清史紀事本末和珅の貪欲と専横(和珅之貪横)
要約
乾隆四十一年三月、戸部侍郎の和珅を軍機処行走とした。珅はもと満洲の官学生で御轎をかつぐ役であったが、帝はその優雅を気に入り、恭しく取り入って重用された。四十五年、子の豊紳殷徳を十公主の額駙とし、珅は尚書・御前大臣として寵を独占し、督撫・司道は讒言を恐れ財貨を贈った。四十九年、吏部尚書・協辦大学士に移し一等男に封じた。
四十七年七月、御史の銭灃が山東巡撫の国泰の貪濁と公金二百万金の欠損を弾劾し、良郷で珅の下僕から国泰の書状を得て奏し、国泰と布政使于易簡は自尽を賜った。灃はのち珅に苦しめられ病死した。五十一年、御史曹錫宝が珅の家人劉銓の僭越を弾劾したが、急報で形跡を壊され跡は見つからず、錫宝は革職留任とされ鬱々と死んだ。閏七月、珅を文華殿大学士とした。
五十六年、珅の貪横で国庫は空になった。内閣学士の尹壮図が督撫と権貴の結託が官民困窮の因だと奏すると、珅は壮図に各省の府庫の欠損を慶成の監督下で調べさせたが、壮図は掣肘されて実情を調べられず、慶成が逆にでたらめと弾劾したので、帝は怒って革職し牢に下した。五十八年二月、珅は戴全徳を使って浙江巡撫の福崧に贓罪を着せ、崧が帝に会えば珅の悪事を暴くと公言したので、供述書を書き換えて怒りをあおり自尽させた。六十年十一月、閩浙総督伍拉納、巡撫浦霖、按察使銭受椿が処刑された。国泰・王亶望・陳輝祖・郝碩らの大獄も、みな珅が内で追い立てた。
嘉慶二年八月、大学士公の阿桂が死んだ。阿桂が各省へ赴き落ち着かぬ間に珅は威権をもてあそび、各省の上奏はまず副本を軍機処に告げよと命じた。官界の気風は壊れて川楚教徒の変を醸し、珅は軍報を検めて将帥に功を誇張させ自らも伯爵に進み、経費の精算に重賄を強要したので、将帥は糧餉を横領し、教徒ははびこった。死後、珅の横暴はきわまり、朱珪の内召を上皇に讒して安徽巡撫に改めさせ、呉熊光も軍機に六か月で直隷布政使に出させた。耆麟・長麟の流刑、弘瞻・管世銘の死も珅に逆らったゆえである。
三年八月、勒保が王三槐を降したと報じ、上皇は喜び勒保と珅を公爵に進めた。四年正月、和珅が処刑された。事にあたること二十余年、内外に貪濁の気風を育て、民の脂膏を吸って百余年の元気を削り尽くした。帝が儲位に立つ前日に如意を献じて擁立の意を示し、帝は深く憎みつつ忍んだ。高宗が崩じた翌日、御史広興がその罪を暴き、三日を越えて職を奪われ獄に下され、二十の大罪を宣布されて自尽を賜った。没収された財は八百兆あまり、当時の人は和珅が転べば嘉慶は腹いっぱいと言った。
年表
乾隆四十一年(1776年)から嘉慶四年(1799年)まで、満洲官学生から身を起こした和珅が高宗の寵愛を得て軍機大臣・文華殿大学士にまで進み、二十余年にわたって政を専らにした顛末を記す。銭灃・曹錫宝・尹壮図ら弾劾を試みた者はことごとく退けられ、福崧・呉熊光ら逆らった官も死や左遷に追い込まれた。督撫は財貨を貢ぐことを競い、国庫は空となり、軍報の操作と精算の賄賂が川楚教徒の変を長引かせた。嘉慶四年正月に高宗が崩じると、御史広興らの弾劾によって和珅は二十の大罪を宣布されて自尽を賜り、没収された家産は八百兆あまりに及んだ。
年表(11件)
- 西暦1776年 高宗乾隆四十一年戸部侍郎の和珅が軍機処行走を命じられ、帝の信任を得はじめる
- 西暦1780年 乾隆四十五年和珅の子豊紳殷徳が十公主の額駙に指名され、和珅は寵を独占する
- 西暦1782年 乾隆四十七年御史銭灃の弾劾で山東巡撫国泰・布政使于易簡が処刑され、灃は和珅に恨まれる
- 西暦1784年 乾隆四十九年和珅が吏部尚書・協辦大学士に移り一等男に封ぜられ、蓄財に専念する
- 西暦1786年 乾隆五十一年家人劉銓の僭越を弾劾した御史曹錫宝が革職留任とされ、和珅は文華殿大学士となる
- 西暦1791年 乾隆五十六年吏治を論じて和珅を犯した内閣学士尹壮図が府庫調査で陥れられ、逮捕される
- 西暦1793年 乾隆五十八年和珅に憎まれた浙江巡撫福崧が贓罪を着せられ、道中で死を賜る
- 西暦1795年 乾隆六十年閩浙総督伍拉納・巡撫浦霖・按察使銭受椿が貪虐によって処刑される
- 西暦1797年 仁宗嘉慶二年大学士阿桂が死に、抑えを失った和珅の横暴が内外に及ぶ
- 西暦1798年 嘉慶三年勒保が王三槐を誘降したとの報により、和珅は公爵に進められる
- 西暦1799年 嘉慶四年高宗の崩後に和珅が弾劾されて自尽を賜り、莫大な家産が没収される
現代語訳全文
西暦1776年 高宗乾隆四十一年
- 春三月、戸部侍郎和珅に命じて軍機処行走とした。
- 珅はもともと満洲の官学生で、鑾儀衛の役に就き、選ばれて御轎をかつぐ役にあたった。帝はそのふるまいが優雅なのを見て、そこで出身を尋ね、さらに受け答えが帝の意にかなったので、これを気に入り、仮に総管に充て、しだいに昇進して今の職に至り、軍機大臣上行走とした。
- 当時、帝は英明で法の執行も厳しく、珅はつとめて恭しく慎み深くふるまって取り入り(「娟」は「媚」の誤りか)、帝はしだいにこれを重く用いるようになった。
西暦1780年 乾隆四十五年
- 夏五月、和珅の子に豊紳殷徳という名を賜い、十公主の額駙に指名した。
- このとき珅はすでに尚書に補授され、御前大臣を兼ね、これより寵を独占して事にあたった。しかも性質は貪欲で汚く、総督・巡撫や司道の官は讒言で陥れられるのを恐れ、みな心を曲げて財貨を車で運び贈ることに努めた。
西暦1782年 乾隆四十七年
- 秋七月、山東巡撫国泰、布政使于易簡が処刑された。
- これより先、御史銭灃が上奏して、国泰の貪欲汚濁と乱れた行い、公金二百万金を欠損させたことを弾劾した。上奏ののち、帝は灃に和珅とともに赴いて取り調べるよう命じた。灃は国泰が珅に取り入っている者であることを知っていたので、数日先に出発した。良郷に至ったところ、珅の下僕が山東から来るのに出くわし、灃は叱りつけてその身体を捜させ、国泰が珅に返した書状を手に入れた。そこには借款のこと、庫を埋め合わせて調べに備えることなどが書かれており、灃はただちにこれを奏上した。珅ははかりごとが漏れたのを知り、そこで裁きにあたっても偏ってかばうことができず、国泰・于易簡はともに自尽を賜った。
- のち灃は、珅と阿桂の仲が悪く、軍機処の事務を同じ場所で行っていないので、朋党の禍を開くことになるのを心配し、上奏してこれを改めるよう命じることを請うた。そこで軍機処を調べ検める命を受け、珅を厳しく戒めた。珅はますます灃を恨み、そのつど事にかこつけて苦しめ辱め、灃は衣食も意にまかせず、寒さにやつれ、病を得て死んだ。
西暦1784年 乾隆四十九年
- 秋七月、和珅を吏部尚書・協辦大学士に移し、一等男に封じた。このころ珅は重用されることが日ごとに専らとなった。もとより学識も徳行もなく、志を得るや、財貨をかき集めて自らを富ますことを唯一の目的とした。
西暦1786年 乾隆五十一年
- 夏五月、御史曹錫宝を免職とし、留任を命じた。
- 錫宝は上奏して、和珅家人劉銓の衣服・車馬・家屋が身分の制を越えていることを弾劾した。このとき帝は山荘にあり、ある尚書がこの事を知って、急ぎ書を飛ばして珅に告げ、あらかじめその形跡を壊すことができた。京に留まっていた王大臣が旨を奉じて調べたところ、分不相応でみだりなふるまいの跡は、とうとう見つからなかった。部の議では錫宝がみだりに上奏したとして三階級の降格としたが、特旨によって免職のうえ留任と改められた。錫宝は友に売られたことを恨み、鬱々として死んだ。
- 秋閏七月、和珅に命じて文華殿大学士とし、なお吏部尚書を兼ねさせ、黄帯と四つ開きの褉袍を賞として与えた。
西暦1791年 乾隆五十六年
- 春二月、内閣学士尹壮図を逮捕して罪を治めた。
- このころ和珅は内で貪欲に横暴をきわめ、福康安は外で豪奢にほしいままにふるまい、総督・巡撫は奢侈を習いとして、ついに国庫の蓄えは空になった。壮図(底本は「莊圖」に作る。「壯圖」の誤りか)は休暇をとって雲南に帰り親をたずねていたが、帝はこれを思い出して京に召し寄せ、抜擢して用いようとした。壮図が至ると、吏治を整え正すことを奏上したが、その言葉は珅を犯すものであって、上下が一つに通じ合い、勢いとして権貴と交わり結んで護身の符とせずにはいられない、これが総督・巡撫が力を尽くして和珅に取り入るゆえんであり、官も民も困窮する原因である、という語があった(「揭力」は「竭力」の誤りか)。
- 上奏が入ると、珅ははなはだ憤り、壮図を免職して罪に処するよう請うた。帝は許さなかった。そこで珅は、ただちに壮図に命じて駅馬を馳せさせ、各省の府庫の欠損をあまねく調べさせ、侍郎慶成にこれを監督させるよう請うた。省都に至るごとに、その挙動はそのつど慶成に掣肘され、実情を調べるすべがなく、慶成はかえって壮図がでたらめを言ったと弾劾した。帝は大いに怒り、壮図を免職するよう命じ、ただちに慶成に引き渡して京へ押送させ、刑部の牢に下した。
- 上奏の草稿を書いていたとき、弟の英図がたびたびその戸口をのぞいた。壮図は笑って言った、『おまえは兄に代わって心配するには及ばない。兄の首は早くも都の市にかかっているのだ。弟は代わって老いた親の天寿をまっとうさせてくれればよい。』このとき壮図の母は本籍地にあり、年は七十を越えていた。
西暦1793年 乾隆五十八年
- 春二月、浙江巡撫福崧に死を賜った。
- 両淮塩運使柴楨が商人の塩課二十二万両を流用した罪で処刑され、その帳簿を取り調べたところ、その中に福公に金一千両を贈ったとあり、実際には尚書福長安に贈ったものであった。福崧はふだんから和珅に憎まれており、珅は自分に近い鹺使戴全徳をそそのかして、崧に贓罪を着せた。帝は京に護送して朝廷で訊問するよう命じたが、崧は、帝に会ったら和珅のかくれた悪事をすべて暴いてやると公言した。そこで珅は獄の供述書を書き換え、帝の怒りをあおり、道中で死を賜るよう命じさせた。かくて紅花鋪で自尽した。今に至るまで浦の人はこのことを語り、無実だと言い立てているという(「浦人」は「浙人」の誤りか)。
西暦1795年 乾隆六十年
- 冬十一月、閩浙総督伍拉納、巡撫(底本は「巡」を欠く)浦霖、按察使銭受椿が処刑された。
- このころ和珅の貪欲な横暴は日ごとにひどくなり、財貨を求めることは、あわただしく間に合わないかのようであった。当時の総督・巡撫、たとえば国泰・王亶望・陳輝祖・郝碩の輩は、不正な金銭が積み重なり、たびたび大きな獄が起こったが、みな珅が内でひそかに追い立てて、貪らずにはいられないようにさせたものであった。
- 伍拉納は閩を総督し、ひたすら貪欲と苛酷をもって事にあたり、県令を逆さ吊りにして賄賂を求めるまでに至った。将軍魁倫に弾劾して奏上された。帝は大いに怒り、浦霖・受椿とともに檻に入れて京に護送させた。珅は道中でわざとその歩みを遅らせるよう命じ、それによって帝の怒りが解けることを望んだ。帝は日を数えても到着せず、侍衛に命じて早馬を飛ばして召し入れさせ、豊沢園で朝廷の訊問を行い、みな法に処した。
西暦1797年 仁宗嘉慶二年
- 秋八月、大学士公阿桂が死んだ。
- 阿桂は元勲・上公の身で枢府の領袖となっていたが、十余年の間、つねに朝命を奉じて各省へ赴き、治水・賑災・案件の取り調べにあたり、落ち着いて居ることがなかった。珅はその間に威権をひそかにもてあそぶことができ、しだいに各省へ公文を出して、およそ上奏文があれば、まず副本を封じて軍機処に申し告げ、そののちに上に聞かせるよう命じるまでになった。
- 政を専らにすることが久しくなり、官界の気風はますます壊れ、川楚教徒の変を醸し出した。珅はまた思うままに軍報を検め、あわせて各路で軍を統べる将帥に功績を誇張させて、褒賞の申請をさせた。そうして自分もまた伯爵に進み封ぜられ、しかも経費の精算と報告にあたっては重い賄賂を強要したので、将帥は軍の糧餉を横領せざるを得ず、賊徒と教徒はそれに乗じて日ごとにはびこり、ほとんど収拾のつかない勢いとなった。
- 阿桂が死ぬと、珅はますます横暴になり、内外の大小の臣僚は、その意に従えばただちに栄達し、少しでも逆らえば挫折がそれに続いた。
- 両広総督朱珪は帝の教師であった。このとき高宗が訓政をしており、旨があって内に召して大学士とすることになり、帝は詩を作って祝いを寄せた。詩の草稿がまだ仕上がらぬうちに(底本「柱屬索未竟」は字を誤るか)、珅はこれを取って上皇に申し上げて言った、「嗣皇帝は師傅に恩を売ろうとなさっているのですか。」上皇は顔色を変え、大学士董誥を顧みて言った、「おまえは軍機処・刑部にいた日が長い。これは律の趣意ではどうなるか。」誥は顔つきを正して答えた、「聖主に過った言葉はございません。」上皇は黙り込んだ。事は解けたものの、なお旨を下して朱珪を改めて安徽巡撫とした。
- 軍機章京呉熊光はふだんから珅に好かれていなかった。ある日、上皇が軍機大臣を呼び出そうとしたが得られず、章京を召すよう命じたところ、熊光だけがすでに当直に出ており、参上して答えたことが上皇の意にかなった。珅が至ると、上皇は熊光がなかなか事務に練達しているので、軍機大臣上行走とすることができると語った。珅はあらゆる手立てで阻もうとしたが、上皇は動かなかった。戴衢亨は和珅に近い者であったので、珅はそこで奏して言った、「戴衢亨は状元の出身で(底本「狀北頭」は「狀元」の誤りか)、学士の官にあります。呉を用いるより戴を用いるほうがよろしゅうございます。」上皇は言った、「これがどうして殿試であろうか。」珅はそこで旨を承った。しかし熊光は政府にあること六か月、ついに珅にかみつかれ、外に出されて直隷布政使となった。
- そのほか、両江総督耆麟山(底本の「山」は衍字か)・山東巡撫長麟が西域に流されたこと、浙江巡撫福崧がその罪でもないのに死んだこと、果王弘瞻(「果親王」の誤りか)が鬱々として死んだこと、章京管世銘が急死したことは、みな珅に逆らったゆえであった。
西暦1798年 嘉慶三年
- 秋八月、軍機大臣・大学士・伯の和珅を公爵に進めた。このとき、勒保が四川の軍務を総統し、賊の首領王三槐を誘って降らせ、首謀者を生け捕りにしたと報告して入れた。上皇は大いに喜び、詔して勒保と和珅を公爵に進めた。
西暦1799年 嘉慶四年
- 春正月、和珅が処刑された。
- 高宗が珅を尊び寵愛して以来、事にあたること二十余年、内外の官吏に貪欲と汚濁の気風を育て上げ、民間から脂膏を吸い取って自らの財産を殖やし、百余年の元気はこれによってすっかり削り損なわれ尽くした。しかもその専横で法に外れたふるまい、いっさいひそかに帝王の制になぞらえたさまは、とりわけ古今に見られぬところであった。
- かつて人のいない密室の灯の下で、高宗が御用いになった朝珠を掛け、鏡に向かって行きつ戻りつ談笑し、低い声で独り言を言ったが、人には聞き取れなかった。
- 帝がまさに儲位に立てられながらまだ宣示されていなかったとき、珅はすでにこれを知り、前日に如意を帝に差し上げて、自分が擁立したのだという意を示した。帝はこれによってその人となりを深く憎んだ。当時は高宗がこれを寵愛していたので、耐え忍んで発することができなかった。
- この日、高宗が崩じたとき、珅はちょうど総理の任にあり、得意満面であった。翌日、御史広興が上奏してその罪を暴いた。三日を越えて職を奪われ獄に下され、まもなくその二十の大罪が宣布され、自尽を賜った。戸部尚書福長安は、ともに手を組んでかばい隠したとして、これも死罪に当てられたが、のちに釈された。
- 珅が罪を得て、不正に得た財が没収されたところ、八百兆あまりを得た。二十年の宰相として、その蓄えは、一国が二十年間に得る歳入の半額を超えるほどであった。それがすべて帳簿に載せられて官に収められると、当時の人はこれについて言った、「和珅が転べば、嘉慶は腹いっぱい」と。
原文(底本)
高宗乾隆四十一年,春三月,命戶部侍郎和珅軍機處行走。珅本滿洲官學生,應役鑾儀衛,以選舁御轎。帝見其儀度優雅,因詢其出身,復奏對稱旨,悅之,權充總管,累遷至今職,在軍機大臣上行走。時帝英明,執法嚴,珅務爲恭謹以娟,帝遂寢寢嚮用。 四十五年,夏五月,賜和珅之子名豐紳殷德,指爲十公主額附。時珅已補授尚書,兼御前大臣,自是專寵用事,而性貪黷,督撫司道畏其傾陷,皆曲意輦貨之事。 四十七年,秋七月,山東巡撫國泰,布政使于易簡伏誅。先是,御史錢灃参奏泰貪黷穢亂,虧帑二百萬金。疏上後,帝命灃偕和珅往勘。灃知國泰爲珅私人,乃先數日行,至良鄉,遇珅僕自山東來,灃叱搜其身,得泰復珅書,俱言借款,填庫備查等事,立奏之。珅知謀洩,故治獄無敢傾陂,泰、易簡皆賜自盡。後灃以珅與阿桂不睦,軍機辦事不同一處,慮開朋黨之禍,上疏請飭改正,遂奉稽查軍機處之命而嚴飭珅,珅益嗛灃,每籍事勞辱之,衣食不豫寒悴,感疾以殞。 四十九年,秋七月,調和珅爲吏部尚書,協辦大學士,封一等男。時珅嚮用日專,故無學行,既得志則以聚斂自豐爲惟一之目的。 五十一年,夏五月,革御史曹錫寶職,命留任。錫寶疏劾和珅家人劉銓衣服、車馬、房產踰制。時帝在山莊,有某尚書知其事,飛書告珅,得以豫毀其跡。及留京王大臣奉旨勘查,僭妄蹤跡,竟不可得。部議以錫寶妄奏,鐫三秩,特旨改革職留任。錫寶恨爲友所賣,鬱鬱死。 秋閏七月,命和珅爲文華殿大學士,仍兼吏部尚書,賞給黃帶,四開褉袍。 五十六年,春二月,逮治內閣學士尹壯圖。時和珅貪橫於內,福康安豪縱於外,督撫習爲奢侈,至庫藏空虛。莊圖以假歸雲南省親,帝思之,召來京,將擢用。壯圖至,以整飭吏治入奏,語侵珅,有上下通同一氣,勢不容不交結權貴以作護身之符,此督撫所以揭力趨奉和珅,而官民受困之原因也。疏入,珅忿甚,請將壯圖革職治罪,帝不許,珅乃請即命壯圖馳驛普察各省府庫虧空,而令侍郎慶成監之。每至省會,舉動輒爲成掣肘,無由察實,反劾壯圖妄言。帝大怒,命革壯圖職,即交與成押解至京,下刑部獄。當草疏時,弟英圖屢闚其戶,壯圖笑曰:『子不必代兄憂,兄之首早懸都市矣。弟代養老親天年可也。』時壯圖母在籍,年逾七十矣。 五十八年,春二月,賜浙江巡撫福崧死。兩淮鹽運使柴楨以挪移商人鹽課二十二萬兩伏誅,錄其簿書,中有饋福公金一千兩,實饋尚書福長安者。福崧素爲和珅所嗛,嗾其私人鹺使戴全德,坐贓於崧。帝命解京廷訊,崧揚言當見帝盡發珅隱,珅乃改易獄詞,激帝怒,命於中途賜死。至是於紅花鋪自盡。至今浦人言之,爲稱屈云。 六十年,冬十一月,閩浙總督伍拉納撫浦霖,按察使錢受椿伏誅。時和珅貪橫日甚,徵求財貨,皇皇如不及,當時督撫,如國泰、王亶望、陳輝祖、郝碩之徒,贓欵累累,屢興大獄,皆珅在內隱爲驅迫,使之不得不貪也。伍拉納督閩,惟以貪酷用事,至倒懸縣令以索賄。爲將軍魁倫劾奏。帝大怒,竝浦霖、受椿檻解入京,珅令途中故緩其行,冀以解帝怒。帝計日不至,命侍衛飛騎召入,於豐澤園廷訊,皆置於法。 仁宗嘉慶二年,秋八月,大學士公阿桂卒。桂雖以元勲上公爲樞府領袖,然十餘年中,常奉朝命赴各省治河、賑災、查案,未嘗寧居,珅亦得以其間竊弄魁柄,漸至行文各省,令凡有章奏,先具副封白軍機處,然後上聞。專政既久,吏風益壞,釀成川楚教徒之變,珅復任意稽查軍報,並令各路統軍將帥虛張功績以邀獎敘。而已亦得晉封伯爵,且於覈算報銷,勒索重賄,以至將帥不得不侵剋軍餉,匪教因之,日益蔓延,幾有不可收拾之勢。及桂歿,珅乃益橫,中外大小臣工順其意則立榮顯,稍忤之則折挫隨之矣。兩廣總督朱珪,帝師傅也,時高宗訓政,有旨內召爲大學士,帝作詩寄賀,柱屬索未竟,珅取以白上皇曰:「嗣皇帝欲市恩於師傅耶?」上皇色動,顧大學士董誥曰:「汝在軍機、刑部之日久,是於律意云何?」誥正容對曰:「聖主無過言。」上皇默然。事雖得解,仍降旨改珪巡撫安徽。軍機章京吳熊光素不爲珅所喜,一日,上皇宣軍機大臣不得,命召章京,惟熊光已上直,入對稱旨。珅至,上皇語以熊光頗練事,可以軍機大臣上行走,珅百計阻撓,上皇不爲動。戴衢亨,珅私人也,珅因奏曰:「戴衢亨出身狀北頭,官學士,用吳不如用戴。」上皇曰:「此豈殿試耶?」珅乃承旨,而熊光在政府六閱月,卒爲珅所齕,出爲直隸布政使。餘如兩江總督耆麟山、山東巡撫長麟之謫戍西域,浙江巡撫福崧之死非其罪,果王弘瞻之抑鬱死,章京管世銘之暴卒,皆以忤珅故。 三年,秋八月,晉軍機大臣大學士伯和珅公爵。時,勒保總統四川軍務,誘匪首王三槐出降,而以生擒首逆入告。上皇大悅,詔晉保及和珅公爵。 四年,春正月,和珅伏誅。自高宗尊寵珅,用事二十餘年,養成內外官吏貪墨之風,吸收民間脂膏以自封殖,百餘年之元氣爲之𣂪喪殆盡。而其專恣不法,一切潛擬帝制,尤爲古今所未見。嘗於密室燈下無人時,懸掛高宗御用朝珠,對鏡徘徊談笑,低聲自語,人不得聞。當帝正儲位未宣諭之先,珅已知之,於先一日呈進如意於帝,以表示由己擁戴意,帝由是深惡其爲人。時高宗嬖之,故隱忍未敢發。是日,高宗崩,珅方爲總理,意得甚。翌日,御史廣興疏發其罪。越三日,奪職下獄,尋宣布其二十大罪,賜自盡,以戶部尚書福長安扶同徇隱,亦坐死,後釋之。珅之得罪,抄沒贓賄,得八百兆有奇,以二十年之宰相,所蓄當一國二十年歲入之半額而強。既盡籍收入官,時人爲之語曰:「和珅跌倒,嘉慶喫飽」云。
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