清史紀事本末フランス・ベトナムの兵事と和約(法越兵事及和約)

要約

光緒九年春三月、直隷総督李鴻章を広東へ遣わして越南の事務を督弁させ、広東・広西・雲南三省の防務を節制させた。安南は阮福映がフランス人の援助で嘉慶七年に旧領を回復し冊封されて越南国王と称したが、のち報酬金を惜しんだのが侵略の発端で、咸豊年間に教民殺害から兵を交え、同治元年の講和で南圻の嘉定・辺和・定祥を、同治十二年の再戦で永隆・安江・河仙を与え、嘉定は西貢と改められた。

フランス人は紅河の通商を開こうとした。黒旗党の首領劉永福は太平軍の旧将で、越南で三宣提督となり宣光・興化・山西を管轄し、保勝の路を扼して商税を軍餉に充てていた。フランス人は和約の討匪条項を口実に黒旗軍を匪賊とし河内・南定・河陽を陥れ、広安・寧平も占領し、永福が岑毓英の弾薬援助で勝ち続けると別に兵船で東京・順化の砲台を陥れた。国王阮福時が死に国人が嗣王を殺して弟の福昇を立てると、脅して条約を結ばせ越南の権利は尽く失われた。福昇は自殺し、次に立った福暦は年十二で、はじめて急を告げた。秋八月、彭玉麟に広東の海防を督弁させた。鴻章はさきに公使宝海と天津で三カ条を取り決めたが、フランス政府は成約をくつがえして宝海を召還し脱利古を代え、交渉は調わず、南洋・北洋にも防務を籌画させた。

十年春三月、広西巡撫徐延旭、雲南巡撫唐炯をともに革職して訊問した。延旭は張樹聲の派した黄桂蘭に四十二営を統べさせ北寧に当たらせたが、桂蘭は軍事を顧みず怨まれ、教民が桂蘭の将党敏宣に賄賂して軍装を得てフランス兵を助けたため全軍は潰走し北寧は失陥した。潘鼎新を広西巡撫、王徳榜を提督とし、桂蘭は自殺、敏宣は斬られた。唐炯は途中で雲南へ引き返して山西を失い、岑毓英が代わって関を出た。夏四月、広東税務司徳璀璘の調停で鴻章は水師総兵福禄諾と天津で簡明条款五カ条を議定した。フランスが中国の南境を保全し、中国は北圻の防営を引き揚げて仏越の条約に取り合わず、フランスは賠償を求めず中国は国境の通商を自由に任せ、越南との改約に中国の体面を傷つけず、三カ月後に詳細条款を会議する。

閏五月、曾国荃に公使巴徳諾と上海で詳細条約を議させた。フランス軍は境界巡察を名目に諒山を攻め、孤抜が兵船で馬尾に来て土地を占拠し賠償を求めるとの説が伝わった。国荃が撫恤銀五十万両を議すると厳旨で叱責され主戦を諭された。六月、フランス兵が基隆砲台を落として滬尾を攻めたが、劉銘伝は軍艦が無く敵を誘って陸戦にもちこみ、基隆で首領三人と兵百余人を斬り、朝に勝てば夕には山背へ退いて敵を基隆に集めた。フランス人は三たび滬尾を攻めて痛手を受け去った。

秋七月、フランス海軍が馬尾の砲台を攻め焼いた。敵船十四艘に対し福建の防備は兵船七艘・砲船二艘、張佩綸の先制攻撃と南洋援助の請いは容れられず、英米観戦艦の調停で士気は緩み、四十余日の対峙ののち敵が攻めた。飛雲号の高騰雲は小艦で大艦三隻に当たって沈み、福星号の陳英は孤抜の船に砲を向けて戦い弾に当たって死んだ。兵輪七艘・商船二艘と艇哨は尽く焼け、兵の死者二千余人、造船廠は半焼、フランスも六隻を焼かれ焼死溺死三百人。佩綸と何如璋は辺境の軍台へ流された。

八月、広西提督蘇元春らが陸岸県でフランス陸軍を殲滅し敵船と砲台を焼いた。閏月、観音橋を攻めたフランス軍は寧裕明の伏兵に潰走し、郎甲まで追われて精鋭数百人を失った。楊玉科が方友升・周寿昌らと郎甲へ進むと、友升が間諜の教民を引き入れ実情を語ったため急襲を受け、寿昌と友升は逃げ、敵は玉科の営を囲んだ。千総寧裕明は親軍三百で突撃を防ぎ、暮れて斬り込み玉科を護り脱出した。死者は千余人、敵も同数ほど。冬十月、元春らは紙作社で伏兵を用い敵将四人・兵百八十余人を斬った。十一月、招撫されて提督に記名された永福は唐景崧・黄守忠と岑毓英の雲南軍と三面から挟撃し、宣光・興化・山西三省の各府州県を回復した。十二月、鎮海口を攻めたフランス船は欧陽利見の砲撃で孤抜の乗船が損じ退去した。

十一年春正月、諒山が失陥し、フランス兵が鎮南関に迫った。元春は十二昼夜の猛攻に力戦したが鼎新が諒山を空にして援けに行き失敗した。楊玉科は関外の文淵州に拠り、徐占魁は負傷し廖応昌は逃げ、敵が右嶺から入り砲弾が玉科の脳と腹に当たった。裕明は帥の仇を討つと叫んで突入し、フランス大統領の婿である敵将を斬り、自らも負傷した。鼎新と徳榜は革職され、元春が広西軍務を督弁し李秉衡が広西巡撫を護理した。二月、馮子材・徳榜らが文淵州を取り諒山を回復した。敵は敗走して斬首数千、文淵・諒山・谷松・威坡・長慶・船頭と敗れ、八日八晩で二百余里を退いて和を請うた。

夏四月、鴻章らが公使巴特納と天津で和約十カ条を結んだ。赫徳が説いて簡明条約に照らし協議し直し、諒山の勝利とフランス議院の増兵・軍費案否決とで和約は成った。新約は、フランスの越南鎮撫を認めるが中国の国境を侵さぬこと、仏越の条約は処置に任せるが中国の体面を損なわぬこと、六カ月以内に北圻との境界を会同踏査すること、護照による入国を認めること、税関を雲南の保勝より上流と広西の諒山より北に開くこと、貨物の税を軽減すること、南方数省の鉄道新設にフランスが助力すること、通商条款は十年を待って改訂すること、フランス兵が基隆・台湾・澎湖から撤退すること、従前の両国の条約・章程は今回改めた分のほかはなお遵守すること。捕らえたフランス兵九人を釈放し、平安号の兵七百余人も送り返された。

編者はいう、海疆の数省を震動させ国庫の金二千余万を費やしながら、結局は越南の藩属をフランス人に渡した。諒山の一勝が無く和議が成らなかったら中国が中国であり得たかも分からない。「兵は凶器、戦は危事」の古語を恐れずにいられようか。馬江の役を人は張氏に咎めるが、職任は学士にすぎぬ書生で兵を知らず、政府は先制攻撃を禁じ、総督・巡撫・船政大臣はみな傍観した。京官のころ時事を論じたため大官が疎んじ、その失敗を喜んだ。まして孤抜はこの役で砲に当たって死に、敵は省城まで進まなかった。張氏の功もその過ちを覆うに足りよう。これを甲午の役と比べたなら得失はどうであろうか、と。

年表

越南(ベトナム)をめぐる清とフランスの戦争と講和の顛末。光緒九年(1883年)から十一年(1885年)までの三年間を扱う。フランスが紅河通商を求めて劉永福の黒旗軍を討ち、河内・南定などを陥れて越南に保護条約を強いたため、清は李鴻章・彭玉麟を広東に派して防務を督させた。北寧・山西の失陥で徐延旭・唐炯が革職され、李鴻章は福禄諾と天津で簡明条款五カ条を結んだが、台北基隆では劉銘伝が、福州馬江では張佩綸の水師が戦い、馬江では兵輪が焼かれ二千余人が死んだ。諒山失陥と楊玉科の戦死ののち、馮子材・王徳榜が鎮南関で大勝して形勢が転じ、光緒十一年四月に李鴻章と巴徳諾が天津で越南新約十カ条を結び、越南はフランスに帰した。

年表(3件)

現代語訳全文

西暦1883年 徳宗光緒九年

  • 春三月、大学士・直隷総督・一等粛毅伯の李鴻章に命じ、急ぎ広東へ赴いて越南(ベトナム)の事務を督弁させ、広東・広西・雲南三省の防務を節制させた。
  • 安南は、もと広南王の末裔の孫である阮福映がフランス人の援助を得て、嘉慶七年に旧領を回復し(「懨復」は「戡復」の誤りか)、中国の冊封を受け、あらためて越南国王と称してからのことである。のちにフランス人が越南に至って報酬金を求めたところ、国王がこれを出し惜しんだ。これがフランス人の侵略の発端となった。
  • 咸豊年間、また教民(キリスト教徒)を殺害したことからフランスと兵を交えた。
  • 同治元年、はじめて条約を結んで講和し、南圻の嘉定・辺和・定祥を割いてフランス人に与えた。
  • 同治十二年、ふたたび戦端を開き、あらためて和約を結び、さらに永隆・安江・河仙の地をこれに与えた。こうして南圻はすべてフランスの占拠するところとなり、嘉定を改めて西貢(サイゴン)とし、大きな港市となった。
  • 前年、フランス人は紅河の通商を実行しようとした。黒旗党の首領に劉永福という者があり、太平軍のもとの将であった。その軍旗は黒を尊んだので、黒旗の名で呼ばれた(原文「里旗」は「黑旗」の誤りか)。太平天国が滅んだのち、永福は手勢を率いて越南に入り、越南王がこれを招撫して三宣提督の職を授け、宣光・興化・山西の三省を管轄させた。永福はそこで山西の保勝一帯の路を扼して守り、商税を取り立てて軍餉に充てた。それゆえフランス人はどうしても永福を駆逐して保勝の商路を開こうとし、永福は死を誓って一歩も退き譲らなかった。
  • フランス人は、和約の中に費用を出して匪賊を討伐するという条項があるのを理由に、黒旗軍を匪賊と指弾し、兵船を海陽まで進めて東京(トンキン)を攻め取ると称した。三月には河内(ハノイ)を陥れた。この年二月にはまた南定を陥れ、進んで河陽を陥れ、その付近の広安・寧平の二省もいずれも占領された。
  • 当時、永福は山西に駐屯しており、その軍はきわめて精悍で、さらに雲貴総督の岑毓英から軍需の弾薬を援助されていたので、たびたびフランス軍に戦い勝った。フランス人は永福を恐れたので、別に兵船をもって東京(トンキン)および順化(フエ)の河岸の砲台を攻め、これを陥れた。ちょうど国王の阮福時が死に、国人がその嗣王を殺して、その弟の福昇を推し立てた。フランス人は脅迫して条約を結ばせ、(越南の)権利はことごとく失われた。まもなく福昇は毒を仰いで自殺し、国人はまた福時の子の福暦を立てたが、年は十二で、脅迫を受けて自力で立ち直ることができず、はじめて使者を遣わして急を告げてきた。朝廷は鴻章に、速やかに広東へ赴いて越南の事務を督弁し、広東・広西のすべての防軍を節制下に置くよう命じたのである。
  • 秋八月、兵部尚書の彭玉麟に命じて広東へ赴かせ、海防を督弁させた。これより先、李鴻章は命を受けて軍を率い越南を援けることになっていたが、まだ出発せず、北京駐在のフランス公使宝海(ブレー)と天津で三カ条の条約を取り決め(原文「淫使」は「法使」の誤りか)、すでに境界を分けて越南を保護するという議もあり、中国はまさに撤兵を承知しようとしていた。ところがフランス政府が突如として成約をくつがえし、中国はすでに諸軍に退いて駐屯するよう命じており、フランスが黄旗・黒旗の党を駆逐する巡軍を派出しても何の妨げも無いはずだ、と言い立て、ただちに宝海を召還して、脱利古(トリクー)をこれに代えた。脱利古が上海に着くと、鴻章に命じてこれと交渉させたが、話はまとまらなかった。脱利古は兵船に乗って北京に入ると言い立て、政府は急ぎ鴻章を直隷の任に帰らせた。ここに至って脱利古がまた広東に行くと言いふらしたので、玉麟に広東へ赴くよう命じ、あわせて南洋・北洋に防務を十分に籌画するよう命じたのである。

西暦1884年 徳宗光緒十年

  • 春三月、広西巡撫の徐延旭、雲南巡撫の唐炯をいずれも免職して逮捕・訊問した。
  • これより先、延旭は命を受けて関(鎮南関)を出て軍を督したが、両広総督の張樹聲が派遣した提督の黄桂蘭・董履高らは多くが淮軍であった。延旭は総督の意向に逆らうことができず、桂蘭を頼りにして諸軍あわせて四十二営をことごとく統率させ、北寧に駐屯して前線に当たらせ、自分は二十余営を統率して諒山に駐屯し後方の路を守った。桂蘭は軍中にあって日夜酒に酔いしれ、民間の妹崽を奪い、ほしいままに淫らな行いをして軍事を顧みず、部下もますますそれに倣って規律が無くなり、越南人は骨髄に徹して彼らを怨んだ。
  • たまたま教民が桂蘭の将である党敏宣に賄賂を贈り、桂蘭に取りなしてもらって、軍装(武器・装備)を支給されて戦いを助けることになった。教民は軍装を手に入れると、フランス兵を助けて攻めてきて、全軍は潰走し、北寧はついに失陥した。事が朝廷に聞こえると、延旭は逮捕・訊問され、湖南巡撫の潘鼎新を広西巡撫に転じ、布政使の王徳榜を提督とした。桂蘭は自殺し、敏宣は斬られて衆にさらされた。
  • 唐炯は関を出たものの敵の勢いが盛んなのを見て、途中から雲南へ引き返した。そのため諸軍は退いて駐屯し、山西は失陥した。ここに至って炯もまた逮捕・訊問された。雲貴総督の岑毓英に命じて関を出て軍を督させた。
  • 夏四月、李鴻章がフランスの水師総兵・福禄諾(フルニエ)と天津で簡明条款五カ条を議定し、成立した。当時、法越の情勢はますます切迫し、興化はすでにフランス人が占領して守っていた。広東の税務司であるドイツ人の徳璀璘(デトリング。原文「璘」は「琳」の誤りか)が力を尽くして調停の任に当たり、詔して鴻章に全体を籌画し斟酌して処置を定めさせた。ここに至って鴻章は福禄諾と五カ条を議定した。
  • 一、中国の南の境界は北圻に隣接している。フランスは、どのような機会に遭遇しようとも、また他国が侵犯する事態が併せ起ころうとも、いずれの場合も(中国の南境を)保全し護り助けるべきことを明約する。
  • 二、中国の南の境界については、すでにフランスが確かな保証を与え、侵略・占拠や騒擾の事態を心配しなくてよい以上、中国は、北圻に駐屯するすべての防営をただちに国境へ引き揚げること、およびフランスと越南との間のすでに定まった条約・まだ定まらない条約のいずれについても、一切取り合わないことを明約する。
  • 三、フランスは中国が協議を申し入れた意を多とし、あわせて李大臣が力を尽くして大局を顧みた誠意を敬い、進んで中国に対し賠償費を請求しないこととする。中国もまた、北圻に隣接する国境において、フランスと越南および内地の貨物の運搬・販売を自由に任せることを許すべきであり、あわせて、後日あらためて使臣を遣わして詳細を議定し、税則を協議することを明約する。その際にはぜひとも格別に心を合わせ、フランスの商務にきわめて有益なものとなることを期する。
  • 四、フランスは、将来越南と条約改定を協議するにあたり、その中に中国の威望・体面を傷つけ妨げる文言を決して挿入しないこと、および、以前に越南と結んだ各条約のうち東京(トンキン)に関わって差し支えのあるものはことごとく廃棄することを約定する。
  • 五、この条約が双方の署名を経たならば、両国はただちに全権大臣を派遣し、三カ月後を期限として、すべて以上に定めた各節に照らして詳細な条款を会議する。なお、この条約は中国語・フランス語各二部を書写し、天津において署名・捺印し、各一部を執り持って証拠とする。国際法の通例に従い、フランス語文を正文とする。

  • 閏五月、両江総督・一等威毅伯の曾国荃に命じ、フランス公使の巴徳諾(パトノートル)と上海で詳細条約を会議させた。これより先、福禄諾は帰る間際に李鴻章に対し、部隊を派遣して越南の境界を巡察させること、および劉団を駆逐すること(原文「駐逐」は「驅逐」の誤りか)などを口にしていたが、鴻章はこれを上奏せず、旨を奉じて叱責された。当時、岑毓英は保勝に駐屯し、潘鼎新は諒山に駐屯していた。朝廷は北圻に駐屯する各軍を関内へ引き揚げるよう命じたが、フランス軍はまもなく国境巡察を名目として諒山を攻め侵し、鼎新らはたびたび勝報を上奏した。フランスの提督孤抜(クールベ)は兵船を率いて福州の馬尾に来航し、土地を占拠して人質代わりとし戦費の賠償を要求するという説があった。フランス公使の巴徳諾は上海に逗留しており、詔して国荃を赴かせ協議させた。まもなく国荃は撫恤銀五十万両を与えることを許そうと議し、厳しい旨で叱責された。また巴徳諾の照会があまりにも無理なものであったので、もっぱら主戦で臨むよう諭した。

  • 六月、フランス兵が台北の基隆砲台を攻め落とし、また滬尾砲台を攻めたが、巡撫の肩書で台湾軍務を督弁する劉銘伝がこれを撃退した。銘伝の軍が基隆に到着して七日後、フランス人が攻めてきて砲台を破壊した。銘伝は、台湾には軍艦が無く海上では鋒を争えないので、もっぱら敵を誘って陸戦にもちこみ、上陸させたうえで迎え撃つことにした。この月、銘伝は四人の提督、曹志忠・章高元・蘇得勝・鄧長安を率いて基隆でフランス人と戦い、その首領三人と兵百余人を斬り、銃砲を多数奪い取った。フランス兵は大敗し、海浜まで追撃して引き返した。銘伝は当時、滬尾が台北府からわずか三十里、基隆から八十里の距離にあり、台湾は脆弱で兵も少なく、後方の路に少しでも手抜かりがあれば基隆の兵は戦わずして潰えると恐れていた。そこで朝に戦い勝てば夕には軍を退いて山の背後に入り、フランス人を基隆に集めておけば、沿海の辺境が至るところで窺われずにすむ、その形は弱そうに見えても策としては万全であった。事情を知らぬ者はかえって銘伝を非難したが、銘伝は嘆じて言った、「これはどうして私の深謀を知る者であろうか」と。ここに至ってフランス人は果たして三たび滬尾に攻め寄せたが、いずれも痛手を受けて去った。滬尾の守将の孫開華はとりわけ戦に長じていた。
  • 秋七月、フランス海軍が福州の馬尾の各砲台を攻め焼き、あわせて軍艦多数を撃沈し、造船廠を砲撃して焼き払った。
  • フランス人は上海で和議をしている隙に乗じ、ひそかに兵船を進めて福建の馬尾などに停泊させ、港口の内外あわせて十四艘に達した。ところが福建の防備は兵船わずか七艘・砲船二艘にすぎなかった。防務を督する三品卿の肩書を持つ侍読学士の張佩綸は、たびたび先制攻撃を請い、南洋からの相互援助を請うたが、いずれも容れられなかった。御史の劉恩溥は、蔭桓(「蔭桓」は張蔭桓か)と劉銘伝の二人のうち一人を選任して暫時閩浙総督を代行させるよう奏請したが、これにも返答は無かった。当時、イギリス・アメリカの観戦艦がフランス艦のすぐ後ろに続いて奇襲を牽制しており、(英米の)両提督もしばしば調停の話を伝えてきて、軍の士気は緩んだ。四十余日にらみ合い、兵士たちはみな面やつれして血の気を失っていた。敵は福建の国境の地理や兵卒が孤立し疲れていることを十分に知りぬいたうえで、雨上がりの潮が急な順風に乗じて攻撃してきた。
  • このとき飛雲号の兵輪の督帯である参将の高騰雲は、自ら大砲を発射して敵の烏波船を撃ち、一発一発命中させ、一隻の飛雲の小艦をもって敵の大艦三隻に当たり、流れの中に堅く踏みとどまって退かなかった。突然、横あいから一発の砲弾が飛来して騰雲の脚を折り、さらにもう一発を受けて、ついに水中に飛び込んで沈み、船は火を発した。
  • 福星号輪船の管駕である五品軍功の陳英は、イギリス・アメリカの船が急に離れていくのを見て、急ぎ錨を上げ、衆に誓って言った、「我が船も砲も小さい。深く踏み込まねば敵船には届かぬ」と。敵は三隻で取り囲んだが、英の操舵はきわめて機敏で、砲を放つのも速く、一時(いっとき)ばかり激戦し、船中の機関が壊れ人が死んでも顧みず、ただ砲をフランス提督孤抜の船に向けた。孤抜の船は砲弾を受けてわずかに退いたが、敵はさらに船を増やして攻めてきた。英はにわかに望楼で砲弾に当たり、学生の王漣も続いて殉じ、船はそこで焼け崩れた。イギリス・アメリカの観戦者はみな感嘆してやまず、これを深く惜しんだという。
  • この戦役では、兵輪七艘、商船二艘および艇・哨の各船がすべて焼けた。守備の許寿山・葉琛、五品軍功の林森林はみな力戦して死に、兵士の死者は二千余人、造船廠は半ば焼けた。一方フランスもまた六隻を焼かれ、焼死・溺死は三百人であった。事が朝廷に聞こえると、佩綸と如章(何如璋の誤りか)はともに部に下されて処分を議されたが、論者の言は止まず、のちにいずれも辺境の軍台へ流された。
  • 八月、広西提督の蘇元春らが越南の陸岸県でフランス兵を破った。元春は軍を督して、陸岸県の対岸でフランスの陸軍と激戦し、敵兵をことごとく殲滅し、また南岸の敵船一艘を撃ち壊し、陸岸の砲台を平らに焼き払った。まもなく敵船が陸岸の船頭という地に来て、水陸から攻め寄せ、元春は総兵の陳嘉と二手に分かれて迎え撃ち、敵を非常に多く討ち取った。
  • 提督の方友升らが郎甲でフランス軍と戦い、敗れた。この年の春の間、淮軍(原文「准軍」は「淮軍」の誤りか)が北寧で敗れたのち、広東陸路提督の楊玉科は広武三営を率いて観音橋に駐屯していた。閏月、フランス人が郎甲から進んで観音橋を攻めた。提督の万葉は手勢四千を率いて橋の南に駐屯して前線に当たり、玉科は提督の王洪順とともに橋の北に駐屯して後詰めとなった。万葉は戦ってやや持ちこたえたが、橋の北まで退き、フランス軍はこれに従って入ってきた。千総の寧裕明は急ぎ万葉の後方に出て、北嶺の絶頂に登って砲を下に向けて撃ち、別に二哨を山の左右の麓に伏せて、敵軍の要路を横から断ち切った。敵軍は全力で嶺上の軍を防いでおり、伏兵が急に現れるとは思っていなかったので、驚いて潰走した。郎甲まで追撃し、その精鋭数百人を殲滅した。
  • まもなく電旨を奉じて鎮南関の中へ退くことになったが、フランス人が東京から退くと約束したのでこれを取りやめ、北寧まで退いた。裕明は玉科に説いて、フランス人の偽りの和議は決して信用できない、この機に乗じて進撃すべきだと言った。ちょうど人員を派遣して敵地を偵察させよとの旨があり、裕明は命に応じて赴き、七月に龍州に戻って、鼎新に進撃すべきだと説いた。この月、玉科(原文「五科」は「玉科」の誤りか)は提督の方友升・総兵の周寿昌ら諸軍を率いて出て郎甲に駐屯した。観音橋からは八十里の距離である。この月、越南の教民が豚と羊を送って軍をねぎらい、フランス人がまもなく到着すると知らせた。友升は「我が軍は装備がそろわず、営塁も固まっていないから、速やかに戦うことはできぬ」と言った。教民が去って二日とたたぬうちにフランス兵が大挙して到着し、深い林の中に隠れたが、軍中では気づかなかった。明け方、突然砲声が聞こえたが、友升はなお「兵士が砲を試しているだけだ」と言った。ほどなく榴散弾が営中に落ちて十余人が炸死し、はじめて敵の到来を知った。
  • このとき塁を築き終えておらず、兵士はそれぞれ散って荒れ果てた村で食事をとっていた。寿昌は二千五百人を率いて驚いて逃げ、友升も千人を率いて逃げた。フランス兵は玉科の営に集中し、これを幾十重にも包囲した。裕明は手勢の親軍三百をもって、戦いながら坑を掘り、朝から日が傾くまで、敵数万が数十回突撃してきたが、ついに入ることができなかった。左右の者が裕明に逃げるよう勧めたが、裕明は振り返って四面いずれも兵が去っており、援軍の一人も見えず、玉科の中軍の方を望めば包囲はいっそう厚く、生死も分からぬのを見て、慨然として言った、「戦っても銃で死に、逃げてもやはり銃で死ぬ。むしろ戦って死のう」と。左右が「主帥はまだご存命です」と言うと、「たとえ脱出しようとしても、必ず斬り込んでいかねばならぬ」と言った。
  • そのとき空はすでに暗くなっていた。そこで口に匕首をくわえ、右手で焼夷弾を投げ、左手に馬刀を持ち、馬を駆って斬り込んだ。左右でつき従って馳せ斬り込んだ者は二百余人、敵兵はみな靡き倒れ、ついに中軍に入った。玉科の左右はわずか数十人で、なお内濠に拠って力戦していた。裕明はそこで玉科を護って脱出したが、兵卒の死者はさらに五十人、負傷者は四十余人、生き残ったのはわずか百人であった。玉科が脱出したとき、左右はわずか三人だけであった。
  • この戦役では、玉科は党敏宣の前の一件に懲りて、教民を拒んで会わせなかったのに、友升は教民がみな敵軍の間諜であることを知らず、たやすく引き入れ、しかも実情を語ってしまった。それゆえ敗北に至ったのである。兵士の死者は千余人、敵軍の死者もまた同数ほどであった。そして玉科・裕明が軍を用いる才は大いに世に知られることとなった。
  • 冬十月、蘇元春らが越南の紙作社でフランス軍を撃破した。フランス人は船頭で敗れてのち、紙作社まで退いて塁を築き拠って守っていた。潘鼎新は蘇元春を遣わし、副将の李応章・参将の黄雲高らの軍を督して二手に分かれて伏兵を置かせ、陳嘉に兵を率いて進み攻めかからせた。戦いがたけなわになったところで伏兵がこれに乗じ、陣中で敵将四人・兵百八十余人を斬り、銃器を非常に多く奪い取った。敵兵は敗れて紙作社の屯中に入り、堅く守って出てこなかった。
  • 十一月、提督の劉永福らが越南の宣光・興化・山西三省の各府・州・県を攻めて回復した。永福はこの年の八月に招撫を受け、詔によって提督として記名され、進撃して越南の各地を回復するよう命じられていた。九月、永福は進んで宣光を攻め、たびたび敵を斬り獲った。この月、フランス兵は霧に乗じて兵を率いて城を出、まっすぐ永福の副将である呉鳳典の営に突撃した。永福は鳳典の軍を督して中路から敵を迎え、五品京銜の主事である唐景崧は部将の談敬徳らを督し、永福の部将である黄守忠の軍と合わせてその左を攻め、岑毓英が派遣した游撃の張世栄および参将の謝有功・陸海涵らの雲南軍がその右を攻め、三面から挟撃して敵を非常に多く討ち取った。敵兵はやはり城中に退いた。こうして宣光省に属する安平府・陸安州・霑化州および宣光城に属する連山・同安・中門・安嶺の各県、興化省に属する鎮安・文振・安立の各県、山西省に属する夏和・清波の両県の各地方は、いずれも回復した。
  • 十二月、フランス船が浙江の鎮海口を攻めたが、提督の欧陽利見らがこれを撃退した。これより先、総兵の呉安康が南洋の兵船五艘を率いて台湾を援けようとし、浙江の海上でフランスの兵船に遭遇し、自ら二艘を沈め、残りは鎮海口に退き入った。フランス人はそこで鎮海口を攻めたが、利見は自ら諸船を督して砲台の兵と力を合わせて砲撃し、孤抜の乗船が損傷を受けたので、各船は相次いで退去した。

西暦1885年 徳宗光緒十一年

  • 春正月、諒山が失陥し、フランス兵が進んで鎮南関を攻め、提督の楊玉科が力戦して戦死した。
  • 前年十二月の間、フランス人は兵を増やして諒山に迫り、全力を挙げて蘇元春に攻撃を集中すること十二昼夜に及んだ。元春は力を奮って激しく戦い、敵の屍は地に満ちた。潘鼎新は諒山の守りを空にして部隊を率いて援けに行ったが、失敗して退いたので、諒山はついに守り切れなかった。諸軍はみな関内に駐屯したが、玉科だけは関外十五里の文淵州に駐屯し、フランス軍とはわずか五里の距離であった。
  • この日の明け方、敵軍が攻めてきた。寧裕明は中嶺に陣して前線に当たり、徐占魁に左嶺を占めさせ、廖応昌に右嶺を占めさせ、玉科は大塘嶺の上に駐まって、裕明の陣の後方一里ばかりのところで戦を督した。戦いを交えたばかりのとき、砲弾が占魁の足に当たり、たちまち営に引き返した。応昌は恐れて逃げ、その一軍もこれに従った。ひとり裕明だけが手勢を督して力戦した。敵は兵を分けて右嶺から入り込んだ。玉科は応昌(原文「広昌」は「応昌」の誤りか)が敗れたのを見て、裕明の力が単薄になるのを心配し、提督の劉思河を遣わして中営の親兵を率いて助けさせた。裕明がまさに銃を発しようとしたとき、砲弾がすでに思河の胸を貫き、玉科の脳と腹に当たった。裕明は玉科が戦死したのを知らず、ちょうど紅旗の中軍を遣わして弾薬を受け取らせていたが、紅旗が戻って玉科の死の様子を報告した。裕明は大声で叫んで言った、「帥が死んだのに、私が生きて何になろう。諸君のうち死を恐れぬ者は、私に従って帥の仇を討ってくれ」と。みな泣いて「死に従いたい」と言い、前に進んで敵陣に突入し、五本の金線を画いた敵将一人を斬った。フランス大統領の婿であった。
  • このとき砲声は雷霆のようで、弾丸は風雨のように飛び、銃は連発して飛ぶ火のようであり、震死した者は空中から崖下へ、塀が倒れるように落ちた。飛んできた弾が裕明に当たり、右頬を貫いて出た。裕明は自分が負傷したことに気づかず、馬刀を持って砲に向かって突き進んだ。兵士たちはみな大いに泣いて「統帯が花を戴いた」と言った。「戴花」とは軍中の隠語で、砲弾に当たったという意味である。争って抱えかかえて関内に入れようとしたが、裕明はなお行こうとせず、「私はここで死ぬべきだ」と言った。左右の者は「玉科はまだ死んでいません」と嘘をつき、そこで無理やり輿に乗せて関内に入れた。敗報が北京に届くと、鼎新と王徳榜はともに免職され、提督の蘇元春が広西軍務を督弁し、按察使の李秉衡が広西巡撫を護理(代行)することとなった。
  • 二月、前の広西提督である馮子材(原文「子林」は「子材」の誤りか)・王徳榜らが文淵州を攻め取り、諒山を回復した。
  • これより先、フランス人は鎮南関の前隘を攻め落としていた。隘の北五里に品の字のように並ぶ三つの山があり、小南関といった。子材は十営を統率し、三営を山上に、七営を山下に駐屯させた。この日、敵は奇兵をもって関の東嶺に向かい、間道から出て小南関を奪った。游撃の寧裕明はちょうど憑祥で傷の養生をしていたが、砲声を聞くと傷を巻いたまま(原文「褭創」は「裹創」の誤りか)馬を飛ばして駆けつけた。すると馮の軍はすでに敗れて山を下っていた。裕明は山の北から突き上がり、馬刀で敵を斬りつけ、敵は靡き倒れ、そこで諸軍も相次いで登った。徳榜は油隘に駐屯していたが、やはり砲声を聞き、都司の陳得勝を遣わして間道から援けに行かせ、旗幟は油隘に残して疑兵とし、自らは親軍を率いて火箭を放ちながら横あいから関に斬り込み、敵の輜重を断ち切った。敵は前後から迫られ、そこで敗走した。
  • 南方は低湿で春の草がちょうど生えており、西洋人の革靴は滑ってすぐに草の中に転び倒れ、追ってくる兵に迫られ、しかも正しい道も分からず、窮して急を哀れむ叫び声が互いに聞こえた。諸軍は勝ちに乗じて追撃の限りを尽くし、斬った首は数千に及んだ。敵は殺されて急になると銃を投げ出して降り、帽子を脱いで礼をし、手で自分の首を庇った。これより後、フランスは一たび敗れると二度と隊伍を整え直せず、文淵で敗れ、諒山で敗れ、谷松で敗れ、威坡で敗れ、長慶で敗れ、船頭で敗れ、北から南へ八日八晩で二百余里を退いた。フランス人は恐れて和を請い、そこで和議を行うこととなり、越南・台湾などの各地に停戦を命じた。
  • 夏四月、李鴻章らがフランス公使の巴特納(パトノートル)と天津で和約十カ条を会議して結び、成立した。はじめ総税務司であるイギリス人の赫徳(ハート)が力を尽くして説き(原文「謮」は「請」の誤りか)、なお天津の条約に照らしてフランス人と詳細条約を協議し直し、天津の簡明条約のほかには何も要求しないことになった。思うにこのとき中国は諒山で勝利を得ており、フランス政府はそのために憚るところがあり、増兵と軍費調達の案が議院で否決されたので、和約はそこで成立したのである。あわせて十カ条、いわゆる越南新約である。今その大意を摘録して以下に列挙する。
  • 一、フランスが越南において乱を鎮め安撫することを認める。ただし中国の国境を侵犯してはならない。
  • 二、フランスと越南とが前後に自ら結んだ条約は、すでに定まったものも、続いて結ばれるものも、いずれも処置に任せる。ただし必ず中国の威望・体面を損なうことのないよう明言する。
  • 三、この条約の調印後六カ月以内に、中国とフランス両国が人員を派遣して、中国と北圻の境界を会同して踏査する。
  • 四、フランスの人民および越南に居住する他国人が、あらかじめ護照(旅券)を受け取って国境を越え中国に入ることを認める。
  • 五、通商の税関を開く。一つは雲南の保勝より上流、一つは広西の諒山より北に置く。
  • 六、フランスの商人が雲南・広西の国境を出入りして貨物を運ぶとき、納めるべき各税は、現行の通商税則に照らして軽減する。
  • 七、中国が南方の数省で鉄道を新設する際には、フランスは力を尽くして助力することを願う。
  • 八、この条約に記載する通商の各条款および今後定める各種の章程は、批准書交換後十年の期限が満ちるのを待って、はじめて改訂を続けることができる。
  • 九、この条約の調印後、フランス兵は基隆・台湾・澎湖から撤退し、あわせて海上での臨検などのことを取りやめる。
  • 十、中国・フランス両国が以前に結んだ各条約・章程は、今回の協議によって改めたもののほかは、なお一様に遵守すべきものとする(原文はここに「仍餘」の二字が挟まっており、衍字か)。
  • 条約が成ると、ただちに北京で批准書を交換した。巴徳納は、広西軍がかつて捕らえたフランスの下士官・兵九人を釈放して帰すよう請い、また(フランスが)捕らえ去った平安号輪船の下士官・兵七百余人も全員を送り返した。降将の阿麦里はそのまま中国の軍営に留まった。

史論(編者曰)

  • 法越の事が起こり、三省が軍を会して関を出たのは、その戦事のもたらした結果であった。しかし海疆の数省を震動させ、国庫の金二千余万を費やしながら、結局は越南の藩属を併せてフランス人に渡してしまった。もし諒山の一勝が無く、フランス人が和議を承知しなかったなら、あの当時、中国が中国であり得たかどうかも分からない。昔の人の言葉に「兵は凶器、戦は危事」というが、恐れずにいられようか。
  • 馬江の戦役については、人の多くは張氏(張佩綸)を咎める。しかしその職任は学士にすぎず、海疆事宜を会弁していただけである。書生でもともと兵を知らず、あわただしい際に任を受け、号令は一手に握れず、兵と将は互いに慣れておらず、政府はまた先制攻撃を固く禁じ、総督一人・巡撫一人・船政大臣一人はみな袖手して傍観していた。これは張氏が京官の職にあったころ好んで時事を論じたため、地方の大官たちが長らく彼を疎んじていたからで、このときはただその失敗を喜び、わざとフランス艦の手を借りて彼を陥れようとしたにすぎない(原文は「法艦之以取之」に作り、「之」は衍字か)。聞くところでは、張氏が北京を出るとき、閻敬銘氏がその手を取って言ったという、「君はさしずめ晁錯(原文「鼉錯」は「晁錯」の誤りか)になるだろうな」と。張氏もまた自分が必ず敗れることを知りながら、行かずにはいられず、そこに殉じたのであろう。まして、フランスの将帥孤抜はこの戦役で砲に当たって傷つき、ついに死に、船政局は破壊されたとはいえ、(敵は)あえて省城まで進むことはしなかった。張氏の功もまたその過ちを覆うに足りるように思われる。もしこれを甲午の戦役(日清戦争)と比べたなら、その得失はどうであろうか。
原文(底本)
德宗光緒九年,春三月,命大學士直隸總督一等肅毅伯李鴻章,馳往廣東,督辦越南事宜,節制廣東、廣西、雲南三省防務。安南自故廣南王裔孫阮福映得法人之援,以嘉慶七年,懨復舊領,受中國冊封,改稱越南國王,後法人至越南,索酬金,國王靳之,遂開法人侵略之端緒。咸豐間,又因殺害教民,與法構兵。同治元年,始立約講和,割南圻之嘉定、邊和、定祥(外三省)畀法人。十二年,又開兵釁再訂和約又割永隆安江河仙(內三省)之地予之於是南圻全爲法踞改嘉定爲西貢成爲大埠上年法人欲實行紅河(富良江一名珥江屬北圻)通商有黑旗黨魁劉永福者太平軍故將也其軍旗尙黑故以里旗名太平國亡後永福以所部入越越王招撫授以三宣提督之職轄宣光興化山西三省永福遂扼守山西保勝一路權商税以供軍餉故法人必欲驅除之以通保勝商路而永福誓死不相退讓法人因和約內有出貲剿匪之條遂指黑旗軍爲匪以兵船駛至海陽聲稱攻取東京三月陷河內是年二月又陷南定進陷河陽其附近之廣安寧平二省均爲所佔時永福駐山西軍絕精悍又得滇督岑毓英助軍火故屢戰勝法師法人旣憚永福乃別以兵船攻東京順化河岸礟臺陷之適國王阮福時死國人殺其嗣王推立其弟福昇法人逼脅立約權利盡失旋福昇仰藥自殺國人又立福時之子福曆年十二受脅不能自振始使使來吿急朝命鴻章迅速前往廣東督辦越南事宜所有廣東廣西防軍均歸節制 秋八月命兵部尙書彭玉麟往廣東督辦海防先是李鴻章奉命督師援越未行與駐京淫使寳海在天津訂約三條已有分界保護越南之議中國方許退軍而法廷忽翻成約謂中國已飭諸軍退紮足令法國派出驅逐黃黑旗黨廵軍無有阻難立召寶海回國以脱利古代之脱利古至上海命鴻章與之商辦無成議脱利古聲言將乘兵船入京政府亟命鴻章還直隸任至是脱利古又揚言至廣東故命玉麟赴粵而命南北洋妥籌防務。

十年,春三月,廣西廵撫徐延旭雲南廵撫唐炯均革職逮問先是延旭奉命出關督師粵督張樹聲所遣提督黃桂蘭董履高等多淮軍延旭不敢違總督意旨倚桂蘭俾盡統諸軍凡四十二營駐北寧當前敵而自統二十餘營駐諒山爲後路桂蘭在軍日夜酣酒奪民閒妹崽(閨女之稱)恣爲荒淫不恤軍事部下益相習無紀律越南人怨之次骨會有敎民賄其將黨敏宣爲言於桂蘭給軍裝助戰敎民得軍裝遂助法兵來攻全軍潰走北寧遂失守事聞延旭逮問調湖南廵撫潘鼎新爲桂撫布政使王德榜爲提督桂蘭自殺斬敏宣以徇唐炯出關見敵勢盛遂於中途折回雲南致諸軍退紮山西失守至是亦逮問命滇督岑毓英出關督師 夏四月李鴻章與法國水師總兵福祿諾在天津議定𥳑明條欵五欵成時法越事勢益亟興化已爲法人佔守粵税司德人德璀璘力任調停詔鴻章通盤籌畫酌定辦法至是鴻章與福祿諾議定五欵一中國南界毘連北圻法國約明無論遇何機會或並有他人侵犯事情均應保全護助二中國南界旣經法國與以實在憑據不虞有侵佔滋擾之事中國約明將所駐北圻各防營卽行調回邊界並於法越所有已定與未定各條約均置不理三法國旣感中國咨商之意並敬李大臣力顧大局之誠情願不向中國索償賠費中國亦宜許以毗連北圻之邊界所有法越與內地貨物聽憑運銷並約明日後另遣使臣議定詳細商酌税則務須格外和衷期於法國商務極爲有益四法國約將來與越商議改條約之內決不插入傷礙中國威望體面字様並將以前與越南所立各條約關礙東京者盡行銷廢五此約旣經彼此簽押兩國卽派全權大臣限三月後悉照以上所定各節會議詳細條欵再此約繕寫中法文各兩分在天津簽押蓋印各執一分爲據應按公法通例以法文爲正。 閏五月,命兩江總督一等威毅伯曾國荃與法使巴德諾在上海會議詳細條約先是福祿諾臨行與李鴻章言擬派隊廵查越境及駐逐劉團(黑旗兵)各語鴻章不以上聞奉旨申飭時岑毓英駐保勝潘鼎新駐諒山朝命將駐紮北圻各軍調還關內而法軍旋以巡邊爲名攻犯諒山鼎新等屢有捷奏法提督孤拔率兵船來福州馬尾有佔據地方爲質索賠兵費之說法使巴德諾逗留上海詔國荃前往與議旋國荃議許給撫卹銀五十萬兩嚴旨申飭又以巴德諾照會無理已甚諭一意主戰 六月法兵攻陷臺北基隆礟臺又攻滬尾礟臺廵撫銜督辦臺灣軍務劉銘傳擊郤之銘傳軍抵基隆越七日法人來犯毀礟臺銘傳以臺灣無兵艦海面不可爭鋒專誘之陸戰令其登岸而後迎擊是月銘傳率四提督曹志忠章高元蘇得勝鄧長安與法人戰於基隆斬其酋三兵百餘奪獲鎗礟多件法兵大敗追至海濱而還銘傳時以滬尾離臺北府僅三十里離基隆八十里臺脆兵單恐後路稍有疏虞則基隆之兵不戰而潰於是朝戰勝而夕退軍入山後使法人聚於基隆則沿海邊境不致處處窺伺其形似弱而其策萬全不知者反議銘傳銘傳嘆曰是惡知我之深謀也至是法人果三犯滬尾皆受創而去滬尾守將孫開華尤善戰。 秋七月,法國海軍攻燬福州馬尾各礟臺並擊沈兵船多艘轟燬船廠法人乘上海議和之際潛駛兵船入泊福建馬尾等處合口內外都十四艘而福防僅兵船七礮船二督防三品卿銜侍讀學士張佩綸屢請先發請南洋互援皆不得御史劉恩溥奏請於蔭桓劉銘傳二人中𥳑任一人暫權閩督亦不報時英美觀戰船與法國銜尾以牽制奇兵兩提督又時以調處來吿懈軍心相持四十餘日軍士皆面目憔悴無人色旣敵稔知閩中鄰疆畛域士卒孤疲遂乘雨後潮急順風來擊時飛雲兵輪督帶參將高騰雲手發巨礮擊其烏波船一一命中以一飛雲小艦當敵人三大艦中流堅拒不退忽横來一礟騰雲腿爲之折復一礟遂飛入水中而没舟乃發火福星輪船管駕五品軍功陳英見英美船驟下急起碇誓衆曰吾船與礟俱小非深入不及敵船敵以三船環之英轉捩甚靈放礟亦捷酣戰至一時之久舟中機損人亡不顧但以礟向法提督孤拔船孤拔船中礟小𨚫敵復增船來攻英猝中礮於望台學生王漣隨殉船始焚燬英美觀戰者均稱嘆不置爲之深惜云是役計七兵輪兩商船及艇哨各船均燼守備許壽山葉琛五品軍功林森林皆力戰死兵士死者二千餘船廠半燬而法亦燬六船焚溺三百人事聞佩綸如章均交部議處而言論者不已後均發遣軍臺 八月廣西提督蘇元春等敗法兵於越南陸岸縣元春督軍與法國陸師鏖戰於陸岸縣之對河敵兵盡殱又擊燬南岸敵船一艘平燬陸岸礟臺尋敵船駛至陸岸船頭地方水陸撲犯元春與總兵陳嘉分兩路迎擊斃敵甚衆 提督方友升等與法師戰於郎甲敗績是年春閒准軍旣敗於北寧廣東陸路提督楊玉科領廣武三營屯觀音橋閏月法人由郎甲進攻觀音橋提督萬葉以所部四千屯橋南當前敵玉科與提督王洪順屯橋北爲後勁萬葉戰稍拄退至橋北法軍從之入千總𡩋裕明急出萬葉後登北嶺絕頂發礟下擊別伏兩哨於山之左右麓横截敵軍之要敵軍悉力禦嶺上軍不虞伏兵之驟出也驚而潰追至郎甲殱其銳卒數百旋奉電旨退入鎮南關法人約退東京乃止退北寧裕明說玉科謂法人詐和必不可信宜乘機進兵會有旨派員赴敵境偵探裕明應命往七月歸龍州說鼎新宜進兵是月五科率提督方友升總兵周壽昌諸軍出屯郎甲距觀音橋八十里是月越南敎民送豖羊犒軍報法人且至友升曰我軍裝未齊營壘未固不能速戰敎民去不二日而法兵大至隱深林中軍中不之覺昧爽忽聞礮聲友升猶曰軍士試礟耳俄而開花彈落營中炸死十餘人始知敵至時築壘未畢軍士各散就荒村爲食壽昌率二千五百人駭而奔友升以千人亦奔法兵萃於玉科營圍之數十重裕明以親軍三百且戰且掘坑朝至日昃敵人數萬衝突數十次卒不得入左右勸裕明走裕明回顧見四靣皆去兵不見接兵一人望玉科中軍圍尤厚不知存没乃慨然曰戰死鎗走亦死鎗寧戰死耳左右曰主帥猶在曰卽欲出亦必殺入時天已昏黑乃口銜匕首右手縱火彈左手持馬刀驅而斫左右隨而馳斫者二百餘人敵兵皆披靡竟入中軍玉科左右僅數十尙據內濠力戰裕明於是衛玉科出士卒死者又五十傷者四十餘存者百人耳玉科旣出左右僅三人而已是役也玉科懲黨敏宣前事拒敎民不使見而友升不知敎民皆敵軍閒諜遽納之入且以實語之故及於敗軍士死千餘敵軍死者亦相當而玉科裕明之能軍乃大著。 冬十月,蘇元春等擊敗法軍於越南𥿄作社法人自船頭敗績後退至紙作社築壘據守潘鼎新遣蘇元春督副將李應章參將黃雲高等軍分兩路設伏令陳嘉引兵前往撲擊戰方酣伏兵乘之陣斬敵將四兵百八十餘奪獲鎗械甚夥敵兵敗入𥿄作社屯中堅守不出。 十一月,提督劉永福等攻復越南之宣光興化山西三省各府州縣永福於是年八月受招撫詔以提督記名令進兵恢復越南各地九月永福進攻宣光屢有斬獲是月法兵乘霧引兵出城直撲永福副將吳鳳典營永福督鳳典軍由中路迎敵五品京銜主事唐景崧督部將談敬德等會永福部將黃守忠軍攻其左岑毓英所遣游擊張世榮及參將謝有功陸海涵等滇軍攻其右三面夾擊斃敵甚衆敵兵仍退入城於是宣光省屬之安平府陸安州霑化州及宣光城屬之連山同安中門安嶺各縣興化省屬之鎮安文振安立各縣山西省屬之夏和清波兩縣各地方皆復。 十二月,法船攻浙江鎮海口提督歐陽利見等擊郤之先是總兵吳安康率南洋兵船五艘援臺灣於浙江海面遇法國兵船自沈二船餘退入鎮海口法人遂攻鎮海口利見親督諸船與礟臺兵合力轟擊孤拔坐船受傷各船乃相率駛出。

十一年,春正月,諒山失守法兵進攻鎮南關提督楊玉科力戰死之上年十二月閒法人增兵進逼諒山以全力注攻蘇元春閱十二晝夜元春奮力鏖擊敵尸遍地潘鼎新空諒山之防率隊往助失利引退諒山遂不守諸軍皆屯關內玉科獨屯關外十五里之文淵州距法軍僅五里是日昧爽敵軍來犯𡩋裕明陣中嶺當前敵使徐占魁據左嶺廖應昌據右嶺玉科駐大塘嶺上督戰後裕明陣里許甫交綏礟中占魁足遽回營應昌懼而奔一軍隨之獨裕明督所部力戰敵人分兵從右嶺入玉科見廣昌敗慮裕明力單遣提督劉思河率中營親兵助之裕明方發鎗礟彈已洞穿思河胸中玉科腦及腹裕明不知玉科陣亡正遣紅旂中軍領子藥紅旂還報玉科死狀裕明大號曰帥死我何生爲諸人有不懼死者請從我爲帥復仇皆哭曰願從死前突敵陣斬五畫金線敵將一法總統之壻也是時礟聲如雷霆子飛如風雨鎗連環發如飛火震死者空中墮厓下如倒排牆飛彈中裕明洞右頰而出裕明不自知其傷持馬刀當礮衝而進軍士皆大哭曰統帶戴花矣戴花軍中隱語中礮也爭扶掖入關裕明猶不行曰吾當死此左右紿之謂玉科尙未死乃強轝之入關敗報至京鼎新王德榜俱革職以提督蘇元春督辦廣西軍務按察使李秉衡護理廣西廵撫。 二月,前廣西提督馮子林王德榜等攻克文淵州克復諒山先是法人攻陷鎮南關前隘隘北五里有三山如品字曰小南關子材統十營三營屯山上七營屯山下是日敵人以奇兵趣關東嶺出閒道奪小南關游擊𡩋裕明方養創憑祥聞礮聲褭創飛騎至則馮軍已敗下山裕明從山北衝上馬刀砍敵人敵人披靡於是諸軍相繼登德榜屯油隘亦聞礮聲遣都司陳得勝閒道赴援留旂幟油隘爲疑兵而自率親軍施放火箭横殺入關截敵人輜重敵人前後受偪乃敗走南方卑溼春草方生洋人革履滑輒顚入草中迫追兵又不得正路窮急哀呼相聞諸軍乘勝窮追斬馘數千敵人被殺急則投鎗降脱帽爲禮以手捍頸自是法一敗不復整敗文淵敗諒山敗谷松敗威坡敗長慶敗船頭由北而南八日夜退二百餘里法人懼請成遂與議和命越南臺灣等處停戰 夏四月李鴻章等與法使巴特納在天津會訂和約十欵成初由總税務司英人赫德力謮仍照津約與法人重議詳細條約於天津𥳑明條約外別無要求蓋是時中國於諒山獲勝法政府因之有所顧忌增兵籌餉之案在議院否決故和約遂成凡十條所謂越南新約者也今撮其大意列之如下一准法國在越南弭亂安撫惟不得侵犯中國邊界二法越前後自立條約或已定者或續立者均聽辦理言明必不至有礙中國威望體面三此約畫押後六個月內由中法兩國派員會勘中國北圻界限四准法國人民及別國人之居住越南者先領護照過界入中國五開通商稅關一在雲南保勝以上(後定蒙自)一在廣西諒山以北(後定龍州)六法國商人運貨進出雲南廣西邊界應納各税照現在通商税則較減七中國在南數省剏造鐵路法國願盡力勷助八此約內所載通商各欵及將訂各項章程應俟換約後十年之限滿方可續修九此約畫押後法兵退出基隆臺灣澎湖並除去在海面搜查等事十中法兩國前立各條約章程除由現議更張外仍餘仍應一體遵守約旣就卽於北京互換巴德納請將桂軍前獲法國弁兵九人釋回而擄去平安輪船弁勇七百餘人亦全數交還降將阿麥里仍留中國軍營

編者曰:法越事起三省會師出關乃其戰事之結果至於震動海疆數省耗帑金二千餘萬卒並越南藩屬付之法人設使無諒山一捷法人不允議和當日中之爲中未可知也先民有言曰兵凶戰危可不懼哉至於馬江之役人多以咎張氏然其職任不過學士而會辦海疆事宜耳書生夙不知兵受任於倉猝之際號令不專兵將不習政府又力禁其先發一督一撫一船政大臣皆䄂手作旁觀由於張氏任京職時好言事疆吏側目久矣此時則惟幸其敗特假手於法艦之以取之耳聞張氏出京時閻敬銘氏執其手而語之曰君其爲鼉錯矣張蓋亦自知其必敗而不得不往殉之也況法帥孤拔以是役傷於礮卒斃船局雖毀不敢進趨省城張氏之功似亦足以掩其過矣倘較之甲午之役其得失爲如何哉。

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