清史紀事本末光緒帝の入継(光緒入継)

要約

光緒元年正月、帝は太和殿で即位した。醇親王奕譞の子で宣宗の孫、四歳のとき穆宗が崩じ、慈禧太后は幼少を立てて朝政を専断しようと、その日のうちに宮中へ入れ、懿旨で文宗顕皇帝の子として大統を承けさせた。穆宗のために嗣を立てぬのは本朝に無い奇局で中外の不平は囂しく、内閣侍読学士広安が宋の太宗の例を引き鉄券を立てられたいと上疏して申飭された。

二月、嘉順皇后阿魯特氏が崩じた。尚書崇綺の娘で、慧妃のことで太后の歓心を失い、帝が立つと以前の詔と符合しないと慟哭したので、太后は后の頬を打ち、わが子を害しておきながらなお皇太后になろうとするかと言った。后が食を絶ち内侍が奏聞すると、大行皇帝に随って去ればよいと言った。年二十二、諡して孝哲。この年、京師の大旱と決壊があり、文祥が卒し、翁同龢・夏同善が帝に読書を授けた。二年は直隷の大旱、福建の颶風、両宮への徽号加上。

三年二月、余杭の葛品連の死の一件で迴護したとして浙江巡撫楊昌濬と学政侍郎胡瑞潤を革職した。品連は病死だが、県令劉錫彤は反目する楊乃武が品連の妻畢氏と姦通し畢氏が鴆殺したと誣告し、厳刑で二人を服罪させた。浙江の人々が都察院に訴え、刑部が棺を検べると毒は無く、乃武と畢氏は釈放、審理官は革職・降調、県令は黒龍江に戍られた。五月、山西・河南の大旱に御史温忠翰が飢民の惨状を奏した。十月、沈桂芬がスペイン使臣とキューバ華工条款十六条を訂約した。

五年閏三月、吏部主事呉可読が薊州三義廟で自殺し、遺書で将来の大統の帰するところを定める懿旨を請うた。降調で言事できず、穆宗の奉安ののち陵寝のかたわらで尸諫に託した。王大臣らは継統が建儲に関わるとして議に加わらず、懿旨は大統を継ぐ者を穆宗毅皇帝の嗣子とすると下した。四月、丁宝楨の請いで四川の塩務を官運商銷に改めた。恩承・童華は弊少なく利多しと争奏したが、朝廷は宝楨に浮言に動かされるなと諭すにとどめた。六月、東郷県署理孫定揚が正税一両に五百文を加え、騒いだ民を叛逆と誣告して兵を請い、提督李有恒らが寨民数百人を妄殺したので、ともに斬監候とした。侍講王先謙が言路の流弊を奏して嘉納され、雷同付和を戒める諭に朝議は騒然となった。十月、越南に拠った李揚才が擒えられた。

六年八月、李鴻章の請いで陸路に電線を設けた。七年三月、慈安太后が崩じた。垂簾後は用人行政の権を慈禧太后に譲ったが、安得海の一件だけは堅く持して丁宝楨に現地で処刑させ、嫌隙が積もって晩年は韜晦した。年四十五、諡して孝貞。十一月、革職された提督李世忠を殺した。もと捻匪の渠魁で咸豊八年に天長で降り、勝保がその衆一万七千を豫勝営として滁州を守らせ塩で給し巨富をなした。安徽巡撫裕禄は富を羨んで交わり数十万を負ったが、面責を憤り、貢生を殴辱した件で罵られると斬った。八年、侍読温紹棠が朝に臨まぬ太后に勤政を懇願して申飭された。

九年正月、礼部右侍郎宝廷を革職した。敢言だが退く志を萌し、帰る舟で汪氏を買って妾としたと自ら弾劾した。二月、河南鎮平県の盗案が結了した。狡吏胡体安が張肯堂の家を劫掠し、孌童王樹文を身代わりに立て、県令馬翥は草々に案を定めた。臨刑の叫冤と父季福の対質で身元が知れたが、任愷は咎を恐れ、巡撫李鶴年は樹文に把風接賊の律を当てた。潘祖蔭が部に取り寄せ趙舒翹が実を得、祖蔭の変心にも争い、張亨嘉の陳述で案は正され、樹文は釈放、馬翥らは極辺に戍られ、鶴年以下は降調、体安は無事であった。張佩綸は判決の末尾に、大吏が人命を草菅とするより疆臣が朝廷を軽んずる兆しを開く患いこそ深いと書いた。五月、雲南報銷の案が結了し、周瑞清らは軍台に発遣、景廉・王文韶らは罰俸となった。十一月、御史劉恩溥が、宗室の載泰が賭博で旗民を殴り殺し屍が久しくさらされていると奏して埋葬を請い、譴責もなく摺は公布された。

十年、緊要な事件は軍機処が奕譞と会同して処理し、奕劻に総理各国事務衙門を管理させた。十月、劉錦棠が、新疆と甘粛は唇歯で分てば二十余州県が孤立するとして烏魯木斉を省治とするよう奏したので、甘粛新疆巡撫を新設し烏魯木斉都統を廃した。十一年、左宗棠が卒し、福建巡撫を台湾巡撫と改めた。十二年二月、太后が帝を率いて東陵に詣で、跪拝を要する礼節の書付を見て怒り地に投げたが、礼部尚書延煦が門外に跪いて顕皇帝在世の儀注によるべきだと争い、やむなく可とした。八月、御史朱一新が、李蓮英が奕譞の北洋巡閲に随ったのは唐の監軍の轍だと奏し、太后は怒って主事に降した。十三年八月、鄭州下汛十堡で黄河南岸が決壊し、水を被る者十五州県、賑済を待つ者百九十万人。十月、奕劻・孫毓汶がポルトガル使臣ロシャと中葡条約五十四款・専款三条を定めた。

十四年、頤和園の工事が竣工したが、十二月に貞度門の失火が太和門に延焼したので工事を停めさせた。十五年正月、赫葉那拉氏を后、他他拉氏を瑾嬪・珍嬪とした。二月、帝が親政したが、名ばかりで主権はなく、用人行政は太后が主持した。呉大澂が醇親王尊崇の典礼を議するよう請うたので、奕譞が光緒元年に佞人の治平・嘉靖の説を慮って具えた原奏を宣示し、邪説を杜いだ。頤和園には仏香閣や石舫、昆明湖に小汽船、園外に電気室を置き、太后は日夕芝居を聴き、写真を撮って観音に扮した。八月、天壇の祈年殿が落雷で焼けた。

十六年十一月、帝の本生父奕譞が薨じ、皇帝本生考と称し賢と諡し、載灃が王爵を承襲した。九月には呉兆泰の頤和園工事停止の請いが厳譴された。十七年、建寧府の蔣斯岱の訴えで梁玉瑜の贈賄が覆奏され、病死した王済光に全案を負わせ、玉瑜と沈茂勝は流罪、確証ある劉麒祥は罪を逃れた。同年、熱河の金丹道の楊悦春らが朝陽など諸州県を陥れたが剿平された。十八年、閻敬銘が卒した。三海の興修に款項を与えず眷顧を失い、遺疏も意に忤らって太子少保を賜るのみ、諡も張蔭桓の力説でようやく許された。

二十年十月、瑾貴妃・珍貴妃をともに貴人に降した。二妃の師文廷式が大考一等に抜擢されると、太后は帝が二妃ゆえに進めたと疑い、浮華を習うとして妃号を革め、廷杖を加え、兄志鋭を謫した。この年、日本と戦端が開かれ、各省に商人からの借款を命じ、太后六十の万寿は敗報と諫争で飾り立てを取りやめた。十二月、御史安維峻が李鴻章を参劾し、皇太后が政を返したのに皇上がなお牽制されては祖宗と天下に申しひらきができぬ、李蓮英が政事に干与するのは何事かと言い、革職・張家口流刑となり、大刀王五が護衛して費用を出した。

二十一年十月、汪鳴鑾・長麟を革職した。長麟は召対で、太后は穆宗には生母だが皇上には先帝の遺した妾にすぎぬと言い、鳴鑾も同じくしたので、離間に近いとして永く任用しないとされた。二十二年、強学書局の封禁ののち官書局を京師に設けた。五月、帝の生母の醇親王福晋赫葉那拉氏が薨じた。同年、太監寇連材を殺した。太后が政権を専らにし、廃立の志を蓄え、帝に博打や阿片を迫るのを憂えて跪いて諫めたが、狂人として叱り去られた。弟に授けた記録には、太后の驕奢逸楽と帝の孤独、半ば腐った御膳、叱責と鞭打ちに雷の音にも顔色を変える帝、甲午六月に帝が頤和園の工事を停め軍費に充てよと請い太后が怒って十余か月口をきかなかったとあった。のち十条の摺を上り、太后が政権を握られぬよう、円明園を修めて帝を幽閉されぬよう請い、死を懼れるなら摺は上げぬと答えて義に就いた。宋育仁は哭して官を棄てた。翌日、楊崇伊の弾劾で文廷式が革職された。

二十三年三月、貝勒載澍が太后の旨に忤らい、革爵のうえ八十板を打たれ永く監禁された。穆宗の病革まるとき遺詔で大統を継がせようとしたので太后は深く憎み、妻が妾の子を殺して詰責され訴えると、母に不孝として厳譴した。二十四年正月、厳修の請いで経済特科を設けて内政・外交・理財・経武・格物・考工の六事を課し、昭信股票を頒布し、京師大学堂を開き、武科を銃砲の試験に改めた。三月、剛毅の請いで諸局を廃し保甲を整頓した。四月、恭親王奕訢が卒して太廟に配享し、各省の書院を学堂に改めさせた。

年表

穆宗の崩御に際し、慈禧太后が四歳の醇親王奕譞の子を文宗の継嗣として立てた入継の一件と、その後の光緒朝前半の政事を年次に追って記す。光緒元年(1875年)の即位と嘉順皇后阿魯特氏の死に始まり、広安の上疏や光緒五年(1879年)の呉可読の尸諫など、穆宗のために嗣を立てなかったことへの異議が続いた。楊乃武の冤獄・東郷県の濫殺・雲南報銷・王樹文の盗案といった獄案、丁宝楨の塩務改革や新疆の建省、頤和園の造営と李蓮英の専横、光緒十五年(1889年)の親政後も実権が太后にあった実情を記す。日清の戦事のさなかに珍妃・瑾妃が貴人に降され、安維峻・寇連材・文廷式らが罰せられ、光緒二十四年(1898年)の経済特科・京師大学堂の設置までを扱う。

年表(24件)

現代語訳全文

西暦1875年 徳宗光緒元年

  • 春正月、帝は太和殿で即位の礼を行った。帝は醇親王奕譞の子であり、宣宗成皇帝の孫である。生まれてわずかに四歳のとき、たまたま穆宗が崩じ、慈禧太后は幼少の者を立てるのが有利だとして、朝政を専断しようとした。その日のうちに宮中に取り入れ、懿旨をもって、文宗顕皇帝を承継してその子とし、大統を承けて嗣皇帝とすることを命じた。
  • このとき穆宗のために嗣を立てなかったことは、実に本朝にこれまで無かった奇妙な局面を開くものであり、中外にやかましく不平の言があった。
  • 五日前、内閣侍読学士の広安が上疏して諫めた。その大略にいう。「大行皇帝は幼い齢で帝位に即かれ、両宮の垂簾による励治を蒙ること十三年、天下は安定いたしました。ところが思いもよらず皇嗣がまだ挙がらぬうちに、一朝にして龍馭上賓(崩御)となり、幸いにも両宮が後継を択ばれ、いずれも皇上をもって文宗顕皇帝を承継してその子とされたのは宜しきを得ております。嗣皇帝に子が生まれるのを俟って、そのまま大行皇帝を承継して嗣とする。万全の計として、これに過ぎるものはございません。ただ、かつて宋史を読んで、ひそかに感ずるところがございました。昔、太祖は母后の命に遵って、弟に伝えて子に伝えませんでした。その後、太宗はたまたま趙普の言によって、子に伝えてついに甥には伝えませんでした。これは母后の成命を廃したもので、そこから無窮の斥駁(非難と反論)が起こりました。もしあの日、后が詔命をもって鉄券に鋳込んでおられたなら、趙普がどうして一言でこれを離間できましょうか。わが皇上に将来聖子が生まれれば、当然必ず大行皇帝を承継して嗣とするはずですが、ただ事が久しくなり年が埋もれて、あるいは趙普の言を引用する者が出ることを恐れます。どうか別に鉄券を立てて、万世にわたる良謨(すぐれた謀)とされますよう。」
  • 疏が奏上されると、懿旨を奉じて申飭(叱責)を受けた。
  • ここに至って、帝は太和殿で即位し、詔して天下に赦を下した。
  • 二月、嘉順皇后阿魯特氏が崩じた。后は尚書の崇綺の娘で、端荘にして謹み深く寡黙であり、動くときは必ず礼によった。同治十一年、中宮に正位した。のち、慧妃のことが原因で、ついに慈禧太后の歓心を失った。穆宗の病が篤かったとき、慈禧太后は訓戒と賜与を至れり尽くせりに行ったが、穆宗が崩じて帝が立つに及び、后は以前に草された詔と符合しないことから、激しく悲しみ慟哭した。
  • 慈禧太后はさらに后を召し出して、そのままその頬を打ち(底本は「遂批,其類」に作る。「遂批其頰」の誤りか)、こう言った。「おまえはすでにわが子を害し殺しておきながら、なお皇太后になろうと思うのか。」后は跪いて泣きやまなかった。久しくして、ようやく宮に還り、身をもって殉ずることを誓い、そのまま食を絶ち、朝夕に悲しみ啼いて、目はすっかり腫れあがった。
  • この日、一人の内侍がその様子を見て奏聞すると、慈禧太后は言った。「皇后がこれほど悲しみ慟くのならば、そのまま大行皇帝に随って去ればよい。」内侍が退出していくらも時が移らぬうちに、后は崩じた。穆宗の喪からまだ百日に満たず、年はわずかに二十二、諡して「孝哲」といった。
  • 三月、戊戌朔、日食があった。
  • 夏四月、京師に大旱があった。
  • 五月、工部の門神庫が失火した。
  • 刑部の科房が失火した。
  • 大学士の文祥が卒し、「文忠」の諡を与えられた。
  • 六月、広東の闈姓の賭博を厳禁した。
  • 匪賊の討伐が不利であったため、吉林将軍の奕榕の職を革め、軍台に発遣した。
  • 盛京将軍の崇実が大東溝・沙河子の巨匪である宋之好らの巣窟を平らげ焼き払い、首謀者を擒えて斬ったので、旨を奉じて奨励された。
  • 秋七月、永定・河南の二工で堤が決壊した。
  • 九月、越南の匪徒である黄崇英らが事を起こし、広西は兵を派して境を出て会剿し、崇英を生け捕りにした。
  • 冬十月、懿旨により、侍郎の翁同龢・夏同善に命じて帝の読書を授けさせ、あわせて醇親王奕譞に命じて手厚く世話をさせた。
  • 盛京将軍の一職に命じて、兵部・刑部の両部を管理させ、あわせて奉天府府尹を兼管させ、各省総督の体例に照らして官銜を加えた。
  • 台北府知府などの職を新たに設けた。

西暦1876年 光緒二年

  • 夏六月、直隷に大旱があった。
  • 福建の海沿いで颶風が大いに起こり、延平府の管下に大水があり、省城で大火があった。
  • 広東の少北(「省北」の誤りか)に大水があった。
  • 秋七月、両宮太后に徽号を加え上った。
  • 江蘇など諸省に、邪教が紙人を用いて辮髪を切るという事があり、地方官に命じて調べ捕らえ厳しく処断させた。

西暦1877年 光緒三年

  • 春二月、余杭の民人である葛蓮(「葛品連」の誤りか)が死んだ一件を訊問処理するにあたり、初めから迴護(かばい隠すこと)に従ったとして、浙江巡撫の楊昌濬、学政侍郎の胡瑞潤の職を革めた。
  • 品蓮(「品連」の誤りか)は実は病死であった。県令の劉錫彤は武挙人の楊乃武と反目していた。そして、乃武が品蓮の妻の畢氏と姦通しており、品蓮は畢氏に鴆殺されたのだと誣告した。そこで乃武と畢氏を役所に引き立て(底本は「遽」に作る。「逮」の誤りか)、厳刑をもって脅し、五毒の責め具をすべて加えたところ、痛苦に堪えきれず、みな罪に服した。
  • 浙江の人々は大いに騒ぎ立て、言葉を合わせて都察院に訴え、県令が善良な民を陥れたのであり、呂蓮(「品連」の誤りか)は実は毒殺されたのではないと主張した。
  • 事は下され、瑞瀾(前に「胡瑞潤」とある者と同じか)が再審したが、なお元の判決のとおりに上申した。浙江出身の京官はますます憤り、重ねて疏して争い、詔して刑部に取り寄せて訊問させた。
  • 刑部に到ってから、棺を開いて蒸し検べたところ、果たして毒は無かった。案が結して、乃武と畢氏はどちらも釈放され、巡撫・学使・臬司および歴次に審理を担当した道・府・州・県はみな免職・降調にそれぞれ差があり、県令は黒龍江に発遣して永く戍らせた。
  • 夏五月、山西・河南に大旱があった。御史の温忠翰が上奏し、そのなかに「人情は洶洶として、朝に夕を保ち難く、子女は道行く人に売られ、掠奪は同じ里の者にさえ及びます。飢えを訴えて啼く者は遠く数郡に連なり、食を求める者は動もすれば千人が集まります。かまどの煙の立つ戸は少なく、農民はつねに生業を失っております……」という語があった。
  • 六月、広東の省北に大水があり、連州の住民で溺死した者は一万余であった。江蘇・安徽に蝗の害があり、福建・湖南・広西もまた水害に遭い、陝西もまた旱に苦しみ、山東・河南および畿輔にはあわせて蝗と蝗の幼虫が出た。江蘇・浙江の地方では大風があり、江蘇では地震があった。
  • 秋七月、張家口の兵防の土壩が水に流し崩された。
  • 九月、翰林院侍講の張偑綸(「張佩綸」の誤りか)が別紙にして上奏した。「風聞では、紫禁城の東の河沿いで内監が雑多に伶人を引き入れて諸々の戯を演じさせ、また内務造辦処(「内務府造辦処」の誤りか)の院中では場を設けて博打を集めるなどの事があるとのことです。どうか厳禁を命じてください。」奏は聞き置かれた。
  • 冬十月、大学士の沈桂芬が日斯巴尼亜(スペイン)国の使臣イバリと議して、キューバ華工条款十六条を訂約し、成った。
  • 三姓の地方で風と雹があり、田地や家屋が水に浸かり、旗人・民人の傷つき死ぬ者がはなはだ多かった。

西暦1878年 光緒四年

  • 春正月、乙丑望、月食があった。
  • 夏四月、台湾府に風災があった。
  • 秋七月、直隷の永定河北六工(永定河北岸の第六工区)で堤が決壊した(底本は「直隸、永定、河北六工」と句読する)。
  • 浙江の金華・衢州・厳州の三府の管下に水災があった。
  • 武陟県の沁河で堤が決壊した。

西暦1879年 光緒五年

  • 春正月、捐翰を停止し(底本は「捐翰」に作る。翰林の捐納を指すか)、まず京の捐局を廃止して、各省は五月を限りとしてことごとく打ち切ることとした。
  • 閏三月、吏部主事の呉可読が薊州の馬神橋の三義廟で薬をあおって自殺し、遺書で、明らかに懿旨を下して将来の大統の帰するところをあらかじめ定めるよう請うた。
  • 可読は以前、同治朝で御史の官にあったが、言事が激しすぎたために現在の官職に降調されていた。入継の事が起こると、奮い立って疏を草し、都察院から呈上しようとしたが、降調された人員は職を越えて言事してはならないというので、朝廷にいる諸臣が論じ立ててくれることを希望した。久しく待っても得られず、すでに望みが絶えたことを知り、穆宗の梓宮が山陵に赴くとき、本部の堂官である大学士の宝鋆に再三面と向かって懇願し、随行して行礼する者に加えてもらった。ここに至り、大行皇帝の奉安のあと、陵寝のかたわらで自尽し、それによって古の尸諫(死をもって諫めること)の義に託したのである。
  • 遺書の大略にいう。「同治十三年十二月初五日の懿旨に、今後皇帝に皇子が生まれたならば、そのまま大行皇帝を承継して嗣とする、とあります。しかし将来の大統の帰するところが、必ずその承継の子に帰するという明文は奉じておりません。ゆえに皇太后がさらに明白に、一通の諭旨を下され、将来の大統はやはり大行皇帝を承継した嗣子に帰する、とされますようお願い申し上げます……」
  • 疏が奏上されると、王大臣に下して議させた。ほどなく王大臣らおよび尚書の徐桐・翁同龢・潘祖蔭、翰林院侍読学士の宝廷・黄体芳、国子監司業の張之洞、御史の李瑞棻(「李端棻」の誤りか)が先後して覆奏したが、いずれも継統は建儲(皇太子を立てること)に関わるように思われるとして、あえて議に加わらなかった。
  • そこで懿旨が下った。「皇帝に将来皇子が誕生すれば、おのずから慎重に元良(すぐれた嗣子)を択び、統緒を継がせることができよう。その大統を継ぐ者は、穆宗毅皇帝の嗣子とする。皇帝は必ずよくこの意を体することができよう。呉可読の原奏および王大臣らの会議の摺、ならびに諭旨は、別に一部を写して毓慶宮に保存せよ。」
  • 夏四月、四川の塩務を官運商銷(官が運送し商人が販売する方式)に改めるよう諭した。総督の丁宝楨の奏請に従ったのである。
  • これより先、宝楨は四川省の塩務の積弊がはなはだ深いとして官運に改めたが、富廠(富順の塩廠)の竈戸はみなこれを不便とした。たまたま尚書の恩承、侍郎の童華が事を調べに四川へ来たので、連名で偽りの言葉を作って訴え出た。恩承らはこれに基づいて上聞し、宝楨に確かに調べるよう諭令が下った。
  • 宝楨が覆奏していう。「昨年に官運局を開設して以来、本年の奏銷(決算報告)で辺計の各割当の引(塩の販売証)を計算したところ、すでに全数を売り尽くし、あわせて積み残しの引一万余枚も売りさばきました。売り上げた税羨・截釐および諸款は百余万両に達します。商人については、従前の一切の名目のない使費をことごとく削除し、民はみな安値を得られ、私塩の密売者は影をひそめ、実に商人も民もともに便利になっております。」
  • ほどなく恩承らはまた弊害は少なく利益は多いと争って奏したので、戸部に命じて斟酌して款を割き、覆奏を具えさせた(底本は「酌撥」に作る。「酌核」の誤りか)。ここに至り、戸部が覆奏して、宝楨に「妥当に計らって処理せよ」と命ずるよう請うた。そこで宝楨に諭して、官運商銷の諸事を心を尽くして区分し計画し、始めを慎んで終わりを図り、浮言に動かされてはならず、またこれを押さえつけて過度に切迫させてもならない(底本は「釦」に作る。「扣」の誤りか)、とした。思うに内旨は実は宝楨の変法による増収を利としながら、阻み抗する者をあらわに斥けたくもなかったので、それゆえ調停の言葉としたのである。
  • 山東の嶧県知県署理の朱永康は、委員の高文保を誘い出して殺したことにより、斬監候と定められた。初め、永康は商人や民から銀両を強引に借りていたが、訴えが起こって委員の高文保が帳簿を管理する門丁を取り調べ引致するに及んだ。永康はその甥の朱宝林の言に従い、文保を誘い出して殺し、あわせて銀を与えて宝林らを逃亡させた。尚書の広寿、侍郎の銭実𠔳が赴いて取り調べ明らかにし、ここに至って罪が定まった。
  • 五月、広東の省城に水災があった。
  • 陝西・甘粛・四川に地震があり、縦横二千里に及んだ。吏部右侍郎の崇綺を熱河都統とした。崇綺は敦皇后(「嘉順皇后」の誤りか)の父であり、それゆえ太后はこれを外に出したのである。このとき御史の孔憲穀が奏していう。「碩輔(大きな輔弼の臣)は遠く離すべきではありません。」あわせて「漢の汲黯が淮陽に臥して治めると張湯が進み、宋の范仲淹が出て西方の軍を視ると邪説が行われた」ということを引いて説き、成命を収め返し、なお京官の位のままで命を待たせ、あわせて左右に置いて啓沃(君主を助け導くこと)の資とされたいと請うた。朝廷の旨は、その冒昧に干与するものだとして、許さなかった。
  • 六月、刑部が四川東郷県の濫殺の案件を奏して結了した。これより先、四川の東郷県署理の孫定揚が捐輸の割り当てを議し、正税一両につき五百文を増し加えた。人民は反抗して食糧のことで騒いだが、定揚はそこでこれを叛逆だと誣告し、兵を請うて剿洗(討ち掃うこと)した。提督の李有恒らは、そこで寨の民数百人を妄りに殺した。侍講の張偑綸の参劾を経て、しばしば大員を派遣して取り調べさせ、ここに至って、恩承・童華が赴いて取り調べ明らかにし、刑部が議定して、定楊(「定揚」の誤りか)と有恒をともに斬監候とした。獲督(「護督」の誤りか)の文格には「痛く剿洗を加えよ」との文書があり、罪を数えるのに軽く緩めた総督の丁宝楨らとともに、みな部に下して厳しく議させた。
  • 翰林院侍講の王先謙が、言路について流弊を防ぐべきことを奏し(底本は「言路家防流弊」に作る。「宜防」の誤りか)、旨を奉じて嘉納された。帝の登極以来、言路の者では宝廷・張之洞・張偑綸らが、事あるごとに敢えて物を言い、朝廷もまたかなり嘉納していたが、ここに至って次第に政府の厭うところとなり(底本は「據厭」に作る。「所厭」の誤りか)、先謙は旨を承けて言を進め、旨はこれを嘉納した。あわせて諭していう。「近ごろは職分を越えて陳奏し、私見をほしいままにし、軽々しく上申する者がかなりある。必ずや是非が混乱し、次第に攻撃・暴露の端を開くことになろう。はなはだしきは、こちらが唱えればあちらが和し、議論が沸き立ち、これもまた党与を引き合う見方を開くことを恐れる。風俗人心に大いに関わることである。今後は雷同付和の言辞をもって、連れ立って煩わしく陳奏してはならない。」
  • 諭が下ると、朝廷の議論は大いに騒がしくなった。
  • ほどなく御史の李端棻が先謙を、みだりな言辞で政を乱すものだと参奏し、あわせて先謙をただちに斥け免職して罪に処し、妄りに讒説をほしいままにする者への戒めとするよう請うた。朝廷の旨は、その措辞が度を過ぎているとして斥けた。
  • 金星が昼に見え(底本は「畫見」に作る。「晝見」の誤りか)、雲気に異変があった。
  • 直隷に水災があった。
  • 冬十月、広西巡撫の張樹声が、李揚才を擒えたことを奏した。これより先、総兵の李揚才は、以前に越南の土匪を討って功があった。ほどなく、広西に留任させる奏請がなされなかったため不満を抱き、昨年秋の間に広東の原籍である霊山県および欽州などの地で勇(募兵)を一万余人募り、関を出て越南の者巖などの地を占拠した。詔して提督の馮子材に命じ、師を統べて関を出させたが、ここに至って、龍登山で揚才を捜し出したと奏したのである。

西暦1880年 光緒六年

  • 春二月、協弁大学士の沈桂棻(「沈桂芬」の誤りか)、戸部尚書の景廉が、ドイツ公使のブラント(巴蘭徳)と、続定条約六款・善後章程九款を定め、成った。
  • 夏六月、直隷総督の李鴻章をブラジル議約全権大臣に任命した。
  • 直隷に旱災があった。
  • 秋八月、李鴻章の奏請を許し、陸路に電線を設けさせた。
  • 直隷に水災があった。
  • 冬十月、大学士の宝鋆、礼部尚書署理の李鴻藻が、イタリア公使の安吉立らと、続修条約四款、また続補条約四款を定め、成った。
  • 醇親王奕譞と宝鋆に命じて神機営の事務を管理させた。

西暦1881年 光緒七年

  • 春三月、慈安太后が崩じた。太后は咸豊初年に中宮に正位した。文宗は遊宴を好み、太后はかつて言葉を和らげて諫めたことがあった。垂簾聴政するに及んでは、人を用い政を行うことについて、ことごとく権を慈禧太后に譲り、軽々しくは発言しなかった。ただ太監の安得海の一件については、これを持すること甚だ堅く、山西巡撫の丁宝楨に命じて現地で処刑させ、一時は中外がこもごも称賛した。このことによって慈禧との間に深い嫌隙が積もり、それゆえ晩年に至ってはますます韜晦に努めた。年は四十五、諡して孝貞といった。
  • 夏四月、恭親王奕訢・醇親王奕譞に命じ、大学士の左宗棠、直隷総督の李鴻章らと会同して畿輔の水利を興修させた。
  • 四川の塩垣県の管下で雷雨と氷雹があり、水勢が急に増して、民家およそ七八百戸を壊し、男女およそ千余人が傷つき死んだ。
  • 五月、彗星が東北の方角に見えた。
  • 台湾に地震があった。
  • 六月、辛卯朔、雹が降った。
  • 彗星が北方に見えた。
  • 甘粛に地震があった。
  • 台湾に颶風と大雨があり、渓の水が急に増して、台北の両府で溺死した人口ははなはだ多かった。
  • 秋七月、江西に水災があり、廬陵・吉水・太和・永豊の四県で田地・家屋が流され、溺死した人口は数えきれなかった。
  • 閏月、浙江の沿海に颶風が激しく起こり、海嘯(津波)があった。
  • 八月、李鴻章がブラジル使臣のカラド(喀拉多)と条約十七款を訂立し、成った。
  • 冬十一月、すでに官を革められた提督の李世忠を殺した。世忠はもとの名を昭寿といい、捻匪の渠魁(底本は「渭魁」に作る。「渠魁」の誤りか)であった。初め太平軍に合したが、咸豊八年九月に天長で降ってきて、名を兆受と改めた。軍を督していた勝保はその衆一万七千人を留めて豫勝営として編成し、滁州を守らせ、糧餉を請わせずに、塩を運んで自ら売って軍に給させ、世忠の名を賜った。これによって軍を擁して巨富をなし、数百万と称された。
  • やがて自ら請うて部下の兵卒を解散し、城地を返還し、釐丰(「釐卡」の誤りか)から手を引き、糧餉と塩の支給を止めて、原籍に帰って親を葬った。詔があってこれを褒め許した。のちに世忠が謀叛を企てていると言う者があり、詔して両江総督の曾国藩に探索させた。国藩が人を遣って固始に至り、世忠の住まいを探らせると、堂上には義塾を設け、竹の垣根と土塀のなかで郷里の農民と雑居していたので、諸々の疑いはそこで解けた。国藩はそのために朝廷に疏を上り、末路を保全することを奏請した。
  • 裕禄が安徽を巡撫するに及び、世忠はそのとき安徽の地に寓居していた。裕禄はその富をうらやみ、身を下して交わり、兄弟の契りを結んで生死を誓い、それによって急な用にも融通し合い、公私にわたって世忠に負うところは数十万に及んだ。世忠はかなり勢いを恃んで驕り、頼み事があって裕禄がたまたまその意に逆らうと、そのたびに面と向かって責めなじった。裕禄は憤りを積もらせて久しかった。ある日、世忠が事のついでに貢生の呉廷鑑らを殴り辱めたので、裕禄がこれを叱責した。世忠は服せず、気にまかせて大いに罵った。裕禄は怒ってただちにこれを斬り、そのうえで世忠は悪に居直って改めず、凶暴で恣意的であったと奏上した。

西暦1882年 光緒八年

  • 夏四月、丙辰朔、日食があった。
  • 台湾に地震があった。
  • 福建に地震があった。
  • 六月、江蘇に地震があった。
  • 翰林院侍読の温紹棠が、時局は困難が多いとして、皇太后が精を励まし政に勤められるよう懇願したが、旨を奉じて申飭(叱責)された。慈安太后が崩じてから一年余り、朝に臨むことがなく、人を用い政を行うのに、数日を積み重ねてようやく一度裁決する有様であった。それゆえ紹棠はこれを取り上げて言ったのである。朝廷の旨は、その冒昧であるとしてこれを叱責した。
  • 山東・江西・安徽・浙江に大水があった。四川の叙永・涪などの管下に大雨と氷雹があり、河が増水して溺死した人口ははなはだ多かった。あわせて資州の管下に火災があった。
  • 秋八月、彗星が東南に見えた。形は一匹の練絹のようで、尾の長さは数丈、まっすぐ西南を掃き、日が出ようとするとき、その光は熒熒として、ほとんど日と輝きを争うほどであった。
  • 九月、台湾に大雨と颶風による水災があった。
  • 冬十月、直隷の深州などの地で地震があり音を発し、家屋は崩れ落ち、人民の圧死した者は数知れなかった。直隷の灤口の上流、屈律店などの地で続けざまに四か所が決壊し、歴城など十余の州県はみな水没し、溺死した人口は数えきれなかった。

西暦1883年 光緒九年

  • 春正月、礼部右侍郎の宝廷の職を革めた。宝廷は宗室でありながら翰林として名を知られ、事あるごとに敢えて物を言い、しばしば陳奏して採択され施行されることが多かった。しかし当時、朝廷の班列は静まらず、邪曲が正しい者を醜しめることは実に多かった。宝廷はひそかに機先を見抜いて、次第に退く志を萌した。七年十月に特に現在の職に抜擢されると、すぐに疏して辞したが許されなかった。昨年十二月、福建の試験を主宰して帰る舟が清江浦に着いたとき、途中で江山船の船人の娘である汪氏を買って妾としたことをもって、上疏して自らを弾劾し、重きに従って懲罰されるよう請うた。思うに言葉に託して自ら免官を乞うたにすぎない。旨を奉じて部に交して厳しく議させ、ここに至って官を罷めた。
  • 二月、刑部が河南鎮平県の盗案を奏して結了した。これより先、鎮平県の狡猾な胥吏である胡体安は盗賊の首魁であった。邑中の大官である張肯堂の家が劫掠され、体安の仕業であることを調べ知って、司・院に上訴し、巡撫の涂宗瀛が檄を発してこれを捕らえさせた。体安はその孌童(寵愛する少年)の王樹文を自分だと偽らせ(底本は「已」に作る。「己」の誤りか)、捕吏に捕らえて行かせた。樹文は年わずかに十五、痩せ弱く小さく、一目見てそれが真の盗賊でないと分かるほどであった。県令の馬翥は真偽を審らかにせず、あわてて大府に報告し、草々に案を定めた。
  • 樹文が刑に臨むに及んで冤罪を叫び、監刑官が宗瀛に申し上げ、刑を止めて所司に下し再審させた。樹文は自ら、父の名は季福といい鄧州に住んで農を業としていると述べたので、鄧州の知州である朱光第に檄して季福を逮えて照合させることにした。まだ到着しないうちに宗瀛は湖南巡撫に転じて去り、河道総督の李鶴年が河南巡撫の任を継いだ。開帰陳許道の任愷は、以前に南陽の知府であったとき、かつてこの獄を裁いたことがあり、飛檄して光第に季福を逮えることを止めさせた。光第は聴かず、とうとう季福を上らせて樹文と対質させたところ、果たしてその子であった。
  • 任愷は大いに惑い、この獄が果たして冤を晴らされることになれば、自分(底本は「已」に作る。「己」の誤りか)もまた重い咎を得ることを知って、百方これを取り繕った。愷はもとより鶴年と縁故があり、鶴年はついにその言に従い、樹文に「把風接賊(見張りをして賊を手引きする)」の律を当てて処断した。樹文はそこでこの案の正犯となり、官吏の誤捕と体安の逃走は、どちらも問い質さずに置かれた。
  • そこで河南出身で御史の官にある者はみな大いに騒ぎ立て、鶴年が愷をかばっていると弾劾した。朝廷は河道総督の梅啓照を派して再審させたが、啓照は鶴年の意を承けて、ついに樹文を盗の従犯として即刻斬るべきものとした。獄が成ると、言う者はますます力を入れて争った。潘祖蔭はそのとき秋官(刑部)の長であったので、そこで部に取り寄せて再訊することを奏請し、あわせて馬翥の職を革めて逮えて都に入れた。郎中の趙舒翹が数か月研き調べてようやく実を得て、まさに奏を具えようとしたとき、祖蔭は鶴年の遊説を容れて突然変心し、なお元の判決(底本は「原獻」に作る。「原讞」の誤りか)どおりに上申しようとした。舒翹は力を尽くして争って言った。「舒翹が一日でも秋審を去らぬかぎり、この案は一日たりとも動かすことはできません。」
  • 激しく争っている間に、祖蔭は突然父の喪によって官を去り、これを継いだのは張之万であった。たまたま以前に審理を担当した官で、大挑によって知県となった張亨嘉が、会試のために都に入り、刑部に牒を陳べてこの案の始末をきわめて詳しく述べたので、案はそこで正すことができた。樹文を釈放して帰らせ、馬翥および知府の馬承修を極辺に戍らせ、鶴年・啓照および臬司の陳宝箴以下この獄の審理を担当した者は、それぞれ差をつけて降調した。この案は首尾五年かかってようやく議して結了したが、光第はすでに先に他の事で汚職の官吏として議されていた。これは任愷が鶴年をそそのかして行わせたのである。体安はかえって何事もなく、そのうえ姓名を改めて他の邑の総胥(胥吏の長)をつとめていた。
  • 三法司が会同して稿を作ったとき、副憲署理の張佩綸が判決文の末尾に書いた。「大吏が人命を草菅(雑草)のように扱う風を長ずるのは、その患いはなお浅い。疆臣(地方の大官)が朝廷を軽んずる兆しを開くのは、その患いこそ実に深い。」一時、名言だと嘆称されたが、しかし地方の大官はみなこれをにらんだ。
  • 夏五月、醇親王奕悰(「奕譞」の誤りか)らが雲南報銷の一件を奏して結了した。これより先、八年七月に御史の陳啓泰が、太常寺卿の周瑞清が雲南の報銷を請け負って取り仕切り、同省の糧道である崔尊彝、永昌知府の潘英章が都に来て賄賂をもって取り成しを頼んだ事情があると暴いて参奏した。のちに御史の洪良品、給事中の鄧承修の奏によって、この案は枢臣の景廉・王文韶に関わり、いずれも巨万の賄賂を贈られたという風説があるとされ、先後して王大臣を派遣して取り調べさせた。
  • ここに至って案を結し、瑞清・英章および御史の李郁華、戸部員外郎の福趾、主事の孫家穆・龍継棟はみな軍台に発遣し、主事の崔澄寰・周頌はいずれも免職し、尊彝は病死していたがやはり免職した。景廉・文韶および前の戸部尚書の黄恂、侍郎の奎潤・許応騤・崇礼、総督の劉長佑、巡撫の杜瑞聯、ならびに書吏が職を受ける(底本は「受職」に作る。「受賄」の誤りか)のを察知しなかった工部侍郎の翁同龢・師曾・孫家鼐・徐用儀、郎中の福志・蔡世傑は、それぞれ差をつけて罰俸・降級とした。
  • 六月、山東の歴城などの地で黄河があふれ、畿輔の水災はきわめて重かった。
  • 在理教を禁ずるよう諭した。京城および直隷などの地に在理教があり、人に喫煙と飲酒を戒めさせることを名目としており、御史の李燧が秘かに捕らえることを奏請し、それによって取り調べ禁ずるよう命じた。
  • 秋九月、台湾・厦門一帯の海沿いに風災があった。
  • 冬十一月、桃園で決壊した。
  • 御史の劉恩溥が、東安門外の宗室の家で賭場を開き、人を殴り殺して人命を損ない、屍と棺が久しく埋葬されずにいることを奏し、宗人府に命じて刑部と会同し、速やかに訊問して明らかにし奏上させた。宗室の公である載泰が賭博のことから争いを起こし、旗民の某乙を殴り殺した。その屍は城の隅に二十日余りもさらされ、誰も収めて葬る者がなく、官もまたあえて関与しなかった。恩溥はそこでその事を上言した。大略にいう。「載泰は身を天家に託し、勢いの炎は焼けつくばかりです。某乙が何者であって、軽々しく出向いて威重を犯し、寄ってたかって殴られて死に至ったのは、もとより自ら招いたものです。載泰は天潢の貴冑(皇族の貴い血筋)でありますから、わずかに一人の平民を殺したくらいは、道理としても勢いとしてもそうなるべきことで、臣もあえて干与いたしません。ただ思いますに、聖朝の覆いつつむ仁は、草木鳥獣までみな恩沢に浴しておりますのに、某乙の屍骸は野ざらしとなり、日々烏や鳶を飽かせております。先王の沢が枯骨にまで及んだという義に照らせば、盛世にふさわしいことではないように思われます。どうか地方官に命じて検分し埋葬させてはいかがでしょうか。これもまた仁政の一端かと存じます。」
  • この疏は語気が憤懣に満ち、はなはだ奏対の体裁に背いていた。当時、恩溥は朝廷の局面が間もなく変わることを知り、軽い罪に託して身を引こうとしたのである。しかし疏が上っても譴責を蒙らず、元の摺はそのうえ抄写して公布された。

西暦1884年 光緒十年

  • 春三月、太后が軍機処に命じ、緊要な事件があれば醇親王奕譞と会同して相談し処理するようにさせた。
  • 貝勒の奕劻に命じて総理各国事務衙門の事務を管理させた。
  • 夏四月、広東の順徳県の管下に風災があった。
  • 直隷の献県の地方に水災があった。
  • 五月、中外の大臣に命じて人材を推薦させた。中外の大臣に命じて、職分として行うべき事を心を尽くして講求し、切実に処理させた。
  • 六月、江西の浮梁など諸県に大水があった。浮梁では連日の大雨で河水が急に増し、城壁・役所・民家を壊し、人口が溺死した。景徳鎮は水に遭って家屋が壊され、流された人口はそれぞれ数千であった。鄱陽・楽平などの県では田畝が水に浸かった。
  • 山東で黄河の南北両岸があふれ決壊し、歴城・斉河などの地に水災があった。
  • 直隷の東明県の境内で黄河が決壊した。
  • 冬十月、甘粛新疆巡撫ならびに布政使などの職を新たに設け、烏魯木斉都統などの職を廃止した。これより先、新疆事務を督弁する兵部右侍郎の劉錦棠が、新疆に郡県を設けることを奏した。そのなかで言う。左宗棠は初め、新疆総督一員を設けて烏魯木斉に駐在させ、新疆巡撫一員を設けてアクスに駐在させ、新疆を別に一省とすることを議したが、臣はまったくそうは思わない。新疆と甘粛は形勢として唇歯のごとくであり、もし分けて二省とすれば、二十余の州県が絶域に孤立し、勢いとして自存し難い。江蘇の建置の大略に倣い、甘粛巡撫一員を増設し、烏魯木斉を省の治所とし、布政使一員を設け、鎮迪道に按察使の官銜を加える。伊犂将軍は全疆を総統するには及ばない。烏魯木斉提督を移してカシュガルに駐在させ、旧来の参賛・辦事・領隊の各大臣は斟酌して廃止する、と。疏が上ると吏部に下され、ここに至って議したとおりに行い、そのまま錦棠を巡撫とし、魏光燾を移して布政使とした。

西暦1885年 光緒十一年

  • 夏五月、李鴻章らに命じて、大いに水師を整え船廠を増し拡げることを議し計らせた。
  • 江南・安徽・江西に水災があり、広東・広西に大水があった。
  • 六月、御史の呉峋、編修の梁鼎棻をともに部に交して厳しく議させた。昨年、呉峋は閻敬銘を弾劾して漢奸と目し、鼎棻は李鴻章を弾劾して殺すべしと指した。ここに至って、その大臣を誣告し謗ったことをもって懲戒を加えたのである。
  • 直隷に水災があった。
  • 秋七月、大学士の恪靖侯の左宗棠が卒し、太傅を贈り、文襄の諡を与えた。
  • 九月、福建巡撫を改めて台湾巡撫とし、台湾に駐紮させ、福建巡撫の事は閩浙総督が兼管することとした。ほどなく台湾布政使を増設した。
  • 冬十一月、雲南に地震があった。
  • 山東の何王荘・趙荘・騒溝の三か所で決壊した。

西暦1886年 光緒十二年

  • 春二月、慈禧太后が帝を率いて東陵に詣で、十二日を経て宮に還った。駕が定東陵に至り、敷土の礼を行った。孝貞顕皇后の陵である。太后は礼節の書付を閲するに、香を捻り酒を進めるのに跪拝を要するとあるのを見て、大いに怒ってこれを地に投げつけ、別に議するよう命じた。諸臣はみな敢えて物を言わなかったが、礼部尚書の延煦だけは奮い立って言った。「これで争わなければ、国家は礼臣を何に用いるのか。」配殿の門外に跪き、声高に言った。「太后は今日ここに至られたのですから、両宮垂簾聴政のときの礼節は用いるところがありません。ただ顕皇帝が在世のときの儀注に依って行われるべきです。」后はこの奏を聞いて色を失い、起つように命じた。延煦は答えて言った。「臣は礼曹に罪を待つ身であります。太后が礼を失われるのを見ながら敢えて争わなければ、臣は死んでも祖宗に対して申しひらきがありません。お聞き届けいただけなければ、誓って敢えて起ちません。」后はやむを得ずその奏を可とし、ついに礼を成して還った。
  • 三月、山東で黄河の水勢が盛んに増し、章邱・済陽・恵民などの県で決壊が多く起こった。
  • 李鴻章がフランス公使のコゴルダン(戈可当)らと天津で会議し、越南辺界通商章程十九款を定め、成った。
  • 夏五月、陝西の臨潼・籃田(「藍田」の誤りか)に雹の災いがあった。
  • 四川総督の丁宝楨が卒し、文誠の諡を与えた。宝楨は四川にあって興し改めたところが多く(底本は「與革」に作る。「興革」の誤りか)、都江の旧堤を復して民の田数十万畝を還し、夫馬(人夫と馬)の徴発を裁減し、雲南辺・貴州辺の官運による四川塩の法を創始し、国家に百余万の増収をもたらした。
  • 六月、貴州の剝隘などの地に水災があった。
  • 副都統の依克唐阿、副都御史の呉大澂が、ロシアの官吏バラノフ(巴拉諾伏)らと図們江の界牌(国境標)を勘定した。
  • 秋七月、直隷・奉天に大水があった。
  • 八月、山西の汾河があふれ潰えた。
  • 大清会典の続修を命じた。
  • 御史の朱一新が、災いに遭って修省し、宦官の弊害を予防することを奏した。これより先、四月の間に醇親王奕譞が北洋の海口を巡閲したとき、太后は総管太監の李蓮英を派して随行させた。蓮英は河間の無頼の徒で、かつて硝石・硫黄を私売して獄につながれ、のちに脱して業を皮革の職人に改め、人は皮硝李と呼んだ。内監の沈蘭玉の推薦によって入って侍し、梳頭房の太監となり、推薦されて現在の職に抜擢された。ここに至って、一新は順天・直隷の水災によって修省を奏請し、あわせて蓮英が奕譞に随って巡閲したことは唐代の監軍の轍を踏むおそれがあると言った。后は大いに怒り、奏のなかに「道路にやかましく伝わり、士庶は驚き愕く」および「深宮にはあるいは別にやむを得ぬ苦衷がおありか」などの語があることをもって、明白に回奏するよう命じ、ほどなく主事に降して補するよう命じた。
  • 前の湖南提督の鮑超が卒し、武襄の諡を与えた。
  • 馮子材に命じて瓊州の客民・黎族の諸匪を処理させた。
  • 冬十月、台北道の職を増設した。

西暦1887年 光緒十三年

  • 春二月、各省に保甲を整頓するよう命じた。
  • 夏五月、奕劻、工部侍郎の孫毓汶が、フランス公使のコンスタン(恭思当)と、続議界務専約五款・商務専約十款を定め、成った。
  • 六月、沁河が決壊した。
  • 直隷の通州など十六州県に大水があった。
  • 前の雲貴総督の劉長佑が卒し、武慎の諡を与えた。長佑は官にあって清廉で、得た俸禄や賜与はことごとく戦士を恤むのに用い、兵を統べること三十年、かつて将佐を誅したことがなく、諸将もまた厳かに彼を憚った。
  • 秋八月、黄河南岸の鄭州下汛十堡で決壊し、河南の下流で水を被った者は十五州県、賑済を待つ者は百九十万人であった。
  • 九月、戸部の奏請を許して鄭州の工事のための捐納の例を開いた。
  • 冬十月、奕劻・孫毓汶がポルトガルの使臣(底本は「便」に作る。「使」の誤りか)ロシャ(羅沙)と中葡条約五十四款および専款三条を議し、成った。
  • 十二月、雲南に地震があった。

西暦1888年 光緒十四年

  • 春正月、甘粛新疆の伊塔道の職を増置した。
  • 二月、清漪園を重修して頤和園と改める工事が竣工したので、四月初十日を択んで皇太后を奉じて臨幸・駐蹕することを諭した。
  • 三月、江蘇に地震があった。
  • 夏四月、京師に雹が降った。
  • 五月、京師・奉天・山東に地震があった。
  • 六月、京師に雹が降った。
  • 秋七月、永定河の堤防工事の箇所で決壊した。
  • 十二月、太和門に火災があった。貞度門が失火し、延焼して太和門および庫房などの箇所に及んだ。
  • 太和門の火災によって、頤和園の工事を停止するよう命じた。

西暦1889年 光緒十五年

  • 春正月、赫葉那拉氏を立てて后とし、他他拉氏を瑾嬪とし、他他拉氏を珍嬪とした。后は太后の弟である副都統の桂祥の娘、瑾嬪・珍嬪は前任の侍郎である長叙の娘である。
  • 二月、帝が親政した。これより帝は大政を親裁する名はあっても、実際には主権がなく、一切の人を用い政を行うことは、やはり太后の主持するところであった。
  • 太后の懿旨により、醇親王奕譞の「あらかじめ妄論を杜ぐ」原奏を宣示した。これより先、光緒元年正月初八日に、奕譞は奏していう。歴代の統を継いだ君主で本生の父母を推し崇めた者のうち、宋の孝宗が秀王の封を子として称するのを改めなかったのを最も当を得たものとする。皇帝の親政後に、佞人がこれ幸いと進み出て、治平・嘉靖の説を援き引いて、その奸邪をほしいままにすることを慮り、あらかじめ封章を具え、親政のときを俟って天下に宣示し、千秋万載にわたって再び改め変えることのないようにしていただきたい、という語であった。
  • ここに至って、河東河道総督の呉大澂が、醇親王を尊崇する典礼を議するよう命ぜられたいと奏請した。太后の懿旨を奉ずるにいう。今まさに政を返したばかりのとき、呉大徴(「呉大澂」の誤りか)が果たしてこのような奏をした。もし醇親王の原奏を時を移さず宣示しなければ、この後は邪説が競って進み、妄りに礼を議することによって栄達の梯とすることを希うであろう。その患いはどうして思うに堪えようか。よって特に明白に諭し示し、あわせて醇親王の元の摺を抄写して公布し、中外の臣民に知らせるものである、と。
  • 大婚の礼が成ったことをもって太后に徽号を上った。
  • 三月、政を返す礼が成ったことをもって太后に徽号を上った。
  • 帝が太后に侍って頤和園に行幸し、神機営の水陸の調練を閲した。太后が西苑に住んでいたときには、北海の承光殿のかたわらに市肆を設け、百貨を並べ、店主はみな宦官にこれをやらせ、朝臣は争って市に入って買い求め、太后は時に自ら出向いて値を尋ねた。ここに至って頤和園が落成し、帝が自ら太后に侍って遊覧し、のちにはしばしばその中に駐蹕した。
  • 新たに万寿山の頂に仏香閣を創建し、排雲殿を見下ろし、雲表に矗立し、松と槐が両側に立ち並び、千歩の廊があった。玉瀾堂・楽寿堂から連なり延びて西に行き、殿門の外に達すると、さらに船隖が設けてあり、石を琢いて造ったもので、仁寿殿の西南にあって万寿山と相対し、旧名を宝蓮航、また石舫ともいった。さらに昆明湖のなかに小さな汽船二艘を置き、また園外の東南の隅に電気室を設けて、園中の電灯を専ら司らせた。
  • 太后は園中にあって、日夕芝居を聴くのを楽しみとした。かつて妃嬪・福晋・太監らを率いて小舟に乗り、湖のなかで写真を撮り、漁師の服を用い、時には古い漢装を着け、太后は観音に扮し、その他の者は竜女・善男・童子などに扮し、李蓮英は韋駄に扮してかたわらに立った。その写真が外に流れ伝わっても、これを禁じなかった。
  • 夏六月、雲貴総督の岑毓英が卒し、襄勤の諡を与えた。毓英は雲南に官すること二十余年、恩と信が人を深く感じさせ、父老も児童もみな「わが老宮保」と称したという。
  • 秋八月、安徽巡撫の陳彝が因利局の章程を奏陳し、各省に通達して倣い行わせるよう請うたが、許されなかった。彝の疏には、銭を醵めて局を立て、貧民に貸し与え、日を限って元本を返させ、利息は取らない、とあった。朝廷の旨は、その章程が煩瑣で民を妨げ擾すおそれがあるとして、施行を許さなかった。
  • 天壇の祈年殿に火災があった。壇は正陽門外の左側にあり、北門外が祈年殿で、その次が皇乾殿、斎宮は殿の東南にある。この月の二十四日申の刻に雷雨がにわかに起こり、雷鳴一声、まっすぐ祈年殿を撃ち、扁額が砕け裂け(底本は「碎陵」に作る。「砕裂」の誤りか)、たちまち火が起こり、戌の刻に至って殿は全て灰燼となった。数十里の内は光が真昼のようで、香気が勃発した(底本は「扐發」に作る。「勃發」の誤りか)。思うにその棟や柱は香楠で造られており、明の永楽のときに建てられたものである。火勢は夜明けに至ってようやく熄んだ。
  • 江蘇・浙江・湖北に大水があった。この年、江蘇・浙江・湖北の諸省はもともとみな大豊作であったが、祈年殿の火災の日に及んで、各省もまたこの日から大雨に遭い、四十日余りを経てようやく晴れた。
  • 冬十月、各省の布政使・按察使に事件を陳奏するよう命じた。
  • 差役・徭役の諸々の弊害を禁じ革めるよう命じた。
  • 各省に、支応・善後・採辦・転運などの局を削減し統合し、三か月を期限として一覧を作り奏報するよう命じた(底本は「開軍奏報」に作る。「開単」の誤りか)。
  • 各省の将軍・総督・巡撫に、盗賊を厳しく捕らえ、訴訟をあおる悪徒を探して捕らえるよう命じた。

西暦1890年 光緒十六年

  • 春三月、福建船政大臣を廃し、総督にこれを兼管させた。
  • 瞻対の番人の頭目である撒拉雍珠が巴宗剌麻と結託して野番を語らい事を起こし、成都将軍の岐元らが副将の徐聯魁らを遣ってこれを討たせた。
  • 夏四月、前の兵部尚書の彭玉麟が卒し、剛直の諡を与えた。玉麟は剛直で俗を絶し、軍を治めるときは部下に接するのに布衣の兄弟のようであったが、紀律はきわめて厳しかった。長江水師を巡閲すること十余年、あわせて営官・哨官百八十二人を弾劾して罷めさせ、長江も湖もひっそりと静まり、将佐は威を畏れ、地方の役人もまた風を望んで震え恐れた。民間の諸々の不軌の徒で、悪事を働き法を犯し、猛々しくて法を畏れない者は(底本は「愍」に作る。「悍」の誤りか)、そのたびに互いに驚いて「彭打鉄(彭の鍛冶屋)が来たぞ」と言った。その法を執ることの厳峻であることを言ったのである。
  • 吉林省城に火災があり、延焼して官民の家屋千五百余間に及んだ。
  • 六月、直隷に水災があった。
  • 永定河の工事の箇所で決壊した。
  • 秋八月、前の陝甘総督の楊岳斌が卒し、勇愨の諡を与えた。岳斌は水師を治めて功が高く、彭玉麟と並び称され、軍中では彭・楊と称した。フランスと越南の事が起こると、岳斌は詔を奉じて福建に入り軍務を幇弁した。和議が成ると原籍に還り、ここに至って家で卒した。
  • 九月、御史の呉兆泰が頤和園の工事の停止を奏請し、部に交して厳しく議させるよう命じた。兆泰の疏の中には、ほぼ「今まさに畿輔の水災があり、河が決壊し、米の流れが塞がっているのに、工事が停止されていないのは聖明を累わすものです」などの語があった。朝廷の旨は、それが朝廷の孝養の心をまったく体していないとして、実に冒昧きわまりないものであるとし、厳しく譴責を加えた。
  • 冬十月、両江総督の一等威毅伯の曾国荃が卒し、忠襄の諡を与えた。
  • 十一月、帝の本生の父である醇親王奕譞が薨じた。帝は邸に詣でて喪服を着け礼を行った。ほどなく懿旨を奉じて称号を定め、皇帝本生考といい、諡して賢といった。子の鎮図公(「鎮国公」の誤りか)載澧(「載灃」の誤りか)はその日のうちに王爵を承襲し、載洵は不入八分鎮図公(「鎮国公」の誤りか)に進封され、載濤は不入八分輔国公に進封された。帝は一年の喪に服し、白い喪服を着けること十一か月、朝を輟めること十一日、一年の内は便殿に出るとき素服を用いた。

西暦1891年 光緒十七年

  • 春正月、刑部尚書の貴恒らが、すでに官を革められた福建建寧府知府の蔣斯岱が、参劾されたのは冤枉であり、あわせて劣悪な官吏が署理の欠を策謀したと訴えた案件について、調査し覆奏した。
  • これより先、斯岱は考課が劣等であったため官を解かれた。すでに廃止された建寧釐局の委員である知府の梁玉瑜は署理の任を窺い、総兵の沈茂勝に、営務処道員の劉麒祥へ取り成してくれるよう乞うた。また以前に局中の司事であった秦燾が、総督署の幕友である挙人の王済光の親戚であることを知り、あわせて済光への取り成しを託した。しかし燾は面と向かっては承知したものの、内心では済光の清廉正直をはばかり、あえて切り出さなかった。
  • 玉瑜が建寧府の欠を署理するよう委任されると、麒祥はすぐさま電報を発して茂勝に返答し、梁の件はすでに成ったが、なお銀三百を加える必要があると言った。麒祥の食客のある者が、さらに私に茂勝に電報して玉瑜の金を求め、燾もまた手紙で玉瑜を祝い、そのうえ自らを誇示して、これに乗じて分け前に与ろうと望んだ。事はついに(底本は「事惠」に作る)斯岱の聞くところとなった。
  • そこで斯岱は稟を具えて引き継ぎを緩めるよう請うた。玉瑜はそこで斯岱が印を渡すのに抗していると言いふらし、総督の楊昌濬は怒って奏し、斯岱の職を革めた。斯岱はほどなくまた麒祥らの電報の稿(底本は「電成」に作る。「電稿」の誤りか)を写し取り、そこで玉瑜が賄賂を行ったと訴え、言葉は燾に及び、あわせてひそかに済光をも侵した。昌濬は疏して官吏を派遣して会審させるよう請うたが、朝廷の旨はやはり自ら取り寄せて訊問するよう命じた。案がまだ結了しないうちに、昌濬は陝甘総督に移って去った。
  • 斯岱はそこで、昌濬が賄賂を受け(底本は「受睞」に作る。「受賂」の誤りか)、麒祥と茂勝が受け渡しをしたと固く指摘し、さらに都察院に呈を具えた。朝廷は貴恒および左副都御史の沈源深に命じて福建に赴いて取り調べさせた。折しも済光が病死したので、そこで全案の要点をことごとく挙げて彼に負わせ、済光が茂勝に書を送って玉瑜から賄金三百を騙し取り、総督署の庁事の後ろで受け渡しをしたと誣告し、さらに済光の元の書状はすでに失われたとして照合の免除を請うた。
  • 獄が上奏されると、済光は挙人の身分を革められたが、死んでいたために議を免れ、玉瑜と茂勝は先にすでに免職されていたが、ここに至ってともに流罪に処せられ、昌濬は察知を怠った罪で降級され、燾らは杖罰にそれぞれ差があった。ところが麒祥は電報という確たる証拠があり、実は案中の主犯であったのに、ついに曲げてこれを逃れさせ、かえって罪に問われずにすみ、のちになってようやく他の事で免職された。
  • 四川の会理州の民である黄子栄らが徒党を集めて事を起こし、雲南の富民・禄勧の二県城を攻め落とし、総督の王文韶が兵を遣ってこれを剿平した。
  • 夏四月、安徽の蕪湖、江蘇の丹陽、湖北の武穴などの地の教会堂が相次いで匪徒に焼かれ(底本は「焚燦」に作る。「焚燬」の誤りか)、各総督・巡撫に厳しく捕らえて訊問処理するよう命じた。
  • 六月、哥老会を取り調べるよう命じた。
  • 山西に大旱があった。
  • 秋七月、山東巡撫の張曜が卒し、勤果の諡を与えた。初め、咸豊八年の春、河南の捻軍が固始を囲んだとき、曜は固始の民の囲長(自衛組織の長)であり、県令の蒯某と協力して城を守り、夜に壮士三百をもって城を出て敵の営を襲い破った。たまたま科爾沁親王の僧格林沁が軍を率いて救援に来て、曜がただ一人、火光のなかを往来して激しく戦うのを見て、嘆じて「壮士である」と言い、ただちに召し見てこれを大いに奇とし、県丞から知県に奏保し、あわせて勇号を賜り、軍に従って征討させた。
  • のちに捻軍が頻りに固始を侵し、百姓は曜を謳い慕い、「張公が来てくれれば難は少しは緩むだろう」と言った。そこで大府は檄して曜に固始を代理させ、次々に昇進して河南布政使に至った。御史の劉毓柟が河南で案を調べた際、賄賂を求めたが届かなかったので、曜を「目に一丁字も識らず」と弾劾し、総兵に改められた。左宗棠が新疆で軍を督するに及び、奏して曜に兵を領させ、功を積んで広東提督に至った。新疆が平定されると、宗棠は彼のために文職への復帰を奏し、広西巡撫を授けられたが、任に至らぬうちに、京師の護城河を浚うよう命ぜられ、また山東の黄河を調査検分するよう命ぜられ、そのまま山東巡撫に移された。山東の省にあること七年、河の堤を築き、道路を修め、廠局を開いて精巧に製造し(底本は「閒廠局精製逭」に作る。字に乱れがあるか)、およそ官にも民にも益のあることは、ことごとく挙げ行わないものはなかった。ここに至って卒し、その部下の嵩武軍は李鴻章の節制・調遣に属するよう改められた。
  • 八月、勧善要言を刊行して頒布するよう命じた。
  • 致仕した大学士の宝楨(「宝鋆」の誤りか)が卒し、文靖の諡を与えた。
  • 新疆の温宿州に雹が降り、鎮西庁に大水があった。
  • 冬十月、直隷の辺外の熱河などの地で、金丹道の教首である楊悦春らが乱を起こし、蒙古を侵し擾し、あわせて朝陽など諸州県を陥れた。□(底本はここに判読しがたい字がある)奉天・直隷両省が軍を会して剿平した。
  • 雲南の鎮辺の地方で、新たに帰属した裸人が事を起こしたが、官軍がこれを剿平した。
  • 十二月、貴州の下江庁の苗人が事を起こしたが、ほどなく官軍に剿平された。
  • 匪の首領の李国珍が敖罕で事を起こし、東翁牛特の各旗を分かれて掠め、烏丹城の北大寺に拠ったが、直隷の官軍がこれを剿平した。

西暦1892年 光緒十八年

  • 春三月、前の大学士の閻敬銘が卒し、文介の諡を与えた。敬銘は姿かたちが小柄で、二つの目は一方が高く一方が低かった。翰林に入り、官を戸部に改めた。湖北巡撫の胡林翼が奏して東征糧台の総辦に転任させたとき、疏の中に「閻敬銘は気貌は揚がらぬが、心は万夫に雄たり」の語があった。太后も初めはその徳望を敬い、宮中で口にするときは、常に字で呼んで名を呼ばなかった。大学士を授けられてのち、太后が三海を興修するにあたり、敬銘が惜しんで款項を与えなかったので、たちまち慈しみの眷顧を失い、しばしば詰責に遭い、病と称して家に居ること四年であった。ここに至って、また遺疏が太后の意に忤らったため、恤みの礼はことのほか薄く、わずかに太子少保の官銜を賜っただけであった。一品の大臣でありながら、死を飾る典礼に二品の官階を与えられたのは、二百年の間にただ一人だけである。当時、礼臣が諡を賜るよう請うたが、ほとんど惜しんで与えられなかったところ、戸部侍郎の張蔭桓が帝に力を尽くして言ったので、ようやく許された。
  • 夏六月、京師で蝗が飛んで天を蔽い、江蘇・安徽・山西では蝗と蝗の幼虫が地に満ちた。
  • 閏六月、永定河の堤防工事の箇所で決壊した。
  • 山西巡撫の阿達春の職を革めた。これより先、左副都御史の徐致祥が、新たに授けられた山西巡撫の阿克達春の貪績(「貪黷」の誤りか)を参奏した。帝はその、すでに聞き及んでいたのならば直ちにその都度奏上すべきであったことを責めた。御史の余聯玩もまた、阿克達春が安徽布政使の任内で劣悪な行跡が明らかであったこと、および文理に通じないことを参奏し、両江総督の劉坤一に命じて取り調べさせた。ほどなく阿達克春を召見して事件について問い質したところ、奏対が明晰でなく、官を解くよう命じた。ここに至って劉坤一が覆奏し、参奏されたことはみな事実であったので、そこで免職した。
  • 秋七月、山東の恵民などの地で堤や土手があふれ潰えた。
  • 電報の杆線(底本は「捍線」に作る)を盗み壊した者の罪を定めた。
  • 冬十月、各省の州県が濫りに法外の刑を用いることを禁ずるよう諭した。

西暦1893年 光緒十九年

  • 夏五月、貴州の普安直隷庁の妖匪である劉燕飛が事を起こしたが、ほどなく官軍がこれを剿平した。
  • 六月、永定河の堤防工事の箇所で決壊した。
  • 秋七月、四川の打箭炉の管下に地震があり、恵遠廟一座、喇嘛寺七座、漢人・夷人の民家八百四戸がみな震え、喇嘛七十四人、漢人・夷人の兵民百三十七人が圧死し、負傷した者は七十人であった。
  • 八月、海禁を解き除いた。出使大臣の薛福成の奏請に従ったのである。
  • 十一月、新疆の庫車庁の地で続けて地震があった。

西暦1894年 光緒二十年

  • 春正月、河東河道総督の許振緯に命じて、李鴻章と会同して永定河の工事を計り行わせた。
  • 越南の流浪の匪徒が雲南辺の都章などの地を侵し擾したが、官軍が撃退した。
  • 二月、駐米使臣の楊儒がアメリカ外務省と、蓽工(「華工」の誤りか)条約六款を続けて定め、成った。
  • 三月、戊寅朔、日食があった。
  • 湖南の南洲直隷庁を増設した。巡撫の呉大澂の奏請に従ったのである。
  • 湖南の酃県の会匪である鄧世恩らが江西を擾し侵し、永寧県城を攻めたが、官軍に剿平された。
  • 京師の南城外の陶然亭のかたわらの葦の池のなかに、牛の鳴くような怪しい声があった。当時、市井の人が妄りに図説を刊行し、これを名づけて大老妖といい、その物は専ら洋人を噛み食うのだと言った。識者はみなこれを嗤った。歩軍統領の福錕が兵を調えて徹底的に捜させたが、ついに手がかりを得られなかった。内務府は僧や道士を召して壇を設け経を誦えさせ、これを祓わせるに至った。数か月ののち、ようやく静まった。
  • 夏四月、直隷の永平・遵化の府・州の管下で大風雨が数昼夜続き、家屋と民の田が水に浸かった。
  • 雲南の永平庁の匪の首領である丁洪貴らが四川・雲南の辺境を擾したが、両省の官軍に撃退された。
  • 秋七月、江蘇の上海県の城内外で、地に毛が生え、黒くて豚の剛毛(底本は「猪祭」に作る。「猪鬃」の誤りか)のようであった。
  • 直隷に長雨があり、天津に大水があった。
  • 前の甘粛新疆巡撫の劉錦棠が卒し、襄勤の諡を与えた。
  • 八月、戸部の奏請に従い、各省に命じて利息を付けて商人から款項を借り、軍需に充てさせた。当時まさに日本と戦端を開いていたのである。
  • 太后の六十の万寿をもって徽号を上った。
  • 太后は、六十の慶辰の典礼はやはり宮中で挙行し、頤和園での受賀の事はただちに取りやめるよう命じた。これより先、十月初十日の太后の万寿には、康熙・乾隆年間の先例に援って事を重ねて華やかさを増し(底本は「增蓽」に作る。「增華」の誤りか)、帝が中外の臣工を率いて万寿山に詣で慶賀の礼を行うことに議定していた。そこで各省の疆吏は官吏を派して祝いに従い、頤和園から西苑まで沿道を区間に分けて景物を飾り立て、経壇を建設した。ここに至って、日清の戦事のために中国の海軍・陸軍がしばしば敗れ、廷臣がかわるがわる上章して諫め争ったので、そこで園内の景物の飾り立てを取りやめるよう命じ、当日はやはり排雲殿で賀を受けることとした。
  • 冬十月、瑾貴妃・珍貴妃をどちらも降して貴人とした。二妃はともに詩をよくし、珍貴妃はあわせて政術にも通じていたので、帝はことに寵愛した。当時、編修の文廷式という者があり、二妃の師であって、大考で一等第一となり侍請学士(「侍読学士」の誤りか)に抜擢された。太后は帝が二妃のゆえにこれを進めたのだと疑った。ここに至って懿旨を奉じ、瑾妃・珍妃は近ごろ浮華を習い尚び、しばしば願い事をしたとして、ともに妃の号を革めて降し貴人とした。そのうえ衣を剥いで廷杖を加えるよう命じ、あわせて妃の兄である志鋭をウリヤスタイに謫した。廷式は病と称して京を出たので、わずかに罪を免れた。
  • 十二月、御史の安維峻の職を革め、張家口に流した。維峻は疏して李鴻章を参劾し、言葉は李蓮英に及び、あわせて「皇太后はすでに政をお返しになったのに、皇上がなお事あるごとに牽制されるのであれば、どうして祖宗と天下に対して申しひらきができましょう。李蓮英に至っては、これは何者であって、敢えて政事に干与するのでしょうか。もし祖宗の法制に照らして律すれば、李蓮英をどうして容れておけましょう」と言った。朝廷の旨は、その口をほしいままにして妄言したとして、免職・流刑を命じた。
  • 維峻が発遣されるとき、都の中では、蓮英が彼をひどく憎み、手に入れて意を遂げようとしているともっぱら伝えられた。幽燕の大侠で大刀王五という者がこれを聞き、門に赴いて面会を求めて言った。「この行きは道中に乱暴者が多い。小人が護衛しなければ、必ず免れますまい。」そこで護衛して行き、車馬と荷の費用はみな彼が出した。

西暦1895年 光緒二十一年

  • 夏五月、奕劻、侍郎の徐用儀が、フランスと続議商務専条・附章を定め、成った。
  • 湖北に大水があった。
  • 閏五月、中外の大臣に命じて人材を推薦させた。
  • 各省の将軍・総督・巡撫に命じ、本省の情形に即して、糧餉を計り、兵を練り、商を恤み、工を恵むという各条について妥当に方法を計り、一か月以内に覆奏させた。
  • 新疆に地震があった。
  • 六月、福建の古田県の民がイギリスの教士数人を殺し、首謀者を厳しく捕らえるよう命じ、あわせて地方官に実力をもって教会堂を保護するよう諭した。
  • 福建・広東の総督・巡撫に命じ、官吏を派して南洋の諸島ならびに新旧の金山に赴かせ、華僑の商人を招き寄せて各省の船舶・器械・機器などの局を請け負わせるようにした。
  • 秋七月、広東・福建に地震があった。
  • 京師に疫病があった。
  • 八月、瞻対の番官である対堆・奪吉らが事を起こした。
  • 四川総督の劉秉璋の職を革めた。当時、各省で教案(キリスト教がらみの事件)が相次いで起こり、外国人は官吏の処罰を要求していた。この年の五月、四川の省城で教会堂を打ち壊すことがあり、また省外の各地でも重ねて教案が起こった。それゆえこの譴責があったのである。
  • 冬十月、吏部右侍郎の汪鳴鑾、戸部右侍郎の長麟の職を革めた。これより先、長麟は召対に入ったとき、帝は名目こそ親政であるが実は太后に制せられているとして、帝が大権を独り握られるよう請い、こう言った。「太后は穆宗に対しては生母ですが、皇上に対しては先帝の遺した妾にすぎません。天子たる者に、妾を母とする道理はございません。」鳴鑾はそのとき同じく召見されており、やはりその言をもっともとした。のちにこの語はしだいに太后の耳に入った。当時、太后と帝とは日ごとに猜疑を深めており、ここに至って太后は大いに怒った。帝はやむを得ず諭を下し、二人が昨年の召対のときにしばしば口まかせに妄言し、行跡は離間に近いとして、ともに免職して永く任用しないよう命じた。

西暦1896年 光緒二十二年

  • 春正月、官書局を京師に設けた。これより先、康有為らが強学書局を創設して時務を講究したが、御史の楊崇伊が封鎖禁止するよう奏請した。ほどなく御史の胡孚宸が、強学局を改めて官営に帰するよう奏請し、ここに至って総理各国事務衙門の奏を経て、設立が認可された。
  • 二月、前の台湾巡撫の一等男爵の劉銘伝が卒し、壮粛の諡を与えた。
  • 郵政を設立した。
  • 太監の寇連材を殺した。連材は直隷の昌平州の人である。初め宮に入って太后の梳頭房の太監となり、はなはだ親しみ愛され、およそ宮内の会計はみな彼に掌らせた。やがて奏事処の太監となり、一年余りして、また太后の会計房の太監となった。
  • 当時、太后がふたたび政権を専らにして、二妃を杖打ち、朝臣を追い、廃立の志を蓄え、日ごとに帝に博打の遊戯や阿片の吸食を迫り、また別に太監の李蓮英および内務府の人員に命じて外廷に流言を撒き散らし、帝の失徳を言わせ、さらに大いに土木を興して円明園を修めようとしていた。連材はこれを大いに憂えた。
  • この月の初十日、朝起きるや涙を流して太后の寝台の前に長く跪いて言った。「国の危うきことここに至りました。老仏爺は、たとえ祖宗と天下のためにお考えにならないとしても、ご自身のためにもお考えにならないのですか。どうして遊楽をほしいままにして内変を生じさせることに忍びられましょうか。」太后は狂っていると思い、叱りつけて去らせた。
  • 連材はそこで五日の暇を乞い、帰って父母兄弟に別れを告げ、その記した内廷の事の一冊を取り出して、年少の弟に授けた。その記事のうち最も重要なものは次のとおりである。
  • 一、太后は驕り奢り淫らに逸楽して、まったく帝を念頭に置かない。皇后もまた二妃のゆえに帝と睦まじくない。それゆえ帝はひどく孤独である。
  • 一、帝の毎日の御膳は、その料理が数十品並べられるが、御座から少し離れた料理は半ば腐って臭っている。それゆえ帝は毎度の食事で満腹にならない。時にたまたま一品を替えさせようとすると、太后はそのたびに倹徳をもって責める。
  • 一、太后は帝を待遇するのに、毎日叱りつける声が絶えない。少しでも意に適わなければ、常に鞭打ちを加え、あるいは罰して長く跪かせる。それゆえ帝は太后に見えるとき、獅子や虎に対するようで、胆をつぶし、今に至るまで、銅鑼や太鼓の音、怒鳴り声、雷の音を聞くたびに顔色を変える。
  • 一、帝は太后の前に至るたびに長く跪いて機嫌を伺い、起てと命ぜられなければ敢えて起たない。甲午六月に高麗の軍事が起こってから、帝が頤和園の工事を停めて軍費に充てるよう請うと、太后は大いに怒り、それより乙未九月の間まで、およそ十余か月、帝と一言も交わさず、毎日必ず二時間の長さに及ぶまで跪かせて、ようやく起つよう命じた。
  • 連材は宮に還ってから、十五日に摺を上った。全部で十条あり、一に太后が政権を握られぬよう請い、二に円明園を修めて皇帝を幽閉されぬよう請い、残りはみな人が口に出す勇気のない言葉であった。太后はこれを読んで怒り、召して責めて言った。「本朝の定例では、内監で事を言う者は斬る。おまえはこれを知っているか。」答えて言った。「知っております。奴才がもし死を懼れるならば、摺を上げはいたしません。」
  • そこで内務府の慎刑司に囚えるよう命じ、十七日に刑部に移送して、斬るよう命じた。刑に臨んで衣冠を正し、闕を望んで九拝し、そのうえで義に就いた。当時、編修の宋育仁が京師にあって、その知らせを聞いて大いに哭して言った。「清の亡びる日はもう遠くない。私は銅駝が荊棘のなかに臥すのを見るに忍びない。」官を棄てて帰った。当時、同じく冠を挂けた(官を辞した)者はなお六人あり、みな当代の名の知られた士であった。京中では「作者七人」の嘆きがあった。
  • 翰林院侍読学士の文廷式の職を革めた。廷式は帝の知遇に感じ、忠正に言葉を尽くして、太后の忌むところに触れた。寇連材が難に遭うと、同時に梳頭房の太監である王四も帝に付いていたために軍台に発遣された。聞海という者があり、号を古庭といい、帝の内侍で、もとは貢生であって、きわめて帝に忠実であったが、やはり寧古塔(底本は「𥁃古塔」に作る)に発遣された。
  • そこで楊崇伊が太后の旨に迎合して廷式を弾劾し、事あるごとに風を生じさせ、常に松筠庵で同類を広く集め、連名で奏上していること、あわせて太監の文海と兄弟の契りを結んだ事情があるとした。すなわち古廷(底本は「古廷」に作る。前出の「古庭」と同一人)のことである。崇伊は思うに誤って「聞」を「文」としたのだという。それゆえ連材を殺した翌日に、廷式を都から追い出す事があったのである。
  • 松筠庵は内城の宣武門外にあり、中に明の賢臣で三たび疏して厳嵩の罪状を暴いた楊椒山を祀っている。諫官の間の人々は、およそ論奏するところがあれば、みな庵内に同僚を召し集めて連名で上疏した。思うに手本と仰ぐところがあったのである。
  • 戸部衙門に火災があった。
  • 夏五月、帝の生母である醇親王福晋の赫葉那拉氏が薨じた。
  • 山東の曹・単一帯で刀匪が擾乱をほしいままにしたので、江南・山東の総督・巡撫に命じて速やかに剿除させた。
  • 六月、瞻対の番官が兵を率いて巣を出て事を起こしたが、四川の官軍がこれを撃退した。
  • 永定河の堤防工事の箇所で決壊した。
  • 戸部侍郎の張蔭桓が日本使臣の林董と通商行船章程二十九款(底本は「通啇」に作る)を定め、成った。
  • 秋七月、甲午朔、日食があった。
  • 西寧の回民の首領である劉四伏がロプノールの和児昂に逃げ込み、新疆の官軍がこれを討って擒えた。
  • 四川の松潘の番人の乱事が一様に鎮まったことをもって、総兵の夏毓秀にそれぞれ差をつけて奨励・叙用を与えた。
  • 九月、督弁軍務処の王大臣がロシア使臣の賈□□(底本はここに二字分の空白があり、名の字が無い)と新約十二条を訂し、成った。
  • 冬十月、四川巡撫の鹿伝霖が上・中・下の三瞻を攻め落とし、全境が一様に帰順した。
  • 十二月、江西・福建に地震があった。

西暦1897年 光緒二十三年

  • 春三月、貝勒の載澍が太后の旨に忤らったので、貝勒を革め、宗人府に交して重く八十板を打たせ、空き室に永遠に監禁するよう命じた。載澍は孚敬郡王の子である。初め穆宗の病が革まったとき、遺詔で載澍をもって大統を継がせようとしたので、太后は深くこれを憎んだ。その妻は太后の姪(兄弟の娘)であった。載澍には妾があって子を生んだが、妻は妬んでこれを殺し、載澍に詰責されて、憤って太后に訴えた。孚邸の福晋がそこで宮に入って謝罪すると、太后はにわかに詔を下し、載澍は日ごろ母に不孝であり、今その母が宮に入って面と向かって奏したのであるから、もし厳しく懲罰しなければ、はなはだ孝をもって治める意に背く、とし、そこで厳しい譴責を受けたのである。詔が下ったのち、福晋は地に昏倒した。載澍は獄にあって毎日わずかに一食を進めることだけを許され、厳しい冬にもわずかに一枚の袴で体を覆うのみであった。ただ一人の老いた獄卒が、彼が皇孫であることを憐れみ、昼は炉を熾して温め、夜は抱いて寝るだけであった。
  • 夏四月、江西に大水があった。
  • 五月、鹿伝霖がデルゲの小土司である昂翁降白仁青とその母を討って擒え、これを囚えた。老土司や頭目の者たちは土地を献じて帰順を誓い、改土帰流して官を設けるよう命じた。
  • 前の大学士の張之万が卒し、文達の諡を与えた。
  • 秋七月、協弁大学士の李鴻藻が卒し、文正の諡を与えた。
  • 冬十二月、各省に実力をもって教会堂を保護するよう諭した。
  • 各部院の堂官に、常に署に出て事を執るよう命じた。

西暦1898年 光緒二十四年

  • 春正月、乙酉朔、日食があった。
  • 経済特科を設けた。貴州学政の厳修の奏請に従ったのである。特科は六つの事を課した。内政といい、外交といい、理財といい、経武といい、格物といい、考工という。三品以上の京官および総督・巡撫・学政が、それぞれ知るところの者を挙げて総理衙門に咨送し、礼部と会同して奏請し、策論をもって試験する。名づけて経済特科という。
  • 昭信股票を頒布した。詹事府右中允の黄思永が、華人からの款項を借り集めることを奏請し、自強股票に倣って(底本は「追自強股票」に作る。「倣」の誤りか)、名づけて昭信股票といい、五厘の利息を付け、二十年に分けて元利を返済し終えるとした。戸部は議して股票百万枚を印造し、京内外の王公・将軍・総督・巡撫および大小の文武官吏(底本は「文式官員」に作る)にみな票を受け取って銀を納めさせ、それによって商人・民の先駆けとするよう命じた。
  • 京師大学堂を開設するよう命じた。今後、武科は銃砲の試験に改めるよう命じた。
  • 三月、各省に諸局を廃止し、保甲を整頓し、空糧(実体のない糧餉)を厳しく削減し、また常平倉の設置を勧めるよう諭した。みな尚書の剛毅の奏請に従ったのである。
  • 閏三月、ドイツの親王ハインリヒ(亨利)が謁見した。
  • 夏四月、江蘇の淮安・徐州・海州の府・州の各管下に大水があった。
  • 恭親王奕訢が卒し、忠の諡を与え、太廟に配享するよう命じた。
  • 各省に、すべての大小の書院を一様に学堂に改めるよう命じた。
  • 各省に使節の才ある者を推挙するよう命じた。
原文(底本)
德宗光緒元年,春正月,帝行即位禮於太和殿。帝醇親王奕譞子,宣宗成皇帝孫也。生甫四齡,會穆宗崩,慈禧太后利立幼沖,以專朝政。即日取入宮中,以懿旨命承繼文宗顯皇帝爲子,入承大統爲嗣皇帝。時以不爲穆宗立嗣,實開本朝未有之奇局,中外嘖有煩言。五日前,內閣侍讀學士廣安上疏諫,其略曰:「大行皇帝沖齡御極,蒙兩宮垂簾勵治,十有三載,天下底定。詎意皇嗣未舉,一旦龍馭上賓,幸賴兩宮擇繼,咸宜以皇上繼文宗顯皇帝爲子。俟嗣皇帝生子,即繼大行皇帝爲嗣。計之萬全,未有過此者。惟嘗讀宋史,竊有感焉,昔有太祖遵母后命,傳弟而不傳子,厥後有太宗偶因趙普之言,傳子竟未傳侄,是廢母后成命,遂起無窮斥駁。使當日后以詔命鑄成鐵券,趙普安得一言間之?我皇上將來生有聖子,自必承繼大行皇帝爲嗣,第恐事久年湮,或有以普言引用,請分立鐵券,作奕世良謨。」疏入,奉懿旨申飭。至是,帝即位於太和殿,詔赦天下。 二月,嘉順皇后阿魯特氏崩。后爲尚書崇綺女,端莊謹默,動必以禮。同治十一年,正位中宮后,以慧妃故,遂失歡於慈禧太后。穆宗疾篤時,慈禧太后訓賚備至,及穆宗崩,帝立,后以與前所草詔不符,劇悲慟。慈禧太后復召后至遂批,其類曰:「爾既害殺吾子,尚思作皇太后耶?」后跪泣不已。久之,始還宮,誓以身殉,遂不復食,旦夕悲啼,目盡腫。是日,一內侍見其狀,奏聞,慈禧太后曰:「皇后如此悲慟,即可隨大行皇帝去。」內侍出未移晷,而后崩,距穆宗之喪未百日也,年僅二十有二,諡曰「孝哲」。 三月,戊戌朔,日食。 夏四月,京師大旱。 五月,工部門神庫失火。 刑部科房失火。 大學士文祥卒,予諡「文忠」 六月,嚴禁廣東闈姓賭局。 以剿匪不利,革吉林將軍奕榕職,發往軍臺。 以盛京將軍崇實平燬大東溝沙河子巨匪宋之好等巢穴,擒斬首要,奉旨獎勵。 秋七月,永定、河南二工漫口。 九月,越南匪徒黃崇英等滋事,廣西派兵出境會剿,生擒崇英。 冬十月,懿旨,命侍郎翁同龢、夏同善授帝讀,並命醇親王奕譞妥爲照料。 命盛京將軍一缺,管理兵刑兩部,兼管奉天府府尹,照各省總督體例加銜。 添設臺北府知府等缺。

二年,夏六月,直隸大旱。 福建濱海颶風大作,延平府屬大水,省城大火。 廣東少北大水。 秋七月,加上兩宮太后徽號。 江蘇等省有邪教紙人剪辮,諭飭地方官查拏嚴辦。

三年,春二月,以訊辦餘杭民人葛蓮身死一案。始從逥護,革浙江巡撫楊昌濬、學政侍郎胡瑞潤職。品蓮實病死,縣令劉錫彤與武舉楊乃武有隙,誣其與品蓮之妻畢氏有姦,品蓮爲畢氏所鴆殺。遽乃武與畢氏到署,脅以嚴刑,五毒備施,不勝慟楚,皆引服。浙人大譁,合詞控諸都察院,稱縣令誣陷良民,呂蓮實非毒斃。事下,瑞瀾覆訊,仍照原讞上,浙京官益憤,再疏爭之,詔飭刑部提訊。既抵部,開棺蒸驗,果無毒。案結,乃武及畢氏皆釋放,巡撫、學使、臬司及歷次承審道府州縣皆革職降調有差,縣令發黑龍江永戍。 夏五月,山西、河南大旱,御史溫忠翰奏,有「人情洶洶,朝難保夕。子女則鬻於路人,攘奪或施於里黨。啼饑者遠連數郡,求食者動聚千人。戶少炊煙,農恆失業……」之語。 六月,廣東省北大水,連州居民淹斃萬餘,江蘇、安徽蝗災,福建、湖南、廣西亦遭水患,陝西亦復苦旱,東豫畿輔並有蝗蝻。蘇、浙地方大風,江蘇地震。 秋七月,張家口兵防土壩被水沖沒。 九月,翰林院侍講張偑綸另片奏:「風聞紫禁城東河沿有內監雜引伶人演各戲,並內務造辦處院中有設場聚賭等事,請飭嚴禁。」報聞。 冬十月,大學士沈桂芬與日斯巴尼亞國使臣伊巴里議訂古巴華工條欵十六條成。 三姓地方風雹,田廬被淹,旗民傷斃甚衆。

四年,春正月,乙丑望,月食。 夏四月,臺灣府風災。 秋七月,直隸、永定、河北六工漫口。 浙江金華衢嚴三府屬水災。 武陟縣沁河漫口。

五年,春正月,停止捐翰,先將京捐局裁撤,各省限於五月悉數截止。 閏三月,吏部主事吳可讀在薊州馬神橋三義廟仰葯自殺,遺書請明降懿旨,預定將來大統之歸。可讀前在同治朝官御史,以言事忿激,降調今職。入繼事起,奮然草疏,擬由都察院呈遞,繼以降調人員不得越職言事,希冀在廷諸臣有所論列。既久候而不得,知已失望,於穆宗梓宮赴山陵時再三面懇本部堂官大學士寶鋆,添派隨同行禮,至是,於大行奉安之後,自盡於陵寢之旁以託於古尸諫之義,遺書略謂:「同治十三年十二月初五日懿旨,嗣後皇帝生有皇子,即承繼大行皇帝爲嗣,將來大統之歸,未奉有明文必歸之承繼之子,故請皇太后再行明白,降一諭旨,將來大統仍歸承繼大行皇帝嗣子……」疏入,下王大臣議,旋王大臣等及尚書徐桐、翁同龢、潘祖蔭,翰林院侍讀學士寶廷、黃體芳,國子監司業張之洞,御史李瑞棻先後覆奏,均以繼統似涉建儲,不敢參議。乃奉懿旨:「皇帝將來誕生皇子,自能慎選元良,纘承統緒。其繼大統者,爲穆宗毅皇帝嗣子,皇帝必能善體此意。所有吳可讀原奏及王大臣等會議摺並諭旨,另錄一分,存毓慶宮。」 夏四月,諭四川鹽務改辦官運商銷,從督臣丁寶楨奏請也。先是,寶楨以川省鹽務積弊甚深,改歸官運富廠竈戶,皆不便之,會尚書恩承、侍郎童華查事至川,因聯署捏詞呈訴。恩承等據以入告,諭令寶楨確查。寶楨覆疏稱:「自上年開辦官運局後,本年奏銷核計邊計各額引,已全數銷清,附帶銷積引一萬餘張。所銷稅羨截釐及各欵至一百餘萬兩。商人從前,一切無名使費,悉予刪除,民皆貪賤,私梟潛踪,實屬商民皆便。」旋恩承等又以弊少利多爭奏,乃命戶部酌撥具覆。至是,戶部覆疏,請飭寶楨:「妥籌辦理,因諭寶楨將官運商銷各事,悉心區畫,慎始圖終,不可動於浮言,亦不可釦之過蹙。」蓋中旨實利寶楨之變法溢收,又不欲顯斥阻抗者,故爲調停之詞。 山東署嶧縣知縣朱永康,以誘殺委員高文保,定爲斬監候。初,永康強借商民銀兩,迨控經委員高文保查提管帳門丁。永康聽從其姪朱寶林之言,誘殺文保,並給銀令寶林等逃逸。由尚書廣壽、侍郎錢實𠔳往勘訊明,至是定罪。 五月,廣東省城水災。 陝西、甘肅、四川地震,縱橫二千里,以吏部右侍郎崇綺爲熱河都統。崇綺,敦皇后父也,故太后出之。時御史孔憲穀奏稱:「碩輔不宜遠離。」且引「漢汲黯臥治淮陽而張湯進,宋范仲淹出視西師而邪說行」爲言,請收回成命,仍以京秩侍命,並請置左右,俾資啟沃。廷旨,以其冒昧干預,不許。 六月,刑部奏結四川東鄉縣濫殺案。先是,四川署東鄉縣孫定揚議派捐輸,每正一兩,加多五百文。人民反抗鬧糧,定揚遂誣爲叛逆,請兵剿洗。提督李有恆等,遂妄殺寨民數百。經侍講張偑綸參劾,屢派大員查辦,至是,經恩承童華往勘訊明,由刑部議定,定楊有恆均斬監候。獲督文格有痛加剿洗之札,與數罪輕縱之總督丁寶楨等,均下部嚴議。 翰林院侍講王先謙奏言路家防流弊,奉旨嘉納。自帝登極以來,言路如寶廷、張之洞、張偑綸等,遇事敢言,朝廷亦頗嘉納,至是漸為政府據厭,先謙因承旨進言,旨嘉納之,並諭:「近來頗有攙越陳奏,逞其私見,率意上陳,必至是非淆亂,漸開攻訐之端。甚至此唱彼和,議論紛騰,亦恐啟黨援之見,於風俗人心大有關係。嗣後不得以雷同附和之詞,相率瀆陳。」諭下,朝論大譁。

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旋御史李端棻參先謙爲莠言亂

政並請將先謙立予斥革治罪以爲妄逞讒說者戒廷旨斥其措詞過當 金星畫見雲氣有異

 直隸水災 冬十月廣西廵撫張樹聲奏擒獲李揚才先是總兵李揚才前剿越南土匪有功

旋以未奏留廣西觖望上年秋閒在廣東原籍靈山縣及欽州等處募勇萬餘出關據越南者巖

等處詔命提督馮子材統師出關至是奏稱於龍登山搜獲揚才

六年春二月協辦大學士沈桂棻户部尙書景廉與德使巴蘭德續定條約六欵善後章程九欵

成 夏六月命直隸總督李鴻章爲巴西議約全權大臣 直隸旱災 秋八月允李鴻章奏請

於陸路設立電線 直隸水災 冬十月大學士寶鋆署禮部尙書李鴻藻與義使安吉立等續

修條約四欵又續補條約四欵成 命醇親王奕譞寳鋆管理神機營事務

七年春三月慈安太后崩太后咸豐初年正位中宫文宗好遊讌嘗婉言規諫及垂簾聼政於用

人行政悉以權讓之慈禧太后不輕發言獨於太監安得海一案持之甚堅飭令晉撫丁寳楨就

地正法一時中外交相稱頌坐是與慈禧積有深嫌故至晚年益務韜晦年四十有五謚曰孝貞

 夏四月命恭親王奕訢醇親王奕譞會同大學士左宗棠直隸總督李鴻章等興修畿輔水利

四川鹽垣縣屬雷雨氷雹水勢陡漲衝壞民房約七八百户傷斃男女約千餘口 五月彗星見

東北方 臺灣地震 六月辛卯朔雨雹 彗星見於北方 甘肅地震 臺灣颶風大雨溪水

陡漲臺北兩府淹斃人口甚衆 秋七月江西水災廬陵吉水太和永豐四縣沖没田廬淹斃人

口無算 閏月浙江沿海颶風暴起海嘯 八月李鴻章與巴西使臣喀拉多訂立條約十七欵

成 冬十一月殺已革提督李世忠世忠原名昭壽爲捻渭魁初合於太平軍咸豐八年九月以

天長來降易名兆受督師勝保留其衆萬七千人列爲豫勝營使守滁州不請餉令捆鹽自賣以

給軍賜名世忠由是擁軍以致巨富號數百萬旣而自請遣散部卒交還城地退出釐丰停給餉

鹽回原籍𦵏親有詔褒許後有言世忠謀叛者詔江督曾國藩訪察國藩遣人至固始探世忠所

居則堂上設義塾竹籬堇垣與鄕農雜居羣疑乃釋國藩爲之疏於朝奏請保全末路及裕祿廵

撫安徽世忠時寓皖中裕祿艶其富因下交約爲兄弟誓生死藉以通緩急公私累世忠至數十

萬世忠頗恃勢而驕遇有請託裕祿偶拂其意輒面加誚讓裕祿積忿日久一日世忠因事毆辱

貢生吳廷鑑等裕祿訶責之世忠不服使氣大罵裕祿怒立斬之乃以世忠怙惡不悛兇暴恣肆

入奏

八年,夏四月丙辰朔,日食 臺灣地震 福建地震 六月,江蘇地震 翰林院侍讀溫紹棠奏時局多艱懇皇太后勵精勤政奉旨申飭自慈安太后宴駕後年餘未嘗視朝用人行政積數日始一裁決故紹棠以爲言廷旨以其冒昧申飭之山東江西安徽浙江大水四川叙永涪等屬大雨氷雹河漲淹斃人口甚衆並資州所屬火災 秋八月,彗星見於東南(在張翼之閒)形如匹練尾長數丈直掃西南日將出時其光熒熒幾與爭曜(是年法人始謀越南談星變者謂越分野在翼軫而彗所以除舊布新越其爲法所倂乎未三年而越南全國果盡屬於法)九月臺灣大雨颶風水災 冬十月,直隸深州等處地震有聲廬舍坍塌人民壓斃無數直隸灤口上游屈律店等處連開四口厯城等十餘州縣皆陷淹斃人口不可勝計

九年,春正月,革禮部右侍郎寶廷職寶廷以宗室名翰林遇事敢言屢有陳奏多見採擇施行然當時朝班不靖邪枉醜正實繁有徒寶廷默燭於機先漸萌退志七年十月特擢今職卽疏辭不許上年十二月以典試福建歸舟抵清江浦以途中買江山船人女汪氏爲妾上疏自劾請從重懲責蓋假辭以自乞免耳奉旨交部嚴議至是罷官 二月,刑部奏結河南鎮平縣盜案先是鎮平縣猾胥胡體安盜魁也邑中巨宦張肯堂家被刦廉知體安所爲上控司院廵撫涂宗瀛檄捕之體安以其孌童王樹文僞爲已俾役執之去樹文年甫十五尩羸弱小一望而知其非眞盜也縣令馬翥不審眞僞遽馳報大府草草定案及樹文臨刑乃呼冤監刑官白宗瀛命停刑下所司覆鞫樹文自言其父名季福居鄧州業農乃檄鄧州牧朱光第逮季福爲驗未至而宗瀛調撫湖南以去河道總督李鶴年繼豫撫任開歸陳許道任愷先爲南陽守嘗讞是獄飛檄阻光第勿逮季福光第不聼竟以季福上使與樹文質果其子也愷大惑知是獄果平反已且獲重咎百計彌縫之愷固與鶴年有連鶴年竟從其言坐樹文以把風接賊之律樹文遂爲是案正兇而官吏之誤捕體安之在逃皆置不問於是豫人之官御史者皆大譁劾鶴年庇愷廷派河督梅啟照覆審啟照承鶴年意竟以樹文爲盜從當立斬獄成言者爭益力潘祖蔭時長秋官乃奏請提部覆訊且革馬翥職逮入都郎中趙舒翹研鞫數月始得實將具奏祖蔭入鶴年游說忽中變將仍依原獻上舒翹力爭曰舒翹一日不去秋審此案一日不可動也方劇爭閒祖蔭忽以父喪去官繼之者爲張之萬會前承審官大挑知縣張亨嘉會試入都陳牒刑部述是案始末綦詳案遂得直釋樹文歸戍馬翥及知府馬承修極邊鶴年啟照及臬司陳寳箴以下承審是獄者各降調有差是案首尾五年始議結而光第已先以他事墨吏議則任愷嗾鶴年爲之也體安反無恙且更姓名充他邑總胥焉方三法司會稿時署副憲張佩綸判牘尾曰長大吏草菅人命之風其患猶淺啟疆臣藐視朝廷之漸其患實深一時嘆爲名言然疆吏皆爲之側目矣 夏五月,醇親王奕悰等奏結雲南報銷一案先是八年七月御史陳啟泰揭參太常寺卿周瑞清包攬雲南報銷有該省糧道崔尊彝永昌知府潘英章來京賄託關說情事後據御史洪良品給事中鄧承修奏以是案牽涉樞臣景廉王文韶均有賂遺鉅萬之風說先後派王大臣查辦至是結案瑞清英章及御史李郁華户部員外郎福趾主事孫家穆龍繼棟均發軍臺主事崔澄寰周頌均革職尊彝病故仍革職景廉文韶及前户部尙書黃恂侍郎奎潤許應騤崇禮總督劉長佑廵撫杜瑞聨並失察書吏受職之工部侍郎翁同龢師曾孫家鼐徐用儀郎中福志蔡世傑各罰俸降級有差 六月,山東厯城等處黃河漫溢畿輔水災極重 諭禁在理敎京城及直隸等處有在理敎以戒人吸烟飲酒爲名御史李燧奏請密拿因命查禁 秋九月,臺廈一帶瀕海風災 冬十一月,桃園決口 御史劉恩溥奏東安門外宗室家開設賭局毆斃人命屍棺久未掩埋飭宗人府會同刑部迅速訊明具奏宗室公載泰因賭博起釁毆死旗民某乙其尸暴露城隅二十餘日無人爲收斂官亦不敢過問恩溥乃上言其事略謂載泰託體天家勢焰熏灼某乙何人而敢貿然往犯威重攢毆致死固由自取載泰以天潢貴冑區區殺一平人理勢應爾臣亦不敢干預唯念聖朝怙冒之仁草木鳥獸咸沾恩澤而某乙尸骸暴露日飽烏鳶揆以先王澤及枯骨之義似非盛世所宜合無飭下地方官檢視掩埋似亦仁政之一端也此疏詞氣憤懣殊乖奏對之體時恩溥知朝局不久有變欲藉微罪以行耳然疏上未蒙譴責原摺且發鈔

十年,春三月,太后命軍機處遇有緊要事件著會同醇親王奕譞商辦 命貝勒奕劻管理總理各國事務衙門事務 夏四月,廣東順德縣屬風災 直隸獻縣地方水災 五月,命中外大臣保薦人才命中外大臣將職分應辦之事盡心講求切實辦理 六月,江西浮梁等縣大水浮梁連日大雨河水陡漲衝毀城牆衙署民房淹斃人口景德鎮被水衝壞房屋漂流人口各數千鄱陽樂平等縣田畝被淹 山東黃河南北兩岸漫決厯城齊河等處水災 直隸東明縣境黃河決口 冬十月,添設甘肅新疆廵撫暨布政使等缺裁撤烏魯木齊都統等缺先是督辦新疆事務兵部右侍郎劉錦棠奏設新疆郡縣謂左宗棠初議設新疆總督一員駐烏魯木齊新疆廵撫一員駐阿克蘇將新疆另爲一省臣頗不以爲然新疆與甘肅形同唇齒若劃爲兩省以二十餘州縣孤懸絕域勢難自存擬仿江蘇建置大略添設甘肅廵撫一員以烏魯木齊爲省治設布政使一員以鎮廸道加按察使銜其伊犂將軍無庸總統全疆移烏魯木齊提督駐喀什葛爾舊有之參贊辦事領隊各大臣酌量裁撤疏入下吏部至是如所議行卽以錦棠爲廵撫調魏光燾爲布政使

十一年,夏五月,命李鴻章等籌議大治水師增拓船廠 江南安徽江西水災廣東廣西大水 六月,御史吳峋編修梁鼎棻均交部嚴議上年吳峋劾閻敬銘目爲漢奸鼎棻劾李鴻章指爲可殺至是以其誣謗大臣加以懲儆 直隸水災 秋七月,大學士恪靖侯左宗棠卒贈太傅予謚文襄 九月,改福建廵撫爲臺灣廵撫駐紮臺灣福建廵撫事由閩浙總督兼管尋添設臺灣布政使 冬十一月,雲南地震 山東何王莊趙莊騷溝決口三處

十二年,春二月,慈禧太后率帝謁東陵閱十二日還宫駕至定東陵行敷土禮孝貞顯皇后陵也太后閱禮節單拈香進酒須跪拜大怒擲之地命另議諸臣皆不敢言禮部尙書延煦獨奮然曰此而不爭國家何用禮臣爲跪配殿門外大言曰太后今日至此兩宮垂簾聽政之禮節無所用之惟當依顯皇帝在時儀注行之耳后聞奏失色命之起延煦對曰臣待罪禮曹見太后失禮而不敢爭臣死無以對祖宗不得請誓不敢起后不得已可其奏卒成禮而歸 三月,山東黃河水勢盛漲章邱濟陽惠民等縣決口多處 李鴻章與法使戈可當等在天津會議越南邊界通商章程十九欵成 夏五月,陜西臨潼籃田雹災 四川總督丁寶楨卒予謚文誠寳楨在川多所與革復都江故隄還民田數十萬畝裁減夫馬剏滇邊黔邊官運川鹽法國家溢收百餘萬 六月,貴州剝隘等處水災 副都統依克唐阿副都御史吳大澂與俄員巴拉諾伏等勘定圖們江界牌 秋七月,直隸奉天大水 八月,山西汾河潰溢 命續修大淸會典 御史朱一新奏遇災修省預防宦寺流弊先是四月閒醇親王奕譞廵閱北洋海口太后派總管太監李蓮英隨往蓮英河閒無賴子曾以私販硝磺繫獄後得脫改業皮工人呼爲皮硝李以內監沈蘭玉薦入侍爲梳頭房太監薦擢今職至是一新因順直水災奏請修省並以蓮英隨奕譞廵閱恐蹈唐代監軍覆轍爲言后大怒以奏中有道路譁傳士庶駭愕及深宫或別有不得已之苦衷等語命明白回奏旋命以主事降補 前湖南提督鮑超卒予謚武襄 命馮子材辦理瓊州客黎各匪 冬十月,添設臺北道缺

十三年,春二月,命各省整頓保甲 夏五月,奕劻工部侍郎孫毓汶與法公使恭思當續議界務專約五欵商務專約十欵成 六月,沁河決口 直隸通州等十六州縣大水 前雲貴總督劉長佑卒予謚武愼長佑居官廉潔所得祿賜悉以恤戰士統兵三十年未嘗誅將佐諸將亦嚴憚之 秋八月,黃河南岸鄭州下汛十堡決口河南下游被水者十五州縣待賑者百九十萬人。 九月,允户部奏請開鄭工捐例 冬十月,奕劻孫毓汶與蒲萄牙便羅沙議中蒲約五十四欵及專欵三條成 十二月,雲南地震

十四年,春正月,添置甘肅新疆伊塔道缺 二月,以重修清漪園改爲頣和園工程吿竣諭擇於四月初十日奉皇太后臨幸駐蹕 三月,江蘇地震 夏四月,京師雨雹 五月,京師奉天山東地震 六月,京師雨雹 秋七月,永定河隄工漫口 十二月,太和門災貞度門失火延燒太和門及庫房等處 因太和門災命停止頣和園工程

十五年,春正月,立赫葉那拉氏爲后他他拉氏爲瑾嬪他他拉氏爲珍嬪后爲太后弟副都統桂祥之女瑾嬪珍嬪爲原任侍郎長叙之女 二月,帝親政自是帝雖有親裁大政之名而實無主權一切用人行政仍爲太后所主持也 太后懿旨宣示醇親王奕譞豫杜妄論原奏先是光緒元年,正月初八日,奕譞奏稱厯代繼統之君推崇本生父母者以宋孝宗不改子稱秀王之封爲至當慮皇帝親政後僉壬倖進援引治平嘉靖之說肆其奸邪豫具封章請俟親政時宣示天下俾千秋萬載勿再更張等語至是河東河道總督吳大澂奏請飭議尊崇醇親王典禮奉太后懿旨兹當歸政伊始吳大徵果有此奏若不將醇親王原奏及時宣示則後此邪說競進妄希議禮梯榮其患何堪設想用特明白曉諭並將醇親王原摺發鈔俾中外臣民知之 以大婚禮成上太后徽號 三月,以歸政禮成上太后徽號 帝侍太后幸頤和園閱視神機營水陸操太后居西苑時設市肆於北海承光殿側羅列百貨店主皆以宦者爲之朝臣爭入市購買太后時親往問價至是頤和園落成帝親侍太后游覽後嘗駐蹕其中新於萬壽山之巔剏建佛香閣俯臨排雲殿矗立雲表松槐夾峙千步廊由玉瀾堂樂壽堂迤邐而西達殿門外復設有船隖𤥨石而成在仁壽殿之西南與萬壽山相對舊名寶蓮航亦名石舫復於昆明湖中置小輪舟二艘又於園外東南隅設電汽房專司園中電燈太后在園中日夕以聽戲爲樂嘗率妃嬪福晉太監等乘小艇於湖中照像用漁家服有時著古漢裝太后扮觀音餘扮龍女善男童子等李蓮英扮韋馱旁立其攝影流傳外閒亦不之禁夏六月雲貴總督岑毓英卒予謚襄勤毓英官滇二十餘年恩信感人深父老兒童皆稱我老宫保云 秋八月,安徽廵撫陳彝奏陳因利局章程請通飭各省仿行不許彝疏稱醵錢立局借給貧民限日還本不復取息廷旨以其章程煩瑣恐妨擾民著不准行天壇祈年殿災壇在正陽門外左側北門外爲祈年殿復爲皇乾殿齋宫在殿之東南是月二十四日申刻雷雨交作霹𩆝一聲直擊祈年殿扁額碎陵陡然火起至戍刻全殿悉爲灰燼數十里內光同白晝香氣扐發蓋其棟楹以香楠爲之乃明永樂時所建也火勢至天明乃熄 江蘇浙江湖北大水是年蘇浙鄂諸省本皆大稔迨祈年殿火災日各省亦於是日始逢大雨厯四旬餘乃霽 冬十月,命各省藩臬陳奏事件 命禁革差徭諸弊 命各省將支應善後採辦轉運等局刪減歸倂勒限三個月開軍奏報 命各省將軍督撫嚴緝盜賊訪拏訟棍

十六年,春三月,裁福建船政大臣以總督兼管 瞻對番目撒拉雍珠與巴宗剌麻句結野番滋事成都將軍岐元等遣副將徐聯魁等討之。 夏四月,前兵部尙書彭玉麟卒予謚剛直玉麟剛介絕俗治軍時遇部下若布衣昆弟而紀律極嚴廵閱長江水師十餘年共劾罷營哨官百八十二人江湖肅然將佐畏威地方有司亦望風震懾民閒諸不軌之徒作奸犯科愍不畏法者輒相驚曰彭打鐡來矣言其執法嚴峻也 吉林省城火災延燒官民房舍千五百餘閒 六月,直隸水災 永定河工漫口 秋八月,前陜甘總督楊岳斌卒予謚曰勇愨岳斌治水師功高與彭玉麟等軍中稱彭楊法越事起岳斌奉詔入閩幫辦軍務和議成還籍至是卒於家 九月,御史吳兆泰奏請停止頣和園工程命交部嚴議兆泰疏中咯稱現值畿輔水災河決米塞及工程未停有累聖明等語廷旨以其於朝廷孝養之心全未體會實屬冒昧已極予嚴譴 冬十月,兩江總督一等威毅伯曾國荃卒予謚忠襄 十一月,帝本生父醇親王奕譞薨帝詣邸成服行禮旋奉懿旨定稱號曰皇帝本生考謚曰賢子鎮圖公載澧卽日承襲王爵載洵晉封不入八分鎮圖公載濤晉封不入八分輔國公帝持服期年御縞素十一月輟朝十一日期年內御便殿時用素服

十七年,春正月,刑部尙書貴恆等奏查覆已革福建建寧府知府蔣斯岱呈控被參冤抑並劣員營謀署缺案先是斯岱以考劣開缺已裁建寧釐局委員知府梁玉瑜覬覦署任匃總兵沈茂勝爲干於營務處道員劉麒祥又知前局中司事秦燾爲督署幕友舉人王濟光戚屬因並託以于濟光顧燾雖面諾之而心憚濟光清正未敢發及玉瑜委署建寧府缺麒祥遽發電覆茂勝謂梁事已成尙須加銀三百麒祥客某復私電茂勝索玉瑜金燾亦以函賀玉瑜且自炫冀乘此染指事惠爲斯岱所聞乃具稟請緩交替玉瑜因揚斯岱抗印總督楊昌濬怒奏革斯岱職斯岱尋復抄得麒祥等電成遂控玉瑜行賄詞連燾並隱侵濟光昌濬疏請派員會審廷旨仍令自行提訊案未結而昌濬移督陜甘以去斯岱乃固指昌濬受睞麒祥與茂勝過付更具呈都察院朝命貴恆及左副都御史沈源深赴閩查辦值濟光病故遂悉舉全案關鍵以坐之誣稱濟光致書茂勝詐玉瑜賄金三百於督署廳事後交受復稱濟光原書已失請免驗獄上濟光革舉人以身故得免議玉瑜茂勝先已革職至是均遣戍昌濬坐失察降級燾等杖罰有差而麒祥電據確鑿實案中主要竟曲爲脱之反得不坐後始以他事革職 四川會理州民黃子榮等糾衆滋事攻陷雲南富民祿勸二縣城總督王文韶遣兵剿平之 夏四月,安徽蕪湖江蘇丹陽湖北武穴等處敎堂相繼爲匪徒焚燦命各督撫嚴拏訊辦 六月,命查哥老會 山西大旱 秋七月,山東廵撫張曜卒予謚勤果初

咸豐八年春,河南捻圍固始時曜爲固始民圍長與縣令蒯某協城守夜以壯士三百出城襲破敵營會科爾沁親王僧格林沁率師來援見曜一人於火光中往來搏戰甚力嘆曰壯士也立召見大奇之由縣丞奏保知縣並賜勇號令從軍征討後捻頻擾固始百姓謳思曜謂張公來難可少紓於是大府檄曜權固始洊擢河南布政使御史劉毓柟查案河南索賂遺不至乃劾曜目不識丁改總兵及左宗棠督師新疆奏以曜領兵積功至廣東提督新疆平宗棠爲奏復文職授廣西巡撫未至任命挑濬京師護城河又命查勘山東黃河遂調山東廵撫在東省七年築河隄修道路閒廠局精製逭凡有益於官民者莫不具舉至是卒所部嵩武軍改歸李鴻章節制調遣 八月,命刊發勸善要言 致仕大學士寶楨卒予謚文靖 新疆溫宿州雨雹鎮西廳大水 冬十月,直隸邊外熱河等處金丹道敎首楊悅春等作亂竄擾蒙古並陷朝陽等州縣𦆑奉直兩省會師剿平 雲南鎮邊地方新附裸人滋事官軍剿平之 十二月,貴州下江廳苗人滋事旋爲官軍剿平 匪首李國珍在敖罕滋事分掠東翁牛特各旗踞烏丹城北大寺直隸官軍剿平之

十八年,春三月,前大學士閻敬銘卒予謚文介敬銘狀貌短小二目一高一低入翰林改官户部湖北廵撫胡林翼奏調總辦東征糧臺疏中有閻敬銘氣貌不颺而心雄萬夫之語太后初亦敬其德望在宫中語及常以字而不名旣授大學士以太后興修三海敬銘靳不予欵頓失慈眷屢遭詰責引疾家居四年至是又以遺疏忤太后意卹禮獨薄僅賜太子少保銜以一品大臣飾終之典予二品官階二百年閒一人而已時禮臣以賜謚請幾靳不與户部侍郎張蔭桓爲力言於帝乃得請 夏六月,京師蝗飛蔽天江蘇安徽山西蝗蝻徧地 閏六月永定河堤工漫口 革山西巡撫阿達春職先是左副都御史徐致祥參新授山西廵撫阿克達春貪績帝責其旣有所聞應卽隨時具奏御史余聯玩又參阿克達春在安徽藩司任內劣蹟昭著及不通文理命兩江總督劉坤一查辦尋阿達克春召見於詢問事件奏對未明晳命開缺至是劉坤一覆奏所參皆實遂革職 秋七月,山東惠民等處隄埝漫溢 定竊毀電報捍線罪 冬十月,諭禁各省州縣濫用非刑

十九年,夏五月,貴州普安直隸廳妖匪劉燕飛滋事旋官軍剿平之六月永定河堤工漫口 秋七月,四川打箭爐屬地震惠遠廟一座剌麻寺七座漢夷民房八百零四户皆震壓斃剌麻七十四漢夷兵民百三十七傷者七十 八月,豁除海禁從出使大臣薛福成奏請也 十一月,新疆庫車廳地連震

二十年,春正月,命河東河道總督許振緯會同李鴻章籌辦永定河工 越南游匪竄擾滇邊都章等處經官軍擊退。 二月,駐美使臣楊儒與美外部續定蓽工條約六款成。 三月戊寅朔,日食。 添設湖南南洲直隸廳從廵撫吳大澂奏請也 湖南酃縣會匪鄧世恩等擾竄江西攻永寧縣城爲官軍剿平 京師南城外陶然亭畔葦潭中有怪聲如牛鳴時市井人妄刊圖說名之曰大老妖謂其物專噬洋人有識者皆哂之步軍統領福錕調兵窮搜卒莫得端倪內務府至召僧道設壇諷經以禳之數月後始寂然 夏四月直隸永平遵化府州屬大風雨數晝夜廬舍民田淹没 雲南永平廳匪首丁洪貴等滋擾川滇邊境爲兩省官軍剿退。 秋七月,江蘇上海縣城內外地生毛黑若猪祭 直隸霪雨天津大水 前甘肅新疆廵撫劉錦棠卒予謚襄勤。 八月,從户部奏請命各省息借商欵以充軍需時方與日本開戰也 以太后六旬萬壽上徽號 太后命六旬慶辰典禮仍在宫中舉行其頤和園受賀事宜卽行停辦先是議定十月初十日太后萬壽援康乾閒成例踵事增蓽帝率中外臣工詣萬壽山行慶賀禮於是各省疆吏派員祝從自頤和園至西苑沿途分段點綴景物建設經壇至是因中日戰事中國海陸軍屢敗廷臣交章諫諍乃命停辦園內點景至日仍於排雲殿受賀。 冬十月,降瑾貴妃珍貴妃皆爲貴人二妃皆能詩珍貴妃兼通政術故帝尤寵之時有編修文廷式者二妃之師也以大考一等第一擢侍請學士(自七品擢升四品)太后疑帝以二妃故進之也至是奉懿旨以瑾妃珍妃近來習尙浮華屢有乞請均革去妃號降爲貴人(自二級降至五級)且命褫衣廷杖並謫妃兄志銳於烏里雅蘇臺廷式以託病出京僅免於罪。 十二月,革御史安維峻職遣戍張家口維峻疏參李鴻章詞連李蓮英並謂皇太后旣歸政皇上若仍遇事牽制將何以對祖宗天下至李蓮英是何人斯敢干政事如律以祖宗法制李蓮英豈復可容廷旨以其肆口妄言命革職遣戍維峻發遣時都中謭傳蓮英惡之甚將欲得而甘心有幽燕大俠大刀王五者(名正誼)聞之踵門求見曰此去途中多暴客非小人爲衛必不免因護之往車馱資皆其所出

二十一年,夏五月,奕劻侍郎徐用儀與法國續議商務專條附章成 湖北大水 閏五月,命中外大臣保薦人才 命各省將軍督撫就本省情形將籌餉練兵卹商惠工各節妥籌辦法限一月內覆奏 新疆地震。 六月,福建古田縣民殺英國敎士數人命嚴拏首要並諭地方官實力保護敎堂 命閩廣督撫派員赴南洋各島暨新舊金山招徠僑商承辦各省船械機器等局。 秋七月,廣東福建地震 京師疫。 八月,瞻對番官對堆奪吉等滋事 革四川總督劉秉璋職時各省敎案迭起外人要求懲辦官吏是年五月四川省城有打毀敎堂及省外各處疊出敎案故有是譴。 冬十月,革吏部右侍郎汪鳴鑾户部右侍郎長麟職先是長麟於入對時以帝名雖親政實則受制於太后請帝獨攬大權曰太后於穆宗則爲生母於皇上則爲先帝之遺妾耳天子無以妾爲母者鳴鑾時同召見亦以其言爲然後此語寖聞於太后時太后與帝日益猜忌至是大怒帝不得已乃降諭以二人上年召對時屢次信口妄言跡近離閒命均革職永不叙用

二十二年,春正月,設官書局於京師先是康有爲等剏設強學書局講求時務爲御史楊崇伊奏請封禁旋御史胡孚宸奏請將強學局改歸官辦至是經總理各國事務衙門奏准設立。 二月,前臺灣廵撫一等男爵劉銘傳卒予謚壯肅 設立郵政 殺太監寇連材連材直隸昌平州人初入宫爲太后梳頭房太監甚見親愛凡宫內會計皆使掌之已而爲奏事處太監一年餘復爲太后會計房太監時以太后復專政柄杖二妃逐朝臣蓄志廢立日逼帝爲蒱博之戲及吸食鴉片而別令太監李蓮英及內務府人員在外廷布散流言稱帝之失德又將大興土木修圓明園連材大憂之是月初十日晨起流涕長跪太后榻前曰國危至此老佛爺(宫內人稱帝爲佛爺太后則加稱老佛爺)卽不爲祖宗天下計獨不自爲計乎何忍更縱游樂生內變也太后以爲狂叱之去連材乃乞假五日歸訣其父母兄弟出其所記內廷事一冊授其弱弟記事中最要者一太后驕侈淫佚絕不以帝爲念后亦因二妃故與帝不睦故帝伶仃異常一帝每日御膳其饌羅列數十品然離御座稍遠之饌半已臭腐故帝每食不飽有時偶欲易一饌品太后輒以儉德責之一太后待帝每日訶斥之聲不絕稍不遂意常加鞭撻或罰令長跪故帝見太后如對獅虎膽爲之破至今每聞鑼鼓聲吆喝聲雷聲輒變色一帝每至太后前長跪請安不命之起不敢起甲午六月高麗軍事旣起帝請停頤和園工程以充軍費太后大怒自是至乙未九月閒凡十餘月不與帝交一言每日必跪至兩點鐘之久始命之起連材旣還宫至十五日乃上摺凡十條一請太后勿攬政權二請勿修圓明園以幽皇帝餘皆人所不敢出口之言太后閱之怒召而責之曰本朝成例內監有言事者斬汝知之乎曰知之奴才若懼死則不上摺也於是命囚之於內務府愼刑司十七日移交刑部命斬臨刑肅衣冠望闕九拜乃就義時編修宋育仁在京師聞耗大哭曰清亡無日矣余不忍見銅駝臥荆棘中也棄官歸時同挂冠者尙有六人皆一時知名士也京中有作者七人之嘆 革翰林院侍讀學士文廷式職廷式感帝知遇忠讜盡言致觸太后之忌寇連材旣被難同時梳頭房太監王四以附帝故發往軍臺人有聞海者號古庭帝之內侍本爲貢生甚忠於帝亦發往𥁃古塔(後殺之)於是楊崇伊希太后旨劾廷式遇事生風常在松筠庵廣集同類聯名入奏並有與太監文海結爲兄弟情事卽古廷也崇伊蓋誤以聞爲文云故殺連材之次日遂有驅逐廷式出都之事松筠庵在內城之宣武門外中祀明賢楊椒山曾三疏揭嚴嵩罪狀者諫垣中人凡有所論奏皆於庵內召集同官聯名上疏蓋有所矜式也 户部衙門災。 夏五月,帝生母醇親王福晉赫葉那拉氏薨因山東曹單一帶刀匪肆擾命江南山東督撫速卽剿除。 六月,瞻對番官帶兵出巢滋事四川官軍擊退之 永定河堤工漫口 户部侍郎張蔭桓與日本使臣林董定通啇行船章程二十九欵成。 秋七月甲午朔,日食。西寧回首劉四伏竄至羅布淖爾之和兒昂新疆官軍討擒之 以四川松潘番子亂事一律肅清予總兵夏毓秀獎叙有差。 九月,督辦軍務處王大臣與俄國使臣賈  訂新約十二條成。 冬十月,四川廵撫鹿傳霖攻克上中下三瞻全境一律歸順。 十二月,江西福建地震

二十三年,春三月,貝勒載澍忤太后旨命革去貝勒交宗人府重責八十板於空室永遠監禁載澍爲孚敬郡王子初穆宗疾革時遺詔欲以載澍入繼大統故太后深嫉之其妻乃太后之姪女載澍有妾生子妬殺之爲載澍所詰責憤而訴於太后孚邸之福晉因入宫謝太后遽下詔謂載澍平日不孝於母今經其母入宫面奏若不從嚴懲辦殊乖孝治之意遂獲嚴譴詔下後福晉昏暈於地載澍在獄每日僅許進一飯嚴冬僅一袴蔽體惟一老獄卒憐其爲皇孫日則熾爐烘之夜則擁之以臥而已。 夏四月,江西大水。 五月,鹿傳霖討擒德爾格忒(一名疊蓋)小土司昂翁降白仁靑母子囚之老土司頭目人等獻地歸誠命改流設官 前大學士張之萬卒予謚文達。 秋七月,協辦大學士李鴻藻卒予謚文正。 冬十二月,諭各省實力保護敎堂 命各部院堂官當常川進署辦事

二十四年,春正月乙酉朔,日食 設經濟特科從貴州學政嚴修奏請也特科敎以六事曰內政曰外交曰理財曰經武曰格物曰攷工由三品以上京官及督撫學政各舉所知咨送總署會同禮部奏請試以策論名曰經濟特科 頒發昭信股票詹事府右中允黃思永奏請籌借華欵追自強股票名曰昭信股票以五釐行息分二十年本利還訖户部議印造股票一百萬張命京外王公將軍督撫及大小文式官員均領票繳銀以爲商民倡 命開辦京師大學堂命嗣後武科改試鎗礮。 三月,諭各省裁撤各局整頓保甲嚴裁空糧又勸辦常平倉皆從尙書剛毅奏請也。 閏三月,德國親王亨利覲見 夏四月江蘇淮徐海府州各屬大水 恭親王奕訢卒予謚曰忠,命配享太廟 命各省將所有大小書院一律改爲學堂 命各省保舉使才

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