清史紀事本末新疆の平定と伊犁返還条約(平定新疆及収回伊犁条約)

要約

光緒元年三月、大学士・陝甘総督の左宗棠に新疆の軍務を督弁させた。はじめ同治元年六月、陝西の回民が起こって省城を囲み、督師の勝保は軍をくつがえして自尽を賜い、多隆阿が代わった。二年、甘粛の回民が固原・平涼・寧夏・霊州を落とした。多隆阿は陝の回を駆り剿して傷を受け卒し、都興阿が継いだ。そのころ浩罕は俄羅斯に滅ぼされ、その別部の阿古柏が残衆を収めて安集延を保ち、布魯特の思的克らが喀什噶爾を騒がすと、南路の回民金相印が阿古柏を迎えて喀城を落とし、南の八城を侵し奪い、阿古柏はみずから帕夏と称した。六月、潰兵が烏魯木斉に至ると参将の索煥章が脅して反し、陝回の妥得璘を推して清真王と称させ、満城を陥れて都統平瑞は死に、哈密・吐魯番などが相ついで失陥した。四年、粛州の回民が嘉峪関を陥れ、五年、安集延が伊犁の九城を落とした。

八月、総督の楊岳斌を罷めて宗棠に代えた。宗棠は、陝に進むにはまず関外を、甘に進むにはまず陝を清めねば餉路は通じないとし、まず捻、のち回と計を定めた。七年、西捻が平らぐと入覲して五年で績を奏すると答え、劉松山を北路、周開錫を南路、みずから中路として陝回を甘に駆り入れ、土匪の董福祥父子も降った。八年、董志原の老巣を抜いて陝西が平らぎ、九年、金積堡の攻めで松山が陣没し、兄の子の錦棠が代わってその軍を統べ、十一月に金積堡を克つと、降を乞うた回の酋長馬化龍を宗棠は父の耀邦とあわせて磔にした。十年に金順・張曜が寧夏を平らげ、十一年に河州・西寧を収め、十二年に宗棠が粛州を克って馬文禄を磔にし、関内は粛清したが白彦虎だけが関外に逸れた。宗棠は大学士に擢かれ、景廉に代わって新疆に軍を督し、金順を副とした。

二年正月、関を出る餉が緊迫し、宗棠に洋款一千万両を借りることを允した。関外を棄てよと議する者があったが、宗棠は力めて不可とし、洋商・民商から借りて経営一年、士は飽き馬は騰った。七月、劉錦棠は烏魯木斉を収復した。四月に嘉峪関を出て古城に駐まり、金順と約して阜康に屯を移し、六月に古牧地を囲み、阿古柏の援騎を余虎恩の馬隊が破り、開花砲で城を克って守兵六千を殲した。烏垣に迫ると安集延・土回は夜に逸れた。九月、残る瑪納斯南城も金順と羅長佑・董福祥らが会して克ち、妥得璘の屍を掘って戮した。

三年三月、錦棠と張曜が達坂・吐魯番・託克遜を克った。阿古柏は託克遜に三城を築き、愛伊徳爾呼里に達坂、白彦虎と馬人得に吐魯番を守らせ、みずからは喀喇沙爾で策応した。氷が解けると錦棠は達坂に迫った。城は湖水で衛り泥は馬腹に及んだが、諸隊は泥濘を過ぎて山岡に列なり、城中の西洋銃砲にも動かず、錦棠は乗馬が銃に中たると馬を易えて前み、塁と砲台を築いた。開花砲三門を連環に轟撃すると城中の人馬は砕け、愛伊徳爾呼里以下の頭目は擒えられた。進んで吐魯番の満漢両城を復し、人得は嵩武軍に降り、託克遜では海古拉が先に遁れて纏回二万余が降った。四月、阿古柏は南の八城の門戸が開いたのを憂え、纏回を苛酷に遇して人心が去ったのを知り、薬を飲んで死んだ。海古拉がその屍を舁いで西へ行くと、庫車の伯克胡里が半途で遮って殺し、みずから王となった。

九月、錦棠は南路の東四城を復した。彦虎が開都河を壅いで百余里に溢れさせるのを迂回すると彦虎は庫車に走り、喀喇沙爾・庫爾勒・庫車を次々に復した。銅廠・上銅廠で敵を破って積屍が河を塞ぎ、阿克蘇では回民十余万が迎え降り、烏什も克った。一月に三千余里を行き、兵威は大いに震った。十一月、西四城を克復した。伯克胡里は喀什噶爾に拠ったが、喀城の満漢の守兵が錦棠を迎えると英吉沙爾に走り、錦棠が三路に分けて喀城に逼ると、伯克胡里・阿里達什・彦虎は俄羅斯に遁れ入り、城を克って王元林らを斬った。葉爾羌・英吉沙爾を復し、董福祥も和闐を復した。阿古柏の妻妾と子ら、于小虎・金相印父子を誅し、悍党千百六十人を殺して新疆は平らいだ。宗棠を二等侯、錦棠を二等男に晋めた。

四年十月、錦棠が玉都巴什で安集延・布魯特を大破した。阿里達什が俄の境から布の酋長阿布都勒哈瑪を糾って喀什噶爾を襲おうとしたので、奈曼の回目庫弥什が伏を設けて阿里達什を殺して献じた。五年正月、阿布都勒哈瑪が愛克木汗条勒らを糾い、阿古柏のために讐を復すと称して烏帕爾に犯したので、錦棠は谷口で迎え撃ち伏を起こして大股を殲し、安の兵七百余、布の兵千四百余を斬った。

五月、侍郎の崇厚に俄羅斯へ使いして伊犁を収め還す事を議させた。俄は同治十年、伊犁の回変を口実に兵で拠っていた。三年、英の使臣威妥瑪が安集延を扶持して国を立てさせよと説いたとき、宗棠は、英は印度のために屛障を増やしながら我に回疆の屛障を撤せと強いるものだと斥け、新疆を重んじるのは蒙古を保ち京師を衛るためで、地は棄てるべからず兵は停めるべからずと論じた。十二月、崇厚を撤して帰国させ、革職して獄に下した。崇厚が俄の布策と訂めた十八条は、伊犁を還すかわりに銀五百万ルーブルを給し、可西河の西と麗山の南を譲り、嘉峪関・哈密・吐魯番・烏魯木斉など六処に領事を設け、天山南北路の俄商の貨物を無税とし、張家口に通商局を立てるものであった。王仁堪・盛昱・張之洞が論劾し、俄の索めは貪り横、崇厚の許したのは謬り愚だとし、斬監候と定められた。

六年正月、曾紀沢に俄へ使いして条約を商議し改めさせた。七月、宗棠を召して京に来らせ、錦棠に軍務を督弁させ、張曜を幫弁、楊昌濬に陝甘総督を護理させた。宗棠は、まず議論で機を用い次いで戦で決すべしと陳べ、精河を東路として金順、阿克蘇を中路として張曜、烏什を西路として錦棠に主らせ、四月に粛州を発って棺を舁いで行った。五月に哈密に抵ると俄も兵を増して納林河を守り、兵艦を海上に翔らせて天津・奉天・山東が警戒し、宗棠が召されたのである。曾国荃に山海関の防務を督弁させ、鮑超に勇を募って天津と山海関の中ほどに駐紮させた。紀沢の奏により崇厚は獄から釈された。

七年正月、紀沢が俄の外部大臣格爾斯らと聖彼得堡で条約二十款・専条一、陸路通商章程十七款を訂めた。前の約を改めたのは七端で、伊犁の南境を還し、喀什噶爾の界務は崇厚の定めた界によらず、塔爾巴哈台の界務は酌み中して勘え定め、嘉峪関の通商は天津に倣い西安・漢中・漢口の字句を削り、松花江の専条を廃し、領事の添設は吐魯番一員にとどめ、天山南北路の納税は「納めず」を「しばらく納めず」と改めた。ほかにルーブル四百万円を添えて償った。中外は紀沢の能を称えたが、紀沢はみずから謙り、俄が権利を棄てたのは俄土戦後に財力が竭きて再び釁端を啓くのを欲しなかったからで、これを他事の例として交渉に了え難い事は無いとすれば、将来かならずその弊を承ける者が出よう、と奏した。

年表

陝甘の回民蜂起と、浩罕の残部を率いた阿古柏の新疆占拠に対し、左宗棠が陝甘総督・督弁新疆軍務として関内を平定し、劉錦棠・張曜らを率いて関外へ進み、烏魯木斉から南疆の東四城・西四城までを収復するまでの経緯を記す。阿古柏は自殺し、その子伯克胡里と白彦虎は俄羅斯へ遁れ、安集延・布魯特の再侵も玉都巴什・烏帕爾で撃破された。一方、俄羅斯が拠った伊犁の返還交渉では崇厚が訂めた条約が国内の激しい弾劾を招いて崇厚は下獄し、曾紀沢が改めて聖彼得堡で条約を結び直して決着した。光緒元年(1875年)から光緒七年(1881年)までの七年間を扱う。

年表(7件)

現代語訳全文

西暦1875年 徳宗光緒元年

  • 春三月、大学士・陝甘総督の左宗棠に命じて新疆の軍務を督弁させた。
  • はじめ、同治元年(1862年)六月、陝西の回民が事を起こし、省城を囲み攻め、あわせて同州・蒲城を騒がせた。皖豫の督師である勝保に命じて軍を移して討たせた。十月、勝保は軍をくつがえし、京に逮え送られて自尽を賜わり、別州(荊州の誤りか)将軍の多隆阿をもってこれに代えた。
  • 同治二年(1863年)二月に至り、甘粛の回民が固原・平涼・寧夏・霊州を攻め落とした。五月、西寧の花寺の回民が撒納の番人と結び、丹噶爾城を攻め撃ち、戎・循一帯が騒然となった。多隆河(多隆阿の誤りか)が兵を提げて陝に入るに及び、陝の回を駆り剿してほぼ尽くし、まさに移って甘の回を討とうとしたが、盩厔がまだ破れていなかったので、みずから軍を督してこれを攻め落とした。多隆阿は傷を受けてまもなく卒した。西安将軍の都興阿が継いで起って師を視、提督の雷正綰を副とした。五月、正綰は提督の陶茂林の軍と会して平涼を攻め克った。滇の回である藍二順が西安の省城を襲い犯し、副都統の穆図善が巡撫の劉蓉らと会同してこれを撲滅した。
  • そのとき浩罕(コーカンド)は俄羅斯(ロシア)に滅ぼされ、その別部の胖色提であった阿古柏が残った衆を収めて安集延を保った。おりしも布魯特の酋長である思的克らが新疆の喀什噶爾を騒がせ、南路の回民である金相印が阿古柏を迎えて山を出し、喀城を攻め落としてこれに拠り、次第に南の八城を侵し奪い、阿古柏はついにみずから帕夏と称した。提督の業布沖額が師を率いてこれを討ち、敗績した。
  • 六月、潰えた兵が帰って烏魯木斉に至り、参将の索煥章がこれを脅して反し、漢城に拠り、陝回の阿渾(訳せば師長の意。底本はここに割注を始める丸括弧があって閉じ括弧が無い)である妥得璘を推して主とし、清真王と称した。煥章はみずから提督を刃にかけ、進んで満城を囲んでこれを陥れ、都統の平瑞は一門を挙げて死んだ。哈密・吐魯番・呼図壁・庫爾喀喇烏蘇があいついで失陥した。事が聞こえ、常清の職を褫い、明緒に伊犁将軍を授け、保恆を烏魯木斉都統に署せしめ、穆図善に命じて師を率いて関を出させた。
  • 同治四年(1865年)五月、粛州の回民が嘉峪関を占拠し、あわせて州城を陥れた。同治五年(1866年)正月、安集延が伊犁の九城を攻め落とした。塔爾巴哈台の回民がまた起こり、参賛の錫霖を戕し(「找」は「戕」の誤りか)、武隆阿らが城に拠って守った。西安将軍の庫克吉奉に命じて新疆北路に師を督させ、塔爾巴哈台参賛の徳興阿をこれに副とした。
  • 八月、総督の楊岳斌を罷め、宗棠をもってこれに代え、あわせて陝甘の軍を督させた。そのとき西捻の数万が秦中を騒がせ、陝回・甘回は数十起こり、衆は百万に至り、腹地を横行して、両省にはほとんど完き土が無かった。宗棠は議を上って、「陝西に兵を進めるには必ずまず関外を清めねばならず、甘粛に兵を進めるには必ずまず陝西を清めねばならず、蘭州に兵を駐めるには必ずまず各路を清めねばならない。しかるのちに餉路が常に通じ、師の行くのに梗ぐるものが無い」といった。また、まず捻を、のちに回を、と計を定めた。
  • 同治七年(1868年)、西捻がすでに平らげられるに及び、宗棠は七月に入覲した。西陲の帥りの期を問われ、五年で績を奏すると答えた。十月、西安に還り、三路をもって回を平らげる策を定めた。提督の劉松山に綏徳から花馬池を取り、まっすぐに金積堡の老巣を擣かせて北路とし、道員の周開錫に秦から鞏に趨き、鞏昌・河・狄の回を討たせて南路とし、みずからは署撫の劉典とともに諸軍を督して陝回をことごとく甘に駆り入れて中路とした。かくて回の巣数百を破った。十二月、松山は鎮靖堡から靖辺県までを収め撫し、土匪の董福祥の父の世有が降を乞い、まもなく福祥もまた降った。
  • 同治八年(1869年)二月、雷正綰は道員の黄鼎と会して董志原の老巣を攻め抜いた。四月、陝西が平らいだ。甘粛に兵を進め、諸路はあいついで戦っていずれも捷った。八月、松山は霊州を克った。同治九年(1870年)正月、金積堡の馬五寨を攻め、松山は陣没し、宗棠は松山の兄の子である錦棠をもって代わってその軍を統べさせた。東は呉忠から霊州まで、堡寨四百五十余、西は洪楽から峡口まで、堡寨百二十余を、ことごとく平らげた。十一月、金積堡を克ち、馬五・馬条を擒えた。ここにおいて回の酋長の馬化龍がみずから投じて撫を乞い、宗棠はその父の耀邦とあわせてこれを磔にせよと命じた。
  • 同治十年(1871年)三月、署将軍の金順と提督の張曜が寧夏を平らげた。同治十一年(1872年)二月に河州を収め、三月に循化の撒納の番人が誠を帰し、十一月に錦棠が西寧・大通を克ち、馬寿を俘えた。同治十二年(1873年)九月、宗棠は提督の徐占彪らの軍を督して粛州を攻め克ち、悍酋の馬文禄らを磔にし、関内は粛清したが、ただ白彦虎のみが関外に逸れ出た。捷が聞こえ、宗棠を大学士に擢き、なお総督の任に留め、烏魯木斉都統の景廉をもって新疆に軍を督させ、金順をこれに副とした。ここに至って景廉を召して京に来らせ、宗棠に命じてこれに代えさせ、なお金順を副とし、まもなく金順を烏魯木斉都統に任じた。

西暦1876年 光緒二年

  • 春正月、関を出る餉の需めが緊迫していたことにより、左宗棠が洋款一千万両を借りることを允した。これより先、東南の海防が急であるとして、関外の地を棄てることを議する者があったが、宗棠は力めて不可であると主張した。しかし軍食ははなはだ乏しく、各省の協餉は続かず、前後して洋商・民商から一千数百万両を借りるに至り、随時に協款をもって抽き償った。経営すること一年、士は飽き馬は騰り、諸軍はかくて次第に関を出た。
  • 秋七月、三品卿銜・西寧道の劉錦棠が烏魯木斉を収復し、新疆北路がほぼ定まった。督師の左宗棠は粛州に軍を駐め、諸軍が安西に至ったのちは道を分けて次々に進むよう令し(「今」は「令」の誤りか)、漢中鎮の譚上連を前鋒とし、寧夏鎮の譚抜萃がこれに継ぎ、陝安鎮の余虎恩がまたこれに継ぎ、みな錦棠の節度を聴かせた。四月、錦棠は嘉峪関を出、閏五月に巴里坤に次し、進んで古城に駐まった。そのとき回の酋長の馬人得は烏魯木斉に拠り、白彦虎は紅廟子に拠り、土回の馬明は古牧地に拠っていた。錦棠は、阜康が敵の衝に当たり、古牧を距てることわずか百里であるから、まずこれを拠るべきだとし、そこで軽騎で済木薩に赴き、金順と約して阜康城に屯を移させ、みずからは城の東の九営街に屯し、徐占彪を増し調えて巴里坤の防に接がせ、張曜の軍に哈密の屯を助けさせ、もって哈・吐の防を厚くした。彦虎はこれを聞き、紅廟から移って古牧に拠り、安集延は纏回を遣わしてこれを助けた。
  • 六月、錦棠は古牧を囲み、阿古柏は将の阿託愛を遣わして騎を率いて援に来らせたが、錦棠は余虎恩の馬隊に令してこれを撃ち敗り、歩軍を遣わして分かれて山塁・南関を攻めていずれも下し、阿託愛は馬を棄てて遁れた。錦棠はのちに開花砲をもって城を攻めてこれを克ち、守兵六千を殲した。趨って烏垣城の東に抵ると、安集延・土回・纏頭はみな夜に逸れ、かくて烏魯木斉迪化州およびその王城を収復した。王城は妥得璘が烏魯に拠ったときに築いたものである。錦棠は諸将を遣わして分かれて塩池まで追わせ、戈壁(ゴビ)に阻まれて返った。ここにおいて昌吉・呼図壁・瑪納斯北城の守兵はみな遁れ、阿古柏の遣わした援兵五千は達坂に至ったが、敗を聞いて敢えて進まなかった。新疆北路はみな平らぎ、ただ瑪納斯南城のみが下らなかった。
  • 九月、金順らが瑪納斯南城を攻め克った。北路がすでに清まり、宗棠は金順に檄して瑪納斯南城を攻めさせたが、久しく下らず、湘軍に助け剿するよう咨した。そのとき錦棠は烏桓(烏垣の誤りか)に軍を駐め、道員の羅長佑と総兵の譚抜萃・黄万鵬・董福祥ら十一営を遣わしてこれに赴かせた。ここに至って会して瑪納斯南城を攻めてこれを克ち、妥得璘の屍を掘ってこれを戮し、その元帥の海玉・馬受・馬有才らを俘え、あわせてその悍党を殲した。

西暦1877年 光緒三年

  • 春三月、劉錦棠・張曜らが達坂・吐魯番・託克遜の三城を攻め克った。これより先、阿古柏は託克遜に拠り、三城を築いてみずから衛り、託克遜は噶孫営であり、北は達坂を守って錦棠の烏垣を拒ぎ、南は吐魯番を守って張曜の哈密を拒いだ。白彦虎・于小虎は南山の小東溝に拠り、錦棠が小東溝に趨くと、彦虎らは期に先んじて金口峡に走り、錦棠はまたこれに追いつき、彦虎・小虎はあわせて託克遜に入った。瑪納斯南城がすでに克たれてのち、大雪が山を封じ、諸軍は嶺を踰えて南すことができなかった。阿古柏らはその暇に乗じて達坂の新城を両山の間に移し、大通哈の愛伊徳爾呼里をもってこれを守らせた。吐魯番にはもとより満・漢の両城があり、阿古柏の次子の海古拉はまた日々万夫を役して王府を造り、規模は雄大で広闊であった。前年の冬、阿古柏は彦虎と馬人得に吐魯番を守らせ、海古拉に託克遜を守らせ、愛伊徳爾呼里に達坂を守らせ、みずからは喀喇沙爾に居って中軍として策応した。
  • ここに至って氷が解け、錦棠は烏垣から達坂を攻め、張曜は哈密から西進し、まず提督の孫金彪を遣わして徐占彪と塩池に師を会し、吐魯番に趨かせた。錦棠が達坂に抵ると、城内は湖水を引いて城を衛り、泥の深さは馬の腹に及んだ。提督の余虎恩・陶生林、副将の夏辛酉らの馬隊は深い泥濘を掠め過ぎ、城の左の山岡に列なり、提督の譚上達(「譚上連」の誤りか)・譚和義・戴宏勝らの馬隊は城のうしろ(「復」は「後」の誤りか)の山あいに列なり、降将である総兵の崔偉らの馬隊がその綻びを縫うように承けた。敵はちょうど臥していて覚らなかった。夜が明けて霧が収まり、城中は望み見て大いに驚き、西洋の銃砲を発して下に撃ち、卯から午まで絶えなかったが、囲む師は傷つき亡ぶ者が少なく、屹立して動かなかった。錦棠は馬を策って城濠をあまねく覧、乗る馬が銃に中たって倒れ、馬を易えて前み、各営に令して塁を築き濠を掘ってこれを困しめさせ、また城の東に傍って砲台を築いた。敵の騎はかわるがわる進んで援に赴いたが、みな敗れた。総兵の侯名貴が開花砲三門を舁ぎ、砲台に置いて連環に轟撃すると、城中の人馬は砕け裂け、群れをなして門を奪って走ろうとしたが、諸軍がこれを遮って出ることができなかった。錦棠は人をして呼ばしめて「異なる装いの者を縛った者には賞がある」といった。ここにおいて大小の頭目は愛伊徳爾呼里以下、肝色提(胖色提の誤りか)六人、玉子巴什六人および管理・執事・什長の類まで、ことごとく麾下に致され、一人も脱れる者が無く、かくて達坂城を克った。
  • 進んで白楊河に駐まり、嵩武軍がすでに吐魯番に至ったと聞き、羅長佑を遣わして往って会し戦わせ、彦虎は遁れ去り、人得は嵩武軍に詣って降り、かくて吐魯番の満・漢の両城を収復した。錦棠は急ぎ百里を馳せて託克遜に抵り、海古拉もまた先に遁れ、纏回の二万余はみな降り、錦棠はかくて城に入った。ここにおいて託克遜の三城はみな下った。
  • 夏四月、阿古柏が自殺した。吐魯番の克った報せがあってから、南の八城は門戸が洞け開き、阿古柏は庫爾勒にあって日夜憂え泣き、なすところを知らなかった。白彦虎はますます人畜を掠め、村堡を焼き、纏回を脅して同じく奔らせ、纏回はみな怨んだ。阿古柏はまた纏回を遇することが苛酷で、達坂で釈されて帰った衆数千のうち、なかばより多くが阿古柏に戮され、残りはことごとく禁錮され、怨毒は人に中たること深く、人ごとにこれに報復しようと思った。阿古柏は人心がすでに去ったことを知り、かくて薬を飲んで死んだ。海古拉はその屍を水中に淹け、三日にしてはじめて出し、香の牛皮に裹んでこれを舁いで西に行き、まさに庫車に達しようとしたとき、伯克胡里が使いをやって半途にこれを遮り、海古拉を殺した。安集延が小帕夏と呼んでいた者である。
  • 阿古柏が託克遜に拠ってのち、群下は尊んで畢調勒特汗とした。子が四人あり、長子の哎哥はすなわち伯克胡里で、庫車の伯克に充てられたが愛される者ではなく、次子の哎都嚕股魯はすなわち海古拉で、阿古柏に寵があり、これを立てようとし、次子の引上胡里は阿克蘇の伯克に充てられ、次子の邁底胡里は吐魯番の伯克に充てられた。海古拉がすでに死に、伯克胡里は南境を保って王となり、その下は新帕夏と称した。庫爾勒の諸回は彦虎を推して守りとし、彦虎は開都河の西岸に駐まり、俄羅斯に入ることを覬った。
  • 秋九月、劉錦棠が新疆南路の東四城を復した。この年の七月、錦棠はまず提督の湯仁和らを遣わして託克遜から兵を進めさせ、総兵の董福祥・張俊らは阿哈布拉から沿途に哨塁を置き、張春発がこれに継ぎ、みずからは間道から趨り進んで、曲恵で師を会することを期した。八月、諸軍は曲恵に集まり、提督の余虎恩は庫爾勒の背に出、錦棠は開都河に趨いた。彦虎は河水を壅き、百余里に溢れさせてこれを遏めたが、錦棠は馬歩を率いて泥濘を繞り塩地を行き、迂回して開都河の東に達し、彦虎は期に先んじて庫車に走った。かくてこの月の朔に喀喇沙爾城を収復し、虎恩は庫爾勒城を収復した。錦棠は敵を躡んで庫車に至り、彦虎は遁れ、かくて庫車を復した。
  • 九月、拝城に至ると、回の目である買売提・託呼達らが出て降り、錦棠は総兵の方友升を留めて鎮め撫させ、みずからは氷を履んで夜行して銅廠に趨き、敵と遇った。敵は河岸に陣を列ねて拒ぎ戦い、錦棠はみずから鼓してこれを進ませ、敵の騎はみな靡き、積もる屍が河を塞ぎ、水はそのために流れなかった。また所部を促して流れを乱して渡らせ、上銅廠に至ると、敵は二路に分かれて迎え拒ぎ、錦棠もまた両翼を張ってこれを撃った。副将の夏辛酉、総兵の張宗本、提督の譚慎典が馬隊をもってその右を衝き、提督の席大成・戴宏勝・賀長発が歩隊をもってこれに継ぎ、提督の黄万鵬、総兵の崔偉・畢大才、副将の禹益長・禹中海・李金良、游撃の馬殿林が馬隊をもってその左を衝き、総兵の張俊・胡登花が歩隊をもってこれに継ぎ、みずからは馬隊の親兵を率いて中に居って調度した。戦うに及び、馬歩は力をあわせて挟み撃ち、敵の両路はみな潰え、擒え斬ることは数えきれなかった。かくて軍を引いて西に戈壁を渡り、馳せて阿克蘇に迫ると、城を守る回の目が回民十余万を率いて迎え降り、かくて阿克蘇を復した。安集延の各酋が葉爾羌に走り、彦虎が烏什に走ったことを偵り知ると、諸軍は烏什に趨いてこれを攻め克ち、かくて烏什を復した。彦虎は黒利黒斯に遁れ、阿他伯什まで追ったが、戈壁に阻まれて返った。この役では一月のうちに軍の行くこと三千余里、南疆の東四城を下し、兵威は大いに震い、遠方の人は慴れ服した。
  • 冬十一月、三品京卿の劉錦棠が南路の西四城を克復した。南路の東四城がすでに復され、阿古柏の長子である新帕夏の伯克胡里は喀什噶爾に拠り、なお西の三城を保っていた。和闐の伯克である呢牙斯図が正に反り、隙に乗じて葉爾羌を囲むと、伯克胡里は兵を引いてこれを撃ち敗り、かくて和闐に拠った。そして喀什噶爾の満・漢の兵弁で城を守る者が使いをやって錦棠の軍を迎え、安の酋長の阿里達什は回城を保って漢城を攻め、白彦虎に来て助けるよう約した。伯克胡里はそこで和闐を棄てて英吉沙爾に走り、あわせて回城に入った。この月、錦棠は三路に分けて軍を進め、余虎恩が黄万鵬および総兵の桂錫楨らの軍を督して喀城に逼ると、伯克胡里・阿里達什および彦虎は路を分けて俄羅斯に遁れ入り、かくて喀城を克ち、その元帥の王元林、副元帥の白彦龍を斬り、陝回の于小虎およびその元帥の馬元を生け捕った。まもなく錦棠は葉蘭羌(葉爾羌の誤りか)・英吉沙爾を収復し、董福祥もまた和闐を復し、ここにおいて南疆の西四城はみな下った。もと帕夏であった阿古柏の妻妾およびその子の引上胡里・邁底胡里ならびに二人の幼子・二人の女・三人の孫を俘え、これを誅した。于小虎・馬元および阿古柏を迎えて喀に入れた金相印父子は市に磔にし、悍党千百六十人を誅し、新疆はことごとく平らいだ。この役は一月に及ばずして続けて四城を復し、二千数百里を廓清した。捷が聞こえ、宗棠を二等侯に、錦棠を二等男に晋め、その余の諸将には差をつけて奨を給した。

西暦1878年 光緒四年

  • 冬十月、通政使の劉錦棠が安集延・布魯特を玉都巴什で大いに破った。安の酋長の阿里達什は俄の境から布の酋長の阿布都勒哈瑪を糾いて奈曼を出、喀什噶爾を襲おうと謀り、錦棠はみずから玉都巴什で撃ってこれを大いに破った。奈曼の回の目である庫弥什は伏を設けて阿里達什を殺して献じ、阿布都勒哈瑪は俄に属する那来の地方に走り投じた。

西暦1879年 光緒五年

  • 春正月、劉錦棠が布魯特・安集延を烏帕爾で大いに破った。阿布都勒哈瑪は俄に入ってのち、また俄の境に居留する安の酋長の愛克木汗条勒および阿希木汗条勒哎買提和卓を糾い、前年の十二月にふたたび内に犯すことを謀り、希布察克の各回部をことごとく脅して、阿古柏のために讐を復すると称した。この月すでに烏帕爾の近辺に至り、錦棠は警を聞いて四面から囲み剿する策を定め、方友升を遣わして烏帕爾に進ませ、譚慎典を玉都巴什に進ませ、張俊・胡登花・石蘊玉を烏魯阿提に進ませ、董福祥・張宗本には総兵の田九福・夏辛酉を督同させて無胡素魯克に進ませ、みずからは羅長佑らを率いて博斯塘特勒克に向かって速やかに進み、まっすぐ敵の巣を擣こうとした。至ってみると、敵の大隊はすでに烏帕爾に趨いて営を襲っており、提督の段柏渓・張復良・李雲照、参将の劉必勝、外委の何俊が三路に分かれて抄え撃ち、これを大いに破った。敵軍は博斯塘特勒克に折れ返り、錦棠は軍を督して谷口で迎え撃ち、湯彦和・張春発らは谷中に伏を設けた。戦うに及び、長佑が中を将い、友升が左を将い、楊金龍が右を将い、三路に分かれて敵陣に衝き入り、敵は敗れて支えきれず、二股に分かれた。一つは谷口に衝いて巣に帰ろうと冀ったが、伏が起こって大きい方の股はことごとく殲され、一つは谷の外から西に走り、長佑らが卡拉阿爾提まで追ったところ、愛克木汗条勒・阿布都勒哈瑪はすでに黒子里達坂を出て阿来の俄境に還っていた。烏魯陌提などの処にいた者は、諸軍のために擒え斬られて尽きた。この役を綜計すると、陣で阿希木汗条勒哎買提和卓・回の酋長の買売提および斯拉木の三人を斬り、また安の兵七百余り、布の兵千四百余りを斬り、胖色提十七人、玉子巴什六十余人を擒え斬り、生け捕りおよび奪い獲たものはなお数えきれなかった。捷の奏が京に入り、錦棠に上方の諸々の珍しい物を頒ち賜わり、その余には差をつけて優れた奨を与えた。
  • 夏五月、侍郎の崇厚に命じて俄羅斯に使いさせ、伊犁を収め還す事を議させた。はじめ、俄人は中国に事があるのに乗じ、前後して哈薩克(カザフ)・布魯特の種人を誘い脅して帰付させ、また浩罕の三部を攻め奪い、浩罕に属する安集延もまた風に随って靡いた。同治十年(1871年)五月に至り、俄人は伊犁の回変のときに俄の商人で害を被った者が多かったことを口実にし、その将軍の科哈夫士克をして兵をもって伊犁に拠らせた。光緒三年に中国が吐魯番を収復し、南路に兵を進めようとしたときに及び、侍郎の郭嵩燾が英吉利(イギリス)に使いしていたが、英人は安集延が俄人に併せられるか、あるいは中国に滅ぼされるかすれば、いずれも英に不利であろうと恐れ、その駐華使臣である威妥瑪はそこで安集延のために弁解し、扶持し保護して国を立てさせることを辞とした。事は左宗棠に下され、宗棠は疏を上ってその隠れた意図を暴き、「安集延は足を立てる所が無いわけではない。どうして英人が別に国を立ててやるのを待とうか。もし別に国を立ててやろうというなら、英の地を割いてこれに与えるか、あるいは印度(インド)を割いてこれに与えればよい。どうして我が肥えた地を索めて恩を示そうとするのか」といった。またいう、「英人は内心では印度のために屛障を一つ増やそうと図りながら、公然と我に回疆で屛障を一つ撤せよと強いている。これがどうして許せようか。我がますます弱きを示せば、彼はますます強きをほしいままにし、勢いはどこまで行き着くか分からない。臣は辺方に職を奉じており、ただ駑鈍を勉め尽くし(「勉及」は「勉竭」の誤りか)、目前の成敗利鈍を顧みずにこれを図るのみである。現在、南路の師は八月中旬と九月初旬に分けて発たせる予定である。さきに英人が安集延に使いを遣わすと聞き、臣はすでに劉錦棠・張曜に馳せ告げてよく接待させ、もし回の事に論が及べば、我は命を奉じて疆土を侵し占めた賊を討ち、我が旧き土地を復すのであって、他のことは聞かぬ、もし別の事を議論しようとするなら粛州の大営に向かえ、と告げさせた。彼らがもし営に来れば、臣にはおのずからこれを折る手立てがある」と。詔して奏のとおりに行わせた。
  • 東四城の克った報せがあるに及び、そのときの議は、伊犁は久しく俄に拠られており、にわかに復するのは難しかろうというもので、宗棠に詔して全局を統べ籌らせた。宗棠は覆奏しておおよそ称した、「新疆を重んじるのは蒙古を保つためであり、蒙古を保つのは京師を衛るためである。もし新疆が固からざれば蒙古は安からず、陝甘・山西の各辺がつねに侵され越されることを虞れて防ぎきれぬばかりでなく、直北の関山もまた安んじて眠る日が無くなるであろう(「妄眭」は「晏眠」の誤りか)。まして俄人は境を拓くこと日々に広く、西から東へ万余里、我が北境と相連なり、ただ中段に蒙古があって遮り隔てているのみである。薪を徙すのは遠くすべく、突を曲げるのは先にすべきで、なおさら予め網繆(「綢繆」の誤りか)しておかねばならない」と。またいう、「英人が安集延のために説くのは、俄がその地を蚕食するのは英に不利なところがあると慮ってのことである。俄はいま土耳其(トルコ)を争って英と相持しており、我が旧疆を収復するのは兵を義によって動かすのであるから、もし意外の争弁があっても、我において義に仗って言を執れば、決して撓み屈することは無い」と。疏の末にはまた力めて、地は棄てるべからず、兵は停めるべからず、速やかに肥えた疆を復するのでなければ手を着ける術が無い、といった。かくて西四城を進み規ってこれを克った。宗棠はさらに伊犁を収めようとしたが、俄人は代わって収め代わって守ったという名目でさまざまに要求してきた。ここに至って朝は崇厚に命じて俄に赴いて条約を議させた。
  • 冬十二月、崇厚を撤して帰国させ、免職して京に逮え、これを獄に下した。これより先、崇厚は使いを奉じて俄に至り、俄人の布策と新たな約十八条を訂め立てた。一、俄は伊犁を中国に交え還すことを願う。二、中国は伊犁を収め還したのち、明らかに諭旨を降して伊犁の民人の前の罪を赦し宥すことを願う。三、およそ伊犁の民人で俄の界に遷り入った者は、俄国はこれを己の民のように待遇する。四、俄国の民人が旧日に伊犁で得た家産は、なおその所有に帰す。五、伊犁をどのように帰還させるかは、中国は左宗棠らに諭し、俄国は考甫曼らに諭して、互いに商議するべきである。六、俄がすでに伊犁を帰還させたなら、中国は俄国に銀五百万ルーブルを給することを願い、約を立ててから一年内に次々に清く払う。七、伊犁がすでに中国に還ったなら、可西河の西および麗山の南の地から底克斯河に至るまでをことごとく俄に譲るべきである。八、相談して大城の交界をやや更め改める。九、交界がすでに二国の官吏によって勘定されたのちは、界竿を立てて信守を昭らかにするべきである。十、喀什噶爾および庫倫の両地はさきに立てた和約に照らして俄国が領事を立てているほか、いま議定して嘉峪関・科布多・哈密・吐魯番・烏魯木斉・庫車の各地にそれぞれさらに領事を設立する。十一、領事と中国の地方官とに互いに商議する事件があるときは、その文書のやりとりはことごとく平行の形式を用い、華の官は領事を客の礼で待遇する。十二、およそ蒙古・天山南路・天山北路などでの俄商の貨物の往来には、いずれも税を付する必要が無い。十三、およそ議して領事官を設けた地方にはあわせて通商局を一つ立て、あわせて張家口にも一律に設立する。十四、およそ俄商が貨物を販び運んで張家口・嘉峪関・天津・漢口などの処に至る者は、同州府・西安府・漢中府の各路を過ぎ(「遇」は「過」の誤りか)てよい。中国の貨物を俄国に運び入れるのも、またこの路によって行き来する。十五、この約は両国の御允を経てから五年内は更め改める必要が無い。十六、俄商はすでに低茶の税を別に立てることを願っており、この事は中国の総理衙門が核定するべきである。十七、さきに立てた約に照らし、およそ民人・牛が界を越えて奔り逸れることがあれば、すべて地方官が力を出して尋ね還す。もし本当に跡が無ければ、地方官が賠償するには及ばない。十八、この約が立ったのち、俄皇が署名してから一年内に、中国の皇上が御宝を蓋して俄の京に送る。
  • ここに至ってこれを咨して国に送り返すと、朝野は驚き駭いた。修撰の王仁堪、庶吉士の盛昱、洗馬の張之洞が代わるがわる章を上って論劾し、みなが「この挙は俄人に兵費の銀二百八十万両を償い、伊犁の西界数百里を割いて俄に与え、また南界数百里を割いて天山にまたがらせて南の八城を隔て、あわせて口岸を多くの処に開くもので、そのほかに権利を損失するものはさらに多い。俄人がこれを索めたのは至って貪り至って横であり、崇厚がこれを許したのは至って謬り至って愚である」といった。ここにおいて崇厚を撤して帰国させ、職を褫って逮え治め、廷臣と疆吏に万全の策を会議させた。崇厚はまもなく斬監候と定められた。

西暦1880年 光緒六年

  • 春正月、一等毅勇侯・太僕寺少卿の曾紀沢に命じて俄羅斯に使いさせ、伊犁を収め回す条約を商議して改めさせた。崇厚が俄と議した条約は、すでに中外の大小の臣工が会議したところ、多くの窒まり難きところがあり、紀沢に詔して英から俄に赴き、伊犁を収め還す条約をあらためて商議し改めさせた。
  • 秋七月、左宗棠を召して京に来らせ、劉錦棠に新疆の軍務を督弁させ、張曜に軍務を幫弁させ、楊昌濬に陝甘総督を護理させた。これより先、崇厚が俄と議した伊犁条約には不便なところが多かったため、詔を宗棠に下して議させ、宗棠は疏で陳べて、まず議論をもって委曲を尽くして機を用い、次いで戦をもってこれを決し(底本は「戰降」に作る。「降」は衍字か)、堅く忍んで勝ちを求めるべきだ、といった。摺を拝してのち、宗棠はただちに兵を分けて伊犁を進み取ることとし、精河一帯を東路として伊犁将軍の金順にこれを主らせ、阿克蘇から特克斯河に沿う路を中路として広東提督の張曜にこれを主らせ、烏什から布魯特を経る路を西路として幫弁軍務の劉錦棠にこれを主らせることを奏した。また譚上連の軍を分け遣わして喀什噶爾に屯させ、譚抜萃の軍を阿克蘇に屯させ、陶鼎金・王福田らの軍を哈密に屯させて後路の声援とした。四月、宗棠は粛州を発ち、棺を舁いで行った。五月、哈密に抵ると、俄人もまた兵を増して伊犁の納林河を守り、別に兵艦をもって海上を翔らせ、京師を震え撼かそうと冀り、ここにおいて天津・奉天・山東はみな警戒した。そこで宗棠を召して京に入れて顧問に備え、錦棠をもって代わって軍を督させ、張曜をこれに副とし、昌濬に総督を権らせた。
  • 曾国荃に命じて山海関の防務を督弁させた。そのとき俄人が八九月の間に兵船を調え撥けて華に来らせ、遼海を封じ閉ざして挟み制そうとしているという信せを聞いたので、この命があった。あわせて鮑超に命じて勇を募って(「幕」は「募」の誤りか)天津と山海関の両処の中ほどに当たる地に駐紮させた。
  • 崇厚を獄から釈すよう命じた。曾紀沢が「近ごろ外間の議論を聞くに、中国が崇厚を罪に問うたことは俄人の顔面にかかわり、誤解によって嫌疑が起こり、睦みの誼を妨げることがあるかもしれない」云々と奏したことにより、ただちに開き釈すよう諭令した。

西暦1881年 光緒七年

  • 春正月、曾紀沢が俄人と聖彼得堡(サンクトペテルブルク)で約を定めた。紀沢は俄に抵り、その外部大臣の格爾斯および前の駐華公使の布箂(「布策」の誤りか)と条約二十款・専条一つ、また陸路通商章程十七款・卡倫単一つを商議して訂め、あわせて前の約を改めたものは七端であった。一、伊犁の南境を帰還させる。二、喀什噶爾の界務は崇厚の定めた界によらない。三、塔爾巴哈台の界務は崇厚と明誼とが定めた両界の間に照らして酌み中して勘え定める。四、嘉峪関の通商は天津に倣って取り扱い、西安・漢中の両路および漢口の字句はいずれも削り去る。五、松花江を船で行って伯都訥に至る専条は廃し去る。六、領事の添設は吐魯番に一員を添え設けるにとどめ、その余は商務が興り旺んになったときにあらためて添設を議する。七、天山南北路の貿易の納税の事は、いずれも税を納めずとあるのを、しばらく税を納めずと改める。このほかにルーブル四百万円を添えて償った。奏が入り、旨を奉じて允准され、伊犁を収め還す事はかくて結ばれた。そのとき中外はそろって紀沢の能を称えたが、紀沢は深くみずから謙り抑えて奏して称した、「このたび俄人がすでに得た権利を軽々しく棄てたのは、まったく俄・土の戦後に財が尽き力が竭き、その君臣がまことに再び釁端を啓くことを欲しなかったことによる。それゆえに従容として商議し改め、和平に了結することができたのである。もし議する者が、俄のような強大な国でさえ、なお一介の使いを遣わしてすでに成った約を取り改めさせるのが難しくなかったとし、これを執って他の事にも例とし、中外の交渉にはもはや了え難い事は無い、と考えるならば、この言がひとたび出れば、将来かならずその弊を承ける者が出るであろう」と。
原文(底本)
德宗光緒元年,春三月,命大學士陝甘總督左宗棠督辦新疆軍務。初,同治元年六月,陝西回民滋事,圍攻省城,並擾同州、蒲城。命皖豫督師勝保移軍往討。十月,勝保覆軍,逮京賜自盡,以別州將軍多隆阿代之。至二年二月,甘肅回民攻陷固原、平涼、寧夏、靈州。五月,西寧花寺回民勾結撒納番人(即抱䍐𦍑人),攻撲丹噶爾城,戎、循一帶騷然。及多隆河提兵入陜,驅剿陜回幾盡,將移討甘回,以盩厔未破,親督軍攻下之。多隆阿受傷旋卒西安將軍都興阿繼起視師副以提督雷正綰五月正綰會提督陶茂林軍攻克平凉滇囘藍二順襲犯西安省城副都統穆圖善會同廵撫劉蓉等撲滅之時浩罕爲俄羅斯所滅其別部胖色提(譯言營官阿古柏收餘衆保安集延適布魯特酋思的克等滋擾新疆喀什噶爾南路回民金相印迎阿古柏出山攻陷喀城據之次第侵奪南八城阿古柏遂自稱帕夏譯言王也)提督業布沖額率師討之敗績六月潰兵歸至烏魯木齊參將索煥章脅之反據漢城推陜回阿渾(譯言師長妥得璘爲主稱淸眞王煥章手刃提督進圍滿城陷之都統平瑞闔門死哈密吐魯番呼圖壁庫爾喀喇烏蘇相繼失陷事聞褫常淸職授明緒伊犁將軍以保恆署烏魯木齊都統命穆圖善率師出關四年五月肅州回民佔據嘉峪關並陷州城五年正月安集延攻陷伊犁九城塔爾巴哈臺回民復起找參贊錫霖武隆阿等據城守命西安將軍庫克吉奉督師新疆北路塔爾巴哈臺參贊德興阿副之八月罷總督楊岳斌以宗棠代之並督陜甘軍時西捻數萬擾秦中陜囘甘回數十起衆至百萬横行腹地兩省幾無完土宗棠上議進兵陜西必先清關外進兵甘肅必先清陜西駐兵蘭州必先清各路然後餉路常通師行無梗又定計先捻後回及七年西捻旣平宗棠七月入覲詢西陲帥期對以五年奏績十月還西安定三路平回之策令提督劉松山由綏德取花馬池直擣金積堡老巢爲北路道員周開錫由秦趨鞏討鞏昌河狄之回爲南路而自與署撫劉典督諸軍盡驅陜回入甘爲中路遂破回巢數百十二月松山收撫鎮靖堡至靖邊縣土匪董福祥之父世有乞降旋福祥亦降八年二月雷正綰會道員黃鼎攻拔董志原老巢四月陜西平進兵甘肅諸路迭戰皆捷八月松山克靈州九年正月攻金積堡之馬五寨松山陣亡宗棠以其兄子錦棠代統其軍東自吳忠至靈州堡寨四百五十餘西自洪樂至峽口堡寨百二十餘盡平十一月克金積堡擒馬五馬條於是回酋馬化龍自投乞撫宗棠命並其父耀邦磔之十年三月署將軍金順提督張曜平寧夏十一年二月收河州三月循化撒納番人歸誠十一月錦棠克西寧大通俘馬壽十二年九月宗棠督提督徐占彪等軍攻克肅州磔悍酋馬文祿等關內肅淸惟白彥虎𨓜出關外捷聞擢宗棠大學士仍留總督任而以烏魯木齊都統景廉督軍新疆金順副之至是召景廉來京命宗棠代之仍副以金順旋任金順爲烏魯木齊都統

二年,春正月,因出關餉需緊迫允左宗棠借洋欵一千萬兩先是以東南海防爲急有議棄關外地者宗棠力持不可然軍食奇絀各省協餉不繼前後至借洋商民商一千數百萬兩隨時以協欵抽償經營一載士飽馬騰諸軍遂次第出關。 秋七月,三品卿銜西寧道劉錦棠收復烏魯木齊新疆北路略定督師左宗棠駐軍肅州今諸軍抵安西後分道遞進漢中鎮譚上連爲前鋒寧夏鎮譚拔萃繼之陜安鎮余虎恩又繼之皆聼錦棠節度四月錦棠出嘉峪關閏五月次巴里坤進駐古城時回酋馬人得據烏魯木齊白彥虎據紅廟子土回馬明據古牧地錦棠以阜康當敵衝距古牧才百里宜先據之乃輕騎赴濟木薩約金順移屯阜康城自屯城東之九營街增調徐占彪接防巴里坤張曜軍助屯哈密以厚哈吐之防彥虎聞之自紅廟移據古牧安集延遣𦆑回助之六月錦棠圍古牧阿古柏遣將阿託愛率騎來援錦棠令余虎恩馬隊擊敗之遣步軍分攻山壘南關皆下阿託愛棄馬遁錦棠後以開花礟攻城克之守兵六千殱焉趨抵烏垣城東安集延土回𦆑頭皆宵逸遂收復烏魯木齊廸化州及其王城王城妥得璘據烏魯時所築也錦棠遣諸將分追至鹽池阻戈壁而返於是昌吉呼圖壁瑪納斯北城守兵皆遁阿古柏所遣援兵五千至達坂聞敗不敢進新疆北路皆平惟瑪納斯南城未下。 九月,金順等攻克瑪納斯南城北路旣清宗棠檄金順攻瑪納斯南城久不下咨湘軍助剿時錦棠駐軍烏桓遣道員羅長佑與總兵譚拔萃黃萬鵬董福祥等十一營赴之至是會攻瑪納斯南城克之掘妥得璘屍戮之俘其元帥海玉馬受馬有才等並其悍黨殱焉

三年,春三月,劉錦棠張曜等攻克達坂吐魯番託克遜三城先是阿古柏據託克遜築三城自衛託克遜者噶孫營也北守達坂拒錦棠烏垣南守吐魯番拒張曜哈密白彥虎于小虎據南山小東溝錦棠趨小東溝彥虎等先期走金口峽錦棠復追及之彥虎小虎倂入託克遜瑪納斯南城旣克自後大雪封山諸軍不能踰嶺而南阿古柏等乘暇移達坂新城兩山閒以大通哈(譯言大總管)愛伊德爾呼里守之吐魯番故有滿漢兩城阿古柏次子海古拉又日役萬夫造王府規模雄濶上年冬阿古柏令彥虎與馬人得守吐魯番海古拉守託克遜愛伊德爾呼里守達坂自居喀喇沙爾爲中權策應至是氷解錦棠自烏垣攻達坂張曜自哈密西進先遣提督孫金彪與徐占彪會師鹽池趨吐魯番錦棠抵達坂城內引湖水衛城泥深及馬腹提督余虎恩陶生林副將夏辛酉等馬隊掠過深淖列城左山岡提督譚上達譚和義戴宏勝等馬隊列城復山阿降将總兵崔偉等馬隊承其彌縫敵人方臥未覺也天明霧收城中望見大驚發西洋槍礟下擊自卯至午不絕圍師少傷亡屹立不爲動錦棠策馬周覽城濠坐騎中鎗踣易馬而前令各營築壘掘濠以困之復傍城東築礟臺敵騎番進赴援皆敗總兵侯名貴舁開花礟三寘礟臺連環轟擊城中人馬碎裂羣奪門走諸軍遮之不得出錦棠使人呼曰縛異裝者有賞於是大小頭目自愛伊德爾呼里以下肝色提六人玉子巴什(譯言哨官)六人及管理執事什長之類悉致麾下無一脫者遂克達坂城進駐白楊河聞嵩武軍(張曜所部)已至吐魯番遣羅長佑往會戰彥虎遁去人得詣嵩武軍降遂收復吐魯番滿漢兩城錦棠急馳百里抵託克遜海古拉亦先遁𦆑回二萬餘皆降錦棠遂入城於是託克遜三城皆下。 夏四月,阿古柏自殺自吐魯番吿克南八城門户洞開阿古柏在庫爾勒日夜憂泣不知所爲白彥虎益掠人畜焚村堡脅𦆑回同奔𦆑回皆怨阿古柏又遇𦆑回虐達坂釋歸之衆數千強半爲阿古柏所戮餘悉禁錮之怨毒中人深人人思報復之阿古柏知人心已去遂飲藥死海古拉淹其屍水中三日始出裹香牛皮舁之西行將達庫車伯克胡里使使截之半途殺海古拉安集延所呼小帕夏也阿古柏據託克遜後羣下尊爲畢調勒特汗有子四人長哎哥卽伯克胡里充庫車伯克非所愛次哎都嚕股魯卽海古拉有寵於阿古柏欲立之次引上胡里充阿克蘇伯克次邁底胡里充吐魯番伯克海古拉旣死伯克胡里保南境而王其下稱新帕夏庫爾勒諸回推彥虎爲守彥虎駐開都河西岸覬入俄羅斯。 秋九月,劉錦棠復新疆南路東四城是年七月錦棠先遣提督湯仁和等自託克遜進兵總兵董福祥張俊等自阿哈布拉沿途置哨壘張春發繼之自由閒道趨進期會師曲惠八月諸軍集曲惠提督余虎恩出庫爾勒之背錦棠趨開都河彥虎壅河水溢百餘里以遏之錦棠率馬步繞淖行鹻地紆折達開都河東彥虎先期走庫車遂於是月朔收復喀喇沙爾城虎恩收復庫爾勒城錦棠躡敵至庫車彥虎遁遂復庫車九月至拜城回目買賣提託呼達等出降錦棠留總兵方友升鎮撫而自履氷夜行趨銅廠與敵遌敵列陣河岸拒戰錦棠親鼓之敵騎皆靡積屍塞河水爲之不流復促所部亂流而渡至上銅廠敵分兩路迎拒錦棠亦張兩翼擊之副將夏辛酉總兵張宗本提督譚愼典以馬隊衝其右提督席大成戴宏勝賀長發以步隊繼之提督黃萬鵬總兵崔偉畢大才副將禹益長禹中海李金良游擊馬殿林以馬隊衝其左總兵張俊胡登花以步隊繼之而自率馬隊親兵居中調度及戰馬步倂力夾擊敵兩路皆潰擒斬無算遂引軍西渡戈壁馳薄阿克蘇守城回目率回民十餘萬迎降遂復阿克蘇旣偵知安集延各酋走葉爾羌彥虎走烏什諸軍趨烏什攻克之遂復烏什彥虎遁黑利黑斯(厄魯特種)追至阿他伯什阻戈壁而返是役一月中軍行三千餘里下南疆東四城兵威大震遠人慴服。 冬十一月,三品京卿劉錦棠克復南路西四城南路東四城旣復阿古柏長子新帕夏伯克胡里據喀什噶爾猶保西三城而和闐伯克呢牙斯圖反正乘𨻶圍葉爾羌伯克胡里引兵擊敗之遂據和闐而喀什噶爾滿漢兵弁守城者使使迓錦棠軍安酋阿里達什保回城以攻漢城約白彥虎來助伯克胡里乃棄和闐走英吉沙爾倂入回城是月錦棠分三路進軍余虎恩督黃萬鵬及總兵桂錫楨等軍逼喀城伯克胡里阿里達什及彥虎分路遁入俄羅斯遂克喀城斬其元帥王元林副元帥白彥龍生擒陜回于小虎及其元帥馬元旋錦棠收復葉蘭羌英吉沙爾董福祥亦復和闐於是南疆西四城皆下俘故帕夏阿古柏妻妾及其子引上胡里邁底胡里並兩少子二女三孫誅之于小虎馬元及迎阿古柏入喀之金相印父子磔於巿誅悍黨千百六十人新疆悉平是役不及一月連復四城廓淸二千數百里捷聞晉宗棠二等侯錦棠二等男其餘諸將給獎有差

四年,冬十月,通政使劉錦棠大破安集延布魯特於玉都巴什安酋阿里達什自俄境糾布酋阿布都勒哈瑪出奈曼謀襲喀什噶爾錦棠親擊於玉都巴什大破之奈曼回目庫彌什設伏殺阿里達什以獻阿布都勒哈瑪走投俄屬那來地方

五年,春正月,劉錦棠大破布魯特安集延於烏帕爾阿布都勒哈瑪入俄後復紏居留俄境之安酋愛克木汗條勒及阿希木汗條勒哎買提和卓(二人兄弟爲張格爾弟玉素普之孫)於上年十二月再謀內犯盡脅希布察克各回部稱爲阿古柏復仇是月已至烏帕爾近邊錦棠聞警定四面兜剿之策遣方友升進烏帕爾譚愼典進玉都巴什張俊胡登花石蘊玉進烏魯阿提董福祥張宗本督同總兵田九福夏辛酉進無胡素魯克而自率羅長佑等向博斯塘特勒克遄進徑擣敵巢比至敵大隊已趨烏帕爾襲營提督段柏溪張復良李雲照參將劉必勝外委何俊分三路抄擊大破之敵軍折回博斯塘特勒克錦棠督軍迎擊谷口湯彥和張春發等設伏谷中及戰長佑將中友升將左楊金龍將右分三路衝入敵陣敵敗不支分爲二股一衝谷口冀歸巢伏起大股盡殱一由谷外西走長佑等追至卡拉阿爾提愛克木汗條勒阿布都勒哈瑪已出黑子里達坂還阿來俄境矣其在烏魯陌提等處者爲諸軍擒斬淨盡綜計是役陣斬阿希木汗條勒哎買提和卓回酋買賣提及斯拉木三人又安兵七百有奇布兵千四百有奇擒斬胖色提十有七玉子巴什六十有奇生俘及奪獲猶無數捷奏入京頒賜錦棠上方諸珍物餘優獎有差。 夏五月,命侍郎崇厚出使俄羅斯與議收還伊犁事初俄人乘中國有事先後誘脅哈薩克布魯特種人歸附又攻奪浩罕三部而浩罕屬安集延亦隨風而靡至同治十年五月俄人藉口於伊犁回變時俄商被害者衆使其將軍科哈夫士克以兵據伊犁及光緒三年中國收復吐魯番擬進兵南路時侍郎郭嵩燾出使英吉利英人恐安集延爲俄人所倂或爲中國所滅皆將不利於英其駐華使臣威妥瑪因爲安集延緩頰以扶持保護立國爲辭事下左宗棠宗棠上疏爲揭破其隱謂安集延非無立足之所何待英人別爲立國卽欲別爲立國則割英地與之或卽割印度與之可也何乃索我腴地以示恩且言英人陰圖爲印度增一屛障公然強我於回疆撤一屛障此何可許我愈示弱彼愈逞強勢將伊於胡底臣奉職邊方惟有勉及駑鈍不顧目前成敗利鈍圖之現在南路之師擬於八月中旬九月初旬分起進發前聞英人遣使安集延臣已馳吿劉錦棠張曜善爲接待如論及回事則以我奉命討侵佔疆土之賊以復我舊土地他非所聞如欲議論別事請向肅州大營彼如來營臣自有以折之詔如所奏行迨東四城吿克時議以伊犁久爲俄據恐難遽復詔宗棠統籌全局宗棠覆奏略稱重新疆所以保蒙古保蒙古所以衛京師若新疆不固則蒙古不安匪特陜甘山西各邊時虞侵軼防不勝防卽直北關山亦將無妄眭之日況俄人拓境日廣由西而東萬餘里與我北境相連僅中段有蒙古爲之遮閡徙薪宜遠曲突宜先尤不可不預爲網繆又言英人爲安集延說者慮俄之蠶食其地於英有所不利俄方爭土耳其與英相持我收復舊疆兵以義動設有意外爭辯在我仗義執言亦決無所撓屈疏末復力言地不可棄兵不可停非速復腴疆無從著手遂進規西四城並克之宗棠欲更收伊犁而俄人以代收代守之名爲種種要索至是朝命崇厚赴俄與議條約。 冬十二月,撤崇厚歸國革職逮京下之獄先是崇厚奉使至俄與俄人布策訂立新約十八條一俄願將伊犁交還中國二中國收還伊犁後願明降諭旨赦宥伊犁民人前罪三凡伊犁民人遷入俄界者俄國待之如己民四俄國民人舊日在伊犁所得之家產仍歸其有五伊犁作何歸還應由中國諭左宗棠等俄國諭考甫曼等互商六俄旣歸還伊犁中國願給俄國銀五百萬盧布從立約後一年內陸續淸付七伊犁旣還中國當以可西河之西及麗山之南之地以至於底克斯河盡讓與俄八相議將大城交界稍爲更改九交界旣由二國官員勘定後應立界竿以昭信守十除喀什噶爾及庫倫兩地已照先立和約俄國立有領事外今議定在嘉峪關科布多哈密吐魯番烏魯木齊庫車各地各再設立領事十一領事與中國地方官有互商事件其文移悉用平行華官待領事以客禮十二凡蒙古天山南路天山北路等俄啇貨物往來俱不必付税十三凡所議設有領事官之地方並立一通商局並在張家口一律設立十四凡俄商販運貨物至張家口嘉峪關天津漢口等處者可遇同州府西安府漢中府各路其将中國貨物運入俄國亦由此路行走十五此約自從兩國御允後五年內不必更改十六俄商已願另立低茶之税此事當由中國總理衙門核定十七按照先立之約凡有民人牛隻奔逸過界總由地方官出力尋還若實在無蹤亦不必由地方官賠償十八此約旣立經俄皇簽名後一年內由中國皇上蓋用御寶送至俄京至是咨送回國朝野駭然修撰王仁堪庶吉士盛昱洗馬張之洞交章論劾僉謂此舉償俄人兵費銀二百八十萬兩割伊犁西界數百里與俄又割南界數百里跨天山以隔南八城並開口岸多處其他損失權利者尤多在俄人索之可謂至貪至横而崇厚許之可謂至謬至愚於是撤崇厚回國褫職逮治而令廷臣疆吏會議萬全之策崇厚旋定爲斬監候

六年,春正月,命一等毅勇侯太僕寺少卿曾紀澤出使俄羅斯商改收回伊犁條約崇厚與俄所議條約旣經中外大小臣工會議諸多窒礙難行詔紀澤自英赴俄將收還伊犁條約再行商改。 秋七月,召左宗棠來京以劉錦棠督辦新疆軍務張曜幫辦軍務楊昌濬護理陜甘總督先是以崇厚與俄所議伊犁條約中多所不便詔下宗棠議宗棠疏陳當先之以議論委婉而用機次決之以戰降堅忍而求勝拜摺後宗棠卽分兵進取伊犁奏以精河一帶爲東路伊犁將軍金順主之自阿克蘇沿特克斯河爲中路廣東提督張曜主之自烏什經布魯特爲西路幫辦軍務劉錦棠主之復分遣譚上連軍屯喀什噶爾譚拔萃軍屯阿克蘇陶鼎金王福田等軍屯哈宻爲後路聲援四月宗棠發肅州舁櫬以行五月抵哈密俄人亦增兵守伊犁納林河別以兵艦翔海上冀震撼京師於是天津奉天山東皆警乃召宗棠入京備顧問以錦棠代督軍張曜副之昌濬權總督 命曾國荃督辦山海關防務時聞俄人將於八九月閒調撥兵船來華封閉遼海以爲挾制之信故有是命並命鮑超幕勇駐紮天津山海關兩處適中之地 命釋崇厚於獄因曾紀澤奏近聞外閒議論以中國將崇厚問罪有關俄人顏面恐因誤會而起嫌疑未免有妨睦誼云云諭令卽行開釋

七年,春正月,曾紀澤與俄人定約於聖彼得堡紀澤抵俄與其外部大臣格爾斯及前駐華公使布箂啇訂條約二十欵專條一又陸路通商章程十七欵卡倫單一成計改前約者七端一歸還伊犁南境二喀什噶爾界務不據崇厚所定之界三塔爾巴哈臺界務照崇厚明誼(同治三年事)所定兩界之閒酌中勘定四嘉峪關通商仿照天津辦理西安漢中兩路及漢口字樣均刪去五松花江行船至伯都訥專條廢去六添設領事僅於吐魯番添設一員餘俟啇務興旺時再議添設七天山南北路貿易納税事改均不納税爲暫不納税此外添償盧布四百萬圓奏入奉旨允准收還伊犁事遂結時中外交稱紀澤之能而紀澤深自謙抑奏稱此次俄人輕棄已得之權利全由俄土戰後財殫力竭其君臣雅不欲再啟釁端故得從容商改和平了結若議者以爲俄強大之國尙不難遣一介之使取已成之約而更改之執此以例其餘則中外交涉更無難了之事斯言一出將來必有承其弊者

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