清史紀事本末内禅の真相(内禅之真相)
要約
乾隆六十年九月、皇十五子の嘉親王顒琰を皇太子に立て、明年を嗣皇帝の嘉慶元年とすると宣示した。即位のはじめ、在位六十年を得たなら位を嗣子に伝えようと天に誓い、元年に嫡出の次子永璉の名を正大光明の扁額の後ろに置いたが、永璉は三年に世を去り端慧太子と号され、七子永琮も早世した。三十八年の冬至、南郊で太子の名を上帝に告げ、堪えぬなら夭折させよと祈った。政を返したのちも軍国の重大事はなお自ら指し教えると諭し、十二月には明年から太上皇帝と称せよと諭した。
嘉慶元年正月朔、授受の大典を挙げ、上皇は太和殿で璽を授け、帝はひざまずいて受け、伝位の詔を天下に頒った。喜塔臘氏を后とし、皇極殿で千叟の宴を挙げた。二月、乾清門で政を聴き、常例とした。五月、故貝子の福康安に郡王を追贈し文襄と諡した。康安は七省の兵を督して苗と一年余り対し、はじめは小物どもと奏し、のちは豪雨を口実として軍中で天帝のように尊ばれた。上皇は王爵に進めたかったが家法に阻まれ、軍功を分封の基礎にしようとした。
二年二月、后の喜塔臘氏が崩じたが、帝は礼は尊なる者に統べられるとして喪礼を削り、王大臣も常服とせよと諭した。和珅らが、皇帝はよく礼をもって情を制しておられます、と答えると上皇は喜んだ。五月、貴妃の鈕祜祿氏を皇貴妃に封じ、十月、乾清宮・交泰殿が焼けた。
三年、上皇を奉じて木蘭で巻き狩りをし、雨で秋の狩りはやめて九月に還った。
四年正月、上皇が崩じ、和珅・福長安を獄に下した。禅りを受けてからの三年、政は上皇が主宰し、珅は日々左右で威光と恩沢をもてあそんだ。帝は寛く容れて相公と呼び、非とする者には、朕は相公に倚って四海を治めさせているのだ、と言った。珅は師の呉省蘭に帝の詩集を写させて動静をうかがわせたが、帝は意を知って角を出さなかった。臣下の条陳に珅を犯す語があれば、議に下すとき姓名や年月日を削らせ、上皇の怒りと珅の怨みを避けた。崩御の翌日、御史の広興・広泰、給事中の王念孫が相次いで弾劾し、珅はまもなく処刑された。
年表
乾隆六十年(1795年)から嘉慶四年(1799年)まで、高宗が在位六十年での譲位という即位当初の誓いを果たし、皇十五子嘉親王顒琰に位を譲った内禅の実相を記す。早世した永璉・永琮の秘密建儲の経緯に触れたのち、嘉慶元年正月の授受の大典、千叟の宴、福康安の苗征と追贈などを叙する。しかし太上皇は軍国の重事をなお自ら裁し、嘉慶帝は上皇に侍して木蘭や盤山に随行し、皇后喜塔臘氏の喪礼すら削り減らして孝心を示した。その間に和珅が上皇の左右で威福をほしいままにし、帝は相公と呼んで忍んだが、嘉慶四年正月に上皇が崩じるや広興らの弾劾を機に和珅を捕らえ、処刑した。
年表(5件)
- 西暦1795年 高宗乾隆六十年帝が皇十五子顒琰を皇太子に立て、明年を嘉慶元年とすることを宣示する
- 西暦1796年 仁宗嘉慶元年授受の大典が行われ、嘉慶帝が即位して上皇が軍国の重事を裁す体制となる
- 西暦1797年 嘉慶二年后の喜塔臘氏が崩じ、帝は上皇を尊ぶとして喪礼をいっさい削り減らす
- 西暦1798年 嘉慶三年帝が上皇を奉じて木蘭に行幸し、雨のため秋の狩りを取りやめる
- 西暦1799年 嘉慶四年上皇が崩じ、弾劾を受けた和珅が獄に下されてまもなく処刑される
現代語訳全文
西暦1795年 高宗乾隆六十年
- 秋九月、帝は勤政殿に出御し、皇子・皇孫・王公大臣を召して拝謁させた。皇十五子嘉親王顒琰を皇太子に立て、明年を嗣皇帝の嘉慶元年とすることを宣示した。
- 帝は即位のはじめ、かつて香を焚いて天に告げ、もし在位六十年を得たならば、そのときは位を嗣子に伝えようと誓った。その後、次子永璉が嫡出であり、しかも人品が貴く重々しいので、当然に位を継ぐべきであるとした。そこで乾隆元年七月、雍正初年に定められた形式にならい(底本「雍初年」は「正」の字を欠くか)、自らその名を書き、ひそかに乾清宮にある『正大光明』の扁額の後ろに置いた。
- ほどなく永璉が乾隆三年十月に病で世を去った。帝は大臣らを召して密旨を開いて閲させ、端慧太子の号を贈った。のちにまた七子永琮も嫡系であるとして、名を書いて封じて蔵めようとしたが、続いてその年がまだ幼いことを思って果たさず、まもなくこれも早世し、悼と諡した。
- 三十八年の冬至に至り、南郊を祀ったとき、帝は今の太子の名を上帝に明らかに告げ、あわせて、もし定めた嗣子がその任に堪えられぬのであれば、ただちに罰を下してこれを夭折させ、あらためて善き人を選び、宗廟の祐けを延ばすことができるようにしてほしいと、黙って祈った。この日、さらに人を遣わして盛京に詣でさせ、陵を祀らせた。それとなく帝位の帰するところを、祖先に向かって申し述べたのである。
- ここに至って門に出御して冊立の由来を宣布した。冬至ののちを待って、太子を毓慶宮に移し入れ、儲位を定めることとした。そして明年の元旦に授受の典礼を行うこととし、あわせて二度にわたって諭を宣べた。おおよそ次のようなものである。『朕は今、精神は健やかで、視力も聴力も衰えていない。一日でも勤めに倦むことがない以上は、一日たりとも怠り緩めるわけにはいかぬ。政を返したのちも、およそ軍国の重大事および人を用いること政を行うことなど諸々の大きな事柄については、なお自ら親しく指し教え、嗣皇帝が将来受け継ぐところを知るようにさせる。内外の具題・上奏文(底本は「俱題」に作る。「具題」の誤りか)、および文武の官吏を引見する尋常の事件に至っては、みな嗣皇帝が目を通し、朕に奏し知らせる、云々。』(底本「奏知朕輸」の「輸」は衍字か)
- 冬十二月、諭して、朕は明年政を返したのちは、およそ書いて奏する事件があれば、みな太上皇帝と書き、その奏対では太上皇と称せよ、とした。
西暦1796年 仁宗嘉慶元年
- 春正月、朔、授受の大典を挙行した。帝は上皇に侍して(底本は「待」に作る。「侍」の誤りか)奉先殿・堂子に詣で礼を行い、上皇は太和殿に出御して、自ら帝に璽を授け、帝はひざまずいて受けた(底本は「跪授」に作る。「跪受」の誤りか)。上皇は祝賀を受け終わると(底本「蹕」は「畢」の誤りか)、寧寿宮に還り、帝は即位して祝賀を受けた。上皇の伝位の詔書を奉じて天下に頒ち行い、恩沢を広く及ぼすこと差等があった。
- 帝は上皇に侍して寿皇殿に詣で礼を行い、乾清宮に出御して、皇子・親藩らに宴を賜った。
- 帝は上皇の命を奉じて、嫡妃喜塔臘氏を冊立して后とし、側妃鈕祜祿氏を貴妃、劉佳氏を誠妃、侯佳氏を瑩嬪とした。
- 帝は上皇に侍して寧寿宮皇極殿に出御し、千叟の宴を挙行した。親王・大臣、蒙古貝勒・貝子・公・額駙(底本は「額附」に作る)・台吉で年七十以上の者三千人、および回部・朝鮮・安南・暹羅・廓爾貢使(「廓爾喀」の脱字か)らに宴を賜った。そのうち一品の官の大臣で年が九十以上に届く者は、上皇が座の前に召して、自ら盃の酒を賜い、その他の者には詩章・如意・綿緞・文綺・銀牌などの品を差等をつけて賞として与えた。
- 二月、帝は乾清門に出御して政を聴き、これより常例とした。円明園にあるときは勤政殿に出御した。
- 帝ははじめて経筵に臨み、伝心殿に詣でて礼を行った。
- 三月、帝は上皇に侍して京を出て陵に詣で、南苑に行幸し、七日間巻き狩りをして京師に還った。
- 夏五月、帝は上皇に侍して木蘭に行幸し、巻き狩りをした(底本は「行園」に作る。「行圍」の誤りか)。
- 帝は上皇の命を奉じて、故大学士・閩浙総督・貝子福康安に郡王を追贈し、文襄と諡し、太廟に配享した。
- 康安は命を奉じて苗を征討し、七省の兵を督し、苗と相対することが一年余りになった。はじめは小物どもは数えるに足りぬと奏していたが、軍が疲れて日を空しくするに及ぶと、しきりに豪雨で山の水が増して阻まれていることを口実にした。先にはさらに数万の増兵を請い、降った苗で官職や武弁を受けた者は百余人、月々に塩と糧を給される者は数万人に及んだが、なつけたそばから背き、軍士で暑気に当たり毒に中って死ぬ者ははなはだ多かった。数省から物資を回送し、費用は巨万と数えられた。軍中にあっては奢侈をきわめ、天帝のように尊ばれた。
- しかし上皇はこれを寵し任じ、たびたび王爵に進めようとしたが、家法に阻まれた。そこで軍を総べる任を与え(底本「倬」は字を誤るか)、軍功を立てさせ、それを分封の基礎としようとした。その赴く土地には、名将と精鋭の部隊を選んでこれを補佐させた。父は傅恒(底本は「傳恆」に作る。「傅恒」の誤りか)で、貝子に進められ、兄は霊安・隆安、弟は長安で、みな公主を娶った。ここに至って、康安は死んだ。
- 六月、己亥の朔、日食があった。
- 秋八月、京師に還った。
- 九月、帝は上皇の命を奉じて、出入賢良門に出御し、皇子・諸王らを率いて射を習わせた。
- 冬十二月、帝は上皇に侍して皇子旻寧の所に行幸し、大婚の礼を賜った。
西暦1797年 嘉慶二年
- 春二月、后の喜塔臘氏が崩じた。諭して言うには、皇后は冊立されてやっと一年に及んだばかりで、母としての儀範を示した期間も長くなく、しかも朝夕に上皇のお心を喜ばせ、もろもろ吉祥を取ることを旨としてきた(底本は「詣取吉祥」に作る。「諸」の誤りか)。この七日の間、円明園で当直して奏事する王大臣ら、および引見される人員は、みな常服を着け、ただ数珠を掛けないだけとせよ。この礼は義によって起こしたものであって、天下の臣民らは、朕が皇父を尊び奉る孝心を共に理解し、謹んで遵い行い、朕がもっぱら手厚く尊び養おうとする意にかなうようにせよ、と。
- このとき帝は、礼は尊なる者に統べられるとして、いっさいの喪礼を削り減らした。和珅・福康安(「福康安」は「福長安」の誤りか)らが毎日上皇に進み見えるたびに、上皇は必ず、帝が皇后を哀悼するのに度を過ごしてはいないか(「遇」は「過」の誤りか)、および宮内での服の色はどうかを、詳しく問いただした。珅らはそのつど、皇帝は孝養をお務めとされ、よく礼をもって情を制せられ、少しも傷み嘆きに度を過ごしてはおられない、太上皇を奉養するため、もろもろ吉祥を取っており、御用のものが常服であるばかりでなく、付き従う太監もまた同様である、と答えた。上皇はこれを聞いて大いに喜んだ。
- 三月、帝は上皇に侍して盤山に行幸し、十日を越えて京師に還った。
- 夏五月、帝は上皇の勅諭を奉じ、貴妃鈕祜祿氏を冊立して皇后とすることとし、まず皇貴妃に封じた。
- 帝は上皇に侍して木蘭に行幸し、巻き狩りをした。
- 秋八月、京師に還った。
- 冬十月、乾清宮・交泰殿が火災にあった。
西暦1798年 嘉慶三年
- 夏五月、帝は上皇を奉じて木蘭に行幸し、巻き狩りをした。
- 秋七月、帝は上皇の命を奉じ、雨のため、秋の狩りを取りやめた。
- 九月、帝は上皇に侍して京師に帰った。
- 冬十月、辛卯の朔、日食があった。
- 戊午・己未の夜、多くの星が織物のように交わり流れた。
西暦1799年 嘉慶四年
- 春正月、上皇が崩じた。
- 和珅・福康安を獄に下した(「福康安」は「福長安」の誤りか)。
- 帝が禅りを受けてからの三年の間、いっさいは上皇が政を主宰し、珅は日々上皇の左右に侍り、上皇が老いて耄けているのを見て、ひそかに威光と恩沢をもてあそぶことが日ごとに盛んになった。帝はみなこれを寛く容れ、しかも外には親しく厚く接するさまを示し、相公と呼んで名を呼ばず、上皇に奏すべきことがあれば、みな珅に代わって申し上げさせた。側近でこれを非とする者があると、帝は言った、『朕はまさに相公に倚りかかって四海を治めさせているのだ。どうして軽んじてよかろうか。』
- 珅はまた、その師である呉省蘭を推薦して帝の詩集を書き写させ、その動静をうかがわせた。帝はその意を知り、詩を詠む中でも角を出すことをせず、珅は心中これに安んじた。
- また帝は、臣下が条陳した文章の中に珅を犯す語があるものについては、軍機処および部の議に下すとき、そのつど肩書と姓名、および上奏文の末尾にある年月日を削り取り、あるいは一事だけを議に付してその前後の文を削り取った。人に知られたくなかったからであり、上皇の怒りに触れ、権勢ある奸臣の怨みを買うことを恐れたからである。
- ここに至って、上皇が崩じ、翌日、御史広興・広泰、給事中王念孫が、相次いで文を上げて珅を弾劾した。帝はただちに儀・威の二王に命じて旨を伝えて逮捕し訊問させ、あわせて勇士阿蘭保に命じて監視しながら連行させ、珅はまもなく処刑された。
原文(底本)
高宗乾隆六十年,秋九月,帝御勤政殿,召皇子、皇孫、王公大臣入見。宣示立皇十五子嘉親王顒琰爲皇太子,以明年爲嗣皇帝嘉慶元年。帝踐祚之初,嘗焚香告天,若得在位六十年,即當傳位嗣子。嗣以次子永璉爲嫡出,且人品貴重,當然繼體。因於乾隆元年七月,循用雍初年成式,親書其名,密置於乾清宮正大光明匾後。旋永璉於三年十月病殤,帝召大臣等啓閱密旨,贈爲端慧太子。後復以七子永琮亦係嫡系,擬書名緘貯,繼念其年尚幼穉而未果,旋亦早世,諡曰悼。至三十八年冬至,祀南郊,帝以今太子名昭告上帝,並默禱如所定嗣子不克負荷,即降之罰,使其夭折,俾得再簡元良,以延宗祐。是日,復遣詣盛京,祀陵,隱然以神器攸歸,面稽於祖也。至是御門宣布冊立緣由。俟長至後,太子移入毓慶宮,以定儲位。即於明年元旦行授受典禮,並兩次宣諭,略謂:『朕今精神康健,視聽不衰,一日不致倦勤,即一日不敢懈馳。歸政後,凡遇軍國大事及用人行政諸大端,仍當躬親指教,俾嗣皇帝將來知所稟承,至中外俱題章疏,及引見文武官員尋常事件,俱由嗣皇帝披閱,奏知朕輸云云。』 冬十二月,諭朕於明年歸政後,凡有繕奏事件,俱書太上皇帝,其奏對稱太上皇。 仁宗嘉慶元年,春正月,朔,舉行授受大典,帝待上皇詣奉先殿堂子行禮,上皇御太和殿,親授帝璽,帝跪授。上皇受賀蹕,還寧壽宮,帝即位受賀。奉上皇傳位詔書,頒行天下,覃恩有差。 帝侍上皇詣壽皇殿行禮,御乾清宮,賜皇子親藩等宴。 帝奉上皇命,冊立嫡妃喜塔臘氏爲后,側妃鈕祜祿氏爲貴妃,劉佳氏爲誠妃,侯佳氏瑩嬪。 帝侍上皇御寧壽宮皇极殿,舉行千叜宴,賜親王大臣、蒙古貝勒、貝子、公、額附、台吉年七十以上者三千人,及回部、朝鮮、安南、暹羅、廓爾貢使等宴,其一品大臣,年屆九十以上者,上皇召至座前,親賜巵酒,餘賞詩章、如意、綿緞、文綺、銀牌等物有差。 二月,帝御乾清門聽政,自是以爲常,在圓明園則御勤政殿。 帝初御經筵,詣傳心殿行禮。 三月,帝侍上皇出京謁陵,幸南苑,行圍七日還京師。 夏五月,帝侍上皇幸木蘭行園。 帝奉上皇命,晉贈故大學士閩浙總督貝子福康安爲郡王,予諡文襄,配享太廟。康安奉命征苗,督七省之兵,與苗相持一年餘,始奏么麽不足數,及老師曠日,則頻以暴雨山潦漲阻爲辭。先復請益兵數萬,降苗受官弁百餘,月給鹽糧者數萬,旋撫旋叛,軍士中暑毒死者甚衆。數省轉輸,費巨萬計。在軍窮极奢侈,尊若帝天。顧上皇寵任之,屢欲進以王爵,而絀於家法,乃倬總師干,建軍功,以爲分封之基礎。所至之地,簡名將勁旅以輔之。父傳恆,晉貝子,兄靈安、隆安,弟長安皆尚主。至是,康安卒。 六月,己亥朔,日食。 秋八月,還京師。 九月,帝奉上皇命,御出入賢良門,率皇子諸王等習射。 冬十二月,帝侍上皇幸子旻寧所,賜大婚禮。 二年,春二月,后喜塔臘氏崩,諭謂皇后冊立甫及一年,母儀未久,且昕夕承歡,詣取吉祥,此七日內,圓明園值日奏事之王大臣等及引見人員,俱著常服,惟不掛珠。此禮以義起,天下臣民等自當共喻朕崇奉皇父孝思,敬謹遵行,副朕專隆尊養至意。時帝以禮統於尊,一切喪禮從殺,而和珅、福康安等每日進見上皇,必詳詢帝不遇於哀悼皇后否,及在宮內服色。珅等輒對以皇帝孝奉爲務,甚能以禮制情,並不遇於傷感。因奉養太上皇,諸取吉祥,不獨御用係屬常服,即凡隨從太監亦然。上皇聞之,乃大悅。 三月,帝侍上皇幸盤山,越十日還京師。 夏五月,帝奉上皇勅諭,將冊立貴妃鈕祜祿氏爲皇后,先封爲皇貴妃。 帝侍上皇幸木蘭行園。 秋八月,還京師。 冬十月,乾清宮交泰殿災。 三年,夏五月,帝奉上皇幸木蘭行園。 秋七月,帝奉上皇命,以雨,停秋獮。 九月,帝侍上皇回京師。 冬十月,辛卯朔,日食。 戊午己未之夜,衆星交流如織。 四年,春正月,上皇崩。 下和珅、福康安於獄。帝受禪三年中,一切由上皇主政,珅日侍上皇左右,見其耄荒,竊弄威福日盛,帝皆優容之,且外示親厚,呼相公而不名,遇有奏上皇者,皆令珅代白。左右有非之者,帝曰:『朕方倚相公理四海,何可輕也?』珅又薦其師吳省蘭爲帝錄詩集,覘動靜。帝知其意,吟詠中,不露圭角,珅心安之。又帝於臣工條陳章內語有侵珅者,下軍機及部議,時裁去銜名,及摺尾年月日,或止交議一事而裁去其前後文,不欲令人知之,恐其觸怒上皇,取怨權奸也。至是,上皇崩,翌日,御史廣興、廣泰,給事中王念孫、交章劾珅,帝立命儀威二王傳旨逮問,並令勇士阿蘭保監以行,珅旋伏法。
訳文の誤りにお気づきの場合はお問い合わせからお知らせください。