清史紀事本末藩属の喪失(藩属之喪失)
要約
光緒五年春閏三月、日本が琉球を滅ぼして沖縄県とした。琉球は康熙二年に冊封され三年一貢、北部八島は咸豊のころ日本に占拠された。同治十年、琉球人が台湾で生蕃に殺されると日本は藉口して琉球を版図と争い、柳原前光が国史を証拠に弁論した。日本人四名も害に遭い、日本は兵を向けて撫恤銀五十万両を得たが、琉球の主権はひそかに譲られた。光緒初年、日本は琉球に貢使停止を命じ、新疆の軍務が急で政府は顧みず、兵艦で王尚泰を捕らえ廃して侯爵に封じた。
七年春二月、総理衙門に日本の使臣と球案を協議させた。前年、竹添進一が天津で李鴻章に北島・中島を日本、南島を中国に帰す案と一体均霑の加入を述べたが、鴻章は拒んだ。宍戸璣は中露の条約未定に乗じて催促し、グラントも割島の説を唱えた。鴻章は南島が痩せ地と知り、ロシアの件の後に処理すべきだと書き送った。露約が成ると宗廟社稷の存続と二島割分の協議を詔したが、宍戸璣は憤然と去り琉球は日本領に帰した。
九年秋七月、越南がフランスと新約十三条を結んだ。越南はもと安南、康熙五年に黎維禧を封じ六年に一度朝貢した。咸豊・同治の間に西貢付近の三郡を失い、西貢条約で自主の国とされながら実はフランスの保護国。光緒八年にフランスは河内を、この年二月に南定・河陽・広安・寧平を陥れ東京を割かせた。第二条は越南をフランスの保護国とし許可なく他国と通交せぬとし、成立後に越南人ははじめて告げてきた。
十一年夏四月、鴻章がフランス公使と天津で新約十カ条を結んだ。フランスは海軍で台湾を占拠し造船廠を焼いたが、陸軍は劉永福・馮子材・蘇元春らに破られ二百余里を追奔された。議院の非難で赫徳に託して和議を申し入れ、政府は諒山の勝報を知らぬまま承諾した。曾紀沢は力戦を請うたが返答なく、越南は譲られた。
冬十月、イギリスがインドから兵を進めて緬甸を滅ぼした。緬甸は乾隆十八年に入貢したが、内乱の後に甕籍牙が王となり諸土司を服し、明瑞・傅恒の征討も勝てず貢使は絶えた。暹羅が興って緬甸が衰えると孟雲が入貢し冊封を乞うて十年一貢とした。道光二十三年にイギリスは都城に迫り阿薩母などを取り、咸豊年間には北沽の全土を割いて歳貢は絶えた。イギリスは中国が戦を厭う機に乗じたのであり、曾紀沢の抗議も実らず、のち緬甸条約で十年ごとにイギリスが緬甸国人を緬甸大臣に派遣すると明記され、中国は虚名を得たのみ。
二十年春三月、朝鮮の東学党が事を起こし、朝鮮王の乞いで援けを許した。朝鮮は明の洪武二十五年に李成桂が冊封を受けて以来の藩属。同治十二年、日本の軍艦が江華島で砲撃を受け、政府が朝鮮の国政に関与せぬと答えたので、日本は光緒元年の和約で朝鮮を自主の国と明記した。光緒五年、英米独仏の通商要求を朝鮮は拒み、鴻章は李裕元に条約締結を勧め、六年の何如璋の駐箚弁事大臣設置の議には反対した。八年四月の米との条約には馬建忠・丁汝昌が臨み、英仏との条約も建忠が仲介した。八月、督監営の兵が騒擾して大臣らを殺し日本公使館を攻め、王宮で王妃閔氏を殺し国王と世子を幽閉し、実父の大院君昰応が鎮撫した。呉長慶が戍卒三千で東渡して大院君を捕らえ天津に送り、詔で保定に安置した。朝鮮王は日本に償金・開港・駐兵を与えて条約を定め、各国は朝鮮を藩属と扱わなくなった。十年十月、金玉均・洪英植らの乱で閔台鎬らが殺されたが、呉兆有と袁世凱が王を護り、玉均らは日本へ出奔した。十一年正月、伊藤博文が天津で、出兵のとき互いに通知すると条約に明記した。この年三月、貨幣排斥から崔福成が古阜県で集会を唱え国じゅうが呼応し、政府軍は大敗し全州が陥った。世凱の電請で鴻章は牙山に兵を送り、天津条約に従い照会すると日本も兵を派したが、乱党は途中で平定された。夏六月、日本兵が王宮に入って朝鮮王を幽閉し大院君に国事を主宰させ、同時撤兵を拒んで内政干渉への協力を求め、従わぬ中国を条約違反と責めた。大鳥圭介は独立自主を責め内政改革五カ条で迫り、応じぬと宮中に入り政令はすべて日本人の管轄に入った。戦事が開かれて中国の兵力は尽き、翌年正月の馬関条約で朝鮮を完全無欠の独立自主の国とし貢献の典礼を廃絶すると明記され、朝鮮王は帝を称し国号を大韓と改め、二百七十五年の関係は断絶した。
冬十二月、イギリス・フランスが暹羅の独立を保証した。暹羅は乾隆四十六年に来貢して冊封され、緬甸強盛の折その肘を引いて中国に功があり、扁額を賜った。道光年間にイギリスと条約を結ぶと各国も独立を認めて朝貢の典礼は欠け、咸豊初年には太平軍の風聞と西洋人の煽動で属国の名義を脱そうとし、同治八年の貢献の礼廃止の請いを政府は拒み、曾紀沢の勧めにも応じなかった。五年、イギリスの官吏が中国の旗号を仮り貢を催促して脅したが、王は見抜き、取り次ぐ者がなくいっそうイギリスと親密にした。王久拉は暦・服制・法律・幣制を改めたが、フランスに迫られ湄公河以東と賠償金五百万フランを与え光緒十九年に和議を結び、イギリスもフランスが緬甸まで侵すのを恐れ、一九〇四年四月八日ロンドンで独立を保証した。
このほか蘇祿は三島で独立し東婆羅州はイギリスの会社に帰し、南掌は分裂して暹羅に帰属し、不丹は独立国と称し、錫金は升泰の画界でイギリスのものとなり、帕米爾は英露に分かれ、阿富汗はイギリスが占領し、布哈爾・浩罕・哈薩克・布魯特はロシアの属領となった。廓爾哈が職貢を修め、乾竺特が内属するほかは、かつての藩国はついに一つも残らなくなった。
年表
清が琉球・越南・緬甸・朝鮮・暹羅などの藩属を次々に失っていく経緯を、光緒五年(1879年)から二十年(1894年)までを軸にまとめる。日本は琉球王尚泰を廃して沖縄県とし、李鴻章は球案を引き延ばす策を取ったが決着せず、越南はフランスとの新約十三条と光緒十一年の天津和約十カ条によってフランスに帰した。緬甸はイギリスがインドから兵を進めて滅ぼし、曾紀沢の抗議も実らず納貢の虚名だけが残った。朝鮮では東学党の乱を機に日本が王宮を押さえ、日清の戦後、馬関条約で朝鮮の独立自主が認められて二百七十五年の関係が絶えた。暹羅も英仏の保証下に独立し、蘇祿・南掌・不丹・錫金・浩罕などの旧藩国も残らず失われた。
年表(5件)
- 西暦1879年 徳宗光緒五年日本が兵艦を琉球に送って王の尚泰を捕らえ廃し、その地を沖縄県とする
- 西暦1881年 徳宗光緒七年総理衙門に日本と球案を再協議させるが、宍戸璣は望みを得ず憤然と去る
- 西暦1883年 徳宗光緒九年越南がフランスと新約十三条を結び、その保護国となることを認める
- 西暦1885年 徳宗光緒十一年李鴻章がフランスと天津で和約十カ条を結んで越南を譲り、イギリスが緬甸を滅ぼす
- 西暦1894年 徳宗光緒二十年朝鮮東学党の乱に日清が出兵し、日本が王宮を押さえて開戦に至り、暹羅は英仏の保証で独立する
現代語訳全文
西暦1879年 徳宗光緒五年
- 春閏三月、日本が琉球を滅ぼし、平らげて沖縄県とした。
- 琉球は中国の東南の大海の中にある。康熙二年、琉球国王を冊封し、これより貢船が三年に一度来るようになった。もとは三十六島からなり、うねり蟠るさまが虬龍が流れ動くようであったので琉虬と称し、のちに琉球と改めた。北部は九島、中部は十一島、南部は十六島あるが周囲は三百里に及ばない。北部の中に八島があり、咸豊のころ、日本が中国の多事に乗じて兵を率いて占拠し、わずかに一島が残るだけとなった。
- 同治十年、琉球人が台湾に漂流して生蕃に殺されたので、日本人はこれに藉口して事を起こし、琉球を自国の版図であると争った。その国史を出して証拠とし、そこに書かれているのは、明の万暦三十七年に義久が琉球を取ったということ、およびその後に琉球が入貢したと記すもの十回分であった。日本の寛文十一年は中国の康熙十年に当たり、天和二年は康熙二十一年に当たり、享保三年(原文「亨保」は「享保」の誤りか)は康熙五十七年に当たり、寛延二年は乾隆十四年に当たり、明和元年は乾隆二十九年に当たり、寛政二年は乾隆五十五年に当たり、また(寛政)八年は嘉慶元年に当たり、文化三年は嘉慶十一年に当たり、天保三年は道光十二年に当たり、天保十三年は道光二十二年に当たる。
- 当時、日本の北京駐在の副使である柳原前光は、これをもって総理衙門と何日も繰り返し弁論し詰め寄った(原文「果日」は「累日」の誤りか)。
- ほどなく日本人四名がまた台湾に漂着して害に遭った。日本政府はそこで兵を台湾に向け、撫恤銀五十万両を要求して、はじめて兵を収めて和議をまとめた。しかし琉球の主権はすでにひそかに日本に譲られていたのに、政府はそれに気づかなかった。
- 光緒の初年になると、イギリス人は雲南の事件を争い、フランス人は越南を騒がせ、ロシア人は伊犁に駐屯していた。日本人はその隙に乗じて人を遣わし、日本の天皇の旨を伝え、琉球に中国への貢使を停止させた。その国王は「久しく中国の藩封を受けており、ほしいままに廃するわけにはいかない……」と答え、そこで人を遣わして(中国に)告げてきた。当時、政府は新疆の軍務がまさに急であり、中国と西洋との交渉事が多かったので、ついにこれを顧みなかった。ここに至って日本は兵艦を琉球に派遣し(原文「兵鑑」は「兵艦」の誤りか)、その王の尚泰を捕らえて帰り、これを廃した。まもなくその地を改めて沖縄県とし、尚泰を侯爵に封じた。
西暦1881年 徳宗光緒七年
- 春二月、総理各国事務衙門に諭して、あらためて日本の使臣と球案(琉球の件)をよく協議させた。
- 前年二月の間、日本人の竹添進一が天津に至り、直隷総督の李鴻章に謁見して球案の決着を議し、自国政府の意向を述べた。北島・中島を日本に帰し、南島を中国に帰すという案であった。また、以前中国と結んだ条約章程には一体均霑の条項が無く、諸西洋国と独り異なっているので、それに準じて加入させたいとした。鴻章は、彼が琉球の件と条約章程とを混ぜて一件の案としたのは脅迫に近いとして、厳しくこれを拒んだ。
- まもなく日本公使の宍戸璣がたびたび総理衙門に来て球案の決着を催促した。中国とロシアの条約がまだ定まっていないことをますます知り、その機に乗じて強要しようという意図であった。またアメリカの前大統領グラントがふたたび調停の任に出て(原文「調令」は「調停」の誤りか)、やはり島を割いて分ける説を主張した。
- 鴻章はそこで天津にいる琉球人の向徳宏に尋ね、南島は痩せた土地で、琉球人がこれを得てもやはり自立できないこと、また琉球王とその世子については日本がどうしても釈放して返そうとしないことを知った。鴻章はそこで総理衙門に書簡を送って言った、「ロシアの件がまさに切迫しており、日本人は口実を設けてほしいままに要求している。これを許せば大きな損害を受け、これを拒めば敵を一つ増やすことになる。ただ引き延ばすという一法をもって対応するほかない。ロシアの件が決着してから、あらためて球案を処理すれば、力は一点に集中し、勢いは自ずと張るであろう」と。
- 総理衙門の王大臣はこれを是とし、球案を宙吊りにして急には決着させなかった。ここに至ってロシアとの条約が成立し、詔して、琉球の宗廟社稷を存続させることおよび二島を割いて分けることについて、総理衙門に日本と協議・締結するよう命じた。後に宍戸璣は望みを満たせなかったので、憤然として去った。南越の新約が成立するに及び、日本はフランスの例を引いて先例とした。こうして琉球はついに日本の領有に帰したのである。
西暦1883年 徳宗光緒九年
- 秋七月、越南がフランスと新約十三条を結んだ。
- 越南は中国の南の境にあり、もとは安南と称した。康熙五年、黎維禧を安南国王に封じ、それより六年に一度朝貢した。嘉慶八年以後、国号を越南と改めた。全境は四部に分かれ、北を東京(トンキン)、中を交趾支那(コーチシナ)、南を柬埔寨(カンボジア)、極南を下交趾支那という。
- 咸豊・同治の間、たびたびフランス人と兵を交え、続けて西貢(サイゴン)付近の三郡および南交趾支那・柬埔寨などの地を失った。西貢条約を結び、越南を自主の国と認めたが、実際にはフランスの保護国であり、政府はまだこれを知らなかった。
- 光緒八年、フランスはまた商人保護に名を借りて兵船を河内(ハノイ)に乗り入れ、これを攻め落とした。この年二月、南定・河陽および広安・寧平の二省を陥れ、兵を分けて東京と順化(フエ)の砲台を攻め落とした。ここに至って越南人に迫って東京を割かせて和議を行い、条約十三条を結んだ。その第二条にいう、「今後、越南はフランスの保護国とする。フランスの許可が無ければ、他国と通交してはならない」と。条約が成ってから、越南人ははじめて(中国に)告げてきた。
西暦1885年 徳宗光緒十一年
- 夏四月、大学士・直隷総督・一等粛毅伯の李鴻章がフランス公使と天津で和議し、新約十カ条を結んで成立した。
- 中国は越南のためにフランス人と連年兵を交えた。フランス人は海軍をもって海南を奪い、台湾を占拠し、まっすぐ福州を衝いて造船廠を砲撃焼却し、艦隊をほとんど殲滅した。その陸軍は東京において前後して劉永福・馮子材・蘇元春らに撃破された。
- この年二月、フランス人が小南関を攻めると、子材はまたこれを撃退し、諸軍は隊伍を進めて追撃の限りを尽くし、続けて文淵で、諒山で、谷松で、威波で、長慶で、船頭でこれを追い詰め、二百余里を追奔して、敵をほとんど殲滅した。
- 敵が文淵で大いに挫かれたとき、その国は大騒ぎとなり、議院の人々の多くが政府を非難し、その情勢は長く持ちこたえがたかった。そこでひそかに総税司の赫徳(ハート)(原文「總稅司」は「總稅務司」の誤りか)に託して李鴻章に和議を申し入れさせた。政府はまだ諒山の勝報を知らず、たちまちこれを承諾した。当時、フランス駐在の使臣曾紀沢はフランスの情勢を密電し、力戦するよう請うたが、返答は無かった。条約が成り、越南をフランスに譲った。
- 冬十月、イギリスがインドから兵を進め、緬甸(ビルマ)を滅ぼした。
- 緬甸は中国の南の境にあり、乾隆十八年に入貢した。その冬、国内が大いに乱れ、酋長の蔴哈祖が白古(ペグー)人の撤翁に敗れ、捕らえられて川に沈められ、撤翁は阿瓦(アヴァ)を占拠した。翌年、緬甸に属する木梳の頭土司である甕籍牙が兵を起こし、撤翁を攻めて走らせ、ついに緬甸に王となり、次第に兵をもって諸土司を脅して服従させた。こうして東は整欠・景邁・孟艮・孟勇に至り、西北は蛮暮・木邦・孟拱に至るまで、いずれも緬甸に属した。西南の辺境の外は騒然となった。雲貴総督の劉藻・楊応琚は前後して機を失した罪を受け、将軍の明瑞、大学士の傅恒らがたびたび出兵してこれを征討したが勝てず、そこで和議して軍を退いたが、貢使はついに来なかった。
- 暹羅(シャム)が興って緬甸の勢いがやや衰えると(原文「與」は「興」の誤りか)、(乾隆)五十三年、緬甸の酋長の孟雲は暹羅の圧迫を恐れ、使を遣わして入貢し、俘虜を返した。五十五年、また上表して冊封を乞い、十年に一度貢することを願ったので、これを許した。これより期日どおり入貢した。
- 道光二十三年、イギリス人はインドを侵して割き取り、兵船を緬甸の内港に乗り入れて都城に迫り、緬甸人は阿薩母(アッサム)・阿羅漢迭(アラカン)・乃式里母の地をイギリスに与え、はじめて和議が定まった。咸豊年間、また怒江口の通商埠頭の土官の徴税が重かったことから、イギリス人はふたたび兵船で郎崑に至り、(緬甸人は)あらためて北沽の全土を割いてイギリスに与えた。これより緬甸人は、たびたびイギリス人に侵し凌がれても中国が救えないことから、軽んじる気持ちを抱き、歳貢はついに絶えた。
- 光緒元年に至って、また使を遣わして入貢したことがあった。フランス人が安南を騒がすに及び、イギリス人はまず緬甸の傅海・牟国の地を攻め奪った。今いわゆる南緬甸である。ここに至ってイギリス人は、中国が法越の事で戦を厭うている時機に乗じ、またインドから兵を派遣して緬甸を襲い、一挙にこれを滅ぼした。
- 事が朝廷に聞こえると、駐英使臣の曾紀沢に命じてイギリス外務省と抗議させ、君主を立てて祭祀を存続させ、十年に一度貢する例を守らせようとしたが、実現できなかった。後に総理衙門と北京駐在のイギリス公使欧格納(オコナー)とが緬甸条約を結び、はじめて貢を存続させる議が承諾された。その第一条に明記していう、「十年ごとに、イギリス政府が緬甸大臣を派遣して例に従って挙行する。派遣する者は緬甸の国人を選ぶべきである……」云々と。中国は納貢という虚名を争い取ったが、実利はすべてイギリスに帰したのである。
西暦1894年 徳宗光緒二十年
- 春三月、朝鮮の東学党が事を起こし、朝鮮王が来て援けを乞うたので、これを許した。
- 朝鮮は中国の東北の境にある。梁の貞明四年、王建が朝鮮半島を統一し、国号を高麗と改めた。明の洪武二十五年に至り、李成桂が明の冊封を受け、ふたたび朝鮮と号し、代々中国の藩属であった。
- 咸豊・同治の間、フランス・イギリスの両国が朝鮮と紛争を起こしたが、政府はこれを問題にしなかった。
- 同治十二年、日本がまた朝鮮と言い争いを起こし、軍艦をその燕華島(江華島の誤りか)に乗り入れ、突然砲撃を受けた。日本人は兵を挙げて罪を問うた。朝鮮は半主の国であり、国際法によればその外交は上国が主宰すべきものなので、(日本は)使を遣わして問い合わせてきた。政府はまた事を恐れるあまり、たちまちこれに答えて言った、「朝鮮の国政には、中国は普段から関与しない。貴国が自ら朝鮮と論じ合えばよい」と。そこで日本人は光緒元年正月に朝鮮と和約を結んだ。その第一条にいう、「日本は朝鮮を自主の国とみなし、日本がもともと自主の国であるのと平等とする」と。
- 光緒五年、イギリス・アメリカ・ドイツ・フランスの諸国が相次いで朝鮮に赴いて通商を求めたが、朝鮮はこれを拒んだ。当時、李鴻章は国際法上の属国に対する権利、および属国には外交が無いという公法(原文「公注」は「公法」の誤りか)に通じておらず、軽々しく三度も朝鮮の国相である李裕元に書を送り、各国と条約を結ぶよう勧め、しかもそれを政府に報告して、これによってロシア人への備えとし、日本を牽制するのだと言った。
- 光緒六年、日本駐在の使臣である何如璋が総理衙門に上書し、朝鮮の外交を主宰する議を唱え、朝鮮に駐箚弁事大臣を置くよう請うた。鴻章は大いに不賛成で言った、「これでは明らかに代わって謀ることになる。交渉ごとが起きるたびに、各国はこちらばかりを問い詰めてくることになり、まことに厄介である。ひそかに維持・保護を与える方が、なお進退が自在であると思われる」と(原文はここに「維持」の二字が重複しており、衍字か)。
- 光緒八年四月、朝鮮がアメリカと条約を結んだ。朝廷は道員の馬建忠、提督の丁汝昌に命じて赴かせ、盟に臨ませた。まもなくイギリス・フランスの両国が前後して朝鮮と条約を結んだが、いずれも建忠が仲介した。
- 八月、朝鮮の督監営の兵が俸給を求めて騒擾を起こし、君側の奸を清めるという名目を借りて、大臣および外交に当たる者数人を殺し、あわせて日本公使館を攻めて日本人数人を殺害し、日本公使の花房義質は跳び出して難を免れた。乱兵は王宮に入り、王妃の閔氏を殺し、あわせて国王の熙と世子の坧を幽閉した。大院君はおもむろに出てこれを鎮撫した。
- 大院君とは、王の実父の昰応である。熙が位を継いだとき年少だったので、康穆太妃の趙氏が昰応に国事を統べ治めることを委任し、興宣大院君と号して十年摂政し、力を尽くして鎮国主義(鎖国の意か)を持し、そのためたびたび外国の兵を招き寄せた。政権が(王に)返されてのちは、王は柔和で情け深く、閔妃が政に参与し、鋭意して富強を求め、海禁を開き、外交を結び、大院君の行ったところをことごとく覆したので、国事はそこで一変した。大院君は次第に不平を抱いた。それゆえ乱が起こったのである。
- 日本は衆寡(原文「眾寡」、字に誤りがあるか)、軍艦をもって朝鮮に至った。使臣の参判である金允植、侍講の魚允中は天津にあって変を聞き、そこで出兵を乞うた。当時、鴻章はすでに母の喪で休暇を取って帰郷しており、直隷総督を署理する張樹聲がこれを上聞し(原文「置直督」は「署直督」の誤りか)、(朝廷は)広東提督の呉長慶に命じて登州の戍卒三千を率いて東へ渡らせた(底本は「命廣東提督吳長慶登州戍卒三千東渡」に作る)。漢京(漢城)に至ると、大院君を誘い出して捕らえ、天津に送り、詔して保定に安置し、門を閉じて過ちを反省させた。その一党百余人は、ことごとく捕らえて殺した。
- 朝鮮王は日本の要求に従って、賞金(原文「賞金」は「償金」の誤りか)・開港および駐兵を与え、条約を定めて帰した。当時、侍読の張偑綸(原文「偑」は「佩」の誤りか)は朝鮮通商大臣を派遣して、その外交の政を管理させるよう請うた。事が下されると、鴻章は覆奏して、なお以前の説を擁護した。一時の面倒の少なさを貪って、名器(国家の名分と権威)を借りて他人に与えたのであり、これより各国はみな朝鮮を中国の藩属として扱わなくなった。
- 朝鮮政府は当時、新旧二党に分かれており、旧党は中国に付いて事大党と号し、新党は日本に付いて独立党と号した。
- 光緒十年十月、日本に付いた党の金玉均・洪英植らが乱を起こし、その大臣である閔台鎬・趙寧夏らを殺し、日本兵を召して宮中に入れた。中国の駐防提督である呉兆有と、辦理商務委員の袁世凱は、勤王の兵を助けて英植らを殺し、朝鮮王を護って宮中に入れた。玉均らは日本に出奔した。日本公使の竹添進一は公使館を焼き、仁川の済物浦へ走った。
- 光緒十一年正月、日本は宮内大臣の伊藤博文を天津に遣わして条約を結び、将来朝鮮に事変があって中日両国が兵を派遣しようとするときは、必ずまず互いに通知することを明記した。こうして朝鮮はまた中日両国が共同で保護する国となった。
- この年(光緒二十年か)三月、朝鮮にまた東学党の事件が起こった。党中の人はみな革命思想に富んでいた。日本の貨幣を排斥する一件がもとで、党首の崔福成が全羅道の古阜県で集会を唱えると、国じゅうがこれに呼応した。朝鮮政府が兵を出して捕らえようとすると、党中の者は迎え撃ち、政府軍は大敗し(原文「犬敗」は「大敗」の誤りか)、そこで全州を陥れ、まさに王京(王都)に迫ろうとした。世凱は急ぎ鴻章に打電し、朝鮮の乱党は猖獗しており、朝鮮は決して自力で平定できないから、兵を派遣して討伐を助けるよう請うた。鴻章はそこで兵を出して牙山に向かわせ、一方では天津条約に従い、日本駐在の使臣である汪鳳藻に日本へ照会させた。日本もそこでまた兵を派遣して赴かせた。中国の援軍が途中まで進んだところで、朝鮮の乱党がすべて平定されたという報せが届いた。
- 夏六月、日本兵が朝鮮の王宮に入り、朝鮮王を幽閉し、大院君に国事を主宰させ、その大臣の閔泳駿らを流した。日本兵がすでに漢京に入り、中国兵もまた到着したので、(中国は)たびたび同時に撤兵するよう請うたが、日本人は承知せず、中国に協力して朝鮮の内政に干渉することを求めた(原文「要東協助」は「要中協助」の誤りか)。中国もこれに従わず、しかも朝鮮は中国の藩属であることを申し明らかにした。日本の側は中国が天津条約に背いたと責め、朝鮮の乱は討伐を待つまでもなかったのに、中国が理由なく出兵したのは、口実を借りて戦端を開こうとしたのであり、これは非は中国にあるのだ、と言った。
- そこでその使臣の大鳥圭介は、まず朝鮮に独立自主であることを責め立て、中国の藩属と認めないようにさせ、さらに内政改革の五カ条をもって迫った。朝鮮王が応じないので、圭介は兵を率いて宮中に入り、護衛の兵を殺して朝鮮王を追い詰め、政令は大小を問わずすべて日本人の管轄下に入った。
- 当時、世凱は帰国し、(中国は)ようやく戦備を整えた。戦事が開かれると、中国はたびたび日本に挫かれ、海陸の兵力はいずれも尽きたので、鴻章に命じて日本へ赴いて講和させた。三カ月にわたり折衝して、ようやく講和の議がまとまり、そこで翌年正月、日本の馬関で条約を結んだ。その第一条に明記していう、中国は朝鮮国が確かに完全無欠の独立自主の国であることを認め、中国に対して行ってきた貢献の典礼はすべて今後廃絶する、と。
- こうして日本の天皇は大本営から東京に還り、自国民の祝賀を受けた。朝鮮王は独立して帝を称し、国号を大韓と改め、光武と建元した。朝鮮と中国との二百七十五年の関係は、これより断絶した。
- 冬十二月、イギリス・フランスの二国が協議して暹羅(シャム)国の独立を保証した。
- 暹羅は中国の南の境にあり、すなわち古の扶南である。乾隆四十六年に航海して来貢して以来、政府はそれによってこれを冊封した。当時、緬甸の勢いはまさに強く、辺境の地に侵入してきたが、暹羅がしばしばその肘を引いて、盛んに燃え上がる勢いを抑えたので、実に中国に功があった。これより朝貢の国に列し、前後して御筆の扁額を賜い、「天南楽国」といい、「炎服屏藩」といった。
- 道光年間、はじめてイギリス人と条約を結び、各国もこれに続き、みなその独立を認めた。暹羅人もまた自ら奮い立とうと思い、朝貢の典礼はそこで欠けた。
- 咸豊の初年になり、太平軍が起こって東南が靡き倒れ、その風聞は南洋にまで伝わり、西洋人がさらに煽動し、暹羅人はこれを信じ、この機に乗じて属国の名義を脱しようとした。
- 同治八年、使を遣わして上書し、貢献の礼を廃し、以後は方物を贈る際、双方の授受の儀式は西洋諸国と同じにすべきだと請うた。政府はこれを拒んだ。
- 光緒四年、曾紀沢がイギリスに使いする途中、暹羅の都を通り、それとなく従来どおり入貢するよう促したが、暹羅は承知せず、ただ商約を結びたいと請うたので、これもまた拒んだ。
- 光緒五年三月、暹羅の朝廷は突然、暹羅駐在のイギリス領事が転送してきた中国からの貢を催促する書状を受け取った。思うにイギリスの官吏が軍艦に中国の旗号を仮り、偽って靑貢の軍だと称し(原文「靑貢」は「索貢」の誤りか)、暹羅人を脅して彼らに援助を求めさせようとしたのである。暹羅王はそれを見抜き、臣下に向かって、長年にわたり貢をしてきた事情を詳しく述べた。貢の上表の中で以前は「跪具」の文字を用いていたが、近ごろはすでに西洋の礼に改めており、差し支えが無いわけでもない。しかしついに中国へ取り次いでくれる者が無かった。それゆえイギリス人といっそう親密にせざるをえなかったという。
- これより先、暹羅王の久拉、すなわち古蘭格羅は、勢いが孤立しているため気後れして、暦を改め服制を易え、奴隷の所有を禁じ、教育を興し、道路を開き、法律を定め、幣制を改め、林業を整頓するなどの事を令し、いずれも西洋の風俗に倣ったので、国勢はそのおかげでやや充実した。
- しかし(暹羅は)イギリス・フランスの二大国の間に挟まれていた。フランスはすでに交趾支那・東京を属地とし、東浦寨(カンボジア)(原文「東浦寨」は「柬埔寨」の誤りか)および南部越南を保護国としており、さらに暹羅を脅して湄公河(メコン川)以東の一帯をフランスの属地とせよと迫った。暹羅はあらゆる手立てで拒んだが、かなわず、要求された地および賠償金五百万フランを与えることを許して、和議を結ぶことができた。光緒十九年のことである。
- フランスがすでに暹羅に勢力を伸張したので(原文「仲張」は「伸張」の誤りか)、イギリスは属領が暹羅と隣接していることから、フランス人が緬甸にまで侵してくるのを恐れ、ここに至ってフランス人と条約を結び、互いに暹羅の土地を一片たりとも侵し占めないこととした。一九〇四年四月八日に至って、双方はロンドンで宣言に署名し、イギリス・フランス両国の暹羅における政治上の地位を確定し、あわせて暹羅の独立を保証したという。
- このほか中国の藩属としては、次のようなものがある。
- 蘇祿国は中国の南海の中にあり、雍正五年に入貢し、乾隆五年に内附した。ここに至って三島で独立し、その所属であった東婆羅州(北ボルネオ)はすでに割かれてイギリスの会社に帰した。
- 南掌国は、一名を老撾(ラオス)といい、中国の南の境にあり、雍正九年に内属した。乾隆以後、国土は分裂し、西の部分は緬甸に服属し、その大半は後に土司の専管となった。その南方については、光緒十一年に中英が滇緬条約を締結した際、イギリス外務省侍郎の克蕾が駐英使臣の曾紀沢と会見し、イギリス政府は潞江以東の地を中国に譲り返したいと述べ、その中の北には南掌があったが、政府は受け取らなかった。暹羅が独立するに及び、南掌はそこで暹羅に帰属した。
- 布魯克巴国は、すなわち不丹(ブータン)で、中国の西蔵(チベット)の東南の境にあり、雍正十年に来属した。今は独立国と称している。
- 哲孟雄国は、すなわち錫金(シッキム)で、中国の西蔵の南の境にあり、康熙五十九年に帰属した。光緒十六年にイギリス人がこれを脅して服属させ、朝廷は駐蔵大臣の升泰に命じてイギリスと境界を画定させ、哲孟雄国はそこでことごとくイギリスのものとなった。
- 博羅爾国は、すなわち帕米爾(パミール)で、一に波謎羅とも書き、中国の新疆の葱嶺の西の境にあり、乾隆二十四年に款を納れた。イギリス・ロシアが取り囲んで狙うようになってからは、北寄り・西寄りはロシアに属し、南寄りはイギリスの属する阿富汗国に付いた。
- 阿富汗国は、すなわち愛烏罕(アフガニスタン)で、巴達克山国の西南にあり、乾隆二十九年に入貢し、光緒五年にイギリス人がこれを占領した。
- 巴達克山国は葱嶺の西の境にあり、乾隆二十四年に回部の酋長である霍集占兄弟の首級を献じてきて、そこで帰順した。
- 布哈爾国は葱嶺以西にあり、乾隆二十九年に巴達克山国を介して内附を請うた。
- 浩罕国は、すなわち敖罕で、一に霍罕とも書き、葱嶺の西の回国であり、乾隆二十九年に来て貢を納めた。
- 哈薩克国は、すなわち吉利吉斯族で、西洋人は韃靼里(タタール)と称し、新疆の西北の境を包み、乾隆二十二年に征服された。
- 布魯特国は新疆の西南の境を包み、乾隆二十三年に使を遣わして来朝した。
- 以上の四国は、今はいずれもロシアの属領である。
- 廓爾哈国は、一名を尼泊爾(ネパール)といい、また巴勒布とも称し、西蔵の西南の境にあり、乾隆五十五年に大学士の福康安らが軍を率いてこれを征討し、(廓爾哈は)兵が敗れて軍前に赴いて降った。
- 乾竺特国は、一名を坎巨提といい、また喀楚特とも書き、新疆の西南の境にあり、乾隆二十九年に方物を貢いできた。
- これより後は、廓爾哈がなお職貢を修め、乾竺特がなお内属しているほかは、かつての藩国(原文「國藩」は「藩國」の誤りか)はついに一つも残らなくなったのである。
原文(底本)
德宗光緒五年春閏三月,日本滅琉球,夷爲沖繩縣。琉球在中國東南大海中,康熙二年冊封琉球國王,自是貢舟三年一至。原部三十六島,紆蟠如虬龍流動,故稱琉虬,後改琉球。北部九島,中部十一島,南部雖有十六島而周迴不及三百里。北部中有八島,當咸豐時,日本乘中國多事,引兵佔踞,僅存一島。同治十年,以琉球人漂流臺灣,爲生番所殺,日本人藉此起釁,爭琉球爲其版圖。出其國史相證,所書明萬厯三十七年,義久取琉球,其後書琉球入貢者十。日本寬文十一年當中國康熙十年,天和二年當康熙二十一年,亨保三年當康熙五十七年,寬延二年當乾隆十四年,明和元年當乾隆二十九年,寬政二年當乾隆五十五年,又八年當嘉慶元年,文化三年當嘉慶十一年,天保三年當道光十二年,天保十三年當道光二十二年。當日,日本駐京副使栁原前光,以此與總署反覆辯詰者果日。未幾,有日人四名,亦漂至臺灣遭害,日廷乃以兵向臺灣,要索卹銀五十萬兩,始罷兵行成。而琉球主權,已陰讓於日本,政府不之覺。及光緒初元,英人爭滇案,法人擾越南,俄人駐伊犁,日人遂乘間遣人傳日皇旨,令琉球停止中國貢使。其國王答以「久爲中國藩封,不便擅廢……」因使人來告。時政府以新疆軍務方急,中西交涉事繁,竟不之顧,至是,日本發兵鑑至琉球,執其王尚泰以歸,廢之。尋改其地方爲沖繩縣,封尚泰侯爵。 七年,春二月,諭總理各國事務衙門,再向日本使臣妥商球案。上年二月間,日本人竹添進一至天津,謁直督李鴻章,議結球案,稱其政府之意。擬以北島、中島歸日本,南島歸中國。又以前與中國所訂約章無一體均沾之條,與諸西國獨異,欲援照加入。鴻章以其將球事與約章混爲一案,近於要挾,嚴拒之。旋日本公使宍戶璣屢至總署,催結球案,益知中俄之約未定,意在乘機挾制。而美前總統格蘭德復出任調令,亦主張割島分離之說。鴻章因就詢在津之球人向德宏,知南島枯瘠,球人得之仍不能自立,而球王及其世子,日本又不肯釋還。鴻章遂致函總署,謂「俄事方殷,日人籍肆要求,允之則大受其損,拒之則多樹一敵,惟有延宕之一法以爲對付。俟俄事既結,再理球案,則力專而勢自張。」總理王大臣韙之,懸球案不遽結,至是俄約成,詔以存琉球宗社及割分兩島事,命總署與日商訂。後宍戶璣以未滿所欲,悻悻而去。至南越新約成,日本乃援法以爲例,於是琉球終歸日領矣。 九年,秋七月,越南與法蘭西立新約十三條。越南在中國南境,本稱安南。康熙五年,封黎維禧爲安南國王,自後六年一貢。嘉慶八年以後,改號越南。全境分爲四部,北曰東京,中曰交趾支那,南曰柬埔寨,極南曰下交趾支那。咸豐、同治間,屢次與法人構兵,連失西貢附近之三郡及南交趾支那、柬埔寨等地。結西貢條約,認越南爲自主國,實爲法之保護國,政府尚未知之也。光緒八年,復籍名保商,以兵船駛入河內,攻陷之。是年二月,陷南定、河陽及廣安、寧平二省,分兵攻陷東京順化礮臺。至是,迫越人割東京以議和,訂約十三條,其第二云:「嗣後越南爲法之保護國。非法國許可,不得與他國交通。」約成,越人始來告。 十一年,夏四月,大學士直隸總督一等肅毅伯李鴻章與法使議和於天津,訂新約十欵成。中國爲越南與法人構兵連年,法人以海軍奪海南,踞臺灣,直搗福州,轟燬船廠,殲艦隊幾盡。其陸軍在東京先後爲劉永福、馮子材、蘇元春等所擊敗。是年二月,法人攻小南關,子材復擊走之,諸軍拔隊窮追,連蹙之於文淵、於諒山、於谷松、於威波、於長慶、於船頭,追奔二百餘里,殲敵殆盡。方敵之大挫於文淵也,其國大譁,議院諸人多訾議政府,其勢難以久持,乃潛託總稅司赫德爲言於李鴻章以議和。政府尚未知諒山之捷,遽允之。時法使臣曾紀澤密電法國情形,請力戰,不報。約成,以越南讓法。 冬十月,英吉利由印度進兵,滅緬甸。緬甸在中國南境,於乾隆十八年入貢。其冬,國內大亂,酋長蔴哈祖爲白古人撤翁所敗,擒而沉之江,撤翁據阿瓦。翌年,緬屬之木梳頭土司甕籍牙起兵,攻走撤翁,遂王緬甸,漸以兵脅服諸土司,於是東至整欠、景邁、孟艮、孟勇,西北至蠻暮、木邦、孟拱,均爲緬屬。西南邊外騷然。滇督劉藻、楊應琚前後以失機獲罪,將軍明瑞、大學士傅恆等屢出師征之,不能克,遂與議和退師,而貢使終不至。迨暹羅與緬勢稍替,五十三年,緬酋孟雲畏暹羅之偪,遣使入貢,返俘虜。五十五年,復具表乞封,願十年一貢,許之。由是按期入貢。道光二十三年,英人侵割印度,以兵船駛入緬甸內港,偪都城,緬人割阿薩母、阿羅漢迭、乃式里母地予英,始定和議。咸豐年間,又以怒江口通商埠頭之土官抽稅繁重,英人復以兵船至郎崑,再割北沽全土畀英,自是緬人以迭被英人侵凌,中國不能救,遂存輕視,歲貢竟絕。至光緒元年,又嘗遣使入貢,及法人擾攘安南,英人復先攻奪緬甸傅海、牟國之地,即今所謂南緬甸者也,至是英人乘中國因法越事厭兵之際,又由印度派兵襲緬,一舉而滅之。事聞,命駐英使臣曾紀澤與英外部抗議,立君存祀,俾守十年一貢之例,不可得,後由總署與駐京英使歐格納訂立緬約,始允存貢之議。其第一條載明:「每屆十年,由英廷派緬甸大臣循例舉行。所派之人,應選緬甸國人……」等語。中國爭得納貢之虛名,而實利全歸於英矣。 二十年,春三月,朝鮮東學黨滋事,朝王來乞援,許之。朝鮮在中國東北境,自梁貞明四年,王建統一朝鮮半島,更國號高麗。至明洪武二十五年,李成桂受明冊封,復號朝鮮,世為中國藩屬。咸同間,法英兩國與之構難,政府不之問。同治十二年,日本又與有違言,以兵艦入其燕華島,突遭礮擊。日人舉兵問罪,以其為半主之國,依公法,其外交當由上國主之,因遣使來問。政府復以畏事之故,遽答之曰:「朝鮮國政,中國素不與問,貴國自與理論可也。」於是日人於光緒元年正月與朝鮮訂立和約。其第一條:「日本以朝鮮為自主之國,與日之本係自主者相平等。」五年,英、美、德、法諸邦相繼往朝鮮,求互市,朝鮮拒之。時李鴻章不明國際法上對於屬國之權利及屬國無外交之公注,貿然三致書於朝鮮國相李裕元,勸其與各國立約,且以聞於政府,謂藉此備禦俄人,牽制日本。六年,駐日使臣何如璋上書總署,倡主持朝鮮外交之議,請駐紮辦事大臣於朝鮮。鴻章大不謂然,謂:「顯然代謀。遇有交涉,各國將惟我是問,殊為棘手。不若密予維持維持保護,尚覺進退裕如。」八年,四月,朝鮮與美國立約。朝命道員馬建忠、提督丁汝昌前往蒞盟。旋英、法兩國先後與朝鮮立約,皆由建忠介之。八月,朝鮮督監營兵以索餉譁變,藉清君側為名,殺大臣及辦外交者數人,並攻日本使館,戕日本人數人,日使花房義質跳而免。亂兵入王宮,殺王妃閔氏,並囚國王熙與世子坧,大院君徐出鎮撫之。大院君,王本生父昰應也。熙嗣位時年幼,康穆太妃趙氏委任昰應綜理國事,號為興宣大院君,攝政十年,力持鎮國主義,致屢召外兵。既反政,王柔仁,閔妃參政,銳志求強,開海禁,聯外交,一反大院君所為,國事遂變。大院君寖不平,故亂作,日本眾寡,以兵艦至朝鮮。使臣參判金允植、侍講魚允中在天津聞變,遂乞師。時鴻章已以母喪假歸,置直督張樹聲以聞,命廣東提督吳長慶登州戍卒三千東渡。至漢京,誘執大院君,送天津,詔安置保定,令其閉門思過。其黨百餘人,悉捕殺之。朝王依日本之要求,給以賞金、開埠及駐兵,定約而返。時侍讀張偑綸請派朝鮮通商大臣,理其外交之政。事下,鴻章覆奏,仍護前說,貪一時之省事,假名器以畀人,自是各國皆不以中國藩屬待朝鮮。朝鮮政府,時分新舊二黨,舊黨附中國,號事大黨;新黨附日本,號獨立黨。十年十月,附日黨金玉均、洪英植等作亂,殺其大臣閔台鎬、趙寧夏等,召日兵入宮。中國駐防提督吳兆有(先是有人奏日朝約中如兵費及駐兵兩條所關甚大道員馬建忠實主其事且允由中國商局代借賠欵詔問長慶長慶亦歸罪建忠謂其擅預日約任性妄爲遂與鴻章成郄其年三月鴻章撤長慶歸戍旅順口留三營駐漢京以兆有統之兆有長慶部將也閏五月長慶嘔血卒於旅順軍中)與辦理商務委員袁世凱助勤王兵殺英植等護朝王入宫玉均等出奔日本日本公使竹添進一焚使館走仁川之濟物浦十一年正月日本遣宮內大臣伊籐博文來天津訂約載明將來朝鮮有事中日兩國欲派兵往必先互行知照於是朝鮮又成爲中日兩國公同保護之國是年三月朝鮮又有東學黨之事黨中人皆富於革命思想因抵制日幣事黨首崔福成倡會於全羅道之古阜縣舉國響應朝鮮政府發兵捕之黨中迎拒兵犬敗遂陷全州將偪王京世凱亟電鴻章稱朝鮮亂黨猖獗朝鮮決不能自平請派兵助剿鴻章遂發兵向牙山一面遵依津約使駐日使臣汪鳳藻照會日本日本遂亦派兵往中國援師行至中途而朝鮮亂黨悉平之報至夏六月日本兵入朝鮮王宫幽朝王使大院君主國事流其大臣閔泳駿等日兵旣入漢京中國兵亦至屢請同時撤兵日人不允要東協助干預朝鮮內政中國亦不從且申明朝鮮爲中國藩屬日本則責中國背津約謂朝亂無待於剿中國無端發兵欲借端以開戰局是曲在中國也於是其使臣大鳥圭介首責朝鮮獨立自主勿認爲中國藩屬復以改革內政五事要之朝王不應圭介乃率兵入宫殺護兵困朝王政令無鉅細皆入日人筦鑰時世凱歸國始爲戰備及戰事開中國屢見挫於日本海陸兵力俱盡乃命鴻章赴日本講和磋磨三月款議始成遂以明年正月訂約於日本之馬關其第一條載明中國認明朝鮮國確爲完全無缺之獨立自主所有對於中國修貢獻典禮嗣後全行廢絕於是日皇自大本營還東京受其國人之懽祝朝鮮王獨立稱帝改國號大韓建元光武而朝鮮與中國二百七十五年之關繫自是斷絕。 冬十二月,英法二國協商保證暹羅國獨立暹羅在中國南境卽古扶南自乾隆四十六年航海來貢政府因而冊封之時緬甸勢方強進侵邊地暹羅頻掣其肘以遏其方張之燄實有功於中國自是列於朝貢之邦先後賜御書扁額曰天南樂國曰炎服屛藩道光中始與英人締約各國繼之羣認其獨立暹人亦思自振勵朝貢之典禮遂缺及咸豐初元太平軍起東南披靡風聲播及南洋西人又加煽惑暹人信之將乘此脱屬國名義同治八年遣使來上書請廢貢獻之禮以後贈獻方物彼此授受儀式當與西洋諸國同政府拒之光緒四年曾紀澤使英途過暹京諷令照舊入貢暹不允但請立商約又拒之五年三月暹廷忽接到駐暹英領事轉遞中國催貢札文蓋英官以戰船假中國旗號僞云靑貢之師以脅暹人使之求助於彼也暹王知之向臣下具道所以厯年久貢之故因貢表內前用跪具字様近已改用西禮不無窒礙然卒莫爲代達於中國者故不能不與英人倍加親密云先是暹王久拉卽古蘭格羅以勢孤意怯下令改朔易服禁蓄奴興敎育闢道路定法律更幣制整頓林業等事皆效法西俗國勢賴以稍充然介於英法兩大之閒法旣以交趾支那東京爲屬地以東浦寨及南部越南爲保護國又脅暹羅以湄公河東一帶爲法國屬暹羅百方拒之不得許以所索之地並償金五百萬法郎克以和時十九年事也法旣仲張勢力於暹羅英以屬土與暹毗連恐法人侵及緬甸至是與法人訂約互不得侵佔暹羅片土至一千九百零四年四月八日雙方在倫敦簽押宣言確定英法兩國在暹羅政治上之地位並保證暹羅獨立云此外中國之藩屬如蘇祿國在中國南海中雍正五年入貢乾隆五年內附至是以三島獨立而所屬之東婆羅州已割歸英公司南掌國一名老撾在中國南境雍正九年內屬乾隆以後國土分裂西分服於緬甸其大半後爲土司專轄其南方則於光緒十一年中英訂結滇緬條約時英外部侍郎克蕾晤駐使曾紀澤稱英廷願將潞江以東之地讓還中國其中北有南掌政府不受迨暹羅獨立南掌遂歸附之布魯克巴國卽不丹在中國西藏東南境雍正十年來屬今稱獨立國哲孟雄國卽錫金在中國西藏南境康熙五十九年歸屬光緒十六年英人脅服之朝命駐藏大臣升泰與英劃界哲孟雄國遂盡入於英博羅爾國卽帕米爾一作波謎羅在中國新疆䓤嶺之西境乾隆二十四年納欵自英俄環伺迤北迤西屬俄迤南則附於英屬之阿富汗國阿富汗國卽愛烏罕在巴達克山國之西南乾隆二十九年入貢光緒五年英人佔領之巴達克山國在䓤嶺之西境乾隆二十四年來獻回酋霍集占兄弟之馘遂歸誠布哈爾國在葱嶺以西乾隆二十九年因巴達克山國請內附浩罕國卽敖罕一作霍罕爲葱嶺西回國乾隆二十九年來納貢哈薩克國卽吉利吉斯族西人稱曰韃靼里包新疆西北境乾隆二十二年征服布魯特國包新疆西南境乾隆二十三年遣使來朝以上四國今皆爲俄屬廓爾哈國一名尼泊爾又稱巴勒布在西藏西南境乾隆五十五年大學士福康安等率師征之兵敗赴軍前降乾竺特國一名坎巨提又作喀楚特在新疆西南境乾隆二十九年來貢方物自是除廓爾哈尚修職貢乾竺特尙爲內屬外舊日國藩竟無一存者矣。
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