清史紀事本末朋党の厳禁(厳禁朋党)

要約

雍正元年夏四月、帝ははじめて乾清門に聴政し、朋党の悪習は明末に起こって今に止まぬ、あるなら改め無いなら永く戒めよと戒めた。康熙朝の廷臣は三党に分かれ、索額図は胤祁に、佟国維は胤𥜥に党し、隆科多らは帝に誠を輸して紛擾は数十年に及び、聖祖は憂憤のまま歿した。帝は党援を解散させようとした。

二年秋七月、『朋党論』を作って群臣に頒った。王の党の翦除が急で門戸の見が深まるのを憂え、輿論の是非と賞罰を一致させるべきだと欧陽修の「君子に朋あり」の説を駁し、人臣は君を知って好悪を同じくすべしと説いた。王・大臣が奉行を誓うと空言に託すなと勉めさせ、宗室が仇讎のように見合うのは讒邪の徒の隙だといい、胤𥜥らの過失と彼を太子に保奏した非を数え、和衷せよと諭した。冬十一月、胤𥜥が岳周の滞納を数千金補ったのを人心の要結とし、諸臣が前非を改めればその党は散じようと語り、廉親王の銀銭の術中に堕ちれば重罪とすると暁諭した。

三年春二月、公爵鄂倫岱を奉天に戍らせた。骨肉を保全しようと深く追及せず首魁だけを遠ざけるとし、以後その党に附く者は重辟に処すとした。三月、八旗に家人が党羽を結び会飲して鑽営請託するを禁じた。夏四月、廉親王とは分は君臣、誼は兄弟なのに情は水火、勢いは敵国だ、諸王・大臣がその非を知れば党与は解散しようと語った。五月、隆科多・年羹堯が罪を得ると、門下は党羽を解散せよ、違えば逆党として正法すると諭し、六月、邪党に附かぬ岳鍾琪らに太子少保、孔毓珣らに兵部尚書の銜を加えた。秋七月、孔伝鐸が二書の頒賜を請うと、先師の子孫に匪党に趨附する事は無いと答えた。

四年春正月、諸臣に年羹堯・隆科多の覆轍を踏むなと誡め、夏五月、胤𥜥らが鄂倫岱・蘇努・阿霊阿らと朋党を結んだこと、鄂倫岱らが聖祖の前で胤𥜥を太子に保挙したことなどの不法はすでに治めたと暁した。冬十二月、御史謝済世をアルタイに発遣した。田文鏡が属吏黄振国らを誣告し、斥責した李紱を党を結んで報復を謀ると密奏し、済世が露章して文鏡の貪黷不法の十罪を弾劾すると、帝は誣奏するなと疏を投げ返したが、済世は地に伏して争い、刑部の訊問にも、指使を究めるならただ孔子・孟子があるのみだと答えた。陳学海が庭に走り出て謝某と交通したのは私だと叫ぶと訊問は罷められ、済世は職を褫われて軍前に効力させられた。

五年秋八月、李紱・蔡珽を逮えて獄に下した。紱は清直で器重され、権臣の「四巡撫論」に乱政の魁と詆られた。帝は済世の参劾を二人の授意とみて斬決を議し、寛に従い斬監候に改めた。決囚で二人は西市に至り、刀を頸に置かれ、今になって田文鏡が好い人物だと分かったかと問われた。紱は、臣は愚かで死ぬとはいえ田文鏡の好いところは分かりませんと答え、二人とも赦されて請室に置かれた。珽は潜邸の招きにも藩王に見える礼はないと辞した。朝士は冤としたが、文鏡が信を専らにして緩頰する者もなかった。冬十二月、延信を党援の罪で褫革し監禁したと詔し、朋党の弊は最も人心を害い国政を乱すとして蘇努・鄂倫岱らの罪を列し、共工・驩兜を法に置いた舜や孔子を引いて臣工の炯戒とした。

七年夏五月、科道の条奏も大臣と同じく輪番で具奏せよと詔した。言官が要結されるのを患って露章のほか密摺を許したが、告訐を恐れて停めると科道は緘黙した。帝は、朝廷の耳目が国政を他人事と見るとはと訓飭し、是非を顛倒する者は国家の罪人だと述べたが、台臣の風気はかえって蘊藉になった。秋七月、密奏を漏らした邱尚志と、他人の密奏を訪ね回って奏した李元直の俸を罰し、朋比・党援の兆しだとして、漏らす者は重く治めると伝諭した。冬十月、翰林・科道に、康五瑞が李紱を袒護してもその悪を掩えず、李紱・蔡珽は田文鏡を害そうとして身を害した、衆人の炯戒だとし、科甲出身の官員にも朋比の結習を去れと諭した。科目の出身でない文鏡が科甲を痛詆するのを帝が重んじたからである。

年表

清の世宗(雍正帝)が朋党の結成を厳しく禁じ、繰り返し訓戒と処罰を加えた経緯を記す。康熙朝に索額図・佟国維らが皇子ごとに党を分かって争った弊を受け、世宗は即位の初めから乾清門で群臣を諭し、《朋党論》を著して欧陽修の説に駁し、満漢の諸臣に頒示した。允禩(胤𥜥)の党を解散させるために鄂倫岱を奉天へ流し、年羹堯・隆科多の門下にも党羽の解散を命じた。さらに田文鏡を弾劾した謝済世をアルタイへ流し、李紱・蔡珽を獄に下すなど、言路と科甲出身者にも党援を禁じた。雍正元年(1723年)から雍正七年(1729年)までを扱う。

年表(6件)

現代語訳全文

西暦1723年 世宗雍正元年

  • 夏四月、帝ははじめて乾清門に出御して聴政し、群臣を顧みて言った。「朋党の悪習は明の末年に起こり、この風潮は今に至るまで止んでいない。お前たち大臣は、それがあるならば痛切に改め、無いならば永くこれを戒めとせよ」。繰り返すこと数百言、誥め戒めることはきわめて切実であった。
  • これより先、康熙朝の廷臣たちは、聖祖の春秋が高く、儲君(皇太子)が位に在って以来、寵愛が移り奪われる機微を見て、しばしば聖心を窺い測り(「屢朕窺測聖心」の「朕」は衍字か)、あるいは暗黙のうちに心を通じた者があって、互いに擁護を謀り、ひとたび当たることを冀って、非常の勲功を建てようとした。
  • そして東宮の官属らは(底本は「而來東宮官屬等」に作る。「來」は衍字か)、誠を竭くして太子を保護しようと考え、またその国体を固く結束させて、互いに抵制しあった。ここに門戸を分かち(「分別戶」は「分門別戶」の誤りか)、互いに傾軋した。
  • 当時は三つの党に分かれ、それぞれに私人(子飼いの者)があった。大学士の索額図は胤祁に党し、内大臣で公の佟国維は胤𥜥に党し、尚書の隆科多、内大臣で公の費揚古らはみな帝に誠を輸した。これによって皇室に紛擾を招くこと数十年に及んだ。
  • その後、康熙四十年、儲君を廃する命が下り、胤𥜥もまた罪を得た。聖祖は晩年、諸子が不肖であり、党派が紛争するのを見て、その後始末をよくする術がなく、これがために憂憤し感傷して、恨みを抱いたまま歿するに至った。
  • 天命の帰するところがあって帝が嗣立すると、諸人の党援を解散させる手立てを思い、御門聴政のはじめにただちに諸王・大臣に面と向かって諭し、諄々としてこれを戒めとしたのである。

西暦1724年 雍正二年

  • 秋七月、帝は《朋党論》を制作して群臣に頒賜した。帝は即位して一年余り以来、王の党を翦除することがあまりに急であったため、人心は惶れ恐れ、門戸の見(党派意識)は日ごとに深まった。帝は愀然としてこれを憂え、朋党の源を除こうと欲するならば、輿論の是非とするところと、朝廷の賞罰するところとを一致させるべきだと考え、そこで《朋党論》を製作して、宋の欧陽修の「君子に朋あり」の説に駁論を加えた。
  • これを満・漢の諸臣に頒示した。その大要はこうである。天は尊く地は卑しくして君臣の分は定まる。人臣たる者は、義として、ただ君のあることのみを知るべきであり、そうであればその情は固く結ばれて解くことができず、君と好悪を同じくすることができる。これを一徳一心にして上下相交わるというのである。訓誡は殷々として、以前よりもさらに諄々と切実であった。
  • 八月、王・大臣が上奏して、「恩を蒙って御製《朋党論》を頒賜され、訓誡は諒に切実でありました。臣らはともに公誡を誓い(底本は「公誡」に作る。「公誠」の誤りか)、敬んで謹んで奉行いたします」と述べた。帝は召し入れて問うた。「王・大臣が奏したところは、はたして衆人の意が簽同(底本は「簽同」に作る。「僉同」の誤りか)したものか、それとも二、三人の意見から出たものか、まだ分からぬ。今すでに同意だと称する以上、朕の心ははなはだ慰み悦ぶ。ただ実心をもって奉行することを貴ぶのであり、いたずらに空言に託してはならぬ(「徙」は「徒」の誤りか)」。さらに再三、一徳一心をもって、ともに上理(最上の治)に至るよう勉めさせた。
  • 日を越えて、また諸臣を召し入れ、宗室の習気がよろしくないこと、互いを仇讎のように見ていること、それはみな讒邪の徒がその間に隙を持ち込んで、骨肉に嫌いを生じさせているからだ、と告げた。そのうえで胤祁・胤褆・胤𥜥・胤禟・胤禵らの過失を一つ一つ数えあげ、彼らが君臣の大義を知らぬこと、および以前に諸臣が胤𥜥を太子に保奏したことの非を述べた(「胤胤𥜥」は「胤」の字の重出か)。
  • のちにまた諸王・宗室を召して引見し、結党の悪習について訓し、各自よろしく身を返りみて自ら問い、あるならば速やかに改め、無いならばいっそう勉めよ(「加免」は「加勉」の誤りか)と諭した。そして「わが宗室ははなはだ多い。ぜひとも和衷して一体となり、たがいに策励しあい、子孫の手本となることを期せ」と言った。
  • 冬十一月。これより先、工部郎中の岳周が銭糧を滞納していたところ、胤𥜥がひそかに数千金を補助して、額どおりに完納できるようにした。帝は胤𥜥が意図的に人心を要結しようとしているとみなした。ここに至って総理王大臣らに語って言った。「胤𥜥は心に狡詐を存し、党を結んで私を営んでいる。朕はしばしば訓誡を加え、改過自新することを冀った。ところが朝廷の諸臣は彼に愚弄され、かえって朕が苛刻に過ぎると言い、彼のために不遇を抱くとする。これは朕が諸人の神色を審察して知ったことである。この一年来、大小の臣工で彼に累を及ぼされた者は少なくないのに、甘んじて罪戻を受け、まったく悔いる心がない。このようであれば、その党援はついに解散する日がないであろう。彼がすでに悪に怙って悛めず、諸臣もまた省悟しないゆえに、特に諄々と誡め諭すのである。もし諸臣が心を洗い慮りを滌ぎ、ことごとく前非を改めるならば、その党は散じて勢いは孤立するであろう」。
  • ついで九卿の大臣および工部・上駟院の両衙門の官吏らに伝えて言った。「廉親王は国政を擾乱する心があり、ひそかに銀銭を使って人心を惑わし買っている。お前たち工部・上駟院、両衙門の者どもは、慎んでその術中に堕ちて愚弄されることのないようにせよ(「忽」は「勿」の誤りか)」。これによってさらに重ねて暁諭した。「お前たちはただ事を弁じ力を効す点において一途に正に帰し、彼に引誘され惑乱されてはならぬ。もし無知にもその党与に入る者があれば、朕は必ず重罪をもって治めるであろう」。

西暦1725年 雍正三年

  • 春二月、公爵の鄂倫岱を奉天に戍らせた(配流した)。王・大臣を召し入れ、胤𥜥らがひそかに党援を結んで牢固として破りがたく、もしひとたび訉詰(底本は「訉」に作る。「訊」の誤りか)すれば国法の容れがたいところである、と語った。「朕は骨肉を保全しようと欲するがゆえに、深く追及することはせず、ただその首魁である鄂倫岱を発遣し、京師から遠く離れさせて、事あるごとに波風の立つのを免れさせるのである。今後、大小の臣工のうち、もしひそかに胤𥜥の党に附く者があれば、必ずこれを重辟(死刑)に処し、彼らの党援を解散させ、附会して悪を済す人を無くす。これこそ曲折を尽くして保全をはかる計なのである」。
  • 三月、八旗に通諭した。「家人(使用人)が党を結ぶことを厳禁し、歩軍統領および五城の官吏に交付せよ(底本は「著交步軍統領。五城官員,凡大臣等之家人」と句点を「統領」の下に置く。「著交步軍統領、五城官員。凡大臣等之家人」の誤りか)。およそ大臣らの家人について、嫁娶の筵席があり、親友などを招請する場合には(底本は「延請親友等中」に作る。「中」は「事」等の誤りか)、それぞれ家主に稟告して明らかにさせ、しかるのちに行わせよ。もしひそかに党羽を結び、約して兄弟となり、互いに会飲して、それにかこつけて鑽営や請託をする者があれば、ただちに厳しく撃って罪を治めよ(「擊」は「拏」の誤りか)」。
  • 夏四月、工部が製造した阿爾泰(アルタイ)向けの兵器を検査させた。大臣の夸岱・来保が回奏して、製造された器械はまったく堅利ではない、と述べた。帝は諸王・大臣を召し入れて語った。「朕と廉親王とは、分は君臣に属し、誼は兄弟に属する。今、胤𥜥の朕に対する様子を見るに、情は水火のごとく、勢いは敵国に等しい。朕はしばしば諸王・大臣の前で旨を降して訓誨してきたが、諸王・大臣の意を見るに、多くは屈抑されていると思っている者があるようだ。これはなぜか。お前たち王・大臣が、まことにことごとくその非を知るならば、その党与は自然に解散するであろう」。
  • 五月、隆科多と年羹堯が罪を得たので、免職して問擬した。大学士・九卿らに諭し、およそ二人の門下に属する者は、速やかに党羽を解散し、洗心革面すべきであり、違反する者は発覚のときに逆党として重きに従って正法に処すると決めた。
  • 六月、総督の岳鍾琪・高基悼・楊宗仁、提督の呉陞・魏経国は、深く大義を知り、邪党に附かないという理由で、いずれも太子少保の銜を加えた。総督の孔毓珣、河道総督の斉蘇勒には、いずれも兵部尚書の銜を加えた。
  • 秋七月、衍聖公の孔伝鐸が上疏して《聖諭広訓》《朋党論》の二書の頒賜を請うた。帝は優詔をもってこれに答えて言った。「先師の子孫には、これまで匪党に趨附するという事がない。請うたところの二書は、頒発するに及ばぬ」。

西暦1726年 雍正四年

  • 春正月、諸臣を乾清宮に宴し、諄々と諸臣を告誡して、年羹堯・隆科多が党を結んで私を営み、ついに国法にかかった覆轍を踏むことのないようにと述べた。
  • 夏五月、胤𥜥・胤禟・胤䄉・胤禵らが、鄂倫岱・阿爾松・阿蘇努・七十拉錫・普奇・揆叙・阿霊阿らと朋党を結んでいたこと、鄂岱倫(鄂倫岱の誤りか)らが聖祖の前で力を協せて胤𥜥を太子に保挙したこと、および、しばしば胤禟の気象は大方であると称したことなど、種々の不法について、すでに前後して分別して罪を治めてあることを、特に王・大臣・九卿らに暁して知らせた。
  • 冬十二月、御史の謝済世を阿爾泰へ発遣した。これより先、田文鏡が河南を撫していたとき、属吏の黄振国・邵言綸・汪諴・関敶らを誣告して弾劾した。直隷総督の李紱が河南を通過したとき、面と向かって文鏡が意図的に読書人を蹂躙していると斥責した。文鏡は密奏して、紱は振国と同年(科挙の同期)であり、党を結んで弾劾された諸員のために報復を謀ろうとしている、と述べた。やがて紱ははたして面奏し、退出してからさらに続けて上疏してこれを糾弾した。帝は先に文鏡の言を聞き入れており、紱を罪しようとした。
  • そこへ済世が露章(公開の上奏)して、文鏡の貪黷不法の十罪を弾劾し、疏中ではまた振国らの事にも及んだ。帝は不快として言った。「彼は能臣と称され、朕がまさに倚任しているところである。お前は浮言に惑わされて誣奏してはならぬ」。そしてその疏を投げ返した。済世は地に伏して起とうとせず、争うことはますます力強かった。帝は震怒し、九卿・科道に命じて刑部に集まり、交関の状(結託の事情)を訊問させた。済世は言った。「文鏡の悪は、中外ともに知るところである。済世は孔孟の書を読み、精しく大義を識っており、姦人が上を罔するのを見るに忍びなかった。ゆえに死を冒して申し上げたのだ。どうしても指使した者を究めようというならば、ただ孔子・孟子があるのみである」。尚書の励杜納が言った。「これは刑訊すべきである」。御史の陳学海が列班の中にいたが、突然起って庭中に走り出し、北に向かって大声で言った。「謝某と共に交通していた者は、この私である」。衆人は愕然として、これを上聞し、あわせて訊問することを請おうとしたが、まもなく訊問を罷めよとの伝諭があり、済世の職を禠奪し(底本は「禠」に作る。「褫」の誤りか)、阿爾泰の軍前に発して効力させた。

西暦1727年 雍正五年

  • 秋八月、工部右侍郎の李紱、奉天府尹の蔡珽を逮えて入京させ、獄に下した。これより先、紱が広西を撫していたとき、清直をもって帝に器重されたので、権臣はこれを忌んだ。そこで「四巡撫論」を作り、いずれも痛烈に詆って乱政の魁だとした。四巡撫とは、雲南巡撫の楊名時、栆撫の陳世倌(底本は「栆撫」に作る。意味不通)、その二人は紱と珽である。
  • ここに至って、紱は直隷の署任の任内にあり、珽は奉天にいたが、謝済世が田文鏡を参劾したことについて、帝はそれが紱と珽の授意から出たものだとして、京に逮えて罪を治め、ついには斬決を議し、妻子は辛者庫に入れ、財産は官に没入することになった。寛に従って斬監候に改めるよう命じ、二度にわたって決囚を行い、二人を縛って共に西市に至らせた。両手を後ろ手に縛り、刀を頸のあいだに置いて、「この期に及んで田文鏡が好い人物だと分かったか」と問うた。紱は答えて言った。「臣は愚かにして、死ぬとはいえ田文鏡の好いところは分かりません」。そこで二人とも赦されて還り、なお請室(拘禁の室)に置かれた。
  • 珽は朝廷に立って、とりわけ風節が炳然としていた。帝がまだ潜邸にあったとき、珽の名を聞き、しばしば王府に出入りする馬爾斉哈に珽へ意を授けさせ、見に来るように命じた。珽はこれを辞して言った。「珽は職として学士に居ります。藩王に往って見える礼はございません」。のちに年羹堯が入京し、邸に至って帝に謁したとき、帝は珽と塞爾図の才と守(節操)と誡見(識見)とを極めて讃え称し、実に群類を超えていると言い、あわせて招いても来なかったわけを告げた。羹堯は退出して珽に会い、そこでこの事に及んで語り、なおかつ珽を動かして入って見えさせようとしたが(「慟」は「動」または「勸」の誤りか)、珽はやはり以前どおり堅く辞した。
  • 二人が罪を得るに及んで、朝士はこれを冤罪だと思ったが、当時は文鏡が君の信を得て専らであったため、あえて彼らのために緩頰(とりなし)をする者がなく、ついに文鏡に苦しめられ、あやうく死ぬところであった。
  • 冬十二月、大将軍の貝勒延信に、党援を結んで私を営んだ罪があるとして、すでに褫革して監禁したむねを詔した。そこで廷臣に語って言った。「人臣の朋党の弊は、最もよく人心を害い、国政を乱すものである」。そして蘇努・阿霊阿・鄂倫岱らが悪を同じくして党を結んだ罪を列挙して言った。「朋党の小人は、古来、帝王の必ず誅するところ、聖賢の戒めを垂れるところである。唐虞の世には、共工・驩兜が比周して党をなしたが、舜は必ずこれを法に置いた。孔子は『君子は矜にして争わず、群して党せず』と言っている。《易経》渙の四に『その群を渙らす、元吉』とあり、朱子は、上は九五を承け、下に応与が無く、よくその朋党を散らす象であるから、大いに善にして吉である、と言っている」。
  • 最後にまた言った。「彼らが党を比する害は、朕が藩邸にあったときからはなはだ詳しく知っている。ゆえに臨御して以来、彼らが朋比して姦をなしたところを、しばしば中外に宣示してきた。それは世道人心と宗社国家のためを計って、痛く懲創を加え、厳しく誡諭を加えざるを得なかったからであり、ただ大小の臣工がこれを炯戒とすることを冀うのみである」。

西暦1729年 雍正七年

  • 夏五月、科道などの官に詔して、今後、条奏する事件については、文武の大臣らと同様に、輪番で具奏せよとした。これより先、帝は、科道の諸臣が朝廷の挙動に対して発言の権を有しているのに、中外の大臣がしばしば言官を要結して朝旨に反対し、議論が囂々としていることを深く患えた。そこで科道らに、露章のほかに密摺で奏事することを許すよう命じた。それは言官が瞻顧して嫌疑を招くという私を免れさせ、すなわち臣工が党を植え私を営む弊を去ろうとしたのである。
  • 続いてまた、近ごろ密奏によって告訐が行われており、言官がそれに藉って挟制し把持することを恐れ、そこでその密摺を停止して、それぞれなお露章を用いるようにさせた。これによって科道らは相次いで緘黙して言わず、あえて建白するところがある者がいなくなった。帝は深く不悦を募らせて言った。「朝廷の耳目たる官でありながら、国家の政治を道ゆく他人のように見ている。心を忍んで理を害うこと(「埋」は「理」の誤りか)、これよりはなはだしいものはない」。そこで手諭をもって訓飭し、科道らに、痛く頽れた風を改め、旧習を洗滌し、讜言讞替の道を尽くし(底本は「讜言讞替」に作る。意味不通)、蕩平正直の風を成さしめようとした。「もし党を植えて私を営み(「敬」は「儻」の誤りか)、弁言して政を乱し、これが唱えかれが和して是非を顛倒する者があれば、実に国家の罪人であり、王章(国法)の宥さぬところである」と述べた。この令がひとたび下ってから、台臣の風気はかえって以前よりも蘊藉(控えめ)になった。
  • 秋七月、給事中の邱尚志、御史の李元直の俸を罰するよう詔した。尚志が崇文門の飯銀の一件を密奏しながら、外に漏洩すべきでないものを漏らしたこと、元直が密奏をまだ行わないうちに、他人の密奏した事柄をあまねく訪ね回ってから奏し入れたことが、大いに帝の意に忤ったためで、それぞれ分別して俸を罰させた。あわせて内閣に手諭し、これを朋比・党援であり、威福を作す兆しであると指した。そして科道の諸臣に伝諭させた。「今後もし密奏の事について、朕がまだ本人の姓名を発出していないのに、本人が自ら漏洩し、あるいはひそかに稿を存しておく者があれば、ひとたび発覚すれば、必ず厳しく訊究し、重きに従って罪を治めるであろう」。
  • 冬十月、翰林・詹事および科道らに諭し、朋党の悪習を踏まぬようにと述べ、康五瑞が李紱を袒護したが、ついにその悪を掩うことができなかった例を引いた。李紱・蔡珽は田文鏡を害そうとして、かえって自らその身を害したのであり、衆人の炯戒となるとした。あわせて諸人に、常に上の旨を体認し(底本は「自旨」に作る。「上旨」の誤りか)、それを躬行実践するようにと諭した。
  • 科甲出身の官吏らに諭して、その党援・朋比の結習を務めて去り、朝廷のために忠誠を弾き竭くし、公を秉って事を弁ずるようにと述べ、そうすれば君臣上下が一徳一心となり、治道はこれより日ごとに隆んになり、世風はこれより日ごとに厚くなるのを見るであろう、とした。当時、田文鏡は科目(科挙)の出身ではなく、奏事のたびに科甲出身の人々を痛烈に詆って信ずるに足りないとしていた。帝は平素からその言を重んじていたので、この諭があったのである。
原文(底本)
世宗雍正元年,夏四月,帝初御乾清門聽政,顧語羣臣曰:『朋黨惡習,起於明季,此風至今未息。爾大臣有則痛改,無則永以爲戒。』反覆數百言,誥誡至切。先是,康熙朝廷臣見聖祖春秋高,儲君在位以來,寵移愛奪之機,屢朕窺測聖心,或有默契者在,相與謀擁護,冀得一當,以建非常之勛。而來東宮官屬等,思所以竭誠保護太子,亦復固結其國體,以相抵制,於是分別戶,互相傾軋。時分三黨,各有私人。如大學士索額圖則黨於胤祁,內大臣公佟國維則黨於胤𥜥,尚書隆科多、內大臣公費揚古等則皆輸誠於帝,因爲皇室召紛擾者數十載。其后康熙四十年,廢儲命下,胤𥜥亦得罪。聖祖晚年,覩諸子不肖,黨派紛爭,無術以善其後,爲之憂憤感傷,至於恨以歿。及天命有歸,帝嗣立,思有以解散諸人之黨援,故於御門聽政之始即面諭諸王大臣,諄諄以此爲戒焉。

  二年,秋七月,帝制《朋黨論》頒賜羣臣。帝即位一年餘以來,翦除王黨太急,致人心惶恐,門戶之見日深。帝愀然憂之,以爲欲除朋黨之源,當令輿論之所是非,與朝廷之所賞罰相一致,於是製《朋黨論》,以駁宋歐陽修君子有朋之說。頒示滿漢諸臣,其大要謂:天尊地卑而君臣之分定,爲人臣者,義當唯知有君則其情固結而不可解,而能與君同好惡,夫是謂一德一心而上下交。訓誡殷殷,較前更爲諄切。 八月,王大臣奏,蒙恩頒賜御製《朋黨論》,訓誡諒切,臣等共矢公誡,敬謹奉行。帝召入問曰:如王大臣所奏,未知是否衆意簽同,抑或出於二三人之意見?今既稱同意,朕心甚爲慰悅,但貴實心奉行,不可徙託之空言也。復再三勉以一德一心,共臻上理。逾日,又召諸臣入,告以宗室習氣之未善,彼此視若仇讎,皆由讒邪攜釁其間,致令骨肉生嫌耳。且歷數胤祁、胤褆、胤𥜥、胤禟、胤禵等之過失,謂其不識君臣大義,及從前諸臣保奏胤胤𥜥爲太子之非是。後復召諸王宗室入見,訓以結黨惡習,各宜返躬自問,有則速改,無則加免。且謂吾宗室甚衆,務期和衷一體,交相策勵,以爲子孫表範。 冬十一月,先是工部郎中岳周拖欠錢糧,胤𥜥私爲補助數千金,俾得如數完納,帝謂胤𥜥有意要結人心,至是語總理王大臣等曰:『胤𥜥存心狡詐,結黨營私,朕屢加訓誡,冀得改過自新。乃在朝廷諸臣,爲其所愚,反謂朕過於苛刻,爲其抱屈,此朕審察諸人神色而知之。一年以來,大小臣工因其貽累者不少,乃甘受罪戾,竝無悔心。似此,其黨援終無解散之日也。彼既怙惡不悛,諸臣復不省悟,用特諄諄誡諭。倘諸臣洗心滌慮,盡改前非,則其黨散勢孤矣。』尋傳九卿大臣及工部上駟院、兩衙門官員等曰:『廉親王有心擾亂國政,暗使銀錢,惑買人心,汝工部上駟院、兩衙門人等慎忽墮其術中,爲所愚弄。』用是再加曉諭:『汝等但於辦事效力之處,一歸於正,勿被其引誘惑亂,如無知入其黨與,朕必治以重罪。』

  三年,春二月,戍公爵鄂倫岱於奉天。召王大臣入,語以胤𥜥等私結黨援,牢不可破,若一經訉詰則國法難容。朕因欲保全骨肉,不事深求,但將其首鄂倫岱發遣,使之遠離京師,以免遇事生波。嗣後大小臣工,若有暗附胤𥜥之黨者,必置之重辟,使彼等黨援解散,無附會濟惡之人,正所以曲爲保全之計也。 三月,通諭八旗:『嚴禁家人結黨,著交步軍統領。五城官員,凡大臣等之家人,如有嫁娶筵席,延請親友等中,令各稟明家主,然後舉行。倘有私結黨羽,約爲兄弟,彼此會飲,籍以鑽營請託者,即嚴擊治罪。』 夏四月,驗看工部製辦阿爾泰兵器。大臣夸岱來保回奏:所製器械竝不堅利。帝召諸王大臣入,語之曰:『朕與廉親王分屬君臣,誼屬兄弟。今觀胤𥜥之於朕則情如水火,勢等敵國,朕屢於諸王大臣前降旨訓誨,視諸王大臣之意多有以爲屈抑者,何也?汝王大臣等,果能悉知其非,則其黨與自然解散矣。』 五月,以隆科多、年羹堯得罪,革職問擬。諭大學士九卿等,凡屬二人門下,宜亟解散黨羽,洗心革面,違者發覺之時,決以逆黨從重正法。 六月,以總督岳鍾琪、高基悼、楊宗仁,提督吳陞、魏經國深知大義,不附邪黨,俱著加太子少保銜。總督孔毓珣,河道總督齊蘇勒俱加兵部尚書銜。 秋七月,衍聖公孔傳鐸疏請頒賜《聖諭廣訓》、《朋黨論》二書,帝優詔答之曰:『先師子孫,從無趨附匪黨之事,所請二書,不必頒發。』

  四年,春正月,宴諸臣於乾清宮,諄諄告誡諸臣,毋蹈年羹堯、隆科多結黨營私,至罹國法之覆轍。 夏五月,以胤𥜥、胤禟、胤䄉、胤禵等與鄂倫岱、阿爾松、阿蘇努、七十拉錫、普奇、揆敘、阿靈阿等結爲朋黨,鄂岱倫等在聖祖前協力保舉胤𥜥爲太子,及屢稱胤禟氣象大方種種不法,已先後分別治罪,特曉王大臣九卿等知之。 冬十二月,發遣御史謝濟世於阿爾泰。先是,田文鏡撫河南,誣劾屬吏黃振國、邵言綸、汪諴、闗敶等。直督李紱過河南,面斥文鏡有心蹂踐讀書人。文鏡密奏紱與振國同年,將結黨爲被劾諸員謀報復。已而紱果面奏,退復速疏糾之。帝先入文鏡言,將罪紱,而濟世、露章劾文鏡貪黷不法十罪,疏中亦及振國等事,帝不懌曰:『彼號能臣,朕方倚任,爾毋惑浮言誣奏。』擲還其疏,濟世伏地不肯起,爭益力。帝震怒,命九卿科道集刑部訊交闗狀。濟世曰:『文鏡之惡,中外皆知。濟世讀孔孟書,精識大義,不忍視姦人罔上,故冒死以聞。必欲究指使者,乃獨有孔子孟子耳。』尚書勵杜納曰:『是當刑訊。』御史陳學海在班中,忽起走庭中,北向大言曰:『與謝某共交通者,我也!』衆愕然,將以聞,請並訊,俄傳諭罷訊,禠濟世職,發阿爾泰軍前效力。

  五年,秋八月,逮工部右侍郎李紱、奉天府尹蔡珽入京,下於獄。先是,紱撫桂時,以清直爲帝所器重,權臣忌之。作四巡撫論,皆痛詆以爲亂政之魁。四巡撫者,滇撫楊名時,栆撫陳世倌,其二則紱與珽也。至是紱在直隸署任內,珽在奉天,因謝濟世參劾田文鏡,帝謂出於紱與珽之授意,逮京治罪,至於議斬決,妻子入辛者庫,財產入官。命從寬改斬監候,兩次決囚,縛二人同至西市。兩手反接,刀置頸間,問此時知田文鏡好否。紱對曰:『臣愚,雖死不知田文鏡好處。』乃俱赦還,仍置請室,珽立朝尤風節炳然。當帝在潛邸時,聞珽名,屢使王府行走馬爾齊哈授意珽,令往見。珽辭之曰:『珽職居學士,無往見藩王禮。』後年羹堯入京,至邸謁帝,帝極贊稱珽與塞爾圖之才守誡見,實超羣類,並告以招之不來之故。羹堯出見珽,遂語及之,且慟珽入見,珽仍堅辭如故。及二人之得罪也,朝士冤之,時以文鏡得君專,無敢爲之緩頰者,遂困於文鏡,幾死。 冬十二月,詔大將軍貝勒延信,有黨援營私之罪,已禠革監禁。因語廷臣曰:『人臣朋黨之弊,最足以害人心,亂國政。』因列舉蘇努、阿靈阿、鄂倫岱等同惡結黨之罪,謂:『朋黨小人,自古帝王之所必誅,聖賢之所垂戒。唐虞之世,共工、驩兜比周爲黨,舜必寘之於法。孔子曰:「君子矜而不爭,羣而不黨。」《易經·渙之四》曰:「渙其羣,元吉。」朱子謂上承九五,下無應與,爲能散其朋黨之象,則大善而吉。』末復謂:『彼等比黨之害,朕在藩邸時知之甚悉,故臨御以來,將其朋比爲奸之處,屢次宣示中外,蓋爲世道人心、宗社國家計,不得不痛予懲創,嚴加誡諭,惟冀大小臣工以此爲炯戒耳。』

  七年,夏五月,詔科道等官,嗣後條奏事件,著如文武大臣等,輪班具奏。先是,帝以科道諸臣,對於朝廷之舉動,有發言之權,而中外大臣往往要結言官,反對朝旨,議論囂然。帝深患之,因命科道等於露章之外,准具密摺奏事,蓋欲免言官瞻顧嫌疑之私,即以去臣工植黨營私之弊也。繼又以近密行告訐,恐言官籍以挾制把持,乃停止其密摺,令各仍用露章。由是科道等相率緘默不言,無敢有所建白。帝深滋不悅,謂:『以朝廷耳目之官視國家之政治如陌路,忍心害埋,莫此爲甚,因手諭訓飭,令科道等痛改頹風,洗滌故習,盡讜言讞替之道,成蕩平正直之風。敬或植黨營私,辯言亂政,此倡彼和,顛倒是非,實國家之罪人,爲王章所不宥』云。自此令一下,而臺臣之風氣反視前爲蘊籍矣。 秋七月,詔罰給事中邱尚志、御史李元直俸,因尚志密奏崇文門飯銀一事不應漏洩於外,元直於未行密奏,遍訪他人密奏之事而後入奏,大忤帝意,令分別罰俸,並手諭內閣,指爲朋比黨援,作威作福之漸。令傳諭科道諸臣,嗣後儻有密奏之事,朕未將本人姓名發出而本人自行漏洩或者私自存稿者,一經發覺,必嚴行訊究,從重治罪。 冬十月,諭翰詹、科道等,勿蹈朋黨惡習,因引康五瑞袒護李紱,究不能掩其惡。李紱、蔡珽欲害田文鏡,反自害其身,爲衆人炯戒。並諭諸人時時體認自旨,以其躬行實踐云。 諭科甲出身官員等務去其黨援朋比之結習,爲朝廷彈竭忠誠,秉公辦事,將見君臣上下一德一心,治道自此而日隆,世風自此而日厚。時田文鏡不由科目出身,每因奏事痛詆科甲中人爲不可信。帝素重其言,故有此諭。

訳文の誤りにお気づきの場合はお問い合わせからお知らせください。

© 好古刊行会