清史紀事本末咸豊の時政(咸豊時政)

要約

咸豊の世は地震・日食・彗星や地から血が出る異が相次いだ。元年、雍沙の番族を濫殺した甘陝総督の琦善を吉林の苦役に送った。閏八月、南河豊北の堤が決壊した。歳費五、六百万金のうち工事に用いるのは十分の一に満たず、河帥は豆腐一品に数百金を費やした。

二年、台湾の洪紀の乱を葉紹春・徐宗幹が討ち、七月、杜受田が卒した。宣宗は恭王奕訢を立てようとしたが、南苑の校猟で帝ひとり獲物を献ぜず、春に鳥獣が孕むのに生を傷つけるに忍びぬと答えたので人君の度量と悦び儲位が定まった。この言は師傅の受田が授けたもので、即位するや協揆に進め、卒して文正と諡した。十二月、日食・月食により羅惇衍の請いで冬至の慶賀を停めた。

三年、官票を京師から通用させ、献銀で軍糧を助けさせ、郷試の定員と学額を定めた。福建の林俊の乱で同安・厦門、林恭らの乱で永安・沙県が失われ、まもなく回復した。当五・当十の大銭を鋳、銀銼も製した。この年、革監生の銭江を殺した。江は阿片戦争のとき広州で義に結び新疆に流され、赦されて太平軍に赴き「興王十四策」を献じ、江寧・汴梁を取って済南に進み民を愛せと勧めた。楊秀清に忌まれて維揚に走り、雷以諴のため献納と板釐・活釐の法を立てて数十万を得たが、以諴の過を面責して斬られ、聞く者は冤とした。六月、豊北の河工がまた決壊した。七月、鈔法を広め地丁・雑税にも銭鈔二十を銀一両に充てたが、張祥晋の花税などの条陳も呉廷溥の献納停止の請いも聴かれなかった。八月、劉麗川が上海に挙兵し周立春らが応じ、一年余りで解散した。当五十の大銭も鋳た。安徽で殉難した団練大臣の呂賢基を文節と諡した。兵も餉もなく団練を命ぜられ、兵事を知らぬと痛哭して辞した末の死である。邵懿辰も黄河の防禦に出されて坐罪し、蒙古人の漢文習得も厳禁され、王懿徳は厦門と仙遊の回復を奏した。大銭の私鋳は厳刑でも止まず罪名を定め、官票・宝鈔を制銭と併用させた。

四年、当百・当五百・当千の大銭と鉄銭を鋳、那拉氏を懿嬪とした。五年、銅瓦廂で河堤が決壊し、雲南の回民の杜文秀が大理府城を占め提督の褚允昌が死んだ。六年、載淳が生まれて懿嬪を懿妃とし、文慶が卒した。文慶は、大事には民の苦しみを知る漢人を用いよと言い、祁寯藻が曾国藩をそしったときも助けた。

七年、懿妃を懿貴妃とし、回兵に迫られた恒春が妻と縊れ死んで呉振棫が雲貴総督となった。法福礼は英吉沙爾・喀什噶爾の回復を奏し、回人を討てと告示した黄琮と竇垿は革職された。八年、呉振棫は回民の招撫を奏したが回人に制せられて免ぜられ、張亮基も軟禁された。

九年二月、革職の柏葰らを殺した。前年の科場で平齢の硃墨両巻が合わぬと孟伝金が奏し、柏葰と副考官の程庭桂らが訊問された。帝は宥そうとしたが、粛順が年来の恨みから答案差し替えの罪に問い炳采らとともに斬に処し、流謫や降革は数十人に及んだ。五千金を辞した清節の柏葰を冤としない者はなかった。九月、労崇光が両広総督となった。葉名琛の拉致以来イギリス人が総督署を占め城は空であったが、崇光は倍道して至り、総督が入城せずどこへ行くかと単騎で駆け入り、イギリス人は驚いて退き商民は生業に復した。

十年八月、英仏連合軍が大沽砲台を陥し天津を占めて京師に迫り、帝は円明園を出て熱河に奔った。十二月、和約により総理各国通商事務衙門を軍機処に倣い設けたが、外交に通じた総理大臣はなく人材難であった。長蘆の塩政は廃して直隷総督に帰した。十一年七月、帝が熱河で崩じた。もとより病多く鹿血を飲んでいたが、咯血に暑気の下痢が加わり煙波致爽殿で崩じた。春秋三十一、載淳が継ぎ、易州龍泉峪の定陵に葬り、諡は顕、廟号は文宗である。

年表

咸豊帝の治世十一年間(1851年から1861年まで)の内政・財政・災異・人事を年ごとに記す。琦善の罷免や杜受田の死、貨幣では官票・宝鈔の発行と当五から当千までの大銭鋳造、河工の決壊と河帥の奢侈、各地の民変や雲南の杜文秀の蜂起、柏葰の科場事件など、財政の窮迫と綱紀の乱れが並ぶ。あわせて那拉氏が懿嬪から懿貴妃へ進み載淳を生んだこと、文慶が漢人登用と曾国藩擁護を説いたことを記す。最後は英仏連合軍の北京進撃により帝が熱河へ奔り、総理各国通商事務衙門を設けたのち、咸豊十一年七月に避暑山荘で崩じ、載淳が跡を継ぐまでを扱う。

年表(11件)

現代語訳全文

西暦1851年 文宗咸豊元年

  • 春正月、帝は太妃に付き添って梁格荘へ行き、陵に参拝し、八日を経て宮に還った。
  • 江蘇で地震があった。
  • 夏五月、甘陝総督の琦善の職を解いた。琦善は黒城の撒拉(サラール)回子および黄喀窪の番子を討伐するにあたり、雍沙の番族をみだりに殺すこと頗る多かったので、職を革めて刑部に引き渡し取り調べるよう命じ、まもなく吉林へ送って苦役に就かせるよう命じた。
  • 六月、江蘇上海県の北門外で民家の地面から血が出た。血は地中から上へ噴き出し、色は紅く、やや紫を帯び、地上に出るとただちに凝り固まって塊になった。
  • 南方の各省で雪を見ることが多かった。
  • 秋閏八月、南河の豊北の厯堤が決壊した。南河は歳費(「𡻷」は「歲」の誤りか)に五、六百万金を用いるが、実際に工事に用いられるのは十分の一にも及ばず、残りはことごとく官吏の浪費に供されていた。河帥が客を宴すると、一席に要するものは、常に駱駝三、四頭を斃し(「弊」は「斃」の誤りか)、豚五十余頭、鵝の掌・猿の脳は数知れない。豆腐一品を食べるにも数百金を費やす。他は推して知るべしである。驕奢淫佚はここまでに至り、しかも工事の方略については(底本は「方略」の二字を重ねて記す)これを講究する者がない。そのため河の水害がしばしば警を発した。

西暦1852年 文宗咸豊二年

  • 春正月、台湾の民である洪紀が乱を起こし、鎮(総兵)と道(道員)の葉紹春・徐宗幹が兵を督してこれを討った。
  • 帝は梁格荘へ行き陵に参拝し、九日を経て宮に還った。
  • 夏五月、江蘇に属する州県で地面に白い毛が生えた。
  • 秋七月、協辦大学士の杜受田が卒した。かつて宣宗は諸子の中で恭王奕訢を鍾愛し、これを立てようとした。だが帝(咸豊帝)は年齢が長であり、徳を失うところもなかったので、意を決しかねていた。ある日、諸子に南苑で校猟することを命じた。この日、恭王が得た鳥獣が最も多く、帝ひとりは献ずるものがなかった。宣宗がこれを問うと、帝は答えて言った、「時はまさに春の和らぎ、鳥獣は子を孕み育てております。生命を傷つけて天の和を犯すには忍びません。また弓馬の一日の長をもって諸弟と競い争おうとも思いません」。宣宗は大いに悦び、「これこそまことに人君の度量である」と言った。かくして儲位(皇太子の位)が定まった。当時、受田は帝の師傅であり、その日の言葉は受田が実際に教えたものであった。そのため帝は即位するとすぐに受田を協揆(協辦大学士)の職に進めた。ここに至って卒すると、帝は慟哭して声を失い、みずから臨んで奠醊(供物を供えて祭ること)を行い、太師を贈り、文正の諡を与えた。
  • 冬十二月、丁未の朔に日食があり、壬戌の既望に月食があった。詔して冬至の慶賀を停止した。通政使の羅惇衍の請いに従ったのである。
  • 十二月、京師で地震があった。

西暦1853年 文宗咸豊三年

  • 春二月、官票(紙幣)を通用させることとし、京師でまず先に行うよう命じた。
  • 三月、江蘇・浙江で大地震があり、四日にしてやんだ。
  • 各省が銀を献納して軍糧を助けることを定めた。
  • 文武の郷試の合格定員、および文武の試験の学額(入学定員)の例を認可した。
  • 夏四月、日の傍らに黒気が見えた。春に入って以来、風と土埃がしばしば起こり、日の色は光を失っていた。この月の四日の午の刻、日の傍らに突然黒気が現れ、四囲を擦り揺らして円い暈の形を成し、あわせて煙のような翳りが深く濃かった(「深濠」は底本のまま。「深濃」などの誤りか)。
  • 五月、江蘇上海の北門外で地面からまた血が出た。
  • はじめて銀銼を製した。
  • 福建の民である林俊が乱を起こし、同安・厦門が失われた。
  • 福建の漳州・延平の両府の民である林恭らが乱を起こし、永安・沙県が失われ、鎮守の官が殺されたが、まもなく回復した。
  • 当五銭・当十銭の大銭を鋳造した。
  • 浙江の、すでに資格を革められた監生である銭江を殺した。江は字を東平といい、帰安の人である。アヘン戦争の折、江はそのとき広州にあり、人々を集めて義のために結集し、イギリス人に難題を仕掛けた。作った檄文には名指しの非難が多く、上級官庁はこれを憎み、法に問うて新疆へ流謫した。後に恩赦に遇って帰り、京師に遊んだが、公卿は皆、身分を曲げてこれと交わった。太平軍が武昌を破るのに出遭うと、江はこれを聞いて言った、「これは自分が袋の中に置かれていようとも、錐の先が突き出るように頭角を現す時だ」。そこで海簿の粗末な車(「海簿」は底本のまま。誤字か)に乗って都を出て、太平軍のもとへ至り、策を杖いて天王に謁見し、「興王十四策」を献じた。まず江寧を取って軍餉を豊かにし、次いで汴梁を取って犄角の勢を成し、最後に済南へ進んで進取を図るよう勧め、あわせて殺戮を事とせず、民を愛し賢者を礼遇し、漢の高祖・明の太祖を手本とするよう勧めた。秀全は喜んでその策に従い、留めて帷幄の謀議に参画させた。まもなく東王の楊秀清が甚だしくこれを忌んだので、江は維揚(揚州)へ走った。当時、朝命により侍郎の雷以誠(「雷以諴」の誤りか)が糧台を管掌し、邵伯埭に府を開いていた。江は往って会い、そのために策を立て、以誠は白紙の部照千余枚を疏で請い、これによって軍餉の献納を勧めた。十日とたたぬうちに、十余万の餉を得た。また江都の仙女傎(「仙女廟」の誤りか)の各会館が釐金を取り立てる方法に倣い、商行・生賈(「生賈」は底本のまま。「坐賈」の誤りか)の中で、その利益の厚簿(「簿」は「薄」の誤りか)を見て、百文ごとに一文を取り立て、定住する者には局を設けて月ごとに納めさせて板釐とし、行商する者には関所を設けて取り立てて活釐とし、月ごとにその数を集計して軍餉に充てた。日を経ずして、また数十万の餉を得た。軍餉が充足し、兵の気勢はついに揚がった。しかし江の性質は憨直で、常に面と向かって以誠の過失をなじった。以誠はこれを容れることができず、江がみだりに国家の讖言を述べ、その情状は叛逆に等しいとして、斬首を奏請した。聞いた者はこれを冤罪とした(「聞得冤之」は底本のまま。「聞者冤之」の誤りか)。
  • 六月、豊北の河工がまた決壊した。当時、北岸では野兎が千百と群れを成し、街市を遊び歩き、捕らえて割いてみると血が無く、冬になってようやく尽きた。
  • 秋七月、戸部が鈔法(紙幣法)の拡大を奏上し、銭をもって銀に準え、およそ地丁・雑税および一切の中央へ送る金額について、みな銭鈔二十をもって銀一両に充てることを請うた。これに従った。
  • 給事中の張祥晋が理財の策を条を分けて上奏した。その大略は、広西の軍事が起こって以来、わずか二年に過ぎないのに、費やしたところは三十余万両を下らない、急ぎ経費を工面して当座の必要を満たすべきである、というものであった。一つには内地の罌粟(アヘン)の花税を取り立て、茶・酒などの物に比べ照らして、一律に重く徴収すること。一つには内務府・宮中に旧来蓄えられている金器を金銭に改鋳し、紋銀と一律に通用させること。一つには京城で現に徴収している舗租の規定を各行省に押し広め、一律に施行すること。担当官庁に下して議させ、施行を認めなかった。
  • 八月、天鼓が鳴った。この日、乙酉の夜、月は明るく昼のようで、空中に臼を挽くような音(「磨聾」は底本のまま。「磨礱」の誤りか)があった。俗にこれを「城愁」と伝えた。まもなく劉民川(「劉麗川」の誤りか)が上海で兵を挙げ、青浦の周烈春(「周立春」の誤りか)らがこれに応じ、太平軍と連絡を取り合い、一年余りでようやく解散した。
  • はじめて当五十の大銭を鋳造した。
  • 冬十月、給事中の呉廷溥が疏を上って花戸などからの献納の停止を請うたが、聞き入れられなかった。疏の中では、花戸などの献納は軍需の足しにならず、いたずらに政体を損なうだけである、と大略述べていた。帝は、損なうところは少なく、いくらかの益はあるのだから、試みに行ってみてもよいはずだ、と言った。
  • 安徽で殉難した督辦団練の侍郎の呂賢基に祭葬と世襲の官職を与え、尚書を贈り、文節と諡した。かつて賢基が朝廷にあったとき、しばしば疏を上って時事を論じ、政府の意にかなり逆らった。このとき皖北の全境は荒れ果てており、安徽の首輔の祁寯藻(底本は「安徽首輔祁寯藻」に作る。「安徽」は衍字か)は、賢基を郷里に還して団練を治めさせるよう請うたが、与えるべき兵も餉も無かった。賢基(「賢其」は底本のまま。「賢基」の誤りか)はみずから、書生であって兵事を知らぬと述べ、天子に暇乞いする日には、痛哭して退出した。ここに至って城が陥ち、これに殉じた。また刑部員外郎の邵懿辰は経学と文章で世に名があり、当時は軍機章京であったが、寯藻はこれを忌んだ。折しも太平軍が北上し、寯藻は懿辰を遣わして出て黄河を防がせた。人は言った、懿辰よ、黄河は千里に綿々と連なり、たとえ強兵数万があってもなお守りやすくはない、まして徒手で一兵も持たぬ者ではどうにもなるまい。これは政府が君を死地に置こうとするものだ、さもなければ防備を怠った罪を君に着せようというのだ、と。やがて敵軍は河を渡り、畿輔を𨈆し(「𨈆」は底本のまま。「震」「擾」などの誤りか)、懿辰はこれに坐して罪を得た。
  • 蒙古人が漢字を学習することを禁じた。御史の毓栄が、蒙古人は漢人の習気に染まり、漢人の名前を用い、あわせて漢文を誦し習い、しだいに根本を失っている、と奏上したので、帝はこれを厳禁するよう命じたのである。
  • 十一月、閩浙総督の王懿徳が厦門を回復したと奏上した。
  • 十二月、王懿徳が仙遊県城を回復したと奏上した。
  • 大銭の私鋳に対する罪名を定めた。当時、当五・当十・当五十の大銭、および鉛銭・鉄銭が通用しており、私かに鋳造する者が多く、厳しい刑罰を用いても止めることができなかった。
  • 官票・宝鈔を通用させた。およそ官票の銀一両は制銭二十に充て、宝鈔二十は銀一両に充て、大銭・制銭と相補って通用した。

西暦1854年 文宗咸豊四年

  • 春二月、はじめて当百・当五百・当千の大銭を鋳造した。
  • 貴人の那拉氏を晋封して懿嬪とした。
  • 三月、はじめて鉄の制銭と、鉄の当十の大銭を鋳造した。
  • 冬十一月、江蘇の蘇州・松江・太倉の各州県で水が湧き、二、三尺も突き出た。
  • 天鼓が鳴った。
  • 江蘇で大地震があった。

西暦1855年 文宗咸豊五年

  • 春正月、江蘇で雷鳴と地震があった。
  • 夏六月、下北庁・蘭陽汛、銅瓦箱(「銅瓦廂」の誤りか)・三堡で河の堤が決壊した。
  • 秋九月、江蘇で雷鳴と地震があった。
  • 冬十月、江蘇で地震があった。
  • 十二月、雲南の回民である杜文秀が蒙化で起ち、大理府城を襲って占拠し、提督の褚允昌がこれに死んだ。

西暦1856年 文宗咸豊六年

  • 春二月、江蘇・上海などの県で三日にわたり血の大雨が降った。
  • 三月、長子の載淳が生まれたことにより、懿嬪の那拉氏を晋封して懿妃とした。
  • 冬十一月、大学士の文慶が卒し、文端と諡した。文慶は咸豊の初年に宰相の列に入った。かつて言った、「天下の大事を処理しようとするなら漢人を重用すべきである。彼らは皆、田野の間から出てきて、民の苦しみを知り、実情と虚偽に通じている。どうして我々のように国門を一歩も出ず、大計に暗い者と同じであろうか」。平生の建言では、常に密かに満漢の垣根を取り払い、資格や出身に拘らずに人を用いるよう請うた。曾国藩が郷兵をもって敵を破ると、首輔の祁窩藻(「祁寯藻」の誤りか)はかつて帝の前でこれをそしったが、文慶は折にふれて国藩を助け、「国藩は時の声望を担っており、賊を殺すことができる。ついには並外れた功を建てるであろう」と言った。後に果たしてその言のとおりになった。

西暦1857年 文宗咸豊七年

  • 春正月、懿妃の那拉氏を晋封して懿貴妃とした。
  • 夏六月、恒春が自殺し、呉振棫を雲貴総督に転任させた。当時、回の兵が省城に迫り、恒春は防ぎ止める策が尽き、その妻とともに役所で首を吊って死んだ。
  • 秋八月己酉の朔、日食があった。
  • 九月、参賛大臣の法福礼が英吉沙爾・喀什噶爾の二城を回復したと奏上した。これより先、回人が卡(辺境の哨所)の外から突入し、英吉沙爾・喀什噶爾の回城が陥落し、漢城が包囲されていたが、ここに至って回復した。
  • 冬十一月、雲南の在籍の侍郎である黄琮と御史の竇垿の職を革めた。雲南の各属で漢人と回人が仇殺し合っていたのに、琮らが回人を討ち殺せという告示を撒き貼ったからである。

西暦1858年 文宗咸豊八年

  • 夏五月、呉振棫が、回民が招撫に応じ、省城の厳戒を解いたと奏上した。
  • 秋九月、彗星が西北に出て、その光芒は三台および文昌宮の四輔を掃き、一月余りでようやく滅した。
  • 冬十一月、呉振棫が病により免ぜられ、張亮基を雲貴総督とした。これより先、振棫は回人に制せられていたため、病を理由に任を解くことを請うたのである。亮基が着任すると、彼もまた回人に軟禁され、出入りともに自由にならなかった。

西暦1859年 文宗咸豊九年

  • 春二月、すでに職を革められた大学士の柏葰らを殺した。これより先、八年の科挙の試験の後、御史の孟伝金が、合格した挙人の平齢の硃巻と墨巻が一致しないと奏上したので、正考官の柏葰、副考官の朱鳳標・程庭桂の任を解いて取り調べを受けさせるよう命じた。帝は、柏葰が早くから宰相の席に列し、勤勉慎重で咎がないことをもって、これを曲げて宥そうとした。当時、粛順が刑部を統べており、柏葰に対する年来の恨みを晴らそうとして、刑律に拠り、柏葰を、家人が頼んだために答案を差し替えさせた罪に問い、庭桂の子の炳采らとともにみな斬に処し、庭桂らは流謫、内簾・外簾の試験官および新たに合格した挙人で軍流・降格・免職となった者は数十人に至った。柏葰はかつて朝鮮に使いしたとき(「常使朝鮮」は底本のまま。「嘗使朝鮮」の誤りか)、その国王が五千金を贈ったのを辞退したが、請われることがいよいよ堅かったので、持ち帰って奏上して報告し、礼部に保管して、その使臣に返すよう請うた。清廉な節操はこのようであったのに、ここに至って合格者名簿を通じて賄賂を受けたとして判決が定まったので、これを冤罪としない者はいなかった。
  • 秋九月、王慶雲が病により免ぜられ、労崇光を両広総督とした。広州は前任の総督である葉名琛が拉致されて以来、イギリス人が総督の役所および民家の街区を占拠しており、総督と将軍は仏山鎮に避難して住み、城は空になって人がいなかった。崇光は命を受けると、行程を倍にして省城に到着した。従う者が緩やかにするよう請うと、崇光は叱って「お前などの知るところではない」と言った。属僚が馬を止めて諫めると、崇光は「私は天子の命を奉じて広東を総督しに来た。城に入らずしてどこへ行くというのか」と言い、そのまま単騎で疾駆して入城した。イギリス人は驚き愕き、隊を列ねて郊外に出迎え、まもなく退き去り、商人や民はようやく生業に復することができた。

西暦1860年 文宗咸豊十年

  • 春三月、天から三日にわたって血の雨が降った。
  • 閏月、黒い虹が天に現れた。
  • 秋七月、熒惑(火星)が南斗に入った。
  • 八月、帝が熱河へ奔った。当時、英仏連合軍が大沽の砲台を陥れ、天津を占拠し、通州から京師に迫っていた。帝はこの月の八日の夜に円明園を出て熱河へ奔った。
  • 冬十二月、総理各国通商事務衙門を設立した。当時、中国と西洋とが改めて和約を結んだことにより、総理衙門の堂官・司官の各職を新設し、軍機処の例に倣った。西洋の諸国はみな都城に使節の館を列ね、事柄も言語も入り混じり、交渉は日ごとに厄介になった。総理大臣は十余人まで増員されたものの、外交に通じた者がなく、当時は人材が得難いという嘆きがあった。
  • 長蘆の塩政の職を廃し、その政は直隷総督の管理に帰した(底本は「長蘆鹽、政歸…」と切る。「長蘆鹽政、歸…」の誤りか)。

西暦1861年 文宗咸豊十一年

  • 夏五月、彗星がふたたび西北に出た。長さは数十丈で、紫微垣および四輔を犯し、一月余りでようやく滅した。
  • 六月、戊午の朔、日食があった。
  • 秋七月、帝が熱河で崩じた。帝はもとより病が多く、日々鹿の血を飲んでこれを療していたが、ここに至って熱河で咯の病(「咯疾」は底本のまま。「咯血の疾」の意か)が大いに起こり、加えて暑気あたりの下痢を患った。急には鹿を求めても得られず、ついにこの月の十七日の寅の刻、避暑山荘の煙波致爽殿で崩じ、太子の載淳が跡を継いで立った。帝は春秋三十一。易州の龍泉峪に葬り、定陵と号し、諡を顕といい、廟号を文宗とした。
原文(底本)
文宗咸豐元年,春正月,帝侍太妃如梁格莊謁陵,越八日還宮。 江蘇地震。 夏五月,革甘陝總督琦善職。琦善以勦辦黑城撒拉回子及黃喀窪番子,妄殺雍沙番族頗衆,命革職交刑部審訊,旋命發往吉林充當苦差。 六月,江蘇上海縣北門外民家地出血,血自地中上冒,色紅而微紫,出地即凝結成塊。 南中各省多見雪。 秋閏八月,南河豐北厯隄決,南河𡻷費五六百萬金,然實用之工程,什不及一,餘悉以供官吏之揮霍。河帥宴客,一席所需,恆弊三四駝,五十餘豚,鵝掌猴腦無數。食一豆腐,亦費數百金也,他可知已。驕奢淫佚,一至於此,而於工程方略方略無講求之者,故河患時警。

二年,春正月,臺灣民洪紀作亂,鎮道葉紹春、徐宗幹督兵討之。 帝如梁格莊謁陵,越九日還宮。 夏五月,江蘇所屬州縣地生白毛。 秋七月,協辦大學士杜受田卒。初,宣宗於諸子中,鍾愛恭王奕訢,欲立之。以帝齒居長,無失德,意未決。一日,命諸子校獵南苑,是日,恭王所得鳥獸最多,帝獨無所獻,宣宗詢之,帝對曰:『時方春和,鳥獸字微,不忍傷生命以干天和,且不欲以弓馬一日之長與諸弟競爭耳。』宣宗大悅,曰:『是真有君人之度矣!』儲位遂定。時受田爲帝師傅,當日之語,受田實教之,故帝即位,即晉受田協揆之職。至是卒,帝慟哭失聲,親臨奠醊,贈太師,予諡文正。 冬十二月,丁未朔,日食,壬戌既望,月食,詔停冬至慶賀,從通政使羅惇衍請也。 十二月,京師地震。

三年,春二月,行用官票,命於京師先行。 三月,江蘇、浙江地大震,四日乃止。 定各省捐貲助餉。 準文武鄉試中額及文武試學額例。 夏四月,日旁見黑氣。自入春以來,風霾屢作,日色無光,是月初四日午刻,日旁忽現黑氣,四圍摩盪,形成圓暈,兼以烟翳深濠。 五月,江蘇上海北門外地復出血。 始製銀銼。 福建民林俊作亂,同安、廈門失守。 福建漳州、延平兩府民林恭等作亂,永安、沙縣失守,鎮守被戕,旋即收復。 鑄當五、當十大錢。 殺浙江已革監生錢江。江字東平,歸安人,鴉片之役,江時在廣州,集衆聚義,與英人爲難,所作檄文,多指斥,大府惡之,坐以法,遣戍新疆,後遇赦歸,遊京師,公卿皆折節與交,值太平軍破武昌,江聞之曰:『此吾雖處囊中,脫穎而出之時也!』遂乘海簿笨車出都,至太平軍,杖策謁天王,獻興王十四策,勸其首取江寧以裕軍餉,繼取汴梁以爲犄角,終趨濟南以圖進取,並勸以勿事殺戮,愛民禮賢,以漢高祖、明太祖爲法。秀全喜,從其策,留參帷幄,旋以東王楊秀清忌之甚,江乃走維揚。時朝命侍郎雷以誠辦理糧臺,開府邵伯埭,江往見,爲之畫策,疏請空白部照千餘紙以勸捐助軍餉。不旬日,得餉十餘萬。又仿江都之仙女傎各會館抽收釐金法,於商行生賈中,視其獲利之厚簿,每百文捐取一文,居者設局按月收捐爲板釐,行者設卡抽捐爲活釐,月會其數以濟軍餉。不期日,又得餉數十萬。軍餉獲濟,兵氣遂揚。而江性憨直,恆面折以誠過失,以誠不能容乃以江妄陳國讖,情同叛逆,奏請斬首。聞得冤之。 六月,豐北河工復決。時北岸野兔千百成羣,遊行街市,捕而剖之無血,至冬乃盡。 秋七月,戶部奏推廣鈔法,以錢準銀,凡地丁雜稅及一切解部之款,均請以錢鈔二十抵銀一兩。從之。 給事中張祥晉條上理財策,略謂粵西軍興以來,不過兩載,所費不下三十餘萬兩,請亟籌經費以濟時需。一抽收內地罌粟花稅,比照茶酒等物,一律從重徵收。一將內務府、宮內舊存金器改鑄金錢,與紋銀一律通行。一將京城現收鋪租章程推廣於各行省,一律辦理。下部議,不準行。 八月,天鼓鳴,是日乙酉夜,月明如晝,空中有磨聾聲,俗傳爲城愁。未幾,劉民川起兵於上海,青浦、周烈春等應之,與太平軍相聯絡,年餘乃解散。 始鑄當五十大錢。 冬十月,給事中吳廷溥疏請停止花戶等捐,不聽,疏中略謂花戶等捐輸無補軍需,徒傷政體。帝謂所傷少而稍有益,未始不可試行云。 予安徽殉難督辦團練侍郎呂賢基祭葬世職,贈尚書,諡文節。初,賢基在朝,嘗疏論時事,頗忤政府。是時晥北全境糜爛,安徽首輔祁寯藻請派賢基還籍治團練,無兵餉以畀之。賢其自陳書生不知兵,陛辭日,痛哭而出,至是城陷,殉之。又刑部員外郎邵懿辰以經學文章名於世,時爲軍機章京, 寯藻忌之,會太平軍北上,寯藻遣懿辰出防河,人謂懿辰黃河綿亙千里,縱有勁兵數萬且不易守,況徒手無一兵者乎?此政府欲置君死地,否則以疏防罪君也。已而,敵軍渡河,𨈆畿輔,懿辰坐是得罪。 禁蒙古人學習漢字。因御史毓榮奏,蒙古人沾染漢人習氣,取用漢人名字,並誦習漢文,漸失根本,帝命嚴禁之。 十一月,閩浙總督王懿德奏,克復廈門。 十二月,王懿德奏,克復仙遊縣城。 定私鑄大錢罪名。時行當五、當十、當五十大錢,及鉛錢、鐵錢,私鑄者衆,雖用嚴刑,勿能止也。 行官票寶鈔。凡官票銀一兩,抵制錢二十,寶鈔二十,抵銀一兩,與大錢、制錢相輔而行。

四年,春二月,始鑄當百、當五百、當千大錢。 晉封貴人那拉氏爲懿嬪。 三月,始鑄鐵制錢,鐵當十大錢。 冬十一月,江蘇蘇州、松江太倉各州縣水湧,突二三尺。 天鼓鳴。 江蘇地大震。

五年,春正月,江蘇天雷地震。 夏六月,下北廳、蘭陽汛,銅瓦箱、三堡河隄決。 秋九月,江蘇天雷地震。 冬十月,江蘇地震。 十二月,雲南回民杜文秀起蒙化,襲據大理府城,提督褚允昌死之。

六年,春二月,江蘇、上海等縣大雨血三日。 三月,以長子載淳生,晉封懿嬪那拉氏爲懿妃。 冬十一月,大學士文慶卒,予諡文端。文慶以咸豐初年入相,嘗言『欲辦天下大事當重用漢人。彼皆來自田間,知民疾苦,熟諳情僞,豈若吾儕未出國門一步,瞢然於大計者乎?』平時建白,常宻請破除滿漢藩籬,不拘資地以用人。曾國藩以鄉兵破敵,首輔祁窩藻嘗於帝前短之,文慶時時左右國藩,謂『國藩負時望,能殺賊,終當建非常之功。』後卒如其言。

七年,春正月,晉封懿妃那拉氏爲懿貴妃。 夏六月,恆春自殺,調吳振棫爲雲貴總督。時回兵逼近省城,恆春以堵截計窮,與其妻在署自縊死。 秋八月己酉朔,日食。 九月,參贊大臣法福禮奏收復英吉沙爾、喀什噶爾二城。先是回人由卡外突入,英喀回城失陷,漢城被圍,至是收復。 冬十一月,革雲南在籍侍郎黃琮御史竇垿職,以雲南各屬漢回仇殺,琮等散貼格殺回人吿示故也。

八年,夏五月,吳振棫奏,回民就撫,省城解嚴。 秋九月,彗星出西北,其芒掃三台及文昌宮四輔,月餘乃滅。 冬十一月,吳振棫病免,以張亮基爲雲貴總督。先是振棫受制回人,因以病請解任。亮基至,亦爲囘人軟禁,出入均不能自由。

九年,春二月,殺已革大學士柏葰等。先是八年科場後,御史孟傳金奏中試舉人平齡硃墨卷不符,命將正考官柏葰、副考官朱鳳標、程庭桂解任聽勘。帝以柏葰早正揆席,勤愼無咎,欲曲貸之。時肅順長刑部,修夙憾於柏葰,遂據刑律,坐柏葰以因家人求請撤換試卷,與庭桂之子炳采等均處斬,庭桂等遣戍,內外簾官及新中舉人軍流降革,至數十人。柏葰常使朝鮮,其國王餽五千金,卻之,請益堅,擕歸奏聞,請存禮部,還其使臣。清節如此,至是以通榜受賂定讞,無不冤之。 秋九月,王慶雲病免,以勞崇光爲兩廣總督。廣州自前督葉名琛被刦後,英人佔居節署及民廛,總督將軍避居佛山鎮,城空無人。崇光聞命,兼程抵省,從者請緩,崇光叱曰:『非爾所知也。』屬吏叩馬諫,崇光曰:『吾奉天子命來督粵,不入城將焉往?』遂單騎疾驅入,英人駭愕,列隊郊迎,尋退去,商民始得復業。

十年,春三月,天雨血三日。 閏月,黑虹見天。 秋七月,熒惑入南斗。 八月,帝奔熱河。時英法聨軍陷大沽礮臺,據天津,自通州近偪京師。帝於是月初八日夜出圓明園奔熱河。 冬十二月,設立總理各國通商事務衙門。時以中西重立和約,創設總理衙門堂司各官,如軍機處例,泰西諸國皆於都城列使幕,事言哤雜,交涉日形棘手。總理大臣雖增添至十餘人,無諳外交者,時有才難之歎。 裁撤長蘆鹽,政歸直隸總督管理。

十一年,夏五月,彗星復出西北,長數十丈,犯紫微垣及四輔,月餘乃滅。 六月,戊午朔,日食。 秋七月,帝崩於熱河。帝素多疾,日飲鹿血以療之,至是在熱河咯疾大作,復患暑瀉,倉卒求鹿不可得,遂於是月十七日寅刻崩於避暑山莊之烟波致爽殿,太子載淳繼立。帝春秋三十有一,葬易州龍泉峪,號定陵,謚曰顯,廟號文宗。

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