清史紀事本末各省の叛乱(各省之叛乱)

要約

嘉慶元年正月、湖北荊州で白蓮教の匪徒が乱を起こし、巡撫の恵齢に討たせた。白蓮教は治病を名目に偽経で民を惑わせ財を集めるもので、安徽の劉松が甘粛に流された後、弟子の劉之協・宋之清らが四川・陝西・湖北で布教し、劫運まさに至らんと唱え、河南鹿邑の王発生を明の子孫と仮託して扇動した。露見して処刑されたが劉之協は逃げ、四川の官が戸ごとに捜索して無辜を連座させたので、枝江の聶傑人、宜都の張正謨らが蜂起し、みな「官が民を逼って反乱させた」と掲げて五省に蔓延した。時に石柳鄧・石三保・呉八月ら苗匪の征討に兵を割かれ、近くの部隊に討たせた。三月、富志耶が聶傑人を捕らえたが、姚之富と斉林の妻王氏が再び挙兵した。十一月、提督の永保を逮捕し、苗匪は捕らえられ呉隴登は降った。

二年五月、漢江を渡る姚之富らを撃たなかった恵齢を宜綿に、まもなく勒保に代えた。三年、明亮を獄に下し徳楞泰の職を剝奪したが、諸軍が賊を三坌河に破り、斉王氏・姚之富は崖から落ちて死んだ。七月、額勒登保が羅其清・冉文儔を討ち、勒保は王三槐を得たが、京で三槐が「官が民を逼った」と供述し、帝も哀れんだ。

四年正月、帝は蔓延の因が、和珅の意を受けた統兵大臣が軍を長引かせ脅従の者を殺して功としたことと知り、和珅に自尽を賜い、勒保を経略大臣として失機の諸臣を処断し、剿撫の方略を改め、堅壁清野を行い、賊の自新の道を開いた。七月、達州に安坐した勒保を明亮に、八月さらに額勒登保に代えた。五年、徳楞泰が冉添元を馬蹄岡に捕らえ、馬慧裕が劉之協を葉県に捕らえて京師に送り誅し、帝は『邪教説』を御製し、従逆の者のみを治め従教の者は治めぬ旨を示した。六年、楊遇春が王廷詔らを捕らえ、七年七月、苟文明を花石崖に斬り、十二月、額勒登保らが川陝の残匪粛清を奏報した。この役は九年を経て、費やした金は二億両に達した。

十一年七月、陝西寧陝の新兵が、月々の塩米銀五銭を布政使の朱勲が停めたため官を殺して叛いた。十月、総兵の楊芳が単騎で賊塁に入り蒲大芳らを降したが、帝は激怒して徳楞泰の職を奪い、楊芳を伊犁に流し、降兵を関外で誅させた。文官は問われず、聞く者は無実の罰とした。ほどなく四川綏定・陝西西郷の兵変も起こり、人心の不平を示した。

十二年十二月、李長庚が海賊の蔡牽を南澳の洋に破ったが、牽は安南に逃れた。牽は、福建の艇匪を併合し、総督の玉徳・阿林保が長庚の功を妬んで妨げたため勢いを増し、台湾の府城を攻めて鎮海王と称し、鹿耳門では財を散じて援兵を買収し囲みを破った。阿林保が一首領を斬って蔡牽の首と報告せよと勧めても、長庚は賊とともに死んでも生きはしないと答え、弾劾された。黒水洋の大戦で牽の船は三艘に減ったが、牽の奴僕の林阿小が火銃で長庚を斃した。十四年八月、孤立した牽を邱良功・王得禄が緑水洋に破り、牽は自船を裂いて海に沈み、海路は粛清された。

十八年九月、河南滑県で天理教の匪徒が乱を起こして県城を拠り、県令の強克捷は殉じ、温承恵に討たせた。天理教は白蓮教の流れで、滑県の李文成と大興の林清が首魁となり、清は内侍に賄賂して通じ、彗星の占いをこじつけて帝の木蘭行幸の隙に京師を占拠しようとした。克捷の密告は巡撫の高杞らに用いられず、克捷は文成を獄に下したが、一党は期日を待たず叛いて克捷を殺し文成を出し、直隷・山東の諸県でも官を殺し、曹と定陶は陥落した。十五日、林清は二百余人を宣武門から潜入させ、太監の手引きで東華門・西華門を侵し「大明天順」の白旗を掲げたが、養心門で皇次子の旻寧に二人を撃たれ、禁軍に捕らえられ、林清も黄村で誅された。帝は罪己の詔を下して朕の薄徳のゆえと言い、諸大臣が因循して力を尽くす者を陥れるゆえにこの変が起こったと責めた。変を聞いた董誥は涙して還幸を請い、曹振鏞は鎮静を勧め、時人は「庸庸碌碌たる曹丞相、哭哭啼啼たる董太師」と評した。

十月、温承恵を那彦成に代え、楊遇春に道口の文成を討たせた。十一月、道口を破ったが滑県は落ちず、城を出た文成は楊芳に追われ焼身して死に、十二月、穴を掘って城を崩し牛亮臣らを斬った。陝西南山の人夫が飢饉で木廠を焼いたのを朱勲が教匪と報じ、十九年正月、長齢らが廠賊の陳四・尹朝貴を生け捕りにした。十月、江西の朱毛俚が後明と号して謀反をはかり、阮元に探知されて胡秉輝ら十七人を磔、程麟祥ら三十五人を絞に処し、毛俚は逃げた。二十年、四川の洛布七力の乱を常明が平らげ、塔什密里克の回人の孜牙墩の乱は成寧らが鎮めた。二十二年三月、雲南臨安の辺外の高羅衣が漢人駆逐を名目に一万余を集め窩泥王と称したが、伯麟が処刑した。二十三年六月、甥の高老五が小窩泥王と称して府城に迫ったが、桂朝陽らに捕らえられ余党も滅ぼされた。

年表

嘉慶元年(1796年)の湖北荊州の白蓮教蜂起から、嘉慶二十三年(1818年)の雲南臨安の高老五の乱まで、各省で相次いだ反乱とその鎮圧を追う。聶傑人・張正謨に始まる教匪は姚之富・斉王氏・王三槐・冉文儔らを擁して五省に広がり、和珅の処断後に勒保・額勒登保・楊遇春らが方略を改めて九年を費やし苟文明の斬殺で終息する。続いて陝西寧陝の新兵の変、李長庚と海賊蔡牽の攻防、李文成・林清の天理教の乱が起こり、林清の徒党は禁城に侵入して皇次子旻寧に撃退され、滑県も那彦成らに攻め落とされる。さらに江西の朱毛俚、四川の洛布七力、カシュガルの孜牙墩、雲南の高羅衣らの騒乱が続いた。

年表(15件)

現代語訳全文

西暦1796年 仁宗嘉慶元年

  • 春正月、湖北荊州で白蓮教の匪徒が乱を起こし、巡撫の恵齢に命じてこれを討伐させた。白蓮教というのは奸悪な民が、精進潔斎して病を治すということを名目に掲げ、偽って経文・呪文や画像を作り、それによって民衆を惑わせて財を集めるものである。安徽の劉松が教中の指導者であったが、事が発覚して捕らえられ、甘粛に流された。その弟子の劉之協・宋之清らは、それぞれ四川・陝西や湖北一帯に赴いて布教し、長い年月のうちに一党の者は日ごとに増えた。そこで「劫運(世の破滅のとき)がまさに至ろうとしている」と唱え、河南鹿邑の王発生を明の子孫の朱姓であると偽り仮託して、世俗の人々を扇動する策とした。事が発覚して、みな処刑されたが、劉之協は隙に乗じて逃走したので、大々的に捜索せよとの旨が下された。四川の県の官(州県の官の誤りか)が執行の仕方を誤り、戸ごとに捜索・逮捕したため、次々に無関係の者まで連座し、奸悪な民はその隙に乗じてこれを扇動した。そして枝江の聶傑人、宜都の張正謨がついに立ち上がって乱を起こし、宜昌府の長楽・長楊などの県で匪徒が大いに蜂起し、いずれも「官が民を逼って反乱させたのだ」という言葉を掲げ、五省に蔓延した。当時、国家はちょうど苗の匪徒を征討するために軍を動かすことに苦しんでおり、貴州では石柳鄧、湖南では石三保・呉半生・呉隴登・呉八月らが相手であった。呉八月は久しからずして捕らえられたものの、その子の廷義・廷礼はなお険阻を頼みとして平然としていた。教匪の事が起こったときには、調発すべき兵がなかったので、近くの部隊に討伐・平定を行わせた。
  • 三月、荊州総兵の富志耶が聶傑人(原文「攝傑人」)を枝江で捕らえた。襄陽の人である姚之富と、教匪の斉林の妻である王氏が、ふたたび事を起こした。
  • 冬十一月、教匪が瀼河を渡り、提督の永保を逮捕して罪を治め、恵齢に軍事を統べさせた。このとき苗の匪徒である石三保・石柳鄧・呉廷義らはみな捕らえられ、呉隴登は降伏してきた。

西暦1797年 嘉慶二年

  • 夏五月、恵齢の任を解き、陝甘総督の宜綿をこれに代えた。姚之富・李全・王延詔らが三つの集団に分かれ、白馬石から漢江を強行して渡ったのに、恵齢が江に沿って迎え撃って殺すこともせず、また追撃・討伐もしなかったためである。まもなく改めて勒保に軍事を統べさせた。

西暦1798年 嘉慶三年

  • 春二月、将軍の明亮を逮捕して獄に下した。匪の首領である斉王氏が逃げて江を渡ったのに、これを遮ることができなかったためである。
  • 夏六月、都統の徳楞(徳楞泰の誤りか)の職を剝奪した。教匪の高均徳が四川の境内に逃げ込んだためである。まもなく諸軍が匪徒を三坌河に追い詰め、これを大いに破り、斉王氏・姚之富はいずれも崖から落ちて死んだ。
  • 秋七月、参賛の勒額登保(額勒登保の誤りか)が羅其清を方山坪で捕らえ、軍を移して冉文儔を通江で襲い、これを斬った。四川北部の二つの大きな集団はいずれも平定された。同じころ総統の勒保は、林亮功を梁山・万県の間で撃ち殺し、王三槐は降伏してきたが、勒保はこれを生け捕りにしたと奏上した。三槐が京に護送されると、帝はみずから取り調べたが、三槐には「官が民を逼って反乱させたのだ」という供述があり、帝もこれを哀れに思った。

西暦1799年 嘉慶四年

  • 春正月、勒保を経略大臣に任じ、各路をすべてその統制下に置いた。当時、帝は、教匪が蔓延したのはみな兵を統べる大臣が和珅の意向を受けて、もっぱら軍を長く留めて軍費を浪費し、脅されて従っただけの者を殺して功として賞を得ることを目的としていたからであると知った。そこで和珅に自尽を賜り、勒保を経略に任じ、機を失した者や災いを引き起こした諸臣を罷免・逮捕して、それぞれ罪を処断し、討伐と慰撫の方略を改めて定め、哀痛の詔を下し、甭野(堅壁清野=野を清める策の誤りか)の策を行い、緑営の兵への手厚い恤みを定め、諸賊が自ら改める道を開いた。これより大悪人は法に伏し、朝廷の謀は一新され、しだいに賊を討つ効果が現れはじめた。
  • 秋七月、経略の勒保を逮捕し、明亮をこれに代えた。勒保は経略の任にあること半年余り、達州に安坐したまま進んで取ろうとせず、教匪が楚省に集まり(「取」は「聚」の誤りか)、日ごとにますます猖獗となるに至らせたのである。
  • 八月、改めて額勒登保を経略に任じた。明亮が任に堪えなかったためである。まもなく尚書の那彦城(那彦成の誤りか)に命じ、欽差大臣として陝西に赴いて明亮の軍を監督させ、提督の慶成、陝西巡撫の永保を逮捕して罪を治めさせた。当時、三人の将帥は不和で、軍を長く出しても功がなかったので、この命があった。

西暦1800年 嘉慶五年

  • 春三月、内大臣の徳楞泰が冉添元を四川の馬蹄岡で大いに破り、これを捕らえた。添元は四川の中を横行し、数十の州県を踏みにじっていたが、ここに至って捕らえられた。まもなくまた賊を潼河で破り、匪の首領である雷士玉・孫嗣鳳・張子璁らを討ち滅ぼした。
  • 夏六月、河南布政使の馬慧裕が、匪の劉之協を葉県で捕らえ、京師に送ってこれを誅した。当時、甘粛の各匪徒は諸軍に追撃され、漢水の北に押し込められて、数日で滅んだ。劉之協が誅されると、諸道の将帥に諭して群賊に布告させ、また『邪教説』を御製して、ただ逆らって従った者だけを処罰し、教えに従っただけの者は処罰しないという趣旨を宣示した。手ごわい賊は失い、動揺していた者は安んじ(底本は「劇寇失反側安」に作る。「失」の下に脱字があるか)、これより大局はようやく少しずつ鎮まっていった。

西暦1801年 嘉慶六年

  • 春二月、陝西提督の楊遇春が賊を西郷の両河口で大いに破り、賊の頭目である王廷詔ら十余人を捕らえて京師に送った。当時、額勒登保の経略は方法を得ており、四川・陝西の十余万の賊はほぼ掃討し尽くされ、残る者は二万余りにすぎず、みな辺鄙な地に散り散りに居るだけであった。

西暦1802年 嘉慶七年

  • 冬十二月、額勒登保らが、四川・陝西の残った匪徒を粛清したことを奏上して報じた。当時、賊はみな敗れた残党であり、ただ苟文明だけが残兵二千余を抱えて、甘粛・陝西を駆け回っていた。諸軍はあらゆる手立てを尽くして討伐・捕縛し、七月ごろに至って、文明を秦嶺の花石崖で斬った。ここに至って首謀の逆賊はすでに尽き、残る匪徒はわずかとなったので、額勒登保は三省の総督らと合議し、大功をもって平定したと報告した。その残党を各方面から掃討するのに、一年余りかかって、ようやく粛清し終えた。この度の軍事は、九年の歳月を経て、費やした金は二億両に達し、ようやく功を成し遂げた(「葳功」は「蕆功」の誤りか)。そして四川の新兵の変が、また次々に起こったのである。

西暦1806年 嘉慶十一年

  • 秋七月、陝西寧陝の新兵が乱を起こし、領侍衛内大臣の徳楞泰に命じて急ぎ赴いて処理させた。これより先、教匪の役では、定員の兵を徴発するのが不便であったために、各地で郷勇を増設し、これを新兵と称した。寧陝では食糧が高価であったので、兵一人ごとに定例の俸給のほかに、月々塩米銀五銭を給し、三年後には一銭減らすと議定してあった。ちょうど減額を実行する時期に当たったが、布政使の朱勲は、部からの公文書を受け取っていないという理由で、四銭のほうも合わせて支給を停止した。新兵は大いに騒ぎ立て、ついに官を殺し、倉庫と牢獄を襲って叛いた。当時、提督の楊遇春はちょうど都に入っており、寧陝総兵の楊芳が提督の職を代行していたが、変を聞いて、みな急ぎ救援に駆けつけた。
  • 冬十月、寧陝の新兵である蒲大芳らが降伏した。徳楞泰の職を奪い、楊芳を伊犁に流した。これより先、四川・陝西の軍中では二人の楊が名を並べていたが、中でも楊芳はとりわけ士卒の心を得ていた。新兵が叛いたときも、まず楊芳の家族を石泉まで護送してから、事を挙げたのである。ここに至って楊芳が軍に着くと、楊遇春に兵をとどめて攻撃を緩めるよう請い、自分は単騎で賊の砦に入り、その首領の蒲大芳らを説いて降伏させた。徳楞泰はことごとく釈放して原隊に復帰させたうえで、叛いた兵は震え恐れ、兵威に追い詰められて命乞いをしたのだ、と奏上した。帝は激怒し、徳楞泰が独断で法を廃したと責めてその職を奪い、楊芳については日ごろ兵を放任して変を醸したと言って、伊犁に流した。そして降伏した兵を率いて関外に出た後、彼らをことごとく誅殺させた。一方で、文官が俸給を停止して変を引き起こしたことについては、罪に問われなかった。この役で楊芳は叛いた軍一万余を招いて降伏させ、格別の勲功があったのに、かえって流されたので、これを聞く者は無実の処罰だとした。ほどなくして、四川綏定・陝西西郷の二度にわたる兵変が起こった。いずれも踵をめぐらす間もなく平定されたとはいえ、これもまた人心のきわめて不平であったことを示している。

西暦1807年 嘉慶十二年

  • 冬十二月、浙江・福建の水師を統べる提督の李長庚が、海賊の蔡牽を南澳の洋上で大いに破った。蔡牽は逃れて安南の海に入り、長庚はまもなく銃弾に当たって死んだ。牽と長庚は、ともに福建同安の人で、駆け引きに巧みで(「捭聞」は「捭闔」の誤りか)、よく人を用いた。これより先、安南の阮光平は海辺の亡命者たちを招き入れ、軍船を与えて、近海の商船を略奪させ、それを自国に運び入れて国用の助けとしていた。光平が死に、その子の福映が新たに中国の冊封を受け、取り決めに従って海賊を断ち切ったので、福建にいた艇匪はことごとく蔡牽に併合され、勢いはたいそう猖獗となり、七、八年にわたって海上を縦横に荒らし回った。たびたび長庚に破られはしたが、前後の総督である玉徳・阿林保はいずれも満人で、長庚の功を妬み、あらゆる手立てでその足を引っ張ったので、牽は敗れて帰るたびに、かえって多くの者を呼び集めて勢力を増した。十年の冬には、また百余艘をもって台湾を侵し、さらに土匪一万余と連合して府城を攻め、みずから鎮海王と称した。翌年二月、長庚は浙江の水師三千余を率いて台湾に渡り、水陸から並び進んで、五度戦っていずれも勝ち、牽を鹿耳門に追い詰め、日を数えるほどで捕らえられるところであった。ところが牽は四百余万の財を散じて、総督直属の援兵を買収し、残った艦三十余で包囲を突破して海に出ることができた。
  • 帝は玉徳を逮捕して罪を治めた。新任の総督である阿林保が着任すると、酒宴を設けて長庚をもてなし、おもむろに語って言った。「大海で魚を捕らえるのに、いつになったら網に入るのか。海外の事には証拠がない。公はただ首領の一人を斬って、蔡牽の首だと報告してくれればよい。私はすぐさま急使を立てて勝利を報告し、残りの賊は善後処理に回すことにする。そうすれば公は上等の賞を受け、私も次の功にあずかれる。年じゅう鯨の波を冒して、万に一つの幸運を当てにするのと、どちらがましか」。長庚は憤然として言った。「石三保や聶人傑のような事は、長庚にはできません。それに久しく海の船を自分の家のように思っており、危険を恐れません。賊とともに死ぬことを誓っても、賊とともに生きることはいたしません」。阿林保は不快に思い、たびたび彼を弾劾した。それが思うように運ばないと、今度はたびたび檄を飛ばして戦いを急き立て、ぐずついて逃げていると責めた。幕僚たちは長庚に封章を上って奏上するよう勧めたが、長庚は船べりを斬りつけて怒って言った。「大丈夫たる者は死をもって国に報いるのだ。顔に唾を吐きかけられるような辱めは受けない」。ここに至って軍を整えて進み、全員に短兵を持たせるよう命じて、必死の覚悟を固め、牽と黒水洋で大いに戦った(「太戰」は「大戰」の誤りか)。牽は追い詰められて残る船はわずか三艘となり、あわや捕らえられそうになること再度に及んだ。その奴僕である林阿小は長庚の顔を知っており、船窓(原文「運窗」)から火銃を放って長庚に命中させ、長庚はついに死んだ。そして福建の援軍の将である張見陛は、総督の意向をうかがって、戦わずに、にわかに水軍を引いて退いたので、牽は逃れて安南に走ることができた。

西暦1809年 嘉慶十四年

  • 秋八月、浙江提督の邱良功と福建提督の王得禄が、蔡牽を漁山の外洋で挟み撃ちにして、これを破った。牽は水に身を投げて死に(「抽水」は「投水」の誤りか)、海路は粛清された。牽は長庚が死んだと聞いて、安南から船を返し、朱濆と連合して浙江の海を遊弋していた。のちに濆が福建の軍に砲撃されて死に、その弟の渥が部下を率いて降ったので、牽の勢いは孤立した。良功・得禄と長庚は、みな柴大紀の部将であり、生死をともにすることを誓った仲であった。長庚が戦死してからは、日夜その仇を討つことを思っていたが、ここに至って両省の水師を合わせて、牽を定海の漁山の外の緑水洋で攻め、一昼夜血戦して、牽の乗る船の舵楼を焼き壊した。牽は免れないと悟り、そこで砲を放って自らの船を裂き、海に沈んだ。その残党は前後して降伏して出て、海路はようやく通じるようになった。しかし数年もたたぬうちに、また天理教の匪徒の乱が起こった。

西暦1813年 嘉慶十八年

  • 秋九月、湖南(河南の誤りか)滑県で天理教の匪徒が衆を集めて乱を起こし、県城を占拠し、県令の強克捷はこれに殉じて死んだ。直隷総督の温承恵を総統に任じ、急ぎ赴いて討伐に当たらせた。天理教は、白蓮教の流れをくむものであり、畿南一帯で伝習されているものには、八卦・栄華・紅陽・白陽といった名目があった。八卦教は信徒がとりわけ多く、直隷・河南・山東・山西などの省に広く分布していた。河南滑県の李文成と、直隷大興の林清がその首魁となり(「炎之魅」は「爲之魁」などの誤りか)、名を天理教と改めた。文成の一党は数万で最も盛んであり、林清は宮禁のすぐ近くにいて、内侍に賄賂を贈って通じ、外では文成の衆を頼みとして後ろ盾とした。ちょうど十六年の秋、彗星が西北の方に現れ、欽天監はその占いは兵事を主るものだとし、十八年の閏八月を翌年の二月に移すよう奏上した。諸賊はそれをこじつけて、閏八月(原文「潤八月」)が不利であることの兆しだとした。またその経文の中に「二八の中秋、黄花地に落つ」という語があったので、いよいよその説を神秘めかし、星の象によれば九月十五日の午の刻に当たるとし、帝が木蘭に行幸する隙に乗じて京師を占拠しようとした。滑県令の強克捷はこれを探知して、密封の書で巡撫の高杞および衛輝府知府の郎応騏に告げ、兵を出して不意に捕らえることを請うたが、いずれも応じなかった。克捷はそこで文成を捕らえ、その脛を折って獄に下した。その一党は事が切迫したため、定めの期日を待たず、この月の七日に、衆三千を集めて城を占拠して叛いた。克捷を殺し、文成を獄から出したので、直隷の長垣・東明、山東の曹(曹県か)・定陶・金郷でも、同時に官を殺して城を包囲し、曹と定陶はともに陥落した。帝は行幸の途中でこの変を聞き、ただちに直隷総督の温承恵に命じて兵を発し急ぎ討伐させた。
  • 教匪が禁城を侵したので、皇次子の旻寧がこれを防ぎ、賊を中和門の外で破った。匪の首領である林清は捕らえられて処刑された。滑県の賊の一群はにわかに事を挙げたため、林清のための外からの呼応となることができなかった。清はそこでこの月の十五日に、その一党二百余人を宣武門から潜入させ、武器を忍ばせて酒場の中に紛れ込ませた(「抉」は「挾」の誤りか)。日暮れどきに東華門・西華門を侵すと、太監の劉得才・楊進忠・高広福・関進喜らが彼らを導いて城壁に上らせた。それぞれ白い旗を取り出して振り広げ、あるいは「大明天順」と書き、あるいは「順天保民」と書き、みな白い布で頭を包み、雉堞(城壁の狭間)の間で叫び声を上げた。まさに養心門に入ろうとしたところを、皇次子の旻寧に見つかり、旻寧が銃を放って二人を撃ち殺したので、残りの賊はうろたえて前に進めなくなった。そこへ禁軍が入り、ついにことごとく捕らえられた。まもなく林清を黄村で捕らえ、いずれも処刑した。帝は急報を受けて京師に還り、まず罪己の詔を下して言った。「我が国家は以前あれほど強盛であったのに、今このような事があるのは、みな朕の薄い徳がもたらしたものである……」。そして長い間、痛み苦しんだ。また諸臣を責めて「近ごろ諸大臣は因循して怠り、朕のために力を尽くす者があれば、衆人は必ずひそかにこれを陥れて殺してしまう、それゆえこのような大きな変事が起こったのだ(「有些大變」は「有此大變」の誤りか)」と言った。また帝が熱河で変を聞いたときには、閣臣の董図誥(董誥の誤りか)は還幸を強く請い、涙を流すほどであったが、曹振鏞は帝につとめて鎮静を保つよう勧めた。当時の人はそこで彼らを評して「庸庸碌碌たる曹丞相、哭哭啼啼たる董太師」と言った。二人はこれを聞いて、灰笑(苦笑の意か)して互いに語り合って言った。「この時に庸碌でいることも、泣き叫ぶことも、なかなか容易ではないのだ」。
  • 冬十月、温承恵の職を剝奪し、陝甘総督の那彦成をこれに代えた。はじめ、李文成は滑県を占拠したのち、隊を組んで北上しようとした。呂という姓の教諭が賊に降ったふりをして、彼に説いて言った。「昔、四川・湖北の教軍は九年にわたって縦横に暴れたが、最後に失敗したのは、城池を拠点とせず、守るところがなかったからです。今は関を閉ざして自ら守り、他郡からの救援を待ち、そのうえで軍を合わせて北上すれば、はじめて万全を保てます」。文成はこれを信じ、そこで道口に兵を駐屯させ、京師にいる者への声援としようとした。当時、温承恵と巡撫の高杞はいずれも兵を動かさなかったので、那彦成に承恵を代えるよう詔し、固原提督の楊遇春にこれを討たせた。
  • 十一月、那彦成らが道口を攻め破り、進んで滑県を攻略しようとしたところ、李文成は焼身して死んだ。彦成と遇春は十月に衛輝に至り、兵を合わせて道口を攻め、これを破った。山東運使の劉清と署理直隷総督の章煦も、同時にそれぞれの境内を掃討したが(底本は「劉清署、直督章煦」に作る。「署直督章煦」と読んだ)、滑県の城は堅固で厚く、食糧もまた十分であったので、急には落とせなかった。ちょうど文成が軽装の車でひそかに城を出て、輝県の山中に入り、一党を募り集めて牽制の動きをしようとした。総兵の楊芳がこれに追いつき(「假」は「追」の誤りか)、文成は火を放って焼身して死んだ。
  • 十二月、那彦成らが滑県を攻め落とし、教匪の牛亮臣らを捕らえて斬った。滑県が平定されると、彦成は楊遇春の策を用いて、地に穴を掘って城を攻めた。城が崩れると、賊はほとんど殺し尽くされ、亮臣および徐安国・王道隆を捕らえ、宋元成・劉宗順・馮相林はいずれも陣中で斬った。三省がまさに平定を報告しようとしていたところ、陝西南山の木材商人の人夫たちが、その年の飢饉のために仕事をやめて食を略奪し、衆数千を集めて木廂(木材の作業場、廠の誤りか)を焼いた。巡撫の朱勲はそれを教匪だと報告し、長齢・楊遇春にこれを討たせるよう詔した。

西暦1814年 嘉慶十九年

  • 春正月、長齢らが箱賊(廠賊の誤りか)の首謀の逆賊である陳四・尹朝貴を生け捕りにし、散り散りの匪徒も全員討ち滅ぼして、箱匪は粛清された。
  • 冬十月、江西の民である朱毛俚が謀反をはかり、後明という国号を立てたが、事が発覚して処刑された。これより先、胡秉輝という者が残欠の書物一部を買い求めたところ、その中に陣形の図や俚俗の言葉があった。彼は邱添沢・楊易・盧勝輝と相談し、毛俚が朱姓であるので明の子孫に仮託できるとして、積善禅林に集まり、共謀して事を起こし、後明と称し、晏朝という年号を立て、偽の文書をあまねく発した。巡撫の阮元に探知されて捕らえられ、胡秉輝ら十七人を磔にし、程麟祥ら三十五人を絞に処したが、毛俚は逃げ去った。

西暦1815年 嘉慶二十年

  • 夏四月、四川の中贍対の番の首長である洛布七力が乱を起こし、四川総督の常明がこれを討ち平らげた。
  • 秋九月、塔什密里克(タシュミリク)の回人である孜牙墩が乱を起こし、大学士の松筠に命じ、急ぎ喀什噶爾(カシュガル)に赴いてこれを討たせた。まもなく孜牙墩は参賛の成寧らに捕らえられ、回の村々は平常どおり生業に安んじ、松筠を召して京に帰らせた。長齢を伊犁将軍とした。

西暦1817年 嘉慶二十二年

  • 春三月、雲南臨安の辺外の夷民である高羅衣が乱を起こし、総督の伯麟がこれを討ち平らげた。羅衣らは、内地の商人が辺外に出て貿易し、夷人の生計を侵し奪っているとして、漢人を追い払うことを名目に借り、衆一万余人を集め、みずから窩泥王と称し、江外の土司を略奪し、辺境の郡をうかがった。このことが聞こえると、伯麟に速やかに兵を派遣して討伐するよう命じた。まもなく羅衣および偽の軍師である章喜らを捕らえ、みな処刑した。

西暦1818年 嘉慶二十三年

  • 夏六月、臨安の江外の逆賊である高老五が乱を起こし、総督の伯麟が兵を派遣して討ち平らげた。老五は羅衣の甥であり、逆賊の一党の捜索・逮捕があったために藤条江の外に逃げ、衆を集めて土司の地方を略奪し、みだりに小窩泥王と称した。江を渡って、進んで府城に迫ったが(「簿」は「薄」の誤りか)、伯麟が都司の桂朝陽らを派遣してこれを捕らえ、残りの逆賊もあわせて討ち滅ぼした。
原文(底本)
仁宗嘉慶元年,春正月,湖北荊州白蓮教匪作亂,命巡撫惠齡勦之。白蓮教者奸民,假持斎治病爲名,僞造經咒畫像,以惑衆斂財,安徽劉松爲教中領袖,事發被捕,遣戍甘肅。其徒劉之協、宋之清等,分赴川陝、湖北一帶布教,久之,黨日衆,遂倡言劫運將至,以河南鹿邑王發生詭託明裔朱姓,爲煽動流俗之計。事覺,皆伏誅,而劉之協乘間逃走,於是有旨大索。川縣官奉行不善,逐戶搜緝,輾轉株連,奸民乘間煽之。而枝江聶傑人、宜都張正謨遂起而作亂,宜昌之長樂、長楊等縣匪大起,皆以官逼民反爲詞,蔓延五省。時國家方以征勦苗匪治軍爲苦,貴州則石柳鄧,湖南則石三保、吳半生、吳隴登、吳八月等。八月雖未久就獲,其子廷義、廷禮仍負嵎自若。教匪事起,無兵應調遣,因令就近勦治。 三月,荊州總兵富志耶擒攝傑人於枝江,襄陽人姚之富與教匪齊林之妻王氏復起事。 冬十一月,教匪渡瀼河,逮提督永保治罪,以惠齡總統軍事。時苗匪石三保、石柳鄧、吳廷義等皆就獲,吳隴登投誠。

二年,夏五月,解惠齡任,以陝督宜緜代之,以姚之富、李全、王延詔等,分三股,由白馬石搶渡漢江。惠齡既不沿江截殺,又不追剿故也。尋改勒保總統軍事。

三年,春二月,逮將軍明亮下於獄,以匪首齊王氏竄走渡江,不能攔截故也。 夏六月,禠都統德楞職,以教匪高均德竄入川境故也。尋諸軍逼匪三坌河,大破之,齊王氏、姚之富皆墜崖死。 秋七月,參贊勒額登保擒羅其清於方山坪,移師襲冉文儔於通江,斬之,川北兩巨股皆平。同時總統勒保,擊斃林亮功於梁萬間,王三槐投誠,而勒保以生擒奏。三槐解至京,帝親審訊,三槐有官逼民反之供,帝亦為之惻然。

四年,春正月,授勒保為經略大臣,各路均歸節制。時帝知教匪之蔓延皆由統兵大臣承受和珅風旨,專以老師糜餉,殺脅從冒功賞為目的,因賜和珅自盡;以勒保任經略,罷逮失機及肇禍諸臣,分別治罪,更定勦撫方略,下哀痛之詔,行甭野之策,定綠營兵之優恤,開諸賊自新之路,自是大憝伏法,廟謨更新,始漸收討賊之效。 秋七月,逮經略勒保,以明亮代之。勒保任經略半年餘,安坐達州,不圖進取,致教匪取於楚省,日益猖獗。 八月,改命額勒登保為經略,以明亮不勝任故也。尋命尚書那彥城,以欽差大臣赴陝監明亮軍,逮治提督慶成、陝撫永保。時三帥不和,師久無功,故有是命。

五年,春三月,內大臣德楞泰大敗冉添元於四川之馬蹄岡,擒之。添元橫行川中,蹂躪數十州縣,至是被獲。尋又敗賊於潼河,殲匪首雷士玉、孫嗣鳳、張子璁等。 夏六月,河南布政使馬慧裕捕獲匪劉之協於葉縣,送京師誅之。時甘肅各匪為諸軍追遣,局促於漢北,數日滅。劉之協既誅,諭諸道將帥,布告群賊,又御制邪教說,宣示但治從逆,不治從教之恉,劇寇失反側安,自是大局始稍稍鎮定矣。

六年,春二月,陝西提督楊遇春大敗賊於西鄉之兩河口,擒賊目王廷詔等十餘人送京師。時額勒登保經略有方,川陝十餘萬賊埽除殆盡,所存者不過二萬餘,皆散處邊僻。

七年,冬十二月,額勒登保等奏報川陝餘匪肅清。時賊皆敗餘,惟茍文明尚存殘眾二千餘,馳突甘陝。諸軍百計勦捕,至七月間,斬文明於秦嶺之花石崖。至是首逆已盡,殘匪無幾,額勒登保乃會同三省督臣,以大功戡定報聞。其餘孽分道埽蕩,將及一年有奇,始克肅清。此次軍事,閱時九載,糜費達二億兩,甫獲葳功。而四川新兵之變,又紛起矣。

十一年,秋七月,陝西寧陝新兵作亂,命領侍衛內大臣德楞泰馳往辦理。先是教匪之役,以額兵徵發不便之故,各地增設鄉勇,謂之新兵,以寧陝糧貴,每兵於例餉外,月給鹽米銀五錢,定議三年減一錢。時當實行減給之期,布政使朱勛以未奉部文,併四錢亦停發。新兵大嘩,遂戕官劫庫獄以叛。時提督楊遇春方入都,寧陝總兵楊芳調署提督,聞變,皆馳赴援。 冬十月,寧陝新兵蒲大芳等降。奪德楞泰職,戍楊芳於伊犁。先是川陝軍中,二楊齊名,而芳尤得士心。新兵叛,先護送芳家屬至石泉,而後舉事。至是芳至軍,請遇春按兵緩攻,而己單騎入賊壘,說其酋蒲大芳等來降。德楞泰令盡釋歸伍,而以叛兵震懼,兵威窮蹙乞命奏。帝震怒,責德楞泰專擅廢法,奪其職,謂芳平日縱兵釀變,遣戍伊犁。使率降卒出關後,盡誅之。而文吏停餉激變,罪置不問。是役芳以招撫叛軍萬餘,有奇勛,而反獲遣,聞者冤之。未幾,遂有四川綏定、陝西西鄉兩次之兵變,雖不旋踵而定,亦見人心之至不平矣。

十二年,冬十二月,總統浙閩水師提督李長庚,大破海賊蔡牽於南澳洋面。蔡牽遁入安南海,長庚旋中彈死。牽與長庚,同為福建同安人,善捭聞,能用眾。先是安南阮光平招納瀕海亡命,資以師船,令劫近海商船,輸入其國,以佐國用。光平死,子福映新受中國封,受約束,杜絕海賊,於是艇匪之在閩者悉為牽所併,勢甚猖獗,縱橫海上七八年。雖數為長庚所敗,然前後督臣玉德、阿林保皆滿人,忌長庚功,百計掣其肘,故牽每敗歸後,嘯聚轉眾。十年冬,復以百餘艘犯台灣,又聯合土匪萬餘攻府城,自稱鎮海王。翌年二月,長庚以浙師三千餘渡臺,水陸並進,五戰皆捷,困牽於鹿耳門,計日可擒。而牽散賧四百餘萬,賂督標援兵,得以殘艦三十餘突圍出海。 帝逮治玉德,新督阿林保至,置酒欵長庚,從容語之曰:「大海捕魚,何時入網?海外事無左證,公但斬一酋,以牽首報,某即飛章報捷,而以餘賊歸善後辦理,則公受上賞,某亦邀次功。孰與窮年冒鯨波,倖萬一哉?」長庚慨然曰:「石三保、聶人傑之事,長庚不能為。且久視海舶如廬舍,不畏險也,誓與賊同死,不與賊同生!」阿林保不悅,屢劾之。既不得逞,則屢飛檄趣戰,責以逗撓。幕客勸長庚封章以奏,長庚砍舷怒曰:「大丈夫以死報國,不受唾面辱也!」至是整軍進。下令皆持短兵,為必死計,與牽太戰於黑水洋。牽窮迫僅餘三舟,幾被擒者再。其奴林阿小識長庚,由運窗發火鎗中長庚,遂死。而福建援將張見陛窺總督意,不戰,遽引舟師退,牽得遁走安南。

十四年,秋八月,浙江提督邱良功、福建提督王得祿,合擊蔡牽於漁山外洋,破之。牽抽水死,海道肅清。牽聞長庚死,自安南回棹,聯合朱濆游弋浙海。後濆為閩軍轟斃,其弟渥率所部降,牽勢孤。良功、得祿與長庚,皆柴大紀裨將,誓同生死。及長庚戰歿,日夜思為復讎,至是合兩省水師擊牽於定海之漁山外綠水洋,血戰一日夜,燬牽坐船之柁樓。牽知不免,因舉礮自裂沈於海,其餘黨先後出降,海道乃通。然不出數年,又有天理教匪之亂。

十八年,秋九月,湖南滑縣天理教匪聚眾作亂,據縣城,縣令強克捷死之。命直隸總督溫承惠為總統馳往勦辦。天理教,白蓮教之緒餘也,其傳習畿南一帶者,有八卦、榮華、紅陽、白陽諸目。八卦教黨徒尤眾,遍布直隸、河南、山東、山西等省。以河南滑縣李文成、直隸大興林清炎之魅,更名天理教。文成黨數萬,最盛,而清密邇宮禁,賄通內侍,外倚文成之眾為援。會十六年秋,彗星見西北方,欽天監謂其占主兵,奏改十八年閏八月於次年二月。諸賊遂附會之,以為不利潤八月之兆。又以其經中有「二八中秋,黃花落地」之語,乃愈神其說,謂據星象,應在九月十五日午時,將乘帝幸木蘭時據京師。滑縣令強克捷偵知,密封白撫臣高杞及衛輝府知府郎應騏,請兵掩捕,皆不應。克捷乃捕文成,斷其脛,下之獄。其黨以事迫,不及待期,遂於是月七日,聚眾三千據城叛。戕克捷,出文成於獄,於是直隸之長垣、東明,山東之曹定陶、金鄉,同時殺官圍城,而曹及定陶皆陷。帝在中途聞變,立命直督溫承惠發兵馳勦。 教匪犯禁城,皇次子旻寧禦之,敗賊中和門外。匪首林清被擒伏誅,滑縣羣賊以倉卒起事,不及為林清外應,清遂以是月十五日,使其黨二百餘由宣武門潛入,抉武器雜酒肆中。日晡時分,犯東西華門,太監劉得才、楊進忠、高廣福、關進喜等引之上城,各出白旗招展,或書大明天順,或書順天保民,皆以白巾裹首。號呼雉堞间。將入養心門,為皇次子旻寧所見,發槍,殪其二,餘賊錯愕不敢前。禁軍入,遂悉就擒。尋擒清於黃村,皆正法。帝得警報,還京師,首下詔罪己曰:「我國家以前何等強盛,今乃有此事,皆朕涼德所致……」痛苦者久之。又責諸臣,謂「近日諸大臣因循迨玩,有為朕宣勞者,眾必陰擣殺之,以致有些大變」云。又帝之在熱河聞變也,閣臣董圖誥力請回鑾,至於泣下;曹振鏞勸帝務持鎮靜。時人因謂之語曰:「庸庸碌碌曹丞相,哭哭啼啼董太師。」二人闻之,灰笑相谓曰:「此时之庸碌啼哭,颇不容易也。」 冬十月,褫溫承惠職,以陝督那彥成代之。初,李文成既據滑,欲結隊北上,有教諭呂姓佯降賊,因說之曰:「昔川楚教軍,縱橫九年,所以終於失敗者,因不據城池,無所守故也。今可閉關自守,以待他郡救援,然後會師北上,始保萬全。」文成信之,遂屯兵道口,為聲援京師計。時承惠與巡撫高杞皆按兵不動,乃詔彥成代承惠,而命固原提督楊遇春剔之。 十一月,那彥成等攻破道口,進圖滑縣,李文成自焚死。彥成、遇春以十月至衛輝,合兵攻道口,破之。山東運使劉清署、直督章煦,同時掃清境內,而滑縣城堅厚,糧又足,急切不能下,適文成輕車潛出,入輝縣山中,將募集黨眾,為牽制之運動。總兵楊芳假及之,文成縱火自焚死。 十二月,那彥成等攻克滑縣,擒教匪牛亮臣等斬之。滑縣平,彥成用楊遇春策,穴地攻城。城潰,賊屠戮殆盡,擒亮臣及徐安國、王道隆,而宋元成、劉宗順、馮相林皆陣斬之。三省方報勘定,而陝西南山木商夫役,復以歲飢,罷工掠食,聚眾數千,焚木廂。撫臣朱勛乃以教匪聞,詔長齡、楊遇春討之。

十九年,春正月,長齡等生擒箱賊首逆陳四、尹朝貴,零匪全數殄滅,箱匪肅清。 冬十月,江西民朱毛俚謀逆,建號後明,事覺伏誅。先是,有胡秉輝者購獲殘書一部,內有陣圖及俚詞,商同、邱添澤、楊易、盧勝輝,以毛俚朱姓,可假託明裔,聚集積善禪林,協謀起事,稱後明,晏朝年號,徧發偽札。為撫臣阮元偵獲,磔胡秉輝等十七人,絞程麟祥等三十五人,毛俚逸去。

二十年,夏四月,四川中贍對番酋洛布七力作亂,四川總督常明討平之。 秋九月,塔什密里克回人孜牙墩作亂,命大學士松筠,馳往喀什噶爾勦之。尋孜牙墩為參贊成寧等所擒,回莊照常安業,召筠回京。以長齡為伊犁將軍。

二十二年,春三月,雲南臨安邊外夷民高羅衣作亂,總督伯麟討平之。羅衣等以內地商販,出邊貿易,侵奪夷人生計,借名驅逐漢人,集眾萬餘人,自稱窩泥王,劫掠江外土司,窺伺邊郡。事聞,命伯麟迅即派兵進勦。尋獲羅衣及偽軍師章喜等,皆伏誅。

二十三年,夏六月,臨安江外逆匪高老五作亂,總督伯麟派兵勦平之。老五為羅衣從子,因查拏逆黨,逃往藤條江外,糾眾搶掠土司地方,僭稱小窩泥王。渡江,進簿府城,伯麟派都司桂朝陽等擒之,餘逆並殲除。

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