清史紀事本末アヘン戦争と和約(鴉片之戦争及和約)

要約

道光十八年十一月、林則徐を欽差大臣として広東の阿片禁止に当たらせた。阿片はもと薬材で唐以来輸入され、万暦十七年に税則に入り、雍正の禁ののち乾隆はまた課税した。乾隆末に東インド会社が商権を独占して輸入は増え、嘉慶の厳禁も収賄で有名無実となり、道光十六、七年に輸入は五倍となった。この年、黄爵滋が漏卮を塞げと奏し、督撫の議のうち林則徐の言が切実なので派した。

十九年正月末、則徐は三日内の献納を命じたが応じぬので、二月初め貿易を停め沙文を捕らえ、義律は躉船の一千三十七箱を出した。一箱百二十斤、六百万元余りを海口で焼いた。ついで諸国に阿片を私載すれば船貨没収・処刑と連保させたが、義律のみ承知せず、澳門を逐われ糧を絶たれると軍艦で示威し、処刑の一語の削除を請うて拒まれ、英艦の来襲も頼恩が撃退した。則徐は剿撫と海防を請い、閉関論に諸国が我を謀ると反対した。十一月、対英貿易の停止を詔した。

二十年、則徐は虎門に砲座を増し鉄鎖を設けた。二月、英の伯麥が四十余隻でインドを発し、五月に澳門に迫ったが隙がなく兵を分け、廈門を騒がせ六月に定海を陥し、七月に天津で講和の書を投じた。六条は、貨価と軍費の賠償、五港の開港、対等の礼、在留商人への連坐免除、洋商の余費廃止である。九月、琦善を欽差大臣として広東に遣わし、則徐を革職した。

二十一年正月、英艦が沙角・大角の砲台を陥し陳連陞が戦死した。琦善が則徐の施策を覆して要害の兵を撤し、関天培の増兵の請いも拒んだためである。琦善は広州開放と香港割譲を許す仮条約を結んだが、帝は許さず宣戦し奕山を靖逆将軍とし、琦善を逮えて祁𡎴を代えた。二月、英艦は横当・虎門を陥して関天培も戦死し、米仏商人の調停も拒んだ。閏三月、英軍は四方砲台を破って広州に迫り、奕山は余保純に講和させた。休戦の四条は、軍費六百万元の五日内交付、兵の六十里退去、香港は後議、英軍の虎門撤退である。賠償を粤海関と行商に負わせたので民は憤り、三元里の一万余が「平英団」の旗で義律を囲み余保純が解いた。奕山は英人が恭順を乞うと飾り奏して咎められず、則徐は追論されて伊犁に流された。論者は英人に詫びるためかと疑ったが、則徐は平然としていた。

英は兵を北に移し、伯麥が颶風で艦を損じたのを祁𡎴は神助と誇大に奏したが、璞鼎査らが三十余隻で七月に廈門を陥し、顔伯燾は英軍が去ると回復を奏した。八月、定海が陥ちて王錫朋・鄭国鴻・葛雲飛が戦死し、鎮海も陥ちて裕謙が自殺し、余歩雲は寧波を棄てて走ったので、九月、奕経を揚威将軍として浙江に赴かせた。

二十二年、奕経は寧波に敗れ、劉韻珂は和議を主張した。四月に乍浦、五月に宝山が陥ちて陳化成が戦死し、上海から長江を遡り六月に鎮江を陥して海齢は縊れ死に、七月に江寧に迫った。耆英・伊里布と牛鑑を全権に十三条の南京条約を結んだ。要項は、和平、二千百万元の賠償を一八四五年末までに交付、五港の開放と居住、香港の割譲、俘虜の釈放、英に働いた者の免罪、文書の対等、交付後の撤兵と舟山などの占領継続である。

二十三年三月、台湾鎮総兵の達洪阿らを獄に下した。難破した英船の白人二十四名・黒人百六十五名を義勇が捕らえ達洪阿と姚瑩は賞せられたが、俘虜交換のとき黒人を銃殺したため璞鼎査が虐殺と捏造だと訴え、二人は免職となった。五月、耆英らは香港で条約を交換した。戦後も欧米の約使が続き、政府は阿片の禁を弛め洋薬の名で課税し、吸煙の悪習は黙認された。

年表

阿片の流入禁絶から南京条約の締結・批准交換までを、道光十八年(1838年)から道光二十三年(1843年)までの六年間で述べる。黄爵滋の建議を受けて欽差大臣となった林則徐が広東で阿片を没収焼却し、義律との交渉決裂によりイギリスとの貿易を停止した。ブレマー率いる艦隊は定海を陥れて天津に講和書を投じ、琦善・奕山の交渉と敗戦が重なり、林則徐は罷免されたのち伊犂へ流された。ポッティンジャーの軍が廈門・定海・鎮海・寧波から乍浦・上海・鎮江を陥れて江寧に迫り、耆英・伊里布らが南京条約十三条を結んで五港開放・香港割譲・二千百万元の賠償を約した。翌年台湾の捕虜殺害事件で達洪阿らが獄に下され、香港での条約交換の後、清朝は洋薬の名で阿片に関税を課すに至った。

年表(6件)

現代語訳全文

西暦1838年 宣宗道光十八年

  • 冬十一月、湖広総督の林則徐に欽差大臣を授け、急ぎ広東に赴いて海港の阿片禁止の事件を調査処理させ、あわせて広東の水師を指揮下に置かせた。
  • 阿片煙はもと薬材に属する。李時珍の『本草綱目』の中に阿芙蓉というものが見える。唐の貞元時代から、アラビアの商人が罌粟を中国に輸入し、明の万暦十七年には関税表の中に組み入れられた。阿片十斤を栽(「載」の誤りか)せて、値は銀の条(延べ棒)二個に相当するとされ、賜(「則」の誤りか)阿片貿易が知られていたのはその由来がすでに久しいのである。
  • 明末以来、民間には次第にこれを吸う者が出た。雍正七年、かつて禁令を布き、販売した者は枷と杖、再犯は辺遠の地に充軍とした。ところが乾隆年間の海関則例では、また薬材の項目に組み入れられ、百斤ごとに銀三両の税とされた。しかしその行われた当時は、輸入額はまだ多くなく、また輸入する者はポルトガル人が主であった。乾隆の末年に及び、イギリスの東インド商会が中国の商権を独占し、インド・ベンガルなどの地方がまた阿片の産地であったので、輸入額は日ごとに増していった。
  • 嘉慶の初年、たびたび諭旨を下して厳しく禁じ、輸入する者があればすぐこれを焼き捨て、吸う者の罪は絞首刑の執行猶予にまで及んだ。しかし沿海の役所は利を貪って賄賂を受け、その(底本は「具」に作る。「其」の誤りか)自由な輸入にまかせた。そうして道光十六、七年の間には、輸入額は五倍に増加した。この年の閏四月、鴻臚寺卿の黄爵滋が、国富の漏れ口を厳しく塞いで国の本を培うよう奏請し、各直省の将軍・総督・巡撫にそれぞれ規程を議して奏上させるよう建議した。議した者はみな黄爵滋の言うとおりであったが、林則徐の言葉はとりわけ切実であった。帝は大いに心を動かされ、そこで林則徐に駅伝で急ぎ広東に赴かせ、阿片貿易を断つ策を実行させたのである。

西暦1839年 宣宗道光十九年

  • 冬十一月、イギリスとの貿易を停止する詔を下した。
  • この年の正月未(「末」の誤りか)に広東に到着し、イギリス商人に三日以内に貯えている阿片を差し出すよう期限を切って命じた。イギリス人は放置して取り合わなかった。二月の初め、賜徐(「則徐」の誤りか)はその貿易を停止し、その沙文を捕らえた。領事の義律(エリオット)はやむを得ず、洋上の躉船(貯蔵船)にある所蔵の一千三十七箱を差し出した。則徐はそれが全数でないことを知っていた。一箱は百二十斤であり、総計すればその元手は六百万元余りになる。則徐は急ぎ奏上して京師へ送ることを請うたが、詔してそのまま海港で焼却させた。
  • イギリス人は不満のまま去り、諸国の商船も相次いで澳門(マカオ)に向かった。則徐はそこで諸国と取り決めをし、およそ入港する船はみな共同で阿片を密かに積み込まないと保証すること、違反した者は船も貨物も官に没収し、人はその場で処刑する、とした。当時通商する国は十数か国あり、みな取り決めのとおりにと請うたが、ひとり義律だけは承知せず、しかも則徐に員を澳門へ派して会議するよう請うた。則徐は許さず、イギリス人を澳門から追い出すよう命じ、あわせてその食糧の供給を絶った。義律はそこで食を求めるという名目で軍艦を集めて尖沙嘴に入り、砲を撃って示威した。則徐は堅く構えて動かず、義律はひそかに澳門へ赴き、ポルトガル人を介して取りなしを求め、ただ「人はその場で処刑する」の一語を削ることだけを請い、その他はすべて言いなりになるとしたが、則徐はまた厳しくこれを拒んだ。そこで九月・十月の間、イギリス艦六隻が海港を襲ったが、いずれも参将の頼恩に撃退された。
  • イギリス側は思惑を遂げられなかった。そこで則徐は機に応じて討伐と懐柔を行うことを奏請し、あわせて福建・浙江・江蘇の諸総督・巡撫に海港を厳重に防備するよう命ずることを請い、またその貿易の停止を奏上した。当時、朝廷の官(底本は「朝宮」に作る。「朝官」の誤りか)はみな排外を主張し、大理寺卿の曾望顔に至っては関を閉じて海禁を行い、各国の貿易をことごとく停止するよう奏請した。則徐はそれは不可であると力説し、諸国が手を結んで我が国を謀ることを恐れると述べ、帝はこれをもっともとした。ここに至って、イギリスとの貿易停止の諭が下された。しかし義律はなお使いを遣わして調停し、イギリス商人が澳門に戻って住むことをやはり許すよう請うたが、則徐は朝廷の旨を受けたばかりで急に改めるのは都合が悪いとして、なお厳しく叱って許さなかった。

西暦1840年 宣宗道光二十年

  • 秋九月、イギリスの軍艦が定海を陥れ、天津まで来航して講和の書を投じたので、両広総督の林則徐の職を剥奪し、琦善をこれに代え、沿海の各省に戦いをやめるよう命じた。
  • 則徐は十九年十二月に両広総督を命ぜられ、そこで守備を整え、虎門・横当山の各海港に砲座を増設し、木の浮きと鉄の鎖を設け、高廉道を澳門に駐在させて水師の下に配属し、統御の資とすべきだと奏上した。
  • この年の二月、イギリス海軍統領の伯麥(ブレマー)が軍艦十五隻、汽船(底本は「汽般」に作る)四隻、輸送船二十五隻を率いてインドを出発し、五月、澳門付近まで来航した。則徐は火船を放ち、風と潮に乗じてこれを攻め、その杉板の小船二隻を焼いた。一月余り対峙したが、広東では付け入る隙がないので、方針を改めて兵を分け諸省を騒がすことにした。五隻で廈門(底本は「夏門」に作る。以下同じ)に至り、金廈道(底本は「金夏道」に作る)の劉曜春が兵を出して防戦しようとしたところ、イギリス艦はさっさと去り、合流して浙江を騒がした二十六隻が定海を攻め、六月にこれを陥れ、七月に五隻で天津に赴いて講和の書を投じた。全部で六条である。
  • 一、貨物の代価を弁償すること。
  • 一、広州・廈門・福州・定州・上海を開いて商業港とすること。
  • 一、両国の交際には対等の礼を用いること。
  • 一、軍費を賠償すること。
  • 一、イギリス船が阿片を密かに積んだからといって、在留のイギリス商人にまで累を及ぼさないこと。
  • 一、洋商の余分な費用をすべて廃すること。
  • 直隷総督の琦善がこれを奏聞した。詔して琦善を欽差大臣とし、広東へ赴いて調査処理させ、則徐の職を革め、広東に留めて取り調べを待たせ、あわせて沿海の各省(底本「洛省」)に砲を撃ってはならぬと命じた。

西暦1841年 宣宗道光二十一年

  • 春正月、イギリスの軍艦が虎門の外の沙角・大角の両砲台を攻め落としたので、琦善の職を剥奪し、奕山を靖逆将軍として広東の軍営へ急行させた。
  • 琦善は二十年十月に広州に至り、林則徐のしたことをことごとく覆し、和議が速やかに成らないことを恐れて、各要害の兵を撤収して敵に媚びた。水師提督の関天培は、敵が日夜小船と攻撃の道具を増造し、あわせて阿片を運ぶ各艇を召集して戦備としていることを探知し、ひそかに琦善に報告して増兵を請うたが、許されなかった。伯麥はそこで十二月に突如攻めて沙角および大角の砲台を陥れ、副将の陳連陞が戦死した。関天培と総兵の李建鈺、遊撃の馬辰らは、なお鎮遠・威遠の各砲台を分け守っていたが、兵は各々わずか数百であった。重ねて増兵を請い、省城の文成(「文武」の誤りか)も力を尽くして求めたが、琦善は捨て置いて取り合わず、ただ義律に書を送って和議を力説し、阿片代価の賠償のほかに広州の開放と香港の割譲を許し、浙江の捕虜を返還させて定海を贖うこととした。仮条約が成って奏聞したが、帝は許さず、ここに至ってふたたび宣戦の諭を下し、奕山を将軍、楊芳・隆文を参賛大臣として広東へ急行させ、琦善を逮捕して入京させ、祁𡎴をこれに代えた。
  • 二月、イギリスの軍艦が虎門の砲台を攻め落とし、アメリカ・フランス両国の商人が書を送って調停を買って出たが、許さなかった。琦善はすでにイギリス人と仮条約を結んでいたのに、宣戦の諭が突然届き、琦善は甚だしく恐れ、ただ美女を着飾らせ珍味を並べてイギリスの使者を盛大にもてなした。しかし義律は事がすでに途中で変わったことに気づき、そこでこの月、横当・虎門の各砲台を続けて攻め、いずれも陥れ、提督の関天培は戦死した。
  • 閏三月、イギリスの軍艦が四方砲台を攻め落とし、進んで広州に迫り、将軍の奕山は知府の余保純を城外に出して講和させ、イギリス兵は退いた。
  • これより先、奕山らは広東に至ると翼長・随員らの言葉に惑わされ、僥倖の一戦をあてにして夜に敵艦を襲ったが、わずかに小勝を得ただけで、翌朝にはイギリス軍はすでに広州城の西北の天字砲台・泥城港および城北の山頂の四方砲台を続けざまに破っていた。奕山は巡撫の役所に逃げ込み、広州府の余保純を遣わして講和に行かせ、そこで休戦条約四条を議定した。
  • 一、将軍らは阿片代価のほかに、まずイギリス軍の軍費六百万元を償い、五日以内に交付すること。
  • 一、将軍および外省の兵は城外六十里の地に退いて駐屯すること。
  • 一、香港の割譲は未定の問題とし、後日の協議を待つこと。
  • 一、イギリス軍は虎門から退くこと。
  • 和議が定まると、奕山らはこの六百万の賠償金を、運海関(「粤海関」の誤りか)の三庫が四百万、広州の行商が二百万を引き受けることに議した。そこで広東の民は大いに憤り、三元里の民一万余人が「平英団」の旗を掲げてイギリス人に立ち向かった。義律は重囲に陥って出られず、知府の余保純が行ってこれを解き、義律を挟んで囲みを出た。そして賠償金の交付が終わると、イギリス軍は広州から撤退し、ただちに将軍らに城を離れるよう促した。奕山は金山に退いて駐屯し、言葉を飾って上奏し、イギリス人は行き詰まって恭順を乞うているので、旧のとおりの通商を許されたいと述べた。帝もうすうすこのことを聞いていたが、咎めだてしなかった。
  • まもなく則徐の罪をさかのぼって論じ、伊犂へ流謫した。論者は言う。イギリス人との軋轢が起こった初め、則徐に下された廷寄の訓令には「卿が軽率であることは心配しない。ただ卿が臆病であってはならぬと戒めるのだ」という語があったのに、ここに至ってはかえって決裂の責めを負わされ、万余里の外へ流された。思うにイギリス人に詫びるためであろう、と。当時の人は多くこれを不平としたが、則徐自身は平然としていた。
  • 九月、イギリスの軍艦が廈門を陥れ、兵を分けて定海・鎮海・寧波の諸城を陥れたので、大学士の奕経を揚威将軍として浙江に急行させ、軍務を処理させた。
  • これより先、イギリス艦は虎門から退いたが、二十年に要求した六条および香港割譲の約について中国政府の確答を得ていないので、兵を収めようとせず、戦勝の威を借りて兵を北へ移そうと考えた。伯麥はそこでインドから続けて戦艦を広東に調え、六月に北へ発つ予定であった。たまたま颶風がその乗艦を破り、かなりの損傷を受けた。両広総督の祁墳(「祁𡎴」の誤りか)はそこで大げさに上申し、神の加護を得て洋船を打ち砕き、洋兵が数知れず溺れ死んで浮き屍が海を覆ったと述べた。朝廷はちょうど蔵香(底本は「藏杳」に作る。「藏香」の誤りか)を下賜して海神に謝し、広東の守城の文武を数百員に至るまで推挙することを許した。
  • ところがイギリスは大使の璞鼎査(ポッティンジャー)、海軍少将の巴爾克哭(「巴爾克」の誤りか)を遣わし、その将の臥烏古・巴爾克に軍艦九隻、汽船四隻、輸送船二十三隻を率いさせ、七月に廈門に迫ってこれを陥れた。総督の顔伯燾は同安に退き、イギリス軍は廈門を得てもここを守らず、全隊が浙江へ向かった。顔伯燾はそこで廈門を回復したと奏聞した。
  • ところがイギリス軍はまた八月に進んで定海を陥れ、総兵の王錫肶(「王錫朋」の誤りか)・鄭国鴻・葛雲飛はみな戦死した。ついで鎮海を陥れ、軍を指揮していた裕謙は自殺した。イギリス軍はまっすぐ甬江を遡り、寧波城下に停泊した。提督の余歩雲は城を棄てて上虞へ走り、寧波は守りを失い、慈谿・餘姚の住民はみな逃げ散って空になった。事が朝廷に聞こえ、奕経を揚威将軍として浙江へ進軍させ、回復を図らせた。

西暦1842年 宣宗道光二十二年

  • 秋八月、イギリスの軍艦が乍浦・宝山・上海・鎮江を続けざまに陥れ、江寧に迫ったので、尚書で宗室の耆英らを全権大臣として江寧に赴かせ、イギリス軍と和議させ、イギリス軍は撤兵して定海に還った。
  • これより先、奕経らは正月に杭州に至り、二月に兵を出して寧波を攻めたが敗れた。撫臣の劉韻珂は力めて和議を主張し、諸軍に兵を止めて攻撃をやめるよう命じた。しかしイギリス人は四月に全軍で乍浦に迫ってこれを占領し、五月に進んで宝山を陥れ、提督の陳化成が戦死した。ついで上海を陥れ、長江を遡って六月に鎮江を陥れ、副都統の海齢は首を吊って死んだ。イギリス人は軍を分けて西へ江寧に迫り、七月に上陸して大砲を運び鍾山の頂に据え、城を砕く計画を立てた。ちょうど朝命で者英(「耆英」の誤りか)・伊里布および総督の牛鑑を全権大臣とし、飛書してこれを阻止し、翌朝そろって呉艦(「英艦」の誤りか)に赴いて和議し、七月に中英修好条約、いわゆる南京条約を締結した。全部で十三条、その要項は以下のとおりである。
  • 一、中英両国は将来平和を維持すべきこと。
  • 一、中国政府はイギリス政府に軍費一千二百万元、商欭(「商欠」の誤りか)三百万元、阿片賠償六百万元、合わせて二千百万元を納め、千八百四十五年の年末を期限として清算・交付すること。
  • 一、広州・廈門・福州・寧波・上海の五港を開き、イギリス人の通商および居住を許し、かついっさい関税を課さないこと。
  • 一、香港の主権をイギリス政府に譲ること。
  • 一、イギリス人で捕虜となっている者を釈放して還すこと。
  • 一、戦役中にイギリス人のために働いた中国人は一律に罪を免ずること。
  • 一、将来両国が往復する文書は対等の書式を用いること。
  • 一、条約が皇帝の批准を得、賠償金六百万元の交付が済んだ後、イギリス軍は当時占領していた長江沿岸などの地から撤兵すること。ただし舟山および古浪嶼は、条約の実行前までは、なおイギリス軍が占領する。
  • イギリス艦はそこでこの月、江寧を出航し、長江に碇泊する艦隊をことごとく引き揚げて定海に還り駐屯した。

西暦1843年 宣宗道光二十三年

  • 春三月、台湾鎮総兵の遠洪阿(「達洪阿」の誤りか)らを逮捕して獄に下した。
  • はじめ、二十一年八月および二十二年二月、イギリス艦が台湾を通った際、淡水港で風に遭って暗礁に触れたものがあり、大安港で浅瀬に乗り上げたものがあり、いずれも台湾の義勇兵の両(衍字か)捕らえるところとなった。数えて白人二十四名、黒人百六十五名である。総兵の達洪阿、兵備道の姚瑩は急使で勝報を奏上し、達洪阿は太子少保を、姚瑩は二品頂戴を賞せられた。
  • 南京条約が成り、両国は捕虜を交還すべきことになったが、達洪阿らはただちに黒人を銃殺してしまい、ただ白人らだけをイギリス艦に還した。イギリス使節の璞鼎査はそこで、鎮・道の官が難民を虐殺し、功を偽って作り上げた奏上をしたとして、江蘇・浙江・福建・広東四省の大官にあまねく訴え、これを上奏するよう脅し迫った。帝は閩浙総督の怡良に命じて台湾に渡り調査処理させた。ここに至って達洪阿らを逮捕して入京させ、刑部の獄に下し、まもなくいずれも免職とした。
  • 夏五月、耆英らがイギリスの全権公使と香港で条約を交換した。これより阿片戦争の局面は幸いにも終わったが、欧米の条約締結の使者が次々に至り、中国政府はついに阿片の禁令を緩め、洋薬という名で関税を徴収するようになった。これによって臣民が阿片を吸う悪習は、国家の法律によって黙認されたも同然となったのである。
原文(底本)
宣宗道光十八年,冬十一月,授湖廣總督林則徐欽差大臣,馳往廣東查辦海口禁煙事件,兼節制廣東水師。鴉片煙本屬藥材見李時珍《本草綱目》中言阿芙蓉,自唐貞元時代,阿剌比亞商人以罌粟輸入中國,至明萬曆十七年,列入關稅表中。栽鴉片十斤,值價銀條兩個,賜鴉片貿易之通知由來已久。明季以來,民間漸有用以吸食者,雍正七年,曾布禁令,販賣枷杖,再犯邊遠充軍。而乾隆中,海關則例,則又列入藥材項下,每百觔稅銀三兩。然其行時,輸入額尚不多,又輸入之者,以葡萄牙人爲主。及乾隆末季,英吉利東印度商會壟斷中國商權,而印度、孟加拉等地方又爲鴉片產地,於是輸額日增矣。嘉慶初年,屢下諭旨,嚴加厲禁,有輸入者輒銷毀之,吸者罪至絞候。然沿海官衙貪利納賄,聽具自由輸入。馴至道光十六七年間,輸額增加五倍,是年閏四月,鴻臚卿黃爵滋奏請嚴塞漏卮,以培國本,建議令直省將軍、督撫各議章程具奏。議者皆如爵滋言,而則徐語尤剴切。帝大感動,乃命則徐馳驛赴粵,實行杜絕鴉片貿易之策。

十九年,冬十一月,下詔停止英吉利貿易,以是年正月未至廣東,限令英商三日內繳出所蓄鴉片。英人置不理。二月初,賜徐停其貿易,囚其沙文。領事義律不得已,出洋面躉船上所存一千三十七箱。則徐知非全數,每箱百二十觔,統計資本金六百萬元有奇。則徐馳奏請解京師,詔令即在海口銷燬。英人怏怏去,諸國商船相隨開赴澳門,則徐遂與諸國約,凡船入口者,皆須共結不得夾帶鴉片,違者船貨沒官,人即正法。時通商之國以十數,皆請如約,獨義律不願,且請則徐遣員至澳門會議,則徐不許,下令逐英人出澳門,並絕其餉饋。義律遂以索食爲名糾師船入尖沙嘴,開礮示威。則徐堅持不動,義律乃潛赴澳門,介葡人轉圜,但請削去『人即正法』一語,餘皆悉唯命,則徐復嚴拒之。於是,九十月間,英艦六艘襲海口,皆爲参將賴恩擊走。計不得逞,則徐因奏請相機剿撫,並請飭福建、浙江、江蘇諸督撫嚴防海口,並奏停其貿易。時朝宮皆主張排外,大理卿曾望顏至奏請封關海禁,盡停各國貿易,則徐力言不可,謂恐諸國協而謀我也,帝然之。至是,宣布停止英吉利貿易之諭下。然義律猶遣使調停,請仍許英商回居澳門,則徐以新接朝旨,不便驟更,仍嚴斥不許。

二十年,秋九月,以英吉利兵艦陷定海,駛至天津,投書講款,詔禠兩廣總督林則徐職,以琦善代之,敕沿海各省休戰。則徐以十九年十二月奉命總督兩廣,乃繕守備,於虎門橫當山各海口添列礮位,設木桴鐵索,奏宜高廉道駐澳門,撥隸水師,資控馭。是年二月,英海軍統領伯麥率軍艦十五艘,汽般四艘,運送船二十五艘,由印度出發,五月,駛至澳門附近。則徐發火舟,乘風潮攻之,焚其杉板小船二。相持月餘,以粵之無隙可乘也,乃改圖分擾各省。以五艘駛至夏門,金夏道劉曜春甫發兵拒戰,英艦遽颺去,而合擾浙之二十六艘攻定海,六月陷之,七月以五艘赴天津,投書講款,凡六條:
  一、還償貨價。
  二、開放廣州、夏門、福州、定州、上海爲商埠。
  三、兩國交際用對待之禮。
  四、賠償軍費。
  五、不得以英船夾帶鴉片累及居留英商。
  六、盡裁洋商(經手華商)浮費。
直隸總督琦善以聞。詔以琦善爲欽差大臣,赴粵查辦,革則徐職,令留粵聽勘,並勅沿海洛省不得開礮。

二十一年,春正月,以英吉利兵艦攻陷虎門外沙角、大角兩礮臺,禠琦善職,命奕山爲靖逆將軍,馳赴廣東軍營。琦善以二十年十月至廣州,悉反林則徐所爲,恐和議之不速成也,撤各隘兵以媚敵。水師提督關天培偵知敵人日夜增造小船及攻具,並召集販煙各艇以爲戰備,密報琦善,請增兵,不許,伯麥遂以十二月突攻陷沙角及大角礮臺,副將陳連陞戰歿,天培及總兵李建鈺、遊擊馬辰等尚分守鎮遠、威遠各礮臺,兵各僅數百。再請增兵,省城文成亦力求,琦善置不問,惟移書義律,力伸和議,於賠償煙價外許開放廣州,割讓香港,歸還浙江俘虜以贖定海。草約成,以聞,帝不許,至是再下宣戰之諭,命奕山爲將軍,楊芳、隆文爲參贊大臣,馳赴廣東,逮琦善入京,以祁𡎴代之。 二月,英吉利兵艦攻陷虎門礮臺,美、法兩國商人遞書任調停,不許。琦善既與英人訂立草約,而宣戰之諭忽至,琦善恐甚,惟飾美女、列珍味盛饗英使,而義律覺事已中變,遂於是月,連攻橫當、虎門各礮臺,皆陷,提督關天培戰死。

  清史紀事本末四   18

 閏三月英吉利兵艦攻陷四方礮臺進薄廣

州將軍奕山遣知府余保純出城講款英兵退先是奕山等至粵惑於翼長隨員等之言思僥倖

一戰夜襲敵艦僅獲小勝而翌旦英軍已連破廣州城西北之天字礮臺泥城港及城北山頂之

四方礮臺奕山避入廵撫署使廣州府余保純往講款遂議定休戰條約凡四一將軍等允於煙

價外先償英軍軍費六百萬元限五日內交付一將軍及外省兵退屯城外六十里地一以香港

 割讓爲未定問題俟後日協商一英軍退出虎門和議旣定奕山等以此六百萬之償金議由

 運海關三庫擔認四百萬廣州行商擔認二百萬於是粵民大忿三元里民萬餘樹平英團之

旗幟以與英人爲難義律陷重圍不得出知府余保純往解之挾義律出圍乃償金交畢英軍撤

去廣州卽促將軍等離城奕山退屯金山飾詞入吿謂英人窮蹙乞撫請准照舊通商帝亦微聞

之不之詰也尋追論則徐罪遣戍伊犂論者謂當與英人齟齬初起時廷寄則徐訓令有不患卿

孟浪但戒卿不可畏葸之語至是反坐以決裂遣戍萬餘里外蓋欲以謝英人也時人多爲不平

而則徐自若 九月以英吉利兵艦陷厦門分兵陷定海鎮海寧波諸城命大學士奕經爲揚威

將軍馳往浙江辦理軍務先是英艦退出虎門以二十年所索六款及香港割讓之約未得中國

政府之決答不肯罷兵思藉戰勝之威移兵北上伯麥遂自印度續調戰艦來粵准以六月北發

適颶風破其坐船頗有損傷粵督祁墳遂鋪張入吿謂獲神祐撞碎洋船漂没洋兵無數浮尸蔽

海朝廷方發藏杳謝海神允廣東保舉守城文武至數百員而英遣大使璞鼎查海軍少將巴爾

克哭至使其將臥烏古巴爾克率軍艦九艘汽船四艘運送船二十三艘以七月進迫厦門陷之

督臣顏伯燾退至同安英軍得厦門亦不守全隊駛往浙江伯燾遂以收復厦門奏聞而英軍復

以八月進陷定海總兵王錫肶鄭國鴻葛雲飛皆戰死旋陷鎮海督師裕謙自殺英軍直溯甬江

泊寧波城下提督余步雲棄城走上虞寧波失守慈谿餘姚居民皆逃散一空事聞命奕經爲揚

威將軍進軍浙江謀恢復

二十二年秋八月以英吉利兵艦連陷乍浦寳山上海鎮江偪江寧詔尙書宗室耆英等爲全權

大臣往江寧英軍議和英軍撤兵還定海先是奕經等以正月至杭州二月發兵攻寧波敗績撫

臣劉韻珂力主和議令諸軍按兵罷攻而英人於四月以全軍迫乍浦占領之五月進陷寳山提

督陳化成戰死旋陷上海溯長江六月陷鎮江副都統海齡自縊死英人分軍西薄江寧七月登

岸運大礮置鍾山之巔爲碎城之計畫適朝命者英伊里布及督臣牛鑑爲全權大臣飛書阻止

詰朝齊赴吳艦議和於七月締結中英修好條約所謂南京條約者也凡十三條其要項如下

一中英兩國將來當維持平和 一中國政府向英政府納軍費一千二百萬元商欭三百萬元

鴉片賠償六百萬元共二千一百萬元限千八百四十五年歲末清付 一開廣州厦門福州寧

波上海五港許英人通商及居住且一切不課關税 一以香港之主權讓與英政府 一放還

英人之爲俘虜者 一戰役中爲英人服役之華人一律免罪 一將來兩國往復之文書用平

行款式 一條約得皇帝批准償金交付六百萬元之後英軍當自當時所占領之長江沿岸等

地撤兵惟舟山及古浪嶼在條約實行之前仍由英軍占領英艦遂於是月駛出江寧盡調碇泊

長江之艦隊還屯定海

二十三年春三月逮臺灣鎮總兵遠洪阿等下於獄初二十一年八月及二十二年二月英艦過

臺灣有在淡水港遭風觸礁者有在大安港擱淺者皆爲臺灣義勇兩所捕獲計白人二十四黑

人百六十五總兵達洪阿兵備道姚瑩飛章奏捷賞達洪阿太子少保姚瑩二品頂戴會南京條

約成兩國當交還俘虜達洪阿等遽將黑人槍斃僅遣白人等還英艦英使璞鼎查乃以鎮道虐

殺難民冒功揑奏徧訴江浙閩粵四省大吏脅令上聞帝命閩督怡良渡臺查辦至是逮達洪阿

等入都下刑部獄尋俱革職 夏五月耆英等與英吉利全權公使於香港交換條約自是鴉片

戰爭之局幸終而歐美訂約之使紛至中國政府遂弛鴉片之禁令以洋藥之名徵收關税由是

臣民吸食鴉片之弊風不啻爲國家法律所默許矣

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