清史紀事本末台湾、林爽文の乱(台湾林爽文之乱)

要約

乾隆五十一年冬十一月、台湾彰化の住民の林爽文が乱を起こし、彰化・諸羅・淡水を陥れ、鳳山の住民の荘大田も鳳山に拠って応じた。爽文は彰化の大族で、天地会と号する結社を結んでいた。知府の孫景燧が捕らえに行かせ、村を焼くと脅したので、爽文は民衆の怒りに乗じて夜襲し、官軍を覆滅した。翌日、彰化を陥れ、まもなく諸羅も陥れて景燧らを殺した。爽文は自ら明主大元帥と称し、大田と府城に向かうと約した。

五十二年正月、二人は水陸から台湾府に迫ったが、柴大紀は要衝の塩埕橋で防ぎ一千余を殺した。黄仕簡・任承恩が様子見をする間に大紀が彰化・諸羅などを回復したので、帝は二人を解任し、常青に師を督させ、大紀・郝壮猷に水陸の提督を分け持たせた。三月、藍元枚を福建陸路提督に授け、大紀の署理を壮猷に代えた。壮猷は鳳山を再び失って逃げ帰り、仕簡・承恩とともに逮えられ、壮猷だけが斬られた。四月、常青を将軍とし、六月、大紀を福建陸路提督に補し、七月に参賛とした。

常青は敵に遇うと退いて増兵を請い、敵は十余万に増えた。爽文が諸羅を攻めたが大紀が守って陥ちず、援兵は進まず、恒瑞は敵勢を誇張して六万を請うた。常青はもと和珅の息のかかった者で、二度も城を棄てて逃げようとし、ひそかに珅に交代を哀願したので、八月、福康安・海蘭察が代わった。十一月、諸羅を嘉義と改め、大紀を一等義勇伯に封じた。大紀は城兵四千で十余万に当たり、糧が尽きれば落花生やさつまいもで飢えをしのいで半年孤城を守り、城を出よとの詔にも、諸羅を失えば府城も危うく、義民四万を敵に委ねられない、と奏した。帝は涙を流し、大紀はただ国事と民生を重んずるのみを知る、と詔した。海蘭察は崙仔嶺・牛稠山で破って諸羅の囲みを解き、十二月に斗六門・大理杙を落としたが、福康安が追撃を止めた隙に爽文は険に拠った。

五十三年正月、海蘭察は爽文らを箐谷で生け捕り、二月には琅橋まで追って大田も捕らえ、台湾は平らいだ。七月、参賛・一等伯の柴大紀を殺した。福康安が至ったとき、大紀は参賛・伯爵の身として纛鞬の礼を執らなかった。福康安はその奏報が事実と違い民を激して変を起こさせたと弾劾した。帝ははじめ福康安が大紀にあら探しをし恒瑞をかばうと疑ったが、徳成・額勒登保の讒言を容れ、擬したとおり斬らせた。嘉義を救わなかった恒瑞、軍律を失った常青・仕簡・承恩らは、かえって死を免れ、あるいは抜擢された。

年表

乾隆五十一年(1786年)から五十三年(1788年)まで、台湾彰化の豪族で天地会を率いた林爽文が挙兵し、鳳山の荘大田がこれに応じて島の大半を席巻した事件を記す。総兵柴大紀は塩埕橋で敵を防ぎ、諸羅(のち嘉義と改称)の孤城を半年にわたり守り抜いて称賛されたが、黄仕簡・任承恩・郝壮猷・常青ら歴代の統帥は様子見と敗退を重ねた。最後に将軍福康安と参賛大臣海蘭察が渡台し、崙仔嶺・斗六門・大理杙で連勝して林爽文を箐谷で、荘大田を牛荘で捕らえ、乱は平定された。しかし柴大紀は福康安と不和になって弾劾され、讒言もあって処斬され、軍律を失った者たちがかえって死を免れるという顛末に終わる。

年表(3件)

現代語訳全文

西暦1786年 高宗乾隆五十一年

  • 冬十一月、台湾彰化の住民である林爽文が乱を起こし、彰化・諸羅・淡水を陥れた。鳳山の住民である荘大田も兵を起こしてこれに応じ、鳳山に拠った。知府孫景燧、都司王宗武、同知程峻、長庚劉亨基、知県董啓埏・湯大奎、巡検馮啓宗らはこれに遭った(底本は「等焉」で動詞を欠く。「皆死せり」などの脱字か)。
  • 爽文は彰化の大族で、代々この県の大理杙荘に住み、豪富でその地方に威を張っていた。人々を集めて秘密の結社を結び、『天地会』と号した。数十年を重ねても、役人であえてこれを問いただす者はいなかった。
  • のちに知府孫景燧の耳に入り、程峻および副将赫生額、遊撃耿世聞に檄を飛ばして、兵役を率いて捕らえに行かせた(「補」は「捕」の誤りか)。だが彼らは村に入ることができず、五里外にある土の丘に営を構え、村民に対して爽文を捕らえて差し出すよう諭し、さもなくばその村をまず焼くと言い、近隣の数か村の集落をもってこれを脅した(底本「鄰近數小村聚以怵之」は動詞を欠く。「焚」の脱字か)。
  • 爽文はそこで民衆の怒りに乗じ、人々を集めて夜のうちに営を攻め、官軍は全軍ことごとく覆滅した。
  • 翌日、爽文は勢いに乗じて彰化を陥れ、まもなくまた諸羅を陥れた(「隱」は「陷」の誤りか)。景燧・宗武・長庚・亨基・永川宗(「馮啓宗」の誤りか)は、ことごとく殺された。
  • 爽文は自ら明主大元帥と称し、大田もまた鳳山に起こり、合流して府城に向かうことを約束した。

西暦1787年 乾隆五十二年

  • 春正月、林爽文・荘大田は水陸の二路に分かれて台湾府に攻め寄せた。総兵柴大紀はこれを塩埕橋で防ぎ、爽文は敗れた。
  • 爽文らの兵が府城に攻め寄せると、大紀は兵を分けて南路に赴かせて大田の手勢を防がせ、自らは軍を率いて塩埕橋で爽文を防ぎ、その兵一千余を殺した。この橋は府の役所から五十里の距離にあり、水陸交通上の要衝であって、大紀が自らここを守り、敵ははじめて府城をうかがうことができなくなった。
  • 二月、常青に命じて師を督し、台湾に渡って賊を討たせ、李侍堯を閩浙総督とし、柴大紀に水師提督を署理させ、郝壮猷に陸路提督を署理させた。
  • これより先、提督黄仕簡・任承恩は海を渡ったのち、様子見をして機会を失っていた。その間に大紀は官兵と義民を率いて彰化・鳳山・諸羅・鹿仔港・竹塹などの地を回復し、郝壮猷も南路でかなりの戦果を挙げていた。帝はこれを聞いて、仕簡・承恩に任を解くよう命じ、常青に自ら師を督させ、大紀・状猷(「壮猷」の誤りか)に水陸の提督を分け持たせた。
  • 三月、改めて藍元枚を福建陸路提督に授けた。このときの諭旨には、大紀・状猷(「壮猷」の誤りか)は仕簡・承恩らが様子見をしたのにならったところがないとはいえないとして、大紀の署理の任を解いて状猷をこれに代え、元枚は台湾の事情に詳しいので、陸路提督に調え補う、とあった。
  • 夏四月、常青を将軍として台湾軍務を督弁させ、福州将軍恒瑞、陸軍提督藍元枚を参賛とし、まもなく改めて元枚に水師提督を授け、柴大紀に陸路提督を署理させた。黄仕簡・任承恩・郝壮猷らを逮捕して罪を治め、壮猷はまもなく処刑された。
  • これより先、仕簡が台湾にいたとき、大紀に檄して北のかた諸羅を取らせ、壮猷に南のかた鳳山を取らせた。大紀は連戦して勝ちを得、ついに諸羅を回復したが、壮猷は南へ二十里出たところで敵に阻まれ、兵を留めること五十日にしてやっと鳳山に入ることができた。鳳山城はすでに空になっており、民を招いて生業に戻らせたが、賊がその中に紛れ込んだのを役人は気づかず、城はふたたび陥落した。遊撃鄭嵩・延山はともに戦死し、壮猷は府城へ逃げ帰った。ここに至って任簡(「仕簡」の誤りか)・承恩とともに逮捕され、壮猷は斬られて軍中に見せしめとされた。
  • 六月、詔して柴大紀を福建陸路提督に補授し、あわせて台湾鎮総兵事務を管させた。大紀が諸羅を回復したのち、爽文はたびたび道を分けて攻め寄せたが、大紀は連戦してこれを撃退し、殺し捕らえた数は数千を数えた。帝は深くこれを称え、そこで特に抜擢して用いたのである。
  • 秋七月、柴大紀を参賛に授け、『壮健巴図魯』の称号を賞として与えた。軍中における一切の采配が深く時宜にかなっていたからである。あわせて太子少保を加えた。
  • 八月、大学士・陝甘総督福康安に命じて将軍とし、欽差大臣関防を携えさせて台湾へ馳せ向かわせ、常青に代わって軍務を督弁させた。内大臣海蘭察を参賛大臣とし、普爾普・舒亮を領隊大臣とした。
  • 常青が台湾に至ってのち、まもなく藍元枚が死んだ。常青は恒瑞と兵を率いて南路に出たが、府城を離れること十里で敵に遇うとすぐに退き、上奏して一万の増兵を請うた。そのため敵はその隙を得て各村を蚕食し、そこで泉州出身の者で反乱に従わなかった者たちも、脅し取られて従わされた。十日ほどの間に、その勢力は急に十余万に増えた(「問」は「間」の誤りか)。
  • 爽文はこれを駆り立てて諸羅を攻めさせた。諸羅は府城北方の障壁であり、大紀が力を尽くして守ったおかげで陥落を免れた。常青は兵を遣って救援させたが、みな進もうとせず、恒瑞はまた敵方の勢いを大げさに言い立て、上奏して六万の兵を請うた。
  • 常青はもともと和珅の息のかかった者で、老いて耄碌しており、台湾にあって恐れ焦ることがはなはだしく、日夜涙を流し、城を棄てて逃げようとすること二度に及び、諸将がこれを止めた。そこでひそかに書状で珅に哀願し、他の将を代わりに遣わすよう請うた。珅がたびたびこれを奏上し(「婁」は「屢」の誤りか)、帝は二人が頼みにならないことを知り、そこで福康安・海蘭察を遣ってこれに代えたのである。
  • 冬十一月、詔して諸羅県を嘉義県と改め、柴大紀を一等義勇伯に封じ、世襲して替わることなしとした。浙江巡撫に命じて一万金をもってその家族をいたわらせた。
  • このころ爽文はたびたび大部隊で諸羅を攻め、必ず取ろうと志していた。また塩水・鹿仔などの諸港を攻めて府城への糧道を断とうとしたが、大紀はそのつど兵を分けてこれを奪い返し、淵を決して潰し(底本「決淵潰」は字を誤るか)、砲車を破り、城を守る兵四千で十余万の敵に当たった。たびたび奇計を出して賊の蓄えた糧を奪い、食糧が尽きると落花生・さつまいも・油粇で飢えをしのいだ。福康安は詔を奉じて救援に赴いたが、道半ばで留まったまま、上奏して増兵を請うてから進もうとし、厳しい旨によって許されなかった。
  • 大紀は孤城を力守してすでに半年に及んでいたが(底本「丰載」は「半載」の誤りか)、ここに至って敵方の勢いは日に日に盛んになった。詔があって、兵と民を護衛して城を出し、あらためて進み取ることを図れと命じた。しかし大紀は上奏して言った、『諸羅を失えば府城もまた危うくなります。しかも数か月来、堀を深くし塁を増して、守りははなはだ堅固です。ひとたび棄て去れば、取り返すのははなはだ困難です。しかも城内外にいる義民は四万を下りません。これを敵に委ねるに忍びません。ただ固く守って援けを待つのみです。』
  • 帝はこの上奏を読んで涙を流し、賞賜を加え、ねぎらいの言葉を尽くした。その詔には『大紀は糧が尽き勢いが絶えた時に当たって、ただ国事と民生を重んずることのみを知っている。いにしえの名将といえども、どうしてこれに加えることがあろうか……』などの語があった。
  • 冬十一月、海蘭察は賊の軍勢を崙仔嶺で大破し、さらに牛稠山でこれを破り、諸羅の囲みは解け、賊は斗六門へ逃げた。
  • はじめ、福康安が兵を統べて嘉義を救援したとき、海蘭察の策に従い、まっすぐ大理杙に至ると言いふらしておいて、ひそかに県の役所へ向かい、崙仔嶺で敵に遇った。海蘭察は勇を奮って斬り込み(「漲蘭察」は「海蘭察」の誤り)、続けて敵の軍勢を破り、その日のうちに嘉義城に至った。翌日、福康安もまた至り、爽文らは斗六門に逃げ込んで拠り守った。
  • 十二月、海蘭察は斗六門・大理杙などの地を攻め落とした。林爽文は集集埔へ逃げ込んだ。海蘭察は勝ちに乗じて斗六門を攻め落とし、そのまま大理杙を衝いた。爽文はすでに家族を連れて集集埔へ走っていた。福康安は海蘭察を止めて追わせず、人を遣って集集埔内にいる生蕃に、爽文を捕らえて差し出すよう伝え諭した。爽文らはかえってその暇に乗じて手配りをし、険しい地に拠って死守した。

西暦1788年 乾隆五十三年

  • 春正月、海蘭察は林爽文を箐谷で生け捕りにした。爽文は自ら集集埔に走り入って渓岸に拠り、石を積んだ塁を数里にわたってめぐらせていた。海蘭察は軍隊を率いて険しい地をよじ登り、爽文はその一党数十人とともに箐谷へ走った。ここに至って海蘭察は老衢崎などの地まで追い(底本は「海蘭察官追」に作る。「官」は「帥」の誤りか。「寺方」は「等處」の誤りか)、爽文らはことごとく捕らえられた。
  • 二月、海蘭察は荘大田を牛荘で捕らえた。海蘭察は林爽文を捕らえたのち、ただちに軍を移して牛荘に大田を攻め、最南の琅橋まで追い、まず舟師でその前の道を断ち、山を取り巻いて囲んだ。大田もまた捕虜となり、残党もことごとく平定され、台湾は平らいだ。
  • 秋七月、太子少保・参賛大臣・一等伯柴大紀を殺した(「參選」は「參贊」の誤り)。
  • 大紀は先に府城を保護し、嘉義県を固守した功によって、帝も廷臣もその義勇を称えない者はいなかった。ところが福康安が至ったとき、大紀の部下の官兵が出迎えたが、みな飢えて痩せ衰え、顔に血の気がなかった。大紀は自ら参賛・伯爵の身であるとして、纛鞬の礼(武将が上官を迎える礼)を執らなかった。福康安はたちまちその前後の奏報が事実と違うとして弾劾し、かえって民を激して変を起こさせた、退き縮んだ、などの罪を着せた。その文言の中には提督蔡攀龍のことも及んでいた。
  • 帝ははじめはなおこれを疑い、前後三度の詔の中で、おおよそ次のように言った。福康安は大紀らに対しては事あるごとにあら探しをし、恒瑞に対しては親戚であるがゆえに、曲げてかばい従っている。大紀らは大臣の身であり、しかもたびたび手厚い旨をもってほめられたため、いささか自ら満ち足りるところがあり、福康安の前で礼節を慎まず、そのため憎まれ、そこでまっすぐにその短所を暴かれたにすぎない、と。
  • このとき福康安はすでに大紀を斬決と定めて擬していた。帝は京に護送させて自ら訊問するよう命じたが、のちに侍郎徳成、侍衛額勒登保の讒言を容れるに及び、また大紀が京に至ったとき、その供述の中に、徳成が台湾で連日義民を取り調べ、誘って大紀の職罪(「贓罪」の誤りか)を指摘させたという語があった。帝はその引き込みをして人を陥れようとする態度に怒り、そこで福康安の擬したとおりにするよう命じ、ただちに処斬させた。
  • 一方、兵を擁しながら嘉義を救わなかった恒瑞、前後にわたって軍律を失った常青・黄仕簡・任承恩・普保吉らは、かえって死を免れ、あるいは抜擢して用いられた。
原文(底本)
高宗乾隆五十一年,冬十一月,臺灣彰化民林爽文作亂,陷彰化、諸羅、淡水。鳳山民莊大田起兵應之,據鳳山。知府孫景燧,都司王宗武,同知程峻,長庚劉亨基,知縣董啟埏、湯大奎,巡檢馮啟宗等焉。爽文彰化巨族,世居縣之大理杙莊,豪富雄一方,聚衆結祕密社,號曰『天地會』。積數十年,吏無敢問。嗣爲知府孫景燧所聞,檄峻及副將赫生額、遊擊耿世聞,帥兵役往補。不敢入,駐營於五里外土墩,諭村民擒獻,否則村且先焚,鄰近數小村聚以怵之。爽文遂因民怒,集衆夜攻營,全軍盡覆。明日,爽文乘勢陷彰化,尋又隱諸羅,景燧、宗武、長庚、亨基、永川宗悉爲所殺。爽文自稱明主大元帥,大田亦起於鳳山,約合趨府城。

五十二年,春正月,林爽文、莊大田分水陸兩路犯臺灣府。總兵柴大紀禦諸鹽埕橋,爽文敗績。爽文等兵犯府城,大紀遣兵赴南路以拒大田之衆,而自將禦爽文於鹽埕橋,殺其衆千餘。橋距府治五十里,爲水陸交通扼要之區,大紀自守之,敵始不敢窺府城。 二月,命常青督師渡臺勦賊,以李侍堯爲閩浙總督,柴大紀署理水師提督,郝壯猷署理陸路提督。先是,提督黃仕簡、任承恩渡海後,觀望失機,時大紀督率官兵義民收復彰化、鳳山、諸羅、鹿仔港、竹塹等處,郝壯猷在南路亦頗有斬獲,帝聞,命仕簡、承恩解任,令常青自行督師,而以大紀、狀猷分攝水陸提督。 三月,改授藍元枚爲福建陸路提督。時諭旨謂大紀、狀猷因仕簡、承恩等觀望,不無效尤,解大紀署任,以狀猷代之,以元枚熟悉臺灣情形,調補陸路提督。 夏四月,命常青爲將軍,督辦臺灣軍務,以福州將軍恆瑞、陸軍提督藍元枚爲參贊,尋改授元枚水師提督,柴大紀署理陸路提督,逮治黃仕簡、任承恩、郝壯猷等,壯猷尋伏法。先是,仕簡在臺時,檄大紀北取諸羅,壯猷南取鳳山,大紀連戰獲勝,遂復諸羅,壯猷南出二十里即爲敵阻,頓兵五十日始獲入鳳山。鳳山城已空,招民復業,匪混其中,吏復不覺,城復陷。遊擊鄭嵩、延山俱戰歿,壯猷遁歸府城,至是與任簡、承恩同被逮,而斬壯猷以狥軍中。 六月,詔柴大紀補授福建陸路提督,兼管臺灣鎮總兵事務。大紀復諸羅後,爽文屢次分路來犯,大紀連戰擊退,殺獲以數千計,帝深嘉之,故特加擢用。 秋七月,授柴大紀爲參贊,賞給『壯健巴圖魯』名號,以其在軍中一切調度深合機宜也,加太子少保。 八月,命大學士陝甘總督福康安爲將軍,攜帶欽差大臣關防,馳赴臺灣,代常青督辦軍務,以內大臣海蘭察爲參贊大臣,普爾普舒亮領隊大臣。常青至臺後,未幾,藍元枚卒,青與恆瑞引兵出南路,離府城十里,遇敵即退,疏請增兵萬,致敵得以其暇,蠶食各村,於是泉人之不從反者,亦劫使從之。旬日問,驟增衆十餘萬。爽文驅以攻諸羅,諸羅爲府城北障,賴大紀力守,得不陷。青遣兵往援,皆不敢進,恆瑞復張皇敵勢,疏請兵六萬。青本和珅私人,老而耄,在臺畏急甚,日夜流涕,欲棄城遁者再,諸將止之,因密札哀乞珅,請以他將往代,珅婁見奏之,帝知二人不足恃,故遣福康安、海蘭察代之。 冬十一月,詔改諸羅縣爲嘉義縣,封柴大紀爲一等義勇伯,世襲罔替。令浙江巡撫以萬金卹其家屬。時爽文屢以大隊攻諸羅,志在必得。又攻鹽水、鹿仔諸港,以斷府城糧道,大紀皆分兵奪之,決淵潰、破礮車,以守城兵四千當敵衆十餘萬,屢出奇奪賊積糧,食盡則以花生、地瓜、油粇充飢,福康安奉詔赴援,逕留中道,疏請增兵而後進,又嚴旨不准行。大紀力守孤城,已亙丰載,至是敵勢日張。有詔令捍衛兵民出城,再圖進取,而大紀疏言:『諸羅失則府亦危。且數月以來,深壕增壘,守禦甚固,一朝棄去,克復甚難。而城廂內外義民不下四萬,不忍委之於敵,惟有固守待援。』帝覽疏爲之泣下,賞賚有加,獎諭備至,詔中有『大紀當糧盡勢絕之時,惟知以國事民生爲重,雖古名將,何以加茲……』等語。 冬十一月,海蘭察大破賊衆於崙仔嶺,再敗之牛稠山,諸羅圍解,賊遁斗六門。初,福康安統兵援嘉義,從海蘭察策,聲言直抵大理杙,而陰趨縣治,遇敵崙仔嶺。漲蘭察奮勇殺入,連破敵衆,即日抵嘉義城。明日,福康安亦至,爽文等遁入斗六門據守。 十二月,海蘭察攻克斗六門、大理杙等處。林爽文遁入集集埔,海蘭察乘勝攻克斗六門,遂擣大理杙。爽文已攜家走集集埔,福康安止海蘭察勿追,使人傳諭埔內生番,擒爽文出獻,爽文等反得以乘暇布置,據險死守。

五十三年,春正月,海蘭察擒獲林爽文於箐谷。爽文自走入集集埔據溪岸,壘石環數里,海蘭察帥領軍隊騰險而上,爽文與其黨數十走箐谷,至是海蘭察官追至老衢崎寺方,爽文等悉就擒。 二月,海蘭察擒莊大田於牛莊。海蘭察擒林爽文後,即移師攻大田於牛莊,追至極南之琅橋,先以舟師斷其前路,環山圍之,大田亦就俘,餘黨悉定,臺灣平! 秋七月,殺太子少保參選大臣一等伯柴大紀。大紀前以保護府城及固守嘉義縣功,帝與廷臣無不稱其義勇,及福康安至,大紀官兵出迎,咸饑羸無人色。大紀自以參選伯爵,不執纛鞬之禮,福康安遽劾其前後奏報不實,反誣以激變退縮等罪。詞內竝及提督蔡攀龍。帝始猶以爲疑,前後三詔中,略謂福康安於大紀等,遇事吹求,而於恆瑞,又因爲親戚,曲爲瞻狥。大紀等未免因係大臣,且屢經優旨襃嘉,稍涉自滿,於福康安前禮節不謹,致爲所憎,遂直揭其短耳。時福康安已定擬大紀斬決,帝命解京親訊,及後入侍郎德成、侍衛額勒登保之譖,又大紀至京,供內有德成在臺灣連日審訊義民,誘令指出大紀職罪等語。帝怒其攀陷,遂著照福康安所擬,即行處斬,而於擁兵不救嘉義之恆瑞,前後失律之常青、黃仕簡、任承恩、普保吉等反得不死,或加擢用。

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