清史紀事本末瑤族平定の役(平傜之役)
要約
道光十一年十二月、湖南江華の傜人趙金龍が両河口を掠めた。傜は山峒に住み、漢民と役人に虐げられて怨みを積み、天地会に牛や穀物を掠められたので、金龍は復讐を唱えて六、七百人で天地会の徒二十余人を殺し、県令の林先梁らが黄竹寨から襲って十四人を殺した。
十二年、傜は洪江・黄竹の寨を破り金龍は三千を擁した。二月、湖南提督の海淩阿は池塘墟の伏兵に全軍壊滅して殺され、馬韜・王鼎銘も死に、土傜が呼応して数万と号した。盧坤・羅思挙・余歩雲に合軍させ、詔により平野に誘い出す策をとり、羅思挙が南走を遮り挟撃して傜を羊泉鎮に追い出した。四月、大雷雨に乗じて進み火弾と大弩で傜六千を斃し、降を乞うた趙文鳳を偽り許して攻め、金龍も熊生発に殺された。視軍に来る禧恩を待たず戦ったので禧恩は怒り、金龍の死を詰問したが屍と佩剣を示されやめた。
ついで連州の趙青仔の仇討ちも盧坤が破って磔にし、七月、広西賀県の盤均華の乱も祁𡎴が芳林渡に破って処刑した。八月、八排の傜が、蔡天禄の判じた銀千二百両を漢民が払わぬので民家を襲い、総兵の余徳も夜襲された。硝薬の失火と奏した李鴻賓は実情を探られて逮えられ、禧恩が総督を代行した。九月、禧恩は盧坤の着任前に功を立てようと楊振麟の策で洋銀・塩を与えて傜を買収し、投降させて平定を奏し、帝は速さを賞して輔国公に封じた。十月、曲江・乳源の土賊と傜の結託も平らげた。
十六年二月、武岡州の傜人で生員の藍正樽が、教えを伝えて同志の潘明徳らを呉栄光に処刑されたため三千で州城を攻めた。張大宏らが撃破して家族や軍師を擒え、四月、巡撫の訥爾経額が千余名を殺獲したが正樽は逃れた。十七年、訥爾経額は正樽が郷勇に殴り殺されたと奏し林則徐の再調も同じだったが、帝は疑って訥爾経額を三等侍衛に降し林則徐を五級降し、正樽父子の捜索を命じた。
二十七年十月、湖南新寧の傜人雷再浩が李輝らと挙兵し官役を多く殺傷したので陸費瑔に討たせた。十一月、鄭祖琛が全州で連破して頭目の李世得を殺し、再浩も捕らえられ、道州に挙兵した世得の子の加輝も敗れた。十二月、灌陽の郷勇が左広秀ら、道州の軍が李魔旺らを捕えて平定した。
二十九年十一月、広西五排の傜の李沅発が新寧の牢を破り城に拠り、知県の万鼎恩と鄭祖琛の遣わした段丙南らが死んだので、馮徳馨に自ら討たせた。十二月、馮徳馨は四十余日囲んで傜が退いたのを回復と奏し沅発の焼死も報じたが実は死なず、弟の沅宝がまた新寧を攻めた。黄三らは癩子山に拠り、大絹峒では張新銘らが敗れ熊釗らも殺され、裕泰に督軍させた。三十年二月、傜は龍勝に及び、永州・鎮筸の営に突入して武器を奪い瑪隆阿ら諸将も戦死したが、馮徳馨はまた誤奏した。黔楚の境に拠った沅発を、五月、湖南提督の向栄が金峰嶺に誘い込み、崖底に落ちたところを擒え、残党も殲滅して平定した。
編者はいう、この役は三省の兵力を尽くし前後二十年でようやく鎮定したにすぎず、国の元気は損なわれ兵乱の機は動いていた。だから一月も経たぬうちに太平軍が金田村に起こった、と。
年表
湖南・広東・広西の三省にまたがる傜人の蜂起と、その鎮定に費やされた道光十一年(1831年)から道光三十年(1850年)までの約二十年を扱う。漢民と役人による虐待と偏った裁きへの怨みから江華の趙金龍が挙兵し、提督の海淩阿が池塘墟で全軍壊滅して事は拡大したが、盧坤・羅思挙らが羊泉鎮で傜衆を包囲殲滅し趙金龍は敗死した。その後も趙青仔・盤均華・藍正樽・雷再浩と蜂起が続き、最後に李沅発が新寧城を占拠して官を殺したが、湖南提督の向栄が金峰嶺で生け捕って平定した。三省の兵力を尽くした鎮定であったが国の元気は損なわれ、まもなく金田村の太平軍蜂起を招いた。
年表(7件)
- 西暦1831年 宣宗道光十一年江華の傜人趙金龍が衆を集めて両河口を焼き掠め、天地会の徒を殺す
- 西暦1832年 宣宗道光十二年海淩阿が池塘墟で全軍壊滅したのち、盧坤・羅思挙が羊泉鎮で傜衆を破り趙金龍は敗死する
- 西暦1836年 宣宗道光十六年武岡州の傜人藍正樽が三千を集めて州城を攻め、訥爾経額が一党千余名を捕殺する
- 西暦1837年 宣宗道光十七年藍正樽の死の真偽をめぐり訥爾経額は降等、林則徐も五級を降されて留任となる
- 西暦1847年 宣宗道光二十七年新寧の傜人雷再浩が挙兵し、陸費瑔・鄭祖琛の討伐で捕らえられ地方が平定する
- 西暦1849年 宣宗道光二十九年五排の傜の李沅発が新寧城に拠って知県の万鼎恩を死なせ、馮徳馨が虚報を奏する
- 西暦1850年 宣宗道光三十年向栄が李沅発を金峰嶺に誘い込んで生け捕り、残党を殲滅して地方が平定する
現代語訳全文
西暦1831年 宣宗道光十一年
- 冬十二月、湖南江華の傜人趙金龍が民衆を集め、両河口を焼き掠めた。傜は苗族の一つで、住む所はいずれも山峒であり、自分たちだけで村落を成している。湖南にいる傜は衡州・永州・郴州・桂陽の四州郡の境に分布し、広東の束州(「連州」の誤りか)、広西の全州とともに、いずれも五嶺の背に跨がって住む。漢民と傜とが入り混じって住み、傜の気性は戇鷙(愚直で荒々しい)で漢民と交わろうとせず、漢民は常々これを欺き侮り、役人の手先と結託してほしいままに虐待を加えた。およそ訴訟になると、官の裁きはいつも偏って漢民に味方し、これによって傜は僡(「憾」の誤りか)み、怨みを積もらせていた。
- ちょうど楚(湖南)・粤(広東)の天地会の連中が、たびたび傜の集落の牛や穀物を略奪したが、傜には訴え出る先がなかった。そこで江華県錦田郷の傜人趙金龍が、復讐せよと唱えた。常寧の傜の趙寧牙を使って広東の散傜三百余人を糾合し、湖南の九沖の傜と合わせて、総勢六、七百人で両河口を焼き掠め、天地会の徒二十余人を殺した。県令の林先梁と游撃の王俊が兵と役人を率い、黄竹寨の方角からその根拠地を襲い、男女十四人を撃ち殺し、傜の兵五人を生け捕り、残りはみな逃げ散った。
西暦1832年 宣宗道光十二年
- 春二月、湖南提督の海淩阿が兵を率いて傜を討伐し、寧遠の池塘墟に至って伏兵に遭い、全軍が壊滅した。
- これより先、正月のうちに傜人は両河口を掠めた後、洪江・黄竹などの寨を続けて破り、進んで長塘坪に駐屯し、その勢は千余人に達し、みな赤い布で頭を包んで目印とした。游撃の王俊と李方玉が二手に分かれて攻め、かなりの首級を挙げた。趙金龍は藍山の境にある五水傜山へ逃げ込み、すでに三千の兵を擁して、九嶷山を根拠地に据えようとした。参将の成喜が兵で要路を押さえたが、兵が少なくて防ぎきれず、傜人はそのまま回り込んで寧遠に至った。
- 海淩阿はこれを聞き、軍を督して討伐に進み、下瓘に駐屯し、副将の馬韜に兵を率いて前進させた。池塘墟に至って、馬韜は銃弾に当たって戦死した。海淩阿が兵を指揮して突入すると、伏兵が四方から起こり、高所から下に向けて撃ちかけ、全軍が壊滅し、海淩阿は落馬して殺され、新田県知県の王鼎銘もここで死んだ。桂陽・常寧の諸々の土着の傜がみな呼応し、その勢は数万と号した。帝は急報を聞き、巡撫の盧坤、湖北提督の羅思挙、貴州提督の余歩雲に、軍を合わせて討伐に進むよう命じた。
- 夏四月、湖南巡撫の盧坤らが、常寧の羊泉鎮で傜の軍勢を続けて破り、趙金龍は銃弾に当たって死んだ。
- 盧坤が軍を率いて永州に至ったとき、傜の軍勢は三路に分かれ、一路が二、三千で、犄角(角を突き合わせる形)を成して出没していた。軍中には兵糧の中継所が設けられておらず、徴発した常徳の水軍、荊州の満洲騎兵は、いずれも山中での戦いに不慣れであり、盧坤はすべて奏上して引き揚げさせ、代わりに鎮草(「鎮筸」の誤りか)・苗疆の兵を徴発することに改めた。また衡州は水路の咽喉であり、常寧は衡州府の楯として要衝に当たり、祁陽はまた衡州・永州への提徑(「捷徑」の誤りか。近道)であって兵糧の後方路でもあるとして、いずれにも兵勇を派して防禦させ、その他の地は堅壁清野を命じ、将校らに檄を飛ばして路を分けて防ぎ塞がせた。
- ちょうど詔があり、傜はみな山に住んで趫提(「趫捷」の誤りか。身軽)に険阻に拠るものであるから、両粤(広東・広西)に蔓延するか、あるいは山峒に立てこもって捜索・捕縛が長引くのを恐れるとして、諸将に、山の外の平野の地に誘い出して一挙に殲滅せよと命じた。
- 羅思挙はそこで建議し、一軍を新田の後方の路からひそかに追尾させて南への逃走を遮り、桂陽の北路の兵と挟み撃ちにし、あわせて西へ道州・零陵・桂陽に通じる小道を遮断した。こうして三路の傜はみな山の外へ追い出され、東へ常寧の羊泉鎮に逃げた。またその地は山へ入る水の口で、舟の通う渓流があり、市は数里の長さにわたってみな傜の家屋であった。いま一路に追い込んだ上、山越えという彼らの得意技を封じたので、ひそかに北路の兵に檄を飛ばして一斉に向かわせ、また各所の隘路を守る兵を次第に移して前進させ包囲を狭め、羊泉街まで十余里に迫った。
- 折しも連日の大雷雨となり、諸軍はその勢いに乗じて討伐に進み、傜は全軍を挙げて抗戦した。羅思挙は昼夜将校を督して泥濘の中に立たせ、火弾と大弩を仰ぎざまに撃ち込み、民家数十戸に延焼し、傜六千人を斃した。傜の頭目趙文鳳が降伏を乞うたが、うわべだけこれを許し、攻撃をいっそう急にして、その妻妾・子女および頭目数百人を生け捕った。趙金龍は服を着替えて隙をついて逃れたが、兵士の熊生発に捕らえられて殺され、残党はことごとく殲滅された。勝報が届き、諸将・諸吏は差をつけて爵位と官秩を進められた。
- 傜の軍勢がまだ殲滅されぬうちに、帝は戸部尚書の禧恩、盛京将軍の瑚松額に、来て軍を視察するよう命じていた。まだ軍に到着しないうちに、諸将は禧恩が宗室であり帝の親信する重臣であることから、その到着を待とうと議した。恩挙(「思挙」の誤りか)はそれを不可とし、「包囲が長引けば軍は緩み、賊は必ず逃げる。国庫の金を浪費するのは惜しい」と言った。そこで衆議に背いて一戦し、これを殲滅した。禧恩は軍に到着すると、待たなかったことを怒り、意気込んで居丈高に振る舞い、趙金龍の死んだ状況が本当か嘘か、ことこまかに問い詰めた。羅思挙がその屍と佩(底本は「偑」)びていた剣・印を挙げて差し出すと、ようやくやめた。
- 広東連州の傜人趙青仔が民衆を糾合して湖南の藍山に侵入し、盧坤らがこれを討って捕らえた。趙青仔は二千余人を集め、楚の境である麻崗の地方に乱入し、趙金龍の仇を討つのだと公言した。盧坤は提督の余歩雲、総兵の曾勝を率いて軍を移して討伐に向かい、濠江でこれを破り、また銀江でも破り、趙青仔を捕らえて市中で磔にし、残る一党はことごとく誅殺された。
- 秋七月、広西賀県の傜人盤均華が挙兵し、巡撫の祁𡎴がこれを討ち平らげた。傜の軍勢は芳林渡で大敗し、盤均華は楚の境へ逃げ込んだが、守備の兵に捕らえられ、法に照らして処刑された。
- 八月、広東連州の入排(「八排」の誤りか)の傜が騒動を起こし、李鴻賓を逮捕して入京させ、禧恩に暫時両広総督を代行させた。八排は山の姿がぐるりと巡って三省に接し、山峒を根拠地とし、その周囲の小さな沢は七、八千か所もある。黄瓜沖という所では、漢奸が寨に入り込んで騒ぎを起こし、傜が官に訴え出た。連州同知の蔡天禄が取り調べ、漢民の側が傜に銀千二百両を弁償せよと判決した。漢民が弁償しないので、傜は怒って徒党を集めて根拠地を出、民家を襲って報復の意を示した。李鴻賓は急報を聞き、総後(「総兵」の誤りか)の余餘徳(「余徳」の誤りか)に兵を率いさせて討伐に向かわせた。傜は夜に陣営を襲い、都司以下、火弾を投げつけられて傷ついたり崖から墜ちて死んだ者が数十人に上った。李鴻賓は硝薬の失火で焼傷したものだと奏上したが、帝は探らせて実情をつかみ、詔して李鴻賓を逮捕して入京させ、獄に下し、禧恩に総督を代行させた。
- 九月、禧恩が、各排・各沖で首謀者を縛って差し出し、衆を率いて賊に投じ(「投誠」の誤りか)、傜山の全境が平定されたと奏上し、詔して禧恩らの爵位・官秩を差をつけて進めた。李鴻賓が逮捕されると、詔して盧坤を両広総督に任じた。禧恩は盧坤が着任すると聞き、急いで傜の平定を自分の第一等の功にしようとしたが、傜の峒は天険で攻めやすくはなく、按察使の楊振麟の策を用い、洋銀・塩・布を傜に与えて買収し、投降させた。傜は利を貪って次々にやって来て、十日ほどの間に数百人を得、あわせて黄瓜沖・火焼坪の各寨の者を縛って送らせた。傜の頭目の房大第・六盤・麻山李・成意一らである。
- 諸将はそのまま慌ただしく事を終わらせ、盧坤が着任すると、禧恩はすべての善後の処置を彼に委ね、印を引き渡して即座に去った。帝はその処理の迅速なことを賞し、禧恩を輔国公に封じ、その受降の顛末も追及しなかった。
- 冬十月、広東の曲江・乳源の両県の土着の盗賊が傜人と結託して騒動を起こし、盧坤が兵を派して討ち平らげた。
西暦1836年 宣宗道光十六年
- 春二月、湖南武岡州の傜人藍正樽が騒動を起こした。藍正樽とは藍沅曠のことで、新寧県の傜の生員である。潘明徳・呉立鴶らとともに教えを習い門徒に伝えていたのを、前巡撫の呉栄光が聞き知り、ひそかに捕縛を命じ、明徳・立鵠(前出の「立鴶」と同一か)はいずれも相次いで捕らえられ処刑された。藍正樽は官吏の追及が急なので、三千人を集め、路を分けて武岡州城を攻め立てた。千総の張大宏らがこれを撃破し、残る一党は次第に退き、張大宏らは勝ちに乗じて追撃し、藍正樽の家族および軍師の張和尚・陳仲潮らを生け捕った。
- 夏四月、湖南巡撫の訥爾経額が、武岡州の傜人の討伐・捕縛はすでに平定したと奏上した。呉栄克(「呉栄光」の誤りか)が中央に召還された後、訥爾経額がこれを継ぎ、着任してのち文武の官員を督率して、次々に傜の一党千余名を殺し捕らえたが、ただ藍正樽だけは逃れ去った。
西暦1837年 宣宗道光十七年
- 秋七月、□□(底本欠字)湖南巡撫訥爾経額。これより先、訥爾経額は、傜人の鍾順二を捕らえ、藍正樽が郷勇の泰国良(「秦国良」の誤りか)らに殴り殺されたことを取り調べ出したと奏上していた。帝は湖広総督の林則徐に引き渡して厳しく取り調べるよう命じた。林則徐の回答の奏上も事情は同じで、しかも藍正樽の衣服・持ち物、およびその妻の呉氏、子の明玉、娘の秀蘭、仲間の鍾順二ならびに郷勇らを証拠として挙げた。帝はなおそれが事実でないことを疑い、訥爾経額を三等侍衛に降し、林則徐は五級を降して留任させ、鍾順二を処刑し、地方の官吏に藍正樽およびその長子の琢玉らを厳密に捜査・捕縛するよう命じた。
西暦1847年 宣宗道光二十七年
- 冬十月、湖南新寧の傜人雷再浩が民衆を糾合して騒動を起こし、巡撫の陸費瑔にこれを討たせた。新寧と広西とが接する黄坡峒の傜人雷再浩が、民人の李輝・陳名機および全州五排梅渓口の傜人蕭立山らを糾合し、衆を集めて挙兵した。官吏が兵を派して捕らえに行くと、傜の一党は抗戦し、官の役人を殺傷すること甚だ多かった。陸費瑔に兵を遣わして急ぎ赴かせ、討伐を助けるよう命じた。
- 十一月、広西巡撫の鄭祖環(後出の「鄭祖琛」と同一か)が全州で傜の軍勢を続けて破り、傜の頭目李世得を撃ち殺した。雷再浩は山中に逃げ込んで守りを固めたが、まもなく李輝とともに新寧を掠め、湖南の軍隊に敗れ、ことごとく捕らえられた。李世得の子の加輝が道州で挙兵したが、これも敗れて捕らえられた。
- 十二月、広西灌陽の郷勇が傜の頭目左広秀・蒋学泰・何其先らを討ち捕らえ、湖南道州の軍隊が傜の頭目李魔旺らを捕らえて、地方は平定した。
西暦1849年 宣宗道光二十九年
- 冬十一月、広西五排の傜の李沅発が民衆を集めて湖南の新寧城に立てこもり、知県の万鼎恩がここで死んだ。巡撫の馮徳馨に自ら現地へ赴いて討伐を指揮するよう命じた。李沅発は全州で某(「集」の誤りか)数百人を糾合し、新寧に赴いて牢を破り、官を殺し、城に拠って守った。傜の頭目李洪蒽を遣わして広西の遷隆の土司の領域をうかがわせた。巡撫の鄭祖琛が游撃の段丙南らを派して討伐に向かわせたが利がなく、段丙南および外委の呉玉魁・巫宜福らはみな戦死した。
- 十二月、馮徳馨が、新寧城を回復し、李沅発は焼身して死に、その弟の李沅宝がふたたび兵を起こして新寧を攻め立てていると奏上した。これより先、馮徳馨は新寧を囲むこと四十余日で傜はようやく退去し、馮徳馨はこれを城の回復として報告したのである。そこで李沅発の弟の沅宝は、兄が焼け死んだと聞き、ふたたび兵を挙げて新寧へ馳せ、沅発の仇を討とうとしたのであるが、実は沅発は死んでなどいなかった。傜の頭目黄三らはまた、道州など諸州県の境の連なる癩子山をひそかに占拠し、険阻に拠って守り、武器を鋳造した。その地は四つの邑の間に挟まれ、道筋が入り組み、地勢は取り留めがなく、軍隊が包囲して捕らえるのはなかなか力を発揮しにくかった。新寧の傜の軍勢は大絹峒付近の嶺の後方まで進み、都司の張新銘らが道を分けて攻めに行ったが敗退し、守備の熊釗、府経歴の劉炳南はともに殺された。湖広総督の裕泰に現地へ赴いて軍を指揮するよう命じた。
西暦1850年 宣宗道光三十年
- 春二月、新寧の傜の軍勢が広西の龍勝一帯にまで及んで騒ぎ、参将の瑪隆阿が迎え撃って戦死した。傜の軍勢は永州・鎮筸の諸営に突入して武器を奪い、営中にその鋒先に立ち向かおうとする者はなかった。巡撫の馮徳馨は、傜の軍勢が城を出た後で、誤って城池を回復したと奏上した。李沅発が龍勝に至ると、瑪龍阿(前出の「瑪隆阿」)および都司の鄧宗武、守備の蘇東華、千総の周栄らはみな戦死した。李沅発はそのまま黔(貴州)と楚(湖南)の境の山中に拠って守った。
- 夏五月、湖南提督の向栄が楚と粤の境の地方で傜の軍勢を続けて破り、李沅発を生け捕り、地方は一様に平定した。向栄が湖南提督となってから兵を率いて境を越えて討伐に進み、たびたび傜の軍勢を破った。李沅発はたび重なる敗走の後、東に走り西に突き進んだ。向栄は計略を用いてこれを金峰嶺の山中に誘い込み、将校を督率して奮い立って山を登り、殺し捕らえること甚だ多く、李沅発は傷を負って後ろの山から崖の谷底へ転げ落ち、そこで捕らえられ、残党はことごとく殲滅され、地方は平定した。
史論(編者曰)
- 傜を平定するこの役は、三省の兵力を出し尽くし、前後合わせて二十年をかけて、ようやく鎮定を得たにすぎない。しかし国の元気は大いに損なわれ、兵乱の機運はすでに動き出していた。だから一月も経たぬうちに、太平軍が広西の金田村に起こったのである。
原文(底本)
宣宗道光十一年,冬十二月,湖南江華傜人趙金龍,聚眾焚掠兩河口。傜為苗族之一,所居皆山峒,自成村落。在湖南者為衡、永、郴、桂四州郡界,與廣東之束州、廣西之全州,均跨五嶺之脊。民傜雜處,傜性戇鷙,不與漢民交通,漢民每欺侮之,黨連官役,以肆其虐待。凡遇訴訟,官為裁判恆左,袒漢民,以是傜僡積怨。適楚粵之天地會中人,屢刦奪傜寨牛穀,傜無所愬,於是江華縣之錦田鄉傜人趙金龍,倡言復仇。使常寧傜趙寧牙,糾廣東散傜三百餘,合湖南九沖傜,都六七百人,焚掠兩河口。殺會徒二十餘。縣令林先梁、游擊王俊,率兵役由黃竹寨往掩其巢,格殺男婦十四,生擒傜卒五,餘皆逃散。 十二年,春二月,湖南提督海淩阿,率兵勦傜,至寧遠之池塘墟,中伏,全軍覆沒。先是正月中傜人掠兩河口之後,連破洪江、黃竹等寨,進屯長塘坪,眾至千餘,皆以紅布裹首為號。游擊王俊、李方玉兩路進攻,頗有斬獲,金龍竄入藍山境之五水傜山,已有眾三千,欲據九嶷山為根據地。參將成喜以兵扼要道,兵寡不能抵禦,傜人遂抄至寧遠。海淩阿聞之,督師進勦,駐軍下瓘,遣副將馬韜領兵前進。至池塘墟,韜中槍陣亡。海淩阿揮眾入,伏四起,乘高下擊,皆陷沒,海淩阿墜馬被戕,新田縣知縣王鼎銘死之。桂陽、常寧諸土傜咸起應,眾號數萬。帝聞警,命巡撫盧坤、湖北提督羅思舉、貴州提督餘步雲會師進勦。 夏四月,湖南巡撫盧坤等,連破傜眾於常寧之羊泉鎮,趙金龍中槍死。坤率師至永州,時傜眾分為三路,路二三千,犄角出沒,軍中未設糧臺,而所調常德水師、荊州滿騎,皆不習山戰,坤悉奏罷之,而改調鎮草苗疆兵。又以衡州水路咽喉,而常寧屏蔽衡郡,當沖要,祁陽又衡、永提徑,且糧餉後路,皆派兵勇防禦,餘令堅壁清野,檄將弁分路防堵。會有詔,以傜皆山居,趫提負險,恐蔓延兩粵,或盤據山峒,致稽搜捕,勅諸將誘至山外平野之地,眾而殲之。羅思舉因建議,以一軍由新田後路潛躡,遏其南竄,與桂陽北路兵夾攻,並遏其西通道州零陵、桂陽小路,於是三路傜皆驅偪出山,東竄常寧之羊泉鎮,又以其地為入山水口,有溪通舟楫,市長數里,皆為傜宇,今既偪歸一路,且失其翻山長技,乃密檄北路兵齊赴,又漸移各守隘兵進偪合圍,距羊泉街十餘里。會連日大雷雨,諸軍乘勢進勦,傜悉眾抗拒。思舉畫夜督將弁立泥淖中,仰擲火彈大弩,延燒民舍數十戶,斃傜六千,徭目趙文鳳乞降,佯許之,攻益急,生擒其妻妾子女及頭目數百人。金龍易服乘間逸,為兵士熊生發所執殺,餘黨悉就殲。捷聞,諸將吏進爵秩有差。方傜眾之未就殲也,帝命戶部尚書禧恩、盛京將軍瑚松額,來視師,未至軍,諸將以禧恩宗室,為帝親信重臣,議待其至。恩舉不可,曰:“圍久師怠,賊必遁,糜帑可惜。”遂違眾一戰殲之。禧恩至軍,怒其不待也,盛氣陵之,詰金龍死狀虛實甚悉。思舉舉其屍及所偑劍印以上,乃止。 廣東連州傜人趙青仔糾眾侵入湖南之藍山,盧坤等討擒之。青仔聚眾二千餘,擾入楚界之麻崗地方,聲言為趙金龍復仇。坤率提督餘步雲、總兵曾勝,移師往勦,敗之於濠江,又敗之於銀江,獲青仔,磔於市,餘眾悉就戮。 秋七月,廣西賀縣傜人盤均華起事,巡撫祁𡎴勦平之,傜眾大敗於芳林渡,均華逸入楚界,為防兵所執,寘之法。 八月,廣東連州入排徭滋事,逮李鴻賓入京,以禧恩暫署兩廣總督。八排山勢周環,毗連三省,以山峒為巢穴,周圍小沖七八千處。有黃瓜沖者,為漢奸入寨滋擾,訴之官,連州同知蔡天祿鞫之,判民償傜銀千二百兩。民不之償,傜怒,糾眾出巢,抄民家以示報復。鴻賓聞警,遣總後余餘德領兵進勦,傜夜襲營,都司以下,為火彈擲傷、墜崖死者數十人,鴻賓以硝藥失火焚傷入奏,帝偵知得實,詔逮鴻賓入京,下於獄,以禧恩權總督。 九月,禧恩奏報各排沖縛獻首逆,率眾投賊,傜山全境肅清,詔晉禧恩等爵秩有差。李鴻賓既就逮,詔盧坤被授兩廣總督。禧恩聞坤將至,急欲以平傜為元功,而傜峒天險,不易攻,用按察使楊振麟之策,以洋銀鹽布賂傜出降。傜貪利踵至,旬日間得數百人,並縛遣黃瓜沖、火燒坪各寨。傜目房大第、六盤、麻山李、成意一等 http://ctext.org/library.pl?if=gb&file=18634&by_title=%E6%B8%85%E5%8F%B2%E7%B4%80%E4%BA%8B%E6%9C%AC%E6%9C%AB&page=8 諸將遂草草蕆事及坤至悉以善後事宜委之交印卽行帝嘉 其辦理迅速封禧恩輔國公亦不窮其受降始末 冬十月廣東曲江乳源兩縣土盜勾結傜人 滋事盧坤派兵勦平之 十六年春二月湖南武岡州傜人藍正樽滋事藍正樽卽藍沅曠新寧縣傜生也與潘明德吳立 鴶等習敎傳徒爲前巡撫吳榮光所風聞密飭捕拿明德立鵠皆先後就獲正法正樽以官吏購 之急遂聚衆三千分路攻撲武岡州城經千總張大宏等擊敗之餘衆漸𨚫大宏等乘勝進逐生 擒正樽家屬及軍師張和尙陳仲潮等 夏四月湖南廵撫訥爾經額奏報剿捕武岡州傜人已 就肅淸吳榮克旣內召訥爾經額繼之蒞任後督率文武員弁節次殺獲傜衆千有餘名惟藍正 樽逸去 十七年秋七月▢▢湖南巡撫訥爾經額先是訥爾經額奏報拏獲傜人鍾順二究出藍正樽爲 鄉勇泰國良等毆斃帝命解交湖廣總督林則徐嚴據研究則徐覆奏情形相同且指正樽衣物及 其妻吳氏子明玉女秀蘭夥鍾順二並鄉勇等爲證帝仍疑其不實降訥爾經額三等侍衛則徐 降五級留任殺順二著地方官吏嚴密查拏正樽及其長子琢玉等 二十七年冬十月湖南新寧傜人雷再浩糾衆滋事命廵撫陸費瑔討之新寧與廣西接壤之黃 坡峒傜人雷再浩糾合民人李輝陳名機及全州五排梅溪口傜人蕭立山等聚衆起事官吏派 兵往捕傜衆抗拒傷斃官役甚衆命瑔遣兵馳往助勦 十一月廣西廵撫鄭祖環連破傜衆於 全州擊斃傜目李世得再浩逃入山內固守尋與李輝抄掠新寧爲湖南軍隊所敗悉就擒世得 之子加輝於道州起事亦敗績被獲 十二月廣西灌陽鄉勇勦擒傜目左廣秀蔣學泰何其先 等湖南道州軍隊擒獲傜目李魔旺等地方肅清 二十九年冬十一月廣西五排傜李沅發聚衆據湖南新寧城知縣萬鼎恩死之命廵撫馮德馨 親往督勦沅發在全州糾某數百人赴新寧刼獄戕官據城以守遣傜目李洪蒽往窺廣西遷隆 土境廵撫鄭祖琛派游擊段丙南等進勦不利丙南及外委吳玉魁巫宜福等皆陣殁 十二月 馮德馨奏收復新寧城李沅發自焚死其弟李沅寳復起兵攻撲新寧先是德馨圍新寧至四十 餘日傜始退出而德馨以克復聞於是沅發之弟沅寶聞其兄焚死復舉兵馳往新寧爲沅發復 仇實則沅發並未死也傜目黃三等且竊據道州等州縣連界之癩子山踞險以守鑄造軍械其 地介在四邑之閒路徑叢雜地勢散漫軍隊圍捕頗難得力新寧傜衆進至大絹峒附近嶺後都 司張新銘等分途往攻敗退守備熊釗府經歷劉炳南俱被戕命湖廣總督裕泰前往督師 三十年春二月新寧傜衆擾及廣西龍勝一帶參將瑪隆阿迎戰陣亡傜衆突入永州鎮筸諸營 刼奪軍械營中人無敢攖其鋒者廵撫馮德馨於傜衆出城之後謬以收復城池入奏沅發至龍 勝瑪龍阿及都司鄧宗武守備蘇東華千總周榮等俱戰殁沅發遂踞守黔楚交界山內 夏五 月湖南提督向榮連破傜衆於楚粵交界地方生擒李沅發地方一律肅淸自向榮提督湖南率 兵越境進勦屢破傜衆沅發經屢次潰敗之後東奔西突榮計誘之至金峰嶺山內督率將弁奮 勇登山殺獲甚衆沅發帶傷由後山滾落厓澗遂就擒餘黨悉殱地方肅淸 編者曰平傜之役竭三省之兵力前後都二十年僅獲鎮定然元氣大損兵機已動故不踰月 而太平軍起於廣西金田村矣
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