肉を陥れ、諸王が憎みながらもこれを畏れ、隠忍してあえて発言できなかったことによる。だからこそその死後に、みな起ってこれを攻め、この大獄を作り上げたのである。鄭王もまた叔父である。もし多爾袞が鄭王のように心をよく譲ることを存し、うまく権勢を遠ざけ、道をもって君に事え、心を同じくして輔政することができていたなら、生きている間は宗藩の身を保ち、後裔は長く帯碾(帯礪の誤りか)の誓いを延ばしたであろう、どうして立派なことでなかったろうか。惜しいことに、器量が小さくて、見識がここに及ばなかったのである。
原文(底本)
明思宗崇禎十六年,秋八月,清世祖襲帝位,以明年爲順治元年。帝時甫六歲,諸王貝勒集議以鄭親王哈朗、睿親王金爾袞輔政。二王皆帝叔父也。 冬十月,豫郡王多鐸以謀奪大學士范文程妻,事覺,審訊得實,罰銀一千兩,奪十五牛彔。肅親王豪格坐知情不舉發,罰銀三十兩。多鐸爲多爾袞同母弟,多爾袞無子,以其子多爾博爲嗣,故敢恃勢怙惡如此。豪格爲帝兄,多爾袞素忌之,故借事苛罰以洩私憤。 十二月,罷諸王貝勒等辦事院判事務,並諭都察院嗣後王貝勒等歸該衙門稽察,有事應糾参者,須據實奏聞。時多爾袞欲獨專盛權,凡王貝勒等管理部務,概行停止。 世祖順治元年,春正月,鄭親王濟爾哈朗集內三院六部、都察院、理潘院堂官,諭曰:「嗣後凡各衙門辦理事務,或有應白於輔政王者、或有記注者皆先啓知睿親王,檔子書名亦宜先書睿親王名。」多爾袞不願濟爾哈朗預政,濟爾哈朗謹讓之,故有此諭。 二月豫郡王多鐸以擅入戶部衙門,按籍集視八旗女子,下部核實,罰銀五百兩。夏四月,固山額真、河洛會等訐告肅親王豪格言詞悖妄,訊實,廢爲庶人。豪格以多爾袞心懷篡逆,目擊不平,形於詞色。河洛會党附多爾袞,乃以首告。多爾袞指爲誹謗,即幽之,尋釋,廢爲庶人。俄穆克圖、楊善、伊成格、羅碩等坐附豪格爲亂,不行出首,俱棄市,河洛會、潭泰、圖賴、索尼等舉發有功,各賞銀馬、鞍轡,並籍俄穆克圖等家產給與之,多爾袞尋帥師經略中原。 五月,攝政睿親王多爾袞師至燕京,入朝陽門,內監以故明鹵簿、御輦陳皇城外,啓請乘輦。多爾袞曰:「予法周公輔沖主,不當乘輦。」衆曰:「周公曾負扆攝國事,今王宜乘輦。」曰:「予來定天下,不可不從衆意」乃陳鹵簿、乘輦入武英殿,升御座受賀。 秋九月,帝至京師。 冬十月,加封多爾袞爲皇叔父攝政王,命禮部建碑紀績。齊爾哈朗爲信義輔政叔王,復豪格肅親王爵。英郡王阿濟格、豫郡王多鐸俱晉親王,餘俱受賜有差。 二年,秋八月,降英親王阿濟格爲郡王。阿濟格,多爾袞同母兄也,於追捕流賊回京時誆報李自成身死,且不候旨班師,又出征時脅令巡撫,釋免逮問道負,及越境過鄂爾多斯土默特地方,索取馬匹,至是議罪,降爲郡王,仍責令追剿流冦。 冬十月,加封和碩豫親王多鐸爲和碩德豫親王。 十二月,皇叔父攝政王多爾袞召集諸王、貝勒、貝子、公、大臣等,遣人傳語曰:「今觀諸王大臣,但知詔媚於予一人,未見有尊崇皇上者,予豈能容此?昔太宗升遐,嗣君未立,英王、豫王跪請予即尊位,予曾以死固辭,遂奉皇上纘承大統。似此危疑之時,且知其不可,今乃欲以此相嘗試乎?嗣后有盡忠皇上者,予重之愛之,否則祖宗法典具在,決不爾宥也!」時諸王貝勒皆以爲然,惟豫王多鐸默然不答。 三年,夏四月,多爾袞諭內閣:嗣後諸王大臣差遣在外,凡有啓奏,具本御前。予處啓本,着永行停止。 四年,春正月,罰輔政鄭親王濟爾哈朗銀二十兩,以王殿臺基踰制,及擅用銅獅龜鶴也。 秋七月,多爾袞諭內大臣、各部尚書等曰:「前大臣等,僉以和碩德豫親王爲予季弟,故猶豫未果。然予恭攝大政,簡賢屈不肖,國之鉅典,烏容詹顧。茲爾等可偕諸王定議,以聞衆僉爲然,議上。」於是多爾袞進多鐸而誡之曰:「汝繼子輔政,益加勤勉,斯名譽非小矣。」翌日,帝御太和殿,冊封多鐸爲輔政叔德豫親王,多爾袞尋諭內院、都察院、理潘院等衙門曰:前令輔政德豫親王、和碩親王共聽政務,今和碩鄭親王已經停罷,止令輔政德豫親王與聞。凡各部院事務有親理者,有應輔政德豫親王代理者,開列具奏。 五年春三月,降鄭親王爲多羅郡王,貝子屯齊、尚善、齊哈及公扎哈納、富喇塔、努賽等訐告鄭王濟爾哈朗當太宗崩時,欲立肅王豪格爲君,以帝爲太子。詞連諸人,齊集質訊。經王大臣等議上,鄭王、肅王俱論死。得旨,鄭王革去親王爵,降爲多羅郡王,餘得罪者凡數十人。肅親王免死,後以失察兵官冒功事擬死。得旨,如此處分,誠爲不忍,不準行。多爾袞心忌豪格,必欲除之,使諸王內大臣等反覆奏爭,乃命幽繋之。時豪格新自四川立大功,回未久也,尋斃於獄,間者哀之。 冬十一月,覃思大赦,加皇叔父攝政王爲皇父攝政王,凡進呈本章旨意,俱書皇父攝政王。 六年,春二月,皇父攝政王多爾袞統兵征大同。 三月,多爾袞師入寇家寨,間輔政豫親王多鐸出痘,即日旋師,至居庸關得訃。是日暮,馳入京城。 夏六月,多爾袞復征大同,諭內三院及部院等衙門官,曰:「予帥師西行,不日言旋,爾等宜各勤執掌。」又諭譚泰、河洛會、冷僧機、剛林、范文程曰:「各部院事務,令爾等裁決,其軍國大事,由英親王等公同商議。可緩者,著候予還,不可緩者,即行啟知。」 秋七月,多爾袞至阿魯席巴爾臺,罷大同之行,獵而還。冬十月,多爾袞帥師征喀爾哈部二楚虎爾,帝親送之。 十一月,多爾袞軍至喀吞布勒克,聞元妃有疾,乃旋師。 十二月,多爾袞元妃博爾濟錦氏卒。 七年,春正月,多爾袞以玉寶追封其妃博爾濟錦氏為敬孝忠恭正宮元妃,旋納肅親王豪格福晉博爾濟錦氏為妃。 夏五月,多爾袞率諸王大臣出獵於山海關。 秋七月,多爾袞諭工部,於邊外築城,為夏日避暑之地。一日,貝子錫翰等詣多爾袞王府視疾,多爾袞忿曰:「頃子罹此莫大之憂,體不復快。上雖人主,念些大故,亦宜循家人禮,一為臨幸。若謂上方幼沖,爾等皆親近大臣也。」又曰:「爾等毋以予主擅請臨幸。」頃之駕至,多爾袞讓翰等曰:「爾等故達子令,擅請駕臨,其意以上至,即可借以釋爾罪乎?」言訖,向翰等跪且拜,至是下翰等鞠訊,降翰為集國公,又以一等精奇尼哈番鼇拜目覩翰等罪狀,不即執訊,降為一等阿思哈番,餘降黜有差。 冬十一月,多爾袞以有疾不樂,率諸王、貝勒、貝子、公等及八旗固山、額真、官兵獵於邊外。 十二月,多爾袞卒於喀喇城,年三十有九,詔臣民易服舉喪。議悉用皇帝禮。尋命王府所有信符,收貯內庫。又命吏部取賞功冊進大內。 八年,春正月,祔多爾袞主於太廟,追尊為義皇帝,廟號成宗。英親王阿濟格有罪,賜自盡,其黨議罪正法者數人。 二月,諭戶、工二部停止邊外築城工程,尋有旨,宣佈多爾袞罪狀,撤去廟享,其母、妻封典悉行追奪,籍沒家產,停其嗣子多爾博襲爵,其弟豫親王多鐸降為郡王,大學士剛林、祁充格具以阿附置重典,范文程從寬革職,河洛會、英拜、羅什博爾惠、譚泰、鞏阿岱、錫翰、席訥布庫、冷僧機俱先後伏誅,拜尹圖以年老免死,禁錮獄中。 十年,秋八月,廢后博爾濟錦氏降為靜妃,改居側宮。以后乃多爾袞於帝幼沖時,因親定婚,未經選擇故也。 編者曰:初多爾袞與鄭王同受遺詔輔政,欲專大權,日夜謀去鄭王。鄭王為人謹願,遇事遜讓,多爾袞意尤不滿,然以與諸王、貝勒盟誓在先,不敢背眾肆行。及統兵入關,定國開基,以成一統之業,厥功最著,權勢益增,黨附日眾。援引同母北豫王為輔政叔王,停止鄭王聽政,又素忌肅王,因使其黨貝子屯齊等,誣告鄭王定策時,歸心肅王,密謀推戴,幾陷肅王於大辟。其後肅王不得其死,復奪其妃,諸王等始閃然內憤,群為側目矣。多爾袞又自以元輔懿親,倚勢驕據,出入宮禁,逆蹟外昭,君臣之間不復更存形蹟。凡有批擬,即用皇父攝政王之旨,又收信符入其府中。死時恩禮尚厚,未幾其近持蘇克薩哈、詹岱、穆濟倫等,首告其私製帝服,藏匿御用珠寶,指為潛圖不軌之證。詔下廷議,鄭巽、端重、敬謹諸王合詞證成其獄,以致得罪,此固由於多爾袞攝政有年,專擅日久,蓄養群奸。讒構骨肉,諸王惡而畏之,隱忍不敢發言,故於其身後,群起而攻之,以構成此大獄也。鄭王亦叔父也,假令多爾袞能如王之存心克讓,善遠權勢,以道事君,同心輔政,及身克保宗藩,後裔長延帶碾,豈不懿歟?惜乎器小,見不及此也。
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