清史紀事本末海軍の創設と陸軍の改練(創設海軍及改練陸軍)

要約

光緒十一年秋九月、醇親王奕譞に海軍事務を総理させ、沿海の水師をその節制に帰した。まず北洋に水師を精練して先駆けとし、京師に海軍衙門を設けた。冬十二月、黄体芳が鴻章の海軍会弁を解けと奏請し議処された。

十四年冬十一月、丁汝昌を北洋海軍提督、林泰曾・劉歩蟾を左右翼総兵とし北洋海軍は成軍した。汝昌は陸将で水師の学に根底がなく軽んじられ、のち日本に敗れて二人は殉じ汝昌も自尽した。十六年、劉銘伝に海軍を幫弁させた。二十年夏四月、鴻章は第二回の会閲を覆奏し、技芸純熟、台塢堅固と称した。

二十一年夏閏五月、張之洞が二千数百人を自強軍として練ることを許された。李鴻章が常勝軍を教練して各営を洋操に改め、直隷総督転任後は直隷の練軍も新式に改めたが、形式だけで日本に挫かれた。之洞は郷民を募り、ドイツ将弁を教習とし営制もドイツに倣って來春石泰に統率させ、二十二年春二月には武昌で二営一哨を練り、のち日本の将弁と軍制に改めた。

二十五年夏四月、剛毅に江南で査辦させた。海軍の巨款は李蓮英の言で頤和園建築に移され、海陸の軍が潰えてはじめて関税・釐金・塩課の整頓が議された。剛毅は江南・広東で数百万両を搜括し、民は困窮した。

二十七年秋七月、緑営・防勇を十分の二、三裁去させ、精選した営に新式の兵法を教えて常備・続備・巡警に分け、武備学堂が各地に成立した。二十九年、鉄良に京旗の練兵を処理させ、冬十一月、世凱・之洞の奏請で練兵処を設けて奕劻に管理させ、八旗の常備軍は保定に移された。

三十年秋七月、鉄良に江蘇等省の財政・武備を査勘させた。剛毅の南下と庚子の賠款で東南の元気は尽き、東南の財で北方の兵を練る説により、士民は恐れた。冬十二月、袁世凱は直隷公債票を奏請して許され、日露の戦事に中立を守る中、北洋六鎮を増設して四百八十万の公債を経費に充て、翌年までに成った。

三十一年秋九月、世凱・鉄良が河間で秋操を閲して西洋人はその速さに嘆じ、三十二年秋九月の彰徳府の会操を日本人は形勢はよいが精神が足りぬと評した。兵部を陸軍部と改めて練兵処・太僕寺を併入し、四鎮は直轄となり、十二月に鳳山が訓練を総統した。

三十三年春三月、奕劻に陸軍部の事務を管理させ、全国三十六鎮を省ごとに配分して編練すると議定し、近畿四鎮のほかは督撫に経費を負わせた。夏六月、軍諮府を設けて馮国璋を正使とし、三十四年秋八月、陸軍が太湖で秋操して蔭昌・端方を閲兵大臣とした。

年表

清末の海軍創設と陸軍の洋式改練の経過を、光緒十一年(1885年)から三十四年(1908年)までの二十余年にわたって述べる。法越の事が落着すると醇親王奕譞に海軍事務を総理させ、李鴻章が専任して海軍衙門を京師に置き、光緒十四年に丁汝昌を提督として北洋海軍が成軍した。しかし海軍の款は頤和園の建築に流用され、日清戦争で海陸の兵は潰え、林泰曾・劉歩蟾・丁汝昌はいずれも死んだ。戦後は張之洞が江南で自強軍、武昌で洋操の練兵を起こし、剛毅・鉄良が東南で搜括して北方の練兵に充て、練兵処の設立、北洋六鎮の増設、兵部を陸軍部と改めるなど軍政の統一が進み、河間・彰徳・太湖で秋操が行われた。

年表(14件)

現代語訳全文

西暦1885年 徳宗光緒十一年

  • 秋九月、醇親王奕譞に海軍事務を総理するよう命じ、沿海の水師はことごとくその節制・調遣に帰属させ、あわせて慶郡王奕劻・直隷総督李鴻章に会同して処理するよう命じた。正紅旗漢軍都統の善慶、兵部右侍郎の曾紀澤がこれを幫同(補佐)した(「幫同輸」は「幫同辦理」の誤りか)。
  • フランスとベトナムの事件が落着してから、政府は日ごとに海防を籌議し、ここに至って、まず北洋から水師一支を精練し、それを先駆けとし、そのほかは年を分けて順次興していくことを決定した。李鴻章に専らその事を司らせ、海軍衙門を京師に設けた。
  • 冬十二月、侍郎の黃体芳が、李鴻章の海軍会弁の差使を解くよう奏請し、あわせて曾紀澤に急ぎ帰って水師を練るよう諭令することを求めた。廷旨は、その行跡が政を乱すに近いとして、部に交して議処させた。

西暦1888年 徳宗光緒十四年

  • 冬十一月、総兵の丁汝昌を北洋海軍提督とし、副将の林泰曾・劉歩蟾を左右翼の総兵とした。このとき北洋海軍はすでに成軍していたのである。
  • 汝昌は淮軍の陸将で、水師の学問にはまったく根底がなかった。着任ののち、各兵官は皆これを軽んじた。泰曾・歩蟾はともに閩廠(福建の船政局)の選派で、イギリスで操艦を学んだ優等の卒業生であった。のちに海軍が日本に敗れると、二人とも難に殉じ、汝昌もまた恥じ憤って自尽した。

西暦1890年 徳宗光緒十六年

  • 春閏三月、台湾巡撫の劉銘伝に海軍事務を幫弁するよう命じた。このとき曾紀澤はすでに病没していたのである。

西暦1894年 徳宗光緒二十年

  • 夏四月、李鴻章が海軍の会閲を終えて覆奏し、部に交して議叙するよう命じた。
  • 北洋海軍は十四年に成立して以後、十七年四月に鴻章を派して山東巡撫の張曜と会同させ、洋上に出て校閲させた。鴻章は復命し、海軍の規模はほぼ具わり、将領は年々訓練して技芸に熟達していると奏称した。この年は第二回の校閲の時期に当たり、ふたたび鴻章および山東巡撫の定安を派して会同校閲させ、あわせて旅順などの各地を巡歴し、沿海の陸軍および台塢(砲台と船渠)などの工事を校閲させ、ここに至って覆奏した。技芸は純熟し、行陣は整斉であり、台塢などの工事も一様に堅固であると盛んに称した。

西暦1895年 徳宗光緒二十一年

  • 夏閏五月、署両総督(「両江総督」の誤りか)の張之洞が新軍の改練を奏請した。まず二千数百人を練って一軍とし、名目を自強軍とするというもので、これを許した。
  • 同治元年から、江蘇巡撫の李鴻章が西洋人のウォード(華爾)・ゴードン(戈登)らを募って常勝軍を教練し、大功を立てた。そこで国人はようやく洋式操練の優れていることを深く信じた。鴻章は各営を部署し、ことごとく洋操に改めた。九年の秋、鴻章は直隷総督に転任し、直隷の練軍をすべて新式の訓練に改めたが、それもただ表面の形式を具えただけであり、そのためついに日本に挫かれた。
  • 之洞はそのとき両江を総督しており、兵事は急に講じられるものではないことを知って、まず自強軍を練り、土着の郷民を募り、ドイツの将弁である齊百凱・喀索維基・德特勒夫斯・柏登高森・伏德利西・馬斯凱・南爾多福・那漢斯を聘して教習とし、営制はすべてドイツに倣った。全軍の兵士は二千八百余人で、ドイツの遊撃・子爵の來春石泰にこれを統率させ、知府の沈敦和・銭恂を副とした。

西暦1896年 徳宗光緒二十二年

  • 春二月、湖広総督の張之洞が武昌で練兵を開始することを奏請し、まず二営一哨を練るというもので、これを許した。
  • すなわち湖北の護軍営の兵士について洋操を教練し、武防・武剛・鎮南の三旗(「武剛鎮南」は「武剛、鎮南」の誤りか)を裁いて、その餉をもって支出に充て(「餉抵支」は「以其餉抵支」の誤りか)、おおむね江南の自強軍と同様とし、ドイツの将である貝倫可多爾夫を総教習とし、天津・広東の武備学堂の学生を分教とした。のちにはドイツに代えて日本の将弁を用い、軍制もまた日本に倣うよう改めた。

西暦1899年 徳宗光緒二十五年

  • 夏四月、協辦大学士・戸部尚書の剛毅に、江南一帯へ赴いて事件を査辦するよう命じた。
  • これより先、政府が海軍の建設を議し、すでに巨万の款を籌えていたが、続いて総管太監の李蓮英の言により、その多くを頤和園建築の用途に移した。李鴻章はしばしば、海軍の費用が乏しすぎて志を尽くせないと言ったが、官中(「宮中」の誤りか)もまた省みることを知らなかった。
  • 海軍・陸軍が日本に潰え尽きるに及んで、政府はようやく款を籌え兵を練ることに汲々とし、関税・釐金・塩課などの項目の整頓を議した。江南は土地が広く物産が豊かであるとして、特に剛毅を派して真剣に処理させた。ほどなく江南の査辦が終わると、また広東へ赴いて籌款するよう命じた。剛毅は行く先々で搜括し、あわせて数百万両を得た。広東の七十二行の商人に責め命じて毎年五百万金を報効させ、そこで捐款は繁多苛酷となり、民はますます困窮してよるべを失った。

西暦1901年 徳宗光緒二十七年

  • 秋七月、各省の緑営・防勇を、本年内に十分の二、三だけ裁去するよう期限を切って命じ、ほどなく各省に、もとの各営を厳しく裁汰し、若干の営を精選して新式の兵法を教え、常備・続備・巡警などの軍に分けるよう命じ、あわせて各省に武備学堂の建設を籌るよう命じた。そこで将弁学堂・速成学堂・附属陸軍師範学堂および武備小学堂が、各地に成立した。

西暦1903年 徳宗光緒二十九年

  • 夏五月、侍郎の鉄良に、直隷総督の袁世凱と会同して京旗の練兵の事宜を処理するよう命じた。
  • 冬十一月、練兵処を設立し、慶親王奕劻に管理を命じ、内閣学士の徐世昌を練兵処提調に、道員の劉永慶を軍政司正使に、段祺瑞を軍令司正使に、王士琦を軍学司正使に充て、いずれも副都統の銜を賞給した。
  • 当時の議者は、従来の例では兵権を専らにするのは兵部ただ一つであるが、兵部の管轄するところは旧式の軍である、各省がすでにことごとく新軍に改めた以上、別に一機関を設けてこれを統率させなければ軍政は統一のしようがない、と言った。そこで袁世凱・張之洞が連名で、兵部とは別に練兵処を設けることを奏請し、奕劻を総理に推し、世凱・之洞を会弁、鉄良を襄弁とした。鉄良はまた別に八旗の子弟を募って京師常備軍を設立したが、のちに京に駐屯すればやはり驕り怠る習わしに染まることを恐れ、保定に移して屯させた。

西暦1904年 徳宗光緒三十年

  • 秋七月、鉄良に江蘇等省の財政・武備を査勘する事宜を任じた。
  • 二十五年に剛毅が南下して以来、骨を打ち髄を吸うありさまで、通った所は洗ったようになった。天下の人は、道で目配せするばかりであった。庚子の賠款に及んでは、民の財を箱ごと奪い、一斤の肉、一瓶の酒に至るまで重税をかけないものはなく、東南の元気はそのために尽き果てた。ここに至って、ある人が中央集権の説を政府に進めた。その処理の順序は、東南の財を取って北方の兵を練るというものであった。そこで改めて鉄良に、江蘇等省へ赴いて製造局・工廠の移建の事宜を勘定し、あわせて各省の収入・支出の款項を調査し、また江南の安徽・江西・湖南・湖北・河南などの省を経過して営伍・学堂を抽閲するよう命じた。東南の士民は鉄良が来ると聞いて皆大いに恐れ、これを剛毅の第二とみなし、あるいは義和団の二度目の出現だと言った。
  • 冬十二月、袁世凱が直隷公債票の試行を奏請し、これを許した。これより先、練兵処が新陸軍の営制・餉章を奏定し、全国に施行して新軍統一の基礎を立てていた。日露の戦事が起こるに至り、中国は局外中立を守った。当時、袁世凱は北洋を総督しており、守備が足りないことを慮って、北洋六鎮を増設し、鉄良の統べるものを第一鎮、世凱の統べるもの(「都」は「者」の誤りか)を第二鎮とした。その経費は四百八十万の公債を募集して充てた。北洋にもとからあった自強右軍・淮軍はみな解散し、元字営は専ら鉄道の守備に充てた。翌年の春に第三鎮が成り、その年の秋に第四・第五・第六の三鎮も成った。これが全国陸軍計画の始まりである。

西暦1905年 徳宗光緒三十一年

  • 秋九月、袁世凱・鉄良を秋操の閲兵大臣に派し、河間に至って操練を閲させた。世凱は各鎮を集め、南北の両軍に分け、河間府で北洋の大操を挙行した。成果は甚だ著しく、参観した西洋人は皆その成就の速さに嘆じた。

西暦1906年 徳宗光緒三十二年

  • 秋九月、陸軍が河南の彰徳府で会操し、袁世凱・鉄良を閲兵大臣に派した。このとき北洋・湖北の両軍の大操を挙行し、来て観た西洋人は、中国の南北の軍が大いに訓練の効果を得たと賛えた。しかし日本人の評議は、形勢は見るべきものがあるが精神が足りない、国民の教育がないためだ、というものであった。
  • 兵部を改めて陸軍部とし、練兵処・太僕寺をこれに併入した。これより先、官制を釐革するにあたり、兵部の掌るところはただ武吏を黜陟する権があるだけであったので、兵部を陸軍部と改称し、練兵処・太僕寺を合併してこれに帰属させ、その権限を拡張して軍政の統一を図った。ただ練兵処の軍令司だけを留めて軍諮府と改めた。思うに日本の恭謀部(「参謀部」の誤りか)のようなものである。
  • 冬十月、袁世凱が第一・第三・第五・第六の四鎮の陸軍を陸軍部の直轄に帰すことを奏請し、これを許した。陸軍京旗の第一鎮、および保定・錦州・山東・済南に駐まり京師を宿衛する第三・第五・第六などの鎮は、従来世凱の統轄に隷していた。陸軍部が成立すると、世凱はただちに直接に部の管轄に帰すことを奏請した。馬廠に駐まる第二鎮、および永平・山海関に駐まる第四鎮については、なお直隷が訓練することとし、請うたとおりに行われた。
  • 十二月、都統の鳳山に、第一・第三・第五・第六の四鎮の新軍の訓練を総統させた。鳳山ははじめ栄禄に随って武衛軍を治め、かつてヨーロッパを巡ってドイツ・オーストリアの陸軍を考察し、帰って軍諮府の参謀に任じた。鉄良はとりわけこれを重んじたので、この命があった。

西暦1907年 徳宗光緒三十三年

  • 春三月、奕劻に陸軍部の事務の管理を命じた。ほどなく部が、全国であわせて三十六鎮を練り、省ごとに配分し、年限を切って編練することを議定した。近畿の四鎮を数えないほか、規画されたのは、四川三鎮、直隷・江蘇・湖北・広東・広西・雲南・甘粛が各二鎮、江北・安徽・江西・山東・河南・湖南・浙江・福建・青州・山西・陝西・新疆・熱河・奉天・吉林・黒竜江が各一鎮であった。その経費は、近畿の四鎮は陸軍部がこれを負担し、他はみな当該省の将軍・総督・巡撫に責任を負わせた。当時、地方の長官は政費の籌措のほかに、さらにこの一層の負担が加わり、その窮迫のさまはますます言葉では形容できないものとなった。
  • 夏六月、軍諮府を設け、道員の馮国璋を正使とした。

西暦1908年 徳宗光緒三十四年

  • 秋八月、江南・湖北・安徽の陸軍が安徽の太湖の地で秋操したので、蔭昌・端方を閲兵大臣に命じた。
原文(底本)
德宗光緒十一年,秋九月,命醇親王奕譞總理海軍事務,沿海水師悉歸節制調遣,並命慶郡王奕劻、直隸總督李鴻章會同辦理。正紅旗漢軍都統善慶、兵部右侍郎曾紀澤幫同輸。自法越事定,政府日籌議海防,至是決定先從北洋精練水師一支,以爲之倡,此外分年次第興辦。命李鴻章專司其事,而設海軍衙門於京師。 冬十二月,侍郎黃體芳奏請開去李鴻章會辦海軍差使,並諭令曾紀澤遄歸練師。廷旨,以其跡近亂政,交部議處。

十四年,冬十一月,以總兵丁汝昌爲北洋海軍提督,副將林泰曾、劉步蟾爲左右翼總兵,時北洋海軍已成軍也。汝昌,淮軍陸將,水師學問毫無根底。蒞任後,各兵官皆輕視之。泰曾、步蟾皆閩廠選派,英國學習駕駛畢業優等生,後海軍敗於日本,二人皆列於難,汝昌亦羞憤自盡。

十六年,春閏三月,命臺灣巡撫劉銘傳幫辦海軍事務。時曾紀澤已病故也。

二十年,夏四月,李鴻章會閱海軍畢,覆奏,命交部議敘。北洋海軍自十四年成立以後,十七年四月,派鴻章會同東撫張曜出洋校閱,鴻章覆命,奏稱海軍規模略具,將領頻年訓練,熟精技藝。是年爲第二次校閱之期,復派鴻章及東撫定安會校,並周厯旅順等處,校閱沿海陸軍及臺塢等工事,至是覆奏。盛稱技藝純熟,行陣整齊,及臺塢等工一律堅固。

二十一年,夏閏五月,署兩總督張之洞奏請改練新軍。先練二千數百人爲一軍,名目爲自強軍,允之。自同治元年,蘇撫李鴻章募西人華爾戈登等教練常勝軍,立大功,於是國人乃深信洋操之善。鴻章部署各營,悉改洋操。九年秋,鴻章調任直督,盡改直隸練軍爲新式訓練,然亦徒具表面之形式而已,故卒挫於日本。之洞時督兩江,知兵事之不可亟講,首練自強軍,募土著鄉民,聘德國將弁齊百凱、喀索維基、德特勒夫斯、柏登高森、伏德利西、馬斯凱、南爾多福、那漢斯爲之教習,營制一切仿之德國。全軍兵士,二千八百餘,以德國遊擊子爵來春石泰統之,而副以知府沈敦和、錢恂。

二十二年,春二月,湖廣總督張之洞奏請於武昌開練,先練兩營一哨,允之。即就湖北護軍營兵士,教練洋操,裁武防、武剛鎮南三旗餉抵支,大致與江南自強軍相仿,以德將貝倫可多爾夫爲總教習,津粵武備學生分教,後改用日本將弁,軍制亦改傚日本。

二十五年,夏四月,命協辦大學士戶部尚書剛毅,前往江南一帶查辦事件。先是,政府議建海軍,已籌款鉅萬,繼以總管太監李蓮英之言,多移作建築頤和園之用。李鴻章屢以海軍太絀,不能盡行其志爲言,官中亦不知省。及海陸軍熸於日本,政府乃汲汲於籌款練兵,議整頓關稅,釐金鹽課等項。以江南地大物博,特派剛毅前往認真辦理。尋江南查辦事畢,又命往廣東籌款。剛毅所至搜括,共得數百萬兩。責令廣東七十二行商,每年報效五百萬金,於是捐款繁苛,民益困於無聊矣。

二十七年,秋七月,命各省綠營防勇,限於本年內裁去十之二三,旋命各省將原有各營,嚴行裁汰,精選若干營,教以新法,分爲常備、續備、巡警等軍,並命各省籌建武備學堂。於是將弁學堂、速成學堂、附屬陸軍師範學堂及武備小學堂,所在成立。

二十九年,夏五月,命侍郎鐵良會同直隸總督袁世凱辦理京旗練兵事宜。 冬十一月,設立練兵處,命慶親王奕劻管理,以內閣學士徐世昌,充練兵處提調;道員劉永慶,充軍政司正使;段祺瑞,充軍令司正使;王士琦,充軍學司正使,均賞給副都統銜。時議者言,向例專兵柄者,惟一兵部,而兵部所管者,則舊式之軍也。各省既盡改新軍,非別有一機關以爲之統率,則軍政無由統一也。於是袁世凱、張之洞連名奏請別設練兵處,以別於兵部,推奕劻爲總理,而世凱、之洞爲會辦,鐵良爲襄辦。鐵良又別募八旗子弟,設立京師常備軍,後以駐京,恐仍沾染驕墮之習,仍移屯保定。

三十年,秋七月,命鐵良任江蘇等省查勘財政、武備事宜。自二十五年剛毅南下,拷骨吸髓,所過如洗。天下之人,道路以目。及庚子賠款,胠篋民財,斤肉酒瓶,無不重稅,東南元氣,爲之索然,至是有人以中央集權之說進於政府。其辦理之次第,在於取東南之財,以練北方之兵,因復命鐵良前往江蘇等省,勘移建製造局廠事宜,並查各省進出款項,及經過江南安徽、江西、湖南、湖北、河南等處省分,抽閱營伍學堂。東南士民聞鐵良之來,皆大恐,目爲剛毅第二,或曰義和團第二次之出現。 冬十二月,袁世凱奏請試辦直隸公債票,允之。先是練兵處奏定新陸軍營制餉章,行之全國,以立新軍統一之基礎。至日俄戰事起,中國守局外中立,時袁世凱督北洋,慮守備不足,乃增設北洋六鎮,以鐵良所統者爲第一鎮,世凱所統都爲第二鎮。其經費則募集四百八十萬之公債以充之。以北洋舊有之自強右軍、淮軍,皆解放之,而元字營則專充鐵路守備。明年春,第三鎮成,其年秋,四、五、六三鎮亦成,是爲全國陸軍計劃之始。

三十一年,秋九月,派袁世凱、鐵良爲秋操閱兵大臣,至河間閱操。世凱調集各鎮,分爲南北兩軍,在河間府舉行北洋大操,成效甚著,西人之參觀者,皆嘆其成就之速。

三十二年,秋九月,陸軍會操於河南彰德府,派袁世凱、鐵良爲閱兵大臣。時舉行北洋、湖北兩軍大操,西人來觀者,贊中國南北軍大得訓練之效果。而日人評議,則謂形勢可觀,而精神未足,以無國民之教育故。 改兵部爲陸軍部,以練兵處太僕寺併入。先是釐革官制,以兵部所掌,徒有黜陟武吏之權,乃以兵部改稱陸軍部,合併練兵處太僕寺歸之,擴張其權限,以謀軍政之統一。惟留練兵處之軍令司,改爲軍諮府,蓋如日本之恭謀部。 冬十月,袁世凱奏請以第一、第三、第五、第六四鎮陸軍,歸陸軍部直轄,允之。陸軍京旗第一鎮,及駐保定、錦州、山東、濟南,宿衛京師之第三、五、六等鎮,向隸世凱統轄。陸軍部既成立,世凱即奏請直接歸部管轄。至駐馬廠之第二鎮及駐永平、山海關之第四鎮,仍歸直隸訓練,如所請行。 十二月,以都統鳳山總統一、三、五、六四鎮新軍訓練。鳳山初隨榮祿治武衛軍,曾遊歐洲,考察德、奧陸軍,歸任軍諮府參謀。鐵良尤重之,故有是命。

三十三年,春三月,命奕劻管理陸軍部事務,尋由部議定全國共練三十六鎮,按省分配,限年編練。除近畿四鎮不計外,規畫者爲四川三鎮,直隸、江蘇、湖北、廣東、廣西、雲南、甘肅各兩鎮,江北、安徽、江西、山東、河南、湖南、浙江、福建、青州、山西、陝西、新疆、熱河、奉天、吉林、黑龍江各一鎮,其經費則近畿四鎮由陸軍部任之,餘皆責成該省將軍督撫。時疆吏於籌措政費外,又加此一層負擔,其拮据之狀,益不可以言語形容矣。 夏六月,設軍諮府,以道員馮國璋爲正使。

三十四年,秋八月,因江南、湖北、安徽陸軍在安徽太湖地方秋操,命蔭昌、端方爲閱兵大臣。

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