清史紀事本末嘉慶の中衰(嘉慶中衰)

要約

嘉慶四年正月、帝はみずから政を執り、貢献を廃し、諸臣が如意を献ずるが朕は見てかえって如意ならずと思うと詔した。葉爾羌の大塊の五色石は関内に入れぬと命じ、玉の私売の禁を緩め、珠玉の価は十分の七、八下落した。和珅の家人の劉全を弾劾した故の曹錫宝に副都御史を追贈した。全の家産は二十万を超えた。二月、宗室の会試の例を復し、四月、倉庫の欠損を陳奏して降格された伊壮図に給事中の官銜を与え、在籍のまま奏事させた。

八月、翰林院編修の洪亮吉を伊犁に流した。亮吉は成親王永瑆らに上書し、和珅に諂って現に官にある者四十余人を列挙し、末尾に近ごろ朝に臨むのが遅れ、俳優や側近が聖聴を惑わしていないかと記したので、帝は怒って獄に下し、まもなく死一等を減じた。十月、湖北襄陽道の胡斉崙を軍需二十余万両の横領で絞に処した。教匪の討伐以来四年で帑銀七千余万を費やし、建昌道の石作瑞は五十余万両を横領したが、死ぬとき納棺の費用もなかった。十二月、国子監祭酒の法式善を編修に降した。上奏の語が帝の意に逆らい、豊紳済倫が推したので請託を疑った。

六年六月、京師の大雨で宮門の水は数尺、桑乾河が四か所決壊して西南は水浸しとなり、村落は流された。帝は、小民に何の罪があろう、みな予の罪だとして秋の巡幸をやめた。七年二月、雲南維西県の傈人の腊者布らが事を起こし、琅玕が討って腊者布を捕らえ、康普の寨を落とした。十二月、安徽宿州の匪徒を費淳らが平らげた。

八年閏二月、内務府の厨役の成徳が順貞門で帝を刺そうとし、固倫額駙の喀爾喀親王拉旺多爾済が取り押さえた。供述せず、子の禄児・対児ともども磔にしたが、指図した者は分からなかった。九月、致仕した尚書の彭元瑞が死んで文勤と諡した。九年十二月、大学士の劉墉が死んで文清と諡した。父の統勲は乾隆朝で終始獄に入らなかったただ一人の大臣で、墉も父に続いて宰相となった。十年正月、大学士の王杰が死んで文端と諡した。和珅と同列にありながら同調せず、その処刑も密かな助言の力が多かった。二月、紀昀が死んで文達と諡した。四庫全書館の総纂として一書ごとに提要を作り、大手筆と称された。四月、西洋人の徳天賜を布教のかどで熱河に禁錮し、陳若望ら六十四人も伊犁に流した。八月、公の額勒登保が死んで忠毅と諡した。文字を知らぬので訳した三国演義を授けられて名将となり、諸将が凱旋に輜重を積む中、ひとり荷物はわびしかった。十一年十二月、大学士の朱珪が死んで文正と諡した。帝の師で、学識ある者や貧しい士の名を朝廷で称揚した。十二年八月、甘粛大通県の番乱を平らげた。十三年、王履泰の畿輔安瀾志が進呈され、十七年、流言を奏した御史の栄春を降格し、十八年、鮑廷博に挙人を賜った。

十四年正月、総管内務大臣の広興を絞に処した。もと給事中として和珅を弾劾し正直の名があったが、緞庫の件で革職され、山東巡撫の吉綸が、周は天下の事を全うし、広は世間の財を集む、という民間の歌謡を奏したので廷議に付した。連座は十余人に及んだ。二月、貝子の徳麟に父の福康安の簠簋不飭を論じて河南の河工の修築費を負担させた。三月、西安将軍の徳楞泰が死んで壮果と諡した。六月、山陽知県の王伸漢を市に処した。賑済に水増しをし、暴こうとした委員の李毓昌を毒殺したためで、知府の王穀は絞、総督の鉄保は革職された。九月、浙江学政の劉鳳誥を黒竜江に流した。十月、山西布政使の劉清を刑部員外郎に左遷した。清はかつて四川で賊二万を招降し、王三槐が廷議で四川の善い官はただ劉青天一人と答えたので抜擢されたが、総督の勒保が一方面を任せるに足りないと奏した。

十五年二月、河工が荒廃し漕運が滞ったので海運を試みさせ、三月、阿片を携えての入城を厳しく取り締まらせた。十九年正月、再び捐納の例を開き、閏二月、名糧を削って兵一万四千二百四十名、馬一千三百五十六匹を減じた。二十年四月、御製の官箴二十六則を頒ち、四川の洛布七力の乱を平らげた。八月、両江総督の百齢に太子少保を返し三等男に進めた。この春、湖北・江西などで謀反の匿名の掲帖が捕らえられ、督撫の探索も手がかりがなかったが、百齢が和州・巢県で厳士隴ら百五十人を捕らえて極刑に処した。十二月、清茶門教の匪徒を厳しく捕らえさせた。灤州石仏口の王姓の者は先祖が前明から白蓮教を立てて聞香教主と称し、那彦成に捕らえられた。二十一年八月、秋の狩りは我が朝の家法であり、今後雨や寒さを口実に議を起こす者は軍法で処断すると諭した。十一月、百齢が死んで文敏と諡した。硬骨で二十余年閑職に浮沈し、嘉慶の初めに重鎮を歴任した。二十二年六月、大学士の松筠を盛京行幸を諫めたとして革職し、九月、宗室の海康・慶遥を邪教のかどで絞に処した。二十三年、致仕した大学士の董誥が死んだ。二十四年四月、兵部が公用の印を紛失したとして松筠らを革職し、七月、木蘭で狩りを行い、避暑山荘の行殿で崩じた。遺詔により皇次子の智親王綿寧が位を継いで名を旻寧と改め、翌年を道光元年とした。寿は六十一、昌陵に葬られ、睿と諡し、廟号を仁宗とした。

年表

乾隆帝の死を受けて嘉慶四年(1799年)に親政を始めた仁宗が、和珅の処断と貢献の廃止から出発し、崩御の年までのおよそ二十年間に行った政治の推移を年ごとに記す。捐納・横領の摘発、刑具や越訴の統制、阿片の禁、邪教の取り締まりなど綱紀の引き締めを重ねる一方、洪亮吉の流罪や法式善の降格のように直言を退ける処置も並ぶ。劉墉・王杰・紀昀・朱珪・額勒登保・徳楞泰・百齢ら乾隆以来の重臣が次々に世を去り、水害・旱魃・日食が相次ぎ、成徳の刺客事件や広興・王伸漢の汚職が露見する。毎年の木蘭行幸を家法として守り通したまま、帝は避暑山荘で崩じ、皇次子旻寧が位を継いで道光と改元した。

年表(21件)

現代語訳全文

西暦1799年 仁宗嘉慶四年

  • 春正月、帝がみずから政務を執った。詔して貢献(地方からの献上)を廃止し、その諭旨の中に「諸臣が如意を献上してくるが、朕はこれを見てかえって如意ならず(意にかなわない)と思う」という言葉があった。
  • このとき葉爾羌(ヤルカンド)で大塊の五色石を採掘して切り出し、車で嘉裕関(嘉峪関の誤りか)の前まで運んできていたが、これを関内に運び入れるには及ばないと命じた。あわせて葉爾羌・和闐(ホータン)などの地での玉の私売の禁を緩め、各卡倫(からん、辺境の見張り所)の防備の兵を撤収して原隊に復帰させた。一時、珠玉の価格は急に十分の七、八ほども下落したという。
  • 九卿・科道の奏事について諭した。封章の密奏は直接御前に達するものとし、別に副封を作って軍機処に回付してはならない、とした。
  • すでに死去した御史大夫の曹錫宝に副都御史の官銜を追贈した。錫宝は乾隆年間に、和珅の家人である劉全が権勢を頼んで私利をはかり、家産が豊かであることを弾劾して上奏したことがあった。ここに至って和珅が処刑され、劉全の家産を調べて没収したところ、その額は二十万を超えた。帝は錫宝が当時あえて発言したことを嘉して、特にこれを表彰し、あわせてその子の一人に蔭生の資格を与えるよう命じた。
  • 二月、宗室の会試の例を復活させ、あわせて辛酉の科より始めて、生員・監生と同様に郷試を受けさせることとした。
  • 夏四月、降格・調任されていた礼部主事の伊壮図に給事中の官銜を与えた。帝は、前の内閣学士の伊壮図が各直省の倉庫に欠損があることを陳奏したために降格され郷里に帰されたことを思い、深く惜しんで、駅伝を使って京に来させ、抜擢して用いようとした。ここに至って伊壮図が入京したが、母が老いていることを事情として陳べ、軍機の王大臣に代わって奏上してもらうことを願い出た。そこで給事中の官銜を与え、なお駅伝で郷里に帰って母に侍り養うことを許し、あわせて在籍のままで奏事することを認め、その文書は雲南巡撫を経由して転送させることとした。
  • 京城で戯園(芝居小屋)を開設することを禁じた。
  • 五月、各省で官吏の養廉銀および兵丁の月々の俸給を割り引いて差し引くことを禁止した。
  • 秋七月、東南の海沿いで大風雨があり、海嘯(津波・高潮)が起こった。
  • 八月、各省の刑具の規格を定め、勝手に刑具を作った者、および法によらずにみだりに用いた者は、これを罪することとした。
  • 翰林院編修の洪亮吉を伊犁に流した。亮吉は成王永理(成親王永瑆の誤りか)および朱珪・劉権之に上書して時事を論じ、彼らが取り次いで奏上してくれることを期待した。その書の中には和珅に諂い仕えた者たちを列挙し、現に中央・地方の官職にある者が四十余人にのぼると記し、末尾ではさらに乗輿(天子)を指弾して、この三、四か月以来、朝に臨むのがやや遅れており、俳優や側近の者が聖聴を惑わしているのではないかと恐れる、という言葉があった。王がこれを奏聞すると、帝は大いに怒り、その日のうちに逮捕して獄に下し罪を治めさせたが、まもなく死一等を減ずるよう命じ、伊犁に送って将軍の保寧に引き渡し、厳しく管束させた。
  • 九月、江南で洪沢河が決壊した。
  • 冬十月、湖北襄陽道の胡斉崙を絞殺した。湖北の軍需を取り扱った際、思うままに贈り物をし、ついには二十余万両を横領するに至った(底本は「至侵蝕至」に作る。「至侵蝕」の衍字か)ためで、京に逮送して取り調べたところ事実であったので、ただちに絞に処するよう命じた。教匪の討伐を始めて以来すでに四年を経ており、費やした帑銀は七千余万を超えていたが、各省が協力して支出した金額はこの数には含まれていない。その後、四川省の弊害はさらに甚だしいことが判明した。建昌道の石作瑞は帑銀五十余万両を横領し、諸将帥を招いて酒宴を開くことが多くは深い草むらや荒れ野の間であったが、一席の費用はたちまち三、四百金に達し、俳優への賞賜や従僕への慰労はその中に含まれていなかった。福康安が着任したばかりのとき、作瑞は真珠三斛・蜀錦一万匹を贈り、その他の品もこれに見合うものであった。横領した財はもとよりすべて使い果たし、死ぬときには納棺する費用もなく、人々は争ってこれを痛快とした。
  • 冬十月、在京の大官に、才能と操守の人並みすぐれた人物を密かに推薦するよう命じた。
  • 十二月、国子監祭酒の法式善を翰林院編修に降格した。式善は春のころ事宜を箇条書きで上奏したが、その摺の冒頭に「新政維新」という語があり、また八旗が関外に出て屯田することを論じた一節が、大いに帝の意に逆らい、京察のときに罷免する予定であった。ここに至って、尚書の豊仲済倫(豊紳済倫の誤りか)が人材として彼を推薦したところ、帝は請託があったのではないかと疑い、任を解いて廷議で取り調べさせ、まもなく降格・調任を命じた。

西暦1800年 嘉慶五年

  • 夏四月、癸未の朔、日食があった。
  • 旱魃のため、獄を清める(滞留した裁判を処理する)よう命じた。
  • 六月、京に上って越訴(順序を飛ばして訴え出ること)する者への処罰を重ねて厳しくした。
  • 秋八月、王大臣らに命じ、自分から陳奏する事件については自分で持参して提出すべきこととし、各部・各旗の衙門が共同で提出する事件についても、専ら当直の堂官一人を差し向け、みずから宮門に至って奏事官に手渡し受け取らせることとした。
  • 出張する人員について諭し、軍機大臣などが軍機章京を随行させることを許すほかは、その他の各省が軽々しく随行を奏請した場合は、その大臣を罪に問うこととした。
  • 九月、各省の総督・巡撫に重ねて諭し、他省に昇任した人員を引き止めるよう奏請してはならない、とした。

西暦1801年 嘉慶六年

  • 春正月、郷試・会試の答案に、人の知らない稀な子書(諸子の書)を用いること、および卦の篆文の字体で書くことを禁じた。
  • 三月、匿名の文書についての処罰の例を重ねて厳しくした。
  • 夏六月、京師で大雨が降り、宮門の水の深さが数尺に達した。
  • 永定河があふれ、桑乾河が決壊した。詔して言った。「六月の朔日から大雨が五昼夜続き、宮門の水の深さは数尺に達し、桑乾河が決壊して、漫口(決壊口)は四か所、京師の西南の隅はほとんど水浸しの地となった。村落は跡形もなく流され、聞く者は心を痛め、見る者は目をおおう。小民に何の罪があろうか、みな予の罪である。この秋の巡幸は取りやめることにしたい……」云々。
  • 獄を清めるよう命じた。

西暦1802年 嘉慶七年

  • 春二月、雲南維西県の傈人(リス族)の腊者布・恒乍綳が傈僳(リス)の夷人を語らって事を起こし、琅玕にこれを討たせた。
  • 夏四月、部院の大臣で総督・巡撫に任命される者について諭し、軍事や案件審理の任務がある場合を除いては、配下の人員を随行させたいと奏請してはならない、とした。
  • 五月、琅玕が奏上して、傈の首領である腊者布を捕らえ、康普の寨を攻め落とし、北路の傈の匪徒を掃討したことを報じた。
  • 六月、琅玕が奏上して、康普・葉枝の夷の匪徒を包囲討伐し、西路・北路の両路とも全境が通じるようになったことを報じた。
  • 秋七月、帝が木蘭で秋の狩り(秋獮)を行った。
  • 八月、己亥の朔、日食があった。
  • 九月、帝が京師に還った。
  • 冬十月、番役(下級の捕吏)の子孫が官に出仕することと科挙を受けることを禁止した。
  • 十二月、安徽宿州の匪徒が事を起こし、費浮(「費淳」の誤りか)らがこれを討ち平らげた。

西暦1803年 嘉慶八年

  • 春閏二月、内務府の厨役である成徳が帝の行幸の列を侵し、捕らえて処刑した。この月の二十日、帝は斎戒に入り、順貞門に入ろうとしたところ、成徳がまっすぐ進み出て刺そうとしたが、固倫額駙(天子の娘婿)である喀爾喀(ハルハ)親王の拉旺多爾済がたちどころに取り押さえた。廷議で取り調べたが供述せず、ただ「事がもし成っていたら、あなたがたの坐っている場所が、すなわち私の坐る場所になっていただけのことだ」と言った。深く詰問するには及ばないと命じ、その子の禄児・対児ともども磔にしたが、結局だれの指図によるものかは分からずじまいであった。
  • 秋七月、帝が木蘭で秋の狩りを行った。
  • 九月、致仕(予告)した尚書の彭元瑞が死去し、協弁大学士を贈り、文勤と諡した。元瑞は天分に恵まれて才気が豊かで、紀昀とともに才人との評があった。その作る科挙用の文章は婉麗で清新であり、人々は争って伝え誦した。
  • 東河の衡家楼で河があふれた。
  • 帝が京師に還った。
  • 冬十月、衡家楼の工事のために捐納の例を開いた。
  • 十一月、上控(上訴)の案件を原審の官に差し戻すことを重ねて禁じた。

西暦1804年 嘉慶九年

  • 秋七月、帝が木蘭で秋の狩りを行った。
  • 九月、帝が京師に還った。
  • 冬十二月、大学士の劉墉が死去し、文清と諡した。墉の父の統勲は、事にあたって明敏であり、性格はまた剛毅で、古の大臣の風格があり、高宗は彼をかなり敬い憚った。乾隆朝の大臣のうち、終始一度も刑部の獄に入らなかった(底本は「未未曾」に作る。「未曾」の衍字か)者は、統勲ただ一人だけであり、死後に文正と諡された。墉は貴公子として名のある翰林となり、書の名声は天下に満ち、父に続いて宰相となり、天下の人は彼を小諸城(小さい方の諸城の人)と呼んだ。

西暦1805年 嘉慶十年

  • 春正月、致仕した大学士の王杰が京師で死去し、文端と諡した。杰は宰相の地位にあって和珅と同列であったが、守るべきことに出会うと、ついに和珅と同調しなかった。のちに和珅が処刑されたのは、その密かな助言の力によるところが多かったという。
  • 二月、協弁大学士の紀昀が死去し、文達と諡した。昀は『四庫全書』館の総纂官となり、一書を進めるごとに劉向・曾鞏の例にならって提要を作り、書物の巻頭に冠し、当時これを大手筆(大文章家の筆)と称えられた。
  • 夏四月、西洋人の徳天賜を熟河(熱河の誤りか)の厄魯特(オイラト)の営房に禁錮した。内地で書物を刊行して布教したためである。彼に代わって書信を送り届けた者、および入教した者・布教した者である広東の陳若望ら、男女あわせて六十四人は、いずれも伊犁に流し、厄魯特に与えて奴とした。
  • 六月、永定河があふれた。
  • 閏月、蚩尤旗(ほうき星の一種)が紫微垣に現れ、その翌日、南方で大雨が降った。
  • 秋七月、帝が木蘭で秋の狩りを行った。
  • 八月、御前大臣・都統・公の額勒登保が死去し、忠毅と諡した。額勒登保は、初め海蘭察の部下に属し、戦うたびに敵陣に突入した。海蘭察は彼に語って「そなたは将の才がある、古の兵法をひととおり知っておくとよい」と言い、彼が文字を知らなかったので、翻訳した『三国演義』を取り寄せて授けた。こうしてついに名将となり、とりわけ身の潔白を厳しく守った。長く用兵に従事するうちに、諸将の多くは財貨を蓄え、凱旋の日に盧溝橋を過ぎるときは、みな輜重が山と積まれていたが、額勒登保だけは荷物がわびしいばかりで、ただ運のめぐり合わせが悪かった(数奇)というだけのことであった。
  • 九月、帝が京師に還った。

西暦1806年 嘉慶十一年

  • 春正月、死罪を免じて流刑に改めた罪人について、年限を区別して減刑・釈放する例を定めた。
  • 三月、浙江・江蘇などの省から米を海外に販売することを厳禁した。
  • 秋七月、帝が木蘭で秋の狩りを行った。
  • 九月、京師に還った。
  • 冬十二月、大学士の朱珪が死去し、文正と諡した。珪は帝の師であり、『大学』の益利の弁(義利の弁の誤りか)や、『通鑑』における治乱の由来について、繰り返し説き述べて倦むことがなかった。とりわけ士を好むことで知られ、学識のある人や貧しい士については、必ずその名を朝廷で称揚した。

西暦1807年 嘉慶十二年

  • 夏四月、旱魃のため、獄を清めるよう命じた。
  • 地方官が勝手に法外の刑具を作ることを重ねて禁じた。
  • 五月、各省の奏事・咨文の案件について、期限を過ぎた場合の処分を定めた。
  • 秋七月、火星が西方に現れ、四か月を経て消えた。
  • 八月、甘粛大通県の番人が事を起こし、これを討ち平らげた。
  • 帝が木蘭で秋の狩りを行った。
  • 九月、八旗が民間の子を引き取って養い、跡継ぎとすることを厳禁した。
  • 帝が京師に還った。
  • 冬十月、武挙の会試の内場での策論を廃し、改めて『武経』を暗誦して書かせることとした。
  • 十一月、天壇の斎宮が火災に遭った。

西暦1808年 嘉慶十三年

  • 春三月、直隷の軍流(軍への流配)以下の罪を減ずるよう命じた。
  • 夏六月、江蘇の荷花塘で運河があふれた。
  • 江南の七里溝で運河があふれた。
  • 秋七月、帝が木蘭で秋の狩りを行った。
  • 九月、試用の通判である王履泰が編纂した『畿輔安瀾志』を進呈し、旨を奉じて御覧に供された。
  • 帝が京師に還った。
  • 冬十月、癸巳の朔、日食があった。

西暦1809年 嘉慶十四年

  • 春正月、総管内務大臣の広興を絞殺した。広興は初め給事中の官にあり、和珅を弾劾したことで正直の評判が高く、次第に昇進して今の職に至った。その後、緞庫の官吏が総管太監の孫進忠と結託し、宮中に支給する綢緞の数が合わないと摘発されたことにより、免職された。帝は山東・河南に命じて、広興がかつて両省へ案件の審理に出向いた際の悪しき行状を密かに調べさせた。山東巡撫の吉綸が返答して奏上した。「広興は都御史の周廷棟とともに山東で案件を審理したが、周廷棟はまったく主体性がなく、民間には『周は天下の事を全うし、広は世間の財を集む』という歌謡さえありました」。帝は大いに怒り、廷議で取り調べさせ、ここに至って絞に処するよう命じ、子の蘊秀らは吉林に流した。陝甘総督の長齢は、当時山東巡撫の任にあって、藩司の邱庭漋が帑金を動かして用務を処理するのを放任しており、伊犁に流され(底本は「遺戍」に作る。「遣戍」の誤りか)、庭漋は黒竜江に送られた。この事件では、中央・地方で連座して厳しい譴責を受けた者が十余人に及んだ。
  • 二月、貝子の徳麟に罰として河南の重要な河工の修築費を負担させた(底本は「損修」に作る。「捐修」の誤りか)。その父の福康安が生前に簠簋不飭(役人としての身持ちが正しくないこと)であった罪を、さかのぼって論じたものである。
  • 三月、西安将軍・公の徳楞泰が死去し、壮果と諡した。徳楞泰は勇を奮って果敢に戦い、以前四川で教匪を征討したときには額勒登保と心を合わせて力を尽くし、成功を収める基礎をつくった。
  • 夏六月、山陽知県の王伸漢を市中で処刑した。伸漢は賑済を扱うにあたって水増しの不正を行い、派遣された委員の李毓昌がこの件を暴こうとしたので、伸漢は彼を毒殺して口を封じた。ここに至って京に逮送して取り調べたところ事実であったので死刑に処し、知府の王穀は絞に処し、総督の鉄保は免職とした。
  • 秋七月、帝が木蘭で秋の狩りを行った。
  • 九月、浙江学政の劉鳳誥を黒竜江に流した。監臨を代行した際に、受験生の徐歩鑒に連番の答案番号を用いさせる不正があったためである。
  • 帝が京師に還った。
  • 冬十月、山西布政使の劉清を刑部員外郎に左遷した。清は以前四川にいたとき、川東の賊二万を招いて降伏させ、賊と大小百余回戦って、斬った首は万を数え、とりわけよく民心を得ていた。王三槐が捕虜として京に送られ廷議で取り調べられたとき(「少京」は「京」の誤りか)、「官が民を逼って反乱させたのだ」と供述した。帝が「四川一省の官はみな善くないのか」と問うと、「ただ劉青天(劉清)一人がおります」と答えた。帝はただちに特別の抜擢を加え、次々に昇進して今の職に至ったのであるが、四川総督の勒保は彼を深く嫉み、「清は民を治める任には余りあるが、一方面を任せるには足りない」と奏上したので、ついに左遷されることになった。のちにまた曹州鎮総兵に復した。

西暦1810年 嘉慶十五年

  • 春二月、海運を試みに行うよう命じた。河工が荒廃して、漕運が滞ったためである。
  • 三月、阿片を携帯して入城することを厳しく取り締まるよう命じた。
  • 夏六月、山西で大旱魃があった。
  • 秋七月、永定河があふれた。
  • 帝が木蘭で秋の狩りを行った。
  • 九月、京師に還った。
  • 冬十月、河南の高堰・山盱で、両庁の堤防が決壊した。

西暦1811年 嘉慶十六年

  • 夏四月、京師および河南・山東が旱魃であったので、獄を清めるよう命じた。
  • 六月、西北に星の光芒が現れ、三、四丈にわたってあふれた。
  • 八月、白虹が現れた。

西暦1812年 嘉慶十七年

  • 春二月、諭して、およそ軍流の罪人が、配所から人を京に遣わして封章を提出させた場合は、その内容の是非・虚実を問わず、一律に罪に問うこととした。
  • 御史の栄春を一級降格して調任した。弁髪をひそかに切り取るという流言を取り上げて上奏したためである(底本は「髮辦」に作る。「髮辮」の誤りか)。
  • 秋七月、各省の総督・巡撫に重ねて諭し、配下が勝手に法外の刑具を作っていないか厳しく調べさせた。

西暦1813年 嘉慶十八年

  • 夏六月、宗室・覚羅が漢人と婚姻することを重ねて禁じた。
  • 浙江の生員である鮑廷博に挙人の資格を賜るよう命じた。廷博は乾隆年間に、その蔵書である『知不足斎』叢書を進献しており、ここに至ってさらに自ら刻した『知不足斎』叢書の第二十六集を進献した。帝はその古を好み学問を積み、老いてなお倦まないことを嘉し、そこでこの命があった。
  • 秋七月、阿片煙を密売することを重ねて禁じ、官・民が服用した場合の罪を定めた。
  • 帝が木蘭で秋の狩りを行った。
  • 八月、挙人については四科ごとに一度大挑を行い、なお従来の例どおり三科分の挙人を差し引くことと定めた。
  • 九月、帝が京師に還った。

西暦1814年 嘉慶十九年

  • 春正月、再び捐納の例を開いた。十九年四月から翌年五月までで止めることとし、これを豫東の例と称した。
  • 閏二月、学士の蔡之定が楮砂(楮鈔=紙幣の誤りか)を通用させることを請うたが、許されなかった。
  • 諭して、乾隆年間に増設した名糧の定数を、酌量して削減するよう議させ、なお旧来の例に復させた。まもなく部の議により、各省を合計して兵一万四千二百四十名、馬一千三百五十六匹を削減した。
  • 夏六月、庚申の朔、日食があった。
  • 江南が旱魃であった。
  • 秋七月、江南の蘇州・松江・太倉の各府・州・県で、地面に髪のような白い毛が生えた。
  • 帝が木蘭で秋の狩りを行った。
  • 九月、京師に還った。

西暦1815年 嘉慶二十年

  • 夏四月、御製の官箴二十六則を頒布し、中央・地方に宣示した。
  • 四川の中瞻対の番の首長である洛布七力が乱を起こし、これを討ち平らげた。
  • 六月、乙卯の朔、日食があった。
  • 七月、帝が木蘭で秋の狩りを行った。
  • 八月、両江総督の百齢に太子少保の官銜を返し、爵を三等男に進めた。これより先、この年の春に、湖北・江西・安徽・江蘇などの省で、匿名の掲帖(貼り紙)を捕獲した(底本は「捨獲」に作る。「拏獲」の誤りか)。上には九龍の朱印が押され、字体は奇怪で、言葉は謀反にわたるものであった。そこで各省の総督・巡撫に命じて探索させたが手がかりはなかった。ここに至って百齢が人を和州・巢県などの地方に遣わし、厳士隴・方栄升ら主犯・従犯百五十人を捕らえ、取り調べて事実を確かめ、極刑に処して、網を漏れた者は一人もいなかった。帝は重ねてこれを特別に嘉し、官銜と世爵を返し与えた。
  • 九月、帝が京師に還った。
  • 冬十月、山西・河南で地震があった。
  • 十二月、江南・湖北・湖南の各総督・巡撫に諭し飭して、清茶門教の匪徒を厳しく捕らえさせた(原文「嚴命茶清茶門教匪」は「嚴拿清茶門教匪」の誤りか)。濼州(灤州の誤りか)石仏口に王という姓の者がおり、その先祖は前明の時代から白蓮教を唱えて立て、みずから聞香教主と称し、二百余年にわたって伝えられ、教の名を清茶門と改めていた。このとき督臣の那彦成に捕らえられ、帝は法に依って懲罰するよう命じた。その各直省で布教している匪犯についても、各総督・巡撫に速やかに捜索・逮捕するよう命じた。

西暦1816年 嘉慶二十一年

  • 秋七月、帝が木蘭で秋の狩りを行った。
  • 八月、諭して、毎年秋の狩りを行うのは我が朝の家法であり、必ず永遠に遵守すべきである、今後、哨(狩場)に入るたびに、大小の臣工はいっさい雨や寒さを口実にみだりに軽々しい議論を起こすことを許さない、もしなお浮ついた言を作り出して阻止しようとはかる者があれば、必ずその人を軍法で処断し、ただちに刑を執行して少しも寛大に扱わない、とした。
  • 九月、京師に還った。
  • 冬十一月、両江総督の百齢が死去し、協弁大学士を賜り、文敏と諡した。百齢は若くして当時の人望を負い、当局の者は争って引き立てようとしたが、彼は硬骨で人と異なり、他人に従って上下することをいさぎよしとせず、二十余年も不遇な閑職に浮沈するに至った。嘉慶の初めに至って、はじめて重鎮を歴任し、勲功と声望は堂々たるものであった。

西暦1817年 嘉慶二十二年

  • 春二月、はじめて大挑で選ばれた人員を、河工の任務に分けて派遣することを命じた。
  • 夏四月、甲戌の朔、日食があった。
  • 大旱魃のため、獄を清めるよう命じた。
  • 五月、新たに進士となった者の朝考について、詩・疏・論を出題することとし、擬詔を除いて用いないこととし、これを法令として定めた。
  • 六月、大学士の松筠を免職した。翌年の盛京行幸を諫めて阻止しようとしたためである。
  • 秋七月、帝が木蘭で秋の狩りを行った。
  • 九月、京師に還った。
  • 宗室の海康・慶遥を絞殺した。いずれも邪教を学び習ったためである。
  • 冬十月、辛未の朔、日食があった。

西暦1818年 嘉慶二十三年

  • 夏四月、戊辰の朔、日食があった。
  • 京師で風霾(砂ぼこりを含む強風)があり、室内で蝋燭をともした。致仕した大学士の董誥が死去した。誥は董邦達の子であり、父子ともに絵事に巧みであることをもって、長く南書房に出仕し、大いに用いられるに至った。

西暦1819年 嘉慶二十四年

  • 夏四月、盛京将軍の松筠、兵部尚書の和世泰、侍郎の裕恩らを免職した。兵部が公用の印を紛失したためである。
  • 秋七月、帝が木蘭で秋の狩りを行った。
  • 帝が避暑山荘の行殿で崩じた(二十五年=1820年の誤りか)。遺詔により皇次子の智親王綿寧に位を継がせ、名を旻寧と改め、翌年を道光元年とすることとした。帝の寿は六十一歳、宝華峪に葬られ、陵を昌陵と号し、睿と諡し、廟号を仁宗とした。
原文(底本)
仁宗嘉慶四年,春正月,帝親政,詔罷貢獻,諭中有『諸臣以如意進者,朕視之轉不如意』語。時葉爾羌採解大塊五色石,輦至嘉裕關前,令無庸解入,並弛私售葉爾羌、和闐等處玉禁,撤回各卡倫防兵歸伍。一時珠玉之價,驟減十之七八云。 諭九卿科道奏事,封章密奏,直達御前,不得另具副封關會軍機處。 追贈已故御史大夫曹錫寶副都御史銜。錫寶在乾隆中,嘗劾奏和珅家人劉全倚勢營私,家貲豐厚。至是珅伏法,查抄全家產,數逾二十萬,帝嘉錫寶當日之敢言,特旌之,並令給予一子蔭生。 二月,復宗室會試例,並著自辛酉科爲始,與生監一體鄉試。 夏四月,給降調禮部主事伊壯圖給事中銜。帝念前內閣學士伊壯圖以陳奏各直省倉庫虧缺,降調回籍,深致婉惜,令馳驛來京,將加擢用,至是伊壯圖來京,以母老陳情,乞軍機王大臣代奏,命給予給事中銜,仍令馳驛回籍侍養,並準其在籍奏事,呈由雲南巡撫轉遞。 禁京城開設戲園。 五月,禁止各省攤扣官員養廉及兵丁月餉。 秋七月,東南濱海大風雨,海嘯。 八月,定各省刑具式,有私創及非法濫用者,罪之。 戍翰林院編修洪亮吉於伊犁。亮吉上書成王永理及朱珪、劉權之,言時事,冀其轉奏,書中羅列諂事和珅諸人,現列官中外者四十餘人,末復指斥乘輿,有三四月以來,視朝稍晏,恐有俳優近習熒惑聖聽語。王以聞,帝大怒,即日逮獄治罪,尋命免死,發往伊犁交將軍保寧嚴行管束。 九月,江南洪澤河決。 冬十月,絞殺湖北襄陽道胡齊崙,因經手湖北軍需,任情餽送,至侵蝕至二十餘萬兩,逮京訊實,命即處絞。自勦辦教匪以來,已厯四載,費帑銀數逾七千餘萬,而各省協濟之欵尚不在此數。嗣查川省弊端更甚,建昌道石作瑞吞侵帑銀至五十餘萬兩,延諸將帥會飲多在深菁荒蔍間,一席之費,輒至三四百金,賞賜優伶,犒賞僕從,不與焉。福康安初至,作瑞饋珍珠三斛,蜀錦一萬匹,他物稱是。所侵者固皆蕩盡,至死無殮,人爭快之。 冬十月,命在京大員密保才守出衆人員。 十二月,降國子監祭酒法式善爲翰林院編修。式善於春間條奏事宜,摺首有「新政維新」語,及論八旗出關屯田一節,大忤帝意,擬京察時罷斥。至是,尚書豐仲濟倫,以人才保薦,帝疑有請託,命解任下廷鞠,尋命降調。

五年,夏四月,癸未朔,日食。 以旱,命清獄。 六月,申嚴赴京越訴罪。 秋八月,命王大臣等於自行陳奏事件,須自行呈遞,即各部旗衙門公遞事件,亦應專差值堂官一人,親自到宮門,遞交奏事官接受。 諭出差人員,除軍機大臣等,準其隨帶軍機章京外,其餘各省率行奏請者,即將該大臣治罪。 九月,申諭各省督撫,毋奏留升任他省人員。

六年,春正月,禁鄉會試卷用隱僻子書及書寫卦篆字體。 三月,申嚴匿名文書坐罪例。 夏六月,京師大雨,宮門水深數尺。 永定河溢,桑乾河決。詔曰:「自六月朔日,大雨五畫夜,宮門水深數尺,桑乾河決,漫口四處,京師西南隅幾成澤國。村落蕩然,聞者傷心,見者慘目。小民何辜,皆予之罪也,擬今秋停止巡幸……」云云。 命清獄。

七年,春二月,雲南維西縣傈人腊者布、恆乍綳句結傈僳夷人滋事,命琅玕勦之。 夏四月,諭部院大臣簡放督撫者,除有兵差審案之事,不得奏請隨帶所屬人員。 五月,琅玕奏,擒獲傈首腊者布,攻克康普寨,勦洗北路傈匪。 六月,琅玕奏,兜勦康普葉枝夷匪,西北兩路,全境疏通。 秋七月,帝秋獮木蘭。 八月,己亥朔,日食。 九月,帝還京師。 冬十月,禁止番役子孫出仕應試。 十二月,安徽宿州匪徒滋事,費浮等討平之。

八年,春閏二月,內務府廚役成德犯蹕,捕獲伏誅。是月二十日,帝進齋戒,將入順貞門,成德徑前行刺,固倫額駙喀爾喀親王拉旺多爾濟立擒之。下廷訊,無供,但云事若成,則公等所坐之處即我坐處而已。命不必深詰,並其子祿兒、對兒磔之,迄不知何人所使也。 秋七月,帝秋獮木蘭。 九月,予告尚書彭元瑞卒,贈協辦大學士,諡文勤。元瑞天才敏瞻,與紀昀同有才人之目。所作應舉文字婉麗清新,人爭傳誦。 東河、衡家樓河溢。 帝還京師。 冬十月,開衡工捐例。 十一月,申禁上控案件發原審官。

九年,秋七月,帝秋獮木蘭。 九月,帝還京師。 冬十二月,大學士劉墉卒,予諡文清。墉父統勳,遇事神敏,性復剛勁,有古大臣風,高宗頗敬憚之。乾隆朝大臣,其始終未未曾一入刑部獄者,勳一人而已,卒諡文正。墉以貴公子爲名翰林,書名滿天下,繼父爲宰相,天下呼爲小諸城。

十年,春正月,予告大學士王杰卒於京師,予諡文端。杰在相位,與和珅同列,遇所當執,汔不與同。後珅伏誅,其密贊之力爲多云。 二月,協辦大學士紀昀卒,予諡文達。昀爲《四庫全書》館總纂官,每進一書,仿劉向、曾鞏例,作提要冠諸簡首,時推爲大手筆。 夏四月,圈禁西洋人德天賜於熟河厄魯特營房,因在內地刊書傳教也。其代爲遞送書信及奉教、傳教人,廣東陳若望等,男婦共六十四人,均發伊犁,給厄魯特爲奴。 六月,永定河溢。 閏月,蚩尤旗見紫微垣,越日,南方大雨。 秋七月,帝秋獮木蘭。 八月,御前大臣都統公額勒登保卒,予諡忠毅。額勒登保,初隸海蘭察部下,每戰輒陷陣。海蘭察語之曰:“子將才,宜略識古兵法。”以其不識字,取譒繹《三國演義》授之,遂爲名將,尤嚴操守。用兵久,諸將多蓄貨財,凱旋日,過盧溝橋,皆輜重累累,額勒登保獨行李蕭然,數奇而已。 九月,帝還京師。

十一年,春正月,定免死改遣罪犯,分別年限減釋例。 三月,嚴禁浙江、江蘇等省販米出洋。 秋七月,帝秋獮木蘭。 九月,還京師。 冬十二月,大學士朱珪卒,予諡文正。珪爲帝師,於大學益利之辯,通鑑治亂之由,反覆陳說不倦。尤以好士聞,通人寒士,必揚其名於朝。

十二年,夏四月,以旱,命清獄。 申禁地方官擅造非刑。 五月,定各省奏咨案件達限處分。 秋七月,有火星見於西方,厯四月而滅。 八月,甘肅大通縣番滋事,討平之。 帝秋獮木蘭。 九月,嚴禁八旗抱養民子爲嗣。 帝還京師。 冬十月,罷武會試內場策論,改令默寫武經。 十一月,天壇齋宮災。

十三年,春三月,命減直隸軍流以下罪。 夏六月,江蘇荷花塘運河溢。 江南七里溝運河溢。 秋七月,帝秋獮木蘭。 九月,試用通判王履泰進呈編輯《畿輔安瀾志》,奉旨留覽。 帝還京師。 冬十月,癸巳朔,日食。

十四年,春正月,絞殺總管內務大臣廣興。廣興初官給事中,以參和珅著直聲,洊擢今職,繼以緞庫官員串通總管太監孫進忠,挑斥宮中支應綢緞數目不符,革職。帝命山東、河南密查廣興前往該兩省審案時劣績,東撫吉綸覆奏:“廣興與都御史周廷棟同在東省審案,周廷棟全無主持,至民間有‘周全天下事,廣聚世間財之謠。’”帝大怒,下廷訊,至是命處絞,子蘊秀等戍吉林。陝督長齡,時在東撫任內,聽任藩司邱庭漋動帑辦差,遺戍伊犁,庭漋發黑龍江。是案,中外因連獲嚴譴者十餘人。 二月,罰貝子德麟損修河南要工,追論其父福康安生前簠簋不飭罪也。 三月,西安將軍公德楞泰卒,予諡壯果。德楞泰奮勇敢戰,前在川徵教匪時與額勒登保同心戮力,以底成功。 夏六月,棄山陽知縣王伸漢於市。伸漢辦振浮冒,委員李毓昌將案揭之,伸漢毒斃之以滅口,至是逮京訊實正法,知府王穀處絞,總督鐵保革職。 秋七月,帝秋獮木蘭。 九月,戍浙江學政劉鳳誥於黑龍江,以代辦監臨,有將應試生徐步鑒用聯號情弊也。 帝還京師。 冬十月,左遷山西布政使劉清為刑部員外郎。清前在四川時,招降川東賊二萬,與賊大小百餘戰,斬馘萬計,尤能得民心。王三槐俘至少京廷訊,供言官逼民反,帝問四川一省官皆不善耶,曰惟有劉青天一人,帝立加殊擢,累官至今職,川督勒保深嫉之,奏言清民社有餘,方面不足,遂致左遷,復官至曹州鎮總兵。

十五年,春二月,命試辦海運,以河工弊壞,漕運阻滯故也。 三月,命嚴查攜帶雅片入城。 夏六月,山西大旱。 秋七月,永定河溢。 帝秋獮木蘭。 九月,還京師。 冬十月,河南高堰山盱,兩廳隄壩決。

十六年,夏四月,以京師及河南、山東旱,命清獄。 六月,西北有星芒,溢三四丈。 八月,白虹見。

十七年,春二月,諭凡軍流人犯,有在配所遣人來京呈遞封章者,無論是非虛實,均一體治罪。 降御史榮春一級調用,以訛言偷翦髮辦入奏故也。 秋七月,申諭直省督撫,嚴查所屬私造非刑。

十八年,夏六月,申禁宗室覺羅與漢人爲婚。 命賜浙江生員鮑廷博舉人。廷博於乾隆間,進其藏書之《知不足齋》,至是復進所刻《知不足齋》從書第二十六集,帝嘉其好古績學,老而不倦,故有是命。 秋七月,申禁私販雅片煙,定官民服食罪。 帝秋獮木蘭。 八月,定舉人每屆四科大挑一次,仍照例扣除三科舉人。 九月,帝還京師。

十九年,春正月,復開捐例。自十九年四月至明年五月乃止,謂之豫東例。 閏二月,學士蔡之定請行用楮砂,不許。 諭將乾隆年間增設名糧額數,酌議減汰,仍復舊例,尋部議各省統計裁兵一萬四千二百四十名,馬一千三百五十六匹。 夏六月,庚申朔,日食。 江南旱。 秋七月,江南蘇州、松江、太倉各府州縣,地生白毛如髮。 帝秋獮木蘭。 九月,還京師。

二十年,夏四月,頒御製官箴二十六則,宣示內外。 四川中瞻對番酋洛布七力作亂,討平之。 六月,乙卯朔,日食。 七月,帝秋獮木蘭。 八月,復兩江總督百齡太子少保銜,晉爵三等男。先是本年春間,湖北、江西、安徽、江蘇等省,捨獲匿名揭帖,上印九龍朱戳,字體詭異,詞語悖逆,命各省督撫偵刺,無踪,至是百齡遣人於和州、巢縣等地方,緝獲嚴士隴、方榮升等首從百五十人,讞實,抵極法,無漏網者,帝重嘉異之,著賞還官銜、世爵。 九月,帝還京師。 冬十月,山西、河南地震。 十二月,諭飭江南湖北、湖南各督撫,嚴命茶清茶門教匪。有濼州石佛口王姓,其先世自前明以來,倡立白蓮教,自稱聞香教主,流傳二百餘年,改教名爲清茶門,自是爲督臣那彥成拿獲,帝命依律懲治。其直省傳教匪犯,飭各督撫迅速查拿。

二十一年,秋七月,帝秋獮木蘭。 八月,諭歲舉秋獮,係我朝家法,必當永遠遵循。嗣後每遇進哨,大小臣工概不准以雨水寒冷爲詞,妄生浮議。倘仍造作浮言,希圖阻止,必將其人按軍法治罪,立正典刑,不稍寬貸。 九月,還京師。 冬十一月,兩江總督百齡卒,賜協辦大學士,予諡文敏。百齡少負時望,當局爭欲延覽,而挺勁自異,不屑隨人俯仰,至浮沉冷局二十餘年。嘉慶初,始敭厯重鎮,勲望偉然。

二十二年,春二月,始命大挑人員,分發河工差委。 夏四月,甲戌朔,日食。 以大旱,命清獄。 五月,命新進士朝考,以詩、疏、論命題,裁去擬詔不用,著爲令。 六月,革大學士松筠職,因諫阻明年幸盛京也。 秋七月,帝秋獮木蘭。 九月,還京師。 絞殺宗室海康、慶遙,俱以學習邪教故。 冬十月,辛未朔,日食。

二十三年,夏四月,戊辰朔,日食。 京師風霾,室中燃燭。予告大學士董誥卒。誥,邦達子也,父子俱以工繪事,久直南書房,至大用。

二十四年,夏四月,革盛京將軍松筠、兵部尚書和世泰、侍郎裕恩等職,因兵部遺失行印也。 秋七月,帝秋獮木蘭。 帝崩於避暑山莊行殿,遺詔命皇次子智親王緜寧嗣位,更名旻寧,以明年爲道光元年。帝壽六十有一,葬寶華峪,號昌陵,諡曰睿,廟號仁宗。

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