清史紀事本末ロシアとのアイグン・天津・北京の諸条約(俄訂愛琿、天津、北京諸条約)
要約
咸豊八年夏四月、黒龍江将軍の宗室奕山がロシア使節木哩斐岳福と璦琿城で条約を結び、黒龍江北岸を割いて与えた。雍正五年以来ロシアの陸路通商は恰克図一箇所に限られ、道光末以来の上海通商の請いは退けられ、伊犁・塔爾巴哈台のみ許されていた。
ロシアはシベリアに東航の海口が無いのを不便とし、黒龍江上流以東を未定の地だとして協議を請うたが、実は道光末年すでに北岸に屯兵していた。四年、艦隊が制止を聞かず愛琿を過ぎ、五年の境界の議は奕山が『尼布楚条約』で論駁し、六年、普提雅庭が兵艦で天津に来て強迫した。
条約三条は、松花江口までの左岸をロシア、右岸を烏蘇里河まで中国とし、以東は共同管理、三江は中露の船のみ航行させ、旧住の満洲人は旧屯に置く。康熙の旧界も雍正の約も変わり、旗屯は虚名のみ残り、庚子の役で旗人は江へ追われた。
五月、大学士桂良、尚書花沙納らが普提雅庭と『天津専約』十二条を結び、上海・寧波・福州・厦門・広州・台湾・瓊州七口の通商と領事官設置・兵船停泊を認めた。ロシアの通商は海陸ともに欧米各国の上に出た。
十年冬十二月、恭王奕訢が伊格那替業幅と『北京条約』十五条を結んだ。英仏軍が北京を陥れた際の調停の報酬である。烏蘇里・松阿察二河以東をロシアとし、興凱湖から図們江口に至る線、西は沙浜達巴哈の界碑から斉桑淖爾湖・天山を経て浩罕の辺界までとした。失地は東西二十余経度、南北十余経度。論者は言う、輿地の学に通ぜず境界を知らなかったため、満洲の旧領数千里を失ったのだ、と。
年表
ロシアとの璦琿・天津・北京の三条約によって満洲北部と沿海の地が失われる経緯を記す。雍正以来、ロシアの陸路通商は恰克図一箇所に限られていたが、道光末年からロシアは黒龍江北岸に兵を屯して占拠し、木哩斐岳福が国境画定を迫った。咸豊八年四月、黒龍江将軍の宗室奕山が璦琿城で三条の条約を結び、黒龍江以北を割譲し、五月には桂良・花沙納が普提雅庭と天津専約十二条を結んで海路七口の通商を認めた。咸豊十年十二月、恭王奕訢は英仏との調停の報酬を求める伊格那替業幅と北京条約十五条を結び、烏蘇里・松阿察の二河以東を割いた。結果、黒龍江以北・吉林以東を失った。
年表(2件)
- 西暦1858年 文宗咸豊八年奕山が璦琿城で条約を結び黒龍江北岸を割譲し、天津専約も定まる
- 西暦1860年 文宗咸豊十年奕訢が北京条約を結び烏蘇里・松阿察二河以東をロシアに与える
現代語訳全文
西暦1858年 文宗咸豊八年
- 夏四月、黒龍江将軍の宗室奕山がロシア使節の木哩斐岳福と璦琿城で条約を結び、黒龍江北岸を割いてロシアに与えた。
- 雍正五年にロシアと条約を結んで以来、ロシア人の陸路の通商は恰克図の一箇所だけで、歴朝これを守り行ってきた。乾隆二十七年、庫倫辦事大臣を設け、辺境の事務を総理させた。これより両国の商民の互市は絶えなかった。道光二十八年に至り、ロシアの商船が上海に到着し、その地で貿易することを図ったが、両江総督の李星沅が先例を引いてこれを退けた。イギリス領事の阿利国もまた定めの規則に従うよう勧め、ようやく帆を返した。三十年、その薩納特衙門から咨文が来て、喀什噶爾・伊犁・塔爾巴哈台などの処で通商することを請うた。朝廷の旨は伊犁・塔爾巴哈台の二箇所での貿易を許し、喀什噶爾については理藩院から咨文で返答し、種々の支障があり、まったく利益の無い事情を告げたので、そのまま約を成して退いた。
- 咸豊三年、その海軍少将の普提雅庭が文書を寄せ、海島で貨物を購って引き返す途中、上海に入って休息したい、あわせて入港して貿易することを請う、と称した。帝は許さなかった。
- 後、ロシア人はその属領のシベリアが、東に向かって航海できる海口を持たず、甚だ不便であったので、木哩斐岳福が建議し、ロシア皇帝の尼古来斯の名で中国へ文書を送り、黒龍江・格爾必斉河の上流から海に達するまでの間は、界標が設けられておらず、すなわち未定の地に属するのだから、ただちに官吏を派遣して協議することを請う、と言った。中国を試そうとしたのである。政府が人を派遣して往かせたが、ロシア使節は数度の期日にも現れなかった。実のところ、道光の末年、中国が国家の多難な時に当たっていた頃、ロシア人はすでに密かに黒龍江北岸に兵を屯して占拠し、これを奪って植民地とすること久しかったのである。
- 四年、ロシアは突如として艦隊を黒龍江に沿って下らせ、愛琿を通過した。中国の官がこれを止めたが、聞き入れなかった。五年、木哩斐岳福ははじめて奕山と国境の事務を会議した。ロシア使節は議を発し、黒龍江および烏蘇里河を両国の国境と画し、江の南の地を中国に帰し、自らはその北岸を領有しようとした。奕山は『尼布楚条約』を援いてこれを論駁したので、議は調わなかった。六年、普提雅庭が兵艦を率いて(「師」は「帥」の誤りか)天津に来て、政府に境界を定めるよう強迫したが、政府は婉曲にこれを退けた。ここに至ってロシアはその人民を烏蘇里河口に移住させた。そこへ木哩斐岳福がちょうどやって来た。奕山は政府の命を承け、愛琿城で条約を結んだ。全部で三条、これが『愛琿条約』である。
- 一、黒龍江・松花江の左岸、額爾古納河から松花江口までは、ロシア国の属地とする。右岸は江の流れに沿って烏蘇里河に至るまでを、中国の属地とする。烏蘇里河から彼方に至るまでの所有の地は、この地は両国の境界が明らかに定まった地方に接続しているのと同様であり、両国共同管理の地とする。黒龍江・松花江・烏蘇里河は、今後は中国・ロシア両国の船の航行のみを許し、各外国の船舶はこの江河を通行することを許さない。黒龍江左岸の精奇里より南、豁爾木勒津屯に至るまでの、もとから住む満洲人らは、従来どおりそれぞれ住んでいる屯の中に永遠に居住することを許し、なお満洲国の大臣・官吏に管理させ、ロシア人らと和好して、侵犯してはならない。
- 一、両国に属する人は互いに和を取り、烏蘇里・黒龍江・松花江に居住する両国所属の人には、ともに交易させ、官吏らは両岸で両国の貿易する人を互いに世話する。
- 一、中国・ロシアが会同して議定した条項は、永遠に遵行して廃れさせない。両国が調印し、互いに文書を交付し、この文のとおりに書き写して、両国の境界上の人々に告げ知らせる。
- これより黒龍江北岸の地はすべてロシアに入り、康熙年間の旧来の境界、すなわち格爾必斉河から石・大興づたいに海に至るというもの(「石、大興」は底本のまま。「石大興安嶺」の脱字か)が大きく変わった。まして雍正のときに定めた、烏特河を両国の中立地とする取り決めは、言うまでもない。旗屯の一件についても、中国はわずかに管理の虚名を有するだけで、後の庚子の役では、もとから住んでいた旗人はことごとくロシア人に追い立てられて江に追い込まれた。
- 五月、大学士の桂良、尚書の花沙納らがロシア全権大臣の普提雅庭と、別に『天津専約』を結んだ。当時、英仏との和議が成り、ロシア人はまた利益均霑の例を援き、この月に別に『天津専約』十二条を結んだ。その要点を下に録す。
- 一、両国の陸路について従前に定めた国境での通商(「啇」は「商」の誤りか)のほか、今、海路の上海・寧波・福州・厦門・広州・台湾・瓊州など七箇所の海口での通商を議定して認可する。もし他国がさらに沿海に口岸を増設するならば、ロシア国にも一律に同様に扱うことを認める。
- 一、ロシア国は中国の通商の海口に領事官を設置し、兵船をそこに停泊させて保護の助けとすることができる。
- これよりロシア人の中国における通商は、海陸ともに大きな利益を得、欧米各国の上に出た。
西暦1860年 文宗咸豊十年
- 冬十二月、恭王奕訢がロシア使節の伊格那替業幅と改めて『北京条約』を結び、烏蘇里・松阿察の二河より東の地を割ってロシアに与えた。
- イギリス・フランスの同盟軍が北京を陥れたとき、ロシア使節がその間を調停した。和議が成ると、ロシアはこれを楯に中国に報酬を求め、この月に改めて『北京条約』を結び、十五条を追加した。これが『北京条約』である。その最も重大なものを下に録す。
- 一、烏蘇里河口から南、上っては興凱湖に至るまで、両国は烏蘇里および松阿察の二河をもって境界とし、その二河の東の地はロシア国に属し、二河の西は中国に属する。松阿察河の源から、両国の境界は興凱湖を越え、まっすぐ白稜河に至る。白稜河口から山嶺に沿って瑚布図河口に至り、さらに瑚布図河口から琿春河と海との中間の嶺に沿って図們江口に至り、その東はみなロシア国に属し、その西はみな中国に属する。両国の境界が図們江に合わさる処は、その江口との距離が二十里に過ぎない。
- 一、西の辺疆はなお境界が未定である。今後は山嶺・大河の流れ、および中国が常時駐在する卡倫などの処に沿い、また一七二八年、すなわち雍正六年に立てた沙浜達巴哈の界碑の末の処から起こして、西へまっすぐ斉桑淖爾湖に至り、そこから西南へ天山の特穆図爾淖爾に沿い、南は浩罕の辺界に至るまでを境界とする(「一十七百二十八年」は底本のまま。「一千七百二十八年」の誤りか)。
- 『愛琿』『北京』の両条約を合わせ観ると、黒龍江以北、吉林以東を挙げて、ことごとくロシアに割譲したのである。その失った土地は東西の広さ二十余経度、南北の長さ十余経度に及ぶ。論者は言う、当時の中国は輿地の学に通じておらず、実際の境界がいったいどこにあるのかを知らなかったため、満洲の旧来の領土をたちまち数千里も失うに至ったのだ、と。
原文(底本)
文宗咸豐八年,夏四月,黑龍江將軍宗室奕山與俄使木哩斐岳福訂約于璦琿城,割黑龍江北岸與俄。自雍正五年與俄訂約,俄人陸路通商,惟恰克圖一處歷朝奉行。乾隆二十七年,設庫倫辦事大臣,總理邊務。自是,兩國商民互市不絕。至道光二十八年,有俄國商船駛抵上海,圖就地貿易,兩江總督李星沅引例卻之。英領事阿利國,亦勸以循照定章,始回帆。三十年,其薩納特衙門來咨,請於喀什噶爾、伊犁、塔爾巴哈臺等處通商,朝旨允其於伊犁、塔爾巴哈臺二處貿易,至喀什噶爾,由理藩院咨覆,告以種種窒礙,委無利益情形遂成約而退。咸豐三年,其海軍少將普提雅庭來文,稱由海島購貨折回,欲進上海休息,並請進口貿易。帝不許。後俄人以所屬西伯利亞,東嚮無通航海口,深爲不便,木哩斐岳福建議於俄皇尼古來斯行文中國,謂自黑龍江、格爾必齊河上流以達於海,未設立界標,即屬未定之地,請即派員商議,欲以嘗試中國也。及政府派人往,而俄使數期不至,實則道光末年,值中國國家多故時,俄人已潛於黑龍江北岸,屯兵占守,攘之爲殖民地久矣。四年,俄忽以艦隊順黑龍江而下,通過愛琿。中國官止之,不聽。五年,木哩斐岳福始與奕山會議界務。俄使發議,欲劃黑龍江及烏蘇里河爲兩國國境,以江南地歸中國,而自有其北岸。奕山援《尼布楚條約》折之,是以議不諧。六年,普提雅庭師兵艦來天津,強迫政府定界,政府婉卻之,至是俄移住其人民於烏蘇里河口。而木哩斐岳福適來,奕山承政府之命,與訂約於愛琿城,計三條,是爲《愛琿條約》: *黑龍江、松花江左岸,由額爾古納河至松花江口,作爲俄國屬地。右岸順江流至烏蘇里河,作爲中國屬地。由烏蘇里河往彼至所有之地,此地如同接連兩國交界明定之地方,作爲兩國共管之地。由黑龍江、松花江、烏蘇里河,此後只許中俄兩國行船,各外國船隻,不許由此江河行走。黑龍江左岸由精奇里以南,至豁爾木勒津屯,原住之滿洲人等,照舊準其各在所住屯中,永遠居住,仍著滿洲國大臣官員管理,與俄國人等和好,不得侵犯。 *兩國所屬之人互相取和,烏蘇里、黑龍江、松花江居住兩國所屬之人,令其一同交易,官員等在兩岸彼此照看兩國貿易之人。 *中俄會同議定之條,永遠遵行勿替。兩國畫押,互交照,依此文繕寫,曉諭兩國交界上人等。 自是,黑龍江北岸地全入於俄,而康熙中舊界自格爾必齊河循石、大興以至於海者爲之一大變,而雍正時所定烏特河爲兩國中立地者,更無論已。卽旗屯一節,中國亦僅有管理之虛名,後庚子之役,原住旗人盡爲俄人驅逼入江。 五月,大學士桂良、尙書花沙納等與俄全權大臣普提雅庭另訂《天津專約》。時英法和議成,俄人又援利益均霑之例,於是月另訂《天津專約》十二條,錄其要者於下: *除兩國旱路於從前所定邊界通啇外,今議准由海路之上海、寧波、福州、厦門、廣州、臺灣、瓊州等七處海口通商。若別國再在沿海增添口岸,准俄國一律照辦。 *俄國在中國通商海口設立領事官,得派兵船在彼停泊,以資護持。 自是俄人在中國通商,海陸皆獲大利,在歐美各國之上。 十年,冬十二月,恭王奕訢與俄使伊格那替業幅再訂《北京條約》,割烏蘇里、松阿察二河迤東地,與俄英法同盟軍之陷北京也,俄使調停其閒。和議旣成,俄乃挾此以索報酬於中國,於是月再訂《北京條約》,續增十五條,是爲《北京條約》,錄其至重大者於下: *自烏蘇里河口而南,上至興凱湖。兩國以烏蘇里及松阿察二河作爲交界,其二河東之地屬俄國,二河西屬中國。自松阿察河之源,兩國交界踰興凱湖,直至白稜河。自白稜河口、順山嶺至瑚布圖河口,再由瑚布圖河口順琿春河及海中間之嶺,至圖們江口,其東皆屬俄國,其西皆屬中國。兩國交界於圖們江之會處,及該江口相距不過二十里。 *西疆尙在未定之交界。此後應順山嶺大河之流及中國常駐卡倫等處,及一十七百二十八年,即雍正六年所立沙濱達巴哈之界碑末處起,往西直至齊桑淖爾湖,自此往西南順天山之特穆圖爾淖爾,南至浩罕邊界爲界。 合觀《愛琿》《北京》兩約,舉黑龍江以北,吉林以東,悉割讓於俄。其失地東西廣二十餘經度,南北長十餘經度。說者謂彼時中國不諳輿地之學,不知實在之界究在何處,致使滿洲舊壤驟失數千里焉。
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