清史紀事本末ジュンガル部・回部の平定(準部及回部之平定)

要約

乾隆二十年春二月、班第を定北将軍、阿睦爾撒納を定辺左将軍として北路から、永常・薩拉爾を西路から出し、準噶爾を討たせた。十四年に噶爾丹策零が死んで部内に乱が起こり、阿睦爾撒納らが帰属して出兵を乞うたので、帝はこれを道案内に大挙した。五月、両路の兵は伊犁に至り、阿玉錫が夜に軽騎で営に迫ると達瓦斉の衆は潰え、阿克蘇のベクの霍迪斯が達瓦斉と羅卜蔵丹津を捕らえて京師に送り、伊犁は平定された。

冬十月、阿睦爾撒納が叛いた。彼は四部の総台吉たらんとして色布騰に請わせ、旧汗の印で哈薩克やロシアに檄を回した。帝は誅せよと命じたが、従う兵は五百人にすぎなかった。熱河の飲至に赴かせて捕らえようとしたが、彼は烏倫古河で副将軍の印を投げ返し、薩拉爾を劫かして馳せ去り、伊犁を叛かせた。班第と容安は自殺し、色布騰は爵を奪われ、額林沁は死を賜い、策楞が定西将軍となった。

二十一年、玉保は間諜の言を信じて軍を駐め、策楞がその勝報を朝廷に報じるうちに阿睦爾撒納は哈薩克に入り、二人は職を奪われ、達爾党阿・富徳が代わり、二十二年に兆恵が西路、成袞札布が北路から討った。阿睦爾撒納は哈薩克で汗の阿布賚に馬を取られ、徒歩でロシアに入って痘瘡で死に、屍は恰克図に送られた。兆恵は越冬して翌年正月から掃討し、前後四年で二十余万戸、六十余万口を殺し尽くした。平定後、満洲の駐防を置き、漢人の兵を移して耕させ、伊犁将軍を置いた。

二十三年正月、雅爾哈善を靖逆将軍として回部を討たせた。大和卓木の波羅泥都と小和卓木の霍集占が独立を図って各城に檄し、数十万が呼応した。霍集占は招撫使の阿敏道を庫車に誘い入れて殺した。雅爾哈善は庫車を攻めたが、城は砲が通らず、馬得勝の地道は水を注がれて士卒六百人が溺れ死んだ。鄂対の伏兵の策も索倫の老兵の警告も聞かず、その夜、霍集占は西門から逃げた。数日後に阿拉弁が空城をもって降った。七月、雅爾哈善・順徳訥・馬得勝は処刑され、納木札爾が代わった。

二十四年、兆恵は葉爾羌の東に黒水営を結んだが、棋盤山の蓄えを取ろうと渡ったところで橋を断たれ、五千騎と歩兵一万余に攻められ、高天喜・三保・鄂実らが戦死した。残兵は塁を築き、糧が尽きて氷を噛み三か月持ちこたえた。納木札爾と三泰も途中で戦死したが、阿里袞が夜に到着し、富徳とともに敵を潰えさせて兆恵に合流した。二路に分かれて喀什噶爾・葉爾羌を取り、二和卓木は逃げた。八月、富徳は伊西洱庫河で追い、降る者は山を覆い、二人は抜達山部に逃げ込んだが、酋長の素爾坦沙が捕らえて殺し、霍集占の首を献じ、回部は平定された。

編者はいう、天山南北の戦役は開いた土地が一万余里、殺した敵は百万口に達し、成功は盛んに見えるが、軍を労すること五年、金三千万両を費やした。君主が大きな事を好み功を誇るがゆえに、物資と人命を惜しまず成し遂げたので、土地を開くことの容易でないことが分かる。まして相手は強敵ではなかったのだから、誇るに足りようか、と。また霍集占の妃の香妃は、高宗がその美を聞いて連れてこさせ、香妃楼を建てて住まわせたが、妃は屈せず、肌着に白刃を隠して旧主の仇に報いたいと語った。太后の鈕祜禄氏は恐れ、高宗が斎宮に泊まった折に妃を召して縊り殺し、高宗は痛哭して妃の礼で葬らせた。

年表

乾隆二十年(1755年)から二十四年(1759年)にかけての天山北路の準部と南路の回部の平定を記す。班第・阿睦爾撒納らが二路から出て伊犁を取り達瓦斉を捕らえたが、阿睦爾撒納が汗位を望んで叛き、班第・容安は自殺した。阿睦爾撒納は哈薩克を経てロシアに逃れ痘瘡で死に、兆恵らが残衆を四年にわたり討って準部は絶滅した。次いで大和卓木波羅泥都と小和卓木霍集占が自立を図り、雅爾哈善の失敗を経て兆恵が黒水営で苦戦したのち喀什噶爾・葉爾羌を回復し、二十四年に抜達山部の素爾坦沙が霍集占の首を献じて回部は平定された。

年表(5件)

現代語訳全文

西暦1755年 高宗乾隆二十年

  • 春二月、尚書の班第を定北将軍、阿睦爾撒納を定辺左将軍として北路から出し、陝督(陝甘総督)の永常を定西将軍、薩拉爾を定辺右将軍として西路から出し、準噶爾を征討させた。
  • 乾隆四年に準部との和議が成立してから辺境の事はやや静まっていたが、十四年に至って噶爾丹策零が死に、その部内に乱が起こり、その宰桑である薩拉爾、杜爾拉特台吉の三車棱があいついで降ってきた。輝特台吉の阿睦爾撒納もまた十九年に衆を率いて内地に帰属し(「師衆」の「師」は「帥」の誤りか)、しかも出兵を乞うた。帝はかねてから彼が準部の人々に服従されていることを知っており、これを道案内に利用して、機に乗じて大挙しようとした。廷臣たちは雍正九年の和通泊の敗戦に懲り、再び争端を開くことを望まなかったが、ただ大学士の博恒(傅恒の誤りか)だけが帝の意に賛成した。帝は喜んで「卿は朕の張華・裴度である」と言った。やがて準部の大将である瑪木特もまた帰順してきたので、この月に二路に分けて出師した。北路は烏里雅蘇台から出し、西路は巴里坤から出し、八旗と吉林・索倫の精鋭をことごとく選んで従わせた。
  • 夏五月、両路の兵が伊犁に到達し、準噶爾汗の達瓦斉および青海の酋長である羅卜蔵丹津を捕らえ、伊犁が平定された。両路の兵が出発してから、二人の定辺将軍はもともと準部の首領であり、その旧来の旗を立てて先行し、そのため行く先々で降る者があいついだ。両軍はこの月の朔日に博羅塔拉河で会し、五日を経て伊犁に至った。達瓦斉はすでに格登山に走って守りを固め、泥沼を隔てて営を構え、衆はなお一万余あった。侍衛の阿玉錫が夜に軽騎をもってまっすぐその営に迫ると(「簿」は「薄」の誤りか)、敵の衆は驚き潰えて、回疆に逃げ込んだ。阿克蘇のベクである霍迪斯はすでに班第の軍中からの檄を受けており、ただちにこれを捕らえて献じ、あわせて先に青海から逃げてきていた羅卜蔵丹津を捕らえ、京師に送った。伊犁はひとまず定まった。
  • 冬十月、阿睦爾撒納が叛き、将軍の班第、参賛の容安が死に、薩拉爾は捕らえられた。
  • 準部にはもともと四つの衛拉があり、衛拉の分部にはそれぞれその汗がいた。綽羅斯の渾台吉が強盛となってから、伊犁がはじめて回部の盟長となり、数代にわたって中国と抗し並んだ。帝ははじめ、事が定まるのを待って、なお四汗を設けてその勢力を分けようとした。ところが阿睦爾撒納は四部の総台吉になろうとし、ひそかにその意を額駙の色布騰に伝えて代わって請わせ、七月下旬をもって命を待つ期限とし、あわせてその衆に「自分が汗にならなければ準部は安らかにならない」という流言を広めさせた。そしてその国の汗の旧印を用いて、隣部の哈薩克およびロシアなどの国に檄を回し、中国に降ったとは言わず、ただ満洲・蒙古の兵を率いて準部の乱を定めに来たのだと称した。班第らはひそかにこれを奏聞し、帝は軍中でただちにこれを誅するよう命じた。だがこのとき兵はみな凱旋しており、班第らに従う者はわずか五百人を得るのみで、兵が少なかったので、班第は事を起こす勇気がなかった。
  • これより先、帝は阿睦爾撒納に九月に熱河に来て飲至の礼(凱旋を宗廟に告げて祝う儀)を行うよう命じていた。班第らはそこでその出発を促し、喀爾喀親王の額林沁を伴わせた。内地に入らせれば捕らえやすいと考えたのである。阿睦爾撒納は途中で引き延ばし、八月なかばになって、朝命を待ってもなお至らないので、事に変化があった、境内に入ればわが身に禍が及ぶと察した。烏倫古河まで行ったところで、額林沁に言った。「阿某は臣たるまいとするのではない。実は中国に信義がないのだ。いま境内に入れば犬や羊を追い立てるように扱われよう。大丈夫たる者、事業を立てるべきである。どうして首を伸ばして斬られるのを待てようか。」そしておもむろに副将軍の印を解いて投げ与え、「お前はこれを持って大皇帝に返上せよ」と言った。衆を率いて馳せ去り、あわせて薩拉爾(底本は「撒拉爾」に作る)を劫かして連れ去り、伊犁をそそのかして叛かせ、また衆を遣って西路の軍台を掠奪させた。ここにおいてラマや宰桑たちが蜂のように起こってこれに応じた。永常の兵数千は烏魯木斉に駐屯していたが、討伐に赴く勇気がなく、班第と容安はともに自殺した。事が聞こえると、色布騰は隠して奏さなかったことにより爵位を剥奪され、額林沁は逆賊を逃したとして死を賜い、あわせて永常を逮捕し、改めて公の策楞を定西将軍に命じ、巴里坤から進んで討伐させた。

西暦1756年 乾隆二十一年

  • 夏五月、策楞の職を剥奪し、公の達爾党阿を定西将軍に命じた。
  • これより先、策楞の軍が吐魯番に至ったとき、薩拉爾が伊犁から身を脱して帰順してきて、阿睦爾撒納のいる場所がわずか一日の行程しか離れていないことが分かった。そこで参賛の玉保に命じて急ぎ追わせた。ところが玉保は間諜の言を信じ、阿睦爾撒納はすでに捕らえられ、献じる者がまもなく到着すると思い込んで、軍を駐めてこれを待ち、策楞に勝報を告げた。策楞はあわててこれを朝廷に報告した。策楞が伊犁に着いたころには、阿睦爾撒納はすでにゆうゆうと哈薩克に入っていた。将軍と参賛は互いに咎め合い、馬の力が尽きたことを口実にして、軍を止めて進まなかった。ここにおいて和托輝特部の青滾雑布もまた叛き、四部もまた騒ぎ動いた。阿睦爾撒納はこれを聞くと哈薩克から帰り、博羅塔拉河に衆を集め、自立を謀った。帝は怒って策楞・玉保の職を剥奪し、達爾党阿と富徳をこれに代え、巴里坤弁事大臣の兆恵を右副将軍として救援に赴かせ、あわせて超勇親王の成袞札布を左副将軍に命じ、青滾雑布を追捕させた。

西暦1757年 乾隆二十二年

  • 夏四月、兆恵に西路から出、成袞札布に北路から出るよう命じ、大いに準噶爾を討伐させた。ちょうど諸部に内訌があり、また痘瘡の疫病が流行していた。兆恵の兵が到着すると、諸酋長は迎え撃ったが、みな敗れて死んだ。阿睦爾撒納は再び西に逃げて哈薩克に向かったが、その汗の阿布賚は捕らえて献じることを約束していた。阿睦爾撒納が到着すると、阿布賚はまずその馬を取り上げた。阿睦爾撒納は驚き、徒歩でロシアに入り、まもなく痘瘡を病んで死んだ。理藩院が文書を送ってその身柄を求めると、ロシア人はその屍を恰克図に送ってきた。
  • 帝は成袞札布に命じて烏里雅蘇台に帰って鎮守させ、兆恵は軍を留めて冬を越し、翌年さらに残りの衆を討伐することとした。翌年正月、兆恵らは包囲を合わせて思うままに討伐し、前後四年にわたって虐殺した。およそ山谷の片ほとりや川と河の流域で漁猟して生を営める土地は、合わせて二十余万戸、六十余万口、すべてくまなく捜し尽くして残る者がなかった。事が平定されると、満洲の駐防を設け、漢人の兵を移して土地を耕作させ、伊犁将軍を置いてこれを統治させ、ついにここは満洲の一つの植民地となった。

西暦1758年 乾隆二十三年

  • 春正月、雅爾哈善を靖逆将軍とし、回部を征討させた。
  • 回部は天山南路にあり、その旧来の汗はもともと元の後裔であったが、のち厄魯特が強盛になったのに遭い、そのまま準部の勢力下に隷属した。阿睦爾撒納が逃げて死ぬと、天山北路の地はすべて中国に入った。南路の大和卓木である波羅泥都と小和卓木の霍集占は、新旧の勢力が交代する時機に乗じて独立を図ろうとした。ひそかに部下の衆を統率し、各城に檄を伝え、みな厳戒して待たせた。回部の数十万が争って呼応して立ったが、ただ庫車のベクである鄂対だけは同調することを望まず、伊犁に走った。霍集占はその親族を誅殺し、兵を厳しくして庫を守らせた(「庫」は「庫車」の脱か)。
  • これより先、兆恵は上奏して副都統の阿敏道を回部招撫使に派遣していた。阿敏道が波羅泥都のもとに至り、その部の衆を集めて中国の約束を受けさせようとすると、霍集占は言った。「我らは準噶爾に苦しめられて久しい。いま中国に属せば、また他族の奴隷となるだけだ。この時に自立して、旧来の勢力を回復するにこしたことはない。」そこで阿敏道をだまして庫車の城に入れて拘束し、まもなく殺した。ここに至って帝は兵を出してこれを討たせたのである。
  • 秋七月、雅爾哈善の職を剥奪し、納木札爾を靖逆将軍に命じた。
  • これより先、雅爾哈善の兵は庫車に至ったが、進攻して利あらず、霍集占が阿克蘇から救援に来て、領隊大臣の愛隆阿の軍と遭遇し、終日激戦して、霍集占は大敗し、城に入って固く守った。城は山に依り、柳の枝と砂土とを交互に築いたもので、砲で攻めても通らなかった。提督の馬得勝が城の北一里の外で地道を掘り、すでに城に達しようとしていた。ところが雅爾哈善はせっかちに効果を収めようとし、昼夜力を尽くして掘るよう厳命した。敵は城の上からちらりと灯火を見つけ、そのため仕掛けが漏れた。敵は内側から水を注ぎ込み、城を掘っていた士卒六百人はみな溺れ死んだ。
  • そのとき降った頭目の鄂対が軍中におり、策を献じて言った。「聞くところでは霍集占の食糧はまもなく尽きるとのこと。必ずわが方の不備に乗じて包囲を突破して帰るでしょう。帰られては制しにくくなります。もし城の西の渭干愛曼河および北山の要路にそれぞれ一千の兵を伏せれば、賊は捕らえられましょう。」雅爾哈善はその言を当てにならぬとして聞かず、ただ力を併せて攻め取るよう命じるだけであった。ある日の夕暮れ、索倫の老兵が城下で馬を放牧していて、城中で駱駝が重い荷を負ったような声で鳴くのを聞き、駆けつけて告げた。「駱駝の鳴き声が高く力強い。賊はまさに逃げようとしています。」雅爾哈善はちょうど酒を飲んでいて、怒って「お前に何が分かるか」と言い、もとのとおり酌を続けた。その夜、霍集占は衆を率いて西門を開き、渭干愛曼から水を渡って逃げた。西門を守っていた都統の順徳訥は報せを聞いたが、なお暗い夜だからといって兵を出さなかった。夜明けになってようやく百人を遣って追わせたが、敵はすでに河を渡り橋を断ち切って遠く去っていた。数日を過ぎて、城を守っていた阿拉弁が空になった城をもって降った。事が聞こえると、雅爾哈善・順徳訥・馬得勝はみな処刑され、尚書の納木札爾をこれに代えるよう命じ、あわせて兆恵に軍を移して会同討伐させた。

西暦1759年 乾隆二十四年

  • 秋七月、兆恵が喀什噶爾・葉爾羌の二城を撫定した。
  • はじめ兆恵の軍が烏什に到着すると、ベクの霍迪斯が迎えに来た。先に達瓦斉を捕らえて送った者である。尋ねたところ、波羅泥都は喀什噶爾に走り、霍集占は葉爾羌に走ったことが分かった。兆恵は葉爾羌に着いたが、兵が少なくて城を攻めることができず、好機を待って勝ちを取ろうとし、そこで城の東の河を隔てた水草のある所を選んで営を結んだ。これがいわゆる黒水営である。
  • 敵の蓄えが城の南の棋盤山にあることを偵知し、これを取って軍の実とするため、城の南から橋を奪って渡った。四百騎が渡ったばかりのところで、橋が突然断たれ、城内から五千騎が出て来てこれを迎え撃ち、歩兵一万余がこれに続いた。両翼を張って攻めかかり、河を隔てた兵は救うことができず、戦死した者は数知れなかった。総兵の高天喜、副都統の三保、護軍統領の鄂実、監察御史の何泰、侍衛の特通額はみな戦死し、残りの兵は水に浮かんで還り、壕を掘り塁を築いて守った。軍中は食糧に乏しく、駱駝も馬も尽き、しばしば隙を見て出撃して回民を掠め、煮て食に充て、水がないので氷を噛んで飲んだ。相持つこと三か月、すでに生きて還る望みはなかった。
  • 将軍の納木札爾、参賛の三泰は途中で敵に遭って戦死し、富徳は北路で雪を冒して救援に赴いたが、達することができなかった。ちょうど巴里坤弁事大臣の阿里袞が兵を率いて夜に到着し、富徳の軍と合わせ、大声をあげて進み、駱駝や馬に鞭打って地を蹴らせると、その音は勇壮で、敵は来援の兵がどれほどか分からず、驚いて潰え城に逃げ込んだ。こうしてようやく兆恵と合流した。軍を整えて阿克蘇に還り、そこで二路から進軍することを議し、兆恵は烏什から喀什噶爾を取り、富徳は和闐から葉爾羌を取ることとした。二人の和卓木はそれぞれ城を棄てて逃げ去り、喀什噶爾・葉爾羌はともに回復された。
  • 八月、抜達山部の酋長である素爾坦沙が、回部の酋長である霍集占の首級を箱に納めて送り、回部が平定された。
  • 富徳らは敵を追って伊西洱庫河に至った。抜達山部の境である。敵は先に山麓を占めて待ち構えていた。富徳は兵を指揮して進撃したが利あらず、そこで銃手四十人を選び、山の北の嶺づたいに登って上から撃たせた。敵の輜重の営には、よじ登って山を越えようとして岸に阻まれた者があり、ちょうど驚き恐れて手だてを失っているあいだに、霍迪斯と鄂対が大声で降伏を呼びかけると、降る者は山を覆って下り、その音は雷が走るようであった。霍集占は禁じたが止めることができず、そのまま波羅泥都とともに抜達山部に逃げ込んだ。富徳はその酋長の素爾坦沙に檄を伝えて縛って献じるよう諭し、素爾坦沙はそこで二人を捕らえて殺した。波羅泥都の首はその従者に盗み去られたので、霍集占の首を箱に納めて献じた。回部はことごとく平定された。

史論(編者曰)

  • 天山南北の戦役は、開いた土地は広さ一万余里、殺した敵は百万口に達した。その成功は甚だ盛んなように見える。しかし軍を労すること五年、国庫の金三千万両を費やした。君主が大きな事を好み功を誇るがゆえに、国家の得がたい物資の力と、貴重な人命とを惜しまずにこれを成し遂げたのである。ここから土地を開拓することの容易でないことが分かる。まして相手にしたのは強敵ではなかったのだから、どうして誇るに足りようか。
  • また、霍集占の妃である香妃という者がいた。高宗はその美しさを聞き、兆恵が出征の挨拶をして辞するとき、生きたまま連れてくるよう言いつけた。到着すると郊外まで出迎えて入れ、西内に住まわせ、香妃楼を建ててやった。楼の外には店の並ぶ市や家々、礼拝堂を、すべて西域の市のとおりに設けて喜ばせようとしたが、妃は屈しなかった。肌着の中に白刃を数十本も隠し持ち、宮人に、機会を得て旧主の仇に報いたいのだと語った。太后の鈕祜禄氏はこれを聞いて恐れ、ちょうど高宗が圜丘で祭祀を行い、斎宮に泊まっていた折に、太后は急いで妃を慈寧宮に召して縊り殺した。高宗は駆けつけて救おうとしたが間に合わず、痛哭して、妃の礼をもって葬るよう命じた。この事は達県の呉徳潚、湘潭の王闓運のそれぞれの文集に見える。ここに付記しておく。
原文(底本)
高宗乾隆二十年,春二月,以尚書班第爲定北將軍,阿睦爾撒納爲定邊左將軍出北路,陝督永常爲定西將軍,薩拉爾爲定邊右將軍出西路,往征準噶爾。自乾隆四年準部和議既就緒,邊事稍甯,至十四年,噶爾丹策零死,其部內亂,其宰桑(譯言管事官)薩拉爾、杜爾拉特台吉三車棱,先後來降,而輝特台吉阿睦爾撒納亦於十九年師衆內附,且乞師。帝久知其爲準部所服從,利用之爲嚮導,欲乘機大舉。廷臣鍳於雍正九年和通泊之敗,不願再開釁,惟大學士博恆贊成帝意,帝喜曰:『卿,朕之張華、裴度也!』既而準部大將瑪木特亦來歸,遂以是月分兩路出師。北路出烏里雅蘇臺,西路出巴里坤,盡簡八旗吉林索倫精銳以從。 夏五月,兩路兵抵伊犁,擒準噶爾汗達瓦齊及青海酋長羅卜藏丹津,伊犁平。自兩路兵出發,兩定邊將軍本準部渠帥,建其舊纛先進,故所至降者相繼,兩軍遂於是月朔會於博羅塔拉河,越五日而至伊犁。達瓦齊已走保格登山,阻淖爲營,衆尚萬餘。侍衛阿玉錫,夜以輕騎直簿其營,敵衆驚潰,走投回疆。阿克蘇伯克霍迪斯已得班第軍中檄,即執之以獻,並獲前青海逃至之羅卜藏丹津,送京師,伊犁粗定。 冬十月,阿睦爾撒納叛,將軍班第、參贊容安死之,薩拉爾被執。準部先故有四衛拉(譯言部落),衛拉之分部各有其汗,自綽羅斯渾台吉強盛,伊犁始爲回部盟長,抗衡中國者數世。帝初欲俟事定,仍設四汗以分其勢,而阿睦爾撒納欲爲四部總台吉,私以其意乞額駙色布騰代請,期於七月下旬俟命,並使其衆流言,非己爲汗,準不得安。因用其國汗舊印,移檄鄰部哈薩克及俄羅斯等國,不言降中國,但謂率滿洲、蒙古兵來定準亂。班第等密以聞,帝命即軍中誅之。時兵皆凱旋,隨班第等得僅五百人,兵少,班第不敢發。先是,帝令阿睦爾撒納以九月至熱河,行飲至禮,班第等因趣之行,使喀爾喀親王額林沁伴之,欲使入內地則易成擒也。阿睦爾撒納遷延中途,迨八月中,待朝命猶不至,知事有變,入境且得禍,行至烏倫古河,乃謂額林沁曰:『阿某非不臣,實中國無信。今入境如驅犬羊,大丈夫當立事業,安肯延頸待戮?』徐解副將軍印擲與之,曰:『汝持此交還大皇帝可也。』擁衆馳去,並劫撒拉爾以行,遂嗾伊犁叛,又遣衆掠西路軍台,於是剌麻宰桑等蠭起應之。永常兵數千屯烏魯木齊,不敢往勦,班鄂皆自殺。事聞,以色布騰隱匿不奏,褫爵,額林沁縱逆,賜死,並逮永常,改命公策楞爲定西將軍,由巴里坤進剿。

二十一年,夏五月,褫策楞職,命公達爾黨阿爲定西將軍。先是,策楞師行至吐魯番,薩拉爾自伊犂脫身來歸,知阿睦爾撒納所在僅距一日程,命參贊玉保急往追之。而玉保信間諜言,謂阿睦爾撒納已就擒,獻者且至,遂駐軍俟之,報捷策楞。策楞遽聞於朝,比策楞至伊犂,則阿睦爾撒納已從容入哈薩克(可薩克,今俄領中亞細亞境)。將軍參贊互相咎,託言馬力竭,頓師不進,於是和托輝特部靑滾雜布亦叛,四部亦騷動。阿睦爾撒納聞之,自哈薩克歸,會衆於博羅塔拉河,謀自立。帝怒,褫策楞、玉保職,以達爾黨阿富德代之,命巴里坤辦事大臣兆惠爲右副將軍往援,並命超勇親王成衮札布爲左副將軍,追捕靑滾雜布。

二十二年,夏四月,命兆惠出西路,成衮札布出北路,大勦準噶爾。會諸部內訌,又痘疫盛行,兆惠兵至,諸酋迎戰,皆敗死。阿睦爾撒納復西竄往哈薩克,其汗阿布賫許擒獻。及阿睦爾撒納至,阿布賫先收其馬,阿睦爾撒納驚,徒步入俄羅斯,尋患痘死。理藩院行文索之,俄人以其屍送恰克圖。帝命成衮札布歸鎮烏里雅蘇台,兆惠留軍過冬,明年再進勦餘衆。明年正月,兆惠等合圍縱勦,先後虐殺四年,凡山谷僻壤及川河流域可漁獵資生之地,計二十餘萬户,六十餘萬口,皆搜剔靡遺矣。事平,設滿洲駐防,徙漢兵耕種其地,置伊犂將軍以統治之,遂成爲滿洲一殖民地。

二十三年,春正月,以雅爾哈善爲靖逆將軍,征回部。回部在天山南路,其舊汗本元裔,後值厄魯特強盛,遂隸準部勢力之下。及阿睦爾撒納竄死,天山北路之地全入中國,南路大和卓木(譯言聖裔)波羅泥都小和卓木霍集占,欲乘新舊勢力交代之際,謀獨立。陰勒部衆,傳檄各城,咸戒嚴以待。回部數十萬爭起響應,惟庫車伯克鄂對不欲附和,奔伊犂。霍集占誅其親族,嚴兵守庫。先是兆惠奏派副都統阿敏道爲回部招撫使,至波羅泥都欲集所部受中國約束,霍集占曰:『我困準噶爾久矣。今屬中國,則又爲他族奴隸,不如此時自立,以回復舊有之勢力。』乃誑阿敏道入庫城而拘之,尋被殺,至是帝命出兵討之。 秋七月,褫雅爾哈善職,命納木札爾爲靖逆將軍。先是雅爾哈善兵至庫車,進攻不利,霍集占自阿克蘇來援,與領隊大臣愛隆阿軍遇,激戰竟日,霍集占大敗,入城固守。城依山,以柳條沙土交築,礮攻不入。提督馬得勝於城北一里外掘地道,已及城矣,而雅爾哈善欲急切收效,嚴令晝夜力掘。敵人自城上瞥見燈火,機遂洩。敵自內注以水,穴城之士卒六百人盡没。時降目鄂對在軍中,獻策曰:『聞霍集占食且盡,必乘我不備,突圍歸,歸則難制。若於城西渭干愛曼河及北山要路各伏兵一千,則賊成擒矣。』雅爾哈善以其言叵,不聽,唯下令併力攻取。一日暮,索倫老卒牧城下,聞城中駝鳴似負重聲,奔吿曰:『駝鳴高且健,賊將遁矣!』雅爾哈善方飲,怒曰:『爾何知?』酌如故。其夜霍集占率衆開西門,由渭干愛曼涉水遁,而守西門之都統順德訥聞報,尙以昏夜不發兵。及曉,始遣百人追之,敵已渡河斷橋去遠矣。踰數日,城守阿拉辨以空城降。事聞,雅爾哈善、順德訥、馬得勝皆伏法,命尙書納木札爾代之,並令兆惠移師會勦。

二十四年,秋七月,兆惠撫定喀什噶爾、葉爾羌二城。初兆惠師抵烏什,伯克霍廸斯來迎,即前擒送達瓦齊者。詢知波羅泥都奔喀什噶爾,霍集占奔葉爾羌,兆惠既至葉爾羌,以兵少不能攻城,欲伺便取勝,乃擇城東隔河有水草處結營,所謂黑水營也。偵敵之積聚在城南棋盤山,欲取之以充軍實,遂由城南奪橋渡。甫濟四百騎,橋忽斷,城內出五千騎來截,步兵萬餘繼之。張兩翼來攻,隔河兵不能救,陣亡者無算。總兵高天喜、副都統三保、護軍統領鄂實、監察御史何泰、侍衛特通額俱戰殁,餘兵浮水還,掘壕築壘以守。軍中乏食,駝馬亦盡,每乘間出掠回民,烹以充食,無水嚼氷飲,相持三閱月,已無生還望。將軍納木札爾、參贊三泰於途中遇敵陣亡,富德在北路冒雪赴援,不得達。會巴里坤辦事大臣阿里衮以兵夜至,合富德軍,大呼進,鞭駝馬蹴地,聲壯,敵不知來兵多少,駭而潰遁入城,始與兆惠合。振旅還阿克蘇,乃議兩路進師,兆惠由烏什取喀什噶爾,富德由和闐取葉爾羌,兩和卓木各棄城遁去,喀什噶爾、葉爾羌皆復。 八月,拔達山部酋素爾坦沙,函送回酋霍集占首級,回部平。富德等追敵至伊西洱庫河,乃拔達山部界也。敵先據山麓以待,富德麾兵進擊不利,乃選銃手四十人,緣山北嶺俯擊之。敵輜重營有攀援過山阻於岸者,方驚懼失措間,霍迪斯鄂對大呼招降,降者蔽山而下,聲若奔雷,霍集占禁之不能止,遂與波羅泥都逸入拔達山部。富德檄諭其酋素爾坦沙縛以獻,素爾坦沙乃擒二人,殺之。波羅泥都首爲其從人竊去,乃函霍集占之首以獻,回部悉定。

編者曰:天山南北之戰事,闢地廣萬有餘里,殺敵達百萬口。其成功似甚盛,然勞師五年,費帑三千萬兩,在人主好大喜功,故不惜國家艱難之物力,與寳貴之人命而致之。此以見開拓地土之不易,矧其所遇非勁敵也,庸足多哉。 又霍集占妃香妃者,高宗聞其美,兆惠陛辭時,囑爲生致之,至則郊迎入,處之西內,爲建香妃樓。樓外肆市室廬禮拜堂具如西域市以悅之,而妃不爲屈,衵衣中藏白刃以數十計,語宫人欲得當以報故主也。太后鈕祜祿氏聞之恐,會高宗有事於圜丘,宿齋宫,后急召妃至慈寧宫縊殺之,高宗趨救之不及,則痛哭,命葬以妃禮。事見達縣吳德潚、湘潭王闓運各集中,附紀於此。

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