清史紀事本末英仏連合軍の入京と和約(英法聯軍入京之和約)
要約
阿片戦争後、耆英の約した入城を迫るイギリスを徐広縉は団練十余万で拒み、専約に入城厳禁を載せ、次の葉名琛も巴冷の請いを峻拒した。六年九月、英旗を偽掲するアロー号の旗を武官が抜き水夫十三人を繋ぐと、領事巴夏礼が拘束と毀旗を責めた。名琛は謝らず下級官吏に送らせ、備えもなかった。十月、英艦は黄埔砲台と省城を陥したが兵少なく退き、民は洋館を、英兵は数十家を焼いた。
七年、イギリスは額爾金に兵輪八隻を率いさせ、宣教師殺害の賠償を得ぬフランスと連合、露米は改約を求めるにとどまる。名琛は賠償要求に答えず、十五日過ぎれば無事だと大言し、軍機を扶乩で決めた。連合軍は四十八時間の退去を迫り、返答なきまま海珠砲台を占め十二月に広州を陥した。名琛は捕らえられカルカッタで病死し、黄宗漢が代わった。時人は戦わず和せず守らず死せず降らず走らずと評した。
八年、英仏の改約要求に露米も便乗し四国の艦隊が白河口に至り、英人は譚廷襄を全権に足りぬと会わず、四月に大沽砲台を陥した。露米の調停で桂良らを天津に遣わし、革職の耆英も赴いたが英使に会えず還って自尽を賜った。認めた英の五十六条は牛荘・登州・台湾などと長江三口の増開、洋人の京師長住、損失と軍費各二百万両の賠償、支払い後の広東の城の返還を要とし、仏の四十二条も軍費半額のほか同じ。
八年四月の大沽陥落後、僧格林沁は海防の無備を憤り譚廷襄を弾劾して守りを修めた。九年、各国には北塘から入れと告げたが、卜魯士は従わず五月に大沽へ乗り入れて上陸し、砲撃で数隻を沈められ兵数百を殺された。道を改めた米使には厚く応じた。
十年、敗退後のイギリスが要港を測量し香港で兵を募るので、商人らは銀二万両で軍費を償い再挙を阻もうと議した。英仏使が何桂清に八年の原約どおりなら兵を罷めると照会すると、帝は条款を破棄と見なし、上海で議定せよ北へ来れば痛撃すると諭した。朝旨は百余万両を費やした北塘の備えの撤去を命じ、陳鴻翊・郭嵩燾の諫めも聴かれず。六月、額爾金と噶羅が兵一万八千で北塘に入り、潮が引いて動けぬ艦が白旗を掲げ、僧格林沁が信じて撃たぬうちに潮が満ち、長駆して新河に七百人が上陸した。寡兵と見て出した精騎三十は、偽退した彼らの斉射で七人しか脱れず。帝は僧格林沁に退守を命じたが、大沽は陥ちて提督楽善が死に、七日後に天津も落ちた。
天津占拠後、文俊・恒祺は拒まれ、桂良の得た巴夏礼の照会は軍費増額・天津開港・入京しての条約交換を求めたが厳旨で拒み、英仏は河西務を擾した。八月、張家湾に迫られ、勝保は頬を撃たれて落馬し諸軍も京城外に退いた。先に通州の議で巴夏礼が直接謁見を求めて譲らず、襲城の報もあり載垣は獄に下していた。端華・粛順らは帝を擁して熱河に奔り、道中は豆乳と麦粥であった。英人は攻城を声言して巴夏礼を求め、海淀を攻められ禁兵が潰えると釈された。巴夏礼は出ると円明園を焼き、管園大臣文豊らは福海に投身した。九月、巴夏礼は奕訢の来会と安定門の開放を求め、周祖培らが開城したが、捕らえた十余人の八、九人が獄死しており、憤る英人は再び海淀を擾し火は三日三晩絶えなかった。仏使の調停で撫恤五十万両を与えて和し、礼部で六十五条を結んだ。八年の原約に英は九条、仏は十条を追加、天津を開いて両国の公使・領事の駐在を許し、英に一千二百万両、仏に六百万両を賠償した。廷臣の還京の請いは許されず、帝は翌年七月行在で崩じた。
年表
アロー号事件から北京条約締結までの英仏連合軍との戦和を記す。咸豊六年、広州でアロー号の水夫拘留をめぐり領事巴夏礼と両広総督葉名琛が衝突し、英仏連合軍が広州を陥れて名琛を捕らえ、インドへ連れ去った。八年には四国艦隊が大沽を陥れ、桂良・花沙納が天津条約に調印し、耆英は自尽を賜った。九年には僧格林沁が大沽で英艦を撃退したが、十年、英仏軍は北塘から侵入して大沽・天津を陥れ、張家湾で清軍を破った。帝は熱河へ奔り、円明園は焼かれ、留守の恭王奕訢が六十五条の条約を結び、英に千二百万両、仏に六百万両を賠償した。
年表(5件)
- 西暦1856年 文宗咸豊六年アロー号事件を機にイギリス軍艦が広州を攻め陥れて引き返す
- 西暦1857年 文宗咸豊七年英仏連合軍が広州を陥れ、葉名琛を捕らえてインドへ連れ去る
- 西暦1858年 文宗咸豊八年英仏が大沽を陥れ、桂良・花沙納が天津で条約に調印する
- 西暦1859年 文宗咸豊九年僧格林沁が大沽砲台でイギリス艦隊を撃退し多数を殺傷する
- 西暦1860年 文宗咸豊十年英仏軍が天津・張家湾を破り、帝は熱河へ奔り奕訢が和約を結ぶ
現代語訳全文
西暦1856年 文宗咸豊六年
- 冬十月、イギリス軍艦が広州に乗り入れ、城を攻めてこれを陥れ、まもなく引き返した。
- はじめ、アヘン戦争の局面が終わると、中国政府はイギリス人に五口通商を許した。イギリス人は道光二十六年に広東へ来て、条約を結ぶことを請い、総督の耆英は二年後に約を履行することを彼らと取り決めたが、期限が来たときには徐広縉が両広を総督し、葉名琛が巡撫であった。二十九年、イギリス艦が広東の河に入り、前の約を申し立てたが、広縉らは拒んで入城を許さなかった。当時、広州の紳士・民衆が私かに団練を起こし、その勢いは甚だ盛んであった。広縉はそこで密かに諸郷の団練十余万を召集し、両岸に列ねさせ、その呼び声は天を震わせた。イギリス人は恐れ、広東通商の専約を改めて定めることを請うた。広東の人々は入城を厳禁する文言を条件の中に載せるよう請い、イギリス人は民の暴発を激発して商務を妨げることを恐れ、ついに調印した。広縉らが疏を上って報告すると、朝廷の旨は大いに悦び、広縉を子爵に、名琛を男爵に封じた。
- 咸豊二年、広縉は湖広総督に移り、名琛が昇進して総督となった。イギリスの香港総督である巴冷がふたたび前の請いを申し立てたが、名琛は峻厳に拒んだ。六年、イギリス政府は巴夏礼を広東領事に任じた。この年の九月、アロー号という船が外海から省城の河に入った。積んでいるのはみな華人であったが、偽ってイギリス旗を掲げていた。河を巡邏する武官がこれを匪賊と見なし、艇に登って犯人を捜索し、その旗を抜いて甲板に投げ、水夫十三人を捕らえ、械をはめて省の獄に繋いだ。巴夏礼は大いに慌て、名琛(底本は「名探」に作る。以下同じく「名琛」の誤りか)に照会し、条約には、不法の華人が香港へ逃げたり、イギリス船に潜み隠れたりした場合、清国の官は引き渡しを求めることはできるが、勝手に拘束してはならないと載っている、旗を毀ったのはとりわけ非礼である、しかも華民はイギリス船で雇われているのであって実際には罪が無い、捕らえた十三人を返せ、と責めた。名琛は一人の下級官吏を遣わし、十三人を領事館へ送った。巴夏礼は遣わされたのが下級官吏であり、しかも一言の謝罪もしないのを見て、故意に自分を辱めるつもりだと疑い、受け取らなかった。名琛はなお十三人を獄に置いたまま、まったく備えをしなかった。ここにおいてイギリス艦は黄浦砲台(「黃浦」は「黃埔」の誤りか)を攻め落とした。名琛が争いの起こった理由を問いただすと、巴夏礼は入城して面談することを請うたが、許されなかった。ここに至ってついに省城を攻め、これを陥れた。兵が少ないため、広州を得ても占領を実行することができず、まもなくまた退いて軍鑑(「鑑」は「艦」の誤りか)に帰った。広東の民はイギリス軍が退くのを見て、争って暴動を起こし、洋館に火を放ち、およそアメリカ・フランス・イギリスの各商館および十三軒の洋行を、一切焼き払った。イギリス兵もまた濠沿いの住民数十家を焼いて報復を示した。
西暦1857年 文宗咸豊七年
- 冬十二月、イギリス・フランスの同盟軍が広州を陥れた。
- これより先、巴夏礼はフランス・アメリカ二国の商館が焼かれたことを知り、喜んで「二国は必ず我が方に味方するだろう」と言った。馳せて報じ、□(底本欠字)請い□(底本欠字)、イギリスは額爾金伯爵を派遣し、兵輪八隻を率いて広東に至り、澳門・香港に分かれて停泊し、使者を遣わしてロシア・フランス・アメリカの各国に同盟することの利を告げた。ロシアとアメリカは承知せず、ただそれぞれ使節を派遣して商約の改訂を求めた。フランスは六年に広西で自国の宣教師が殺害された事件があり、賠償を求めて得られずにいたので、ついにイギリスと連合軍を組み、ともに名琛に書を送り、期日を約して賠償金の会議をしようとした。アメリカ領事もまた家屋を毀たれ財を失ったとして、公文を送って賠償を責めた。いずれも答えずに放置した。将軍・巡撫・司道は事が急なのを見て、名琛のもとへ行って戦うか守るかを相談したが、名琛は怡然として何事も無いかのようであった。一同が強く請うと、大言して、十五日を過ぎれば必ず無事になる、と言った。思うに名琛の父の志詵は扶乩(お筆先の占い)を好み、名琛は父のために長春仙館を建て、呂洞賓・李太白の二仙を祀り、一切の軍機の進退はみなここで決めていたのである。「十五日を過ぎれば必ず無事」というのも乩の告げた言葉であった。
- ここにおいて同盟軍はふたたび名琛に最後の書を送り、四十八時間以内に退去するよう迫った。期限になっても返答を得られなかったので、十一月に海珠砲台を襲って占拠し、進んで広州を陥れた。名琛は左都統の役所に隠れた。同盟軍は将軍・巡撫・都統らを奪い取って捕らえ、大いに名琛を捜索して、これを見つけ出し、挟んで船に登らせた。事が朝廷に聞こえると、名琛の職を剥奪し、侍郎の黄宗漢をこれに代えた。名琛はインドのカルカッタまで捕虜として連れ去られ、一年余りの後に病死した。当時の人はその身を辱め国を辱めたことを憎み、彼を評してこう言った、「戦わず、和せず、守らず、死せず、降らず、走らず」。
西暦1858年 文宗咸豊八年
- 夏四月、イギリス・フランスの連合軍が大沽を陥れ、大学士の桂良らに天津へ赴いて和款を議するよう命じた。約が成り、英仏の兵艦は天津から退出した。
- 広州がすでに陥ちると、英仏は勝ちに乗じて中国政府に条約の改訂を迫ろうとし、ロシア・アメリカもまた隙に乗じて通商の約章を増改しようと考えた。ここにおいて四国は艦隊を連ねて北上し、天津に向かって進み、白河の河口に集まり、直隷総督の譚廷襄に書を投じ、首相に取り次ぐよう請うた。朝廷は侍郎の崇綸、内閣学士の烏爾棍泰に、廷襄と会って款を議するよう命じた。イギリス人は、宰相の臣でなければ全権の任に当たるに足りないと言い、辞して会わず、ついに大沽砲台を攻め落とした。ロシア・アメリカの二国が間に立って調停したので、大学士の桂良、戸部尚書の花沙納を天津へ派遣して会議させ、また、すでに職を革められていた大学士の耆英に侍郎の銜を賜り、天津へ赴くよう命じた。耆英は往ってイギリス使節に拝謁しようとしたが会ってもらえず、恐れて天津に還った。帝は震怒し、自尽を賜った。桂良らが天津に至ると、イギリス人は新たに定めた条例五十六条を出し、調印を要求し、これを承認して行うこととなった。その中で最も重要なものは次のとおりである。一つには、牛荘・登州・台湾・潮州・瓊州などの処を増開し、また長江一帯において三口を選ぶことを許すこと。一つには、洋人が家族を連れて京師に長く居住することを得ること。一つには、商人の損失と軍費としてそれぞれ二百万両を賠償することを議し、支払いが済んだ後に広東の城を引き渡すこと。フランス人が定めた四十二条はイギリスとほぼ同じであり、軍費の賠償はイギリス人の半分に減らした。約が定まると、四国の兵艦は同時に錨を上げて天津を出た。
西暦1859年 文宗咸豊九年
- 夏五月、イギリス艦が大沽砲台を攻めたが、科爾沁王の僧格林沁がこれを撃退した。
- これより先、八年四月、連合軍が大沽砲台を陥れたとき、帝は僧格林沁に兵を督して天津へ馳せ赴くよう命じた。僧格林沁は、和議の失敗が実は海防の要地に事前の備えが無かったことによるのを目のあたりにし、憤然として疏を上り、総督の譚廷襄(底本は「譚廷裏」に作る。「譚廷襄」の誤りか)を弾劾して罪を議させ、さらに大いに守備を修めた。ここに至って各国の艦隊が天津へ条約の交換に赴いたところ、高官は人を遣わし、大沽口は現在防備を設けていて通行に不便であるから、北塘口から進むよう改めるべきだと告げた。当時、イギリス艦が先に到着していたが、兵を率いる者は額爾金の弟の卜魯士で、抗って従わなかった。総督の恒福が再び官員を遣わし、道を改めるよう促した。イギリス艦はにわかに大沽へ乗り入れ、砲で港を遮る鉄の鎖を裂き、小型汽船十三隻が紅い旗を掲げて挑戦し、砲台に逼り近づいて砲を開き轟撃した。歩兵の部隊は蟻のように取りついて上陸した。僧格林沁はそこで砲を開いて反撃し、その数隻を沈め、上陸した兵数百を殺し、隊を率いる士官は股を傷つけられて死に、残る一隻は攔江沙の外へ駛り出た。アメリカ艦は後から到着し、使臣の華若翰は約に従って道を改めて通行し、朝廷は特に手厚くこれに応えた。
西暦1860年 文宗咸豊十年
- 秋七月、イギリス・フランスの兵が天津を陥れた。
- イギリス兵は九年五月に敗れて以来、退く道すがら旅順・威海などの各要港を測量して去り、香港に至って閩・粤の亡命者をますます募り、操練を絶やさなかった。華人・洋人の商人は、彼らが必ず報復を図ると知り、戦端が開かれて交易が妨げられることを恐れ、銀二万両を出してイギリスの軍費を償い、その再挙を阻もうと議した。英仏の使臣はそこで通商大臣の何桂清に照会し、もし事ごとに八年の原約に従うのであれば、ただちに兵を罷めようと言った。桂清がこれを奏聞すると、帝は諭して言った、「卜魯士がまず約に背き、みだりに兵船を率いて我が海口の防備の具を毀った。これまで兵を損じ将を折ったのは、実は自ら招いたことである。八年に議した和議の条款はすべて破棄と見なす。もし彼らが自ら悔悟するのであれば、以前議した条約の中から、道光年間にすでに前例があって大体に差し障りのないものを選び、融通を利かせて処理してもよい。ただし依然として上海で議定するのであって、勝手に北へ来てはならない。さらに兵船が攔江沙に乗り入れるならば、必ず痛烈に攻撃するであろう。後悔を残すな」と。
- 思うに、僧格林沁のさきの大沽の勝利以来、朝野は色めき立って互いに告げ合い、これからは外国人も我が方の枠に従い、旧約を修正できるだろうと言っていた。しかし英仏がすでに密かに船百隻を集め、大挙して侵入を図ろうとしているのを知らなかった。僧格林沁が防務を経営し、北塘の一口だけでも、すでに国帑百余万両を用いていたのに、朝廷の旨は北塘の備えを撤し、退いて大沽を保つよう命じた。北塘の紳士で御史の陳鴻翊が密かに疏を上って良策でないと言ったが、聞き入れられなかった。編修で湖南の人である郭嵩燾は当時幕府にあり、これも力めて争ったが、僧格林沁は前の勝利に慣れて、やはり聞き入れなかった。嵩燾はそこで辞去した。
- 六月に至り、イギリスの将の額爾金、フランスの将の噶羅が艦隊を率いて到り、兵を合わせて一万八千。北塘の防備が緩んでいるのを窺い、ついに内港へ乗り入れた。僧格林沁は軍を指揮して馳せ往き、これを扼したが、折しも潮が引き、英仏の兵艦は動けなくなった。襲われることを恐れて、偽って白旗を掲げ、和を欲する意を示した。僧格林沁はこれを信じ、兵を按じて敢えて撃たなかった。ほどなく潮が満ちると、艦は突き出し、長駆して新河に至り、七百人をもって上陸した。僧格林沁はその寡兵なのを見て、精鋭の騎兵を出して馳せ向かわせた。七百人は偽って退き、騎兵が勢いに乗じてこれを追い撃つと、七百人は忽ち一字の陣に列を成し、各人が火銃を持って近づくのを待ち、にわかに発射すると、当たらないものは無く、次々と馬上から転げ落ち、三十の精騎のうち脱れ得た者はわずか七人であった。
- ここにおいて英仏の兵艦は進んで大沽を攻めた。当時、帝は僧格林沁を頼みとしており、その失敗を恐れて、特旨で退いて守るよう命じた。また大学士の瑞麟に京旗九千を統べて通州を防がせた。この月の五日、大沽はついに陥ち、提督の楽善がこれに死に、僧格林沁は退いて通州の張家湾に陣した。七日を経て、英仏の兵は進んで天津を占拠した。
- 八月、イギリス・フランスの兵が張家湾に迫り、帝は熱河へ出奔した。イギリス兵は海淀を攻めてこれを陥れ、火を放って円明園を焼いた。
- 英仏の兵がすでに天津を占拠すると、帝は侍郎の文俊、前の粤海関監督の恒祺に天津へ赴いて条約を議するよう命じたが、英仏に拒まれた。改めて桂良を往かせたところ、イギリス参賛の巴夏礼の照会を得た。軍費の増額と天津の商埠としての開放、ならびに各国が数十人を適宜連れて入京し条約を交換することを要求するものであった。桂良がこれに拠って報告すると、厳しい旨で拒絶したので、英仏はついに河西務を大いに擾した。
- この月の朔、進んで張家湾に迫った。勝保は紅頂・黄褂の姿で戦いを督したが、群がる銃弾を浴びせられ、頬を傷つけられて落馬した。軍は敗走し、僧格林沁・瑞麟の二軍もまた退いて京城の外に至った。鄭王端華、尚書の粛順、軍機大臣の穆蔭・匡源・杜翰らが帝を擁して熱河へ奔り、恭王奕訢が留守し、なお僧・端(「端」は「瑞」=瑞麟の誤りか)の二軍を督して海淀を守らせた。帝が倉卒に后妃を率いて京を出たときは、道中にははじめ供応の設けが無く、道は密雲を通り、豆の乳と麦の粥を食べるばかりであった。
- これより先、英仏の軍が通州に至ったとき、怡王載垣に往って和款を議するよう命じ、桂良・穆蔭もみなその場にいた。巴夏礼は十余人を連れて入城し、載垣らはこれを饗応した。巴夏礼は「今日の条約は皇帝に直接お目にかかる必要がある」と言った。載垣が旨を待つと答えると、巴夏礼は寝台につき偽って眠り、もはや口をきかなかったので、載垣はしばらく退いた。折しも、額爾金が城を襲おうとしていると馳せ告げる者があり、載垣は密かに僧格林沁に、方法を講じて巴夏礼を捕らえて京へ送らせ、刑部の獄に拘禁した。
- 帝が出奔すると、奕訢・桂良は城外に駐まり、ただ大学士の周祖培、尚書の陳孚恩らが集まって城の守りを議した。城門は昼も閉ざされ、イギリス人は城を攻めると声言し、かつ甚だ急に巴夏礼を求めた。勝保は承知せず、ある者は殺すことを請うたが、皆は決断できなかった。折しも南方の軍の曾国藩らを急ぎ召して来援させる詔があり、奕訢を全権大臣に任じた。そこへイギリス人の照会が至り、三日以内に巴夏礼を返すよう期限を切った。彼らに天津まで退いて改めて議するよう命じたが許されず、また通州まで退くよう命じたが、これも許さず、かえって兵を指揮して海淀を攻めた。禁兵は戦わずして自ら潰え、そこで巴夏礼を釈放した。巴夏礼は出ると、憤りを晴らそうとして、火を放って円明園を焼いた。園を管理する大臣の都統文豊および主事の恵豊は福海に身を投げて死んだ。
- 九月、イギリス・フランスとの和議が成った。巴夏礼は奕訢が軍中へ来て条約を結ぶことを要求し、三日以内に安定門を開くよう期限を切った。周祖培らが城を開いて迎え入れ、巴夏礼は百余人を連れて入城し、フランス使節もまた入った。やがて、さきに巴夏礼とともに捕らえられていた十余人を釈放したところ、すでに獄中で死んでいた者が八、九人であった。イギリス人は甚だ憤り、ふたたび海淀を擾し、火は三日三晩絶えなかった。さらに禁城を攻めると声言したので、奕訢はふたたび和議を請うた。フランス使節が間に立って調停し、まず撫恤の款五十万両を求めたので、これを与えた。ここにおいて巴夏礼と額爾金はそれぞれ兵仗を列ねて礼部に至り、六十五条の条約を結び、八年に原定した分の外に、九条を追加した。フランスもまた十条を追加し、さらに天津を商埠として開き、両国が公使・領事を派遣して中国に駐在させることを許した。イギリスには銀一千二百万両、フランスには銀六百万両を賠償した。条約を交換した後、廷臣は言葉を合わせて帝に京へ還ることを請うたが、許されなかった。翌年七月、行在で崩じた。
原文(底本)
文宗咸豐六年,冬十月,英吉利軍艦駛入廣州,攻城,陷之,旋引還。初,鴉片之局既終,中國政府許英人以五口通商。英人於道光二十六年來粵,請立約,總督耆英與其二年後踐約,屆期而徐廣縉督兩粵,葉名琛爲巡撫。二十九年,英艦入粵河,申前約,廣縉等拒不許入。時廣州紳民私起團練,勢張甚,廣縉因密召諸鄉團練十餘萬,列兩岸,呼聲震天。英人懼,請更定廣東通商專約。粵人請以嚴禁入城之語載入條件中,英人恐激民變,妨商務,遂簽約。廣縉等疏入告,朝旨大悅,封廣縉子爵,名琛男爵。咸豐二年,廣縉移督湖廣,名琛坐遷總督,英香港總督巴冷復申前請,名琛峻拒之。六年,英政府以巴夏禮任廣東領事,是年九月,有亞羅船自外海入省河,所載皆華人而詭張英旗。巡河武弁指爲匪,登艇索犯,拔其旗,投甲板上,執水手十三人,械繫省獄。巴夏禮大急,照會名探,謂約載不法華人,逃至香港,或英船潛匿者,華官得移取,不得擅拘,毀旗尤非禮。且華民在英舟爲傭,實無罪,責歸所獲十三人。名探遣一微員,送十三人於領事館。巴夏禮見所遣爲微員,又不致詞道歉,疑有意折辱之,遂不受。名探仍置十三人於獄,而絕不爲備。於是,英艦攻陷黃浦礮臺。名探詰釁由,巴夏禮請入城面議,不許,至是遂攻省城,陷之。以兵少,雖得廣州,不能實行佔領,不久復退,歸軍鑑。粵民見英軍退,爭起爲暴動,縱火洋樓,凡美、法、英各商館及十三家洋行,一切燒燬,英兵亦焚緣濠居民數十家以示報復。 七年,冬十二月,英法同盟軍陷廣州。先是,巴夏禮知法、美二國商館被焚,喜曰:『二國必與我矣!』馳報▢請▢英國簡伯爵額爾金,率兵輪八艘抵粵,分泊澳門、香港,遣使告俄、法、美各國合從之利,俄美不許,惟各簡使求改訂商約,法則以六年廣西有戕殺彼國牧師事,求償未得,遂與英聯軍,同貽名探書,約期會議償款,美領事亦以毀屋失財,移文責償。皆置不答。將軍、巡撫、司道見事急,就商戰守,亦怡然若無事,衆固請,則大言過十五日必無事矣。蓋名琛父志詵,好扶乩,名琛爲建長春仙館,祠呂洞賓、李太白二仙,一切軍機進止,咸取決焉,『過十五日必無事者』乩語也。於是同盟軍復貽名琛最後書(哀的美敦書),迫令於四十八小時引去,至期不得復,遂以十一月襲據海珠礮臺,進陷廣州。名琛匿左都統署,同盟軍刧得將軍巡撫都統等,大索名琛,得之,挾以登舟。事聞,褫名琛職,以侍郎黃宗漢代之。而名琛被虜至印度加爾各答,越年餘病死。時人惡其辱身辱國也,爲之語曰:『不戰、不和、不守、不死、不降、不走。』 八年,夏四月,英法聯軍陷大沽,命大學士桂良等赴天津議欵。約成,英法兵艦退出天津。廣州旣陷,英法欲乘勝迫中國政府改訂條約,俄美亦思乘間增改通商約章,於是四國連䑸北上,駛向天津,集白河口,投書直督譚廷襄,請轉達首相。朝命侍郎崇綸、內閣學士烏爾棍泰往會廷襄議款。英人謂其非相臣不足以當全權之任,辭不見,遂攻陷大沽礮臺。俄美二國居間排解,乃派大學士桂良、户部尙書花沙納赴天津會議,又賞已革大學士耆英侍郎銜,飭令赴津。耆英往拜英使,不見,懼而還津。帝震怒,賜自盡。桂良等至津,英人出所訂新例五十六條,要以畫押,允行。其中最重要者:一增開牛莊、登州、臺灣、潮州、瓊州等處,又於長江一帶許選擇三口。一洋人得帶眷屬在京師長行居住。一議償商虧軍費各二百萬兩,清款後交出粵城。法人所定四十二條與英略同,軍費賠款則減英人之半。約旣定,四國兵艦同時起椗出天津。 九年,夏五月,英艦攻大沽礮臺,科爾沁王僧格林沁擊走之。先是八年四月,聯軍之陷大沽炮臺也,帝命僧格林沁督兵馳赴天津,僧格林沁目擊和議之失敗實由海疆重地先時無備之故,憤然上疏,劾督臣譚廷裏議罪,復大修守備,至是各國艦隊赴天津換約,大吏遣人吿以大沽口現在設防不便行走,當改由北塘口進。時英艦先至,領兵者爲額爾金之弟卜魯士,抗不遵行,總督恆福再遣員往,趣令改道。英艦遽駛入大沽,礮裂截港之鐵練,有小輪船十三艘,䜿紅旗挑戰,逼近礮臺,開礮轟擊。步隊蟻附登岸,僧格林沁遂開炮還擊,沈其數艦,殺登岸兵數百,領隊官傷股而殞,餘一艘駛出攔江沙外。美艦後至,使臣華若翰遵約改道行走,朝廷特優答之。 十年,秋七月,英法兵陷天津。英兵自九年五月敗,退沿途測量旅順、威海等各要口而去,至香港益募閩粵亡命,操練不輟。華洋商人知其必謀報復也,恐興師妨互市,議輸銀二萬兩以償英餉,阻其再舉。英法使臣乃照會通商大臣何桂清,言若事事遵八年原約,當卽罷兵。桂清以聞,帝諭之曰:『卜魯士首先背約,輒帶兵船毀我海口防具。前此損兵折將,實由自取。所有八年議和條款槪作罷論。如彼自知悔悟,可於前議條約中擇道光年曾有之事無礙大體者通融辦理,仍在上海定議,不得率行北來。再有兵船駛入攔江沙者,必痛加攻勦,毋貽後悔!』葢自僧格林沁前此大沽之捷,朝野動色相吿,謂自此外人或就我範圍,可修正舊約也。而不知英法已潛集船百艘,將謀大舉入犯。僧格林沁經營防務,卽北塘一口,已用帑百餘萬兩,而朝旨命撤北塘之備,退保大沽。北塘紳士御史陳鴻翊密疏言非計,不聽。編修湘人郭嵩燾時在幕府,亦力爭之,僧格林沁狃於前勝,亦不聽。嵩燾遂辭去。至六月,英將額爾金、法將噶羅率艦隊至,合兵萬有八千,窺北塘弛防,遂駛進內港。僧格林沁麾軍馳往扼之,值潮退,英法兵艦不能動,恐爲所襲,詭懸白旗,示欲和,僧格林沁信之,按兵不敢擊。無何潮長,艦突出,長驅抵新河,以七百人登陸。僧格林沁矙其寡,出勁騎馳之,七百人僞退,乘勢蹴之,七百人忽排列爲一字陣,人持火槍俟逼近,驟發,無不中者,遂紛紛由馬上顚隕,三十精騎得脱者七人而已。於是英法兵艦進攻大沽,時帝倚重僧格林沁,恐其有失,特旨令退守。又命大學士瑞麟統京旗九千防通州。是月五日,大沽遂陷,提督樂善死之,僧格林沁退次通州張家灣。越七日,英法兵進據天津。 八月,英法兵薄張家灣,帝出奔熱河,英兵攻海淀,克之,縱火燔圓明園。英法兵旣據天津,帝命侍郎文俊、前粵海關監督恆祺赴津議約,爲英法所拒。改令桂良往,得英參贊巴夏禮照會,要以增軍費及開天津爲商埠,並各國酌帶數十人入京換約。桂良據以入吿,嚴旨拒絕,英法遂大擾河西務。是月朔,進薄張家灣,勝保紅頂黃褂督戰,叢槍注射,傷頰墮馬。師奔,僧瑞二軍亦退至京城外。鄭王端華、尙書肅順、軍機大臣穆蔭匡源、杜翰等擁帝奔熱河,恭王奕訢留守,仍督僧端二軍守海淀。帝之倉猝率后嬪出京也,道路初無供帳,途出密雲,食豆乳麥粥而已。先是英法軍至通州,命怡王載垣往議款,桂良、穆蔭皆在,巴夏禮帶十餘人入城,載垣等宴之,巴夏禮言:『今日之約須面見皇帝。』載垣答以候旨,巴夏禮就榻佯睡,不復語,載垣遂暫退。會有馳吿額爾金將襲城者,載垣密使僧格林沁設法擒巴夏禮解京,拘於刑部獄。及帝出走,奕訢、桂良駐城外,惟大學士周祖培、尙書陳孚恩等會議城守。城門晝閉,英人聲言攻城,且索巴夏禮甚急。勝保不可,或請殺之,衆不敢決。適有詔飛召南軍曾國藩等入援,派奕訢爲全權大臣,而英人照會至,限三日內交還巴夏禮。令其退至天津再議,不許,又令退至通州,亦不許,反麾兵攻海淀。禁兵不戰自潰,爰釋巴夏禮。巴夏禮出,欲洩忿,縱火燔圓明園,管園大臣都統文豐及主事惠豐投福海死。 九月,英法和議成,巴夏禮要奕訢至軍訂約,限以三日開安定門。周祖培等開城延入,巴夏禮帶百餘人入城,法使亦入,俄因釋放前此與巴夏禮同執之十餘人已監斃八九,英人憤甚,再擾海淀,火三日夜不絕。復聲言攻禁城,奕訢乃再以和議請。法使居間排解,先索卹欵五十萬兩,予之,於是巴夏禮與額爾金各陳兵仗至禮部訂約六十五條,於八年原定外,續增九條。法亦續增十條,更闢天津爲商埠,許兩國派遣公使領事駐中國。償英國銀一千二百萬兩,法國銀六百萬兩。換約後,廷臣合辭,請帝回京,不許。明年七月,崩於行在。
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