清史紀事本末官制の改革(官制之改革)

要約

康熙元年、江南・湖広の学道を各一に併せ、総督に兵部、巡撫に工部の銜を加え、延綏巡撫を裁した。二年、漢人司官を京堂に用いる例を停め、四年、湖広・四川・福建・浙江に総督各一員を留め、貴州など四省の総督を隣省に併せ、直隷・山東・河南に三省総管の総督を置いた。五年、満漢の六科給事中を各一員増し、六年、十一省の布政使を各一員とし左右の名を停め、守道・巡道百八員と推官・主事を裁した。

七年、茶馬巡視と巡倉御史を停め、科道の欠員に有司の賢能を挙げさせ、湖広総督を裁した。八年、三省総管の総督を裁し、挙人の知県揀選の例を復した。九年から十三年に諸省の守道・巡道を復設し、四川湖広と福建の総督を分け、江西にも総督を置いた。九年、内三院を内閣と改め満蒙漢軍の学士・侍読を置き、十年、日講官を置き、十二年、漢軍学士を漢缺に併せた。十四年、詹事府を復し、十五年、儒学の教職を増し、十六年に南書房を設け、十八年に潮州の水師、十九年に四川永寧の総兵官を復設した。

二十一年、十省の守道・巡道を裁し、三十二年、広西の二道を復した。三十七年以降、上林苑監の署丞や満洲侍読・中書を裁し、三十九年、直隷・諸省の余員三百三十五員を裁した。五十七年、起居注の衙門を裁し部院に蒙古の官を増した。

雍正元年、日講起居注官を復し、尚書・侍郎に密摺を奏させ、通政司は閑職となった。二年、内地の衛所を州県に併せ、湖河巡視の御史を停め、直隷の守道を布政使、巡道を按察使に改めた。三年、総理事務大臣を撤し、安徽の提督学政を設けた。四年、文字の罪に浙江籍が多く士風の澆薄を憎み、貞観に倣い浙江観風整俗使を置き、のち福建・広東にも設けたが罷めた。五年、八旗の佐領に副領を添え、下第の挙人を教職に授けた。七年、漕政の陋規で淮安に稽査御史、両倉に監督を添え、八年、稽察欽奉上諭事件処を設けた。

十年三月、議政の諸臣が国務に習熟せず内閣の機密が漏れるため、七年に乾清門外へ置いた軍需房を改め辦理軍機処を設け、南書房の隣に遷した。大臣は内閣・部院の卿貳、章京は部曹・中書を充て、軍旅のものは密封し兵部から馳伝させ廷寄といった。これより内閣の任は軽くなった。十二年、浙江総督を裁し浙閩総督を置き、広西は両広総督に帰した。

乾隆元年、五等の世職を定め、精奇尼哈番以下を子・男・軽車都尉・騎都尉・雲騎尉とした。二年、巡漕御史を分駐させ、直隷の副総河と山西の巡察御史を停め、三年、内務府稽査御史を復し督催所を設け、四年、査旗御史を増派し、七年、王大臣に楽部を総領させた。十三年、都察院以下の満漢の缺と中和殿を裁し、行人司を礼部に併せ、大学士を満漢各二員と定め、体仁閣を加え三殿三閣とした。十四年、軍機処を枢密院と改める馮元の請いを却けた。

十六年、肇高学政と知県の行取を停め、十八年、欽天監の満漢監副を裁し西洋監副を増した。二十五年、安徽の藩司を安慶に駐め江蘇に一員を増し、二十六年、新進士からも中書を採り、二十九年、甘粛巡撫を裁し陝甘総督を蘭州に移し、四十一年、文淵閣を建て領閣事以下を大学士らに兼充させた。四十三年、歩軍統領に部院大臣を用いて協理を廃し、四十四年、闢展の辦事大臣を領隊大臣と改め、四十八年、漕運・河道の総督に兵部侍郎の銜のみを与え、大挑の挙人を知県・佐貳に補用した。五十六年、満洲大学士・尚書の議政大臣兼銜を停め、五十八年、大学士の尚書兼銜を削り、杭州織造を塩政、塩道を運使に改めた。嘉慶四年、諸王の部務総理を罷め、八年、満洲の起居注二を増した。

年表

清の聖祖康熙元年(1662年)から仁宗嘉慶八年(1803年)までの約百四十年間、中央・地方の官制がどう改められていったかを年ごとに列挙した篇。康熙期は総督・巡撫・布政使・守巡道などの裁併と復設が繰り返され、内三院を内閣に改め、南書房・詹事府が設けられる。雍正期には密摺奏事の制によって通政司が閑職となり、衛所が州県に併され、稽察欽奉上諭事件処、さらに雍正十年(1732年)に辦理軍機処が置かれて議政の弊が改まり内閣の任も軽くなった。乾隆期は大学士の定員と三殿三閣の確定、文淵閣の職制新設、総督・巡撫の兼銜整理が進み、乾隆五十六年(1791年)には有名無実となった議政大臣の兼銜が廃された。嘉慶に入って諸王の部務総理が罷められ、満洲起居注の増設で結ばれる。

年表(31件)

現代語訳全文

西暦1662年 聖祖康熙元年

  • 春正月、江南省の上江・下江の学道二員、湖広省の湖北・湖南の学道二員を、いずれも裁して一つに併せるよう詔した。
  • 夏四月、総督には兵部の官銜を加え、巡撫には工部の官銜を加えることを定めた。
  • 秋九月、延綏巡撫を裁した。

西暦1663年 康熙二年

  • 春二月、六部の漢人司官を内外の京堂に用いる例を停止した。
  • 苑馬寺の卿・主簿を各一員、監正を七員裁した。

西暦1665年 康熙四年

  • 夏五月、湖広・四川・福建・浙江の四省にはなお各々総督一員を留め、貴州総督は雲南に裁し併せ、広西総督は広東に裁し併せ、江西総督は江南に裁し併せ、山西総督は陝西に裁し併せるよう詔した。直隷・山東・河南には総督一人を設けて三省の事を総管させ、鳳陽巡撫・寧夏巡撫・南贛巡撫はいずれも裁去した。

西暦1666年 康熙五年

  • 夏六月、満・漢の六科給事中を各一員増設した。

西暦1667年 康熙六年

  • 秋七月、河南など十一省はいずれも布政使を各一員だけ留め、左布政使・右布政使の名を停めるよう詔した。江南・陝西・湖広はいずれも布政使二員を留め、各処に駐紮させて分けて事を理めさせた。各省の守道・巡道百八員、推官百四十二員を裁した。
  • 戸部主事十員、工部主事七員を裁した。

西暦1668年 康熙七年

  • 春三月、茶馬を巡視する差遣を停めた。
  • 科道に欠員が出たときは、有司の内から賢能で平素より名の著しい者を挙げ、召して京に来させ、選用を待たせるよう命じた。
  • 夏四月、倉を巡る御史の差遣を停めた。
  • 冬十月、湖広総督を裁した。

西暦1669年 康熙八年

  • 秋七月、直隷・山東・河南の総督を裁した。
  • 冬十二月、挙人を揀選して知県とする例を復した。

西暦1670年 康熙九年

  • 春正月、河南の分守河北道、分巡南汝道を復設した。
  • 二月、浙江の分巡寧紹道、分巡温台道、分守杭嘉湖道、分守金衢厳道を復設した。
  • 閏二月、湖広の分守岳常道、分巡沅靖道、分守衡永郴道を復設した。
  • 三月、四川・湖広総督と福建総督とを分けて設けた。
  • 夏四月、江南の分守蘇松常道、分巡鳳廬道、分巡徽寧道、福建の分守興泉道、分巡延建邵道、江西の駅監道、分巡贛南道、分巡饒九南道を復設した。
  • 秋八月、内三院を改めて内閣とし、大学士などの官銜はいずれも順治十五年の例に照らすよう命じた。
  • 満洲学士二人、満洲侍読学士四人、蒙古・漢軍の侍読学士各二人、満洲侍読八人、蒙古・漢軍の侍読各二人、満洲・漢軍・漢の典籍各二人を設けた。

西暦1671年 康熙十年

  • 夏四月、山西の雁平巡道・河東守道を復設した。
  • 三月、日講官を置き、満洲学士四人、漢軍学士二人、漢学士二人を増設し、いずれも礼部侍郎の銜を兼ねさせた。
  • 冬十一月、貴州の大黔威守道を復設した。

西暦1673年 康熙十二年

  • 冬十一月、浙江の駅伝道を復設した。
  • 漢軍学士を定めて漢人の缺に併せ入れ、合わせて四人とした。

西暦1674年 康熙十三年

  • 春二月、四川に別に総督・巡撫を各一員設けるよう命じた。
  • 秋七月、江西総督を設けた。
  • 八月、江南の徽寧道、浙江の杭厳道、陝西の南関守道を復設した。

西暦1675年 康熙十四年

  • 冬十一月、詹事府の衙門を復設した。

西暦1676年 康熙十五年

  • 秋八月、直隷および諸省の儒学の教職を各一員増設した。

西暦1677年 康熙十六年

  • 冬十一月、南書房を設けた。

西暦1679年 康熙十八年

  • 春正月、広東・潮州の水師総兵官を復設した。

西暦1680年 康熙十九年

  • 夏四月、四川永寧の総兵官を復設した。

西暦1682年 康熙二十一年

  • 冬十月、江南の分守鎮江道、分巡徽寧道、山東の分巡駅伝道、陝西の分守関西道・関南道、分巡駅伝道、浙江の分巡杭厳道、江西の分守湖西道・湖東道、広東の分守嶺東道・嶺西道・羅定道、分巡雷𠔳道(雷瓊道の誤りか)、広西の分守蒼梧道・江左道、分巡桂平道・江右道・鬱林道、四川の分守督糧道、貴州の分守桂東道、雲南の分守臨元道・洱海道を裁した。

西暦1693年 康熙三十二年

  • 春三月、広西の蒼梧守道・右江巡道を復設した。

西暦1698年 康熙三十七年

  • 春二月、上林苑監の漢人の臨丞、およびその所属である林衛・嘉蔬・良牧・蕃育の四署の漢人署丞を各一員裁した。

西暦1699年 康熙三十八年

  • 冬十月、満洲侍読二、中書五、蒙古中書三、漢軍中書五、漢中書八を裁した。

西暦1700年 康熙三十九年

  • 春三月、直隷および諸省の余分な官吏を裁した。巡道・都司・同知・通判・布政使司の理問・都事・照磨、按察使司の照磨・検校、都司の断事、衛の経歴、州同、州判、県丞、府の照磨・知事、司獄、巡検、駅丞、倉庫大使、所官など、合わせて三百三十五員であった。

西暦1718年 康熙五十七年

  • 春二月、起居注の衙門を裁した。
  • 部院に蒙古の官を増設するよう命じ、蒙古の旗分御史二員、六部郎中六員、員外郎八員、主事六員を増した。

西暦1723年 世宗雍正元年

  • 夏四月、日講起居注官を復した。これより先、聖祖が践阼した初めに日講起居注官を設けたが、康熙五十六年以後は記注を裁き省いていた。ここに至って詔して旧のとおりに復設した。
  • 秋七月、尚書・侍郎などの官に、毎日一人ずつ輪番で奏事し、密摺を封じて進めるよう命じた。帝は、通政司が内外の本章を受け、敷奏・封駁の権をもち、職掌があまりに重いとして、内外の諸臣に緊密の事があれば摺奏に改めさせ、専ら奏事の人員を設けてこれを受けさせ、直ちに上に達し得るようにした。これより通政司は閑職の役所となった。
  • 秋八月、台湾淡水の捕盗同知一員、諸羅県北半線地方の知県一員、典史一員を増設した。

西暦1724年 雍正二年

  • 夏閏四月、内地の各衛所を改め併せて州県の管轄に帰させた。ただし辺境の衛で帰すべき州県の無いもの、および漕運の衛所は、それぞれ繇役があり、なお旧のとおり分けて隷属させた。
  • 秋八月、湖河を巡視する御史の差遣を停めた。
  • 冬十二月、直隷の守道を布政使に改め、巡道を按察使に改めた。

西暦1725年 雍正三年

  • 春二月、総理事務大臣を撤した。
  • 三月、安徽の提督学政を設けた。

西暦1726年 雍正四年

  • 冬十月、浙江観風整俗使を設けた。帝は近年文字によって罪を得た者に浙江籍の者が多いことから、その士風の澆薄なのを憎み、厳しく整え理めようとし、唐の貞観年間の制に倣って観風整俗使を置き、浙江省に赴かせて風俗を巡り問わせた。後に福建・広東にも各一人を設けたが、ほどなくいずれも停めて罷めた。

西暦1727年 雍正五年

  • 春三月、八旗の佐領ごとに副領一員を添え設けるよう命じた。
  • 夏四月、吏部に、下第した挙人を挑み選んで各省の教職に授けるよう命じた。兵部には、まだ侍衛に選ばれていない満洲・蒙古の武進士を領侍衛内大臣に引き渡して効力行走させ、漢軍の武進士はその旗に引き渡して驍騎校に補用させるよう命じた。漢人の武進士は各省に分け遣わし、千総の俸を食むことを賞賜し、その材力の人に勝れた者は守備に題して補わせた。

西暦1729年 雍正七年

  • 春正月、淮安の稽査御史二員、中倉の漢人監督・南倉の満洲監督各一員を添え設けた。帝は、糧船が淮を過ぎるときに費やす陋規が甚だ多く、大いに漕政の弊となっているとして、御史二員を淮安に遣わし、専ら稽察の任を司らせた。また各倉は例として満漢の監督各一員を設けて倉務を処理させているが、中倉と南倉は一つの城を隔てており、一倉に一人では査察しがたいとして、中倉の漢人監督一員、南倉の満洲監督一員を添え設け、こちらに構えばあちらを失うという患いを免れさせた。

西暦1730年 雍正八年

  • 冬十一月、稽察欽奉上諭事件処を設けた。帝は、内閣の衙門では降旨して特に交付された事件のうち、直ちに処理されるものもあれば、久しく遅れてなお処理されないものもあり、それは総じて稽察し督促する者がいないためで、遅速が揃わず、時に遷延が生じる、とした。そこで稽察欽奉上諭事件処を設け、満漢の大学士および各部院の堂官の内から数人を派出して兼ね領させるよう命じた。

西暦1732年 雍正十年

  • 春三月、辦理軍機処を設けた。初め議政の諸臣にはみな貴族・世爵の者を充てていたが、後に西北の両路で用兵するに及び、帝は諸王・大臣が国務に習熟していないことを恐れ、また内閣は太和門の外にあって宿直の者が多いため、事の機密が漏れることを憂え、そこで雍正七年に軍需房を乾清門外の西の端に設け、内閣中書のうち慎重で口の堅い者を選んで入直させ、文書を清書させた。ここに至ってこれを辦理軍機処と改名し、門内に遷して南書房と隣り合わせた。さらに隆宗門の西に夜直する者の食事と宿泊の場を設けた。その大臣および章京は常日ごろ禁庭に直して召見を待ち、円明園に駐まって入直する場合や行在所でも同様であった。軍機大臣には内閣および部院の卿・貳のうち政体に熟諳した者を簡んでその職を兼ね摂らせ、軍機章京には部曹および内閣の侍読・中書などを選んでこれに充てた。その職掌は諭旨を擬し書くことにあり、諭旨のうち公に降すものは内閣に下し、順次に部・科へ及ぼした。軍旅に関わるものは密封して兵部に渡し馳せ伝えさせ、これを廷寄といった。これより議政の弊がはじめて改まり、内閣の任もまた軽くなった。

西暦1734年 雍正十二年

  • 冬十月、浙江総督を裁し、なお浙江巡撫および浙閩総督を設け、雲貴総督は兼ね管する必要がないものとし、広西はなお両広総督の管轄に帰した。

西暦1736年 高宗乾隆元年

  • 秋七月、五等の世職を定め、漢文では精奇尼哈番を子、阿世哈尼哈番を男、阿達哈哈番を軽車都尉とし、なおそれぞれ等を分けた。拝他喇布勒哈番を騎都尉、拖沙喇哈番を雲騎尉とした。

西暦1737年 乾隆二年

  • 秋八月、漕を巡る御史四員を淮安・済寧・天津・通州に分けて駐まらせるよう命じた。
  • 直隷の副総河を裁し、山西の巡察御史および帰化城を稽査する御史(稽査帰化城御史)を停めた。

西暦1738年 乾隆三年

  • 秋七月、内務府を稽査する御史を復設した。
  • 八月、各部院に督催所を設け、各部院の遅延した事件を稽察させた。大学士が侍読学士・侍読・中書を酌んで委ね、これを兼ねて司らせた。

西暦1739年 乾隆四年

  • 夏六月、旗を査する御史を増し派した。

西暦1742年 乾隆七年

  • 冬十二月、王・大臣に楽部を総領させ、併せて太常寺の楽員を汰した。

西暦1748年 乾隆十三年

  • 夏四月、都察院の僉都御史、通政司の右通政、大理寺の少卿、詹事府の少詹事について漢人の缺を各一、太僕寺の少卿、国子監の司業について満洲の缺を各一裁した。通政司の満洲参議一缺を右参議に改め、満漢の左通政二缺を通政副使に改めた。また行人司の衙門を裁して礼部に併せ入れた。
  • 冬十二月、協辦大学士で総督を兼ね管する者は、なお協辦大学士の銜を帯びる必要はないと定めた。それが定数のある缺ではないからである。また内閣大学士は内三院から改め設けて以来定数が無かったが、以後は満漢各二員とした。その協辦は満漢それぞれ一員または二員とし、人によって酌んで派すこととした。また大学士の官銜は例として殿閣を兼ねるが、中和殿の名を裁去し、体仁閣を増し入れて、三殿三閣とした。

西暦1749年 乾隆十四年

  • 春正月、左春坊の満漢の左諭徳二缺を裁した。
  • 秋九月、翰林院から道・府の任に堪える人員を揀び選ぶよう命じた。
  • 冬十一月、御史の馮元が軍機処を枢密院と改めるよう請うたが、許さなかった。

西暦1751年 乾隆十六年

  • 夏四月、広東の肇高学政を裁した。
  • 五月、知県を三年ごとに行取する例を停止した。

西暦1753年 乾隆十八年

  • 夏五月、欽天監の満漢の監副各一を裁し、西洋監副一を増した。

西暦1760年 乾隆二十五年

  • 夏六月、旧制では安徽布政使は督臣に随って江寧に駐紮しており、文書の往復に時を要しており、安徽の藩司を安慶に駐まらせ、江蘇に藩司一員を増設するよう命じた。

西暦1761年 乾隆二十六年

  • 春三月、はじめて新進士の引見のときに中書数員を酌んで用い、中書挙人と同様に補用させることとした。これ以前は専ら挙人を用いていたので、会試の年に当たるとみな入閣して試験を受け、事を処理する人が乏しくなったからである。

西暦1764年 乾隆二十九年

  • 春三月、甘粛巡撫を裁し、陝甘総督を蘭州に移し駐まらせるよう命じた。

西暦1776年 乾隆四十一年

  • 夏六月、文淵閣を文華殿の後ろに建て、文淵閣領閣事二員を置き、大学士・協辦大学士・翰林院掌院学士をもって兼ね充て、典掌を総べ司らせた。直閣事は六員、科挙出身の内閣学士、内班出身の満洲詹事・少詹事・侍読学士・侍講学士、漢人の詹事・少詹事・侍読学士・侍講学士などの官をもって兼ね充て、ともに書物の保管と整理を司らせた。校理は十六員、内班出身の満洲の庶子・侍読・侍講・洗馬・中允・賛善・編修・検討、漢人の庶子・侍読・侍講・洗馬・中允・賛善・修撰・検討、および科目出身の侍読などの官をもって兼ね充て、分かれて註冊と点検を司らせた。提挙閣事は一員、内務府大臣をもって兼ね充て、鍵の開閉を管理させた。検閲は八員、科目出身の内閣中書をもって兼ね充て、随って排列と整理に当たらせた。

西暦1778年 乾隆四十三年

  • 冬十月、歩軍統領で尚書・侍郎から簡び放たれた者については、改めて協理を派す必要はないと定めた。これより先、歩軍統領は多く都統などの官から簡び放たれており、法律の知識が無いことを恐れて、特に刑名を掌る部の臣一人を派してこれを協理させていた。ここに至って帝は、今後の歩軍統領はみな部院の大臣を用いるので、刑事の裁判に遇ってもみな自ら任じ得る、改めて協理の員を派す必要はない、とした。

西暦1779年 乾隆四十四年

  • 夏四月、闢屐(闢展の誤りか)の辦事大臣を領隊大臣と改め、吐魯番に移し駐まらせた。

西暦1783年 乾隆四十八年

  • 春三月、従来の例では総督はみな兵部尚書・右都御史の銜を兼ね、巡撫はみな兵部侍郎・右副都御史の銜を兼ねていたが、漕運総督・河道総督には地方の責任が無く、各省の総督とは異なるので、以後は兵部侍郎の銜だけを与えることとし、例として定めた。
  • 秋七月、各省に大挑の挙人を分け遣わし、知県および佐貳の職に分けて補用するよう命じた。

西暦1793年 乾隆五十八年

  • 春三月、大学士が尚書の銜を兼ねること、翰林院掌院が侍郎の銜を兼ねること、順天府尹が提督学政の銜を兼ねることを削除した。
  • 杭州織造を塩政に改め、塩道を運使に改めた。浙江の塩務は従来巡撫が兼ね管していたが、帝は稽察する者が無く、巡撫が任意に支出を動かす弊があることを恐れ、織造を塩政に改めて織造を兼ね管らせるよう諭した。塩道には地方を分けて巡る責任が無く、運使に改めた。

西暦1791年 乾隆五十六年

(底本はこの条を五十八年の後に置く)

  • 十月、満洲の大学士・尚書が議政大臣の銜を兼ねることを停止した。雍正年間に軍機処を設立して以来、なお議政大臣の名を留めて満洲大臣の兼銜としていたが、ここに至って帝は有名無実であるとして、特旨をもってこれを廃した。

西暦1799年 仁宗嘉慶四年

  • □月(底本欠字)、諸王が部務を総理することを罷めた。

西暦1803年 嘉慶八年

  • 秋八月、満洲の起居注二を増設した。
原文(底本)
聖祖康熙元年,春正月,詔江南省上江、下江學道二員,湖廣省湖北、湖南學道二員,俱裁併歸一。 夏四月,定總督加兵部銜,巡撫加工部銜。 秋九月,裁延綏巡撫。

  二年,春二月,停止六部漢司官內外京堂例。 裁苑馬寺卿主簿各一員,監正七員。

  四年,夏五月,詔湖廣、四川、福建、浙江四省,仍各留總督一員,貴州總督裁併雲南,廣西總督裁併廣東,江西總督裁併江南,山西總督裁併陝西。直隸、山東、河南設一總督,總管三省事,其鳳陽巡撫、甯夏巡撫、南贛巡撫俱裁去。

  五年,夏六月,增設滿漢六科給事中各一。

  六年,秋七月,詔河南十一省,俱留布政使各一員,停左右布政使之名。江南、陝西、湖廣俱留布政使二員,駐紮各處分理。裁各省守巡道百八員,推官百四十二員。 裁戶部主事十員,工部主事七員。

  七年,春三月,停巡視茶馬差。 命科道缺出,就有司內舉賢能素著者,行取來京,聽候選用。 夏四月,停巡倉御史差。 冬十月,裁湖廣總督。

  八年,秋七月,裁直隸、山東、河南總督。 冬十二月,復舉人揀選知縣例。

  九年,春正月,復設河南分守河北道,分巡南汝道。 二月,復設浙江分巡甯紹道,分巡溫台道,分守杭嘉湖道,分守金衢嚴道。 閏二月,復設湖廣分守岳常道,分巡沅靖道,分守衡永郴道。 三月,分設四川、湖廣總督、福建總督。 夏四月,復設江南分守蘇松常道,分巡鳳廬道,分巡徽甯道;福建分守興泉道,分巡延建邵道;江西驛監道,分巡贛南道,分巡饒九南道。 秋八月,命改內三院爲內閣,大學士等官銜俱照順治十五年之例。 設滿洲學士二人,滿洲侍讀學士四人,蒙古、漢軍侍讀學士各二人,滿洲侍讀八人,蒙古、漢軍侍讀各二人,滿洲、漢軍漢典籍各二人。

  十年,夏四月,復設山西雁平巡道、河東守道。 三月,置日講官,增設滿洲學士四人,漢軍學士二人,漢學士二人,均兼禮部侍郎銜。 冬十一月,復設貴州大黔威守道。

  十二年,冬十一月,復設浙江驛傳道。 定漢軍學士,併入漢缺,共爲四人。

  十三年,春二月,命四川另設總督、巡撫各一。 秋七月,設江西總督。 八月,復設江南徽甯道,浙江杭嚴道,陝西南關守道。

  十四年,冬十一月,復設詹事府衙門。

  十五年,秋八月,增設直隸各省儒學教職各一員。

  十六年,冬十一月,設南書房。

  十八年,春正月,復設廣東、潮州水師總兵官。

  十九年,夏四月,復設四川永甯總兵官。

  二十一年,冬十月,裁江南分守鎮江道,分巡徽甯道;山東分巡驛傳道;陝西分守關西道、關南道,分巡驛傳道;浙江分巡杭嚴道;江西分守湖西道、湖東道;廣東分守嶺東道、嶺西道、羅定道,分巡雷𠔳道;廣西分守蒼梧道、江左道,分巡桂平道、江右道、鬱林道;四川分守督糧道;貴州分守桂東道;雲南分守臨元道、洱海道

  三十二年,春三月,復設廣西蒼梧守道、右江巡道。

  三十七年,春二月,裁上林苑監漢臨丞,及所屬林衛、嘉蔬、良牧、蕃育四署漢署丞各一。

  三十八年,冬十月,裁滿洲侍讀二,中書五;蒙古中書三,漢軍中書五,漢中書八。

  三十九年,春三月,裁直隸各省間冗官員,計巡道、都司、同知、通判、布政使司理問、都事、照磨按察使司、照磨檢校都司、斷事衛經歷州同州判縣丞府、照磨知事司、獄廵檢、驛丞、倉庫大使所官等共三百三十五員。

  五十七年,春二月,裁起居注衙門。 命部院增設蒙古官,增蒙古旗分御史二員,六部郎中六員,員外郎八員,主事六員。

  世宗雍正元年,夏四月,復日講起居注官。先是聖祖踐阼之始,設日講起居注官,至康熙五十六年以後裁省記注,至是詔復設如故。 秋七月,命尙書侍郎等官,每日一人輪班奏事,密摺封進。帝以通政司受內外本章,有敷奏封駁之權,職掌太重,命內外諸臣有緊密事改用摺奏,專設奏事人員以受之,使得立達。自是通政司爲間曹。 秋八月,增設臺灣淡水捕盜同知一、諸羅縣北半線地方知縣一、典史一。

  二年,夏閏四月,改倂內地各衛所歸於州縣管轄,其邊衛無州縣可歸與漕運之衛所,各有繇役,仍舊分隸。 秋八月,停差廵視湖河御史。 冬十二月,改直隸守道爲布政使,廵道爲按察使。

  三年,春二月,撤總理事務大臣。 三月,設安徽提督學政。

  四年,冬十月,設浙江觀風整俗使。帝以近年文字獲罪之人多係浙籍,惡其士習澆薄,欲嚴加整理,因仿唐貞觀中制,置觀風整俗使前往浙省,廵問風俗。後福建、廣東各設一人,尋俱停罷。

  五年,春三月,命八旗每佐領添設副領一。 夏四月,命吏部挑選下第舉人,授各省敎職。命兵部將未選侍衛之滿蒙武進士交與領侍衛內大臣効力行走,漢軍武進士交與該旗,以驍騎校補用。漢武進士分發各省,賞食千總俸,其材力出衆者以守備題補。

  七年,春正月,添設淮安稽查御史二員,中倉漢監督、南倉滿監督各一員。帝以糧船過淮,所費陋規甚多,大爲漕政之弊,因派御史二員前往淮安,專司稽察之任。又以各倉例設滿漢監督各一員辦理倉務,而中倉、南倉相隔一城,一倉一人難於查察添設,中倉漢監督一、南倉滿監督一,以免有顧此失彼之患。

  八年,冬十一月,設稽察欽奉上諭事件處。帝以內閣衙門凡於降旨特交事件,有卽行辦理者亦有遲久尙未辦理者,總因無稽察督催之人,是以遲速不齊,間有躭延。著設稽察欽奉上諭事件處,於滿漢大學士各部院堂官內派出數人兼領。

  十年,春三月,設辦理軍機處。初議政諸臣皆以貴族世爵充之,後因西北兩路用兵,帝恐諸王大臣不諳國務,而內閣在太和門外,儤直者多,慮漏洩事機,乃於雍正七年設軍需房於乾清門外西偏,選內閣中書之謹密者入直繕寫,至是更名辦理軍機處,遷於門內與南書房鄰。復於隆宗門西供夜值者食宿,其大臣及章京常日直禁庭以待召見,駐圓明園入直及行在所亦如之。軍機大臣𥳑內閣及部院卿貳熟諳政體者兼攝其職,軍機章京則選部曹及內閣侍讀中書等爲之,其職掌在擬書諭旨,諭旨之明降者下於內閣,以次及於部科。其有關於軍旅者則密封交兵部馳遞,謂之廷寄,自是議政之弊始革,而內閣之任亦輕矣。

  十二年,冬十月,裁浙江總督,仍設浙江廵撫及浙閩總督,雲貴總督不必兼管,廣西仍歸兩廣總督管轄。

  高宗乾隆元年,秋七月,定五等世職,漢文以精奇尼哈番爲子,阿世哈尼哈番爲男,阿達哈哈番爲輕車都尉,仍各分等。拜他喇布勒哈番爲騎都尉,拖沙喇哈番爲雲騎尉。

  二年,秋八月,命廵漕御史四員分駐淮安、濟𡩋、天津、通州。 裁直隸副總河,停山西廵察及稽查、歸化城御史。

  三年,秋七月,復設稽查內務府御史。 八月,設各部院督催所,稽察各部院遲延事件。大學士酌委侍讀學士、侍讀中書兼司之。

  四年,夏六月,增派查旗御史。

  七年,冬十二月,命王大臣總領樂部,並汰太常寺樂員。

  十三,年夏四月,裁都察院僉都御史、通政司右通政、大理寺少卿、詹事府少詹事,漢缺各一,太僕寺少卿、國子監司業,滿缺各一。改通政司滿參議一缺爲右參議,改滿漢左通政二缺爲通政副使。又裁行人司衙門,歸倂禮部。 冬十二月,定協辦大學士兼管總督者,不必仍帶協辦大學士銜,以其非額設之缺也。又內閣大學士由內三院改設未有定數,嗣後爲滿漢各二員。其協辦,滿漢或一員或二員,因人酌派。又大學士官銜例兼殿閣,裁去中和殿名,增入體仁閣,爲三殿三閣。

  十四,年春正月,裁左春坊滿漢左諭德二缺。 秋九月,命揀選翰林院堪勝道府人員。 冬十一月,御史馮元請改軍機處爲樞密院,不許。

  十六年,夏四月,裁廣東肇高學政。 五月,停止知縣三年行取之例。

  十八年,夏五月,裁欽天監滿漢監副各一,增西洋監副一。

  二十五年,夏六月,舊制安徽布政使隨督臣駐紮江𡩋,文移往返需時,命安徽藩司駐安慶,於江蘇增設藩司一員。

  二十六年,春三月,始令新進士引見時,酌用中書數員,與中書舉人一體補用。因前此專用舉人,遇會試之年俱入閣應試,致辦事乏人也。

  二十九年,春三月,裁甘肅廵撫,命陜甘總督移駐蘭州。

  四十一年,夏六月,建文淵閣於文華殿後,置文淵閣領閣事二員,以大學士、協辦大學士、翰林院掌院學士兼充,總司典掌;直閣事六員,以科甲出身之內閣學士、內班出身之滿詹事、少詹事、侍讀侍講學士、漢詹事、少詹事、侍讀侍講學士等官兼充,同司典守釐輯;校理十六員,以內班出身之滿庶子、侍讀侍講、洗馬、中允、贊善、編修、檢討、漢庶子侍讀侍講、洗馬、中允、贊善、修撰檢討及科目出身之侍讀等官兼充,分司註冊點檢;提舉閣事一員,以內務府大臣兼充,管理鎖鑰啟閉;檢閱八員,以科目出身之內閣中書兼充,隨同排次清釐。

  四十三年,冬十月,定步軍統領由尙書侍郎𥳑放者,毋庸再派協理。先是步軍統領多由都統等官𥳑放,恐其無法律知識,特派刑名部臣一人以協理之,至是帝以今後步軍統領皆用部院大臣,遇有刑事裁判皆能自任,不必復派協理之員。

  四十四年,夏四月,改闢屐辦事大臣爲領隊大臣,移駐吐魯番。

  四十八年,春三月,以向例總督俱兼兵部尙書右都御史銜,廵撫俱兼兵部侍郎右副都御史銜,漕運河道總督並無地方之責,與各省總督不同,嗣後止給與兵部侍郎銜,著爲例。 秋七月,命各省分發大挑舉人,以知縣佐貳分別補用。

  五十八年,春三月,刪除大學士兼尙書銜、及翰林院掌院兼侍郎銜、順天府尹兼提督學政銜。 改杭州織造爲鹽政、鹽道爲運使。浙江鹽務向歸廵撫兼管,帝恐無人稽察,廵撫有任意動支之弊,諭將織造改爲鹽政,兼管織造。鹽道無分廵地方之責,改爲運使。

  五十六年,十月,停止滿洲大學士尙書兼議政大臣銜。自雍正中設立軍機處,猶留議政大臣之名,以爲滿大臣兼銜,至是帝以有名無實,特旨廢之。

  仁宗嘉慶四年,   月,罷諸王總理部務。

  八年,秋八月,增設滿洲起居注二。

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