清史紀事本末明の朱成功の事蹟(明朱成功之事蹟)

要約

順治二年は明の隆武元年である。閏六月、明は南安侯鄭芝竜の子の森に国姓を賜り成功と名づけた。森は芝竜が日本肥前の田川氏の女に生ませた子で、生まれた夕べ火光が天を照らした。芝竜は劉香平定の功で都督となっていた。森は七歳で日本から還された。湯武の征誅も一つの灑掃、堯舜の揖譲も一つの応対進退という文を作り、十五歳で諸生に補せられ、弘光のとき南京に入り銭謙益が字を大木とした。紹宗は御営中軍都督とした。

三年三月、忠孝伯に封じ招討大将軍の印を掛けさせた。成功は険阻に拠り要衝を扼すべきことを条陳し、芝竜の異心を患える紹宗には死をもって守ると誓った。洪承疇が博洛に進言して芝竜を伯爵で誘い、芝竜は六月に警報と偽って安平に返り防兵を撤したので、博洛は閩に入り、紹宗は汀州で害に遭った。十一月、博洛は韓岱を安平に入らせ、閩広総督の印を鋳てあると書を送ると、芝竜は悦び、成功と鴻達の諫めを聴かず福州で降り、部下五百は各旗に分属させられた。成功は金門を経て海に入り、芝豹は母を奉じて安平に居した。十二月、儒冠儒服を孔子廟で焼いて哭し、安平で誓師して罪臣国姓成功と称し、私家の金で軍を犒った。

四年四月、母の田川氏は安平で邸を掠められ腹を割いて死に、成功は全軍白い喪服で出師し、博洛は懼れて泉州に還り、成功は海澄を取った。八月、鄭鴻達と桃花山で会師して趙国祚を敗ったが、内応が洩れて諸葛斌の一軍は覆没して帰った。十月、隆武四年の大統暦を頒った。五年五月、甘輝を遣わして祁光秋を破り同安を回復したが、八月に終鼐・李率泰・陳錦がこれを屠り、邱縉・葉翼雲らが死んだ。永暦帝の立ったのを知って江于燦らを肇慶に遣わし、詔安を得、十月、威遠侯に封ぜられ雲霄を回復した。六年、黄山が恵来を破り、七月、広平公に進封された。七年、潮陽と掲陽の新埠寨を取ったが蘇利は討てず、潮州を囲むうちに王邦俊が雲霄・詔安を取って柯宸枢の全軍が没した。八月、施朗の説で鄭彩・鄭聯の廈門・金門を併せ、十月、蘇利が恵来を陥れて盧爵・汪匯が死に、銅山・南澳・閩安を招安し、十二月、粤東を援けた。

八年閏二月、馬得功が廈門を襲って曾桜が死んだが、張学聖は潮に懼れて還った。四月、廈門に返り、施朗は命に背いて曾徳を斬って李率泰に降り、施琅と改名した。五月、王邦俊は南渓で、十一月、楊名高は小盈嶺で敗れ、十二月、漳浦を回復した。九年、海澄を回復し、三月、長泰を回復して陳錦を江東橋で大敗させ、平和・詔安・南靖が下った。錦は家奴の庫成棟に刺殺されたが、成功は主を殺した者だとして斬った。十年、張名振が長江に入って京口を破り、四月、金礪の海澄攻めを万の斧と坑道の火で退けた。六月、漳国公に封ぜられ、十二月、名振が平陽沙で一万余を殲滅した。十一年、名振は再び長江に入り、登莱から高麗まで至った。二月と八月の和議は海澄公の位も四府割譲も拒み、芝竜は幽閉され芝豹は寧古塔に流された。十一月、林察を広東に遣わして李定国に呼応したが果たさず、十二月、漳州を破って劉国軒らが降り十県が下った。

十二年正月、仙遊を回復し、中左を思明州とし、部下を七十二鎮に分け、諸館局を立てて学を勧め士を取り、監国魯王ら諸王を金門に奉じた。五月、張名振に二十四鎮を率いさせて舟山を回復した。六月、掲陽・普寧を取り、済度が閩に赴くと馮澄世の策で安平・漳州・恵安・安南・同安の諸城を毀して廈門に回った。十三年四月、済度の廈門・金門攻めは颶風で潰え、王進功も洪旭に大敗した。六月、黄梧が海澄を挙げて降り、海を勦める五策を陳べ、海澄公の印を授けられて施琅を推した。七月、閩安を取り三たび勝ったが伏兵に退いた。十二月、羅源・寧徳を攻め、甘煇が護国嶺で阿克襄を斬った。

十四年七月、興化・黄巌を攻めて台州を取ったが、閩安が降って廈門に回った。十一月、鷗汀寨を回復し、十二月、延平王・招討大将軍に冊封され尚方の剣を賜った。十五年七月、張煌言と北上し、従う武士は十七万、鉄人を陣前に置いたが、羊山の颶風で巨艦数十が砕け士卒八千が漂流し、四男濬・七男浴・八男温が溺れた。成功が祈ると風は止み、舟山に回った。九月、象山を回復した。十六年五月、再び北上し、六月、瓜州を取って朱衣祚を敗り、南に渡って鎮江を攻め、楊蓬山で五路の援軍と大戦して鎮江を破り、属県が下った。甘輝が揚州と京江を扼せと請うたが聴かなかった。

七月、南京で孝陵に参拝し、張煌言は蕪湖から進んで郡四・州三・県二十四を得、東南は大いに震った。郎廷佑が三十日の猶予を請うと許し、甘輝らの諫めを容れず、梁化鳳が神策門下から中堅を衝いて挟み撃ちにし、甘輝・潘庚鍾・万礼らが戦死した。九月、廈門に回って表を上って罪を待ち、廟を立てて難に死んだ諸臣を祀り甘輝を第一とした。十七年五月、達素・李率泰の廈門攻めを海門で大敗させ、哈喇土星は捕らえられ、達素は福州で自殺した。成功は何斌から台湾は公の家の故土だと告げられ、海外の扶余だと嘆じ、子の経に廈門を守らせて渡った。台湾はもと荒島で、崇禎の旱に芝竜が飢民数万を移した地で、オランダ人が安平・赤嵌城を築いていた。

十八年三月、安平付近から上陸して赤嵌を抜き、オランダはマダビア総督に急を告げ兵艦七艘が来たが功はなかった。十月、鄭芝竜が市中で処刑され、北京の鄭氏は老若の別なく殺され、遷界が令されて五省の商民は離散した。十二月、台湾を取って東都と改め、赤嵌城を承天府とし天興・万年の二県を置いた。九か月の重囲ののち土地のほかは返すと告げると哥依徳は降った。成功は農を興し兵備を修め法制を定め学校を建て、陳永華の言で館舎を築いて宗室遺臣を住まわせ、金門・廈門と掎角をなし、フィリピン・スペインと通じた。康熙元年五月、病篤くも将台に登って澎湖を望み、太祖の訓を読み、先帝に地下で会う面目がないと嘆じて逝った。享年三十九、子の経が嗣いだ。この年、永暦帝は難に遭い、魯王も台湾で殂し、張煌言は屈せず殺され、馬信も卒した。

康熙四年、施琅らが台湾を攻めて勝てず、八年、明珠・蔡毓栄が耿継茂と使を遣わして招撫させた。経は詔を開かず、朝鮮の例により上岸せず薙髪しないことを条件とし、李率泰へは衣冠も爵禄も自分で持つ、耿継茂へは勝負の数は天にあると返した。以後使節は往来し、商埠を開いて西洋と交易し、屯田して豊作となった。十三年、耿精忠が援けを乞い漳泉二府を約したが背いたので、経は泉州・漳州・潮州を取った。十四年、劉国軒が尚可喜の兵を鱟母山で破って斬首二万、黄芳度を殺し黄梧の屍を戮し、韶・恵・汀・興化・邵武が下った。十六年、胡兎が漳泉を回復して七府は潰えたが、十七年、国軒は湾腰樹・鎮北山・祖山頭で勝って海澄を破り、段応挙・黄藍を斬った。漳泉を囲んだが李光地の案内で頼塔が同安に出て泉州の囲みは解け、国軒は海澄に退いて漳州と一年余り対峙した。十九年、万正色と姚啓聖が海澄を攻め、修来館の誘降で二心が多くなり、国軒は経を奉じて台湾に返った。頼塔は、台湾はもと中国の版籍でなく上岸も薙髪も及ばず、箕子の朝鮮・徐福の日本とせよと書き、経は海澄を互市の場にと返したが議は止んだ。二十年正月、経が薨じ、克塽が嗣いでなお永暦の正朔を奉じた。経は年三十九、在位十九年であった。克塽は幼弱で馮錫範が専断し、啓聖は施亥・傅為霖を買収し刺客も遣わした。二十二年七月、施琅が艦三百・水師二万で澎湖に至ったとき錫範はすでに降を議しており、琅は台湾に渡って降を受け、永暦の正朔を奉ずること三十七年で明の正朔は亡んだ。

編者はいう、順治十八年に成功が台湾をうかがってより、匹夫の勢力をもって欧西の強国と敵対し、独立の局面を創り出して中華民国の先駆けを開き、国姓爺の名をヨーロッパに知れ渡らせ、あわせて二十三年、子や孫に伝えて滅んだ。成功もまた人傑である。緬甸に蒙塵があってのち中原の統は絶えたと慨くが、成功は一旅をもって故国の衣冠を海外に存し、その正朔を奉じた。後世の君子もまた、当時の明の統は絶えていなかったと言う。成功は徒労であったとは言えない。

年表

鄭芝竜の子として日本で生まれた鄭森が明の紹宗から国姓を賜って朱成功となり、父が清に降ったのちも海上に拠って明の恢復を図った一代の記録である。順治二年(1645年)の賜姓から、福建沿海の攻防、順治十六年(1659年)の南京攻撃の失敗、順治十八年(1661年)のオランダからの台湾奪取を経て、康熙元年(1662年)に成功が三十九歳で歿するまでを追う。その後は子の鄭経が東寧に拠って薙髪を拒み、康熙十三年(1674年)の耿精忠との連携や劉国軒の福建進撃を経たが、康熙二十年(1681年)に経が薨じ、康熙二十二年(1683年)に施琅の台湾入りで孫の克塽が降り、永暦の正朔を奉ずること三十七年で明の正朔は亡んだ。

年表(25件)

現代語訳全文

西暦1645年 世祖順治二年

  • 世祖順治二年は、明の紹宗隆武元年である。夏の閏六月、明は南安侯鄭芝竜の子の森に国姓を賜い、名を成功とした。森は芝竜が日本の肥前の人である田川氏の女を娶って生ませた子である。生まれた夕べ、火光が天を照らし、芝竜は心中これを異とした。芝竜は海賊の劉香を平定した功により、官は都督となった。
  • 森は日本にあってすでに七歳になっていたが、しきりに日本人に請い、日本側ははじめて森を還らせ、翁氏は留めおいた。成功は容姿がすぐれて堂々とし、闊達で度量が大きく大志を抱き、東に向かって母を望むたびに顔を掩って涙を流した。叔父の鴻達は大いにこれを重んじ、そのたびにその頭を撫でて「これは我が家の千里の駒である」と言った。
  • 読書には章句の詮索を事とせず、「灑掃応対進退」の題で文を作り、その文中に「湯王・武王の征誅も、一つの灑掃である。堯・舜の揖譲も、一つの応対進退である」という句があった。人々はみな英傑としてこれを目した。十五歳で諸生に補せられ、試験で高等となり、官給の食糧を受ける身となった。ある人相見がこれを見て「これは奇男子であり、世に名を成す雄才である。科挙の甲科に収まる人物ではない」と言った。
  • 弘光のとき南京に入り、銭謙益はその才に驚き、字をつけて「大木」といった。ここに至って芝竜がこれを引いて謁見させた。紹宗はその容貌を奇とし、語り合って大いに悦び、森の背を撫でて「朕に卿を妻わせる女のないのが恨めしい。まさに我が家に忠を尽くし、たがいに忘れることのないようにせよ」と言った。国姓を賜い、名を成功とし、御営中軍都督に任じ、儀は附馬都尉(駙馬都尉の誤りか)・宗人府宗正に同じとした。これより、内外はこれを国姓と称した。日本人は成功が貴ばれ寵を得たと聞き、翁氏を送って平安(安平の誤りか)に至らせた。

西暦1646年 世祖順治三年

  • 春三月、明は朱成功を封じて忠孝伯とし、招討大将軍の印を掛けさせた。当時帝は延平におり、成功は、険阻に拠って要衝を扼すべきこと、および進取・航船・合攻・通洋・裕国の事宜を条陳した。帝は嘆じてすぐれた器であるとし、成功に大将軍の印を授け、伯爵を与えた。
  • 当時、閩中の戦守の機宜はことごとく鄭氏が取り仕切っていたが、芝竜には異心があり、紹宗はこれを患えていた。成功がかつて単身で侍り、紹宗に憂え顔があるのを見て、頓首して言った。「陛下が鬱々としておられるのは、もしや臣の父に異心があるからではありませんか。臣は厚恩を受け、義において後ろを顧みることはありません。願わくは死をもって陛下をお守りいたします。」
  • 冬十一月、明の朱成功は金門に走った。これに先立ち、経略の洪承疇が貝勒の博洛に進言し、芝竜を伯爵で誘った。芝竜の返書には「官兵に遇えば官兵を撤し、水師に遇えば水師を撤します。貴朝に心を傾けているのは、一日のことではありません」という句があった。この年の六月、芝竜は海上に警報があると偽って安平に馳せ返り、水陸の防兵をことごとく撤して従わせたが、諸将の多くは従わなかった。紹宗は手勅を下してこれを引き留めようとし、勅使が河のほとりに至ったときには、芝竜はすでに帆を飛ばして延平を過ぎていた。博洛はそこで長駆して閩に入ることができた。紹宗は汀州で害に遭った。
  • ここに至って博洛は固山額真の韓岱を遣わし、兵を統べて安平に入らせた。書を芝竜に馳せて、両粤がまだ平定されていないので、すでに閩広総督の印を鋳てお待ちしていると言った。芝竜は大いに悦び、成功と鴻達は痛哭して諫めたが、聴かなかった。成功は金門へ去り、芝竜はこれを召して同行させようとしたが、成功は書を返してこれを拒んだ。芝竜の部下はわずか五百人で、従って福州に至ると、みな雉髪(薙髪の誤りか)して降るよう命じられた。
  • 明の朱成功は部衆を率いて海に入った。鄭芝竜がすでに降ったのち、博洛はその反覆を慮り、そこでその五百人を各旗に分けて属させ、たがいに会うことができないようにした。夜半、にわかに営を抜いて発った。芝竜は「わが子弟はみな馴れておりません。いま兵を海上に擁しており、もし不測のことがあれば、どういたしましょうか」と言った。博洛は「これはお前に関わることではなく、また私が慮るところでもない」と言った。芝竜が北へ行ってしまうと、成功はことごとく部下を率いて海に入り、芝豹は母を奉じて安平に居した。
  • 十二月、明の朱成功は海上に兵を起こして恢復を図った。成功ははじめ大将軍の印を受けたが、いくばくもなく母の病を理由に辞して延平に返っており、そのため特別の恩を受けながら、いまだ一日も兵柄を執って起こしたことがなかった。やがて父が北へ行き、紹宗が害に遭ったと聞くと、悲歌慷慨し、儒者の冠と儒者の服を携えて孔子廟に赴き、哭してこれを焼き、「昔は儒子であったが、いまは孤臣である。背くか向かうか、去るか留まるか、それぞれに働きがある。ただ先師よ、これを照覧されよ」と言った。
  • 金門から安平に回り、文武の群臣を集めて恢復を誓師した。その文にいう。「本爵は大明の臣子であり、白い喪服を着るのは当然であって、まことに中興の将佐である。肝を披いても訴える地がない。もろもろの英傑を翼として、ともに大義を伸べたい」云々。招討大将軍の印を用い、罪臣国姓成功と称し、私家の金を出して軍をねぎらい、諸将を大いに任じ、士卒を訓練し、船を整え、島々を往来して情勢の変化をうかがった。

西暦1647年 世祖順治四年

  • 夏四月、明の朱成功は海澄を回復した。これに先立ち、博洛は人を遣わして鄭芝竜を挟んで北へ行かせ、続いて自ら馬歩の兵を統べて安平に入った。芝豹はあわてて城を棄て、家族を率いて鑑に登り(「鑑」は「艦」の誤りか)、外海に泊まった。成功の母の田川氏はひとり留まって守った。兵が入ってその邸宅を掠めると、氏は剣を抜いて腹を割いて死んだ。成功は報せを聞いて痛哭して出師し、全軍みな白い喪服をまとった。軍が至ると、博洛は帆柱が雲のように集まり、軍容が盛んに輝いているのを見て大いに懼れ、星夜に兵を引いて泉州に還った。成功はそこで海澄を取り、九都に入った。
  • 秋八月、明の朱成功は定国公鄭鴻達の軍と会して泉州を攻めたが、勝てなかった。鴻達は人を遣わして成功に告げ、平安の地は狭小で、しかも守るべき険要がないと言い、泉州を取るよう勧めて軍を助けたいと願い出た。そこで成功は九都から至り、泉州の桃花山で会師した。在籍の御史沈佺期、光禄寺大夫の林橋升、主事の郭符甲、推官の諸葛斌はみな兵を奉じて応じた。降将の提督趙国祚が迎え撃ったが敗績した。(成功は)進んで州城に簿った(薄=迫るの誤りか)。また敗れ、その援兵がその援将の解応竜を斬った(底本は「復敗,其援兵斬其援將解應龍」に作る。「復敗其援兵,斬其援將解應龍」の誤読点か)。西城を守る将の楊義と郷宦の郭顕が内応を諸葛斌と約束したが、事が洩れ、斌は兵を率いて城に逼ったところ全軍が覆没し、顕は一門みな害に遭い、城中の防守はいよいよ厳重になった。漳州の守将の王進も降将であるが、潮州の援兵数万と合して至り、ただちに安平を衝くと揚言したので、成功はそこで馳せ帰り、兵を練って兵糧を積み、再挙を図った。
  • 冬十月、明の朱成功は隆武四年戊子の大統暦を海上に頒布した。当時、永暦帝はすでに順治三年十月に粤中で即位していたが、この時点で成功はなお確かな報せを得ていなかったので、大学士の路振飛・曾桜の議に従い、なお隆武四年と称して暦を頒ち、文淵閣の印を用いてこれに捺した。

西暦1648年 世祖順治五年

  • 夏五月、明の朱成功は同安を回復した。成功が同安を攻めると、守将の祁光秋が出て戦ったが、成功は将の甘輝を遣わしてこれを破った。光秋は遁走し、成功は同安を取った。
  • 秋八月、終鼐らは明の同安を取り返し、これを屠った。朱成功の部将の邱縉・林壮猷・金作裕、知県の葉翼雲、教諭の陳鼎はみなこれに死んだ。鼐は降臣の李率泰・陳錦と合して同安を攻め破り、城内が堅く拒んだことを理由にこれを屠り、血が流れて溝や堀を満たした。
  • 明の朱成功は前の中書舎人である江于燦・黄志高を遣わして肇慶に表を奉らせた。成功はこのときはじめて永暦帝が立ったことを知り、額に手を当てて「私には君がおられた」と言い、于燦らを遣わして航海して行在に赴かせた。
  • 明の朱成功は詔安を回復した。成功が銅山などの地で兵を募り兵糧を調えたとき、詔安県の人である林曰灼だけがこれを拒んだ。成功は将の甘輝を遣わしてこれを撃って斬り、そこで詔安を得た。
  • 冬十月、明は朱成功を封じて威遠侯とした。成功はやがて雲霄を回復し、降将の張国柱は敗れて没し、守備の姚国秦は捕らえられた。

西暦1649年 世祖順治六年

  • 春三月、明の朱成功は兵を分水関に屯し、将の黄山を遣わして恵来を破り、海澄と陳斌がこれに帰した。斌は大巴掌と号し、勇力があって数百人も近づくことができなかったが、ここに至って帰順し、成功は後勁鎮に任じた。
  • 秋七月、明は朱成功を進封して広平公とした。

西暦1650年 世祖順治七年

  • 春正月、明の朱成功は潮陽を回復し、知県の常望鳳が降った。
  • 夏四月、明の朱成功は掲陽の新埠寨を攻めてこれを抜いた。やがて詔安の張礼が衆数千を率いてこれに帰した。
  • 六月、明の朱成功は降将の蘇利を碣石衛に討ったが、勝てず、軍を旋らせて潮州を囲んだ。成功は舟師を率いて蘇利を討ったが、風が逆で不利となり、軍を回して潮州を囲んだ。降将の王邦俊は警報を聞き、兵を率いて雲霄・詔安を取った。成功の部将の柯宸枢が迎え撃ったが、砲と矢が尽きて全軍が没した。成功はこれを聞いて大いに痛み、「浦・詔を失ったことは恨みではない。宸枢を亡くしたことこそ恨みである」と言い、そこで囲みを解いて去った。
  • 秋八月、明の朱成功は廈門・金門を取った。廈門・金門の両島は鄭彩・鄭聯に占拠されていたが、芝鵬・芝莞が成功にこれを取るよう勧め、成功の将の施朗の説得がとりわけ力があった。当時、彩は遠く出ており、聯だけが廈門にいて酒を好んでいた。人々はみな、取らなければ却って敵を利することになり、良策ではないと言った。成功はやむを得ずこれに従い、そこで両島を併せ、軍威は大いに振るった。
  • 冬十月、降将の蘇利が恵来を陥れ、明の朱成功の部将の盧爵、知県の汪匯がこれに死んだ。蘇利は成功が廈門に回ったことを偵知し、ひそかに軍を進めて恵来を襲い、爵は戦死し、匯は自ら刎ねて死んだ。
  • 明の朱成功は銅山・南澳・閩安の諸島を取った。成功は洪政に命じて諸島を招安させ、ことごとく指揮に従わせた。
  • 十二月、明の朱成功は舟師を率いて粤東を援けた。成功は広州の事態が急であると聞き、そこで芝鵬に廈門を守らせ、自ら諸鎮を率いて南下し勤王した。

西暦1651年 世祖順治八年

  • 春の閏二月、降将の総兵馬得功が廈門を襲って入り、明の前の大学士曾桜がこれに死んだ。得功はまもなく遁れ去った。当時、成功の軍は平海衛に宿営しており、降臣の巡撫張学聖はその遠出に乗じて、得功に檄を発して廈門を襲わせ、自ら大隊を率いてその後に続いた。潮が大いに漲り、波濤が逆巻くのに遇い、学聖は大いに懼れて兵を引いて還り、得功もまた逃れ去った。
  • 夏四月、明の朱成功は廈門を回復した。成功は廈門に警報があると聞いて急ぎ兵を率いて返ったが、着いたときには馬得功らはすでに去っていた。成功は軍を移して金門の白沙に屯し、自ら各要港を検分し、砲台を築いて精鋭を割いて守らせた。ちょうどその将である施朗の標兵の曾徳が法を犯し、朗はこれを殺そうとした。成功は使いを馳せて殺すなと命じたが、朗はこれを斬り、急ぎ走って李率泰に降り、名を琅と改め、副将を授けられた。
  • 五月、降将の総兵王邦俊は明の朱成功と漳浦の南渓で大いに戦い、敗績した。邦俊の軍は潰え、そこで門を閉ざして出なくなった。
  • 冬十一月、降将の提督楊名高は明の朱成功の兵と小盈嶺で戦い、敗れて泉州に退いた。明高(名高の誤りか)は王邦俊が馬口で敗れたと聞き、諸軍を統べて続いて進んだが、小盈嶺に至ると左右の伏兵が起こり、兵は潰えてほとんど尽き、そこで遁れて泉州に返った。
  • 十二月、明の朱成功は漳浦を回復した。成功は勝ちに乗じて進み漳州城に簿った(薄=迫るの誤りか)。守将の楊世徳・陳堯策が出て降り、そこで漳浦を回復した。

西暦1652年 世祖順治九年

  • 春正月、明の朱成功は海澄を回復し、浯州の人である周全斌が衆を率いてこれに帰した。
  • 三月、明の朱成功は長泰を回復し、進んで漳州を攻めた。降将の総督陳錦はその部下に殺された。成功が長泰を攻めると、錦は軍を率いてこれを救い、成功と江東橋で大いに戦って大敗し、退いて泉州に返った。そこで平和・詔安・南靖はみな下り、進んで漳州に逼った。ちょうど錦の家奴の庫成棟らが錦を刺殺し、その首を成功に献じた。成功は成棟の家を手厚くいたわった上でこれを斬って主に殉じさせ、「僕隷の身でありながら、その主を殺した。これでは天下に刑がないのと同じである」と言った。軍中は大いに服した。

西暦1653年 世祖順治十年

  • 春三月、明の朱成功は定西侯張名振を遣わして軍を率いて長江に入らせた。名振は京口を破り、長江を遮断し、崇明に軍を駐め、叛将の金允産を金塘山で捕らえてこれを磔にした。成功はさらに軍を増し、陳輝・王秀奇・洪旭・周全斌に同行を命じた。羊山に至って颶風に遭い、兵の十分の一を失ったが、名振の軍だけは全軍無事であった。
  • 夏四月、固山額真の金礪が海澄を攻め、明の朱成功はこれを防いで退けた。当時、城壁は十余丈にわたって壊れていたが、成功は将台に坐して指揮すること平生のごとくであった。ある夕べ、にわかに礪の陣営で空砲が次々に発せられた。成功は驚いて「敵が城に迫るぞ」と言い、兵を整えて斧を持たせて待ち、「敵が至ってはじめて斬れ」と命じた。礪が衆を指揮して城に登ると、城上から万の斧が一斉に下り、斬るそばから落ち、堀はそれで埋まって平らになった。夜明けに、坑道の火が発し、さらに焼け死ぬ者が数知れず、礪は遁れて漳州に返った。
  • 六月、明は朱成功を封じて漳国公とした。
  • 冬十二月、明の張名振は崇明の駐防軍を平陽沙で大いに破った。駐防の兵一万余が江を渡り、名振は衆を鼓してこれを迎え撃ち、防兵はことごとく殲滅されて、一人も返る者はなかった。

西暦1654年 世祖順治十一年

  • 春正月、明の朱成功はふたたび張名振を遣わして軍を率いて長江に入らせた。海船数百が流れを遡って上り、再び京口に入り、儀真を経て観音門に至り、金山に泊まった。山に登って孝陵を望んで祭り、帆を揚げて東に下った。またも海船をもって鎮江に上り、儀真に至り、沙船六十をもって山東の登州・莱州の諸所に入り、まっすぐ高麗に至って還った。
  • 二月、使者を閩に遣わして和議を申し入れたが、明の朱成功はこれを拒んだ。このとき成功を海澄公の位で誘ったが、成功は受けず、いよいよ兵を出して福州・興化・漳州・泉州の諸郡を大いに騒がせた。
  • 秋八月、ふたたび使者を閩に遣わして和議を申し入れたが、やはり応じなかった。このとき学士の葉成格、理事の阿山を遣わし、鄭芝竜の四子の渡を同行させた。閩に入り、福州・興化・漳州・泉州の四府の地を割いて明に帰することを許したが、成功はこれを拒むこと従前のとおりであった。その子に報ずる書の末には「万一不幸なことがあれば、この父はただ白い喪服を着て仇を復し、忠孝の結末をつけるほかない」とあった。また書を渡に遺した。その中に「兄は兵を用いること久しい。どうして鳳凰を捨てて虎豹に就く者があろうか。ただ我が弟はよく父母に仕え、兄のことを思うな」とあった。使者が朝廷に返ると、芝竜を高い塀の中に幽閉し、芝豹を寧古塔に流して守らせるよう命じた。
  • 冬十一月、明の朱成功は水陸の軍を発し、広東で李定国に呼応したが、うまくいかなかった。成功は林察らを遣わして戦艦を配して広東に送り、上奏をととのえて行在に届けさせた。ちょうど定国が軍を合わせて広州を囲み、尚可喜・耿継茂が急ぎ満洲の兵を請うて到着した。定国はこれを攻めたが勝てずに引き返し、林察らもまた退いた。
  • 十二月、明の朱成功は漳州を回復した。成功は漳州を襲って破り、劉国軒らが降り、十県がみな下った。泉州の属県もまた噂を聞いただけで、戦わずして帰順した。

西暦1655年 世祖順治十二年

  • 春正月、明の朱成功は仙遊を回復し、中左を改めて思明州とし、部下を分けて七十二鎮とし、儲賢館・諸才館・察言司・賓客司・印局・軍器局を立て、官を設けて事を処理させ、学問を勧めて士を取った。前の監国魯王、ならびに盧・渓・寧・靖の諸王を奉じて金門に居らせ、難を避けてきた遺臣の王忠孝らを礼遇して上客とした。
  • 夏五月、明の朱成功は張名振を遣わして舟山を回復した。成功は張名振を拝して元師(元帥の誤りか)とし、陳輝・洪旭・陳六御をその副とし、二十四鎮を統べて長江に入らせた。寧波の守将張洪徳が降り、進んで舟山を攻め、総兵の包臣功が降って、名を臣興と改めた。
  • 六月、明の朱成功は掲陽を取り、続いて普寧を取った。成功は将の黄廷・万礼らを遣わして二十鎮を率いて南下させ、掲陽・普寧が相次いで下った。閩督の劉清泰が書を遺して「固山は戈を枕にして久しく、片時も待てないでいる」と言った。成功は書を見て笑い、「彼は精鋭をもって私を脅すが、私がどうして一人の固山を懼れようか」と言い、返事をしなかった。朝廷は鄭王の世子済度に命じて定遠大将軍とし、閩に赴かせた。成功は馮澄世の策に従い、安平・漳州・恵安・安南・同安の諸城を毀し、軍を廈門に回した。

西暦1656年 世祖順治十三年

  • 夏四月、世子済度は明の夏門(廈門の誤りか)を攻め、ついで金門を攻めたが、いずれも敗れて還った。先鋒の韓尚亮が廈門を掠めたが、ちょうど颶風が大いに起こり、さらに大雨が降りしきって船は停泊できず、満洲の兵はみな目がくらんで倒れ、錨綱が切れ船団が壊れる音が魂を震わせた。風に吹き流されて島に漂着した者は、みなその手のひらを切り落として放ち帰らせた。当時、済度は朱成功の物資の蓄えが金門の白沙寨にあると偵知し、王進功にこれを攻めさせたが、港を出るや、洪旭の哨戒船に遇い、波に乗って酣戦し、またも大敗して、そこで退いて泉港に入った。
  • 六月、明の朱成功の部将の黄梧が海澄を挙げて降った。これに先立ち、蘇茂が掲陽の敗戦によって誅に伏し、梧は鎧甲五百をもって罰せられ、王秀奇に代わって海澄を守るよう命じられていた。梧はまもなく薙髪して降った。海を勦める五策を陳べた。「一つには、沿海に兵を屯して上陸を防ぐこと。二つには、小舟を造って中左を図ること。三つには、叛いた者の財産を没収して招き寄せる資とすること。四つには、奸商を除いて物資の補給を絶つこと。五つには、偽瓄を划いて衆人の憤りを晴らすこと。」朝廷は、以前に成功を封じたときの海澄公の印を梧に授けるよう命じ、梧は施琅を推薦して副将とした。
  • 秋七月、明の朱成功は閩安を取り、進んで福州を攻めたが、まもなく退いて閩安に屯した。成功は三たび戦って三たび勝ち、副将の胡希玠を斬り、参将の張礼を捕らえ、そこで守将は風を望んで降った。成功が備えをしないでいると、城外の伏兵が起こり、成功はにわかに潮に乗じて錨を解いて退いた。
  • 冬十二月、明の朱成功は羅源を攻め、ついで寧徳を攻め、梅勒章京の阿克襄が陣中で没した。済度は羅源の警報を聞いて阿克襄を遣わして救援に向かわせ、成功の将の甘煇と護国嶺で戦って敗績し、煇はこれを斬り、全軍は潰え走った。朝廷は撫臣の佟岱に命じて成功に書を致して和議を談じさせたが、成功は返事をしなかった。

西暦1657年 世祖順治十四年

  • 秋七月、明の朱成功は興化・黄巌を攻め、続いて台州を取った。天台・太平・海門衛は相次いで帰順した。まもなく閩安が降臣の総督李率泰に誘われて降り、成功は両島に失陥があることを恐れて、舟師を率いて廈門に回った。
  • 冬十一月、明の朱成功は鷗汀寨を回復した。陳覇の策に従ってこれを取ったのは、兵糧を足すためである。
  • 十二月、明は使者を遣わして朱成功を冊封して延平王・招討大将軍とし、尚方の剣を賜い、便宜に事を行わせた。成功は江南を取ろうと考え、そこで楊廷世・劉九𦤎を遣わして道を尋ねて旨を請わせ、諸葛亮の言を引いて、勢いは両立しないと述べた。朝廷はこれを壮として、使者を遣わして爵秩を進め、軍を江南に進めて、ただ天下に大義を明らかにするよう命じた。

西暦1658年 世祖順治十五年

  • 秋七月、明の延平王朱成功と兵部侍郎張煌言は軍を合わせて大挙して北上したが、羊山に宿営したとき颶風が起こり、軍を舟山に旋らせた。成功は大挙して南京を攻めるにあたり、提督の甘煇を前部とし、総兵の馬信・万礼をこれに続かせ、自ら大衆を統べてしんがりとなった。侍郎の張煌言を監軍とし、帆を揚げて北上した。従い行く武具を帯びた武士は十七万、五万は水戦に習熟し、五万は騎射に習熟し、五万は徒歩の打撃戦に習熟し、一万人をもって往来して策応させた。力が五百斤を挙げられる者を選び、鉄の鎧を着せ、朱と碧で虎の紋様を描き、両目だけを出させ、馬を斬る大刀を執って陣前に立たせ、馬の足を斬らせた。号して鉄人といい、これを望む者は神兵かと思った。左虎衛の陳魁がこれを統べた。
  • 軍が進発すると、平陽・瑞安の守将はみな城を献じて降った。羊山に宿営したとき、ちょうど颶風が起こり、巨艦数十を砕き、士卒八千を漂流させた。成功の四男の濬、七男の浴、八男の温はみな溺れた。成功は冠と帯を正して立ち、祈って言った。「成功は三軍を統率し、中原を恢復しようとしています。もし天命がそこにあるのなら、ただちにもろもろの船を沈め滅ぼしてください。神よ、これを照覧されよ。」祈り終わると風はにわかに止み、そこで舟山に回って泊まり、船具を整えて後図をはかった。
  • 九月、明の朱成功は象山を回復した。成功の舟師、象山(底本は「成功舟師象山」に作り、動詞を欠く)。知県の徐福が父老を率いて降った。

西暦1659年 世祖順治十六年

  • 夏五月、明の延平王朱成功と兵部侍郎張煌言は、ふたたび軍を合わせて大挙して北上し、滇(雲南)を援けようとした。当時、貝子の洛託らの兵が三道から滇に入ったと聞き、江南に備えがないと見て、ふたたび機に乗じて出師した。
  • 六月、明の朱成功は瓜州・鎮江を回復した。先鋒(前烽は前鋒の誤りか)の張煌言が瓜州に至り、翌日、成功は部将の甘輝らを率い、風と潮に乗ってまっすぐ進んだ。操江の朱衣祚らが軍を率いて出て防いだが敗績し、成功は勝ちに乗じて進み迫り、城はついに潰えた。成功は左鎮の劉猷らを留めてこれを守らせ、自ら全軍を統べて南に渡り、鎮江を攻めた。守将が南京に急を告げ、鉄騎三千をもって救援に赴き、三たび進んで三たび退いた。成功が大砲を発せさせると、江の水は沸き立ち、両岸の屋根瓦はみな震えた。
  • そこで南京・蘇州・常州の諸道の援軍がことごとく集まり、五路に分かれて楊蓬山で大いに戦った。当時、成功の兵で上陸していた者はわずか二千であり、援けに集まった者はみな当代の老練な将で、提督の管効忠はとりわけ善戦で知られていた。しかしその日の激戦の結末は、その部衆四千のうち生き残った者は百四十人、援兵はわずかに十分の一が残っただけであった。効忠は南京に遁れ、嘆じて「私が満洲から中国に入ってすでに十余年になるが、これほどの死闘はなかった」と言った。鎮江が破られると、属県はみな下った。成功は兵を引いて西に向かった。部将の甘輝が請うて言った。「北は揚州を取って山東の軍を断ち、南は京江を占めて両浙の糧を絶ち、厳重に咽喉を扼して各郡に号令すれば、南都は戦わずして定まりましょう。」成功は聴かなかった。
  • 秋七月、明の朱成功の軍は南京に至り、孝陵に参拝した。まもなく城の北門の外で兵が敗れ、崇明伯の甘輝がこれに死んだ。成功は南京に至って陵に参拝したのち、その哨兵七人が江浦を掠めてこれを取った。五日を過ぎて、蕪湖から降伏の書が届いた。成功は張煌言に部下を率いさせ、蕪湖から𪧟・徽の諸路を進んで取らせ、安徽の列城は風を望んで明に帰し、あわせて郡四・州三・県二十四を得た。維楊(「維揚」の誤りか)・蘇州・常州も、朝夕に変事を待つありさまであった。江・楚・魯・衛の人士が軍門に詣でて指揮を受けて帰り、兵を起こして呼応することを約束し、東南は大いに震えた。
  • 成功は観音門に至り、黄安に水師を督させて三㲼河口を守らせ、自ら諸将を率いて儀鳳門から上陸し、岳廟山に屯した。総督の郎廷佑は人を遣わしてへりくだった言葉で成功に説いて言った。「わが朝の軍律では、城を守って三十日を過ぎれば、罪は妻子に及びません。どうか三十日の期限を猶予してください。」成功はこれを許した。甘輝・潘庚鍾が力をつくして諫め、煌言もまた書を寄せて、敵に売られてはならぬと勧めたが、成功はいずれも意に介さなかった。当時、警報が北京に届き、まさに親征が議されていたが、崇明の総後(総兵の誤りか)梁化鳳は成功に備えがないことを知り、兵卒数千をもって夜に神策門の下に穴を掘り、まっすぐその中堅を衝き、騎兵数万をもって山の後ろを回り、その背後に出て、前後から挟み撃ちにした。海の軍は退き、成功は艦に登って退いた。甘輝・潘庚鍾・万礼・張英・林勝・藍衍・陳魁・魏標・林世用・洪復らはみな力戦して死んだ。
  • 九月、明の朱成功は軍を廈門に回し、表を上って罪を待ち、廟を立てて事に死んだ人々を祀った。成功は還って廈門に至り、甘輝を哭してのち入り、「早くに将軍の言に従っていれば、私はここまでにはならなかった」と言った。廟を立てて難に死んだ諸臣を祀り、輝を第一とした。煌言は貴州から凱旋する軍が江を下るのに遇い、こちらも戦い敗れて建徳の祁門の山中に走り、まもなく天台に出て海に入った。

西暦1660年 世祖順治十七年

  • 夏五月、将軍の達素、総督の李率泰に命じ、兵を分けて漳州・同安に出し、合わせて廈門を衝かせた。明の朱成功は諸部を指揮して海門を扼して守らせて防ぎ戦い、自ら手に旗を抜き取って軍を起こした。風は吼え波は立ち、海一面が動き、軍士は浪を踏んで飛ぶようであった。北方の人は水戦に習熟しておらず、目がくらんで戦いにならず、そこで大敗し、死骸が海に満ちた。満洲の精鋭数百人が船を棄てて降り、残りは退いて泥沼に陥り、十のうち六、七が死んだ。首領の哈喇土星は捕らえられ、達素は福州に帰って自殺した。これより成功の代の終わりまで、島を覆すことを口にする者はなかった。
  • 成功は帰ってのち、廈門の勢力が単弱であることから、向かうべき所を謀っていた。途中でオランダの甲傫である南安の人、何斌に遇い、何斌は成功に告げて言った。「台湾は公の家の故土です。その地は富み強く、四省の要害となっています。」そのうえで取れる状況を述べ、道案内を務めたいと願い出た。成功はその地図を見て、嘆じて「これもまた海外の扶余である」と言った。子の経を留めて廈門を守らせ、自ら艦隊をもって台湾に向かった。
  • 台湾は海中の荒島である。明の崇禎年間、閩の地が大いに旱魃になったとき、鄭芝竜は巡撫の熊文燦に請い、船で飢えた民数万をその地に移して開墾させた。芝竜が台湾を去るに及び、当時オランダ人がその地を占拠して交易していた。先に安平城を築き、ついで赤嵌城を築き、全土はその掌握に帰した。しかし城中のオランダ人は二千を越えず、その他はみな鄭氏が移した民であった。

西暦1661年 世祖順治十八年

  • 春三月、明の朱成功は兵を引いて安平の付近から上陸し、赤嵌を抜き、進んで安平を図った。オランダ人はマダビア(馬達維亜)総督に急を告げ、総督は兵艦七艘を遣わして救援に赴かせた。中国の辺境の官吏は、台湾の知事の可依徳に書を致して、合わせて成功を攻めることを求めた。数か月にらみ合ったが、ついに功はなかった。
  • 冬十月、降将の鄭芝竜を市中で処刑し、沿海の住民を移し、船が海に出ることを禁じた。降将の黄梧の請いに従ったのである。鄭氏で北京にいた者は、老若の別なくみな殺された。遷界を令し、漁船・商船が海に出ることを禁じた。これより五省の商人・民は離散して落ちぶれ、万里はみな丘墟となった。
  • 十二月、明の朱成功は台湾を取った。改めて東都とし、赤嵌城を承天府とし、天興・万年の二県を置いた。当時、安平が重囲に陥ってすでに九か月、兵士の死んだ者は数千に及んだが、城は堅く守って落ちなかった。成功はそこで人を遣わして哥依徳に告げさせた。「この地は先人の旧物である。いま私が得ようとするのは土地だけであり、残りはことごとくお前に返す。」哥依徳は敵しえないと知り、そこで降伏を請うた。
  • 成功は台湾を占領してのち、内は政府を組織し、農業を興し、兵備を修め、法制を定め、学校を建て、処士の陳永華の言を用いて、館舎を築いて海を渡って来た明の宗室・遺臣を住まわせた。外は金門・廈門の両島に兵を置いて、たがいに掎角の勢をなさせた。またフィリピン(斐律賓)群島およびスペイン(西班牙)などの諸国と使者を通じて、外からの援けを結んだ。

西暦1662年 聖祖康熙元年

  • 夏五月、明の招討大将軍延平郡王朱成功が薨じた。成功は病が重くなっても、なお日々無理に起きて将台に登り、千里鏡を手にして澎湖の諸島を望んだ。この日、台に登り終えると、冠と帯を正し、太祖の訓を請い出させ、胡床に坐って、酒を進めながら読んだ。第二帙に至ったとき、嘆じて「私は何の面目があって先帝に地下でお目にかかれようか」と言い、両手で顔を掩って逝った。
  • 思うに成功は隆武の丙戌の年に起こってから、海外を経営すること十余年、進取の志はついに達することができなかった。台湾に退いて拠ってから、年を越えてついに歿した。享年三十九、子の経が跡を嗣いで立った。この年、永暦帝はすでに一か月前に難に遭っていたが、経はなおその正朔を奉じた。監国魯王もまた台湾で殂し、兵部尚書の張煌言は捕らえられ、屈しなかったために殺され、建威伯の馬信は成功を哭することが度を越えて哀しかったために、まもなく卒した。

西暦1669年 聖祖康熙八年

  • 春正月、使者を台湾に遣わした。これに先立ち、康熙四年、降将の施琅・周全斌が兵を進めて台湾を攻めたが、勝てずに帰った。ここに至って大臣の明珠・蔡毓栄に命じて閩に入らせ、嗣靖南王の耿継茂とともに使者を遣わして招撫させた。興化知府の慕天顔に卿の銜を加え、都督僉事の季佺とともに詔を賚して行かせた。
  • 朱経は明珠の書函は開いたが、詔は開こうとしなかった。陪使の季佺はそこで言った。「殿下がまことに兵を休め民を安んずるおつもりなら、朝鮮の例のようにして、岸に上がらず、薙髪せず、衣冠を改めればよいのです。」経は明珠の書がこのことに及んでいないことから、その礼官の葉亨、刑官の柯平を遣わし、使臣に従って至らせ、明珠に返書して、必ず陪使(賠使は陪使の誤りか)の言のとおりであってはじめて可である、と述べた。
  • 明珠は二人の使者を角門から入らせようとしたが、二使は「国には大小があるが、使者は実に一体である」と言って、客の礼を行うことを主張し、数日たっても決まらず、そこで孔子廟で会見することを議した。二使は最後まで朝鮮の例により薙髪しないという主張を貫いた。明珠はふたたび慕天顔らを遣わして詔を賚して行かせ、経は中国人であるから、朝鮮の例を引いて自ら荒外に身を置くのはよろしくない、と説かせた。経は天顔に言った。「朝鮮は箕子の後ではないか。朝鮮の例のようにするなら可であるが、削髪を議するなら死んでも不可である。」
  • 総督の李率泰に返した書には、おおよそ次のようにいう。「来書には伯夷・叔斉、田横などの語を引いておられる。伯夷・叔斉は千古の高い義であって、たやすく冷笑できるものではない。田横のごときも、斉の一匹夫にすぎないが、それでもなお義を守って屈することを知っていた。まして不佞は代々国恩を受け、つつしんで先王の訓を承けている者ではないか。衣冠については、私は自分で持っている。爵禄もまた自分で持っている。重い爵と厚い禄、永く封を襲がせるという言葉が、どうして海外の孤臣の心を動かせようか。」
  • また耿継茂に返した書にいう。「東寧は閩に偏し、遠く海外にあって、版図とははるかに関わりがない、という説がある。夷の部落や部曲が日々隣り合っているとはいえ、それはまさに張仲堅が遠く扶余に去り、中土を太原公子に譲ったのと同じである。閣下もまたその意をご存じであろうか。閣下がもし兵を休め民を安んずることを心に留められるなら、ただちに部曲を静かに取り締まり、辺境の部族を慰め安んじられよ。羊祜と陸抗の故事に、どうして努めて従わないことがあろうか。そもそも疆場の事は、あちらが取りこちらが取るものであり、勝負の数は天にある。得失や難易は閣下自らご存じであり、くだくだしく述べるまでもない。」
  • これより使節がしばしば往来し、たがいに無事であった。経はその間に商埠を開き、西洋の各国と交易し、貨物の販売を興し、諸将を分け遣わして荒地を耕し屯させた。荒れ地は日々開かれ、年を越えてその年は大豊作となった。兵と民は大いに和し、国の勢いは日ごとに盛んになった。

西暦1674年 聖祖康熙十三年

  • 春三月、明の嗣延平郡王朱経が出師し、泉州・漳州・潮州の三郡の地を取った。これに先立ち、嗣靖南王の耿精忠が福建に拠って明に帰し、台湾に援けを乞い、漳州・泉州の二府をもってこれに報いると約束した。経はそこで自ら軍を率いて海を渡って西へ向かい、精忠と兵を合わせて広東を攻めた。ついで精忠が約束に背いたので、経は怒り、そこで自ら泉州を取り、漳州を取り、潮州を取った。

西暦1675年 聖祖康熙十四年

  • 夏六月、明の朱経は将の劉国軒らを遣わして漳州を囲んだ。これに先立ち、経は国軒を遣わして潮州に入らせ、何祐とともにまだ下っていない属県を巡って従わせ、尚可喜の兵を鱟母山で大いに破り、四十余里追撃し、斬首は二万あまり、捕虜は七千、踏みにじられて死んだ者が山谷に遍満した。そこで劉国軒・何祐の名は天下に震った。そのまま漳州に入り、嗣海澄公の黄芳度を捕らえて殺し、黄梧の棺を斬り割いてその屍を戮した。韶州・恵州・汀州・興化・邵武の諸郡が相次いで下った。

西暦1678年 聖祖康熙十七年

  • 秋七月、明の朱経の将である劉国軒が海澄を下し、続いて漳州・泉州を囲んだ。これに先立ち、康熙十六年二月、都統の胡兎が漳州・泉州を回復し、経は廈門に奔り、国軒もまた恵州を棄てて去り、七府がいっときにみな潰えた。ここに至って国軒がふたたび出て、沿洲の堡塁を続けて十余か所下した。兵はわずか数千であったが、風のように疾く馳せ突き、その鋒先の鋭さは当たるべくもなく、当事の者は腰を抜かし舌を巻いて、あえて抵抗する者がなかった。
  • そこで嗣海澄公の黄芳世、都統の穆赫林は湾腰樹で敗れ、将軍の喇哈達、都統の胡兎は鎮北山で敗れ、将軍の頼塔、提督の段応挙は祖山頭で敗れた。国軒はそこで平和・漳平を取り、進んで海澄を破り、応挙および総兵の黄藍を斬った。兵士の死んだ者は三万余、馬は一万余匹に及び、軍の勢いはいよいよ振るった。勝ちに乗じて漳平・長泰・同安を下し、南安・恵安・安渓・永春・徳化の諸県を攻め取った。
  • 国軒は自ら漳州を囲み、兵を遣わして泉州を囲んだ。康王傑書は当時福州に駐軍していたが、あえて進まなかった。やがて在籍の学士李光地が道案内となり、頼塔の兵を引いて安渓から間道を通って同安に出ると、泉州の囲みは解け、国軒は退いて海澄に入り、ときおり出て漳州をうかがい、一年余りにらみ合ったまま決着がつかなかった。

西暦1680年 聖祖康熙十九年

  • 春三月、提督の万正色が戦艦を督して海路から閩に赴き、総督の姚啓聖と会して合わせて海澄を攻め、劉国軒は退いて廈門に至り、朱経を奉じて台湾に返った。啓聖はもとより鄭氏を仇とし、必ずこれを滅ぼそうとして、漳州に修来館を設け、官爵や銀幣を餌にして降を申し出る者を誘ったので、台湾の中の腹心にも二心を抱く者が多くなった。ここに至って啓聖らが艦隊をもって至ると、もろもろの戈船はみな風を望んで潰え、国軒はやむを得ず海澄を棄てて廈門に入った。廈門もまた守れないと知り、そこで経を奉じて台湾に返った。
  • そこで将軍の頼塔が経に与えた書には、おおよそ次のようにいう。「台湾はもともと中国の版籍ではなく、足下父子が自ら荊棘を開いたものであり、しかも前朝を懐かしんでおられる。本朝もまた海外の弾丸の地を惜しんで、田横の壮士がその間に逍遥するのを許さないことがあろうか。もし境を保って兵を休めることができるなら、これより岸に上がるにも及ばず、薙髪するにも及ばず、衣冠を改めるにも及ばない。臣と称して入貢するもよく、臣と称せず入貢しないのもまたよい。台湾を箕子の朝鮮とし、徐福の日本として、世と患えることなく、人と争うことなく、沿海の生霊が永く塗炭を免れるようにされたい。ただ足下がこれを図られよ。」経は返書して「約のとおりにお願いしたい。ただ海澄を留めて互市の場所としたい」と言った。啓(底本は「啟」に作る。「啟聖」の脱字か)は不可と主張し、議はそこで取りやめになった。

西暦1681年 聖祖康熙二十年

  • 春正月(底本は「年春正月」に作る)、明の嗣延平郡王鄭経が薨じ、子の克塽が嗣ぎ、なお永暦の正朔を奉じた。経は謙虚でうやうやしく慈しみ深く譲る人で、学を好み射を善くしたが、兵を率いて東に帰ってからは落ちぶれて鬱ぎ、志を抱いたまま歿した。そのときは台湾の人が奉じていた永暦三十五年である。年は三十九、位を嗣ぐこと十九年であった。

西暦1683年 聖祖康熙二十二年

  • 秋七月、降将の施琅が台湾に入り、明の嗣延平王朱克塽が降り、明の正朔は亡んだ。克塽は幼くて弱く、諸事はみな権臣の馮錫範が決し、人心はいよいよ離れた。姚啓聖はつとめて鄭氏を滅ぼそうとし、経が在世のときには、その近侍の施亥を買収して経を襲わせようとした。克塽が立つに及んでは、またその行人の傅為霖を賄賂で買い、十三鎮が同じ日に叛くことを密約させた。刺客を遣わして劉国軒を暗殺しようとしたことも二度あったが、いずれも効がなかった。
  • ここに至って李光地とともに上疏して、「鄭氏は主が幼く乱を図っており、時機を失ってはなりません。水師提督の施琅は海路に習熟しており用いるべきです」と称した。そこで琅に命じて艦三百・水師二万を率いて福建から出発させ、また道士の黄惟震を千戸の職で誘い、台湾に入らせて間諜とした。琅の兵がちょうど澎湖に至ったとき、錫範はすでに使者を遣わして降伏を議していた。琅はそこで衆を率いて台湾に渡り、降伏を受けた。成功が起こってから克塽に至るまで、永暦の正朔を奉じること三十七年、そうして明の正朔ははじめて亡んだ。

史論(編者曰)

  • 編者はいう。順治十八年に成功が進んで台湾をうかがってより、匹夫の勢力をもって欧西の強国と敵対し、ついに独立の局面を創り出し、中華民国のためにその先駆けを開き、国姓爺の名をヨーロッパに知れ渡らせたこと、あわせて二十三年、子や孫に伝えてようやく滅んだ。成功もまた人傑である。
  • また、ビルマ(緬甸)に蒙塵があってのち、中原の統は絶えたことを慨く。しかし成功は一旅をもって故国の衣冠を海外に存し、その正朔を奉じた。後世の君子もまた、当時の明の統は絶えていなかったと言う。成功は徒労であったとは言えない。
原文(底本)
世祖順治二年,明紹宗隆武元年也。夏閏六月,明賜南安侯鄭芝龍子森國姓,名成功。森即芝龍娶日本肥前人田川氏女所生子也。生之夕,火光燭天,芝龍心異之。芝龍以平海賊劉香功,官都督。森在日本已七歲,屢請於日人,始遣森還,而留翁氏。成功儀容俊偉,倜傥有大志,每東向望母輒掩涕,叔父鴻達甚器之,每摩其頂曰:「此吾家千里駒也。」讀書不治章句,作灑掃應對進退,題文中有曰:「湯武之征誅,一灑掃也;堯舜之揖讓,一應對進退也。」人咸以英物目之。年十五,補諸生,試高等,食餼,有相士見之曰:「此奇男子,命世雄才,非科甲中物。」弘光時入南京,錢謙益驚其才,字之曰「大木」,至是芝龍引之入見。紹宗奇其貌,與語,大悅之,撫森背曰:「恨朕無女妻卿,當盡忠吾家,無相忘也。」賜國姓,名成功,命爲御營中軍都督,儀同附馬都尉、宗人府宗正。自是,中外稱之爲國姓。日人聞成功貴寵,亦送翁氏至平安。

  三年,春三月,明封朱成功爲忠孝伯,掛招討大將軍印。時帝在延平,成功條陳據險扼揀,將進取航船合攻通洋裕國事宜。帝嘆爲騂角,授成功大將軍印,予伯爵。時閩中戰守機宜,悉鄭氏爲政,而芝龍有異志,紹宗患之。成功嘗獨入侍,見紹宗有憂容,頓首曰:「陛下鬱鬱,得毋以臣父有異心乎?臣受厚恩,義無反顧,願以死捍陛下矣!」 冬十一月,明朱成功走金門。先是,經略洪承疇言於貝勒博洛,賂芝龍以伯爵,芝龍復書有曰:「遇官兵撤官兵,遇水師撤水師。傾心貴朝,非一日也。」是年六月,芝龍詭稱有海警,馳返安平,盡撤水陸防兵以隨,諸將多不從。紹宗降手勅留之,中使至河干,而芝龍已飛帆過延平矣,博洛遂得長驅入閩。紹宗在汀州遇害,至是博洛遣固山額真韓岱統兵入安平。馳書芝龍,言兩粵未平,已鑄閩廣總督印以相待。芝龍大悅,成功與鴻達痛哭諫,不聽,成功去金門,芝龍召之同行,成功復書拒之。芝龍所部僅五百人,從至福州,皆令雉髮降。 明朱成功率部衆入海,鄭芝龍既降,博洛慮其有反覆,乃分隸其五百人於各旗,令不得相見。夜半,忽拔營起,芝龍曰:「吾子弟皆不馴,今擁兵海上,脫有不測,將奈何?」博洛曰:「此無與爾事,亦非吾所慮及也。」芝龍既北行,成功悉率所部入海,芝豹奉母居安平。 十二月,明朱成功起兵海上以圖恢復。成功初受大將軍印,未幾以母病辭,返延平,故雖受殊恩,未嘗興兵柄一日。已聞父北行,紹宗遇害,乃悲歌慷慨,攜儒冠、儒服赴孔廟哭焚之,曰:「昔爲儒子,今爲孤臣,向背去留,各有作用,惟先師鑒之!」自金門回安平,會文武羣臣誓師恢復,有曰:本爵乃大明之臣子,縞素應然,實中興之將佐。披肝無地,翼諸英傑,共申大義云云。用招討大將軍印,稱罪臣國姓成功,出家帑犒軍,大拜諸將,訓練士卒,整飭船隻,往來島嶼以觀變。

  四年,夏四月,明朱成功復海澄。先是,博洛使人挾鄭芝龍北行,隨親統馬步兵入安平。芝豹倉卒棄城,率家屬登鑑,泊外海,成功母田川氏獨留守。兵入,掠其宅,氏拔劍剖腹死。成功聞報,痛哭出師,全軍皆縞素。師至,博洛見帆艢雲集,軍容煊赫,大懼,星夜引兵還泉州,成功遂取海澄,入九都。 秋八月,明朱成功會定國公鄭鴻達之師攻泉州,不克。鴻達遣人語成功,言平安地方褊小,且無險要可守,勸之取泉州,願以師助,於是成功至自九都,會師於泉之桃花山,在籍御史沈佺期、光錄寺大夫林橋升、主事郭符甲、推官諸葛斌皆奉兵應,降將提督趙國祚迎拒,敗績,進簿州城,復敗,其援兵斬其援將解應龍。守西城將楊義、鄉宦郭顯約內應斌,事洩,斌以率兵逼城,全軍覆沒,顯一門皆遇害,城中防守益嚴。漳州守將王進,亦降也,揚言合潮州援兵數萬至,直搗安平,成功遂馳歸,練兵積餉,圖再舉。 冬十月,明朱成功頒隆武四年戊子大統歷於海上。時永歷帝已於三年十月即位於粵中,至是成功猶未得確耗,因從大學士路振飛、曾櫻議,仍稱隆武四年,頒歷,用文淵閣印鈐之。

  五年,夏五月,明朱成功復同安。成功攻同安,守將祁光秋出戰,成功遣將甘輝敗之,光秋遁走,成功取同安。 秋八月,終鼐等復取明同安,屠之,朱成功部將邱縉、林壯猷、金作裕,知縣葉翼雲,教諭陳鼎皆死之。鼐合降臣李率泰、陳錦攻破同安,以城內堅拒,屠之,血流溝渠爲之滿。 明朱成功遣前中書舍人江于燦、黃志高奉表於肇慶,成功至是始知永歷帝立,加額曰:「吾有君矣!」遣于燦等航海赴行在。 明朱成功復詔安。成功在銅山等處募兵練餉,詔安縣人林曰灼獨拒之,成功遣將甘輝擊斬之,遂得詔安。 冬十月,明封朱成功爲威遠侯,成功尋復雲霄,降將張國柱敗沒,守備姚國秦就擒。

  六年,春三月,明朱成功屯兵分水關,遣將黃山破惠來,海澄、陳斌歸之。斌號大巴掌,有勇力,數百人不敢近,至是來歸,成功授爲後勁鎮。 秋七月,明進封朱成功廣平公。

  七年,春正月,明朱成功復潮陽,知縣常望鳳降。 夏四月,明朱成功攻揭陽之新埠寨,克之,尋詔安張禮率衆數千歸之。 六月,明朱成功討降將蘇利於碣石衛,不克,旋師圍潮州。成功率舟師討利,風逆不利,回師圍潮州。降將王邦俊聞警,率兵取雲霄詔安,成功部將柯宸樞迎戰,以礮矢盡,全軍皆沒。成功聞之大痛,曰:「不恨失浦詔,恨亡宸樞耳!」遂解圍去。 秋八月,明朱成功取廈門、金門。廈、金兩島爲鄭彩、鄭聯所據,芝鵬、芝莞勸成功取之,成功將施朗說尤力。時彩遠出,惟聯在廈而嗜酒,羣謂不取反資敵,爲非計。成功不得已從之,遂併兩島,軍威大震。 冬十月,降將蘇利陷惠來,明朱成功部將盧爵,知縣汪匯死之。利偵知成功回廈門,潛師襲惠來,爵戰死,匯自刎死。 明朱成功取銅山、南澳、閩安諸島,成功命洪政招安諸島,悉聽約束。 十二月,明朱成功率舟師援粵東。成功聞廣州事急,乃以芝鵬守廈門,自率諸鎮南下勤王。

  八年,春閏二月,降將總兵馬得功襲入廈門,明前大學士曾櫻死之,得功旋遁去。時成功師次平海衛,降臣巡撫張學聖乘其遠出,檄得功襲廈門,親率大隊繼其後,遇潮大漲,波濤洶涌,學聖大懼,引兵還,得功亦逸去。 夏四月,明朱成功復廈門。成功聞廈門有警,急率兵返,至則馬得功等已去,成功移師屯金門之白沙,親閱各要口,築礮臺撥勁旅守之。會其將施朗有標兵曾德犯法,朗將殺之,成功馳令勿殺。朗斬之,疾走,降於李率泰,改名琅,授副將。 五月,降將總兵王邦俊與明朱成功大戰於漳浦之南溪,敗績,邦俊師潰,遂閉門不出。 冬十一月,降將提督楊名高與明朱成功兵戰於小盈嶺,敗退泉州。明高聞王邦俊敗於馬口,統諸軍繼進,至小盈嶺伏左右,起,兵潰沒幾盡,遂遁返泉州。 十二月,明朱成功復漳浦。成功乘勝進簿漳州城,守將楊世德、陳堯策出降,遂復漳浦。

  九年,春正月,明朱成功復海澄,浯州人周全斌率衆歸之。 三月,明朱成功復長泰,進攻漳州,降將總督陳錦爲其下所殺。成功攻長泰,錦率師救之,與成功大戰於江東橋,大敗,退返泉州,於是平和、詔安、南靖皆下,進逼漳州。會錦家奴庫成棟等刺殺錦,以首獻成功,成功厚恤成棟家而斬之以殉,曰:「僕隸之人,而皆戕其主,是天下無刑也!」軍中大服。

  十年,春三月,明朱成功遣定西侯張名振率師入長江。名振破京口,截長江,駐軍崇明,獲叛將金允產於金塘山,磔之,成功復益以師,令陳輝、王秀奇、洪旭、周全斌偕行。至羊山,颶風,折兵十之一,惟名振全軍無恙。 夏四月,固山額真金礪攻海澄,明朱成功禦卻之。時城壞十餘丈,成功坐將臺,指揮自若,忽一夕,礪營空礮遞發,成功驚曰:「敵將臨城矣!」勒兵持斧以待,令曰:「敵至方砍。」礪麾衆登城,城上萬斧齊下,隨砍隨墮,壕爲之平。質明,地道火發,復焚斃無數,礪遁返漳州。 六月,明封朱成功爲漳國公。 冬十二月,明張名振大敗崇明駐防軍於平陽沙,駐防兵萬餘渡江,名振鼓衆迎之,防兵盡殲,無一返者。

  十一年,春正月,明朱成功復遣張名振率師入長江,海船數百,遡流而上,再入京口,歷儀真,至觀音門,泊金山。登山望祭孝陵,揚帆東下。復以海艘上鎮江,至儀真,以沙船六十入山東登萊諸處,直抵高麗而還。 二月,遣使入閩講欵,明朱成功拒之。時賂成功以海澄公,成功不受,益出兵大擾福興、漳泉諸郡。 秋八月,復遣使入閩講欵,仍不就。時遣學士葉成格、理事阿山,偕鄭芝龍四子渡。入閩,許割福興、漳泉四府地歸明,成功拒之如故。其報兒書末曰:「萬一不幸,父惟有縞素復仇以結忠孝之局耳!」復遺書與渡。有曰:「兄用兵老矣,豈有舍鳳凰而就虎豹者哉?惟吾弟善事父母,勿以兄爲念。」使者返朝,命錮芝龍於高牆,戍芝豹於寧古塔。 冬十一月,明朱成功發水陸師,應李定國於廣東,不利,成功遣林察等配戰鑑送廣東,齊奏諧行在。會定國合師圍廣州,尚可喜、耿繼茂急請滿兵至,定國攻之,不克,引還,林察等亦退。 十二月,明朱成功復漳州。成功襲破漳州,劉國軒等降,十邑皆下。泉州屬邑亦望風歸附。

  十二年,春正月,明朱成功復仙遊,改中左爲思明州,分所部爲七十二鎮,立儲賢館、諸才館、察言司、賓客司、印局、軍器局,設官理事,勤學取士。奉前監國魯王,暨、盧、溪、甯、靖諸王居金門,禮待避地,遺臣王忠孝等爲上客。 夏五月,明朱成功遣張名振復舟山。成功拜張名振爲元師,陳輝、洪旭、陳六御副之,統二十四鎮入長江。甯波守將張洪德降,進攻舟山,總兵包臣功降,改名臣興。 六月,明朱成功取揭陽,遂取普寧。成功遣將黃廷、萬禮等率二十鎮南下,揭陽、普寧相繼下,閩督劉清泰遺書有曰:「固山枕戈久矣,有不能傾刻待。」成功覽書笑曰:「彼以勁旅挾吾,吾豈懼一固山哉?」不報,朝命鄭王世子濟度爲定遠大將軍,赴閩。成功從馮澄世策,墮安平、漳州、惠安、安南、同安諸城,回師廈門。

  十三年,夏四月,世子濟度攻明夏門,復攻金門,皆敗還。先鋒韓尚亮掠廈門,會颶風大作,復大雨淋漓,船不得泊,滿兵皆顛眩,斷椗壞䑸之聲震蕩魂魄,其被風飄至島者,皆斷其手掌,縱之歸。時濟度偵知朱成功積聚在金門白沙寨,令王進功攻之,甫出港,遇洪旭哨船乘波酣戰,復大敗,遂退入泉港。 六月,明朱成功部將黃梧以海澄來降。先是,蘇茂以揭陽之敗伏誅,罰梧鎧甲五百,命代王秀奇守海澄,梧尋薙髮來降。陳勦海五策:「一、屯沿海以堵登岸;二、造小舟以圖中左;三、清叛產以裕招徠;四、鋤奸商以絕接濟;五、划僞瓄以洩衆憤。」朝命以前封成功海澄公之印授梧,梧薦施琅爲副將。 秋七月,明朱成功取閩安,進攻福州,尋退屯閩安。成功三戰三捷,斬副將胡希玠,擒參將張禮,於是守將望風降。成功不爲備,會城外伏兵起,成功倉猝乘潮解椗退。 冬十二月,明朱成功攻羅源,復攻甯德,梅勒章京阿克襄陣沒。濟度聞羅源之警,遣阿克襄往援,與成功將甘煇戰於護國嶺,敗績,煇斬之,全軍潰走。朝命撫臣佟岱致書成功議欵,成功不報。

  十四年,秋七月,明朱成功攻興化黃巖,遂取台州。天台、太平、海門衛相率歸附,尋閩安爲降臣總督李率泰所誘降,成功恐兩島有失,率舟師回廈門。 冬十一月,明朱成功復鷗汀寨。從陳霸策,取之,以足糧也。 十二月,明遣使冊封朱成功爲延平王、招討大將軍,賜尚方劍,便宜行事。成功欲取江南,乃遣楊廷世、劉九𦤎聞道請旨,引諸葛亮言,謂勢不兩立。朝廷壯之,遣使晉封爵秩,令進師江南,但大義於天下。

  十五年,秋七月,明延平王朱成功、兵部侍郎張煌言,會師大舉北上,次羊山,颶風作,旋師舟山。成功大舉攻南京,以提督甘煇為前部,總兵馬信、萬禮繼之,自統大衆為合後。侍郎張煌言為監軍,揚帆北上,從行戈甲武士十七萬,五萬習水戰,五萬習騎射,五萬習步擊,以萬人往來策應。選力能舉五百觔者,披鐵鎧,繪以朱碧彪紋,留兩目,執斫馬大刀立陣前,砍馬足,號曰鐵人,望者以爲神兵。左虎衛陳魁統之。師既行,平陽、瑞安守將皆獻城降。次羊山,會颶發,碎巨艦數十,漂流士卒八千。成功之四子濬、七子浴、八子溫皆溺焉。成功冠帶起祝曰:「成功統率三軍,恢復中原,如天命有在,即將諸船沉滅,神其鑒諸。」祝畢,風頓止,乃旋泊舟山理楫,以爲後圖。 九月,明朱成功復象山。成功舟師象山,知縣徐福率父老降。

  十六年,夏五月,明延平王朱成功、兵部侍郎張煌言復會師大舉北上,以援滇。時聞貝子洛託等兵三道入滇,度江南無備,復乘機出師。 六月,明朱成功復瓜州、鎮江。前烽張煌言抵瓜州,明日,成功率部將甘輝等乘風潮逕進,操江朱衣祚等率師出禦,敗績,成功乘勝進偪,城遂潰。成功留左鎮劉猷等守之,而親統全軍南渡,攻鎮江。守將告急於南京,以鐵騎三千赴援,三進三卻。成功令發大礮,江水騰沸,兩岸屋瓦皆震。於是南京蘇、常諸道援師畢集,分五路大戰於楊蓬山。時成功兵上陸者僅二千,諸會援者皆一時宿將,提督管效忠尤號善戰,而是日激戰之終局,其部眾四千,存者百四十人,援兵僅存什之一。效忠遁南京,嘆曰:「吾自滿洲入中,固十餘年,未有此死戰也!」鎮江既破,屬邑皆下。成功引兵而西,部將甘輝請:「北取揚州,斷山東之師;南據京江,絕兩浙之糧;嚴扼咽喉,號令各郡,南都可不戰而定。」成功不聽。 秋七月,明朱成功師抵南京,謁孝陵,尋兵敗於城北門外,崇明伯甘輝死之。成功既抵南京謁陵,其哨卒七人掠江浦,取之。越五日,蕪湖以降書至,成功使張煌言率所部由蕪湖進取𪧟、徽諸路,安徽列城,望風反正,凡得郡四、州三、縣二十四,維楊、蘇常,旦夕待變。江、楚、魯、衛人士詣軍門受約束歸,許起兵相應,東南大震!成功至觀音門,以黃安督水師,守三㲼河口,親率諸將由儀鳳門登陸,屯岳廟山。總督郎廷佑使人卑詞以說成功曰:「我朝軍律,守城過三十日,罪不及妻孥。乞寬三十日之限。」成功許之。甘輝、潘庚鍾力諫,煌言亦有書至,勸勿爲敵所賣,成功皆不以爲意。時警信至北京,方議親征,而崇明總後梁化鳳知成功無備,以兵卒數千夜穴神策門,直搗其中堅,以騎兵數万繞山後,出其背,前後夾擊,海師卻,成功登艦退。甘輝、潘庚鍾、萬禮、張英、林勝、藍衍、陳魁、魏標、林世用、洪復等皆力戰死。 九月,明朱成功回師廈門,上表待罪,立廟祀死事諸人。成功還至廈門,哭甘輝而後入曰:「早從將軍言,吾不及此!」立廟祀死難諸臣,以輝爲第一。煌言遇貴州凱旋軍浮江下,亦戰敗,走建德祁門山中,尋出天台以入海。

  十七年,夏五月,命將軍達素、總督李率泰,分兵出漳州、同安,合搗廈門。明朱成功勒諸部扼守海門以拒戰,手自搴旗起師,風吼濤立,一海皆動,軍士踏浪如飛。北人不習水戰,暈眩不能軍,遂大敗,僵屍滿海。有滿洲精卒數百人棄船降,餘退陷於淖,十死六七。首領哈喇土星被擒,達素回福州自殺,自是終成功世,無敢言覆島者。成功既歸,以廈門勢單弱,方謀所向。途遇荷蘭甲傫(通事)、南安人何斌,語成功曰:「臺灣,公家之故土也。其地富強,爲四省要害。」且言可取狀,請爲向導。成功覽其地圖,嘆曰:「此亦海外扶餘也!」留子經守廈門,而自以艦隊向臺灣。臺灣,海中荒島也,明崇禎間,閩地大旱,鄭芝龍請於巡撫熊文燦,以舶徙餓民數萬至其地開墾。及芝龍去臺灣,時荷蘭人踞其地,互市。先築安平城,旋築赤嵌城,全土歸其掌握。然城中荷蘭人不過二千,其餘皆鄭氏所遷之民也。

  十八年,春三月,明朱成功引兵自安平附近上陸,克赤嵌,進圖安平。荷蘭人告急於馬達維亞總督,總督遣兵艦七艘赴援。中國邊吏,致書臺灣知事可依德,求合攻成功。相持數月,竟無功。 冬十月,棄降將鄭芝龍於市,徙沿海居民,禁舟出海,從降將黃梧請也。鄭氏在京者,無少長,皆被殺。下令遷界,禁漁船、商舟出海。自是五省商民流離蕩析,而萬里皆邱墟矣。 十二月,明朱成功取臺灣。改爲東都,以赤嵌城爲承天府,置天興、萬年二縣。時安平陷重圍者已九月,兵士死者數千,而城堅守不下。成功乃使人告哥依德曰:「此地乃先人故物。今我所欲得者,土地耳,餘悉以歸汝。」哥依德知不能敵,乃請降。成功既占領臺灣,內則組織政府,興農業,脩兵備,定法制,建學校,用處士陳永華言:築館舍以居明宗室、遺臣之渡海者。外則置兵金門、廈門兩島,與相犄角。復通聘斐律賓羣島及西班牙諸國,以結外援焉。

  聖祖康熙元年,夏五月,明招討大將軍延平郡王朱成功薨。成功疾革,猶日強起登將臺,持千里鏡,望澎湖諸島。是日登臺罷,冠帶,請太祖訓出,坐胡床,進酒讀。至第二帙,嘆曰:「我有何面目見先帝於地下也?!」兩手掩面而逝。計成功自隆武丙戌起,經營海外十餘載,進取之志,卒未能達。及退據臺灣,越年竟歿,春秋三十有九,子經嗣立。是年永歷帝已先一月被難,而經猶奉其正朔,監國魯王亦殂於臺,兵部尚書張煌言被執,以不屈見殺,建威伯馬信以哭成功過哀,尋亦卒。

  八年,春正月,遣使入臺灣。先是康熙四年,降將施琅、周全斌進兵臺灣,不克而歸,至是命大臣明珠、蔡毓榮入閩,與嗣靖南王耿繼茂遣使招撫。加興化知府慕天顏卿銜,偕都督僉事季佺賚詔往。朱經開明珠書函而不肯開詔,陪使季佺因言:「殿下果肯休兵息民則當如朝鮮例,不登岸,不薙髮,易衣冠。」經以明珠書未及此,遣其禮官葉亨、刑官柯平,隨使臣至,覆明珠書,謂必如賠使言而後可。明珠欲令二使由角門入,二使曰:「國有大小,使實一體。」執行客禮,數日不決,乃議相見於孔廟,二使終執朝鮮不薙發例。明珠再遣天顏等賚詔往,以經爲中國人,不宜引朝鮮例,自居荒外爲言。經謂天顏曰:「朝鮮非箕子後乎?如朝鮮例則可,議削髮則雖死不可。」覆總督李率泰書,略謂:「來書引夷齊田橫等語。夷齊千古高義,未易齒冷。即如田橫,不若齊之一匹夫耳!猶知守義不屈,而況不佞世受國恩,恭承先王之訓乎?至衣冠,我自有;爵祿,亦我自有。而重爵厚祿,永襲封之語,其何以動海外孤臣之心哉!」又覆耿繼茂書:「有謂東寧(時經改東都爲東寧)偏閩,遠在海外,與版图渺不相涉,雖夷落部曲,日與爲鄰,正如張仲堅遠絕扶餘,以中土讓太原公子,閣下亦曾知其意乎?閣下倘能以休兵息民爲念,即靜飭部曲,慰安邊部,羊陸故事,敢不勉承!若夫疆場之事,一彼一此,勝負之數,自有天在,得失難易,閣下自知之,毋庸贅也!」自是使節頻通,相安無事。經以其間開闢商埠,與西洋各國互市,興販貨物,分遣諸將,耕屯荒地。萊汙日闢,踰年而歲大熟。兵民大和,國勢日盛。

  十三年,春三月,明嗣延平郡王朱經出師,取泉、漳、潮三郡之地。先是嗣靖南王耿精忠據福建反正,乞援於臺灣,許以漳、泉二府酬之,經乃親率師渡海而西,與精忠合兵攻廣東。繼而精忠背約,經怒,遂自取泉、取漳、取潮。

  十四年,夏六月,明朱經遣將劉國軒等圍漳州。先是經遣國軒入潮,與何祐徇屬邑之未下者,大敗尙可喜之兵於鱟母山,追奔四十餘里,斬首二萬有奇,捕虜七千,轔藉死者徧山谷。於是劉國軒、何祐之名震天下。遂入漳州,擒殺嗣海澄公黃芳度,斲黃梧之棺,戮其屍。韶、惠、汀、興、邵諸郡相繼下。

  十七年,秋七月,明朱經將劉國軒下海澄,遂圍漳、泉。先是康熙十六年二月,都統胡兔復漳泉,經奔厦門,國軒亦棄惠州去,凡七府一時俱潰。至是國軒復出,沿洲堡連下十餘處,兵僅數千,飄驟馳突,鋒銳不可當,當事者委股咋舌,莫敢枝梧。於是嗣海澄公黃芳世、都統穆赫林敗於灣腰樹;將軍喇哈達、都統胡兔敗於鎮北山;將軍賴塔、提督段應舉敗於祖山頭。國軒遂取平和、漳平,進破海澄,斬應舉及總兵黃藍,兵士死者三萬餘,馬萬餘匹,軍勢益振。乘勝下漳平、長泰、同安,略取南安、惠安、安溪、永春、德化諸邑。國軒自圍漳,遣兵圍泉,康王傑書時駐軍福州,不敢進,已而在籍學士李光地爲鄉導,引賴塔兵由安溪間道出同安,泉州圍解,國軒退入海澄,時出窺漳州,相持年餘不決。

  十九年,春三月,提督萬正色督戰艦,由海赴閩,會總督姚啟聖合攻海澄,劉國軒退至厦門,奉朱經返臺灣。啟聖故仇鄭氏,必欲滅之,間修來館於漳州,以官爵銀幣餌送欵者,臺中心腹遂多攜貳,至是啟聖等以艦隊至,諸戈船皆望風潰,國軒不得已棄海澄入厦門。知厦門亦不可守,乃奉經返臺灣,於是將軍賴塔與經書,略謂:「臺灣本非中國版籍,足下父子自闢荆榛,且睠懷勝國,本朝亦何惜海外一彈丸地,不聽田横壯士,逍遥其閒乎?若能保境息兵,則從此不必登岸,不必薙髮,不必易衣冠。稱臣入貢可也,不稱臣不入貢亦可也。以臺灣爲箕子之朝鮮,爲徐福之日本,與世無患,與人無爭,而沿海生靈永息塗炭,惟足下圖之。」經報書:「請如約,惟欲留海澄爲互市公所。」啟持不可,議遂輟。

  二十年,年春正月,明嗣延平郡王鄭經薨,子克塽嗣,仍奉永歷正朔。經謙恭慈讓,好學善射,自兵東歸,潦倒抑鬱,齎志以殁,時臺人所奉永歷三十五年也。年三十有九,凡嗣位十有九年。

  二十二年,秋七月,降將施琅入臺灣,明嗣延平王朱克塽降,明朔亡。克塽幼弱,諸事皆決於權臣馮錫範,人心益離。姚啟聖務欲滅鄭氏,方經在日,賂其近侍施亥刦經。及克塽立,又賄其行人傅爲霖,密約十三鎮同日叛,凡遣客暗殺劉國軒者再,皆無効,至是與李光地同疏,稱:「鄭氏主少圖亂,時不可失,水師提督施琅習海道可用。」乃命琅率艦三百、水師二萬,自福建出發,又餌道士黃惟震以千户之職,使入臺爲間。琅兵方扺澎湖,而錫範已遣使來議降矣。琅遂率衆渡臺受降。自成功起迄克塽,奉永歷正朔三十七年,而明朔始亡。

  編者曰:自順治十八年成功進窺臺灣,以匹夫之勢力,與歐西雄國爲敵,而卒能剏獨立之局,爲中華民國開其先河,使國姓爺之名顯聞於歐洲者,凡二十三年,傳子若孫乃滅,成功亦人傑哉!又慨自緬甸蒙塵之後,中原之統絕矣!而成功以一旅存故國衣冠於海外,奉其正朔,後之君子亦謂當日明之統未絕也,成功不可謂徒然矣!

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