清史紀事本末青海・ジュンガル部への用兵(青海及準部之用兵)
要約
雍正元年(1723年)秋八月、青海の羅卜蔵丹津が内地に侵犯し、川陝総督の年羹堯に迎撃させた。丹津は和碩親王を襲ぐと、青海・西蔵は和碩特の属土、自分は顧実汗の嫡孫だとして、帝の新立に乗じて覇業を回復しようと、諸部を察罕陀羅海に会盟させて旧号に復させ、自ら達頼渾台吉と号し、大喇嘛察罕諾門を従え、ひそかに準噶爾の策妄阿喇布坦と結んだ。従わぬ額爾得尼・察罕丹津は内地へ奔り、丹津は侍郎常寿の諭を奉ぜず黄河を渡った。
冬十月、年羹堯を撫遠大将軍として西寧に駐め、岳鍾琪を参賛軍務とした。丹津は沙拉図に拠って常寿と多爾済を捕らえ、多爾済は屈せず死んだ。羹堯は布隆吉河を扼し巴塘・裏塘を守って入蔵の路を断ち、吐魯番・噶斯湖に分屯して準部との交通を絶ち、丹津の和請いは許されなかった。
二年(1724年)春二月、鍾琪は青草の生えぬうちに不備を衝き、出師から十五日で沙拉図に至った。丹津は遁走し家属は擒えられて青海は平定され、鍾琪は三等公、羹堯父子は一等公・太傅とされた。
七年(1729年)春三月、傅爾丹を靖辺大将軍として北路、岳鍾琪を寧遠大将軍として西路に出し準噶爾を討たせた。五年(1727年)に策妄阿喇布坦が死し噶爾丹策零が立つと帝は喪に乗じて討とうとし、張廷玉のみ用兵を主張した。都統達福は千里の転運で死力を効す衆を攻めるのは不可と諫めたが、副として従征させられた。
八年(1730年)夏五月、策零が丹津を献ずると称したので両大将軍に帰京を詔し、杭奕禄らを特磊とともに和議に遣わした。冬十二月、準兵が闊舎図卡倫を犯し、酒宴に耽る査廩は軍を棄てて逃げ、樊廷が兵二千で七昼夜転戦して駝馬を奪い返した。廩が罪を曹勷になすりつけると鍾琪は満洲の旧人を憚って勷を斬り、のち廩の親戚の査郎阿が鍾琪を弾劾して死を論じ、紀成斌も斬られた。
九年(1731年)夏六月、傅爾丹が和通泊で敗績した。策零は大策零敦多布に三万を与え、諜者に博克託嶺の前隊千余と詐らせた。傅爾丹は定寿らの諫めを漢人の弱習と罵って進み、和通淖爾で囲まれ、前鋒四千は戦没、諸軍は大潰して巴賽・査弼納以下十余人が死に、還った者は二千。傅爾丹は賄賂を受けて土默特の敗とし沙律を斬った。帝は達福の言を悔い、馬爾賽を撫遠大将軍とし、傅爾丹を振武将軍に降して錫保を代えた。
十年(1732年)秋八月、額駙の策凌が準兵を厄爾得尼昭で大破した。九年九月にも鄂登楚勒河で破っており、この年七月、木博図へ向かう隙に塔米爾河の帳幕を襲われたが、師を回して敵三万を殲滅した。錫保の援兵は至らず小策零は推河から遁れ、関を破った傅鼐は千を斬ったが及ばず、関を閉ざした馬爾賽・李杖は斬られ錫保は王爵を黜けられた。
十二年(1734年)秋八月、経略の鄂爾泰が準部はにわかに滅ぼせず中華を疲弊させるのみと言上し、征討を罷めて傅鼐・阿克敦を和議に遣わし、北路は鄂爾坤河、西路は哈密・巴里坤に撤収して疆界を清定させた。康熙五十六年(1717年)の備辺以来、軍餉七千余万を糜やし師を労すること十六、七年、ここに平和の希望を得たが、乾隆年間には準部の内乱に乗じて遠征軍が続々と出発することになった。
年表
清の世宗の時代に、青海の羅卜蔵丹津の叛乱と、これに連なる準噶爾(ジュンガル)との戦いを記す。雍正元年(1723年)、顧実汗の嫡孫を称する羅卜蔵丹津が諸部を集めて内地に侵し、年羹堯が撫遠大将軍として西寧に駐屯、翌年に岳鍾琪が十五日で沙拉図を衝いて青海を平定した。丹津が準噶爾に逃れたため、雍正七年(1729年)に傅爾丹・岳鍾琪を北路・西路に出したが、九年に傅爾丹は和通泊で大敗し、巴賽・達福ら将帥が戦死した。十年に策凌が厄爾得尼昭で小策零を大破して形勢が転じ、雍正十二年(1734年)に鄂爾泰の議によって征討を罷め、傅鼐・阿克敦を遣わして和議と疆界画定に当たらせるまでを扱う。
年表(7件)
- 西暦1723年 世宗雍正元年羅卜蔵丹津が青海諸部を糾合して内地を犯し、年羹堯が撫遠大将軍となる
- 西暦1724年 雍正二年岳鍾琪が沙拉図を衝いて丹津を敗走させ、青海が平定される
- 西暦1729年 雍正七年傅爾丹を北路、岳鍾琪を西路に出して準噶爾を討たせる
- 西暦1730年 雍正八年準の使者特磊の和議の申し出により両大将軍を召還するが、準兵が西路の卡倫を犯す
- 西暦1731年 雍正九年傅爾丹が和通泊で大敗し、巴賽・達福ら将帥が相次いで戦死する
- 西暦1732年 雍正十年策凌が厄爾得尼昭で小策零の三万をほぼ殲滅し、馬爾賽・李杖は不出撃の罪で斬られる
- 西暦1734年 雍正十二年鄂爾泰の議で征討を罷め、傅鼐・阿克敦を遣わして疆界を議させる
現代語訳全文
西暦1723年 世宗雍正元年
- 秋八月、青海の羅卜蔵丹津が衆を率いて内地に侵犯し、川陝総督の年羹堯に命じて兵を備え迎え撃たせた。青海は康熙三十七年(1698年)に中国に内属して以来、常にその力を藉りて準部(ジュンガル)を防いできた。西蔵(チベット)の役では、青海の諸部長はみな従軍し、功によって王・公に晋封された者がはなはだ多かった。
- 羅卜蔵丹津が和碩親王の爵を襲うに及び、彼は自ら、青海および西蔵はもとよりみな和碩特(ホシュート)の属土であり、しかも自分は顧実汗の嫡孫であるから、先人の覇業を回復し、諸部を総べて長たるべきである、と考えた。帝が新たに立ったと聞き、機に乗じて中国の羈絆を脱しようと欲した。そこで諸部を誘って察罕陀羅海で盟を結ばせ、それぞれ旧来の号に復し、王・貝勒・公などの爵を称してはならないと命じ、自らは達頼渾台吉と号して諸部を統べた。
- また青海の大喇嘛である察罕諾門を誘って自分に従わせ、さらにひそかに準噶爾の部長である策妄阿喇布坦と約して後援とした。ここに青海と準部との連合が成った。遠近の遊牧の喇嘛二十余万が同時に騒動した。ただ丹津と同族の郡王額爾得尼および親王察罕丹津だけは従わず、前後して衆を引き連れて内地へ奔った。丹津は兵を率いてこれを追った。
- 帝はこれを聞き、青海理事大臣で侍郎の常寿に命じて丹津に諭を伝え、兵を罷めさせようとした。丹津は詔を奉ぜず、かえって額爾得尼らが西蔵を占拠しようと謀っていると誣告し、諸部が服さないので、衆を率いて勝負を決するつもりだと言い、この時すでに黄河を渡っていた。廷議では西寧の兵を調発し、彼らが渡河するときに渡口でこれを邀撃することとした。それゆえにこの命があったのである。
- 冬十月、年羹堯を撫遠大将軍とし、西寧に駐屯させ、機を見はからって羅卜蔵丹津を進撃討伐させ、四川提督の岳鍾琪を参賛軍務とした。丹津は沙拉図を根拠地とし、兵を遣わして分かれて西寧付近の堡や駅をうかがわせ、まず兵によって侍郎の常寿と筆帖式の多爾済を誘い出して捕らえ、堪布廟の中に幽閉した。
- 羹堯は詔を奉じて師を督するや、兵を分けて、北は布隆吉河を扼して内犯を防ぎ、南は巴塘・裏塘などの地を守って入蔵の路を断った。また靖逆将軍の富寧安に勅を下すよう請い、都統の穆森、吐魯番駐防副将軍の阿喇衲を調発して、吐魯番および噶斯湖に分屯させ、丹津と準部との交通を絶たせた。そして鍾琪には松潘から西寧に至るまで、沿途を防ぎ堵がせた。ここにおいて丹津はしばしば兵を遣わして分かれて西寧に侵寇したが、みな敗れて去った。当時すでに多爾済は屈せずに死んでいた。丹津は常寿を送り返して上表し和を請うたが、帝は許さなかった。
西暦1724年 雍正二年
- 春二月、奮威将軍の岳鍾琪が師を率いてまっすぐ青海の沙拉図に至り、羅卜蔵丹津は遁走し、その家属を擒え、青海は平定された。
- これより先、帝は丹津が窮迫していることを知り、いよいよ羹堯に兵を進めるよう促した。羹堯は、四月の草の生える時に、西寧・松潘・甘州・布隆吉河から四路に分かれて進攻することを請うた。鍾琪は、分かれて攻めるのは策ではないとし、青草のまだ生えないうちに乗じて、日を兼ねて進み、その不備を衝きたいと願った。廷議はこれを壮として、鍾琪に奮威将軍を授け、専ら西征の事にあたらせた。
- 鍾琪はそこでこの月の初八日に出師し、布爾哈屯から沙拉図に趨り、沿途で敵の哨探を殲滅し、まっすぐその帳幕に至った。敵ははじめて兵の至ったことを知り、倉皇として驚き潰えた。出兵からここに至るまで、前後わずかに十五日であった。帝は大いに悦び、詔して鍾琪を三等公に封じ、羹堯とその父の遐齢をともに一等公とし、太傅に晋め、青海はことごとく平定された。
西暦1729年 雍正七年
- 春三月、内大臣で公の傅爾丹を靖辺大将軍として北路に出し、川陝総督で公の岳鍾琪を寧遠大将軍として西路に出し、準噶爾を征伐に往かせた。
- はじめ、羅卜蔵丹津は準噶爾の策妄阿喇布坦のもとへ投じた。朝廷はしばしば使者を遣わしてこれを引き渡すよう求めたが、詔を奉じなかった。当時、西北両路の師はすでに撤収していた。雍正五年(1727年)冬、策妄阿喇布坦が死に、子の噶爾丹策零が立った。帝は喪に乗じてこれを討とうと欲した。大学士の朱軾、都御史の沈近思はみな時期がまだ来ていないとしたが、ただ大学士の張廷玉だけが用兵を主張した。
- 当時、傅爾丹は爵を襲いで領侍衛内大臣となっており、容儀が修偉であったので、帥に薦められた。ここに至って大将の壇を築き、師五万を率いて行き、諸蒙古の藩臣はみな馬の手綱を執って従った。都統の達福が力めて諫めた。帝が言った。「策逆はすでに死に、噶逆は新たに立ったばかりである。何をもって不可と言うのか」。達福が言った。「策逆は死んだとはいえ、老臣はもとより健在です。噶逆は賢を親しみ、諸酋長はみなその先代の徳に感じて、力めて捍衛しております。わが方は千里に糧を転運する労をもって、彼の死力を効す衆を攻めるのです。臣にはその可なることが見えません。まして溽暑の候、たやすく師を興せましょうか」。廷玉が言った。「六月に師を興すことは《小雅》に載っている。君はまだ知らぬのか」。達福の争いはいよいよ力強かった。帝が言った。「それならば、お前に命じて傅爾丹の副として行かせよう。なお辞するか」。かくて出師し、達福に従征を命じた。
西暦1730年 雍正八年
- 夏五月、岳鍾琪・傅爾丹に京へ帰るよう詔し、侍郎の杭奕禄・衆仏保に命じて、準噶爾の使臣である特磊とともに、和議に往かせた。
- これより先、雍正七年(1729年)十月、鍾琪の師が陶頼・大板・斥𢰡に至ったとき、ちょうど策零が特磊を遣わして来させ、すでに羅卜蔵丹津を護送して来ていると詭って称したので、出師の報を聞いて止まった。ここに至ってまた特磊を京に遣わし、朝廷がその既往を赦すならば、丹津を献じようと請うた。帝はこれを信じ、しばらく進兵を緩めるよう命じ、杭奕禄らを遣わして特磊とともに往って議させ、なおかつ両大将軍に京へ帰るよう詔し、副将軍の巴賽、提督の紀成斌に両路の軍事を分掌させた。
- 冬十二月、準噶爾の兵が西路の闊舎図卡倫を犯し、牧場を劫掠したが、総兵官の樊廷らがこれを撃退した。はじめ、岳鍾琪が詔を奉じて入覲し、紀成斌が西路の軍衆を代わって掌握すると、副参領の査廩に命じて卒一万を率いて駝馬を牧させた。廩は偏裨に五十人を督させて放牧させ、自分は衆を率いて山谷の間に寒を避け、酒宴を設けて高会し楽しんでいた。
- 策零は不備に乗じて卡倫を越え、駝馬をほしいままに掠奪した。廩は軍を棄てて逃げた。総後の曹勷は警報を聞き、兵を率いて救援に往ったが敗績した。総兵官の樊廷は(底本は「兵兵官」に作る。「總兵官」の誤りか)副将の冷大雄らを率い、兵二千をもって七昼夜転戦し(「畫夜」は「晝夜」の誤りか)、卡倫の守兵を救い出し、総兵官の張元佐らと会合して、敵兵を撃殺すること数知れず、駝馬・牲畜をことごとく奪い返した。
- 廩は成斌に会うと、罪を勷になすりつけた。成斌はこれを哂って言った。「満洲人の勇とはもとよりこのようなものか」。廩を収監して斬ろうとしたところ、鍾琪が京から営に帰ってきた。成斌がその次第を告げると、鍾琪は驚いて言った。「君は今にも族滅されるぞ。満洲は国の旧人である。われらがどうしてこれに抗してその怒りを干すことができようか」。そして廩の縛を解き、善言をもってこれを慰撫し、罪を勷になすりつけて斬り、衆に晒した。廩はかえって鍾琪を骨に刺すほど恨んだ。のちに総督の査郎阿が辺を閲したが、彼はもと廩の親戚(縁者)であった。廩の言を容れて鍾琪を弾劾し、獄に逮えて死を論じ、成斌を軍中で斬り、廩はついに免れることができた。
西暦1731年 雍正九年
- 夏六月、傅爾丹が和通泊で敗績し、副将軍の馬賽らが戦死した。策零は大策零敦多布を遣わし、兵三万をもって北路を犯させた。まず諜者を科布多に遣わし、いつわってわが方に捕らえられさせ、詭って、準部は連年可薩克(カザフ)と交戦しており、駝馬は羸弱であるから、襲って破ることができる、この時点で大隊はまだ到着しておらず、その前隊は千余人、駝馬二万が博克託嶺にいて、ここから三日の行程である、と言わせた。
- 傅爾丹は師を進めようとした。副都統の定寿・海寿、侍郎の永国らは力めて諫めた。傅爾丹は艴然として言った。「国家が無敵であるゆえんは、武臣が死を畏れないからである。君らはどうして漢人の弱い習わしを踏むのか」。そして軍を整えて進むよう命じた。主事の何溥は馬を扣えて諫めた。傅爾丹が言った。「ちっぽけな漢儒めが、どうして兵事を識ろうか」。鞭でその手を折らんばかりに打って去った。
- 翌日、前軍が和通淖爾に至ると、胡笳の音が遠くに起こるのが聞こえ、氈裘の敵が四方から黒雲のように合わさり、ついに敵軍に囲まれた(「所爲」は「所圍」の誤りか)。傅爾丹は後軍を策して救援に往かせたが、前鋒四千はことごとく戦没し(「戰役」は「戰歿」の誤りか)、敵はまっすぐ中軍を犯した。傅爾丹は蒙古兵に命じてこれを防がせたが、科爾沁の蒙古は紅旗を偃せて真っ先に遁走し、土默特の蒙古は身を奮って敵塁に入った(「疊」は「壘」の誤りか)。衆は白旗を見て、索倫の兵が敗れたのだと思い、駭いて言った。「白纛だ、兵は敵に陥ったぞ」。諸軍はついに大いに潰え、終夜、甲仗の音が絶えなかった。
- 傅爾丹は挙止を失措し、ただ満洲の士卒を撫御して言うばかりであった。「慎んで家声を墜とすことのないようにせよ」(「隧」は「墜」の誤りか)。ここにおいて副将軍の巴賽・査弼納以下、蘇図・馬爾斉・西彌頼・海蘭戴豪らが前後して戦死し、また自殺した者は合わせて十余人であった。定寿・海寿・永国・何溥・達福もその中にあり、みな一時の将帥の選であった。科布多に還り得た者はわずかに二千人であった。
- 敵は塔爾岱を捕らえ、皮の縄でその脛を穿ち、皮の袋に入れて馬の後ろに載せ、悠然と胡歌を唱いながら帰った。科爾沁の王は龿符の中に匿れて免れ、巨金をもって傅爾丹に賄賂した。傅爾丹は賄賂を受け、かえって土默特の兵が先に敗れたのだと言い、公の沙律を収監して斬った。士卒はみな憤った。
- 敗報が聞こえると、帝は大いに慟いて言った。「達福の言を聴かなかったことが悔やまれる」。詔して大学士の馬爾賽を撫遠大将軍とし、帰化城に屯させ、傅爾丹を振武将軍に降し、順承郡王の錫保をこれに代えた。科布多の営を察罕爾に移した。
- はじめ、岳鍾琪が傅爾丹の穹廬(ゲル)に赴いて進兵を会議したとき、四壁に刀や槊が森列しているのを見て、何に用いるのかと問うた。傅爾丹が言った。「これはわしが平素から習うところのものだ。懸けておいて衆を励ますのだ」。鍾琪は退出して人に語った(底本は「出語,人曰」に作る。「出,語人曰」の誤りか)。「大将たる者が、謀に恃まずして勇に恃むとは、亡びる日も遠くない」。ここに至って果たして予想したとおりになった。
西暦1732年 雍正十年
- 秋八月、和碩親王で額駙の策凌が準の兵を厄爾得尼昭で大いに破り、準の将である小策零郭多布は西へ進んだ。
- 策凌は元の後裔で、幼いころから内廷に侍り、公主を娶り、まもなく属民を率いて塔米爾河に帰り、しばしば漠北の征に従って功があった。雍正九年(1731年)九月、噶爾丹策零はすでに傅爾丹を和通泊で破り、勝ちに乗じて東のかた喀爾喀(ハルハ)を犯し、阿爾泰山の南から道をとって入った。策凌は鄂登楚勒河で迎え撃ち、大いにその衆を破った。
- この年の七月、策零はその将の小策零を遣わして厄得爾河を犯させた。錫保は策凌に檄して、木博図で防がせた。策凌が西へ向かうと、策零はそこでその帳幕を塔米爾河に突襲し、その子女・牲畜を掠奪した。策凌は警報を聞くや、ただちに師を回して馳せ救い、あわせて錫保に兵を発して挟撃するよう請うた。ここに至って小策零の衆を厄爾得尼昭で大いに破った。敵は三万、ほとんど殲滅された。
- しかし錫保の援兵は至らず、小策零は推河から遁れ去ることができた。策凌は急ぎ馬爾賽に拝達里克河で檄を飛ばし、これを邀撃させた。馬爾賽は関を閉ざして出ず、言った。「わしは命を奉じてここに屯戍しているのであって、賊を退けよとの命は奉じておらぬ」。軍士が城に登り、敵の騎馬が過ぎてゆくのが紛雑として、もはや行列をなしていないのを望み見て、城を開いて迎え撃つことを請うた。その副師である都統の李杖は鞭を揮って衆に言った。「固く門を閉じよ。越える者は斬る」。諸将はますます憤った。裨将の傅鼐は慷慨して言った。「相公は命を奉じて敵の帰路を遮っておられる(「遢」は「遮」の誤りか)。今、猪突してここまで来ているのに、どうしてその遁れ去るにまかせるのか(「𩗺」は「遁」の誤りか)」。そして本部を率いて関を斬り破って出撃し、撃ち斬ること千を数えた。しかし小策零はすでに前隊とともに過ぎ去っていた。事が上聞されると、馬爾賽および李杖を斬って衆に晒し、錫保の王爵を黜けた。
西暦1734年 雍正十二年
- 秋八月、旨を降して準噶爾の征討を罷め、侍郎の傅鼐、学士の阿克敦を遣わして和議に往かせた。策零は厄爾得尼昭で大きな痛手を受けて以後、しだいに移り去った。両路の将軍は辺境に兵を陳ね、彼を誘って来させ、邀撃しようとした。しかし策凌(「策零」の誤りか)は持重して、ついに来なかった。
- ここに至って経略の鄂爾泰が阿克蘇を出巡して帰り、準部はにわかに滅ぼすことはできず、中華を擾し疲弊させても益がない、と言上した。かくて旨を降して兵を罷めた。北路は鄂爾坤河に撤収し、西路は哈密・巴里坤に撤収し、鼐らを準噶爾に遣わして疆界を清定する事を議させた(底本は「清盡」に作る。「清釐」の誤りか)。
- 計るに、康熙五十六年(1717年)に辺を備えて以来、軍餉を糜やすこと七千余万、師を労すること十六、七年、ここに至ってはじめて平和の希望を得ることができた。しかし乾隆年間に至って、また準部の内乱に乗じて、遠征軍が続々と出発することになったのである。
原文(底本)
世宗雍正元年,秋八月,青海羅卜藏丹津率衆內犯,命川陝總督年羹堯備兵迎擊。青海自康熙三十七年內屬中國,常資其力以捍準部。西藏之役,青海諸部長皆從征,以功晉封王公者甚衆。至羅卜藏丹津襲和碩親王爵,自以青海及西藏,舊皆和碩特屬土,而己又顧實汗嫡孫,當回復先人霸業,總長諸部。聞帝新立,欲乘機脫中國羈絆,,乃誘諸部聯盟於察罕陀羅海,令各復故號,不得稱王、貝勒、公等爵,而自號達賴渾台吉以統之。又誘使青海大喇嘛察罕諾門從己,復陰約準噶爾部長策妄阿喇布坦爲後援,於是青海與準部之聯合成。而遠近遊牧剌麻二十餘萬同時騷動,惟丹津之同族郡王額爾得尼及親王察罕丹津不從,先後挈衆內奔,丹津率兵追之。帝聞,命青海理事大臣侍郎常壽傳諭丹津,令罷兵。丹津不奉詔,反誣額爾得尼等謀據西藏,因諸部不服,將率衆與決勝負,至是已渡黃河。廷議調西寧兵,於其渡河時,邀擊之於渡口,故有是命。 冬十月,命年羹堯爲撫遠大將軍,駐西寧,相機進勦羅卜藏丹津,以四川提督岳鍾琪參贊軍務。丹津以沙拉圖爲根據地,遣兵分窺西寧附近堡驛,先兵誘執侍郎常壽、筆帖式多爾濟,幽之堪布廟中。羹堯既奉詔督師,乃分兵北扼布隆吉河(疏勒河),防其內犯;南守巴塘、裏塘等地,斷其入藏之路,又請勅靖逆將軍富寧安,調都統穆森、吐魯番駐防副將軍阿喇衲,分屯吐魯番及噶斯湖,絕其與準部之交通,而令鍾琪自松潘至西寧,沿途防堵,於是丹津屢次遣兵分寇西寧,皆敗去。時多爾濟已不屈死,丹津送常壽歸而上表請和,帝不許。 二年,春二月,奮威將軍岳鍾琪率師直抵青海之沙拉圖,羅卜藏丹津遁,擒其家屬,青海平。先是帝知丹津窮蹙,益趣羹堯進兵,羹堯請於四月草生時,由西寧、松潘、甘州、布隆吉河分四路進攻,鍾琪則以分攻非策,願乘青草未生時,兼程進,以擣其不備。廷議壯之,授鍾琪奮威將軍,專任西征事。鍾琪遂以是月初八日出師,由布爾哈屯趨沙拉圖,沿途殲敵哨探,直抵其帳,敵始知兵至,倉皇驚潰,自出兵至此,前後僅十五日。帝大悅,詔封鍾琪三等公,羹堯及其父遐齡均一等公,晉太傅,青海悉定。 七年,春三月,以內大臣公傅爾丹爲靖邊大將軍,出北路;川陝總督公岳鍾琪爲寧遠大將軍,出西路,往征準噶爾。初,羅卜藏丹津往投準噶爾策妄阿喇布坦,朝廷屢遣使索之,不奉詔,時西北兩路之師已撤。雍正五年冬,策妄阿喇布坦死,子噶爾丹策零立,帝欲乘喪討之,大學士朱軾、都御史沈近思皆以時未至,惟大學士張廷玉主用兵。時傅爾丹襲爵,爲領侍衛內大臣,以容儀修偉,薦爲帥,至是築大將壇,率師五萬行,諸蒙古藩臣皆執靮以從。都統達福力諫,帝曰:『策逆已死,噶逆新立,何云不可?』達福曰:『策逆雖死,老臣固在;噶逆親賢,諸酋長皆感其先德,力爲捍衛。我以千里轉餉之勞,攻彼效死之衆,臣未見其可。況溽暑未易興師乎?』廷玉曰:『六月興師,載諸小雅,君未知耶?』達爭愈力。帝曰:『然則命汝副傅爾丹行,尚敢辭耶?』遂出師,命達福從征。 八年,夏五月,詔岳鍾琪、傅爾丹回京,命侍郎杭奕祿、衆佛保,偕準噶爾使臣特磊,前往議和。先是雍正七年十月,鍾琪師抵陶賴、大板、斥𢰡,適策零遺特磊至,詭稱已解送羅卜藏丹津前來,以聞出師而止,至是復遣特磊至京,請朝廷赦其已往,當以丹津獻。帝信之,命暫緩進兵,遺杭奕祿等偕特磊往議,且詔兩大將軍回京,而以副將軍巴賽、提督紀成斌分攝兩路軍事。 冬十二月,準噶爾兵犯西路闊舍圖卡倫,刦牧場,總兵官樊廷等擊退之。初,岳鍾琪奉詔入覲,紀成斌既權西路軍衆,命副參領查廪領卒萬人牧駝馬,廪以偏裨督五十人牧放,己率衆避寒山谷間,置酒高會爲樂。策零乘不備,越卡倫,縱掠駝馬,廪棄軍走。總後曹勷聞警,率兵往救,敗績,兵兵官樊廷率副將冷大雄等,以兵二千轉戰七畫夜,救出卡倫守兵,會合總兵官張元佐等,擊殺敵兵無算,駝馬牲畜悉奪回。廪見成斌,委罪於勷,成斌哂之曰:『滿洲人之勇固如是乎?』收廪,將斬之,而鍾琪自京回營,成斌告其故,鍾琪驚曰:『君今族矣!滿洲爲國舊人,吾儕豈可與抗以干其怒耶?』解廪縛,以善言撫之,而委罪於勷,斬以狥,廪反恨鍾琪刺骨。後總督查郎阿閱邊,故廪戚也,入廪言,劾鍾琪,逮獄論死,斬成斌於軍,廪竟得免。 九年,夏六月,傅爾丹敗績於和通泊,副將軍馬賽等戰死。策零遣大策零敦多布,以兵三萬犯北路。先遺諜至科布多,佯爲我獲,詭言準部連年與可薩克交戰,駝馬羸弱,可襲而破。此時大隊未至,其前隊千餘,駝馬二萬,在博克託嶺,距此三日程。傅爾丹欲進師,副都統定壽、海壽、侍郎永國等力諫,傅爾丹艴然曰:『國家所以無敵者,以武臣不畏死耳,君等安可蹈漢兒弱習哉?』命整軍以進。主事何溥扣馬諫,傅爾丹曰:『蕞爾漢儒,安識兵事?』以鞭折抶其手而去。翌日,前軍至和通淖爾(譯言大澤),聞胡笳遠作,氊裘四合如黑雲,遂爲敵軍所爲。傅爾丹策後軍往援,前鋒四千悉戰役,直犯中軍。傅爾丹命蒙古兵禦之,科爾沁蒙古偃紅旗首遁,土默特蒙古奮身入敵疊。衆見白旗,謂索倫兵敗,駭曰:『白纛,兵陷敵矣!』諸軍遂大潰,終夜甲仗聲不絕。傅爾丹舉止失措,惟撫馭滿洲士卒曰:『慎勿隧家聲也!』於是自副將軍巴賽、查弼納以下,蘇圖、馬爾齊、西彌賴、海蘭戴豪等,先後戰死,及自殺者凡十餘人。定壽、海壽、永國、何溥、達福與焉,皆一時將帥之選也,得還科布多者僅二千人。敵獲塔爾岱,以皮繩穿其脛,盛以皮囊,載諸馬後,從容唱胡歌返,科爾沁王匿龿符中免,以鉅金賄傅爾丹,傅爾丹受賄,反謂土默特兵先敗,收公沙律斬之,士卒皆忿。敗報聞,帝大慟曰:『悔不聽達福言!』詔以大學士馬爾賽爲撫遠大將軍,屯歸化城,降傅爾丹振武將軍,而以順承郡王錫保代之。移科布多營於察罕爾。初,岳鍾琪赴傅爾丹穹廬中會議進兵,見四壁刀槊森列,問何所用,傅爾丹曰:『此吾所素習,懸以勵衆。』鍾琪出語,人曰:『爲大將者,不恃謀而恃勇,亡無日矣。』至是如所料。 十年,秋八月,和碩親王額駙策凌大破準兵於厄爾得尼昭,準將小策零郭多布西進。策凌爲元裔,自幼侍內廷,尚公主,尋攜屬歸塔米爾河,累從征漠北有功。雍正九年九月,噶爾丹策零既敗傅爾丹於和通泊,乘勝東犯喀爾喀,取道阿爾泰山南入。策凌迎擊於鄂登楚勒河,大破其衆。是年七月,策零遣其將小策零來犯厄得爾河,錫保檄策凌,禦諸木博圖。策凌既西,策零乃突襲其帳於塔米爾河,掠其子女牲畜。策凌聞警,即回師馳救,並請錫保發兵夾攻,至是大破小策零之衆於厄爾得尼昭(光顯寺)。敵三萬,幾盡殲。而錫保之援兵不至,小策零得從推河遁去。策凌急檄馬爾賽於拜達里克河,邀擊之,馬爾賽閉關不出,曰:『吾奉命屯戍於此,未奉退賊之命也。』軍士登城,望見敵騎過者紛雜,不復成行列,請開城迎擊。其副師都統李杖以鞭揮衆曰:『緊閉門,越者斬!』諸將益忿。裨將傅鼐慷慨言曰:『相公奉命,遢敵歸路,今豕突至此,奈何任其𩗺去?』率本部斬關出,擊斬千計,而小策零已從前隊過。事聞,斬馬爾賽及李杖以狥,黜錫保王爵。 十二年,秋八月,降旨罷征準噶爾,遺侍郎傅鼐、學士阿克敦前往議和。策零自厄爾得尼昭大創之後,稍稍徙去,兩路將軍陳師邊境,欲誘之使來,以便邀擊。而策凌持重,究不至,至是經略鄂爾泰出巡阿克蘇歸,言準部未可猝滅,擾蔽中華無益,遂降旨罷兵。北路撤歸鄂爾坤河,西路撤歸哈密巴里坤,遣鼐等往準噶爾議清盡疆界事。計自康熙五十六年備邊以來,穈餉七千餘萬,勞師十六七載,至是始克有平和之希望。然至乾隆間,又乘準部之內亂,而遠征軍紛紛出發矣。
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