清史紀事本末湘軍陸師の編制(湘軍陸師之編制)
要約
咸豊二年冬十一月、喪中の侍郎曾国藩に湖南の団練を協力処理させた。さきに道光二十四年、新寧の挙人江忠源は広西に接して盗賊の多い郷里に乱の兆しを見て兵法で子弟を編成した。これが湖南の団練の始まりである。二十七年秋、傜民の雷再浩が乱を起こすと、忠源は郷民を率いて巣窟を衝き捕らえた。咸豊元年三月、洪秀全が金田から象州へ走ると賽尚阿は忠源を軍前に召し、忠源は郷勇五百人を募って楚勇と号し、官兵が進まぬ中で敵営に迫り数百の首を斬った。正規兵は妬んで救わず陥れ、忠源は病で帰り、官兵は行く先で姦淫・掠奪・放火・殺害を重ね、民は憎んで敵に通じ蜂起した。
国藩が命を受けたころ湘郷には練局が立ち、諸生の羅沢南・王鑫が名を知られ、巡撫張亮基は二人に一営ずつ募らせて湘勇と号し、国藩に主宰を請うた。国藩は母の喪と書生は兵を知らぬとして辞したが、武昌陥落で湖南が震撼すると長沙に至り上奏した。団練の難は資金にあり、湖南は行伍が空で兵を練るのが要務である、賊を見れば逃げ崩れ大砲・烏銃で遠く撃つばかりなのは胆も技もないからだ、と。また串子会・紅黒会・辺銭会・香会が衡州・永州・桂陽・宝慶・靖州の万山に育ち、役人が覆い隠すため法も官も恐れぬ気風を生んだ、盟を結んだ者は王命を請うて即刻処刑させよと請うた。
手続きを経ず捕らえては重刑に処し、十旬に二百余名を殺して「曾剃頭」と呼ばれたが意に介さなかった。十二月、官兵を廃して士人に山地の農民を率いさせ、戚継光の書を変通して三百六十人を一営とし、中営は羅沢南、左営は王鑫、右営は鄒寿璋、塔斉布が二営、周鳳山・儲玫躬が各二営、曾国葆が一営を将った。これが湘軍陸師の編制の始まりで、六千人に拡充し忠源の兵と合わせ一万の義師としようとした。
四年春三月、総督呉文鎔が黄州で敗死したと聞き、営制を改めて塔斉布ら八人に統率させ、水師と合わせ一万七千人で東へ下った。営制は営官一人に四哨、親兵六隊七十二人、一哨百八人で四哨四百三十二人、合わせて五百四人、長夫百八十名を加えて定員六百八十五人。行軍は日に三、四十里、夜明けに発し申の刻前に休んで壕と牆で営塁を築き、夜警は一営五十人とした。
湘軍は額兵の弊を救うために起こった。国藩は万衆一心・万人一気でなければ敵に当たれぬと言い、湘軍は礼を知り法を畏れ民を愛して日ごとに強くなり、鄂渚を掃蕩し皖を回復し、江蘇・浙江をめぐって金陵を攻め落とした。その兵威は南の交趾から北の承徳、西の天山・玉門にまで及んだ。国藩はまた李鴻章に淮軍を募らせ、湘軍の優れた者に教えさせ、捻軍を平定した。
編者はいう、文宗は国藩が水陸を兼ね統べるのを心配して布克慎を水営に赴かせた。武漢・黄州が復されて捷書が至ると、文宗は一介の書生がこれほどの奇功をと喜んだが、祁寯藻が匹夫が閭里で呼ばわって一万余人が従うのは国家の福ではありますまいと答えると、黙して顔色を変えた。同治初年、彭蘊章も尾大振わずの患いを説き湘軍の撤収と曾氏の権を削ることを論じた。僧格林沁が曹州で敗死すると穆宗は再び曾氏に軍を督させ、曾氏は裁撤した湘軍に代え淮軍と徐州の勇で数十戦に勝ち捻軍を衰えさせたが、なお言官は弾劾し、御史阿凌阿は驕慢を訴えた。曾氏は讒を憂え譏りを畏れ、封爵を返し散員として力を尽くしたいと願った。その奏に苗・回平定とあれば暮気の説は当たらない。悔いたときは遅く、郷里の人々はついに悟らなかった。惜しいことである。
年表
江忠源の楚勇に始まり曾国藩が湘軍陸師を編成するまでの経緯と、その営制を詳述する。道光二十四年、新寧の江忠源が郷里の子弟を編成したのが湖南団練の始まりで、咸豊元年には楚勇五百人を率いて境を出て功を立てた。咸豊二年冬、母の喪中の侍郎曾国藩が湖南の団練を命じられ、羅沢南・王鑫らの湘勇を統べ、重典によって会匪を除き「曾剃頭」と呼ばれた。三百六十人を一営とし戚継光の書に拠って制を定め、咸豊四年春三月、呉文鎔の敗死を受けて営制を改め、塔斉布ら八将に統べさせ水師と合わせ一万七千で東下した。営官・哨官・什長・長夫の編制、行軍と築塁の法を細かに記し、のち李鴻章の淮軍創設に及ぶ。
年表(4件)
- 西暦1852年 文宗咸豊二年冬十一月喪中の曾国藩に湖南の団練事務を協力処理するよう命じる
- 西暦1851年 文宗咸豊元年三月江忠源が楚勇五百を率い賽尚阿の軍前で数百を斬る
- 曾国藩の団練と湘軍陸師の編制(咸豊二年冬〜三年十二月、1852年〜1854年1月)三百六十人を一営として湘軍陸師の編制が始まる
- 西暦1854年 (咸豊四年)春三月呉文鎔の敗死を受け営制を改め一万七千で東へ下る
現代語訳全文
西暦1852年 文宗咸豊二年冬十一月
- 文宗の咸豊二年冬十一月、喪に服していた侍郎の曾国藩に、湖南の本籍地にあって本省の団練の事務を協力して処理するよう命じた。
- はじめ、道光二十四年、湖南新寧の挙人である江忠源が大挑(挙人から官を選ぶ選考)に赴き、教職を得て帰郷した。新寧の地は広西に接し、民と傜族とが入りまじって住み、盗賊が多かったので、忠源は天下がまさに乱れようとしていると見てとり、団練を行うことを唱え、兵法によって郷里の子弟を部隊に編成した。これが湖南の団練の始まりである。
- 二十七年秋、傜民の雷再浩が衆を集めて事を起こすと、忠源は郷民を率いてその巣窟を衝き、再浩を捕らえた。これが湖南の郷勇が功を立てた始まりである。
西暦1851年 文宗咸豊元年三月
- 咸豊元年三月になって、洪秀全が金田から北へ象州に走ると、朝廷は大学士の賽尚阿に命じて出て軍を監督させた。賽尚阿は忠源が兵事に通じていると聞き、上奏して軍の前線に呼び寄せた。
- 忠源はかつて用いた郷勇五百人を募り、弟の忠濬に率いて来させ、楚勇と号した。楚勇が到着したばかりのころは、衣は破れ、首筋は痩せ枯れており、満洲・蒙古の軍はみな陰で笑った。
- 当時、敵の勢いはたいそう盛んで、(官軍は)数万の兵を駐屯させていたが、あえて前へ出る者はいなかった。忠源は塁を築いて敵営に迫り、五百人で出撃して数百の首を斬った。これが湖南の郷勇が境を出て功を立てた始まりである。
- 忠源がたびたび功を立てると、正規兵は郷勇をひどく妬み、駐屯地では私闘し、郷勇が戦って敗れてももとより救わず、かえってこれを陥れた。忠源はついに病のため帰った。
- 兵の行き着く先では、姦淫・掠奪・放火・殺害までした。民は官兵が暴虐をほしいままにしていると考え、敵に通じることを言い出し、盟を結び会に加わって、互いに引き合って蜂起した。
曾国藩の団練と湘軍陸師の編制(咸豊二年冬〜三年十二月、1852年〜1854年1月)
- 国藩が巡撫の団練を補佐せよとの命を受けたころ、湘郷ではすでに練局が立てられており、諸生の羅沢南・王鑫が団練を取り仕切ることで名を知られていた。巡撫の張亮基は二人にそれぞれ一営を募らせて戦守を助けさせ、湘勇と号し、あわせて国藩にその事を主宰するよう請うた。
- 国藩は母の喪を理由に辞退して出ず、また書生は兵を知らないと言った。やがて武昌が陥落したと聞き、湖南が大いに震撼すると、はじめて長沙に至り、亮基とともに守備を整え、あわせて上奏して言った。
- 「団練の難しさは、資金を出させることにあります。湖南は行伍(部隊の兵員)が空っぽで、兵を練ることを要務とすべきです。軍事が起こって以来二年あまり、費やした軍糧は多くないとは言えず、調え集めた大軍は多くないとは言えません。ところが、しばしば賊を見れば逃げ崩れ、死力を尽くして戦った者があるとは聞きません。用いる兵器はみな大砲・烏銃(火縄銃)で、遠くから撃ちかけるばかりで、短兵で刃を交えた者があるとは聞きません。その理由は何でしょうか。兵が練習しておらず、胆力も技もないからです。いま弦を張り替えるように改めようとするなら、省城に一つの大団を立て、郷民のうち壮健で朴実な者を選び、募って省城に来させることです。一人を練れば一人分の益を収め、一月練れば一月分の効があります。」
- またこう言った。「湖南の会匪は、広西の逆賊が楚(湖南)に入ってから、大半がこれに付き従って去りました。しかしなお串子会・紅黒会・辺銭会・香会があり、群れをなして叫び集まっています。東南は衡州・永州・柳(底本は「柳」に作る。「郴」(郴州)の誤りか)・桂陽、西南は宝慶・靖州、万山の茂み(底本は「叢簿」に作る。「叢薄」の誤りか)は、彼らが卵のように育つ地(底本は「卯育」に作る。「卵育」の誤りか)となっております。役人もそれを抑えきれないことをよく知っておりますが、ただその禍が自分の代から起こるのを望まず、互いに覆い隠し繕って、その場しのぎの一日の安泰をむさぼっています。数十年積み重なって、殺すべきなのに殺さぬ者にほしいままの横行を許し、郷里の無頼の民を騒がしく落ち着かぬものにしました。彼らは、人殺し・強盗の首犯が常に法の外でのうのうとしているのを見、広西の匪賊が猖獗して抑えられないのを見て、法律は頼むに足らず、役人は恐れるに足らぬと考えるようになったのです。厳刑峻法でなければ、その不逞の志をくじくことはできません。臣はもっぱら重典を用いて強暴な者を鋤き払いたいと思います。そうすれば良民にも安んじて生きる日があります。臣自身は残忍・厳酷の名を得ようとも、辞退いたしません。いまの急務は、省じゅうに解決されない事件がないようにし、大小の会匪をことごとく除くことにあります。そうすれば瑕を洗い汚れを払うことも期待できます。かつて掠奪をし、会に加わり、盟を結んだ者があれば、ただちに巡撫の令旗を用い、恭しく王命を請うて(底本は「恭靖王命」に作る。「恭請王命」の誤りか)、その場で処刑することをお許しください。内の姦が清められれば、外の寇が至っても、なすすべはありますまい。」
- そこでまず内輪の乱れを一掃し、役所の手続きを経ずに、不意打ちに捕らえてはただちに重刑に処し、十旬(百日)のうちに二百余名を殺した。たちまち非難の議論が四方から起こり、「曾剃頭(曾の頭剃り)」という呼び名まで生まれた。国藩は意に介さなかった。
- そして十二月に軍旅を整え、募集した兵で正規の行伍を置き換え、官兵をことごとく廃し、もっぱら士人を選んで山地の農民を率いさせ、それぞれ一営を編成した。制度を選び考えるに、今も昔も規定の様式には倣うべきものがなく、ただ戚継光の書だけが「時の用に切なり」と称されていたので、その説くところによって変通して行った。
- 三百六十人を一営とし、中営は羅沢南がこれを将い、左営は王鑫が将い、右営は鄒寿璋が将い、塔斉布は兵勇を率いて二営を成し、周鳳山・儲玫躬がおのおの二営を将い、曾国葆が一営を将った。これが湘軍陸師の編制の始まりである。
- 国藩はさらに拡充して六千人に至らせ、忠源の率いる兵と合わせて一万とし、義師としようと考えた。
西暦1854年 (咸豊四年)春三月
- 春三月、湖北の軍が黄州で潰えた。曾国藩は水陸の軍を統べて東へ下った(底本はここに年号が無く、いきなり読点から「春三月」と始まる)。
- このとき国藩は、総督の呉文鎔が黄州で敗れて死んだと聞き、時局がいよいよ危ういこと、勢いとして万全を期して出ることはできないことを知った。そこで営制を改め、塔斉布・周鳳山・儲玟躬・林源恩・鄒世琦・鄒寿璋・湯名声・曾国葆にこれを統率させ、水師と合わせて総勢一万七千人で、旗を立てて東へ下った。
- その営制は、営ごとに営官一人を置き、前・後・左・右の四哨に分け、哨ごとに官一人を置く。営官には親兵があり、什長がある。その親兵は六隊に分け、隊ごとに什長一名を置いて親兵十名・伙勇(炊事役)一名を率いさせ、六隊合わせて七十二人となる。
- 哨官には哨長一名・護勇五名がつき、そのほかに什長があり、正勇があり、伙勇がある。一哨は八隊に分け、隊ごとに什長一名・伙勇一名を置く。抬銃隊は正勇十二名で、什長・伙勇を合わせて十四名。刀矛・小銃隊は正勇十名で、什長・伙勇を合わせて十二名。哨ごとに哨官・哨長・護勇を合わせて百八人、四哨で合わせて四百三十二人、これに営官・親兵を合わせて五百四人となる。隊官はこの数の外にあり、書記や医者・職人はある場合もない場合もあって、営官がこれを取り仕切る。
- 隊伍を組み合わせる制度は、親兵の六隊では、第一隊が劈山砲、第二隊が刀矛、第三隊が劈山砲、第四隊が刀矛、第五隊が小銃、第六隊が刀矛。哨ごとの八隊では、抬銃が第一隊、刀矛が第二隊、小銃が第三隊、刀矛が第四隊、抬銃が第五隊、刀矛が第六隊、小銃が第七隊、刀矛が第八隊で、これで一営を総計する。劈山砲が二隊、抬銃が八隊、小銃が九隊、刀矛が十九隊、合わせて三十八隊である。
- 輜重・武具・行軍用の糧食を運ぶには長夫(人夫)がある。営ごとに営官および補佐の人員で、合わせて長夫四十八名を用いる。弾薬・火縄その他いっさいの軍装などの品を運ぶには、合わせて長夫三十名を用いる。営官の親兵隊では、劈山砲隊は長夫三名、刀矛・小銃隊は長夫二名を用い、六隊で長夫十四名となる。営を抜いて遠く行軍する場合は、営官が別に公夫を割いて、劈山砲をかつぐのを手伝わせる。
- 哨官・哨長および護勇五人には、合わせて長夫四名を用い、四哨で人夫十六名。哨の隊では、抬銃隊ごとに長夫三名、刀矛・小銃隊ごとに長夫二名を用いる。四哨の抬銃八隊で長夫二十四名、刀矛・小銃隊で長夫二十四名、合わせて長夫四十八名。総じて一営で長夫百八十名を用い、おおよそ百人につき長夫三十六名である。これに営・哨の官員や諸勇らを合わせて、合計六百八十五人。これが正規の定員である。
- 数営に統領一員を置くこともあり、十営、あるいは十数営を一人の統領が統べることもある。その者の器量の大小によるもので、定まった制はない。
- 武器は営を立てるときに支給し、壊れ傷めば修理する(底本は「懷敝」に作る。「壞敝」の誤りか)。ただ鉛弾・火薬と火縄・天幕だけは、随時受け取ることができる。営官には天幕十張を支給し、うち八張が袷、二張が単。哨官には三張、うち一張が袷、二張が単。親兵隊には二張、うち一張が袷、一張が単。哨の隊には二張で、いずれも単。総じて一営の天幕は、単が八十張、袷が十八張である。
- 行軍のときは、三百五十人がそれぞれ戦闘用の武器を備え、百五十人が長夫を監督して使用する器材を守る。前には探馬(斥候の騎馬)があり、後ろには押幫(しんがり)があって、それぞれ自分の営に従い、入り乱れることがない。行軍はおおむね日に三、四十里、夜明けに出発し、申の刻にならぬうちに休み、行き着いた先に営塁(底本は「疊」に作る。「壘」の誤りか。以下同じ)を築く。
- 営官はその土地を見立て、縄で基準を取り、それに従って壕を掘る。壕は一丈五尺、壕の土を積んで牆とし、厚さ一丈、高さ八尺。牆と壕とは二丈の隔たりを取る。残った土で隊ごとに一棚を作り、棚には厠(底本は「𫁘廁」に作る)を設け、厠には外と内とがある。外の厠は四つ、内の厠は一つ。火薬には穴蔵を設け、粘土を塗り、塗った上にはみな通気の穴をあける。
- 軍中の市は、縄張りした牆と塁の外に設ける。塁が市に近ければ、その門の出入りを厳しくし、真夜中に名簿を取り調べ、出入りに証のない者は、評議して誅する。夜間の合い言葉の字は、営官がこれを授ける。夜警の兵は一営あたり五十人、敵が近ければ百人とし、更(夜の時刻の区切り)ごとに班を組み、一班は十人。あるいは二十人とする場合は、哨官がこれを点検する。五更にはみな起き、朝夕に操練し、音声で警めさせる。だから行軍は速すぎてはならず、宿営は緩んではならない。行軍が速ければ病を生じ、宿営が緩めば散り乱れる。
- 壕を作る法は、外と内とを二重に設ける。外壕は幅六尺、深さ八尺、内壕はその半分。周囲を巡らせて溝とし、必ず横切る通路を設け、その間隔は二丈。塁と牆ができあがったら、外側の通路を取り除き、内側の通路を残す。牆を作るのは城のようにし、高さ七尺、子牆(付属の低い塀)はその半分。牆の厚さは六尺、左右に二つの門を設ける。築造のときは、敵が現れれば力を合わせて当たり、事がなければ長夫の役である。
- 徒歩はおおむね八刻で十五里進む。寒い時季は日が短いが行軍は楽であり、暑い時季は日が長いが行軍は難しい。昼(底本は「畫」に作る。「晝」の誤りか)を四十刻として計算する。六十刻行って三十里進む。そのうち十六刻を営塁の築造にあて、残り十二刻を経て日が暮れる。そうすれば精神にゆとりがあり体も壮健で、敵を待ち受けることができる。
- 湘軍が起こった由来をさかのぼれば、額兵(定員の正規兵)の弊を救うためであった。はじめ、額兵は悪しき習気が深く、勝てば譲り合わず、敗れても救い合わなかった。国藩は湘軍を練るにあたり、必ず万衆が一心となり、万人が一気となって、はじめて敵に当たれると言った。湘軍は上を尊んで礼を知り、法を畏れて民を愛したので、軍は日ごとに強くなった。
- もっぱら太平軍を滅ぼそうと、軍を編成し終えて出撃し、郷里で功を奏し、長駆して東へ下り、鄂渚を掃蕩し、江州を攻め(底本は「榷」に作る。「搉」(撃つ)の誤りか)、皖(安徽)の全域を回復し、かたわら江蘇・浙江をめぐり、そののち進んで金陵(底本は「全陵」に作る。「金陵」の誤りか)を攻め落とし、大功が成し遂げられた。
- その後さらに、南は交趾に至り、北は承徳に及び、東は潮州・汀州をめぐり、海を渡って台湾を開き、西は天山・玉門・大理・永昌を極め、ついに烏孫の地を越え、水では長江五千里に連なり、夜警の拍子木の音(底本は「擊索」に作る。「擊柝」の誤りか)が海にまで聞こえた。その兵威の盛んなことは、いにしえにもなかったことである。
- のちに国藩は、湘軍が武を用いて十年になり、気力がいくらか衰えぬでもなく、淮河のあたりは気風が強悍であるから、別に一軍を立てるべきだと考えた。門人の李鴻章に淮軍を募集させ、自ら営制を定め、将官を選び、湘軍の優れた者にこれを教えさせ、名づけて淮軍といった。のちにこれによって捻軍を平定した。
史論(編者曰)
- 編者は言う。湘軍が東へ下ったとき、文宗は曾国藩一人が水陸の軍を兼ね統べることを心配し、特に詔して貴州提督の布克慎を黄州から還らせてその水営に赴かせ、また総督の台誦に詔してその軍に合流させた。
- 進んで武漢・黄州を攻め落とし、諸郡が平定されて、勝報(底本は「提書」に作る。「捷書」の誤りか)が京に至ると、文宗ははじめて喜んだ。枢機の臣に語って言った。「思いもよらぬことだ、曾某という一介の書生が、これほどの奇功を立てられるとは。」祁寯藻が答えて言った。「曾某は匹夫の身で村里(底本は「閣里」に作る。「閭里」の誤りか)におりながら、ひと声呼ばわればたちまち立ち上がり、これに従う者が一万余人です。おそらく国家の福ではありますまい。」文宗は黙りこみ、顔色を変えたまま長いあいだそのままであった。
- 同治の初年、彭蘊章が時事について箇条書きで議論し、やはり湘軍が天下に遍く広がり、曾某の権が重すぎて、尾が大きすぎて振れなくなる患いがあるかもしれないと述べ、湘軍を撤し曾氏の権を削る方策について、くり返し意を尽くした。
- 東南が平定され、捻軍討伐の事が起こり、僧格林沁が曹州城下で敗れて死ぬにおよんで、穆宗はふたたび曾氏を召して軍を督させた。そのとき湘軍はすでに裁撤され尽くしており、曾氏は淮軍を動かし、さらに徐州の勇を募り、訓練して軍を成し、率いて赴いた。大小数十戦はみな勝ち、捻軍の勢いは実にこれによって衰えた。ところがこの時にも言論の官はなおしばしば彼を弾劾した。御史(底本は「御使」に作る)の阿凌阿は、その驕り高ぶりを訴えさえした。
- そこで曾氏の、讒言を憂え譏りを畏れる心は日ごとにひどくなり、封爵を取り消して官職を解き、散員(役に就かぬ身分)のまま留まって力を尽くしたいと願い出た。だからその奏で湘軍が苗・回を平定したことを述べているのを見れば、曾氏に暮気(気力の衰え)があるという説は、実はそうではないと知られる。
- しかし国藩が悔いたときには、もはや遅かった。そしてその郷里の人々はついに悟ることができず、国藩を鏡として自らを鞭打つことをしなかった。惜しいことである。
原文(底本)
文宗咸豐二年冬十一月,命丁憂侍郎曾國藩在湖南原籍幫同料理本省團練事務。初,道光二十四年,湖南新寧舉人江忠源赴大挑,得教職歸,以新寧地接廣西,民傜雜處多盜,察天下將亂,倡行團練,以兵法部勒鄉人子弟,是爲湖南團練之始。二十七年秋,傜民雷再浩勼衆滋事,忠源率鄉民擣其巢,擒再浩,是爲湖南鄉勇立功之始。 及咸豐元年三月,洪秀全自金田北走象州,朝命大學士賽尚阿出視師,聞忠源知兵,疏調軍前。忠源募故所用鄉勇五百,使弟忠濬率以來,號楚勇。楚勇始至,敝衣槁項,滿蒙軍皆匿笑。時敵氛張甚,屯兵數萬,莫敢前。忠源築壘偪敵營,以五百人出戰,斬首數百,是爲湖南鄉勇出境立功之始。忠源既數立功,於是兵妒勇甚,所屯則私鬬,戰敗固不救,反陷之,忠源遂以病歸。兵所至,且奸掠焚殺。民以爲官兵肆暴虐,則倡議通敵,及結盟拜會,相挻起矣。國藩既奉命幫辦巡撫團練,時湘鄉先立練局,諸生羅澤南、王鑫辦團練有名,巡撫張亮基令各募一營,助戰守,號湘勇,並請國藩主其事。辭母憂不出,且言書生不知兵,已聞武昌破,湖南大震,始至長沙,與亮基治守禦,且疏言:「團練之難,難於捐貲。湖南行伍空虛,以練兵爲要務,自軍興以來,二年有餘,糜餉不爲不多,調集大兵不爲不衆,而往往見賊逃潰,未聞有鏖戰者;所用兵器皆大礮、烏鎗,遠遠轟擊,未聞有短兵交鋒者,其故何哉?由兵未練習,無膽無藝故也。今欲改弦更張,於省城立一大團,擇鄉民壯健樸實者,招募來省。練一人收一人之益,練一月有一月之效。」又曰:「湖南會匪自粵逆入楚,大半附之而去,然猶有串子、紅黑、邊錢香會,成羣嘯聚,如東南衡永柳桂,西南寶慶靖州,萬山叢簿,爲卯育之區。有司亦深知其不可遏,特不欲其禍自我而發,相與掩飾彌縫,苟且一日之安。積數十年,應殺不殺之人而任其橫行,令鄉里無賴之民囂然而不靖,彼見夫命盜首犯,常逍遙於法外也,見夫粵匪猖獗而莫制也,遂以為法律不足憑,官長不足畏。若非嚴刑峻法,無以折其不逞之志。臣欲純用重典以鋤強暴,即良民有安生之日。臣身雖得殘惡嚴酷之名,所不敢辭。今之急務,在使通省無不破之案,而盡除大小各會匪,則滌瑕蕩穢可期也。有曾經搶掠、拜會、結盟者,請即用巡撫令旗、恭靖王命,立行正法。內姦既清,外寇雖至,無能為已。」於是先清內訌,不經有司,掩捕即置重典,十旬中,戮二百餘名,一時謗議四起,至有「曾剃頭」之稱。國藩不顧也,乃以十二月治軍旅,以召募易行伍,盡廢官兵,專選士人、領山農,各自成營。拔攷規制,今古章式,無可仿效,獨戚繼光書,號為「切時用」,因所言變通行之。以三百六十人為一營,中營羅澤南將之,左營王鑫將之,右營鄒壽璋將之,塔齊布將兵勇成二營,周鳳山、儲玫躬各將二營,曾國葆將一營,是為湘軍陸師編制之始。國藩仍欲充廣至六千人,合忠源所將成一萬,為義師。 ,春三月,湖北军潰於黃州,曾國藩統水陸軍東下。時國藩聞總督吳文鎔敗死黃州,知時事愈危,勢不得出十全,於是改營制,以塔齊布、周鳳山、儲玟躬、林源恩,鄒世琦、鄒壽璋、湯名聲、曾國葆統之,合水師共萬七千人,建旗東下。其營制,每營設營官一人,分立前、後、左、右四哨,每哨設官一,營官有親兵,有什長。其親兵分六隊,每隊設什長一名,率親兵十名,伙勇一名,計六隊,凡七十二人。哨官有哨長一名,護勇五名,其外有什長,有正勇,有伙勇。一哨分八隊,每隊什長一名,伙勇一名。其擡鎗隊,正勇十二名,合什長、伙勇爲十四名。其刀矛小鎗隊,正勇十名,合什長、伙勇爲十二名。每哨合哨官、哨長、護勇爲一百八人,四哨共四百三十二人,合之營官、親兵爲五百四人。隊官在外,其書記醫匠,或有或無,營官主之。其聯伍之制,親兵六隊,則一隊劈山砲,二隊刀矛,三隊劈山砲,四隊刀矛,五隊小鎗,六隊刀矛。每哨八隊,則擡鎗爲第一隊,刀矛爲第二隊,小鎗爲第三隊,刀矛爲第四隊,擡鎗爲第五隊,刀矛爲第六隊,小鎗爲第七隊,刀矛爲第八隊,總計一營。劈山礮兩隊,擡鎗八隊,小鎗九隊,刀矛十九隊,共爲三十八隊。其搬運輜重、軍裝、行糧,則有長夫、每營營官及幫辦人員。共用長夫四十八名。搬運子藥、火繩及一切軍裝等項,共用長夫三十名。營官親兵隊、劈山砲隊,用長夫三名,刀矛小鎗隊,用長夫二名。計六隊,用長夫十四名。如拔營遠行,營官另撥公夫,幫擡劈山砲。哨官、哨長及護勇五人,共用長夫四名,四哨共夫十六名。其哨隊,每擡鎗隊,用長夫三名,每刀矛小鎗隊,用長夫二名。計四哨擡鎗八隊,用長夫二十四名,刀矛小鎗隊,用長夫二十四名,共長夫四十八名,總共一營用長夫一百八十名,大率百人用長夫三十六名,合之營哨官員各勇人等,共六百八十五人,是爲正額。或數營設統領一員,或十營,或十餘營,統一統領,則視其材之大小,無定制。其軍器,立營時給之,懷敝修之,唯鉛彈、藥繩、帳棚得以時領。營官給十帳,八夾二單;哨官三帳,一夾二單;親兵隊二帳,一夾一單;哨隊二帳,皆單;凡營帳,單者八十,夾者十八。其軍行,以三百五十人,各備戰器,百五十人督長夫護用器。前有探馬,後有押幫,各從其營,無有或錯。其行,率日三四十里,黎明而發,未晡而息,行所至爲疊。營官相其地,準之以繩,從而爲壕。壕丈五尺,復壕土爲牆,厚一丈,其崇八尺。牆壕容二丈遠,其餘土隊爲一棚,棚有𫁘廁,廁有外內。外廁四之,內廁一之。火藥有窖,以堇塗之,塗皆孔之。其軍市設於繩牆疊外,其壘近市,則嚴其門禁,午夜籍之,出入無驗,議而誅之。夜號之字,營官授之。守夜之卒,營五十人,敵近則百人以更爲班,班十人。若二十人,哨官察之。五更咸興,朝暮操練,以聲警之,故行不可速,止不可懈,行速則病,止懈則散。作壕之法,外內重設。外壕廣六尺,深八尺,內壕半之。環而溝之,必有橫涂,相距二丈。疊牆既成,去其外涂,留其內涂。作牆如城,其高七尺,子牆半之。牆厚六尺,左右二門。其作築時,見敵則拼力,無事則長夫之役也。步行,率八刻而行十五里。寒日短,而行易;暑日長,而行難,以畫四十刻率之。行六十刻而三十里。其十六刻以築營疊,餘十二刻而後昏暮,則神暇形壯,可以待敵。溯湘軍之所由起,爲救額兵之敝也。初,額兵習氣深,勝不相讓,敗不相救。國藩練湘軍,謂必萬衆一心,萬人一氣,始可當敵。而湘軍尊上而知禮,畏法而愛民,故軍日強。專滅太平軍、自成軍而出,奏功桑梓,長驅東下,蕩鄂渚,榷江州,規復全皖,旁循蘇浙,然後進克全陵,大功告成。其後且南至交趾,北及承德,東循潮汀,乃渡海開臺灣,西極天山、玉門、大理、永昌、遂度烏孫,水屬長江五千里,擊索聞於海。其兵威之盛,古未有也。後國藩以湘軍用武十年,氣不無稍衰,淮上風氣強悍,宜別立一軍。使其門人李鴻章招募淮軍,親爲定營制,選將官,以湘軍之良教之,名曰淮軍,後以平捻。 編者曰:方湘軍之東下也,文宗以曾國藩一人兼統水陸軍,心憂之,特詔貴州提督布克慎自黃州還,赴其水營,詔總督台誦會其師。及進克武漢、黃,諸郡肅清,提書至京,文宗始喜。語樞臣曰:不意曾某一書生,乃能建此奇功!祁寯藻對曰:曾某以匹夫居閣里,一呼蹶起,從之者萬餘人,恐非國家福。文宗默然,變色者久之。同治初元,彭蘊章條議時事,亦謂湘軍遍天下,曾某權太重,恐有尾大不掉之患,於所以撤湘軍,削曾氏權者三致意焉。迨至東南底定,剿捻事起,僧格林沁敗沒曹州城下,穆宗復召曾氏督師。時湘軍裁撤已盡,曾氏調淮軍,添募徐州勇,訓練成軍率以往。大小數十戰皆捷,捻勢實因此而衰,而是時言路猶數數劾之。御使阿凌阿且訴其驕妄,於是曾氏憂讒畏譏之心日益甚,乃請註銷封爵開缺,以散員留勞效力,故其奏言湘軍平苗、回乃知曾氏暮氣之說,其實非也。然國藩悔已晚矣,而其鄉人卒未得悟,不鏡於國藩以自鞭策也,惜哉!
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