清史紀事本末兵額の増加(増加兵額)

要約

八旗の兵額はもと二十五万人であったが、入関後は余丁が多く、閑散の満洲人には妻子を養えぬ者も出た。世宗はこれを憂え、佐領を増やしても兵糧が足りないので養育兵を設け、雍正二年に満洲・蒙古・漢軍四千八百人を教養兵とし、満洲・蒙古に月三両、漢軍に二両を給し、年に銀十七万二千八百両を要した。乾隆三年、満洲・蒙古の養育兵は二名の欠員ごとに三名分とし、漢軍の例により銀二両を給し、佐領ごとに満洲・蒙古十名、漢軍六名を満たした。四年以後、荊州・江寧・綏遠城・伊犁・成都・烏魯木斉・杭州・土魯蕃の各駐防にも順次増設した。十八年、三名の欠員ごとに四名分として恩賞の一名を加え、支給を一両五銭に改め、もとの一万五千百二十四名に欠員五千四十四を二口加えて二万五千二百十二名とし、銀四十五万三千八百十六両を給した。二十九年、満洲・蒙古の養育兵を二万三百十五名と定め、支給米を年一万六千百石余増した。

四十七年、七十一鎮の緑営は名目六十四万とされながら常に六、七万の欠員があり、前年に増兵の議が決し、坐糧・馬乾には別に養廉・公費を設け、賞恤は正項から出すこととして、康熙・雍正以来の欠員をことごとく補って一挙に六万あまりを加えたが、毎年新たに加わる兵糧は三百万に近かった。

嘉慶四年、苗と教の軍以来、徴発された営兵に死者・逃亡が多く、旧額に足りなくなるのを恐れて督撫・提鎮に新兵を募らせ、直隷・山東は十分の五、貴州は十分の七などと割を定めた。九年、白蓮教会の役で臨時に募った郷勇を新兵と称し、営汛を増設して補い、湖北に三千五百、陝西に八千六百十七、四川に千の兵を増した。寧陝・陝安などは地険しく穀高いので、一人に銀十両を貸して田を買い開墾させ、十五年冬に完済させた。十年、差馬二千匹を張家口で放牧させ毎月の馬乾銀五千両を節約し、満洲八旗二千七百十八名、蒙古八旗六百十二名の養育兵を増設した。十一年、広儲司・造辦処・戸部の七十万両を商人に交付して生息させ、八旗および各営に四千七十二名、包衣三旗に三百二十四名を増した。二十年、青州駐防でも三万両を商人に交付して生息させ、閑散の壮丁二百四十名を選んで余兵とし、甲兵と同じく操練させて毎月銀一両を給した。道光元年、太原城守尉駐防の養育兵四十名を選び加えた。

年表

八旗の余丁が増えて生計が立たなくなる問題に対し、清朝が養育兵の定員を段階的に増設していった経緯と、緑営・新兵の兵額補充を記す。乾隆三年(1738年)に雍正期の教養兵の制を拡充してから、道光元年(1821年)の太原城守尉駐防の増員まで、八十年あまりの兵額増加の記録である。荊州・江寧・綏遠城・伊犁・成都・烏魯木斉・杭州・土魯蕃・青州など各地の駐防にも養育兵が置かれた。乾隆四十七年(1782年)には名目だけであった緑営の欠員をすべて補い、一挙に六万余の兵を加えた。嘉慶年間には白蓮教・苗の乱で生じた欠員を新兵の募集で補い、旗人の人口増に応じて商人に銀を交付し利息で養育兵を養う方策が取られた。

年表(19件)

現代語訳全文

西暦1738年 高宗乾隆三年

  • 八旗の養育兵の定員を増設した。当初、八旗の兵の定員数は二十五万人であったが、入関してから久しくなると、余丁(兵役に就かない壮丁)が多くなり、隊伍に加わることのできない閑散の満洲人には、困窮して妻子を養えない者まで出るありさまであった。世宗はこれを憂い顔で心配し、しきりに彼らの生計を図ろうとした。よい方策がなく、佐領を増やして編成しようとすれば正規の兵糧が足りない。そこで八旗の養育兵を設けて銭糧(給与)を支給し、扶養できるようにすることが議された。雍正二年に、その配下の満洲・蒙古・漢軍あわせて四千八百人を選んで教養兵とし、満洲・蒙古は一人につき月に三両の銭糧を支給し、毎年あわせて銀十七万二千八百両を要した。一旗ごとに満洲・蒙古・漢軍あわせて六百名で、うち満洲は一旗につき四百六十名、蒙古は六十名、漢軍は八十名であった。その漢軍の八十名は歩兵とし、二両の銭糧を支給することとし、この銭糧の総額の内で融通してやりくりすれば四十名を多く得ることができ、漢軍は一旗につき百二十名を選ぶこととした。この設けられた教養兵は、いずれも参領の配下で員数を計算して選び取った。ここに至ってさらに、満洲・蒙古の各旗にもとから設けられた養育兵について、二名の欠員が出るごとに三名分として扱い、漢軍の例にならって、それぞれ銀二両を支給することと定めた。満洲・蒙古の旗は、佐領ごとに養育兵を十名まで増やして満たし、漢軍の旗は佐領ごとに六名まで増やして満たした。

西暦1739年 高宗乾隆四年

  • 荊州駐防の養育兵四十名を設けた。

西暦1741年 高宗乾隆六年

  • 殺虎口から綏遠城に至る地域の兵額を増やした。

西暦1742年 高宗乾隆七年

  • 荊州駐防の養育兵四百名を増設した。

西暦1745年 高宗乾隆十年

  • 江寧駐防の養育兵四百名を設けた。

西暦1753年 高宗乾隆十八年

  • あらためて、養育兵は三名の欠員が出るごとに四名分として扱い、さらに一名を恩賞として加え、それぞれ支給を銀一両五銭に改めると定めた。このとき、もとの養育兵一万五千百二十四名のほかに、均して割り出した欠員五千四十四、さらに恩賞の欠員五千四十四を加え、あわせて二万五千二百十二名となり、銀四十五万三千八百十六両を支給した。

西暦1764年 高宗乾隆二十九年

  • 綏遠城駐防の養育兵四百名を設けた。
  • あらためて満洲・蒙古の養育兵二万三百十五名と定め、毎年、支給する米を一万六千百石あまり増やした。

西暦1766年 高宗乾隆三十一年

  • 伊犁駐防の養育兵二百四十六名を増設した。

西暦1767年 高宗乾隆三十二年

  • 成都駐防の養育兵百四十四名を増設した。

西暦1773年 高宗乾隆三十八年

  • 烏魯木斉(ウルムチ)駐防の養育兵二百入十名(「入」は「八」の誤りか)を増設した。

西暦1774年 高宗乾隆三十九年

  • 杭州駐防の養育兵百二十八名を増設した。

西暦1779年 高宗乾隆四十四年

  • 土魯蕃(トルファン)駐防の養育兵四十八名を増設した。

西暦1782年 高宗乾隆四十七年

  • 緑営の兵額を増し加えた。これより先、各直省の七十一鎮のうち、緑営の兵数は名目では六十四万とされていたが、実際には常に六、七万の欠員があった。乾隆四十六年に至って、兵を増やす議が決せられ、武職の坐糧(駐屯の糧米)・馬乾(馬の飼料代)については、別に養廉・公費を設け、賞恤(賞与と弔慰)は別に正項(正規の経費)から支出することとした。そして名目だけの欠員はすべて選び補って実額を満たさせた。直隷省は実兵四千七百七十名を増し、山東省は実兵一千五百八一名(「八一」は「八十一」か)を増し、山西省は実兵二千五百九十五名を増し、河南省は実兵九百七十九名を増し、江南省は実兵五千十一名を増し、江西省は実兵一千五百八十七名を増し、福建省は実兵四千七百五十六名を増し、浙江省は実兵三千三十九名を増し、湖北省は実兵二千三百八十名を増し、湖南省は実兵二千五百八十八名を増し、四川省は実兵四千二百七十四名を増し、陝西・甘粛の二省は実兵一万二千七百三十名を増し、広東省は実兵五千七百七十四名を増し、広西省は実兵二千三百三十四名を増し、雲南省は実兵五千四百六十名を増し、貴州省は実兵五千二百八十四名を増した。こうして康熙・雍正以来の緑営の兵の足りない分を挙げて、ことごとく選び補い、一挙に六万あまりの兵を加えた。しかし毎年新たに加わる兵糧は三百万に近かった。

西暦1799年 仁宗嘉慶四年

  • 各省の総督・巡撫・提督・総兵に命じて、新兵を募集し、兵額の実数を補わせた。苗と教(白蓮教)の軍が起こって以来、各省の営兵を徴発して前線に向かわせたが、軍中で死んだ者・逃亡した者がはなはだ多く、帝は将来、事が定まって隊伍に帰るときに各省のもとの兵数に足りなくなることを恐れ、そこで各省の総督・巡撫・提督・総兵に諭して新兵を募集させた。河南・陝西・四川・雲南は募兵が比較的多く、欠けるところがいくばくもないので議するに及ばないほかは、その他の各省は派遣した出征兵の現在の欠員数に照らして、量って募集せよ、とした。直隷・山東はまず十分の五を補い、山西・甘粛・広東はまず十分の四を補い、江西・広西はまず十分の三を補い、貴州はまず十分の七を補うべきものとした。

西暦1804年 仁宗嘉慶九年

  • 寧陝および陝安などの各所の新兵に、土地代の銀両を貸し与えた。白蓮教会の役では、満洲・漢の定員の兵を徴発するのが不便であったために、臨時に広く郷勇(郷里の義勇兵)を募って戦いと守りを助けさせ、これを新兵といった。あわせて郡県の営汛(駐屯所)を増設し、新兵をもってそこに選び補った。各地で増設された兵額は、湖北には襄陽提督一人、鄖陽総兵・道員各一人を置き、あわせて三千五百の兵を増した。陝西には五郎総兵一人を置き、寧陝鎮と改称した。そのほか陝安鎮の営、漢中協の営、および陽平関・寧羌・略陽などの各所では、あわせて八千六百十七の兵を増した。四川には綏定府の副将一人を置き、そのほか保定(「保定」は「保寧」の誤りか)・夔州に属する要害の地には、それぞれ守備を設け、あわせて千の兵を増した。そのうち寧陝および陝安などの各所の新兵は、土地が険しく穀物が高いので、みな一律に田畑を買い求めて自ら開墾させ、生計を豊かにして訓練に励ませることとした。一人につき土地代の銀十両を貸し与え、あわせて八万六千百七十両とし、これを地丁銀の項から借り出して支出し、節約した馬乾の項から年を分けて差し引いて返済させることとした。十五年の冬季に至り、全額が返済された。

西暦1805年 仁宗嘉慶十年

  • 満洲・蒙古八旗の養育兵二千二百五十名を増設した。帝は、八旗の人口が日ごとに増えて、生計が苦しくならざるをえないことから、五営の馬兵のいくばくかの欠員を満洲・蒙古八旗の閑散の人々に振り分けて選び充てるよう諭し、都統以下の諸官に心を尽くして妥当に議するよう命じた。続いて思うに、旗籍の弟子(「弟子」は「子弟」の誤りか)が緑営の兵士と同じように勤務するのは身分を汚すことになりかねないので、差馬(公用の馬)二千匹を抜き出し、張家口に交付して放牧させれば、毎月、馬乾の銀五千両を節約できると考えた。八旗の満洲・蒙古の閑散の内から、満洲は一旗ごとに養育兵の額を二百分(「毎散」は「毎旗」の誤りか)増し、蒙古は養育兵の額を五十分増し、八旗あわせて養育兵二千分を増した。また毎月、馬乾の銀五千両を節約する(底本は「節省」の二字を重ねて作る)ので、兵一人につき毎月の給与銀一両五銭という計算に照らせば、あわせて三千三百三十分を得ることができ、これを八旗の満洲・蒙古の佐領の数に合わせて比べると、満洲八旗では佐領ごとに養育兵四名を増設して、あわせて二千七百十八名、蒙古八旗では佐領ごとに養育兵三名を増設して、あわせて六百十二名となった。

西暦1806年 仁宗嘉慶十一年

  • 京師の八旗満洲・蒙古および各営の養育兵四千三百九十六名を増設した。これより先、八旗の人口が増加している以上、あらためて処置を図るべきであるとして、閣臣・部臣・都統らに妥当に議するよう諭したところ、その復奏に称するには、河工が片づいたときを待ち、利息を生ませて支出に備えられる余剰の銀の中から捻出して、あらためて上奏のうえ処置いたしたい、とのことであった。しかし帝は、旗人の人口が日ごとに増えているのだから、速やかに養い図り安んじ集める道を考えるべきであるとして、広儲司から銀十万両、造辦処から銀十万両、戸部から銀五十万両を割き出させ、あわせて七十万両を商人に交付して利息を生ませ、養育兵を増やすこととした。八旗は佐領ごとに四名、その半分の佐領には二名、蒙古は佐領ごとに三名、円明園護軍営・内外の火器営はそれぞれ三百名、健鋭営は百五十名とした。八旗の満洲・蒙古および各営は、あわせて養育兵四千七十二名を増設した。また内務府の三旗は佐領ごとに養育兵四名を増設し、円明園の内府三旗は六十名とした。包衣三旗の養育兵三百二十四名を増した。

西暦1815年 仁宗嘉慶二十年

  • 青州駐防の八旗の閑散の壮丁の内から、余兵二百四十名を選び出させた。青州駐防の満洲の営は、定員として馬甲(騎兵)一千四百六十名、歩甲(歩兵)三百二十名を設けていた。駐防に来てから久しく、人口が日ごとに増えたので、調整を上奏して請うた。帝は、当営に残っている馬代の銀六千両に加え、司庫に扣除して留め置いた市平(銀の平量基準)の分の内から酌量して二万四千両を出させ(「角」は衍字か)、あわせて三万両とし、商人に交付して利息を生ませ、兵糧とともに送り届けて当地の副都統に交付するよう命じた。そして駐防の八旗の閑散の壮丁の内から、才幹が育成に堪える者二百四十名を選んで余兵とし、甲兵と同じように操練させ、毎月、銀一両を支給して扶養の資とさせた。

西暦1821年 宣宗道光元年

  • 太原城守尉駐防の養育兵四十名を選び加えた。
原文(底本)
高宗乾隆三年,增設八旗養育兵額。初,八旗兵額數二十五萬人,入關既久,餘丁繁多,其不得充伍之閒散滿人,至有窘迫不能養其妻孥者,世宗愀然憂之,亟欲爲謀生計。無長策,欲增編佐領則正餉不敷,因議設八旗養育兵,給予錢糧,俾得贍養。於雍正二年選其下滿洲、蒙古、漢軍共四千八百人爲教養兵,滿、蒙每人月給三兩錢糧,每年共需銀十七萬二千八百兩。每旗滿洲、蒙古、漢軍共六百名,內滿洲每旗四百六十名,蒙古六十名,漢軍八十名。其漢軍之八十名,令爲步兵,食二兩錢糧,就此錢糧數內通融料理,可多得四十名,漢軍每旗選百二十名。此所設教養兵,皆於參領下計數選取,至是復定滿洲、蒙古各旗原設養育兵,每二名出缺,作爲三名,照漢軍例,各給銀二兩。滿洲、蒙古旗,每佐領下,增足養育兵十名,漢軍旗每佐領下增足六名。

四年,設荊州駐防養育兵四十名。

六年,增殺虎口至綏遠城兵額。

七年,增設荊州駐防養育兵四百名。

十年,設江寧駐防養育兵四百名。

十八年,復定養育兵每三名出缺,作爲四名,再恩賞一名,各改給銀一兩五錢。時於原養育兵一萬五千一百二十四名外,勻出缺五千四十四,再恩賞缺五千四十四,共二萬五千二百十二名,食銀四十五萬三千八百十六兩。

二十九年,設綏遠城駐防養育兵四百名。 復定滿洲、蒙古之養育兵二萬三百十五名,每年增食米一萬六千一百石有奇。

三十一年,增設伊犁駐防養育兵二百四十六名。

三十二年,增設成都駐防養育兵一百四十四名。

三十八年,增設烏魯木齊駐防養育兵二百入十名。

三十九年,增設杭州駐防養育兵一百二十八名。

四十四年,增設土魯蕃駐防養育兵四十八名。

四十七年,增添綠營兵額。先是,各直省七十一鎮之中,綠營兵數雖名爲六十四萬,而其實缺額常六七萬。至乾隆四十六年,增兵之議案決,武職坐糧馬乾,另行添設養廉公費,賞卹另行開銷正項。所有空名,悉令挑補實額。直隸省增實兵四千七百七十名,山東省增實兵一千五百八一名,山西省增實兵二千五百九十五名,河南省增實兵九百七十九名,江南省增實兵五千十一名,江西省增實兵一千五百八十七名,福建省增實兵四千七百五十六名,浙江省增實兵三千三十九名,湖北省增實兵二千三百八十名,湖南省增實兵二千五百八十八名,四川省增實兵四千二百七十四名,陝西、甘肅二省增實兵一萬二千七百三十名,廣東省增實兵五千七百七十四名,廣西省增實兵二千三百三十四名,雲南省增實兵五千四百六十名,貴州省增實兵五千二百八十四名。於是舉康雍以來綠營兵之不足者,悉數挑補,一舉而添兵六萬有奇。然歲添新餉幾三百萬焉(綠營舊制:馬兵月餉二兩,步兵一兩五錢,守兵一兩)。

仁宗嘉慶四年,命各省督撫提鎮召募新兵,補實兵額。自苗教軍舉以來,徵調各省營兵開赴前敵,其在軍中死喪逃亡者甚衆,帝恐將來事定歸伍時不敷各省原定兵數,因諭各省督撫提鎮召募新兵。除河南、陝西、四川、雲南募兵較多,所缺無幾,毋庸議外,其餘各省著照派出征兵現缺之數酌量招募。直隸、山東應先補十分之五,山西、甘肅、廣東應先補十分之四,江西、廣西應先補十分之三,貴州應先補十分之七。

九年,藉給寧陝及陝安等處新兵地價銀兩。白蓮教會之役,以滿、漢額兵徵發不便之故,臨時廣募鄉勇以佐戰守,謂之新兵,復增置郡縣營汛,即以新兵挑補。各地增設之兵額,湖北置襄陽提督一,鄖陽總兵、道員各一,計增兵三千五百。陝西置五郎總兵一,改稱寧陝鎮。餘如陝安鎮營、漢中協營、併陽平關、寧羌、略陽等處,增兵共八千六百一十七。四川置綏定府(以達州升)副將一,餘如保定、夔州所屬要害地,各設守備,共增兵千。就中寧陝及陝安等處新兵,因地險糧貴,皆須一律置買地畝,自行開墾,俾裕生計而勤訓練。每名借與地價銀十兩,共八萬六千一百七十兩,於是并地丁項下借支,在於節省馬乾項下分年扣還。至十五年冬季,全數歸欵。

十年,增設滿洲、蒙古八旗養育兵二千二百五十名。帝以八旗生齒日繁,生計不免拮据,諭令將五營馬兵以若干缺歸入滿洲、蒙古八旗閒散人等分別挑充,令都統以下各官悉心妥議。繼思旗籍弟子與綠營兵士一體當差,未免有玷身份,著將差馬撥出二千匹,交與張家口牧放,計每月可省馬乾銀五千兩。於八旗滿洲、蒙古閒散內,每散滿洲增額養育兵二百分,蒙古額增養育兵五十分,八旗共增養育兵二千分。又因每月節省節省馬乾銀五千兩,按照每兵每月給餉銀一兩五錢,共可得三千三百三十分,合較八旗滿洲、蒙古佐領數目,於滿洲八旗每佐領下,增設養育兵四名,共二千七百十八名。蒙古八旗每佐領下,增設養育兵三名,共六百十二名。

十一年,增設京師八旗滿洲、蒙古及各營養育兵四千三百九十六名。先是,諭以八旗人口加增,自應再籌辦理,著閣臣、部臣、都統等妥議,及復奏稱。統俟河工辦峻時,籌出可備生息支用閑欵銀內,再行奏明辦理。而帝以旗人生齒日繁,當急思鞠謀保聚之道。著於廣儲司撥銀十萬兩,造辦處撥銀十萬兩,戶部籌撥銀五十萬兩,共七十萬兩,交商生息,增添養育兵。八旗每佐領下四名,其半分佐領下二名,蒙古每佐領下三名,圓明園護軍營、內外火器營各三百名,健銳營一百五十名。八旗滿洲、蒙古及各營,共增設養育兵四千七十二名。又內務府三旗每佐領下,增設養育兵四名,圓明園內府三旗六十名。增包衣三旗養育兵三百二十四名。

二十年,令青州駐防八旗閒散壯丁內,挑選餘兵二百四十名。青州駐防滿營,額設馬甲一千四百六十名,步甲三百二十名。到防既久,生齒日繁,奏請調劑。帝令將該營所存馬價銀六千兩,再於司庫扣存市平內酌提角二萬四千兩,共成三萬兩,交商生息,隨餉撥解,交該副都統。在於駐防八旗閒散壯丁內,擇其材堪造就者,二百四十名,作為餘兵,與甲兵一體操練,每月支給銀一兩,以資養贍。

宣宗道光元年,添挑太原城守尉駐防養育兵四十名。

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