清史紀事本末通使と留学生の選派(通使及選派留学)

要約

光緒元年八月、郭嵩燾と許鈴身をイギリスへ出使させ、まもなく鈴身を日本へ改め、劉錫鴻を駐英副使とし、鈴身が直隷にとどまったので何如璋を日本の使者とした。同治六年の志剛・孫家穀、九年の崇厚の派遣は臨時であった。五月、総署が洋務の人材を蓄えることを請うて許され、諸使臣を各国に分駐させ交渉に当たらせた。

十一月、陳蘭斌と容閑を美・日・祕三国への出使とした。同治十一年に曾国藩・李鴻章の請いで幼童をアメリカへ遊学させ、二人が学生管理として駐在した。蘭斌らは華人十四万余、金山一帯に六万を調べて総領事を設け、古巴・秘魯にも領事を置いた。

二年八月、馬嘉理の一件の議定に使臣を派して惋惜の意を表す一条があり、総署が出使の経費を擬定した。十二月、李鴻章・沈葆楨が李鳳苞に福建船廠の学生三十名を率いさせ、英仏で製造と駕駛を学ばせた。三月、武弁卞長勝ら七人をドイツの武学院に遣わして軍械技術を講習させた。

三年、錫鴻をドイツへ改めて駐英副使を廃し、日本の横浜・神戸・長崎に理事を、新嘉坡に領事を設けた。四年以後、嵩燾にフランス公使を兼ねさせ、曾紀沢を英仏、李鳳苞をドイツ、崇厚をロシアへ遣わして伊犁の件を議させ、六年には紀沢に改約を議させた。七年、檀香山に領事を設け、鄭藻如を美・日・祕へ出使させて蘭斌を召し還し、副使の職を廃した。

十年以後も許景澄・劉瑞芬・張蔭桓・洪鈞・薛福成・崔国因・李経方・汪鳳藻・楊儒・龔照瑗・羅豊禄・黄遵憲・伍廷芳・呂海寰らを各国へ出使させた。十一年、イギリスが緬甸を滅ぼし境界の件が重大なので紀沢を召して諮問した。十三年、張之洞が小呂宋の華民のため総領事を請うたが許されなかった。

十七年正月、薛福成の請いで南洋の各島に領事を設けた。前年、丁汝昌の南洋巡歴で、領事の無い各地の華民約三十万が土人の虐待を訴えた。香港に正領事を設け、新嘉坡の領事を海門等処総領事と改めた。二十年十月、王之春をロシアへ赴かせ皇帝の喪を弔い新皇帝の即位を祝賀させた。

二十一年正月、海陸の軍が日本に敗れたので李鴻章に全権を仮して広島で和議させた。十二月、ロシア皇帝の戴冠の祝賀はもと王之春の予定だったが、駐京ロシア公使喀希尼が任に堪えるのは李中堂のみだと抗議したので鴻章を正使とした。実は鴻章を誘って中露密約を運ばせる狙いで、二十三年、張蔭桓をイギリスへ赴かせ女皇の即位六十年を祝賀させた際も、喀希尼はお忍びでイギリスへ行き蔭桓を招いて密約に反対させないようにした。

二十四年四月、同文館の学生を派し、各督撫に学生を選んで日本へ留学させるよう咨した。日本使臣矢野文雄が経費を出し二百名を限度と告げ、楊深秀が奏したのによる。八月、政変で黄遵憲が病と称して解任を請うたので李盛鐸を日本へ出使させ、十月、楊儒を海牙へ赴かせ紅十字会の件を会議させた。二十六年十二月、張百熙をイギリスへ赴かせ国君の喪を弔い新国君の即位を祝賀させた。二十七年四月、前年の拳匪の乱でドイツ公使克林徳が殺されたので醇親王載灃をドイツへ赴かせ謝罪させ、跪拝の礼を求められると聞いて国境に滞留したが、政府が公法に拠って争うとドイツ皇帝も融通をきかせた。杉山彬の件では那桐を日本へ遣わした。

六月、許台身を韓国へ出使させた。朝鮮が帝を称し国号を韓と改めたので朝議は絶交を主張したが、帝は韓も隣国で諸国と異ならぬとして拝謁を許した。七月、楊儒がロシアとの条約議定で威嚇と利誘に抗しきれず病を理由に休暇を請うたので、羅豊禄を転じてロシアへ出使させた。載灃はドイツで国書を捧呈ののち諸国へ赴こうとしたが、ドイツ皇帝が趣旨に背くとして贈り物を受けず、召し還された。十月、張徳彝をイギリスへ出使させ、自主独立した古巴の公使を兼ねさせ新条約を結ばせた。

二十八年、三国の請いにより許鈺・楊兆鋆・呉徳章を義・比・墺へ出使させた。十月、汪大燮を日本遊学生総監督とした。蔡鈞が自費生の振武学校入学に反対し学生代表は逮捕・護送帰国させられ、鈞は学生が康有為に唆され騒いだと電したが、日本の外務大臣は載振に人材を愛する人を総監督に充てよと言った。以後、取り締まりは厳しく留学界は多事となった。十二月、溥倫をアメリカ散魯伊斯城博覧会の正監督とし、黄開甲と柯爾楽を副とした。

二十九年七月、日本遊学生王璟芳に挙人出身を賞与し、十月、楊晟をオーストリアへ出使させた。

三十年、墨国と南斐洲のイギリス属地に総領事を設けた。日露が東三省を戦場とし政府が局外中立を宣告したので、東京留学生は恥じて同仇会を興し学生軍を組織して抵抗を願い出たが、政府は応ぜず代表を捕らえ、駐京日本公使に抑圧を請うた。

三十一年、海外の学生を試験して金邦平らに出身を賞し、毎年の常例となった。七月、周馥の請いでドイツ語学生十名をオーストリアで陸軍を学ばせた。各省に多く欧米へ遊学させ、劉世訓・汪大燮・李経邁らを諸国へ出使させた。十月、陸徴祥を専使として海牙平和会議に赴かせ、銭恂を副とした。会では各国代表が中国の法律の弊害と徐錫麟・秋瑾両件の連座の惨酷をそしり、領事裁判権の返還を拒んで中国を三等国に落とそうとした。徴祥は力争し、政府も一等国の扱いを各国に請い、すでに一等国なみに費用を分担しているとのフランス代表の答えに拠って声明した。会衆は中国の兵艦が平和を保ちがたいと譏り、武官代表丁士源の越権に戒飭を求めた。十一月、奕劻に宗室を選んで海外で武備を学ばせた。

三十二年以後も汪大燮を日斯巴尼亜皇帝の大婚祝賀に遣わし、雷補同・伍廷芳・陸徴祥・蔭昌らを諸国へ出使させ、西貢・河内・瓜哇に領事を増設し、遊学卒業生に出身と奨励を与えた。アメリカが賠償金を減らしたので唐紹儀に謝意を表させた。

年表

清朝が常駐の出使大臣を各国に置き、あわせて領事館を増設し、留学生を派遣していった経緯を記す。郭嵩燾・劉錫鴻・何如璋・陳蘭斌・容閑らの派遣に始まり、曾紀沢・薛福成・許景澄・伍廷芳らが英仏独露米日などに歴任し、金山・古巴・新嘉坡・檀香山・小呂宋など華民の集まる地に領事設置が議された。留学では福建船廠の学生を英仏へ、武弁をドイツへ送り、のち日本留学が盛んになって蔡鈞と学生の衝突から汪大燮が総監督となり、帰国留学生への進士・挙人賞与も常例化した。光緒元年(1875年)から光緒三十四年(1908年)に及ぶ。

年表(29件)

現代語訳全文

西暦1875年 徳宗光緒元年

  • 秋八月、侍郎の郭嵩燾、道員の許鈴身を派遣してイギリスに出使させ、まもなく鈴身を改めて日本国への出使に派遣し、五品京堂の劉錫鴻を代わりに駐英副使とした。鈴身は事情があって直隷にとどまり、さらに侍読の何如璋を代わりに日本への使者とした。
  • はじめ、同治六年十月に、道員の志剛、郎中の孫家穀を派遣し、アメリカ人の使節蒲安臣とともに条約を結んでいる各国へ出使させ、中国と外国との交渉を処理させた。同治九年五月、天津教案が起こり、侍郎の崇厚に命じてフランスへ出使させた。いずれも臨時の派遣であって、常駐の官吏ではなかった。
  • この年の五月ごろ、総理各国事務衙門が、洋務に習熟した人材をあらかじめ蓄えておくことを上奏して請い、聴許する旨の詔を得た。ここに至って、あらためてこの命が下り、諸使臣を各国に分かれて駐在させ、参賛・領事などの官を統率して、いっさいの交渉事件を処理させることとした。
  • 冬十一月、三品京堂の陳蘭斌、同知の容閑を、美(アメリカ)・日(日斯巴尼亜)・祕(秘魯)の三国への出使とした。これより先、同治十一年正月、両江総督の曾国藩、直隷総督の李鴻章が、幼童を選抜してアメリカに赴かせ学業を修めさせることを上奏して請い、蘭斌と容閑がともに学生管理の役に派遣され、常時アメリカに駐在していっさいを取り仕切っていた。ここに至って、命を奉じて美・日・祕三国に駐箚する公使となったのである。
  • 蘭斌らはアメリカに到着した後、アメリカ各邦の華人は合わせて十四万余人、うち金山一帯だけですでに六万人あることを調べ、金山埠に領事を設けることを上奏し、道員の陳樹棠を総領事に充ててその地に駐箚させ、金山のアメリカ人紳士である傳列祕を領事に充てた。日斯巴尼亜に至っては、その属鳥(属島の誤りか)である古巴があり、そこで雇われ働く華民が六万余人あることを調べ、そこで古巴総領事一員を設け、主事の劉亮沅をこれに充てた。馬丹薩領事一員には、同知の陳善蓄をこれに充てた。ほどなくまた秘魯の嘉里約領事一員を設け、しばらくは利馬に駐在させて駐祕参賛の官署の中に居らせ、後には専ら海口に駐在させた。

西暦1876年 光緒二年

  • 秋八月、総理各国事務衙門が出使の経費を上奏して定め、これを許した。当時、雲南の匪徒が馬嘉理を殺害した一件の議定がまとまり、李鴻章とイギリス公使とが条款を議定したが、その中に「使臣を選んで派遣し、璽書を斎(「齎」の誤りか)奉じてイギリスに赴き、婉惜(「惋惜」の誤りか)の意を表明する」という一条があり、そこで先に派遣した使臣の郭嵩燾らが出洋してイギリスへ赴こうとしていた。ここに至って、総署が出使の経費を擬定して上奏し、聴許する旨の詔を得たのである。
  • 冬十二月、李鴻章・沈葆楨が、道員の李鳳苞らに福建船廠の学生三十名を率いさせ、イギリス・フランスの両国へ分かれて赴かせ、製造と駕駛とを学ばせることを上奏して請い、これに従った。
  • これより先、同治六年六月、閩浙総督の左宗棠が福建に船廠を設けることを上奏し、保楨(葆楨の誤りか)を船政総理に推薦した。前後五年の間に、輪船三号、兵輪二十艘を造り上げ、各海口に分けて配置した。はじめに拉鉄・打鉄・鋳鉄・輪機・水缸の諸工場を建て、学堂二か所を開き、幼童を選んで駕駛・製造の諸技術を分けて学ばせた。同治十二年十一月、船廠の前学堂・後学堂から学生を選んで派遣し、イギリス・フランスへ分けて赴かせ、製造・駕駛を学ばせることを上奏して請うた。(朝廷は)鴻章らに下して会同協議させたが、まもなく台湾に事変があったため議は取りやめとなった。光緒元年四月になり、閩廠の監督である日意格が帰国するにあたって、保楨は学生数名を派遣して随行させフランスに遊学させた。
  • この年の三月、海防の洋人教習である都司の李励協が職を解かれてドイツへ帰るにあたり、鴻章は武弁の卞長勝ら七人を派遣して同行させ、ドイツの武学院で水陸の軍械技術を講習させることを上奏した。ここに至って、さらに鳳苞を遣わし、製造学生十四名、製造の藝徒四名を引き連れてフランスの官立学校・官営工場へ赴かせ、製造を学ばせた。また駕駛学生十二名をイギリスの格林回次士穆徳学堂ならびに鉄甲の大兵船へ赴かせ、兵船の駕駛を学ばせた。

西暦1877年 光緒三年

  • 春三月、駐英副使の劉錫鴻を改めてドイツへの出使に派遣し、駐英副使の職を廃した。
  • 夏五月、日本に駐箚する使臣の何如璋が、日本の各開港場に理事を設立することを上奏して請い、これに従った。横浜・築地の両港には正理事一員を設け、同知の范錫朋を派遣して充てた。神戸・大阪の両港には正理事一員を設け、同知の劉専鏗を派遣して充てた。長崎の一港には正理事一員を設け、中書の余瓗を派遣して充てた。
  • 秋九月、駐英使の郭嵩燾が、イギリス領の新嘉坡に領事を設立することを上奏して請い、これに従った。嵩燾は上奏して、「イギリスの新嘉坡島は万国の通り道であって、四方八方の人々が入り混じって住み、華商が集まり、往来は日ごとに繁盛に向かっている。領事官を設立するようお願いすべきである」と述べ、道員の胡璇沢をこれに充て、聴許する旨の詔を得た。

西暦1878年 光緒四年

  • 春正月、駐英使臣の郭嵩燾に命じてフランス公使を兼ねさせた。
  • 秋七月、一等毅勇侯・候補京堂の曾紀沢に命じてイギリス・フランスへ出使させ、道員の李鳳苞に命じてドイツへ出使させた。

西暦1879年 光緒五年

  • 夏五月、侍郎の崇厚に命じてロシアへ出使させ、まもなく全権大臣を授け、臨機に処置することを許した。ロシア政府と伊犁を取り戻す件を議するためであった。

西暦1880年 光緒六年

  • 春正月、大理寺少卿の曾紀沢に命じてロシアへ出使させ、崇厚が取り決めた伊犁返還の条約をあらためて協議し改めさせた。

西暦1881年 光緒七年

  • 春三月、陳蘭斌らが檀香山に領事を設けることを上奏し、これに従った。太平洋の中に国があり、『山域治埃蘭』といい、訳して檀香山と称する。合わせて八島を管轄し、華民が海外へ出る要衝であり、またアメリカ金山への後方の路にあたり、かつ祕魯から中国へ来る際の中継地でもある。ここに至って、その地に領事を設けることを議し、商董で同知の銜をもつ陳国芬を改めて領事官とした。
  • 秋七月、三品京堂の鄭藻如に命じて美・日・祕の三国へ出使させ、陳蘭斌を召して北京に帰らせ、総理各国事務衙門で行走とし、ここではじめて副使の職を廃した。藻如はアメリカに到着した後、紐約埠に領事を設けることを上奏し、通判の欧陽明を領事官に充てた。

西暦1884年 光緒十年

  • 夏四月、侍講の許景澄がフランス・ドイツ・イタリア・オランダ・オーストリアなどの国へ出使することとなり、着任する以前は、李鳳苞に兼ねて署理させた。

西暦1885年 光緒十一年

  • 夏五月、曾紀沢を召して北京に帰らせ、江西布政使の劉瑞芬にイギリス・ロシアへ出使させた。当時イギリスが緬甸を滅ぼし、境界を分ける件はきわめて重大な関係があり、紀沢を召して北京に帰らせ面と向かって諮問することとし、瑞芬をその代わりとしたのである。
  • 侍郎の張蔭桓に命じて美・日・祕の三国へ出使させた。

西暦1887年 光緒十三年

  • 夏五月、内閣学士の洪鈞に命じて俄・徳・墺・和などの国へ出使させ、大理寺卿の劉瑞芬に命じて英・法・義・比などの国へ出使させ、道員の李興鋭に命じて日本国へ出使させた。興鋭は病のため赴かず、庶常の黎庶昌をその代わりとした。
  • 冬十二月、両総督(両広総督の誤りか)の張之洞が小呂宋に領事を設けることを上奏したが、許されなかった。小呂宋埔は日斯巴尼亜国の属地であり、之洞はしばしば上疏して、小呂宋には華民が五万余人おり、日斯巴尼亜人から虐げられている状況を訴え出ていると述べ、官を派遣して保護するよう懇請した。事情を総合して考えれば、総領事を設けないわけにはいかないというのである。電報で使臣の張蔭桓と商議し、総兵の銜をもつ両江の先用副将王栄和を駐箚小呂宋総領事に派遣しようと擬したが、総署はこれを難しいこととし、実行を許さなかった。

西暦1889年 光緒十五年

  • 春二月、江蘇按察使の陳欽銘に命じて英・法・義・比の四国へ出使させたが、まもなく欽銘は病のため免ぜられ、大理寺卿の薛福成をその代わりとした。
  • 三月、侍講の崔国因に命じて美・日・祕の三国へ出使させた。

西暦1890年 光緒十六年

  • 秋七月、侍読の許景澄に命じて俄・徳・墺・荷の四国へ出使させ、道員の李経方に命じて日本国へ出使させた。

西暦1891年 光緒十七年

  • 春正月、駐英使臣の薛福成が南洋の各島に領事を設けることを上奏し、これに従った。前年七月、海軍提督の丁汝昌が南洋の群島を巡歴したが、まだ領事が設けられていない各地には華民が約三十万おり、土着の人々から虐待を受けており、そこで汝昌のもとに集まって訴え、領事の設置を上奏してくれるよう請うた。汝昌は帰って総署にこれを申し述べ、総署は福成に諮って裁量して処理するよう命じた。
  • ここに至って、福成は香港に正領事一員を設け、新嘉坡領事で知府の左秉隆を派遣して充てることを請うた。新嘉坡にもとから設けていた領事は、新嘉坡兼轄海門等処総領事に改め、駐英二等参賛で道員の黄遵憲を転じて充て、新嘉坡に駐箚させ、麻六甲・丹徒斯群島・檳榔嶼・威利斯雷省、およびその属部である科科斯群島を兼轄させた。および白蠟・石蘭莪・松蓋芙蓉・柔仏、以上はみな小邦でイギリスの保護に帰したものであり、イギリス人が各地を連合してその名を海門属都と定めたものである。

西暦1892年 光緒十八年

  • 夏六月、編修の汪鳳藻に命じて日本へ出使させた。
  • 冬十二月、太常寺少卿の楊儒に命じて美・日・祕の三国へ出使させた。

西暦1893年 光緒十九年

  • 冬十一月、道員の龔照瑗に命じて英・法・美・比の四国へ出使させた。

西暦1894年 光緒二十年

  • 冬十月、湖北布政使の王之春に命じてロシアへ赴かせ、ロシア皇帝亜力山徳の喪を弔わせ、あわせて新皇帝尼可来第二の即位を祝賀させた。

西暦1895年 光緒二十一年

  • 春正月、大学士・直隷総督・一等粛毅伯の李鴻章に命じて日本へ赴き和議をさせた。当時、日中の戦事はまさに激烈であり、中国の海陸の軍隊はしばしば日本に敗れていたので、鴻章に全権を仮し、日本の広島へ赴いて講和させ、アメリカ人の福世徳を随行させた。
  • 冬十二月、翌年四月にロシア皇帝の戴冠があるので、李鴻章を正使として派遣し祝賀に赴かせた。これより先、王之春がかつて弔問の使者を務めていたので、祝賀の使者もそのまま彼を派遣することにしていた。ところが北京駐在のロシア公使喀希尼が突然抗議して言った、「皇帝の戴冠はロシアの最も重んじる礼である。王之春は人物が軽く言葉に重みがなく、この任にあたるには足りない。任に堪えうる者はただ李中堂のみである」と。そこで改めて鴻章を頭等公使に派遣し、ロシアへ赴いて祝賀を述べさせた。実際のところは、喀希尼は鴻章を誘ってロシアへ来させ、中露密約の締結を取り運ばせようとしたのである。

西暦1896年 光緒二十二年

  • 冬十月、四品京堂の羅豊禄に命じてイギリスへ出使させ、道員の黄遵憲に命じてドイツへ出使させ、四品京堂の伍廷芳に命じてアメリカへ出使させた。

西暦1897年 光緒二十三年

  • 春二月、侍郎の張蔭桓に命じてイギリスへ赴かせ、女皇維多利亜の即位六十年の慶典を祝賀させた。
  • 三月、北京駐在のロシア公使喀希尼がお忍びでひそかにイギリスへ赴き、内々に蔭桓をロシア遊歴に招き、特別の礼をもって遇して手なずけ、密約に反対させないようにした。
  • 侍郎の呂海寰に命じてドイツ・オランダへ出使させた。黄遵憲が命を受けた後、事情があって赴かなかったからである。

西暦1898年 光緒二十四年

  • 夏四月、詔して総理各国事務衙門に同文館の学生を適宜派遣するよう命じ、あわせて直隷・両江・両広・湖広・閩浙の各総督・巡撫に咨文を送って学生を選抜し日本へ留学に行かせることとした。御史の楊深秀の請願に従ったのである。この年の閏三月ごろ、日本の使臣矢野文雄が総署に書簡を送って告げ、日本政府は中国が人材を必要とすることがはなはだ急であると承知しており、もし学生を選んで派遣し海外で学業を習わせるならば、日本は経費を提供する用意がある、と述べた。さらに自ら総署に出向いて面と向かって、中国がもし学生を日本へ派遣して学業を修めさせるなら、人数は二百名を限度とすると述べた。ここに至って深秀が上奏でこれに言及し、そこでこの命があったのである。
  • 秋八月、四品京堂の李盛鐸に命じて日本国へ出使させた。この年の三月に黄遵憲に日本への出使を命じていたが、まだ赴いていなかった。ここに至って政変が起こり、遵憲は病と称して差使を解くことを請い、これを許して、盛鐸を赴かせたのである。
  • 冬十月、駐俄使臣の侍郎楊儒に命じてオランダ国の海牙城へ赴かせ、日来仏条約、すなわち紅十字会の件を会議させた。当時、各国はこの地で保和公会を設立することを議した。会期(底本はここで文が終わり、以下に脱文があるか)。

西暦1900年 光緒二十六年

  • 冬十二月、左都御史の張百熙に命じてイギリスへ赴かせ、イギリス国君の喪を弔わせ、あわせて新国君の即位を祝賀させた。

西暦1901年 光緒二十七年

  • 夏四月、醇親王載澧(載灃の誤りか)を頭等専使に任じてドイツへ赴かせた。前年五月に北京で拳匪の乱が起こり、ドイツ公使の克林徳を殺害したので、ここに至って載澧にドイツへ赴いて謝罪させ、皇帝の慚愧悔恨の意を表し、あわせて謝意を伝えさせたのである。ドイツ皇帝が彼に跪拝の礼を行わせようとしていると聞き、国境地帯に滞留して進まず、政府が国際公法に照らして強く争ったので、ドイツ皇帝もようやく融通をきかせることを承諾した。
  • 五月、侍郎の那桐を専使に任じて日本へ赴かせた。拳乱の時に日本公使館の書記生である杉山彬が北京で殺害されたので、ここに至って那桐を日本へ派遣し、皇帝の遺憾の意を表し、あわせて謝意を伝えさせたのである。
  • 五品京堂の蔡鈞に命じて日本へ出使させた。
  • 各国に駐箚する公使に命じて、留学の状況を調べ視察し、咨文を添えて中国へ送り帰らせ、試験のうえ採用するのを待たせることとした。
  • 六月、知府の許台身に命じて韓国へ出使させた。当時、朝鮮はすでに帝を称し、国号を改めて韓といい、光武と建元し、使者を遣わして来聘し、対等の国としての礼を用いた。朝廷の議では、朝鮮は藩属でありながら、いま夜郎自大のふるまいをしているのだから、これと国交を絶つにしくはない、とされた。皇帝が言われた、「わが国は朝鮮を保有することができずに日本に付かせてしまった。日本がすでにこれを左右しているとはいえ、朝鮮は国を立て建元し帝号を称しているのだから、韓はもとよりれっきとした隣国である。これが東西の諸国と少しでも異なるところがあろうか。わが国は東西諸国の使者を拒絶することができないのに、どうして韓国の使者だけを拒むのか」と。そこでその拝謁を許し、国書をもって返答すること通常の礼のとおりにした。ここに至って台身を派遣して韓国へ出使させ、漢城に駐箚させた。台身はまもなく漢城総領事を設けることを上奏し、挙人の傅良弼を派遣して充てた。
  • 副都統の蔭昌に命じてドイツへ出使させた。
  • 秋七月、駐英公使の羅豊禄を転じてロシアへ出使させた。当時、駐俄使臣の楊儒がロシア外務部と条約を議していたが、ロシア人が威嚇したり利益で誘ったりし、儒は拒むことができず、そこで車から降りるときに転倒して病を得たことを理由に休暇を請うたので、豊禄に命じて赴かせ引き継がせたのである。
  • 八月、各省に命じて学生を選んで派遣し海外で学業を修めさせることとした。
  • 載澧を召して帰国させた。載澧は命を奉じてドイツに到着し国書を捧呈した後、すぐに出発して美・日およびイギリス・イタリア・ベルギーなどの国へ赴こうと考えたが、ドイツ皇帝は大いに不快とし、専ら真心をもって赴くという趣旨に背くと言って、贈り物を受け取ることを許さなかった。またイタリア皇帝は載澧に書簡を送り、十月十五日以後でなければ接待できないと約した。イギリス朝廷にも出迎えの沙汰がなかった。載澧が電報で申し上げると、ただちに出発して中国へ帰るよう諭旨が下った。
  • 冬十月、四品京堂の張徳彝に命じてイギリスへ出使させた。当時、古巴が自主独立を宣告し、徳彝を派遣して古巴公使を兼ねさせ、古巴と新たな条約をきちんと取り結ばせた。

西暦1902年 光緒二十八年

  • 夏四月、五品京堂の許鈺に命じてイタリアへ出使させ、楊兆鋆にベルギーへ出使させ、呉徳章にオーストリアへ出使させた。従来の例では、オーストリアは駐俄使臣が兼ねて充て、イタリア・ベルギーの両国は駐英使臣が兼ねて充てていたが、三国は国体にかかわるところとして、しばしば中国に専使を派遣するよう請うてきたので、この命があったのである。
  • 六月、五品京堂の胡惟徳に命じてロシアへ出使させ、四品京堂の孫宝琦に命じてフランスへ出使させた。
  • 秋九月、各省に命じて学生を選んで西洋各国へ派遣し、専門の学業を研究させることとした。
  • 冬十月、五品卿の銜をもつ汪大燮を日本遊学生総監督に派遣した。この年の六月ごろ、駐日使臣の蔡鈞が、自費生九人が振武学校に入ることに反対し、学生五十余人が公使館に赴いて要請したところ、日本の警察署が突然学生代表の呉敬恒・孫揆均を逮捕し、護送して帰国させ、さらに五十余人を叱って館から追い出した。そして鈞は北京の外務部に至急電報を打ち、学生が康有為に唆されて、群衆を集めて公使館で騒ぎ立てたと述べた。ちょうど美・日への専使である貝子の銜をもつ載振が日本に立ち寄り、その外務大臣小村寿太郎と会見した。日本人はもとより心中では学生を正しいとしていたが、ただ公然と是非を論じることを望まず、ただ博学で人材を愛する人を選んで総監督に充て、この国に駐箚させるようにとだけ述べた。載振はこれに基づいて復命の上奏をした。ここに至って大燮を東洋へ赴く遊学生を管理する総監督に派遣した。責任の帰属が専一になると、取り締まりはいよいよ厳密となり、日本の留学界はこれより日ごとに事件が多くなった。
  • 十二月、貝子の銜をもつ溥倫をアメリカの散魯伊斯城博覧会に出席する正監督として派遣し、道員の黄開甲と東海関税務司であるアメリカ人の柯爾楽とをその副とした。

西暦1903年 光緒二十九年

  • 秋七月、湖北から日本へ遊学した学生の王璟芳が忠を尽くし正を守ったというので、挙人出身を賞与した。撫臣の端方が電報で請うたのに従ったのである。
  • 冬十月、楊晟に命じてオーストリアへ出使させた。

西暦1904年 光緒三十年

  • 秋九月、駐米使臣の梁誠が墨国総領事を設け、薩里那古盧斯の海口に駐箚させることを上奏し、これに従った。
  • 外務部が南斐洲のイギリス属地に総領事を設け、打蘭士譁路埠などの地に駐箚させることを上奏し、道員の劉玉麟を派遣して充てることとし、これに従った。
  • 冬十月、駐俄使臣の胡惟徳を海牙の会議に赴かせた。
  • 十一月、駐日使の楊枢に電旨を下し、東京留学の学生が同仇会を設立した件をひそかに調べさせた。当時、日本とロシアが兵を交え、東三省を戦場とし、中国政府は局外中立を宣告した。そこでロシアの海軍は旅順に厚く集まり、分かれて海参崴に駐屯し、その陸軍は奉天に厚く集まり、分かれて朝鮮の北部および関東の南部に駐屯した。政府は領内の主権について問いただす勇気もなく、自分の門内で他人が争うのを放任した。日本人はやかましくこれをあざ笑い、中国の今回の空前の奇怪な中立ぶりは笑うべく憐れむべきものだと言った。東京留学の学生はこれを恥じ、全員が激しく憤り、一方では同仇会を興して立て、会員を呼び集め、歯ぎしりし目をむいて、息をきらし汗を流して奔走した。一方では学生軍を組織し、代表の鈕永建を派遣して国内に渡らせ、南北の地方長官を連合させて政府に働きかけ、統制を受けてロシア人に抵抗したいと願い出た。ところが政府は頑なに応ぜず、一方では直隷総督に代表を捕らえさせ、一方では電報で公使を促して威圧して解散させ、ついには北京駐在の日本公使内田に、東京留学の学生を抑圧する方法を講じてくれるよう啇(「商」の誤りか)請するに至った。

西暦1905年 光緒三十一年

  • 夏六月、海外へ出た学生を試験し、金邦平らに進士・挙人の出身を差等をつけて賞与した。これより毎年留学生を試験することが常例となった。
  • 秋七月、両江総督の周馥が、普通のドイツ語学生十名を選んでオーストリアへ赴かせ陸軍を学ばせることを上奏して請い、担当の役所に下してこれを知らせた。
  • 八月、各省の総督・巡撫に命じて、多く学生を派遣し欧米に遊学させることとした。
  • 四品京堂の劉世訓に命じてフランスへ出使させ、三品京堂の周栄曜に命じてベルギーへ出使させ、五品京堂の黄誥に命じてイタリアへ出使させ、外務部参議の汪大燮に命じてイギリスへ出使させ、楊晟を転じてドイツへ出使させ、李経邁にオーストリアへ出使させた。栄曜は事情があって赴かなかったので、改めて順天府府丞の李盛鐸に命じてベルギーへ出使させた。
  • 九月、改めて四品京堂の楊兆鋆を派遣してベルギーへ出使させた。当時、李盛鐸に載沢らと会同して各国へ赴き政治を考察するよう命じたので、改めて兆鋆にベルギーへ出使するよう命じたのである。
  • 冬十月、前の駐俄使臣である陸徴祥を専使としてオランダ国の海牙平和会議に赴かせ、駐荷使臣の銭恂をその副とし、アメリカの前外務大臣福士達を随行させた。会期は三十三年五月五日に挙行すると定められた。開会に及んで、各国代表が公判所の設立を提議し、会衆はこぞって中国の法律が最も弊害が多いとそしり、安徽・浙江の徐錫麟・秋瑾の両件は連座が惨酷であると言い、永久に領事裁判権の返還を拒むという言葉が出て、中国を三等国に落とそうとした。徴祥は道理に拠って力争し、政府もまた各国政府に公文を送って、一等国として取り扱うことを公認するよう請うた。まもなくフランス代表が回答して、中国はすでに一等国なみに費用を分担しているのだから、当然一等国なみに接待すべきであると述べた。徴祥はそこでこれに拠って会中に声明した。会中ではまた、中国の兵艦は朽ち壊れていて平和を保ちがたいとしたので、あらためて徴祥から電報で政府にすみやかに整頓を加えるよう請うた。会衆はまた中国の武官代表である丁士源が分を越えて勝手なふるまいをしたと譏り、厳しく詰誠(「誠」は「責」の誤りか)を加え、軍の統制に従うよう戒飭することを請うた。
  • 十一月、慶親王奕劻に命じて宗室を選んで派遣し、海外で武備を学ばせることとした。

西暦1906年 光緒三十二年

  • 春三月、駐英使臣の汪大燮に命じて、日斯巴尼亜皇帝の大婚を祝賀する専使とした。
  • 秋九月、遊学の卒業生である陳錦濤ら三十一人に進士・挙人を差等をつけて賜った。

西暦1907年 光緒三十三年

  • 秋七月、外務部右丞の雷補同に命じてオーストリアへ出使させた。
  • 八月、商部左侍郎の伍廷芳に命じて美・墨・秘・古などの国へ出使させた。九月、遊学の卒業生である章宗元らに進士・挙人の出身を差等をつけて与えた。
  • 冬十一月、道員の蒯光興を欧州遊学生監督として派遣した。
  • 十二月、進士館から遊学して卒業した員である楊兆麟らに差等をつけて奨励を与えた。

西暦1908年 光緒三十四年

  • 春二月、外務部右丞の胡惟徳に命じて日本国へ出使させ、銭恂を転じてイタリアへ出使させ、陸徴祥をオランダへ出使させた。
  • 三月、農工商部が西貢・河内・瓜哇に領事を増設することを上奏して請うたのを許した。
  • 夏四月、遊学の卒業生である章宗祥らに進士・挙人の出身を差等をつけて与えた。
  • 六月、進士館から遊学した者および外班の卒業学員である黎湛枝らに差等をつけて奨励を与えた。
  • アメリカが賠償金の取り立てを減らしたことにより、奉天巡撫の唐紹儀を専使として派遣し、赴いて謝意を表させた。
  • 秋八月、陸軍部右侍郎の蔭昌に命じてドイツへ出使させた。
  • 九月、進士館から遊学して卒業した員である陳雲誥らに差等をつけて奨励を与えた。
  • 遊学の卒業生である陳振先らに進士・挙人の出身を差等をつけて与えた。
  • 進士館から遊学して卒業した員である葉尤圻らに差等をつけて奨励を与えた。
  • 冬十月、御史の葉芾棠が、アメリカへ遊学に赴く学生は省ごとに割り当てて派遣するよう上奏し、学部に下してこれを知らせた。
原文(底本)
德宗光緒元年,秋八月,派侍郎郭嵩燾、道員許鈴身出使英國,旋改派鈴身出使日本國,以五品京堂劉錫鴻代為駐英副使。鈴身因事留直隸,又以侍讀何如璋代使日本。初,同治六年十月,派道員志剛、郎中孫家穀偕美使蒲安臣出使有約各國,辦理中外交涉。九年五月,天津教案起,命侍郎崇厚出使法國。皆臨時派遣,非常駐之員。是年五月間,總理各國事務衙門奏請預儲熟悉洋務人才,得旨允行。至是,復有是命,令諸使臣分駐各國,統率參贊、領事等官,辦理一切交涉事件。冬十一月,以三品京堂陳蘭斌、同知容閑出使美、日、秘三國。先是,同治十一年正月,江督曾國藩、直督李鴻章奏請挑選幼童赴美國肄業,蘭斌與閑同派管理學生,常川駐美,經理一切。至是,奉命駐紮美、日、秘三國為公使。蘭斌等抵美後,查美國各邦華人共十有四萬餘,計金山一帶已有六萬,奏設領事於金山埠,以道員陳樹棠充總領事,駐劄其地,金山美紳傳列秘充領事。至日,查有古巴屬鳥,華民傭工其處者有六萬餘人,因設古巴總領事一,以主事劉亮沅充之。馬丹薩領事一,以同知陳善蓄充之。尋又設秘魯嘉里約領事一,暫駐利馬,並居駐秘參贊署中,後專駐海口。

二年,秋八月,總理各國事務衙門奏定出使經費,允之。時雲南匪徒戕殺馬嘉理一案議結,李鴻章與英使議定條款,內有簡派使臣斎奉璽書赴英表明婉惜一條,故前派使臣郭嵩燾等將出洋,前往英國。至是,總署擬定出使經費呈奏,得旨允行。冬十二月,李鴻章、沈葆楨奏請派道員李鳳苞等率領福建船廠學生三十名,分赴英、法兩國,學習製造駕駛,從之。先是,同治六年六月,閩督左宗棠奏設船廠於福建,保薦保楨總理船政。前後五年,造成輪船三號,兵輪二十艘,分佈各海口。初立拉鐵、打鐵、鑄鐵、輪機、水缸諸廠開學堂二所,選幼童分習駕駛、製造諸藝。十二年十一月,奏請於船廠前後學堂選派學生,分赴英、法,學習製造、駕駛。飭下鴻章等會商,旋因臺灣有事輟議。及光緒元年四月,閩廠監督日意格回國,保楨遣學生數名隨往法國遊學。是年三月,海防洋教習都司李勵協解職回德,鴻章奏派武弁、卞長勝等七人同往德國武學院,講習水陸軍械技藝。至是,又遣鳳苞率同製造學生十四名,製造藝徒四名,赴法國官學官廠,學習製造。又駕駛學生十二名,赴英國格林回次士穆德學堂並鐵甲大兵船,學習駕駛兵船。

三年,春三月,改派駐英副使劉錫鴻出使德國,裁駐英副使。夏五月,駐劄日本使臣何如璋,奏請於日本口岸設立理事,從之。橫濱築地兩口,設正理事一,以同知范錫朋派充。神戶、大阪兩口,設正理事一,以同知劉專鏗派充。長崎一口,設正理事一,以中書余瓗派充。 秋九月,駐英使郭嵩燾奏請於英屬新嘉坡設立領事,從之。嵩燾奏稱,英國之新嘉坡島爲萬國通衢、五方雜處、華商輻輳,往來日臻繁盛,應請設立領事官,以道員胡璇澤充當,得旨允行。

四年,春正月,命駐英使臣郭嵩燾兼充法國公使。 秋七月,命一等毅勇侯候補京堂曾紀澤出使英國、法國,道員李鳳苞出使德國。

五年,夏五月,命侍郎崇厚出使俄國,旋授全權大臣,許其便宜行事。因與俄國政府議收還伊犁事也。

六年,春正月,命大理寺少卿曾紀澤出使俄國,將崇厚所收還伊犁條約再行商改。

七年,春三月,陳蘭斌等奏設檀香山領事,從之。太平洋中有國,曰『山域治埃蘭』譯稱檀香山。共轄八島,爲華民出洋要衝,又爲美國金山後路,且係祕魯來華中站,至是,議設領事於其地,以商董同知銜陳國芬改爲領事官。 秋七月,命三品京堂鄭藻如出使美、日、祕三國,召陳蘭斌回京,在總理各國事務衙門行走,始裁副使。藻如抵美後,奏設紐約埠領事,以通判歐陽明充領事官。

十年,夏四月,侍講許景澄出使法、德、義、荷、奧等國,未到任以前,以李鳳苞兼署。

十一年,夏五月,召曾紀澤回京,以江西布政使劉瑞芬出使英國、俄國。時英滅緬甸,分界事關繫綦重,召紀澤回京面詢,以瑞芬代之。 命侍郎張蔭桓出使美、日、祕三國。

十三年,夏五月,命內閣學士洪鈞出使俄、德、奧、和等國,大理寺卿劉瑞芬出使英、法、義、比等國,道員李興銳出使日本國。興銳因病未行,以庶常黎庶昌代之。 冬十二月,兩總督張之洞奏設小呂宋領事,不允。小呂宋埔爲日斯巴尼亞國屬地,洞屢疏稱小呂宋計有華民五萬餘人,分訴日人虐害情形,懇請派官保護。綜核情形,非設總領事不可。經電商使臣張蔭桓擬派總兵銜兩江先用副將王榮和爲駐劄小呂宋總領事,總署難之,不允行。

十五年,春二月,命江蘇按察使陳欽銘出使英、法、義、比四國,尋欽銘以病免,以大理寺卿薛福成代之。 三月,命侍講崔國因出使美、日、祕三國。

十六年,秋七月,命侍讀許景澄出使俄、德、奧、荷四國,道員李經方出使日本國。

十七年,春正月,駐英使臣薛福成奏設南洋各島領事,從之。上年七月,海軍提督丁汝昌巡歷南洋羣島,其未設領事各地,華民約三十萬,備受土人虐待,因而環訴於汝昌,請求奏設領事。汝昌歸言於總署,諮令福成酌奪辦理。至是,福成請於香港設一正領事,以新嘉坡領事知府左秉隆派充。新嘉坡原設領事改爲新嘉坡兼轄海門等處總領事,以駐英二等參贊道員黃遵憲調充駐劄新嘉坡,兼轄麻六甲、丹徒斯羣島、檳榔嶼、威利斯雷省,暨其屬部科科斯羣島。(以上皆英屬土,英人定其總名曰「海門」,共計華民十七萬四千三百二十七萬)及白蠟(卽卑力國計華民六萬餘)石蘭莪(卽石郎阿國計華民二萬八千)松蓋芙蓉(計華民一萬)柔佛(計華民十萬)以上皆小邦歸英保護者英人聯合各地定其名曰海門屬都

十八年,夏六月,命編修汪鳳藻出使日本 冬十二月命太常寺少卿楊儒出使美日秘三國

十九年,冬十一月,命道員龔照瑗出使英法美比四國

二十年,冬十月,命湖北布政使王之春如俄唁俄皇亞力山德之喪並賀新皇尼可來第二卽位

二十一年,春正月,命大學士直隸總督一等肅毅伯李鴻章如日本議和時中日戰事方劇而中國海陸軍隊屢敗於日本因假鴻章以全權往日本廣島(時日皇移駐廣島策應海陸各軍)講欵以美員福世德從。 冬十二月,以明年四月俄皇加冕派李鴻章爲正使往賀先是以王之春嘗充唁使故賀使卽便派之駐京俄使喀希尼忽抗言曰皇帝加冕俄國最重之禮王之春人微言輕不足當此責可勝任者獨李中堂耳乃改派鴻章爲頭等公使前往俄國致賀實則喀希尼欲誘致鴻章往俄辦訂中俄密約也

二十二年,冬十月,命四品京堂羅豐祿出使英國道員黃遵憲出使德國四品京堂伍廷芳出使美國

二十三年,春二月,命侍郎張蔭桓赴英國賀女皇維多利亞卽位六十年慶典。 三月,駐京俄使喀希尼微服潛赴英密邀蔭桓遊俄待以殊禮以籠致之使不反對密約也 命侍郎吕海寰出使德國荷國以黃遵憲奉命後緣事未行也

二十四年,夏四月,詔飭總理各國事務衙門酌派同文館學生並咨行直隸兩江兩廣湖廣閩浙各督撫遴選學生往日本留學從御史楊深秀請也是年閏三月閒日本使臣矢野文雄有函吿總署據稱日本政府知中國需才孔亟倘選派學生出洋習業日本願供經費並親至總署面稱中國如派學生往日本肄業人數以二百名爲限至是深秀奏及之乃有是命。 秋八月,命四品京堂李盛鐸出使日本國是年三月命黃遵憲使日未行至是政變遵憲稱疾請開去差使允之以盛鐸往。 冬十月,命駐俄使臣侍郎楊儒前往荷蘭國海牙城會議日來佛條約卽紅十字會時各國在此議立保和公會會期

二十六年,冬十二月,命左都御史張百熙赴英國唁英君之喪並賀新君卽位

二十七年,夏四月,命醇親王載澧爲頭等專使赴德國上年五月北京拳匪亂作戕害德使克林德至是命載澧往德謝罪代表帝慚悔之意並達謝忱聞德皇將強之行跪拜禮留滯邊境不進經政府按國際公法力爭德皇始允予通融。 五月,命侍郎那桐爲專使赴日本以拳亂時日本使館書記生杉山彬在北京被戕至是遣那桐前往日本代表帝惋惜之意兼達謝忱 命五品京堂蔡鈞出使日本 命駐紮各國公使訪察游學咨送回華聽候考試錄用。 六月,命知府許台身出使韓國時朝鮮已稱帝改國號曰韓建元光武遣使來聘用敵國禮廷議以朝鮮藩屬今夜郎自大不如絕之帝曰我不能有而附於日日旣左右之立國建元稱帝號矣固儼然鄰國也此與東西諸國寧有少殊乎我不能拒絕東西諸國之使奈何獨拒韓使遂令其覲見而報以國書如常禮至是遣台身出使於韓駐劄漢城台身旋奏設漢城總領事以舉人傅良弼派充 命副都統蔭昌出使德國。 秋七月,調駐英公使羅豐祿出使俄國時以駐俄使臣楊儒與俄外部議約俄人威脅利誘儒不敢拒乃以下車傾跌致病請急命豐祿前往接替。 八月,命各省選派學生出洋肄業 召載澧回國載澧奉命抵德致遞國書之後擬卽啟程前往美日及英意比等國德皇大不悅謂有違專誠之旨遂不允收禮而意皇致函載澧約十月十五日後方能接待英廷亦無迎迓之諭載澧電聞諭卽啟程回華。 冬十月,命四品京堂張德彝出使英國時古巴宣吿自主派德彝兼充古使與古巴妥立新約。

二十八年,夏四月,命五品京堂許鈺出使義國楊兆鋆出使比國吳德章出使奧國向例奧國以駐俄使臣兼充義比兩國以駐英使臣兼充而三國以國體所關屢請中國遣派專使因有是命。 六月,命五品京堂胡惟德出使俄國四品京堂孫寶琦出使法國。 秋九月,命各省選擇學生派往西洋各國講求專門學業。 冬十月,派五品卿銜汪大燮爲日本游學生總監督是年六月閒駐日使臣蔡鈞反對自費生九人入振武學校學生五十餘人赴使館請求日本警察署忽逮捕學生代表吳敬恆孫揆均遞解回國復叱逐五十餘人出署而鈞飛電北京外務部(總理各國事務衙門改設)謂學生受康有爲嗾使聚衆閧鬧使署會美日專使貝子銜載振過日本晤其外部大臣小村壽太郎日人固心直學生惟不欲顯持短長但以選派博學愛才之人充總監督駐紮是邦爲言載振據以覆奏至是派大燮爲管理赴東洋游學生總監督責成旣專取締益密日本留學界自是日益多事矣。 十二月,派貝子銜溥倫爲美國散魯伊斯城博覽會赴會正監督以道員黃開甲東海關税務司美人柯爾樂副之

二十九年,秋七月,以湖北游學日本學生王璟芳効忠守正賞給舉人出身從撫臣端方電請也。 冬十月,命楊晟出使奧國

三十年,秋九月,駐美使臣梁誠奏設墨國總領事駐劄薩里那古盧斯海口從之 外務部奏設南斐洲英國屬地總領事駐劄打蘭士譁路埠等處以道員劉玉麟派充從之。 冬十月,派駐俄使臣胡惟德赴海牙會議。 十一月,電諭駐日使楊樞密查留東學生設立同仇會事時日俄搆兵以東三省爲戰地中國政府宣吿局外中立於是俄之海軍厚集旅順分駐海參崴其陸軍則厚集奉天分駐朝鮮北及關東南部政府不敢問境內主權門庭之內聽人閧爭日人譁然姗笑之謂中國此次空前怪狀之中立爲可笑可憐留東學生恥之全體激憤一面倡立同仇會號召會員切齒裂眥喘汗奔走一面組織學生軍遣代表鈕永建內渡聯合南北疆吏運動政府願聽節制以抗俄人而政府則頑然不應一面使直督拘捕代表一面電促公使威逼解散至啇請駐京日使內田籌壓制留東學生之法

三十一年,夏六月,攷試出洋學生賞金邦平等進士舉人出身有差自是每歲試留學生以爲常。 秋七月,兩江總督周馥奏請選普通德文學生十名赴奧國學習陸軍下所司知之(續派商部右丞紹英出洋攷察政治)八月飭各省督撫多派學生游學歐美 命四品京堂劉世訓出使法國三品京堂周榮曜出使比國五品京堂黃誥出使義國外務部參議汪大燮出使英國調楊晟出使德國李經邁出使奧國榮曜緣事未行改命順天府府丞李盛鐸出使比國。 九月,改派四品京堂楊兆鋆出使比國時命李盛鐸會同載澤等前往各國考察政治改命兆鋆使比。 冬十月,以前駐俄使臣陸徵祥爲專使赴荷國海牙平和會以駐荷使臣錢恂副之美前外部大臣福士達從會期訂於三十三年五月五日舉行及開會各代表提議設立公判所會衆羣訾中國法律最敝謂皖浙徐錫麟秋瑾兩案株連慘酷有永不許拒回領事裁判權之言抑中國爲三等國徵祥據理力爭政府亦牒請各國政府公認照頭等國辦理旋法代表覆稱中國旣照頭等國攤費自應照頭等國接待徵祥遂據向會中聲明會中又以中國兵艦朽壞難保和平復由徵祥電請政府速加整頓會衆又譏中國武代表丁士源越分妄爲請嚴加詰誠飭遵軍統。 十一月,命慶親王奕劻選派宗室出洋學習武備

三十二年,春三月,命駐英使臣汪大燮爲賀日斯巴尼亞皇大婚專使。 秋九月,賜游學畢業生陳錦濤等三十一人進士舉人有差

三十三年,秋七月,命外務部右丞雷補同出使奧國。 八月,命商部左侍郎伍廷芳出使美墨秘古等國九月予游學畢業生章宗元等進士舉人出身有差。 冬十一月,派道員蒯光興爲歐洲游學生監督。 十二月,予進士館游學畢業員楊兆麟等獎勵有差

三十四年,春二月,命外務部右丞胡惟德出使日本國調錢恂出使義國以陸徵祥出使荷國。 三月,允農工商部奏請於西貢河內瓜哇添設領事。 夏四月,予游學畢業生章宗祥等進士舉人出身有差。 六月,予進士館游學及外班畢業學員黎湛枝等獎勵有差 因美國減收賠款派奉天廵撫唐紹儀爲專使前往致謝。 秋八月,命陸軍部右侍郎蔭昌出使德國。 九月,予進士館游學畢業員陳雲誥等獎勵有差 予游學畢業生陳振先等進士舉人出身有差 予進士館游學畢業員葉尤圻等獎勵有差。 冬十月,御史葉芾棠奏赴美游學生請按省分派下學部知之

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