清史紀事本末文字の獄(文字之獄)

要約

康熙二年夏五月、湖州の民荘廷鑨の屍を戮し、父の胤城・弟の廷鉞を斬った。朱国楨の未刊の明史稿を質で得た廷鑨が自名で刻し、補った崇禎一朝に李成梁が王杲を斬った語があり、罷官中の帰安知県呉之栄が復職を謀って発き、胤城が版を改めると初版を法司に上し大獄となった。序を作った李令晳も坐死し四子を殺され、十六の末子は一歳減らせば免れたが供述を改めず死んだ。之栄は怨む富人朱佑明へ禍を嫁して五子を殺し、連座死七十余人、婦女は辺境に給され、之栄は起用され佑明の産を与えられた。

康熙六年夏四月、江南の沈天甫・呂中・夏麟奇を殺した。忌諱の多い詩二巻を黄蕁素ら百七十六人の作と偽り財を詐ろうとし、平民を誣い陥れたとして法に伏した。

康熙五十二年春二月、編修戴名世を殺し、学士方孝標の屍を戮した。名世は明史が忌諱に憚り成らぬのを痛み、門人金生への書に弘光・隆武・永暦の十七、八年が書かれず明の一代三百年の史が無いと嘆き、孝標の『滇黔紀聞』を称えた。『南山集』の語を都御史趙申喬が上聞し、名世は一族棄市、孝標は屍を戮され、連座して遣された者三百余人。申喬も二年経たず子の鳳詔が贓で法に伏した。

雍正三年冬十二月、『西征随筆』に聖祖を譏り年羹堯のため「功臣為すべからず」の論を作った汪景祺を殺した。四年、年羹堯の功徳を頌した銭名世の職銜を革め原籍に戻し、「名教罪人」の扁額を居宅に掲げさせ、朝士に刺る詩を賦させた。冬十月、文字の罪に浙江人が多いとし王国楝を浙江観風整俗使とし、郷試・会試を停めた。五年春、『河清頌』の「旧染維新、風移俗易」で鄒汝魯を荊州の隄工に発し、夏五月、試題「維民所止」を「雍正」の首を斬る意と訐かれた礼部侍郎査嗣庭の屍を戮し、兄の慎行ら八人を流した。七年、程朱を毀る『大学』注の謝済世を軍の苦役に充て、『通鑑論』十七篇の陸生杋を殺した。八年、「清風不識字、何得乱翻書」の句で庶吉士徐駿を殺した。

十年冬十二月、呂留良と子葆中の屍を戮し、次子毅中らを斬った。留良は石門の人、晩村先生と称され薦挙に就かず僧となった。湖南永興の曾静は留良の書の夷夏の防・井田・封建の篇に種族の境を知り、張熙を毅中に遣って遺書を得、厳鴻達・沈在寛らと光復を志し、岳飛の裔の川陝総督岳鍾祺に、帝が父を弑し弟を屠り功臣を戮した罪を歴数し挙事を勧めた。鍾祺の奏聞で庭訊となり、帝は留良らの罪が静らの上にあるとし静・熙を赦し、毅中・在寛を斬り、留良を祀った朱振基らも坐死し、奴とされた者二十三家。

十三年冬十二月、曾静・張熙を殺した。世宗は静らを釈し朕の子孫といえども追い戮すなと詔したが、高宗は嗣立するとこれを殺し、『大義覚迷録』の講説を停め原書を返納させた。

乾隆十八年、丁文彬の逆書を究めず放った江蘇巡撫荘有恭を養廉銀十倍で罰し、十九年、詩稿に窮途を嘆いた世臣を根本を忘れたとし黒竜江に戍らせた。二十年、『堅磨生詩鈔』の号と試題を摘まれた内閣学士胡中藻を棄市し、蒙古を「胡児」と称した鄂昌に死を賜い、張泰開を革職し、鄂爾泰を賢良祠から撤し、八旗が漢文を学び漢人と唱和するのを禁じた。二十二年、呉三桂の檄に評を加えた段昌緒らを殺し、禁書を蔵し族譜に御名を闕筆せぬ彭家屏に死を賜った。二十九年、隠語で泰州知州頼宏典を殺し、三十二年、呂留良の書を刻した斉周華を磔にした。三十三年に謝済世・李紱らの書版、三十四年に銭謙益の両集、三十七年に著作の進呈を詔し、三十九年に直省の蔵書と屈大均の詩文を燬させた。四十年、呂留良の孫らを披甲人の奴とし『遍行堂集』等を毀ち、四十二年、『字貫』に御名を列ねた王錫侯を獄に下した。四十三年、墓誌に「皇考」と用いた王爾揚は叛逆でないとして誅を免じ、「一挙去清都」の『一柱楼詩』で徐述夔父子の屍を戮し孫らも坐死し、沈徳潜も「奪朱非正色、異種也称王」の句で棺を剖かれた。父の行述の語で常玉振が獄に下され、逆詩で逮えられた李雍・余騰蛟は事実でなく究めを免れた。四十四年、奏稿に硃批を載せた黄検を降し、智天豹を殺し、四十六年、父の諡と孔廟従祀を請うた尹嘉銓を絞った。

編者はいう、康熙・雍正の間からしばしば文字の獄が興り、当時は人心が一つでなく君主が自ら衛る計も已むを得ぬが、乾隆朝に至ると各案は細事を挙げ、誅は朝廷じゅうに連なり、妖言に附会し詩文を告げ訐く事が入り乱れた、と。御史曹一士は疏して、小人が睚眦の怨みで字句を摘み、有司が風を生じ師弟・親戚に累を及ぼし家を破り命を亡ぼさせるのは憫れむべきだ、井田・封建の談も懐いを述べ史を詠む詩も詞人の習いにすぎぬ、これを妖言に比して赦さねば告訐は止まず士子は文を作るのを戒めとし、義をもって法を正す意に外れる、と論じた。

年表

清朝が書物や詩文の字句を咎めて士人を処罰した文字の獄を、康熙二年(1663年)の荘廷鑨の明史案から乾隆四十六年(1781年)の尹嘉銓の絞殺まで、およそ百二十年にわたって列記する。康熙朝では荘廷鑨・戴名世の獄が一族や序文の作者・収蔵者にまで及び、雍正朝では汪景祺・査嗣庭・呂留良・曾静らが罪を得て、呂留良の獄は屍を戮すまでに至った。乾隆朝に入ると胡中藻・彭家屏・徐述夔・沈徳潜らが摘発され、さらに直省の蔵書を購訪・銷燬させる書物の禁が加わった。編者は御史曹一士の疏を引き、細事を挙げて告訐が横行した当時の文禁の苛酷さと冤獄の多さを批判している。

年表(25件)

現代語訳全文

西暦1663年 聖祖康熙二年

  • 夏五月、浙江湖州府の民人荘廷鑨の屍を戮し、その父の荘胤城、弟の荘廷鉞をいずれも立ちどころに斬るよう詔した。初め、明の故大学士朱国楨がひそかに明史を著したが、籍(書)は未刊のまま没し、家も中ほどから落ちぶれ、その稿本を質に入れて廷鑨から金を得た。廷鑨は自分の名に易えてこれを刻し、崇禎一朝の事を補い入れたが、その中に万暦年間に総兵の李成梁が建州衛都指揮使の王杲を捕えて斬った、という語があった。帰安知県の呉之栄はちょうど官を罷められており、復職を謀って、この事を挙げ発いた。廷鉞は賄賂を入れて免れた。廷鑨が死ぬと、その父の胤城は書中の指し斥る語をやや改め、版を改めて刊行した。栄は計略が売れなかったのを恨み、さらに初版を購って法司に上し、ついに大獄が興った。
  • 致仕した侍郎の李令晳はその序を作っていたので、これも坐して死に、しかもその四子を殺した。末子は年十六で、法官は供述の年齢を一歳減らすよう命じた。例によれば死を免れ得たからである。だが末子は独り生きるに忍びず、ついに供述を改めずに死んだ。序中に「旧史の朱氏」といっているのは国楨を指すのだが、之栄は平素南潯の富人朱佑明を怨んでいたので、そこへ禍を嫁し、しかもその姓名を指して証拠とし、併せてその五子を殺した。そのほか書に名を列ねた者、および失察の官吏、刊刻した者・収蔵した者で連座して死んだ者は七十余人、婦女はみな辺境に給された。そして之栄はついにこれによって起用され、併せて籍没した朱佑明の産をこれに与えられ、後には右僉都御史まで仕えた。

西暦1667年 康熙六年

  • 夏四月、江南の民人沈天甫・呂中・夏麟奇を殺した。天甫らは詩二巻を選んだが、語に忌諱が多く、黄蕁素ら百七十六人の作で、陳済生の編輯、呉牲らの序であると名を偽った。それを持って牲・元萊のもとに行き、財物を詐り取ろうとした(底本は「牲元萊」に作る。「牲子元萊」の脱字か)。元萊はその書が亡父の手蹟でないことを察し、巡城御史に訴えて上聞させた。法司に下して厳しく審らかにさせ、天甫らが平民を誣い陥れて謀叛としたものであるとして、みな法に伏した。誣告された者たちは事の終わりには取り調べを解かれたが、その生死は多くが知れなくなった。

西暦1713年 康熙五十二年

  • 春二月、翰林院編修の戴名世を殺し、学士の方孝標の屍を戮した。当時、明史を修めよとの詔が下ってすでに数十余年になっていたが、館臣が遺書を採録するにあたって、おおむね忌諱が多く、しばしば稿を裁ち直すばかりで完成を告げずにいた。名世は心中ひそかにこれを痛み、『孑遺録』を著してその大要を示し、また門人の金生に与える書を作って、こういった。弘光が南京に帝となり、隆武が閩越に帝となり、永暦が両粤と滇黔の地方数千里に帝となって、始めから終わりまで十七、八年に及んだのに、昭烈が蜀にあり帝昺が厓にあった場合のように、史家がその事を備さに書き記し得るようにはならなかった。近ごろようやく文字の禁が寛やかになったとはいえ、天下が忌諱を避ける手だては万端で、ついに明の一代三百年について史が無い。嘆かわしいことではないか、と。書中にはまた孝標の著した『滇黔紀聞』を引き、その考証は確実であると称えていた。この書は彼の『南山集』の中に収められ、刊行されてすでに久しかった。ここに至って都御史の趙申喬が疏してその語を摘み上聞した。名世は一族みな棄市され、孝標は屍を戮され、その子の登嶧雲、旅孫の世槱はともに斬られ(底本は「其子登嶧雲,旅孫世槱」に作る。「其子登嶧、孫雲旅、曾孫世槱」の誤りか)、族属は妻ともども発遣された。編修の汪灝、方苞、方正玉、尤雲鍔、劉巌らで連座して遣された者は、全部で三百余人であった。金先生は獄中で病死した。申喬が難を発してこの大獄を構えたが、二年と経たぬうちに、その子の鳳詔が太原知府の官にあって、巨額の藏(贓の誤りか)を受けたことで法に伏した。

西暦1725年 世宗雍正三年

  • 冬十二月、浙江の挙人汪景祺を殺した。初め、景祺は青海に従軍し、かつて『西征随筆』を作ったが、聖祖を譏り訕る詩があり、また年羹堯のために「功臣為すべからず」の論を作っていた。撫臣の福敏に査べ出され、奏聞された。立ちどころに斬るよう命じ、家族は発遣された。

西暦1726年 雍正四年

  • 夏四月、侍講の俸を食む銭名世の職銜を革め、原籍に発し戻した。名世が詩を作って年羹堯が蔵(チベット)を平らげた功徳を称え誦したことが、帝の怒りに触れたからである。帝は自ら「名教罪人」の扁額を書き、地方官にその居宅へ掲げさせ、また朝士らに悪を刺る詩を賦させ、併せて諭旨一道を名世に渡して刊刻し進呈させ、直省の学校のある所ごとに各一部を頒たせた。
  • 冬十月、光禄寺卿の王国楝(「棟」の誤りか)を浙江観風整俗使とし、併せて浙江省の郷試・会試を停めるよう飭した。歴年文字によって罪を得た者に浙江の人が多かったからである。

西暦1727年 雍正五年

  • 春二月、太常寺卿の鄒汝魯を免職し、荊州府の隄防工事の処に発して効力させた。汝魯が『河清頌』を進めたが、その内に「旧染維新、風移俗易」の語があり、その語が譏り訕るのに近いとされたからである。
  • 夏五月、礼部侍郎の査嗣庭の屍を戮した。嗣庭が江西で試験を典ったとき、「維民所止」を題とした。これを訐く者があって、「維止」の二字は「雍正」の首を斬る意を取ったものだといい、次いでまた日記が捜し出され、その中で聖祖の人の用い方・行政について大いに譏り評していた。帝は大いに怒り、嗣庭およびその子の上克を逮えて獄に下した。ここに至っていずれも獄中で死に、屍を剉んで梟し示すよう命じ、子の雲は立ちどころに斬り、子の長椿・大梁・克瓚、兄の慎行・嗣瑮、甥の克念・念基・聞学はいずれも三千里の流に処した。

西暦1729年 雍正七年

  • 冬十二月、免職された主事の陸生杋を殺し、免職された御史の謝済世を罰して軍中の苦しい役に充てさせた。これより先、振武将軍の順承王錫保が陸辞(「陛辭」の誤りか)したとき、帝は彼に語って、「軍前で効力する漢人の官らのうち、もしひそかに著作して怨み懟み上を罔る者があれば、すぐに密かに奏聞せよ」といった。この年の六、七月の間、錫保は前後して、済世が『大学』に注釈を付けて程朱を毀り謗り、「賢を見て挙ぐる能わず」の二節について怨望の心を書き表した詞があること、生杋が『通鑑論』十七篇を細かに書き、その中で封建・立儲・兵制などの事を論じ、抗い憤って不平を鳴らす語が多いことを奏し報じた。ここに至ってそれぞれ罪を治めた。

西暦1730年 雍正八年

  • 冬十月、庶士(庶吉士の誤りか)の徐駿を殺した。駿は館にあったとき、上書して事を言った際、「陛下」の「陛」の字を誤って「狴」と書いた。帝はその粗率を怒り、直ちに斥けて帰郷させた。ここに至ってその詩集を検べると、中に「清風不識字、何得乱翻書」、清風は字を識らないのに、どうして書をむやみにめくるのか、という句があり、譏り訕るものだと指して、正法を命じた。

西暦1732年 雍正十年

  • 冬十二月、江浙の大儒呂留良の屍およびその子呂葆中の屍を戮し、次子の呂毅中らをみな斬った。呂留良は石門の人、郷里で講学し、学者は晩村先生と称し、あるいは呂夫子と称した。かつて博学弘儒および山林隠逸として薦められたが、死を誓って就かず、ついには髪を薙って僧となった。ここに至って曾静の獄に連座して及ばれたのである。
  • これより先、湖南永興の人の曾静は郷里に居て講学し、学者は蒲潭先生と称した。靖州の城で試験に応じた折に留良の講義を見ることを得、夷夏の防および井田・封建などの篇に至って、はじめて種族の境を明らかにした。弟子の張熙を留良の家に遣わしてその著述を求めたが、そのとき留良はすでに死んでおり、その子の毅中が父の遺した書をことごとくこれに授けた。詞は憤り激するものが多かった。静はこれを読んでますます傾き服し、憤然として青衿(生員の身分)を棄て、日々留良の子弟である厳鴻達、鴻達の弟子の沈在寛ら諸人と交わり、そこで深く種族の痛みを噛みしめ、光復を図ることを志した。当時、川陝総督の岳鍾祺(「鍾琪」の誤りか)は宋の岳飛の裔で、金と世々の仇であるから報復を謀るだろうと伝え聞かれ、また鍾祺が二度入覲を請うたのに詔が許さず、鍾祺は深く自ら危ぶみ疑っているという。静はそこで熙を陝に遣わし、鍾祺に書を投じて事を挙げるよう勧めた。書中には帝が父を弑し、弟を屠り、功臣を戮し辱めた諸々の罪を歴数していた。鍾祺はこれを奏聞し、静らを逮えて京に入れ庭で訊問するよう命じられた。帝は、留良らの罪はなお曾静らの上にあるとして、静・熙を赦して帰らせ、かつ地方官に詔して保護を与えさせた。鴻達はすでに獄中で死んでいたが、留良・葆中とともにみな追ってその屍を戮した。毅中・在寛はいずれも立ちどころに斬られ、子孫は遣戍され、婦女は官に入れられた。広東連州知州の朱振基、学政の王奇勖は、すべきでないのに祠を設けて呂留良を奉祀したとして、車鼎豊・車鼎賁・孫用克・周敬輿とともに坐して死に、父母・子孫・兄弟・妻女で人に給されて奴とされた者は二十三家であった。

西暦1735年 雍正十三年

  • 冬十二月、湖南の儒士曾静・張熙を殺した。初め、世宗は曾静らを釈して郷里に帰らせるよう命じ、地方の官・紳が静らをひそかに殺害してはならぬ、違う者は抵儥(「儥」は「罪」の誤りか)とすると詔し、「朕の子孫といえども、将来また朕の身を詆り毀ったことをもってこれを追いかけて戮してはならぬ」とした。ここに至って高宗が嗣ぎ立つと、ついにこれを殺し、併せて直省に『大義覚迷録』の講説を停め、頒ち与えた原書を返納させるよう詔した。論者は、世宗がこの書を頒ち講じさせたのには深い思惑があったが、高宗が忽ちこれに従って禁じたのも、また高宗の深い思惑であろう、という。

西暦1753年 高宗乾隆十八年

  • 秋七月、江蘇(底本は「江辦」に作る)巡撫の荘有恭に、以前の学政在任中に得た養廉銀の額に照らして十倍を加えて罰するよう詔した。これより先、乾隆十五年、有恭が再び江蘇の学を視たとき、浙江の人士丁文彬が著すところの『文武記』『太公望伝』などの書を献じた。有恭はこれを狂人と見なし、究めずに放って去らせた。文彬はさらに書を挟んで山東に至り、衍聖公の孔昭煥に投じ、昭煥は転じて巡撫の楊応琚に告げて上聞させた。帝は震え怒り、厳しい旨で有恭を詰め問い、併せて逆書を査べ取って進呈するよう命じた。有恭は、文彬は精神に病のある人であり、かつ事は五年を隔てているので、原書を細かに検べたが得られなかったと覆奏した。帝はその狡く詐ることを斥けたが、しばらくは学政に逆民を懲らし処断する責任が無いことを念い、今回は罪を免じて金を罰した。

西暦1754年 乾隆十九年

  • 秋九月、盛京礼部侍郎の世臣を黒竜江に戍らせた。世臣の詩稿の中に「霜侵鬢朽歎窮遠」、および「秋色招人懶上朝」「半輪明月西沈夜、応昭長安爾我家」などの句があった。帝はその疎懶にして高きを鳴らし、自らを蘇軾の黄州への謫に擬えたことを憎み、「卿貳の高い階にありながら、何の窮途の嘆きがあろうか。まして盛京は豊沛の故郷であり、世臣は満洲の世々の僕でありながら、ついに根本を忘れている。心の持ちようはいっそう問いようもない」とした。それでこの譴めがあったのである。

西暦1755年 乾隆二十年

  • 夏四月、内閣学士の胡中藻を棄市し、広西巡撫の鄂昌に死を賜い、工部侍郎の張泰開を免職し、故大学士の鄂爾泰を賢良祠から撤し出した。中藻の著した詩集を『堅磨生詩鈔』という。帝は、「堅磨」は『魯論』に出るもので、孔子が磨湟(磨涅の誤りか)といったのは佛肸を指して言ったのだ、胡中藻がこれを自らの号としたのは、まことにどういう心か、といった。またその広西で学を督したとき、試題の内に「乾三又不為象龍説」があったが、乾隆は朕の年号であり、龍は隆と同音である、とした。併せてその詩句十数語を摘んで鍛え上げて獄を成し、ついに一族ともども誅された。泰開はもと中藻の門生で、また彼のために序を作っていた。中藻は鄂爾泰の門下から出ており、鄂爾泰はかつて中藻の誇るところを讃え賞していた。鄂爾泰の甥は不都合にも世々の誼を援き引いて中藻と唱和していた。また鄂昌の『塞上吟』の中に蒙古を「胡児」と称した語を摘み、本を忘れて逆に党したとされ、それゆえみな禍に及んだ。ほどなく厳しい旨を降して、満洲八旗が漢文を学習すること、および漢人と唱和することを禁じ、同年の交わりを論じて往来を革めた。

西暦1757年 乾隆二十二年

  • 秋七月、原任浙江布政使の彭家屏に死を賜い、河南の生員段昌緒、司存存、司淑信を殺した。昌緒の家中には呉三桂の檄が存してあり、昌緒はそれに濃い丸印と細かな傍点を加え、評を加えて賛め賞していた。家屏は『明季野史』『潞河紀聞』『日本乞師豫変紀略』『酌中志』『南遷録』などの書を収蔵していた。また刻したところの族譜『大彭統紀』は、姓を得た始めを黄帝の苗裔に牽き引き、その名づけを「大彭」といって、累朝の国号と同一の称であった。譜の中では明の神宗の年号に遇うたびに、帝の御名についていずれも闕筆していなかった。君上を目に置かぬことがすでに極まっているとされ、自尽を賜い、併せて昌緒らを殺した。

西暦1764年 乾隆二十九年

  • 秋九月、泰州知州の頼宏典を殺した。人に託して官の遷転を求め謀った書の中に、「点兵交戦、不失軍機」などの隠語があり、逆らう詞であると指して、正法を命じた。

西暦1767年 乾隆三十二年

  • 冬十二月、浙江の斉周華を磔にした。周華は呂留良に党したことで遣戍に遭い、帰ってその書を刻した。撫臣の熊学鵬がその中の忌諱の語を摘んで上聞し、併せて原任礼部侍郎の斉召南が隠れた逆らう詞を犯したなどの罪を誣いた。詔して周華を磔にし、召南の職を落とした。

西暦1768年 乾隆三十三年

  • 春二月、已に故くなった謝済世の著した『梅荘雑著』の中に怨み望む語が多いとして、江西巡撫の宋邦綏に飭してその書および版木を燬させた。
  • 三月、江西巡撫の呉紹詩に、已に故くなった李紱・李任渶・傅占衛の著した各書の版を銷し燬すよう命じた。

西暦1769年 乾隆三十四年

  • 夏六月、已に故くなった銭謙益の著した『初撃集』(初学集の誤りか)『有学集』は、その書版をいずれも銷し燬すこととした。集中に国語と薙髪の両事について痛く詆る語が多かったからである。

西暦1772年 乾隆三十七年

  • 春正月、直省に古今の著作を購い訪ねて進呈するよう詔した。

西暦1774年 乾隆三十九年

  • 秋八月、直省の蔵書を催して燬させた。
  • 冬十二月、広東総督の李侍堯が、已に故くなった屈大均の詩文を査べ出して進呈した。その詩集の中に「大都宮詞」三首があり、順治朝の掖庭の秘事を多く記しており、銷し燬すよう命じた。ほどなく文中に雨花台に衣冠を葬った事があるのを閲し、その場所を確かに訪ね、速やかに刨り毀ち、悖り逆らう者の遺した穢れを久しく黄土に留めさせるな、と命じた。

西暦1775年 乾隆四十年

  • 春正月、呂留良の孫の呂懿兼、曾孫の呂敷光を黒竜江に発遣し、貧しい披甲人に与えて奴とした。大逆に縁坐した犯であり、監生を損納(「捐納」の誤りか)するのは不都合だったからである。
  • 冬閏十月、『遍行堂集』『皇明実紀』『喜逢春伝奇』の各書を毀つよう詔した。『遍行堂集』は僧の澹帰すなわち明の給事中金堡の著すところ、『皇明実紀』および『喜逢春伝奇』はいずれも東莞の陳建すなわち江寧の天笑生の撰するところである。諸書を収蔵していた高秉は遣戍された。

西暦1777年 乾隆四十二年

  • 冬十一月、江西の挙人王錫侯を逮えて京に至らせ獄に下した。新昌の王錫侯は『康熙字典』を刪り改め、別に『字貫』を刻したが、その序文・凡例に聖祖・世宗および帝の御名を並べ列ねていた。帝は大いに怒り、獄に逮えて死を論じ、巡撫から監司に至るまでみな免職された。

西暦1778年 乾隆四十三年

  • 夏四月、山西の挙人王爾揚が同じ邑の李範のために墓誌を作り、「考」の字の上に「皇」の字を用いた。巡撫の巴延三が捕らえ獲て厳しく審らかにし旨を請うたが、帝は、爾揚は迂腐にして古を用いたのであって叛逆ではないとし、誅を免じた。
  • 冬十月、東台の挙人徐述夔およびその子徐懐祖の屍を戮し、その孫の徐食田・徐食書をともに斬った。述夔の著した『一柱楼詩』の中に、正徳の杯を詠んで「大明天子重相見、且把壺児擱半辺」、大明の天子にふたたび見え、しばらく壺児を傍らに半ば措く、とあった。帝は「壺児」はすなわち「胡児」であるとし、また「明朝期振翮、一挙去清都」、明朝に翼を振るうことを期し、一挙に清都を去る、の句があり、帝はそれが明朝を興し清朝を去らせようとする意を願うものだとして、大いに怒り、懐祖とともにみな屍を戮すよう命じた。食田・食書、および校対した徐首発・沈成濯、藩司の陶易、幕友の陸炎はみな坐して死に、知府の謝啓昆、知県の涂濯龍はともに免職された。
  • 前の礼部尚書沈徳潜の屍を戮した。徳潜が告げて郷に帰ったとき(底本は「德潛子告歸」に作る。「子」は「既」の誤りか)、帝は自ら著した詩集を彼に委ねて改め訂させ、削ったり潤したりしたところが頗る多かった。徳潜が死に、その詩集を調べて進呈させたところ、平素帝のために字句を点じ改め、代わりに筆を執った作までが、ことごとく録されていた。帝は大いに恚り、官爵と諡の典を革め去り、郷賢祠から撤し出し、賜っていた祭葬の碑文を撲ち毀つよう命じた。ほどなくその「黒牡丹を詠ず」の詩に「奪朱非正色、異種也称王」、朱を奪うのは正色ではない、異種もまた王を称する、の句があると聞き、逆らう詞であると指して、棺を剖いて屍を戮させた。
  • 江蘇贛楡県の民常玉振は、その父の行述の内に「佃戸の貧しい者には、赦して利息を加えず、併せて累年の積み欠けを赦した」という語があった。撫臣の楊魁が捕らえ獲て獄に下した。同特(「同時」の誤りか)に宝山県の職員范起鵠は家に『亭林集』を蔵していた。江西の士人李雍、河南の致仕した主事余騰蛟はみな逆らう詩によって逮えられ審らかにされたが、事実でなかったので、究めを免れた。

西暦1779年 乾隆四十四年

  • 春二月、福建巡撫の黄検を直隷(底本は「真隷」に作る)正定府知府に降した。検が刊刻すべきでないのにその祖父廷桂の奏稿を刊刻し、しかも世宗および帝の硃批を載せ入れたからである。
  • 夏四月、直隷の民人智天豹を殺した。帝が陵に謁して京師に還るとき、天豹はその徒の張九霄に道の傍らで『大清天定運数』一本を呈じ献らせた。中には大清の天号三十余条を編んでいたが、乾隆の年号は僅かに五十七年に及んで止まっており、また聖祖の廟諱を直書して諱まなかった。立ちどころに斬るよう命じ、九霄は斬監候とした。

西暦1781年 乾隆四十六年

  • 夏四月、在籍の大理寺卿尹嘉銓を絞り殺した。帝が五台山から還って保定府に至ったとき、嘉銓はその子に表を齎させて行在に赴かせ、父の会一のために諡を請い、かつ孔廟に従祀することを請うた。帝はその狂い妄りなのを怒り、刑部に渡して罪を治めさせた。ついで部が、嘉銓の著した各書の中に狂い悖る語が多いことを査べ出し、狡(絞の誤りか)立決に坐した。

史論(編者曰)

  • 編者はいう。康熙・雍正の間から、しばしば文字の獄が興った。当時は天下が定まったばかりで人心が一つになっておらず、君主が自らを衛る計を立てたのは、あるいは已むを得ぬことであったかもしれない。乾隆朝に至ると、各案は細かな事をこまごまと挙げ、誅は朝廷じゅうに連なり、そこで妖言に比べ附け、詩文を告げ訐く事が入り乱れて起こった。御史の曹一士がかつて疏してこれを論じた。おおよそこういう。近年以来、小人は朝廷が大憨(大姦の誤りか)を誅し殛す理由を知らず、往々にして睚眦のごとき小さな怨みを挟み持ち、あやふやな言葉を借りて、詩書を攻め詰り、字句を指し摘む。有司は事を見て風を生じ、あらゆる方面から窮め鞫べ、あるいは師弟にまで累を及ぼし、親戚故旧を牽き連ね、家を破り命を亡ぼさせるに至る。まことに憫れむべきである。臣は愚かながら思うに、井田・封建は迂腐な常談に過ぎず、今に生きて古に反ろうとするものとは見なせない。懐いを述べ史を詠むのは詞人の習いの態に過ぎず(底本は「不遇」に作る。「不過」の誤りか)、古を援いて今を刺るものとは見なせない。序や拔(「跋」の誤りか)にたまたま紀年を遺すことがあっても、それは草茅の身が一時検めを失したのであって、必ずしも本当に悖り逆らう心を懐き、敢えて篇章に明らかに布いたわけではない。もしこの類をことごとく妖言に比べ附け、罪として赦さないとするならば、天下の告げ訐くことは止まず、士子は文を作ることを戒めとするようになり、国家が義をもって法を正し、仁をもって蒙きを包む意には甚だ外れることになる、云々。これを見れば、当時の文の禁の森厳さ、冤罪の獄の繁く重かったことは、おおよそ知られよう。
原文(底本)
聖祖康熙二年,夏五月,詔戮浙江湖州府民人莊廷鑨屍,其父莊胤城,弟莊廷鉞均立斬。初,明故大學士朱國楨私著明史,籍未刊而亡,家亦中落,以稿本質金於廷鑨。廷鑨易自己名刻之,補入崇禎一朝事,中有萬曆間總兵李成梁捕斬建州衛都指揮使王杲語。歸安知縣吳之榮方罷官,謀起復,因舉發其事,廷鉞入賄得免。廷鑨死,其父胤城乃稍易書中指斥語,再版刊行之。榮恨計不售,更購初版,上之法司,遂興大獄。致仕侍郎李令晳為作序,亦坐死,且殺其四子,幼子年十六,法官命滅供一歲,例得免死。幼子不忍獨生,卒不易供而死。序中所稱舊史朱氏者,指國楨也,之榮素怨南潯富人朱佑明,遂嫁禍,且指其姓名以證,並殺其五子。其餘書列名及官吏失察,與刊刻、收藏人株連死者七十餘人,婦女并給邊而之榮卒以此起用,並以所籍朱佑明之產給之,後仕至右僉都。

六年,夏四月,殺江南民人沈天甫、呂中、夏麟奇。天甫等選詩二卷,語多忌諱,嫁名黃蕁素百七十六人作,陳濟生編輯,吳牲等為這序。持向牲元萊所,詐索財物,元萊察其書非故父手蹟,控於巡城御史以聞,下法司嚴審,以天甫等誣陷平民謀叛。皆伏法,諸被誣者雖事終省釋,而生死多不可知矣。

五十二年,春二月,殺翰林院編修戴名世,戮學士方孝標屍。時詔修明史已數十餘年,而館臣採錄遺書,率多忌諱,致屢裁稿而未告成。名世心竊痛之,因著孑遺錄以見其概,又興其門人金生書,謂以弘光之帝南京,隆武之帝閩越,永歷之帝兩粵與滇黔地方數千里,首尾十七八年,曾不得如昭烈之在蜀,帝昺之在厓,史家猶得以備書其事,近日方寬文字之禁,而天下所以避忌諱者,萬端終明之世三百年無史,豈不可嘆?書中又引孝標所著滇黔紀聞,稱其考據確實,是書載入其南山集中,刊行已久。至是都御史趙申喬疏摘其語以聞,名世族皆棄市,孝標戮屍,其子登嶧雲,旅孫世槱并斬,族屬僉妻發遣,編修汪灝、方苞、方正玉、尤雲鍔、劉巖等因連獲遣者,凡三百餘人。金先生病死獄中,申喬發難,構此大獄。不及二年,其子鳳詔以官太原知府,受钜藏伏法。

世宗雍正三年,冬十二月,殺浙江舉人汪景祺。初,景祺從軍青海,嘗作《西征隨筆》,有詩譏訕聖祖,又為年羹堯作功臣,不可為論,為撫臣福敏查出,入奏。命立斬,家庭發遣。

四年,夏四月,革食侍講奉錢名世職銜,發回原籍。因名世作詩稱誦年羹堯平藏功德,觸帝怒,親書名教罪人扁額,令地方官張掛其居宅,又令朝士等賦刺惡詩,並諭旨一道,交名世刊刻進呈,凡直省學校所在,各頒一部。冬十月,以光祿寺卿王國楝為浙江觀風整俗使,並飭停浙江省鄉試、會試,因歷年以文字獲罪者,多浙江人也。

五年,春二月,革太常寺卿鄒汝魯職,發往荊州府隄工處效力。因汝魯進河清頌,內有「舊染維新,風移俗易」語,謂其語近譏訕也。夏五月,戮禮部侍郎查嗣庭屍。嗣庭典試江西時,題「維民所止」。有訐者謂維止二字乃取雍正斬首之意,繼又搜出日記,於聖祖用人行政大肆譏評。帝大怒,逮嗣庭及其子上克下於獄,至是皆死獄中,命剉屍梟示,子雲立斬,子長椿、大梁、克瓚;兄慎行、嗣瑮;姪克念、念基、聞學俱著流三千里。

七年,冬十二月,殺革職主事陸生杋,罰革職御史謝濟世充當軍中苦差。先是,振武將軍順承王錫保陸辭,帝語之曰:軍前效力之漢官等,若有私自著作,怨懟罔上者,即密以聞。是年六七月間,錫保先後奏報濟世注釋大學,毀謗程朱,於見賢而不能舉兩節,有抒寫怨望之詞。生杋細書《通鑑論》十七篇,中有論封建、立儲、兵制等事,多抗憤不平語,至是分別治罪。

八年,冬十月,殺庶士徐駿。駿在館時,因上書言事,於陛下之「陛」字誤書作「狴」,帝怒其粗率,立斥放歸。至是檢其詩集,內有「清風不識字,何得亂翻書」之句,指為譏訕,命正法。

十年,冬十二月,戮江浙大儒呂留良屍及其子呂葆中屍,次子呂毅中等皆斬。呂留良,石門人,講學鄉邦,學者稱晚村先生,或稱呂夫子。嘗以博學弘儒及山林隱逸薦,誓死不就,至薙髮為僧,至是為曾靜之獄所牽及。先是,湖南永興人曾靜居鄉講學,學者稱蒲潭先生,因應試靖州城,得見留良講義,至夷夏之防及井田封建等篇,始明種族之界。遣弟子張熙至留良家,求其著述,時留良已死,其子毅中悉以父遣書授之,詞多憤激。靜讀之,益傾服,憤然棄青衿,日與留良子弟嚴鴻達、鴻達弟子沈在寬諸人遊,於是深茹種族之痛,志圖光復。時傳聞川陝總督岳鍾祺裔出宋岳飛,與金世仇,將謀報復,又鍾祺兩請入覲,詔不允行,鍾祺深自危疑云。靜遂遣熙至陝,投書鍾祺,勸舉事。書中歷數帝弑父、屠弟及戮辱功臣諸罪。鍾祺以聞,命逮靜等入京庭訊。帝以留良等罪,尚在曾靜等上,赦靜、熙歸,且詔地方官予以保護。鴻達已死獄中,與留良、葆中皆追戮其屍。毅中、在寬均立斬,子孫遣戍,婦女入官。廣東連州知州朱振基,學政王奇勖不應,設祠奉祀呂留良,與車鼎豐、車鼎賁、孫用克、周敬輿俱坐死,父母、子孫、兄弟、妻女坐發給為奴者二十三家。

十三年,冬十二月,殺湖南儒士曾靜、張熙。初,世宗命釋曾等回歸里,詔地方官紳不得將靜等暗加殺害,違者抵儥。即朕之子孫,將來亦不得以其詆毀朕躬而追戮之。至是,高宗嗣立,竟殺之,並詔直省停講《大義覺迷錄》,繳回頒發原書。論者謂世宗之頒講是書,蓋有深心,而高宗忽從而禁之,又高宗之深心也。

高宗乾隆十八年,秋七月,詔江辦巡撫莊有恭,著照前學政任內所得養廉銀數加罰十倍。先是,乾隆十五年,有恭再視學江蘇,有浙江人士丁文彬獻所著《文武記》、《太公望傳》等書,有恭以為狂,不究,縱之去。文彬復挾書至山東,投衍聖公孔昭煥,轉告巡撫楊應琚以聞。帝震怒,嚴旨詰問有恭,並命查取逆書進呈。有恭以文彬係有精神病人,且事隔五年,細檢原書不得覆奏。帝斥其狡詐,姑念學政無懲辦逆民責任,今免罪罰金。

十九年,秋九月,戍盛京禮部侍郎世臣於黑龍江。世臣詩稿中有「霜侵鬢朽歎窮遠」及「秋色招人懶上朝」、「半輪明月西沈夜,應昭長安爾我家」等句,帝惡其疏懶鳴高,自擬於蘇軾黃州之謫,且卿貳崇階,有何窮途之嘆?況盛京為豐沛故鄉,世臣係滿洲世僕竟忘根本,居心更不可問,故有是譴。

二十年,夏四月,內閣學士胡中藻棄市,廣西巡撫鄂昌賜死,工部侍郎張泰開革職,故大學士鄂爾泰撤出賢良祠。中藻所著詩集曰《堅磨生詩鈔》。帝謂「堅磨」出自魯論,孔子所稱磨湟,乃指佛肸而言,胡中藻以此自號,是誠何心?又其督學廣西時,試題內有乾三又不為象龍說,乾隆乃朕年號,龍與隆同音。並摘其詩句十數語鍛煉成獄,遂被族誅。泰開,故中藻門生,又為之作序,中藻係出鄂爾泰門下,鄂爾泰嘗讚賞中藻之誇。鄂爾泰之姪不合,援引世誼與中藻唱和,又摘鄂昌《塞上吟》中稱蒙古為胡兒,為忘本黨逆,故皆及於禍,旋降嚴旨禁滿洲八旗學習漢文及與漢人唱和,論同年行,革來往。

二十二年,秋七月,賜原任浙江布政使彭家屏死,殺河南生員段昌緒、司存存、司淑信。昌緒家中存有吳三桂檄,昌緒爲之濃圖密點,加評赞賞。家屏收藏《明季野史》、《潞河紀聞》、《日本乞師豫變紀略》、《酌中志》、《南遷錄》等書。又所刻族譜《大彭統紀》牽引得姓之始爲黃帝苗裔,其命名曰大彭與累朝國號同一稱謂。譜中凡遇明神宗年號,於帝御名,皆不闕筆,謂其目無君上已極,賜自盡,並殺昌緒等。

二十九年,秋九月,殺泰州知州賴宏典。以託人謀干遷官書中,有『點兵交戰,不失軍機』諸隱語,指爲逆詞,命正法。

三十二年,冬十二月,磔浙江齊周華。周華以党呂留良遭遣戍,歸刻其書,撫臣熊學鵬摘其中忌諱語以聞,並誣原任禮部侍郎齊召南犯隱逆詞等罪,詔磔周華,落召南職。

三十三年,春二月,以已故謝濟世所著《梅莊雜著》中多怨望語,飭令江西巡撫宋邦綏燬其書及版。 三月,命江西巡撫吳紹詩銷燬已故李紱、李任渶、傅占衛所著各書版。

三十四年,夏六月,以已故錢謙益所著《初擊集》、《有學集》,其書版均著銷燬。因集中於國語、薙髮兩事,多痛詆語也。

三十七年,春正月,詔直省購訪古今著作進呈。

三十九年,秋八月,催燬直省藏書。 冬十二月,廣東總督李侍堯查出已故屈大均詩文進呈。其詩集中有大都宮詞三首,多紀順治朝掖庭祕事,命銷燬。尋閱文內有雨花臺葬衣冠之事,命確訪其處,速爲刨毀,無使悖逆遺穢,久留黃土云。

四十年,春正月,發遣呂留良之孫呂懿兼曾孫呂敷光往黑龍江,與窮披甲人爲奴,因其爲大逆緣坐之犯,不合損納監生也。 冬閏十月,詔毀《遍行堂集》、《皇明實紀》、《喜逢春傳奇》各書。《遍行堂集》爲僧澹歸即明給事中金堡所著,《皇明實紀》及《喜逢春傳奇》皆東莞陳建即江甯天笑生所撰。收藏諸書之高秉遣戍。

四十二年,冬十一月,逮江西舉人王錫侯至京下獄。新昌王錫侯刪改《康熙字典》,另刻《字貫》,其序文凡例將聖祖、世宗及帝御名開列。帝大怒,逮獄論死,巡撫至監司均革職。

四十三年,夏四月,山西舉人王爾揚爲同邑李範作墓誌,於考字上用皇字。巡撫巴延三捕獲嚴審請旨,帝謂爾揚迂腐用古,並非叛逆,免誅。 冬十月,戮東台舉人徐述夔及其子徐懷祖屍,其孫徐食田、徐食書並斬。述夔所著《一柱樓詩》中,詠正德杯云:『大明天子重相見,且把壺兒擱半邊。』帝謂『壺兒』即『胡兒』,又有『明朝期振翮,一舉去清都』之句,帝謂其願有欲興明朝去清朝之意,遂大怒,命與懷祖俱戮屍。食田、食書及校對徐首髮、沈成濯,藩司陶易與,幕友陸炎皆坐死,知府謝啟昆,知縣涂濯龍俱革職。 戮前禮部尚書沈德潛屍。德潛子告歸,帝以己著詩集委之改訂,頗多刪潤。德潛死,調其詩集進呈,則平時爲帝點竄捉刀之作,咸錄焉。帝大恚,命革去官爵諡典,撤出鄉賢祠,撲毀所賜祭葬碑文。尋聞其詠黑牡丹詩:『奪朱非正色,異種也稱王』之句,指爲逆詞,令剖棺戮屍。 江蘇贛榆縣民常玉振,於其父行述內有:『於佃戶之貧者,赦不加息,並赦屢年積欠』之語。撫臣楊魁捕獲下獄,同特寶山縣職員范起鵠家藏《亭林集》。江西士人李雍、河南致仕主事余騰蛟皆以逆詩逮審不實,免究。

四十四年,春二月,降福建巡撫黃檢爲真隸正定府知府。以檢不應刊刻其祖父廷桂奏稿,且載入世宗及帝硃批也。 夏四月,殺直隸民人智天豹。帝謁陵回京師,天豹使其徒張九霄於道旁呈獻《大清天定運數》一本,中編大清天號三十餘條,而於乾隆年號僅及五十七年而止,又於聖祖廟諱直書不諱,命立斬,九霄斬監候。

四十六年,夏四月,絞殺在籍大理寺卿尹嘉銓。帝自五台山還至保定府,嘉銓使其子齎表赴行在,爲父會一請諡,且請從祀孔廟。帝怒其狂妄,交刑部治罪,隨據部查出嘉銓所著各書中,多狂悖之語,坐狡立決。

編者曰:自康雍間,屢興文字之獄,時因天下初定,人心未一,人主爲自衛計或非得已。至乾隆朝,各案毛舉細故,誅連滿庭,於是比附妖言,告訐詩文之事紛然而起,御史曹一士嘗疏論之,略謂比年以來,小人不識朝廷誅殛大憨之故,往往挟持睚眦之怨,借影響之詞,攻詰詩書,指摘字句。有司見事生風,多方窮鞫,或致波累師生,牽連親故,破家亡命,甚可憫也。臣愚以井田封建,不過迂腐之常談,不可以爲生今反古。述懷詠史,不遇詞人之習態,不可以爲援古刺今。即有序拔偶遺紀年,亦或草茅一時失檢,非必果懷悖逆,敢於明布篇章。使以此類悉皆比附妖言,罪當不赦。將使天下告訐不休,士子以文爲戒,殊非國家義以正法,仁以包蒙之意云云。觀此則當時文禁之森嚴,冤獄之繁重,蓋可知也。

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