清史紀事本末西南諸国の帰服(西南諸国之賓服)
要約
乾隆三十二年三月、明瑞に将軍として雲貴総督を兼ねさせ、緬甸の軍務を処理させた。二十七年、総督の呉達善が貴家の酋長の宮裏襄雁を殺し、その妾の攮占を緬甸人に捕らえさせたが、攮占はすでに懵駁の妻で、懵駁は憤って内地に侵入させた。三十年、大挙して九竜江に侵入し、劉藻は三路とも敗れた。三十一年、楊応琚が代わると藻は憂え恐れて自ら首をはねて死に、応琚は緬甸は取れる情勢だと奏したが、緬甸人は木邦・景線を陥れて新街に迫った。偽りの停戦に乗じて勝報を奏したので、応琚に死を賜った。この年、緬甸は暹羅の都を陥れ、国王を追い出して守兵を置いた。
明瑞は三十二年十二月に木邦を取って錫箔江を渡ったが道に迷い、額爾景額は老官屯で憤死し、額爾登額は進まず、三十三年二月、明瑞は小猛育で木邦の守兵の潰滅と楊重英の捕縛を聞いて自殺した。部下一万余は潰え、観音保以下十余人が戦死し、額爾登額は磔にされた。三十四年正月、傅恒に雲南の軍務を経略させた。そのころ暹羅の中国人鄭昭が猶地亜を回復し、盤谷に都を建てた。緬甸の和請いは許されなかった。傅恒は六万余を率い二千余里を経ても敵に遭わず、百七十余日一度も戦わず軍力は尽きた。阿桂は戦艦百艘で敵の舟を破り老官屯の柵を攻めたが落ちず、阿里袞は死に傅恒も病み、敵の和議の請いに諸将は争って許すよう請うた。傅恒は眇旺模に表貢と土司の地の返還を責めたが立ち去られ、召還されて憂え憤り死んだ。
三十五年正月、彰保の使いと蘇爾相が緬甸に拘留され、帝は再征を議したが、阿桂は停戦を首唱したとして兵卒に落とされ、金川の事が起こって議はやんだ。四十四年に懵駁が死んで内乱が続き、四十七年に暹羅に破られたので、緬甸は恐れて五十三年九月に使臣細哈覚控らを遣って入貢し、楊重英らを釈放した。重英は寺に二十年屈せず、帝は蘇武に勝る節操だとして蘇楊論を作って褒めたが、都の門に入らぬうちに死んだ。
同年十月、両広総督の孫士毅に安南へ出兵を命じた。安南は康熙五年の封以来朝貢が通じていたが、五十三年、広南の阮文恵が安南を滅ぼし、嗣王の黎維祁は逃げ亡んだ。遺臣の阮輝宿が王族二百余人を護って竜州から入り、帝は出師させた。十一月、士毅は諒山から進み、許世亨が長駆して一か月足らずで東京を回復し、維祁を国王に封じた。五十四年正月、士毅は文恵の降を信じ河内に駐まり備えを設けず、元日の夜に阮兵が大挙して至り、士毅が富良江の浮き橋を断たせたので、南岸の兵は提督以下五千余人が溺れ死んだ。士毅は自ら弾劾して召され、福康安が代わった。六月、文恵は名を光平と改め、兄の子の光顕を遣って、広南を守ること九世、安南とは敵国で君臣の名分はない、と言わせた。帝も維祁は扶け立てるに堪えぬとし、万寿節の来賀と許世亨らの祠を求め、光平が従ったので国王に封じ、維祁の家族は漢軍旗に編入した。
五十六年十一月、福康安を将軍、海蘭察・奎林を参賛として廓爾喀を討たせた。五十三年、班禅の一族が遺産を争った折に廓爾喀が後蔵に侵入し、鄂輝・成徳に討たせ巴忠に監軍させたが、巴忠は勝手に歳幣一万五千金を約し、敵が降ったと飾って奏した。翌年、歳幣が届かず廓爾喀は深く侵入し、保泰は兵を擁して救わなかった。帝は震怒し、巴忠は水に投じて死に、鄂輝・成徳・保泰は職を奪われた。五十七年六月、福康安は擦木・瑪爾轄で戦って済竜に至り、成徳も聶拉木から転戦して後蔵の失地を回復し、七月には七百余里を落とした。八月、国都まで一日の行程の熱瑣橋で、福康安は驕って輿に乗り羽扇を揮って戦を督し、襲われて大敗し、台斐英阿以下十余人が陣没した。南隣の披楞に檄して挟撃させると、廓爾喀は再び和を議し、盟を結んで軍を還した。
編者はいう、この役では巴忠が先に国を辱め、福康安が後に軍を敗った。それでもなお披楞の干渉によって事は転圜できた。遠く異域に兵を用いる者は、これを戒めとしないでよかろうか、と。
年表
乾隆三十二年(1767年)から五十七年(1792年)まで、緬甸・暹羅・安南・廓爾喀という西南の諸国に清が兵を用い、やがて服属させた経緯を記す。緬甸では劉藻・楊応琚・明瑞が相次いで敗れ、明瑞は小猛育で自殺し、経略の傅恒も戦果なく病没したが、乾隆五十三年(1788年)に緬甸が入貢し楊重英が二十年の抑留を解かれて帰された。同年、孫士毅が安南に出兵して黎維祁を復位させたが翌年阮文恵に破られ、清は阮光平を安南国王に封じて和した。五十六年からは福康安が廓爾喀を討ち、熱瑣橋で敗れつつも披楞と挟撃して和議を結び軍を還した。
年表(8件)
- 西暦1767年 高宗乾隆三十二年明瑞を将軍兼雲貴総督として永昌に赴かせ、緬甸の軍務を引き継がせる
- 西暦1768年 乾隆三十三年明瑞の軍が小猛育で潰え、観音保らが戦死し明瑞は自殺する
- 西暦1769年 乾隆三十四年傅恒が雲南を経略し、緬甸の懵駁が書を送って和を請うたのを許す
- 西暦1770年 乾隆三十五年彰保の遣わした使者を緬甸が拘留し、和を唱えた阿桂は職を奪われる
- 西暦1788年 乾隆五十三年緬甸の使臣が参内して入貢し、孫士毅に命じて安南へ出兵させる
- 西暦1789年 乾隆五十四年阮文恵の襲撃で孫士毅は敗走し許世亨が戦死、のち阮光平を安南国王に封じる
- 西暦1791年 乾隆五十六年福康安を将軍として廓爾喀の征討に赴かせる
- 西暦1792年 乾隆五十七年福康安が後蔵を回復し泥泊爾に侵入するが、熱瑣橋で敗れ和を許して軍を還す
現代語訳全文
西暦1767年 高宗乾隆三十二年
- 春三月、詔して明瑞に将軍として雲貴総督を兼ねさせ、永昌に赴いて緬甸(ビルマ)の軍務を引き継いで処理させた。
- 緬甸は古の朱波の地で、後インド半島の諸国の一つであり、古来中国と通じなかった。宋の寧宗のときに、はじめて史書の記載に見える。元の世祖がかつて征討に赴き、貢賦を責め求めた。明のときには三つの宣慰司を設けてこれを羈縻した。しかし万暦二十二年ののちは朝貢が久しく絶えた。康熙元年に明の永暦帝由榔を捕らえて中国に引き渡してから、双方の関係はついに絶えた。
- 雍正九年、その国は整邁と兵を交え、その頭目の蟒占灯が中国の守備である燕鳴に会い、国王が翌年に貢を進めると告げたけれども、結局は来なかった。乾隆十五年、はじめて茂隆銀廠の廠長である呉尚賢の紹介によって、表を添えて総督に伝え、外藩となることを願い出た。ちょうどその国では木疏部長の甕籍牙の革命軍が起こり、尚賢もまた廠の課税を私腹に収めた事で下獄し、この事もまた中止となった。
- 十九年、甕籍牙が国都を回復すると、諸土司はあいついで降服したが、ただ貴家と木邦の二土司だけが年を重ねて抵抗した。貴家というのは、先に永暦帝に従って緬甸に入った貴族で、その子孫が緬甸に沈淪し、自ら貴家と称し、代々波竜銀廠を占拠して、その財力は諸部に雄たるものであった(底本は「此貲」に作る。「其貲」の誤りか)。二十七年、甕籍牙に戦い破られ、孟速の地方に逃げ込んだ。内附しようと計ったが、総督の呉達違善(呉達善の誤りか)が、その酋長である宮裏襄雁に七宝の鞍を求め、得られなかったので、おびき出してこれを殺し、その妾や侍女を奴隷にし、あわせて緬甸人に檄を送って裏雁の妾である攮占を捕らえて献じさせた。そのとき甕籍牙はすでに死に、その子の莽紀覚が跡を継いでおり、攮占はすでに莽酋の弟の懵駁に嫁いでいた。ここに至って懵駁は、達善が意図的に自分の妻の淫行を指摘したものとして大いに憤り恨み、しばしばその酋長をそそのかして内地に侵入させた。達善は後に敗戦が続いて前の事が露見することを恐れ、辺境の将に戦うなと戒めた。緬甸人はこれ以来いよいよ中国を軽んずる心をもった。
- 三十年に至り、ついに大挙して九竜江方面に侵入した。そのとき達善はすでに川陝総督に移っており、劉藻がこれに代わって、兵を発して防ぎ戦ったが、三路ともに敗れた。三十一年、朝廷は大学士の楊応琚に雲南を督するよう命じ、藻はそこで憂え恐れて自ら首をはねて死んだ。ちょうど緬甸軍が疫病にかかって退き去ったので、応琚はそのあいだに車里・孟良などの地を回復することができた。そこでたやすく勝てるのに慣れ、上疏して緬甸は取れる情勢だと述べた。帝はこれを信じた。応琚は緬邦に檄を移して、精兵数十万が国境上に陣を布いている、降らなければただちに進んで討つと言った。ここにおいて緬甸人はそこで大いに兵を出して木邦・景線を攻め、いずれもこれを陥れ、また水軍をもって新街に迫った(「簿」は「薄」の誤りか)。守将の趙宏榜は逃げて、虎踞関の内に還った。応琚は急報を聞くと、そのまま精神の病にかかり、詔して両広総督の楊廷璋を雲南に赴かせて代わって軍を治めさせた。ところが緬甸人が偽って停戦を乞い、応琚の病もしだいに癒えたので、そのまま勝報を奏し、廷璋は帰った。応琚はしきりに緬甸人と和議を結んで、前の上奏の辻褄を合わせようとしたが、緬甸人の侵略はやまなかった。帝はその偽りを察し、明瑞をこれに代えるよう命じ、応琚を逮捕して京に戻し、まもなく死を賜った。
- この年、緬甸は暹羅(シャム)を襲い、その国都を陥れ、その国王の馬鄰達刺を追い出し、守備の兵を置いて還った(底本はここに「刺」の一字が重ねてある)。暹羅は、もとの隋唐の赤土国で、のちに暹と羅斛の二国に分かれた。元のはじめ、暹はしばしば入貢した。元の末、羅斛が強くなり、その王の波羅吉が暹の地を併合し、暹羅斛国と称し、湄南河のほとりの猶地亜に都した。明のときは、朝貢が絶えなかった。洪武二年、号を暹羅と改めた。康熙十二年に中国の冊封を受けてから、貢使がしばしば至った。もともと緬甸の近い隣国である。かつて緬甸に破られ、緬甸の附庸となった。のちに独立した。ここに至り、その国王が民をよく慰撫しなかったため、国民はつねに二心を抱いており、緬甸人が再び機に乗じてまたこれを破ったのである。
西暦1768年 乾隆三十三年
- 春二月、明瑞の兵が小猛育で潰え、大将の観音保らはみな戦死し、明瑞は自殺した。
- 明瑞は三十二年五月に永昌に至り、作戦の計画はすでに整っていたので、まず兵一万七千を率いて出発し、宛頂から木邦に向かい、参賛の額爾景額に九千人を率いさせて虎踞関から猛密に向かわせた。十二月に木邦に至ると、守兵は風を望んで先に逃げ、兵五千を留めてこれを守らせ、勝ちに乗じて錫箔江を渡って象孔に至った。道に迷ったため、猛密の援兵を待ってから進むこととし、そこで軍を返して猛籠に向かった。そのとき額爾景額は猛密の北の老官屯に進み駐まり、敵に囲まれ、そのためふさぎ憤って死に、その弟の額爾登額がこれに代わって、兵を止めて進まなかった。明瑞は援軍を待ち望んだが至らず、敵兵の迫ることは日ごとに急であった。この年の正月、そこで再び猛籠を棄てて木邦に向かって帰ろうとし、小猛育の地方まで来たところで、木邦に留めた守備兵がすでに敵の襲撃を受けて潰え、参賛の珠魯訥が殺され、道員の楊重英が捕虜になったことを聞いた。明瑞は進退ともに窮し、そのまま自殺した。その部下一万余人はことごとく潰え、領隊大臣の観音保以下十余人がみな戦死した。事が聞こえると、額爾登額を逮捕して京に至らせ、磔にし、あわせて提督の譚五格を市で斬った。
西暦1769年 乾隆三十四年
- 春正月、大学士の傅恒に雲南へ赴いて軍務を経略するよう命じた。
- そのとき、暹羅に流れ住んでいた中国人の鄭昭が兵を起こして暹羅のために仇を報い、猶地亜を回復して緬甸の守備兵を追い払い、盤谷(バンコク)に新しい都を建てた。もともと緬甸はそのとき暹羅と兵を交えており、重ねて中国と怨みを結ぶことを望まなかったので、三十三年四月に蒲業の緬文の書を具えて和を求めた。そのとき副将軍の阿里袞はすでに軍に到着しており、ただちにこれに拠って奏聞したが、許されなかった。六月なかば、参賛の舒赫徳、総督の鄂寧が緬甸人を招き寄せる事をひそかに述べたが、のちに厳しい旨のお達しを被った。やがて副将軍の阿桂が到着し、暹羅と同盟して緬甸を挟み撃ちにする議を唱えたが、のちにやはり実行できなかった。
- 冬十一月、経略の傅恒が、緬甸の酋長である情駁(懵駁の誤りか)が人を遣わして書を差し出し和を請うたことを奏報し、これを許した。
- これより先、傅恒は七月に本省および四川・貴州の兵と満洲兵、合わせて六万余りを引き受け、雲南省から出発し、戛鳩・楽丹に至って筏を組むこと十余日でようやく終え、猛拱・猛養を経て、歴たところ二千余里に緬甸兵はおらず、そのまま十月に大金江を渡って蛮暮に回った。この役では、走り回ること百七十余日、軍の力は疲れ果てて、しかも一度も戦わず、経略の名誉はたちまち損なわれ、恵(「袞」すなわち阿里袞の誤りか)は病を得た。
- 続いて阿桂が戦艦百艘を率いて到着し、敵の舟と江中で大いに戦い、続けざまにこれを破り、進んで老官屯の敵塁を攻めた。敵は柵を立てて自ら固め、長く攻めても落ちなかった。敵は水門を開いて舟を通し糧食や武器を運び、阿桂は戦艦を割いて柵を越えさせこれを断ち切った。敵はそこで人を遣って柵の上に立たせ、緬文の書を手渡して、中間の地に幕を張り、将軍らに出向いて和議の条件を話し合ってほしいと請うた。そのとき阿里袞はすでに死に、傅恒もまた病が重く、諸将は兵の多くが瘴気に冒され、日ごとに死者が出ていたので、争って和を許すよう請うた。恒はそこで使いを遣って、緬甸の帥である眇旺模に、表を進めて貢を納めること、土司の地を返すことなどの諸事を責め求めたが、言葉が終わらぬうちに、眇旺模は左を顧みて去った。ちょうど詔があって傳(「傅」の誤りか。傅恒を指す)を朝廷に召し還したので、そのまま議はやめとなった。恒は帰ってまもなく、憂え憤って死んだ。
西暦1770年 乾隆三十五年
- 春正月、雲貴総督の彰保が使いを緬甸に遣って和議を行わせたが、緬甸人はその使いを拘束して帰さなかった。保は守備の蘇爾相を遣って、先の三か条の約束を催促させたが、彼も拘留された。帝は大いに怒り、再び出兵を議したが、阿桂が先に停戦を首唱したことから、その職を剥奪して兵卒に落とした。ちょうど金川の事が起こったので、そのまま南征の議はやめとなった。
西暦1788年 乾隆五十三年
- 秋九月、緬甸の使臣である細哈覚控らが参内して謁見した。
- これより先、四十一年に金川が平定されると、帝は阿桂を雲南に赴かせ、総督の李侍尭と会同して辺境を検分し兵を増やして進攻の計としたが、緬甸人が蘇爾相を放って帰したので、事はそのままやんだ。四十四年に至って、緬甸王の懵駁が死に、その国では内乱がしばしば起こり、四十七年には再び暹羅に破られた。暹羅王の法亜査克利は中国に貢を通じ、あらためて中国の冊封を得た。ここにおいて緬甸人はいよいよ恐れた。ここに至って使いを遣って入貢し、あわせて楊重英らを釈放して帰すことを承諾した。
- 重英は緬甸に陥って以来、ひとり寂しい寺に住むこと二十年、緬甸人はその降伏を説いたが屈せず、婿に迎えようとしたのも受けつけなかった。先に重英が捕虜になったとき、緬甸人はその随員二人を放って帰した。帝はこれを国境の上で磔にするよう命じ、しかも雲貴総督に、後日重英が帰ったときもこのとおりに処置せよと諭していた。ここに至って帝の怒りはすでに解け、重英の職を回復し、しかもその忠を表彰し、その節操は蘇武に勝ると言い、自ら「蘇楊論」を作ってこれを褒めた。重英は都の門に入らぬうちに死んだ。その家族で囚われ繋がれていた者もまた二十年になっており、このときはじめて赦されて出た。
- 冬十月、両広総督の孫士毅に命じて安南に出兵させた。
- 安南は古の交趾の地で、暹羅の東にある。明の永楽のとき、かつて中国に滅ぼされた。宣徳三年、黎利が兵を起こして独立し、大越国を再建した。嘉靖のとき、莫登庸が国を簒奪し、河内に拠って北朝となり、黎氏は清華州に拠って南朝となり、これ以来大越は南北朝に分かれた。万暦のなか、南朝の将である鄭松が莫氏を追い払って河内を回復したが、阮潢が順化に拠って広南王と称し、ここにおいて安南は大越・広南の二国に分かれた。康熙五年に至って、大越王の黎維禧を安南国王に封じ、はじめて朝貢が通じた。乾隆三十八年、広南の土豪である阮文岳がその弟の文恵・文慮とともに兵を起こして広南を覆し、その地を三分し、自らは中部に拠って大帝と称し、南部を文慮に与え、文恵には、北安南の鄭棟がかすめ取っていた北部の三州を回復させた。五十三年、文恵は再び兵を挙げて安南を滅ぼし、安南の嗣王である黎維祁は民間に逃げ亡んだ。ここに至ってその遺臣の阮輝宿が王族二百余人を護衛して、広西の竜州の付近から国境の内に入り、士毅がこれを奏聞した。帝は、黎氏が藩屏を守り貢を奉じること百余年であったから、中国にはこれを保護する義務があるとして、そこでその家族を南寧に住まわせ、士毅に出師を命じ、別に雲南提督の烏大経に命じて兵八千をもって蒙自から進ませ、入って宣化鎮に駐屯して後援とさせた。兵二千を留めて諒山を守らせ、八千をもって河内を直接衝かせた。
- 十一月、孫士毅が安南を回復し、詔して黎維祁を安南国王に封じた。士毅は兵を統べて関を出、諒山鎮から道を分けて進発し、道すがら安南の国民の歓迎を受け、提督の許世亨はそこで八千人をもって長駆して深く入ることができ、一か月を越えずに東京(トンキン)を回復した。士毅は勅旨を受けて維祁を安南国王に封じ、広西巡撫の孫永清に檄を伝えてその家族を帰らせた。
西暦1789年 乾隆五十四年
- 春正月、阮文恵が安南を襲い、孫士毅は逃げて鎮南関に入り、提督の許世亨が戦死した。
- これより先、東京の勝報が聞こえたのち、詔して士毅に兵を収めるよう命じたが、士毅はみだりに文恵が降伏を乞うという話を信じ、軍を河内に駐めて待ち、また驕って備えを設けなかった。この日、軍中はちょうど酒を置き楽を奏して元日の祝典を挙げていたが、夜に突然、阮の兵が大挙して至ったという急報を得て、はじめてあわてて戦の備えをし、暗闇のなかで味方どうし踏みにじり合った。維祁は家族を連れて先に富良江を渡って国境の内に入り、士毅がこれに従った。渡り終えると、士毅は浮き橋を断ち切って後方を絶つよう命じた。ここにおいて南岸にいた兵は提督以下、溺死する者五千余人に及んだ。雲南の軍は、黎の人である黄文通が道案内をしたので全員が帰ることができた。士毅は上疏して自ら弾劾し、京に入るよう命ぜられ、福康安がこれに代わった。
- 夏六月、阮光平を安南国王に封じた。文恵は安南を占拠したのち、ちょうどその兄の文岳が暹羅と兵を交えていたので、中国が再び兵を挙げることを恐れ、そこで名を光平と改め、兄の子の光顕を遣って関門を叩かせ総督のもとに至らせ、「広南を守ること既に九世、安南とは敵対する国どうしであって、君臣の名分があるわけではない」と言わせた。帝もまた、維祁が再び国を失ったのは天が黎氏を厭うたのであり、維祁は扶け立てるに堪えないとし、また以前の軍事上の失敗に鑑みて、さらに兵を用いる意志がなくなっていた。そこで光平に、来年の万寿節には光平自身が京師に至って祝賀すべきこと、および安南に許士亨(許世亨の誤りか)らのための祠を立てることなどの諸事を求めた。光平はことごとく命に従った。ここに至って光平に印を賜い、安南国王に封じ、維祁の家族は漢軍旗に編入して佐領を授けた。
西暦1791年 乾隆五十六年
- 冬十一月、福康安を将軍とし、海蘭察・奎林を参賛として、廓爾喀(グルカ)を征討に赴かせた。
- これより先、西蔵の南境のヒマラヤ山の南麓に蛮民が住んでおり、多数の部落を分け立てていた。そのなかで泥泊爾部が最も強かったが、のちに三部に分かれ、しばしば内訌があった。その西隣の廓爾喀が隙に乗じてこれを滅ぼし、そのまま諸部に雄長となった。乾隆五十三年、後蔵の班禅の一族にたまたま遺産を争奪する事があり、廓爾喀は再び兵を起こして後蔵に侵入した。帝は四川総督の鄂輝、成都将軍の成徳に命じて兵を統べてこれを討たせ、侍郎の巴忠にその軍を監督させた。巴忠は近臣であることを恃み、鄂輝・成徳の統属に服さず、勝手に堪布(僧官)を遣って歳幣一万五千金を与えることを約束し、しかも敵が降伏したかのように飾って奏上した。翌年、歳幣が届かず、廓爾喀は大挙して深く侵入した。駐蔵大臣の保泰は兵を擁しながら救わず、あわせて班禅を前蔵に移そうとしたが、幸いにラマが承知しなかった。ここに至って事が聞こえ、帝は震怒した。巴忠はそのとき熱河に行幸の供をしていたが、罪を恐れて水に身を投げて死に、鄂輝・成徳・保泰の三人の職を剥奪し、保泰の名を浮習渾と改めさせ、福康安に道を兼ねて急ぎ進むよう命じた。
西暦1792年 乾隆五十七年
- 春三月、福康安を大将軍に進めた。
- 夏六月、福康安は青海から後蔵に至り、廓爾喀の駐屯兵を続けて破り、蔵の地をことごとく回復し、そののち兵を三道に分けて泥泊爾に侵入した。福康安は四月に出師し、まず領隊大臣の成徳・岱森を遣って聶拉木から進ませ、総兵の諸神保を絨轄に駐めて敵が後方の道を回り込んで襲うのを防がせ、自らは海蘭察とともに擦木で敵と戦い、また瑪爾轄で戦い、まっすぐ済竜に至った。成徳もまた聶拉木から転戦して入り、後蔵で失った地はことごとく回復された。
- 秋七月、福康安は続けて噶勒拉・堆補木・特帕朗古橋・甲拉古拉・集木集などの地、七百余里を攻め落とした。福康安が敵の境内に入ってから、敵は国を挙げて噶多溥で防ぎ止めようとした。福康安は海蘭察を遣って戦わせ、大いにこれを破り、そのまま木の城と石の砦数十を落とし、敗走する敵を追って雍雅山に至った。敵は使いを遣って和を請うたが許さなかった。ここに至って糧を携えて再び進み、六たび戦っていずれも勝った。
- 八月、福康安は熱瑣橋で敗れ、披楞部に檄を伝えて廓爾喀を挟み撃ちにさせ、廓爾喀が再び和を請うたので、これを許し、そのまま軍を還した。
- 軍が進んで熱瑣橋に至ったとき、その国都である可莽多まではわずか一日の行程であった。福康安は出師以来、勢いは竹を割くようだと思い、たいそう驕り高ぶり、輿に乗り羽扇を揮って戦を督し、兵はみな弓袋・矢筒を解き、火銃を背負って休んでいた。敵が隙に乗じて攻め込み、味方はそのまま大敗し、護軍統領の台斐英阿以下、陣没した者は十余人であった。そのとき、敵の南境の隣部である披楞が敵と積年の仇があると聞き、福康安はそこで檄を伝えて同時に進攻させた。敵は南北から窮することを恐れ、再び人を遣って和を議した。盟約を結び、そのまま軍を還した。
史論(編者曰)
- この役では、巴忠が先に国を辱め、福康安が後に軍を敗った。それでもなお披楞の干渉のおかげで、事は転圜(巻き返して丸く収めること。底本は「転問」に作る。誤りか)することができたのである。遠く隔たった異域に兵を用いる者は、これを引いて戒めとしないでよかろうか。
原文(底本)
高宗乾隆三十二年,春三月,詔明瑞以將軍兼雲貴總督,前往永昌,接辦緬甸軍務。緬甸,古朱波地,爲後印度半島諸國之一,自古不通中國。宋寧宗時,始見史志。元世祖嘗往征,責貢賦。明時設三宣慰司以羈縻之,然萬曆二十二年後,朝貢久虛,自康熙元年,執送明永歷帝由榔交中國後,兩方之關係遂絕。雍正九年,其國與整邁搆兵,其頭目蟒占燈遇中國守備燕鳴,雖告以國王明年進貢之語,而卒未至。乾隆十五年,始以茂隆銀廠廠長吳尚賢之介紹,附表達總督,願充外藩 適其國木疏部長甕籍牙革命軍起,尚賢亦以中飽廠課事下獄,事又中止。十九年,甕籍牙既恢復國都,諸土司相率降服,惟貴家與木邦二土司抵抗累歲。貴家者,前隨永歷帝入緬之貴族,子孫淪於緬,自署曰貴家,世據波竜銀廠,此貲雄諸部。二十七年,為甕籍牙所戰敗,竄居孟速地方。為內附計,而總督吳達違善,索七寶鞍於其酋宮裏襄雁,不得,遂誘而殺之,奴其妾婢,並檄緬人擒獻裏雁之妾攮占。時甕籍牙已死,其子莽紀覺嗣,攮占已適莽酋弟懵駁,至是懵駁以達善有心指責其妻淫行,大忿恨,乃時嗾其酋內犯。達善恐後連敗露前事,戒邊將毋與戰。緬人自是益心輕中國。至三十年,遂大舉入犯九龍江方面。時達善已移督川陝,劉藻代之,發兵防戰,三路皆敗。三十一年,朝命大學士楊應琚督滇,藻遂以憂懼自刎死。會緬軍病疫退去,應琚得以其間,收復車里、孟良等地,乃狃於易勝,疏陳緬甸可取狀。帝信之,應琚移檄緬邦,言精兵數十萬陳境上,不降即進討。於是緬人乃大出兵攻木邦、景線,皆陷之,又以舟師簿新街,守將趙宏榜遁,還虎踞關內。應琚聞警,遂構精神病,詔粵督楊廷璋赴滇代治軍。而緬人詐乞罷兵,應琚病亦漸愈,遂奏捷,廷璋乃歸。應琚亟欲與緬人議和,以彌縫前奏,然緬人侵略不止,帝察其偽,令明瑞代之,逮應琚回京,尋賜死。是年,緬甸襲暹羅,陷其國都,逐其國王馬鄰達刺,置守兵而還刺。暹羅,故隋唐赤土國,復分為暹與羅斛二國。元初,暹常入貢。元末,羅斛強,其王波羅吉併有暹地,稱暹羅斛國,都湄南河濱之猶地亞。明時,朝貢不絕。洪武二年,更號暹羅。自康熙十二年受中國封,貢使頻至,故為緬甸近鄰。嘗為緬甸所破,為緬附庸。後獨立。至是因其國王不善撫眾,國民時懷二心,緬人復乘機又破之。 三十三年,春二月,明瑞兵潰於小猛育,大將觀音保等皆戰歿,明瑞自殺。明瑞以三十二年五月至永昌,作戰之計劃已就,遂先將兵萬七千出發,由宛頂向木邦 http://ctext.org/library.pl?if=gb&file=18632&by_title=%E6%B8%85%E5%8F%B2%E7%B4%80%E4%BA%8B%E6%9C%AC%E6%9C%AB&page=53 使參贊額爾景額將九千 人由虎踞關向猛密十二月至木邦守兵望風先遁留兵五千守之乘勝渡錫箔江至象孔以迷 道故待猛密援兵而後進乃囘軍向猛籠時額爾景額進次猛密北之老官屯爲敵所困因幽恚 死其弟額爾登額代之頓兵不進明瑞盼援不至而敵兵迫日急是年正月乃復棄猛籠向木邦 以歸行至小猛育地方聞木邦留守兵已爲敵襲潰戕參贊珠魯訥道員楊重英被擄明瑞進退 受困遂自殺所部萬餘人悉潰領隊大臣觀音保以下十餘人皆死之事聞逮額爾登額至京磔 之並斬提督譚五格於市 三十四年春正月命大學士傅恆前往雲南經略軍務時暹羅流寓中國人鄭昭起兵爲暹羅復 讐回復猶地亞驅逐緬甸守兵建新都於盤谷故緬甸時與暹羅搆兵不欲再結怨於中國遂以 三十三年四月具蒲業緬文求和時副將軍阿里衮已至軍卽據以聞不許六月中參贊舒赫德 總督鄂寧宻陳招致緬人事後被嚴旨已而副將軍阿桂至倡與暹羅連盟夾攻緬甸之議後亦 未克實行 冬十一月經略傅恆奏報緬酋情駁遣人呈書請和允之先是傅恆以七月奉本省 四川貴州滿洲兵共六萬有奇自滇省起行至戛鳩樂丹結筏十餘日乃畢由猛拱猛養所厯二 千餘里無緬兵遂以十月渡大金江囘蠻暮是役也奔走百七十餘日軍力疲乏而未嘗一戰經 略名譽頓損惠得病繼而阿桂率戰艦百艘至與敵舟大戰於江中連破之進攻老官屯敵壘敵 豎栅自固攻久不克敵開水門通舟運糧械阿桂撥戰艦越栅截之敵人乃遣人立栅上遞緬文 請張幕適中地將軍等往議欵時阿里衮已故傅恆又病重諸將以兵多染瘴日有死亡爭請許 和恆乃遣使責緬帥眇旺模以進表納貢返土司地諸事語未竟眇旺模左顧而去會有詔召傳 還朝遂罷議恆歸未幾以憂恚死 三十五年春正月雲貴總督彰保遣使往緬甸議和緬人拘其使不遣保遣守備蘇爾相往督前 三約爲所拘留帝大怒復議興師以阿桂前首倡罷兵褫職降爲兵會金川事起遂罷南征議 五十三年秋九月緬甸使臣細哈覺控等入覲先是四十一年金川平帝遣阿桂赴雲南會同總 督李侍堯勘邊增兵爲進攻計緬人縱蘇爾相還事乃已至四十四年緬王懵駁死其國內亂屢 作四十七年復爲暹羅所破暹羅王法亞查克利通貢中國復得中國冊封於是緬人益懼至是 遣使入貢並許釋歸楊重英等重英自陷緬獨居蕭寺二十年緬人說其降不屈欲贅爲婿亦不 可前重英被擄緬人縱其隨員二人還帝命磔諸境上且諭令滇督他日重英歸卽照此辦理至 是帝怒已解復重英職且旌其忠謂其節過蘇武親製蘇楊論以褒之重英未及入國門而卒其 眷屬囚繫者亦二十年及是始赦出 冬十月命兩廣總督孫士毅出兵安南安南古交趾地在 暹羅之東(今法領亞細亞地也)明永樂時嘗爲中國所滅宣德三年黎利起兵獨立重建大越國 嘉靖時莫登庸篡國據河內爲北朝黎氏據清華州爲南朝自是大越分爲南北朝萬厯中南朝 將鄭松逐莫氏復河內而阮潢據順化稱廣南王於是安南分爲大越廣南二國至康熙五年賜 封大越王黎維禧爲安南國王始通朝貢乾隆三十八年廣南土豪阮文岳與其弟文惠文慮起 兵覆廣南三分其地自據中部稱大帝以南部與文慮使文惠回復北安南鄭棟竊據之北部三 州五十三年文惠復舉兵滅安南安南嗣王黎維祁出亡民閒至是其遺臣阮輝宿扈王族二百馀 人自廣西龍州附近入邊士毅以聞帝以黎氏守藩奉貢百餘年在中國有保護之義務乃安置 其家屬於南寧命士毅出師而別命雲南提督烏大經以兵八千由蒙自進入屯宣化鎮爲聲援 留兵二千守諒山以八千直擣河內 十一月孫士毅復安南詔封黎維祁爲安南國王士毅統 兵出關自諒山鎮分道進發沿途得安南國民之歡迎提督許世亨遂得以八千人長驅深入不 踰月而恢復東京士毅承旨封維祁爲安南國王檄廣西廵撫孫永清歸其家屬 五十四年春正月阮文惠襲安南孫士毅遁入鎮南關提督許世亨死之先是東京捷聞後詔士 毅罷兵而士毅妄信文惠乞降之說駐師河內以待又驕不設備是日軍中方置酒張樂舉元日 祝典夜忽得警報稱阮兵大至始倉卒備戰昏暗中自相蹂躪維祁挈家先渡富良江入邊士毅 隨之旣渡士毅令斬浮橋以斷後於是兵在南岸者自提督以下溺死至五千餘人其雲南之師 以黎人黃文通嚮導得全返士毅上疏自劾命入京以福康安代之 夏六月封阮光平爲安南 國王文惠旣據安南適其兄文岳方與暹羅搆兵恐中國再舉乃更名光平遣兄子光顯敂關詣 督臣言守廣南已九世與安南敵國非有君臣之名分帝亦以維祁再失國乃天厭黎氏維祁不 堪扶植又鑒於前此軍事上之失敗更無意用兵因責光平以來年萬壽光平當詣京師祝釐及 爲許士亨等立祠安南諸事光平悉聽命至是賜光平印封安南國王而編置維祁家屬於漢軍 旗授佐領 五十六年冬十一月命福康安爲將軍海蘭察奎林爲參贊往征廓爾喀先是西藏南境喜馬拉 耶山之南麓有蠻民居之分建多數部落其中泥泊爾部最強後分三部時有內訌其西鄰廓爾喀 乘閒滅之遂雄長諸部乾隆五十三年後藏班禪族屬適有爭奪遺產之事廓爾喀復興兵侵入後 藏帝命川督鄂輝成都將軍成德統兵勦之以侍郎巴忠監其軍巴忠恃近臣不服鄂與成統屬 自遣堪布許以歲幣萬五千金而以敵降飾奏翌年歲幣不至廓爾喀大舉深入駐藏大臣保泰 擁兵不救倂欲移班禪於前藏 賴剌麻不可至是事聞帝震怒巴時扈駕熱河畏罪投水死褫 鄂成保三人職改保名爲浮習渾(譯言卑賤)命福康安兼程進 五十七年春三月晉福康安爲大將軍 夏六月福康安由靑海至後藏連破廓爾喀屯兵盡復 藏地後分兵三道侵入泥泊爾福康安以四月出師先遣領隊大臣成德岱森由聶拉木進總兵 諸神保駐絨轄防敵人抄襲後路而自與海蘭察與敵戰於擦木又戰於瑪爾轄直抵濟龍成德 亦由聶拉木轉戰而入凡後藏所失地悉復 秋七月福康安連克噶勒拉堆補木特帕朗古橋 甲拉古拉集木集等處七百餘里福康安自入敵境敵舉國來拒於噶多溥福康安遣海蘭察戰 大敗之遂克木城石卡數十追奔至雍雅山敵人遣使請和不許至是裏糧再進六戰皆捷 八 月福康安敗績於熱瑣橋檄披楞部夾攻廓爾喀廓爾喀再請和許之遂班師師行至熱瑣橋距 其國都可莽多僅一日程福康安以爲出師以來勢如破竹甚驕滿擁肩輿揮羽扇督戰兵皆解 櫜鞬負火鎗以息敵乘閒入遂大敗護軍統領台斐英阿以下陣殁者十餘人時聞敵之南境鄰 部披楞與有夙讐福康安因檄其同時進攻敵恐南北受困再遣人議和旣盟遂班師 編者曰是役也巴忠旣辱國於前福康安復僨師於後猶賴披楞干涉事克轉問用兵絕域者 可不引以爲戒歟
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