清史紀事本末兄弟への猜忌と大臣の追放・誅殺(兄弟猜忌及大臣逐戮)
要約
康熙六十一年冬十一月、世宗は即位して胤禩・胤祥・馬斉・隆科多に事務を総理させ、撫遠大将軍の胤禵を召し還し、胤禩を廉親王、胤祥を怡親王に封じた。先に皇太子胤礽は諸皇子が術士を養い宦官と結ぶ工作で廃斥されていた。世宗は諸人の結束を恐れ、才も人望も筆頭の胤禩を手なずけ王党を孤立させようとした。胤禩の同母弟胤禵は西北の人心を得ていたので異心を恐れて召し還し、代えて胤禟を軍前に遣わした。『古今図書集成』を編輯した前編修陳夢雷父子も忌んで関外に流し、諸王・阿哥は御名を避け名の上の字を「允」と改めた。
雍正元年、官員が私かに諸王の門下に出入りするを禁じ、内大臣勒什亨を西寧に流して允禟に随わせ、非礼の阿布蘭の貝勒を奪い、允禵を湯泉に留めて郡王に進め高慢を戒め、弘晳を鄭家荘に移し、冬十二月、力を尽くさぬ允祹の王爵を奪った。
二年、口外に行かぬ允䄉を禁錮し、弘春の爵を奪い、允祹を鎮国公に降し、党した蘇努・徳寧・七十を流した。西蔵の功を称えられた允禵を景陵の守りに落とし、藩邸と通じた阿爾松阿を奉天に流し、弘晟と保泰の爵も奪った。允礽が薨じ、理親王を追封して密と諡した。
三年、鄂倫岱も奉天に流し、夏四月、年羹堯の川陝総督・大将軍を解いて杭州将軍とした。羹堯は藩邸以来の旧臣で、西蔵・青海を平らげて上公・太傅に進み、その寵は前後の勲臣に無いほどだったが、允禵の悪事を探らせたのに事が無いと奏して不快を招き、賀表の「朝乾夕惕」を「夕惕朝乾」と誤ると、朝乾夕惕を朕に許さぬなら青海の功も朕が許すか否かの間にあるといわれた。羹堯を庇った隆科多の太保を撤し、羹堯を閑散章京に落として九月に捕らえ正法に擬し、允禟の爵も奪い、冬十二月、允禵を固山貝子に降した。議政の処が九十二の大罪を列すると、帝は羹堯に自裁を賜い、子の年富を斬り、十五歳以上の子は極辺に充軍とした。父の遐齢も八十余で死罪に坐したが、子で父を刑するは法にかなわぬと朱軾が力争して免れた。
四年春正月、允禩・允禟・蘇努・呉爾占の籍を宗室から削り允禩を民王に改め、今日王でも明日には首を保てまいと言った妻は福晋の位を奪って実家に帰した。隆科多も職を奪われアルタイに遣わされた。帝位を得るに力のあった母方の伯父だが、年羹堯の議処で公爵を奪わず憎まれ、田文鏡の幕客が草した疏で罪を得たのである。二月、允禩・魯賓・雅爾江阿・永謙の爵を除き、允禩と魯賓を高牆に監禁し、三月、允禩を阿其那、允禟を塞思黒と改めさせた。猪・狗の意である。手足の情を念えと泣いて奏した徐元夢は中書舎人に落とされ、年羹堯に詩を贈った銭名世は職銜を撤され「名教罪人」の扁額を掲げられた。夏五月、允禵父子を寿皇殿に禁錮し、鄂倫岱・阿爾松阿を殺して蘇努・七十の屍を戮した。秋八月に允禟、九月に阿其那の病死が報じられ、冬十一月、塞思黒の妻を禁錮した。
五年冬十月、隆科多を暢春園の外に禁錮した。阿布蘭に王族の系譜を私かに写させたからで、その公爵も奪い、錫保は正法を請うたが家屋を造って永く禁錮し、子の玉柱は黒龍江に送った。十二月、罪状を実情どおり報じなかった将軍貝勒延信も同じ所に囲い禁じられた。
六年夏六月、允祉は御前で王・大臣を叱責し臣の礼がないと奏されたが、帝はただこの一人の兄がいるだけだとして郡王に降し、子の弘晟を鎖錮した。八年夏五月、允祉は喪に悲しまず残忍だと奏され、王爵を奪って景山の永安亭に禁錮された。これより帝の兄弟や諸王・大臣で猜疑された者はみな戮され追い払われた。
年表
清の世宗(雍正帝)が即位してから、兄弟の諸皇子と即位を助けた大臣たちを次々に疑い、爵を奪い、幽閉し、死に追いやっていった経緯を記す。康熙末に皇太子胤礽をめぐって諸皇子が争った余波を受け、世宗は当初、才望の高い允禩を親王に封じて懐柔しつつ、大軍を擁していた允禵を召還した。やがて允禩・允禟は宗室から除かれて阿其那・塞思黒と改名させられて死に、允禵・允祉らも爵を削られて禁錮され、功臣の年羹堯には自尽を賜い、外戚の隆科多も禁錮された。康熙六十一年(1722年)から雍正八年(1730年)まで、帝に猜疑された兄弟と王・大臣がことごとく除かれるまでを扱う。
年表(8件)
- 西暦1722年 聖祖康熙六十一年世宗が即位し、允禩らに事務を総理させ、允禵を軍から召還する
- 西暦1723年 世宗雍正元年侍衛らが諸王の門下に出入りするのを禁じ、允禵を郡王に進めつつ戒める
- 西暦1724年 二年允禵を景陵の守りに落とし、諸王に党した大臣を各地へ流す
- 西暦1725年 三年年羹堯の職と爵を削って自尽を賜い、その子年富を斬る
- 西暦1726年 四年允禩・允禟の籍を削って阿其那・塞思黒と改名させ、両人は幽閉中に病死する
- 西暦1727年 五年玉牒を私写させた隆科多を暢春園の外に永久禁錮する
- 西暦1728年 六年誠親王允祉を郡王に降し、その子弘晟を宗人府に鎖錮する
- 西暦1730年 八年允祉の王爵を取り上げて景山永安亭に禁錮し、猜疑された者が尽きる
現代語訳全文
西暦1722年 聖祖康熙六十一年
- 冬十一月、世宗が即位し、貝勒の胤禩、十三阿哥の胤祥、大学士の馬斉、尚書の隆科多に事務を総理するよう命じ、撫遠大将軍の十四阿哥胤禵を駅伝を馳せて北京に帰るよう召した。胤禩を和碩廉親王、胤祥を和碩怡親王、胤祹を多羅履郡王、二阿哥胤礽の子の弘晳を多羅履郡王(多羅理郡王の誤りか)に封じた。
- これより先、康熙の中ごろ、胤礽が皇太子の位にあり、たまたま聖祖が親ら準噶爾を征したとき、胤礽は命を奉じて監国した。性質が仁厚で気弱であったため、政を執るのに寛大を務め、聖祖に喜ばれなかった。そこで諸皇子は分不相応な望みをうかがい、共に術士(原文は「術术」。術士の誤りか)を養い、宦官と結び、秘密の工作を行って彼を陥れようとした。聖祖はそれを見抜けず、胤礽はついにこれによって禍を招き、一たびならず立てられたものの、やはり廃され斥けられた。
- 世宗が位を嗣ぐに及んで、諸人がこれまでどおり固く結びついて自分に不利になることを恐れた。胤礽・胤禔は久しく幽閉されていて、もはや何かをなすことはできず、胤禟らは凡庸で気弱であり、憂うるに足りない。ただ胤禩だけは才も人望も諸王の筆頭であり、これを手なずけようと考えた。胤禩がもし誠を尽くして(底本は「翰誠」に作る。「輸誠」の誤りか)自分を輔けることができれば、王党の勢力は孤立し、日に日に(底本は「日京」に作る。「日益」の誤りか)消滅して、自ずと朝廷に乱をなす者はいなくなる。そこで胤禩を親王に封じ、馬斉らとともに政務を同じく処理させ、その他の者も差をつけて親王・郡王に爵を進めた。
- また胤禵は胤禩の同母弟であり、彼が西寧に出征した時、内外の人々がこぞって推測し、聖祖は胤禵を試みに用いて国家に大功を立てさせ、将来皇太子を定める地ならしとするのだと言い合っていた。この時、胤禵は大軍を擁して外にあり、深く西北方の人心を得ていたので、異心を生じることを恐れ、特に召して京師に帰らせ、改めて胤禟を軍の前線に派遣することとした。
- 前の編修である陳夢雷父子を関外に流した(底本は「發遣前,編脩陳夢雷父子於關外」に作る。「發遣前編脩陳夢雷父子於關外」と続けて読むべきか)。夢雷は以前に事に連座して関東に流されたが、後に聖祖が東巡した際、その学問が優れ豊かであるとして京師に連れ帰り、誠親王のもとに置いて『古今図書集成』一書の編輯を手伝わせていた。誠親王はもとより文学で名高く、夢雷は日々その左右に侍しており、世宗はこれを忌んだ。ここに至って、人目を引く不法の振る舞いをしたという罪に当て、その子ともどもふたたび流したのである。
- 諸王・阿哥に命じて、名の上の一字を「允」の字に改めさせた。世宗の御名と同じだからである。
西暦1723年 世宗雍正元年
- 春正月、侍衛・官吏らが私的に諸王の門下に出入りすることを禁じた。
- 二月、内大臣の勒什亨を西寧に流し、貝子允禟に随って力を尽くさせた。これより先、允禟が軍の前線に派遣された時、不満げで行こうとせず、「私に何の罪があって万里の彼方に斥けるのか。しかも喪に服して百日も過ぎていない。陵寝から帰る時を待って行っても遅くはない」と言った。帝は怒り、その太監の何玉桂、管領・漢給事の秦道を誅した。しかし二人を処置した時、帝は勒什亨に記録簿に記す必要はないと語ったのに、勒什亨はこれを記した。それでこの咎めがあったのである。
- 三月、輔国公の阿布蘭を多羅貝勒に進め封じ、佐領を賞し与えた。事務総理の際、阿布蘭は列を出て跪いて(旨を)受けるべきではなかった。また宗人府が碑亭を建立した時、阿布蘭が文を作って石に刻んだが、大将軍の功徳を褒め称えるべきではなかった。よって貝勒を取り上げ、その佐領を撤するよう命じた。
- 夏四月、帝が山陵から京に帰り、貝子允禵に陵寝の近くの湯泉に留まり駐まるよう命じた。
- 五月、理郡王の弘晳を鄭家荘に召し従わせた。北京を去ること二十余里である。
- 貝子允禵を郡王に進め封じ、王・大臣に語って言った、「允禵は心ばえが高慢である。これより自ら改め悔いなければ、国法は具わっているのだから、朕はその罪を治めざるを得ない」と。允禵が来た時にこれを伝え諭して知らせよ、とした。
- 冬十二月、履郡王允祹の王爵を取り上げ、なお元の固山貝子の位で行走させた。王に封ぜられて以来、少しも感激して力を尽くさなかったからである。
西暦1724年 二年
- 夏四月、郡王允䄉の爵を取り上げ、宗人府に禁錮した。使命を奉じて口外に出るべきなのに、ぐずぐずと行かなかったからである。
- 五月、貝子弘春の爵を取り上げた。弘春は允禵の子である。
- 六月、貝子允祹を降して鎮国公とした。貴妃を冊封する金冊に誤りがあったからである。
- 貝勒の蘇努、内大臣の徳寧を右衛に、刑部尚書の七十を三姓の地方に流した。みな諸王に党し附いたことに坐したのである。
- 秋七月、郡王允禵を景陵の守りに落とした。允禵は西蔵で功を立ててから、内外でかなり彼を称え語ったので、帝はこれを忌むことが特に甚だしかった。
- 冬十月、刑部尚書、二等公の阿爾松阿を奉天に流した。藩邸と通じていたことに坐したのである。
- 十一月、世子の弘晟を取り上げて閑散宗室とした。弘晟は允祉の子である。裕新王(裕親王の誤りか)保泰の爵を取り上げた。廉親王邸に党したことに坐したからである。
- 二阿哥允礽が薨じた。和碩理親王を追封し、諡して密といった。
西暦1725年 三年
- 春二月、二等公の鄂倫岱を奉天に流した。彼が廉親王邸に党したからである。
- 夏四月、年羹堯の川陝総督・大将軍の任を解き、杭州将軍に補し授けた。羹堯は藩邸以来の旧臣で、帝が即位した初め、諸王が変を起こすことを慮り、常に羹堯に衣の下に鎧を着けて従わせた。前後して西蔵・青海・荘浪を平らげた功を積んで、上公に爵せられ、太傅に進み、金黄の服飾、三眼の花翎、四正龍の補袿(「袿」は「褂」の誤りか)を賜った。その(底本は「共」に作る。「其」の誤りか)特別な寵愛はこのようであり、実に前後の勲臣にもなかったことである。後に帝は羹堯に、允禵が軍中にあった時の悪事を密かに探ることを委ね、戒めて「その実状を得たならば、私は必ずお前に厚く報いよう」と言った。羹堯は論ずべき事が無いことを見て取り、力を尽くして奏し弁じた(底本は「奏辦」に作る。「奏辨」の誤りか)。帝は深く不快を募らせた。ここに至って、羹堯の賀表の中の「朝乾夕惕」を誤って「夕惕朝乾」としたので、帝は怒って言った、「羹堯が朝乾夕惕を朕に許さないのなら、羹堯の青海の功もまた朕が許すか許さないかの間にある。自ら功があるのを恃んで、わざと怠慢にしたのか。それとも殺戮が甚だしすぎて、この昏乱(底本は「昏潰」に作る。「昏憒」の誤りか)に至ったのか。その平生の兵を率いる様子を見れば、なお操練には勤めていた方であるから、杭州将軍に改め授けてよい」と。
- 六月、年羹堯の子の年斌の子爵、年富の男爵、隆科多の子の玉柱の鑾儀衛使の職を取り上げた。
- 秋七月、隆科多の太堡(太保の誤りか)の称号を撤した。年羹堯を庇い覆ったことに坐したのである。あわせて年羹堯の杭州将軍の職を取り上げ、閑散章京を授け、杭州で力を尽くして行走させた。
- 貝子允禟の爵を取り上げた。山西巡撫の伊都立が、彼が配下を放任して民を殴らせたと参奏したからである。
- 九月、輔国公の普照の爵を取り上げた。普照は羹堯の妻の叔父である。太傅一等公の年羹堯の職と称号を削り去り、京に捕らえて審らかにし、正法に擬した。
- 冬十一月、内務府総管の来保の職を取り上げた。誠親王に阿り附いたからである。
- 十二月、郡王允禵を降して固山貝子とした。允禵が大将軍であった時、思うままに勝手な振る舞いをしたというのである。
- 年羹堯に自尽を賜った。帝は久しく年羹堯を殺そうとしていたが、その功が大きいのに保全してやらなければ、鳥が尽きて弓が蔵われるという譏りを受けることを恐れ、それで長く猶予していた。たまたま四川巡撫の蔡珽が羹堯に弾劾されて京に入ったので、面と向かって羹堯の不法の諸条を陳べた。将軍・総督・巡撫・提督・総兵に議して奏するよう命じた。諸臣は迎合して参奏し、速やかに誅戮を加えるよう請うた。議政の処はそこで羹堯の九十二の大罪を列挙し、直ちに刑典を正すべきだとした。帝は羹堯に自裁させ、子の年富は即刻斬り、その他十五歳以上の子は極辺の瘴気の地に流して充軍とし、妻孫(「孫」は「係」の誤りか)の宗室の女は実家に送り返し、一族の中の文武の官は免職し、その嫡流の子孫は将来十五歳に達したら順次流し、永久に赦して帰さないこととした。その子孫を匿い養う者があれば、叛逆に党し附いた例によって罪を治めるとした。父の太傅一等公遐齢、兄の工部侍郎希堯はともに免職された。遐齢はその時年八十余で、初めはやはり死罪に坐せられたが、大学士の朱軾が力争して、子のことで父を刑するのは法にかなわないと言ったので、免れることができた。
西暦1726年 四年
- 春正月、詔して允禩・允禟・蘇努・呉爾占の籍を削って宗室から離し、黄帯子を取り上げた。允禩は民王に改め授け、妻は福晋の位を取り上げ、実家に帰らせ、厳しく監視した。はじめ、允禩が親王に冊封された時、その妻の親族が祝いに行ったが、福晋は来客に語って「何の喜びがあって祝えましょう。今日王に封ぜられても、明日には首を保てますまい」と言った。帝は聞いてこれを憎み、ここに至ってあわせて罪に坐したのである。
- 隆科多の職を取り上げ、アルタイ地方に派遣して国境の事務を処理させた。隆科多は帝の母方の伯父で、かなり機略と才幹があり、帝が帝位を得たときに隆科多は力があった。それで帝は即位の初め、時を選ばず召し見て、膝を接して密談し(底本は「造縢」に作る。「造膝」の誤りか)、しきりに共に飲んで夜更けに至った。隆科多は時に泥酔し、人に輿で宮の外へ送らせることもあった。はじめ父の佟国維の一等公爵を承け継がせ、ついで太保を加え、吏部尚書兼歩軍統領を授けた。奏上を取り扱う処では「舅舅隆科多」と書くよう諭令し、後に輔政の功を叙して、さらに一等阿達哈哈番の世職を賞した。年羹堯が罪を得て、部に下して議処させた時、隆科多はその時吏部の長であったのに、羹堯の公爵を議して取り上げなかった。帝は彼が羹堯を庇ったとして深く憎んだ。しかし当時の臣下には、なおあえてその罪を言う者がいなかった。たまたま田文鏡の幕客の鄔某という者が帝の意を窺い知り、文鏡のために疏を草してこれを弾劾した。疏が上ると、隆科多は果たして罪を得た。そして文鏡はこれより寵遇が日に日に厚く、その君の心を専らにすることは、当時の大臣で比べられる者がなかった。
- 二月、民王允禩、貝子魯賓、簡親王雅爾江阿、鎮国公永謙はみな爵を除かれ、允禩・魯賓はともに高牆に監禁された。魯賓・雅爾江阿・永謙らはみな允禩・允禵に詔附(党附の誤りか)したことに坐したのである。
- 三月、勅して允禩の名を阿其那に、允禟の名を塞思黒に改めさせた。訳せば猪・狗の意である。当時、帝はどうしても二人を殺そうとして、諸大臣に命じてその罪を議させた。大学士の徐元夢は泣いて奏し、「願わくは陛下、手足の情を念い、二人を死から免じてください」と言った。帝は怒り、元夢を中書舎人に落とした。
- 侍講奉の銭名世の職と称号を撤し(原文「撤食侍講奉錢名世職銜」、字に乱れがあるか)、あわせて「名教罪人」の四字を書いて、管轄の地方官に扁額を作らせ、その住居に掲げさせた。また朝臣たちにそれぞれ悪を刺る詩を賦させ、一括して名世に交付し、自分で刊刻して進呈させた。直轄の諸省の各学校に頒ち示した。彼がかつて年羹堯に詩を贈り、蔵を平らげた功徳を称え、聖祖の平蔵の碑の後に碑を立てるべきだと言ったからである。
- 夏五月、兵を派して允禵を捕らえ護送し、あわせてその子の白起を京に来させ、寿皇殿に禁錮した。鄂倫岱および阿爾松阿を殺し、蘇努および七十の屍を戮した。固山貝子の満都、護善郡王の訥爾素邈、裕親王の広寧の爵を取り上げ(底本は「革固山貝子滿都,護善郡王訥爾素邈,裕親王廣寧爵」に作る。句読に乱れがあり、「滿都護」「善郡王訥爾素」等の区切りか)、みな宗人府に監禁した。
- 秋八月、直隷総督代理の李紱が允禟の病死を奏報した(底本は「奏奏報」に作る。「奏」の衍字か)。これより先、詔して允禟を京に送り返して罪を治めることとなり、都統の楚宗、侍衛の胡什礼らが允禟を三条の鎖で鎖して引いて行ったが、保定に至って、旨を奉じてそのままここに拘禁した。胡什礼が帰って奏した際、李紱に「塞思黒が到着したら、私はすぐに臨機に処置する」という語があったと述べた。帝は胡什礼に馳せ往って諭し止めさせた。ほどなく紱は奏してそのような語は無かったと称した。紱が允禟は疾を患っていると奏報すると、帝は楚宗・胡什礼に名医を選んで心を込めて治療させた。ここに至って紱は塞思黒が病死したと奏聞したのである。
- 九月、宗人府が阿其那の病死を奏報した。これより先、帝は允禩を移して宗人府に禁じるよう命じ、まもなく旨を降して言った、宗人府を管理する順承郡王の錫保は、才も人品も優れて長じており、国家のために心を費やし力を尽くす賢王である。内廷で行走させ、差遣がはなはだ急であるから、親王の俸を与えよ。護衛の官吏もみな親王の数に照らして支給せよ、と。ここに至って錫保は阿其那が病死したと報告した。
- 冬十一月、塞思黒の妻を実家に追い返し、厳しく禁錮するよう命じた。
西暦1727年 五年
- 冬十月、隆科多を暢春園の外に禁錮した。隆科多は、帝が宗人府に允禩らの名を除かせたので、輔国公の阿蘭(「阿蘭」は「阿布蘭」の誤りか)に頼んで私かに王族の系譜の原本を書き写させ、家中に蓄え置き、将来の照合の拠り所として残しておこうとした。帝はこれを聞いて大いに怒り、阿布蘭の公爵を取り上げ、家中に囲い禁じ、隆科多を呼び戻して罪を治めた。ここに至って、錫保が隆科多の罪状すべて四十一か条を奏し、正法を請うた。暢春園の外の近くの空き地に家屋三間を造り、永遠に禁錮するよう命じた。子の岳与阿は免職し、玉柱は黒龍江に送って役に当たらせた。
- 十二月、将軍・貝勒の延信を暢春園の外に禁錮した。これより先、錫保が延信の罪状二十か条を奏し、斬決を請うたところ、隆科多と一か所に囲い禁じるよう命じた。延信がかつて允禩を人となりが朴実であると言い、阿霊阿を人傑であると言い、また允禵・年羹堯の罪状を問う旨があったのに、実情に拠って暴き報じなかったからである。
西暦1728年 六年
- 夏六月、誠親王允祉を降して郡王とした。錫保が、允祉はかつて御前で王・大臣らを叱責し、少しも臣の礼がないから、爵を取り上げ禁錮すべきだと奏した。帝は言った、朕にはただこの一人の兄がいるだけである。寛に従って郡王に降そう。その子の弘晟は捕らえて宗人府に引き渡し、厳しく鎖し錮せよ、と。
西暦1730年 八年
- 夏五月、允祉の王爵を取り上げ、景山の永安亭に禁錮した。宗人府が、彼は怡親王の喪事で哀を挙げた時、まったく悲しみ泣く様子がなく、性情は残忍苛酷で、罪悪は日に熟しているから、王爵を削り去り、宗室から退け、直ちに正法すべきだと奏した。寛に従って拘禁するよう命じた。これより帝の兄弟および諸王・大臣で帝に猜疑された者はことごとく戮され、追い払われていなくなった。
原文(底本)
聖祖康熙六十一年冬十一月,世宗即位,命貝勒胤禩、十三阿哥胤祥、大學士馬齊、尚書隆科多總理事務,召撫遠大將軍十四阿哥胤禵馳驛回京。封胤禩和碩廉親王,胤祥和碩怡親王,胤祹多羅履郡王,二阿哥胤礽子弘晳多羅履郡王。先是,康熙中,胤礽居儲位,會聖祖親征準噶爾,胤礽奉命監國。以性仁弱故,爲政務寬大,不爲聖祖所喜,於是諸皇子希冀非份,相與蓄術术,結宦官,,爲祕密之運動以傾陷之。聖祖不察,胤礽卒以此召禍,一再冊立,仍被廢斥。及世宗嗣立,恐諸人仍前固結,將不利於己,以胤礽、胤禔久被幽繋,不復能有所爲,胤禟等庸懦,無足慮。惟胤禩才望爲諸王冠,思有以籠絡之。胤禩而能翰誠輔己者,王黨勢孤,日京消滅,自無與朝廷爲亂者。乃封胤禩親王,令與馬齊等同理政務,餘晉爵親王、郡王有差。又以胤禵爲胤禩同母弟,其出征西寧時,中外羣相揣測,謂聖祖試用胤禵,使之立大功於國家,爲將來定儲地。此時胤禵擁重兵在外,深得西北方人心,恐其生異志,特召令還京師,而改胤禟派往軍前。發遣前,編脩陳夢雷父子於關外,夢雷前緣事發往關東,後聖祖東巡時,以其學問優裕,帶回京師,令在誠親王處,幫同編輯《古今圖書集成》一書。誠王素以文學著稱,夢雷日侍左右,世宗忌之。至是,坐以招搖不法,並其子再發遣。命諸王阿哥,名上一字改爲允字,以與世宗御名同也。 世宗雍正元年春正月,禁侍衛、官員等私在諸王門下行走。二月,發遣內大臣勒什亨往西寧,隨貝子允禟效力。先是,允禟派往軍前時,怏怏不欲行,曰:『我何罪而斥我萬里?且居喪未過百日俟,陵寢回時再往亦未遲。』帝怒,誅其太監何玉桂、管領漢給事秦道。然處治二人時,帝語勒什亨,不必記在檔案,而勒什亨記之,故有是譴。三月,晉封輔國公阿布蘭爲多羅貝勒,賞給佐領總理事務,時阿布蘭不應,出班跪接。又宗人府建立碑亭,阿布蘭擬文勒石,不應頌揚大將軍功德,著革去貝勒,撤其佐領。夏四月,帝自山陵回京,命貝子允禵留駐陵寢附近之湯泉。五月,召從理郡王弘晳於鄭家莊,去北京二十餘里。晉封貝子允禵爲郡王,語王大臣曰:『允禵心志高傲,從此不自改悔,則國法具在,朕不得不治其罪。』允禵來時,將此傳諭知之。冬十二月,革履郡王允祹王爵,仍在原固山貝子上行走。以其自封王以來,並不感激效力之故。 二年夏四月,革郡王允䄉爵,禁錮宗人府。因奉使出口,遷延不行也。五月,革貝子弘春爵,弘春,允禵子。六月,降貝子允祹爲鎮國公,以冊封貴妃金冊有舛錯故。發遣貝勒蘇努、內大臣德寧於右衛,刑部尚書七十於三姓地方,皆坐黨附諸王也。秋七月,郡王允禵謫守景陵,允禵自立功西藏,中外頗稱道之,故帝忌之特甚。冬十月,發遺刑部尚書二等公阿爾松阿於奉天,坐交通藩邸也。十一月革世子弘晟爲閑散宗室,弘晟,允祉子。革裕新王保泰爵,坐黨廉邸故。二阿哥允礽薨,追封和碩理親王,諡曰密。 三年春二月,發遣二等公鄂倫岱於奉天,因其黨阿廉邸也。夏四月,解年羹堯川陝總督大將軍任,補授杭州將軍。羹堯爲藩邸舊人,帝初登極時,慮諸王爲變,常令羹堯衷甲以從。前後以平西藏、青海、莊浪積功,爵上公、晉太傅、賜金黃服飾(皇子服,諸王特賜者始許服)、三眼花翎(貝子品制)、四正龍補袿(親王服,諸王賜者亦少。異姓初無賜者,徒以御服無別。親王且改二行龍、二正龍矣),共寵異之如此,實前後勲臣所未有。後帝委以密訪允禵在軍中時劣跡,戒曰:『得狀,吾必有以厚酬汝。』羹堯察其無可議,乃力爲奏辦,帝深滋不悅。至是,以羹堯賀表內朝乾夕惕誤作夕惕朝乾,帝怒曰:『羹堯既不以朝乾夕惕許朕,則羹堯青海之功亦在朕許與不許之間。其自恃有功,故爲怠慢耶?抑或殺戮過甚,致此昏潰也?觀其平日帶兵,尚屬勤於操練,可改授杭州將軍。』六月,革年羹堯之子年斌子爵、年富男爵、隆科多之子玉柱鑾儀衛使職。秋七月,撤隆科多太堡銜,坐狥庇年羹堯也。並革年羹堯杭州將軍職,授閑散章京,在杭州效力行走。革貝子允禟爵,因山西巡撫伊都立参奏其縱屬毆民也。九月,革輔國公普照爵,普照,羹堯妻叔。削去太傅一等公年羹堯職銜,逮京審,擬正法。冬十一月,革內務府總管來保職,以其阿附誠王故。十二月,降郡王允禵爲固山貝子,謂允禵爲大將軍時,任意妄爲也。賜年羹堯自盡。帝久欲殺年羹堯,然以其功大不予保全,恐有烏盡弓藏之誚,因猶豫久之,會四川巡撫蔡珽被羹堯劾入京,因面陳羹堯不法諸款,命將軍督撫提鎮議奏。諸臣迎合参奏,請速加誅戮,議政處遂臚列羹堯九十二大罪,應立正典刑,帝令羹堯自裁,子富立斬,餘十五歲以上之子發遣极邊烟瘴地方充軍,妻孫宗室之女遣還母家,族中文武革職,其嫡親子孫將來長至十五歲陸續發遣,永不赦回。有厝養其子孫者,以黨附叛逆例治罪。父太傅一等公遐齡,兄工部侍郎希堯俱革職。遐齡時年八十餘,初亦坐死,大學士朱軾力爭,言以子刑父非法,得免。 四年春正月,詔允禩、允禟、蘇努、吳爾占削籍離宗,革去黃帶子。允禩改授民王,妻革去福晉,休回外家,嚴行看守。初,允禩冊封親王,其妻黨往賀,福晉語來賓曰:『有何喜可賀?今日封王,明日不能保首領耳!』帝聞而惡之,至是並坐。革隆科多職,派往阿爾泰地方辦理界務。隆科多爲帝元舅,頗有機幹,帝之獲當壁也。隆科多與有力焉,故帝即位伊始,不時召見,造縢密語,頻與飲至更深。隆科多或至沈醉,令人輿送出宮。初令其承襲父佟國維一等公爵,尋加太保,授吏部尚書兼步軍統領。諭令啓奏處書寫舅舅隆科多,後敘輔政功,復賞一等阿達哈哈番世職。及年羹堯得罪,交部議處,隆科多時長吏部,未將羹堯公爵議革,帝謂其袒羹堯,深惡之。然當時臣工,尚無敢言其罪者,值田文鏡、幕客鄔某者,窺知帝意,爲文鏡草疏劾之。疏上,隆科多果得罪,而文鏡自是寵遇日隆,其得君之專,一時大臣無與倫比。二月,民王允禩、貝子魯賓、簡親王雅爾江阿、鎮國公永謙俱除爵,允禩、魯賓俱監禁高牆。魯賓、雅爾江阿、永謙等皆坐詔附允禩、允禵也。三月,勅改允禩名爲阿其那,允禟名爲塞思黑,譯言猪狗也。時帝必欲殺二人,命諸大臣議其罪,大學士徐元夢泣奏曰:『願上念手足之情,免二人死。』帝怒, 謫元夢中書舍人。撤食侍講奉錢名世職銜,並書『名教罪人』四字,令該管地方官制扁額,張掛其居宅,又令廷臣各賦刺惡詩一併交與名世,自行刊刻進呈。頒示直省各學校,以其嘗贈詩年羹堯,稱頌平藏功德,謂當立碑於聖祖平藏碑之後,故也。夏五月,派兵提解允禵,並其子白起來京,禁錮壽皇殿。殺鄂倫岱及阿爾松阿,戮蘇努及七十屍,革固山貝子滿都,護善郡王訥爾素邈,裕親王廣寧爵,俱監禁宗人府。秋八月,署直隸總督李紱奏奏報允禟病故。先是,詔解允禟回京治罪,都統楚宗,侍衛胡什禮等將允禟用三條鎖鎖掣,至保定,奉旨即在此拘禁,及胡什禮回奏,述李紱有『塞思黑一到,我即便宜行事』之語,帝命胡什禮馳往諭止,尋紱奏稱並無此語,及紱奏報允禟患疾,帝命楚宗、胡什禮揀選名醫用心調治,至是紱以塞思黑病故奏聞。九月,宗人府奏報阿其那病故。先是,帝命將允禩改禁宗人府,旋降旨曰:管理宗人府,順承郡王錫保,才品優長,乃國家費心效力之賢王。令在內廷行走,差遣甚急,着給與親王俸。護衛官員,俱照親王之數給用,至是錫保以阿其那病故報聞。冬十一月,命將塞思黑之妻逐回外家,嚴加禁錮。 五年冬十月,禁錮隆科多於暢春園外。隆科多以帝令宗人府除去允禩等名,因囑輔國公阿蘭私抄王牒底本,存眝家中,欲留爲將來對合地也。帝聞之大怒,革去阿布蘭公爵,圈禁家中,調回隆科多治罪。至是,錫保奏隆科多罪狀凡四十一欵,請正法。命暢春園外附近空地,造屋三間,永遠禁錮。子岳與阿革職,玉柱發黑龍江當差。十二月,禁錮將軍貝勒延信於暢春園外。先是,錫保奏延信罪狀二十欵,請斬決,命與隆科多在一處圈禁。因延信嘗稱允禩爲人樸實,阿靈阿爲人傑,又有旨詢問允禵、年羹堯罪狀,並不據實揭報也。 六年夏六月,降誠親王允祉爲郡王。錫保奏允祉嘗在御前喝責王大臣等,毫無臣禮,應革爵禁錮。帝曰:朕惟此一兄,從寬降爲郡王。其子弘晟著拏交宗人府嚴行鎖錮。 八年夏五月,革允祉王爵,禁錮景山永安亭。宗人府奏其於怡親王喪事舉哀時,全無悲泣之狀,性情殘刻,罪惡日稔,應削去王爵,革退宗室,即行正法。命從寬拘禁,自是帝之兄弟及諸王大臣凡爲帝所猜忌者悉戮,逐無矣。
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