清史紀事本末日清戦争と和約(甲午戦争及和約)
要約
光緒二十年夏六月、日本兵が朝鮮の王宮を襲って王を幽閉したので衛汝貴らに救援を命じた。四月の東学党の乱に袁世凱が出兵を請い、葉志超が淮勇千五百で牙山へ向かったが、至らぬうちに乱党は平定された。日本は兵五千を仁川に上げ、同時撤兵の代わりに朝鮮の内政への共同干預を求めて相持し、鴻章らは英露の調停を冀った。戦備の整わぬうち日本兵は一万余に達し、大鳥圭介が王宮に入って王を囲んだ。汝貴は盛軍三千で平壌へ、馬玉崑は毅軍二千で義州へ進んだ。
日本海軍が豊島で輸送船を迎え撃ち、商船高陞号を沈め操江号を捕らえ、牙山の諸軍も成歓で敗れた。済遠の方伯謙は鉄甲の厚い所に隠れ、部将三人が戦死すると白旗に日章旗を掲げて威海に逃げ、広乙は自ら焼いて七百余人が死んだ。葉志超は敗れながら倭兵五千余を殲滅したと捏造して犒士銀二万両を賜った。
秋七月、日本に宣戦し、葉志超に平壌の諸軍を総統させた。志超は病と詐って帰郷を請うたが許されなかった。将帥は酒宴を張り兵は婦女を掠め、志超は鴻章の電報に依るばかりであった。八月十五日の晩、敵は橋里の砲台を陥れて渡江し、翌日には牡丹台の左宝貴が開花砲に傷ついて陣没し、志超は白旗を掲げて停戦を乞うた。その夜の逃走は隘路で伏撃され死者は二千余、平壌は陥落した。宋慶に諸軍を総統させ、志超・汝貴は逮問された。
丁汝昌が大東溝の口外で日本艦と戦って敗れた。汝昌は港口を塞いで自守し、弾劾が続くと軍を出す真似をして倭兵の踪跡は無いと飛電していた。銘軍八営を大東溝に送った帰りに日本艦を望み、人字の陣を列ねたが、敵艦十二隻は太極の陣に変じて包んだ。致遠の鄧世昌は吉野を沈めれば気勢を奪えるとして迫り、水雷艇を沈めたが魚雷に中って二百五十人と没した。経遠の林永升も爆沈し二百七十人が死んだ。方伯謙は重傷の旗を掲げて退いて揚威に衝突して沈め、超勇も沈み、広甲は暗礁に乗り上げた。日本艦は一隻も喪わなかったのに、鴻章は凶鋒を挫いたと奏して褒賞を請い、伯謙は軍中で斬られた。廷議は失利を鴻章の咎として三眼花翎を抜き黄馬褂を剥いだ。
秋九月、恭親王奕訢が海軍事務を総理した。九連城と安東県が失守した。江北の約七十余営は依克唐阿の一軍を除いて宋慶の節度を受け、宋慶は九連城、聶士成は虎山、豊陞阿らは安東を守った。日本の支隊が徒渉すると依克唐阿は潰え、大隊が浮橋で渡ると銘軍がまず潰えて宋慶は鳳凰城に退き、日本人は九連城・安東を陥れた。第二軍は花園港を襲って旅順に逼り、宋慶は軍を返した。冬十月、日本兵は鳳凰城に入り、奕訢に軍務を督弁させ奕劻を幇弁とした。日本兵は金州・大連湾・岫巌州を陥れ、旅順も龔照嶼らが守る計を立てず陥った。聶士成は摩天嶺を守り連山関を回復した。十一月、日本兵は析木城・海城・復州を陥れた。德璀琳が齎した鴻章の書を日本が却けたので張蔭桓・邵友濂に和を議させた。十二月、劉坤一に軍務を督弁させ、日本兵は蓋平・栄城・威海衛・文登・寧海を陥れた。
二十一年春正月、日本兵が劉公島を陥れ海軍の全隊が捕獲された。前年末に鎮遠が暗礁に触れて林泰曾が自殺し、南幇の砲台が陥ると汝昌は北幇の各台を毀った。日本人は砲台から澳内の諸艦を攻め、定遠は雷に中り来遠らも沈み、遁れ出た魚雷艇十二隻も捕らえられた。島内の兵は生きる路を乞い、劉歩蟾は縊れ、汝昌と張文宣は薬を仰いで死に、牛昶炳が降を議して艦隊大小二十三隻は日本の有となった。
李鴻章に和約を議させた。張蔭桓・邵友濂の勅書に「旨を請う」の語があるとして伊藤博文らが会議を拒んだからである。二月、日本兵が営口を陥れた。宋慶らが海城を攻めて利あらず、呉大澂は田荘台から海城に逼ったが、依克唐阿・長順が東へ去って孤立した牛荘は失われた。敵は虚に乗じて営口を襲い、大澂は石山站に奔って田荘台も守れず、遼陽・錦州は声援を絶たれた。張錫鑾は寛甸・長甸を回復した。日本兵は文良港から上陸して澎湖を取った。
鴻章は春帆楼で博文と会議し、停戦を請うたが大沽・天津・山海関を質とせよと要求されて調わず、和議を先にした。帰路、刺客小山豊太郎の銃弾が左の頬骨に中った。博文・宗光は自ら詣でて謝罪した。日本は恐れて奉天・直隷・山東の停戦を二十五日を限りに允した。三月、和約十一款・別約三款を議定した。博文の底稿は朝鮮の自主・地の譲与・兵費・通商の四款で、鴻章は第一のほかを駁議して兵費一万万両と奉天の数地・澎湖列島の割譲を擬したが、最後の稿は初めに擬した所に比べると寛甸が減じ賠款も二万万両に減らされ、博文は允すか允さぬかの二言で決すると言い、哀的美敦書を送って決絶を示したので鴻章は議を定めた。光緒十一年に天津で鴻章が傲然と臨んだのを博文は恥として報復を思っていた。馬関条約は、朝鮮を自主の国と認め、奉天南辺の地・澎湖列島・台湾全島と附属島嶼を譲与し、軍費二万万両を八回に分けて交付し、譲与地の人民の退去を准し、重慶・沙市・蘇州・杭州を開いて日本の汽船と内地の営業を許し、賠款の交付まで威海衛に駐兵し、俘虜を交還し、四月十四日に煙台で互換するというもので、別約では駐兵は一旅団を過ぎず中国が毎年五十万両を貼ることとした。
夏四月、露独仏の三国が日本の遼東割拠を阻み、日本は遼東を返して兵費三千万両を増し索めた。日本は東方の事は両国で了えたいと告げ、イギリスは琅咸理を辞めさせられた隙から調停に出ず、ロシアに賂すと仏独と連合して抗議し、軍艦を長崎・遼海に泊めた。伍廷芳・聯芳が煙台で約を換え、李経方が割台使として樺山資紀と約を換えた。割地・賠款に朝野は騒ぎ、款議を阻む封章・電奏は百十通に上り、張之洞は割地の不可を理と勢から論じ、鴻章を刑部に交すよう請うた。
五月、台湾の官民が唐景崧を推して総統とし自立を宣告した。さきに張之洞は台湾をイギリスに贈って日本の要挾を制そうとしたが辞された。割台が定まると台湾の人は憤激し、邱逄甲が新竹で衆に誓い、台湾民主国を建てて景崧を大総統に公挙した。朝廷は景崧以下に台を離れるよう命じた。景崧は「台湾民主之章」の印を受け、黄虎の国旗を立てた。日本兵が基隆の北の澳底から上陸し、姦民が総統府に火を放つと景崧は微服して走り、台北は亡んだ。秋九月、台南の府城が取られた。餉も械も涸れ、紳士が総統の印章を劉永福に上ったが受けず幇弁と称して防守し、彰化が失われ飢えた軍は潰え、土匪が敵を引き入れ、永福は内地に渡って台南は亡んだ。
編者はいう、日中の役では輿論はみな李氏に矢を集め、国際法に明るくなく朝鮮が各国と条約を立てるのを聴して口実を与えたと言う。しかし釁はそればかりではない。最初の横浜領事范氏は僑民の権利を主張して日本人の堪えられぬことをし、琉球の件では北洋艦隊が長崎で示威して水兵と警察との争いを主動した。日本人はこれを辱めとして久しく報復を思い、一たび発して遏め得なくなったのであり、その咎がどうして李氏一人に在ろうか、と。
年表
朝鮮の東学党の乱をきっかけに清と日本が朝鮮に出兵し、光緒二十年(1894年)から二十一年(1895年)にかけて戦われた日清戦争と、その講和の顛末を記す。葉志超・衛汝貴らの陸軍は平壌で敗れて鴨緑江を退き、丁汝昌の海軍は大東溝で致遠の鄧世昌・経遠の林永升らを失って敗れ、九連城・旅順・威海衛が相次いで陥ちて艦隊は劉公島で降伏した。李鴻章は馬関に赴き、刺客小山豊太郎に撃たれながらも伊藤博文・陸奥宗光と和約十一款を議定し、朝鮮の自主・遼東と台湾澎湖の割譲・賠償二万万両を承諾した。露独仏三国干渉で遼東は三千万両と引き換えに返還されたが、台湾では唐景崧を総統とする自立の動きが起こり、台北・台南とも日本に収められた。
年表(2件)
- 西暦1894年 徳宗光緒二十年日本が朝鮮王宮を占拠し清が宣戦、平壌と大東溝で敗れ旅順まで失う
- 西暦1895年 徳宗光緒二十一年劉公島陥落で艦隊降伏、李鴻章が馬関条約を結び台湾澎湖を割譲する
現代語訳全文
西暦1894年 徳宗光緒二十年
- 夏六月、日本兵が朝鮮の王宮を襲って占拠し、朝鮮王を幽閉したので、総兵の衛汝貴らに命じて軍を率いて救援に赴かせた。
- この年の四月の間、朝鮮の東学党が乱を起こし、朝鮮駐在の通商委員である袁世凱がしばしば北洋大臣の李鴻章に電報して、兵を派遣して討伐を助けることを請うた。鴻章は海軍の済遠・揚威の二艦を派遣して仁川・漢城に赴かせて商民を保護させ、あわせて直隷提督の葉志超を調して淮勇千五百を率いて牙山に向かわせた。まだ至らないうちに乱党はことごとく平定された。
- その報せが至ったとき、日本はすでに兵五千を派遣して仁川に到着させていた。朝鮮は大いに震え、中国が先に撤兵することを請うたが、許さなかった。日本と同時に撤兵することを会商したが、日本はそれならば中国が共同して朝鮮の内政に干預することを約せと求めた。相持して久しく決せず、鴻章と総督の役所とは、日々イギリス・ロシアが調停に出てくれることを冀っていた。北京・ロンドン(倫敦)・サンクトペテルブルク(聖彼得堡)の間に書簡・電報が紛々と馳せ、イギリス・ロシアもまた必ず尽力すると請け合った。
- 移り変わって一か月を経ても戦備は整わず、前月の下旬に及ぶと、日本兵で続々と朝鮮に調し赴いた者はすでに一万余に達した。すでに朝鮮の京城に入ると、使臣の大烏圭介(「大鳥圭介」の誤りか)がこれを率いて王宮に入り、衛兵を殺し、朝鮮王を包囲した。
- 世凱は急ぎ電報を鴻章に致し、召し返して面と向かって和戦を商議することを懇請した。志超もまた電報して撤兵して帰国することを請い、守備の軍が久しく役に服し、署(「暑」の誤りか)のためにふたつながら病を受けていることを理由とした。鴻章は前後してこれを当局に請うたが、いずれも許されず、世凱には朝鮮に留まるよう命じ、志超には地を択んで陣を移すよう命じた。そして汝青(「汝貴」の誤りか)に命じて盛軍の馬兵・歩兵三千を統べて平壌に進ませ、提督の馬玉崑は毅軍二千を統べて毅州(「義州」の誤りか)に進ませ、別々に起って海路から大東溝に至って上陸させた。志超には平壌に陣を移すよう命じた。
- 日本海軍が兵員輸送船を豊島に迎え撃ち、イギリス商船の高陞号を沈め焼き、あわせて操江号運送船を捕獲した。牙山に駐屯していた際軍(「諸軍」の誤りか)もまた成歓で敗れた。
- これより先、朝鮮に派遣する各兵は、イギリス商人の汽船三隻を雇って分けて運び、灄遠(「済遠」の誤りか)・広乙の二隻の兵輪でこれを護衛させた。日本人に偵知され、豊島の海面で襲撃された。済遠の管帯である方伯謙は敵が近づくのを見ると、恐れ慌てて鉄甲の最も厚い所に隠れた。ついで舵が砲撃で壊れた。大副(副長)の游撃瀋寿昌は砲弾に中って死に、守備の柯建章がこれに代わったが、また陣没し、黄承勲がまた代わったが、これも死んだ。伯謙は急ぎ命じて高く白旗を掲げ、その下に日章旗を掲げ、威海に駛り帰った。
- イギリス汽船の高陞号はついに撃沈され、広乙は重傷を受けて自ら焼き、管帯の守備楊建洛および弁兵の死者は七百余であった。
- 時に牙山駐屯の兵は公州に退き返した。統将の葉志超は道すがら勝ち戦を捏造して報告し、成歓に至って敵と遭遇し、迎え撃って敗績したのに、また連日にわたり倭兵五千余人を殲滅したと称し、詔旨を得て兵士を犒う銀(「這士」は「犒士」の誤りか)二万両を賞として給され、将弁数十人が表彰・叙位された。
- 秋七月、日本に宣戦し、内外に布告し、あわせて日本駐在の公使汪鳳藻に旗を降ろして帰国するよう命じた。
- 葉志超に平壌に駐紮する諸軍を総統するよう命じた。時に馬玉崑は毅軍を統べ、衛汝貴は盛軍を統べ、提督の佐宝貴(「左宝貴」の誤りか)は奉軍を統べ、副都統の豊陞阿は奉天の盛軍を統べ、みな陸路から鴨緑江を渡って平壌に至った。志超は敗れて公州に趨った後、これも王京を迂回して北走し平壌に達した。志超はちょうど成歓の役の戦績を飾り立てて報告しており、政府はこれを信じ、そこで総督(「總督」は「總統」の誤りか)の命を拝した。志超はもとよりこれを辞し(「解」は「辭」の誤りか)、病と詐って急を請い、本籍に帰って治療すること(「京醫」は「就醫」の誤りか)を懇請した。朝廷の旨は許さなかった。
- 八月、日本の陸軍が平壌を攻め、葉志超らの軍は敗績し、記名提督の左宝貴らが戦死し、志超は夜に平壌を棄てて北走した。
- 平壌は朝鮮の要鎮であり、城壁は壮大で広く、十余里に綿延し、諸軍一万七千がここに集まっていた。将帥は日々酒宴を張って高会し、兵士が民間の婦女を掠奪する事がしばしば聞こえ、衛汝貴の盛軍がとりわけ甚だしかった。志超は臆病で無能であり、ただ李鴻章の書簡・電報による部署に依拠し、城の内外に塁を築いて自ら保つばかりであった。
- 馬玉崑は四営を率いて迂回して江東に出て犄角の勢をなし、衛汝貴・豊陞阿の二軍十八営は城の江南岸に駐屯し、左宝貴の六営は北の山城の上を守り、志超と聶士誠(「聶士成」の誤りか)は城中に居た。
- この月の十二日・十三日・十四日などの日、日本兵はすでに逼り近づき、互いに挑戦し、戦いぶりは相当(互角)であった。十五日の晩に至り、敵は右翼隊をもって大同江左岸の橋里の砲台を陥れ、さらに江を渡って平壌の正面を衝こうとし、師団長の本隊がその後援となり、左翼隊をもって羊角島から下って大同江を渡った。
- 十六日、江岸で騎兵隊と出会って激しく戦い、敵軍の死傷はかなり多かったが、砲台はついに陥れられた。時に宝貴は退いて牡丹台を守り、力を尽くして鏖戦したが、敵軍が続けざまに開花砲(榴弾砲)を発し、宝貴は傷を負って陣没し、諸軍はついに大いに乱れた。午後四時半ごろ、志超は城の上一面に白旗を掲げて停戦を乞うた。
- この夜、全軍は紛々と夜陰に紛れて逃げたが、敵は山の隘路で待ち伏せて撃ち、銃砲が周囲から轟き、潰走した兵は回り巡って抜け出せず、死者は二千余に及び、平壌はついに陥落した。事が聞こえると、四川提督の宋慶に諸軍を総統するよう命じ、志超・汝貴はまもなくいずれも捕らえて訊問された(「違問」は「逮問」の誤りか)。
- 海軍提督の丁汝昌が全軍を率いて日本の軍艦と大東溝の口外の海面で戦い、敗績した。
- これより先、六月の末、日本の兵船が高陞運送船および広乙の兵輪を撃ち焼き、済遠は威海に遁れ隠れた。汝昌は全軍を率いて威海衛で港口を塞ぎ、自ら守る計とした。京の内外から弾劾の上章が続くに及び、はじめて偽って一部の軍を遣わして口外に出したが、あるいは三十里で止まり、あるいは五十里で止まり、碇を揚げて出港しても五、六時間を経ればすぐ船を返し、北洋大臣に飛電して「某船は某処まで巡邏したが、倭兵の踪跡はまったく無い」と称した。
- この月の初旬、北洋は平壌に軍を送るため、招商局の汽船五隻をもって総兵劉盛休の銘軍の兵丁八営を載せ運び、海軍全隊十二隻をもってこれを翼護した。十七日、無事に大東溝に到着し、陸軍はすでに上陸した。十八日、海軍は旅順に帰ろうとして、兵艦は口外十二海里の地に泊まっていた。正午の刻に至り、遥かに西南の方に煙が東へ向かって来るのを見て、日本艦が来ようとしているのを知った。
- 汝昌は令を伝えて陣を「人」の字の形に列ね、鎮遠・定遠の二艦を人字の頭とし、致遠・靖遠・経遠・来遠・済遠・広甲・超勇・揚威および水雷船が人字の両翼を張った。開戦の後、平遠・広丙がはじめて来会した。敵艦十二隻は近づいて陣を「一」の字の形に列ね、魚が連なるように一列で猛撲し、たちまち変じて太極の陣となし、人字の陣をその中に包んだ。
- 汝昌は諸艦に令して先に砲を開いて威を示させたが、砲声がまだ絶えないうちに敵船が群れ集まり、人字の陣の末尾の二艦に逼り近づき、たちまち人字の陣の脚に入り込んだ。致遠・経遠・済遠の三隻はみな圏の外にえぐり出された。
- 致遠の管帯である提督銜・記名総兵の鄧世昌は、急ぎ大副の游撃陳金揆に語って言った、「敵艦では吉野が速力最上と称される。もしこれを沈めれば、その気勢を奪うに足りる」と。そこで汽機を全開にして吉野に向かって飛ぶように駛った。吉野は避けて走った。時に敵は水雷快速船で定遠を攻め、致遠は定遠の前に駛り出て、その水雷艇を撃ち沈めた。ところが日本の扶桑という大艦が飛ぶように駛って来て致遠を撃った。弾は雨のごとく紛々と飛び、致遠は力戦すること三時間余に及び、船体はすでに重傷を受けたが、なお機関を開いて前に駛り、扶桑に衝突して共に沈もうとした。至らないうちにその魚雷に中り、ついに沈んだ。世昌と金揆は同時に水に落ち、舟中の二百五十人はみな覆り没した。世昌は沈んだ後に救われて水から出たが、船じゅうが命を併せて死んだのに、義として独り生きることはできないとして、ふたたび身を奮って投じ、自ら沈んで死んだ(「況」は「沈」の誤りか)。
- 経遠はやっと日本艦に圏外へ押し出されたところで、火の手がにわかに上がった。管帯の升用総兵林永升は、砲を発して敵を攻め、水を激しく注いで火を救い、なお整然と秩序を保った。遥かに一隻の敵艦がすでに傷を受けたらしいのを見ると、すぐに輪を鼓して追った。敵が水雷を放って拒み、避けきれず、これも爆沈した。水弁(「永升」の誤りか)は弾に中って脳が裂け陣没し、ともに死んだ者は二百七十人であった。
- 済遠の管帯である方伯謙は、すなわち七月の間に豊島で敵艦に遇って旅順に逃げ帰った者である。この日、戦端を交えるやいなや、伯謙はまず「本船はすでに重傷を受けた」との旗を掲げて主将に告げ、そのまま駛り退いた。時に揚威はすでに座礁していたが、済遠がこれに衝突してその舵の葉を砕き、揚威は沈没し、管帯の参将林履中および同じく殞れた者は百五十余人であった。伯謙は驚き恐れて飛ぶように遁れ、旅順口に入った。
- 超勇もまた沈み、管帯の参将黄建勲および船中の百五十余人は、みな船とともに焼け溺れて共に没した。同時に済遠に継いで駛り逃げたものに広甲艦があった。陣の外に遁れ出ると、ただ後ろからの追撃を防ぐばかりで前路を顧みず、三山島の東に至って暗礁に乗り上げた。管帯は澄海営守備の呉敬栄である。
- 陣中、経遠・致遠・揚威・超勇は沈み、済遠・広甲は逃げ、残る鎮遠・定遠・来遠・靖遠・平遠・広丙は受けた傷が甚だしく、すでに戦える状態ではなかった。日本艦はあるいは重傷を受け、あるいは小さな損害を被ったものはあったが、一隻も喪わなかった。しかるに鴻章はかえって奏して、「海軍の各艦は八月十八日、大東溝の洋面で倭艦と交戦し、力めて凶鋒を挫き、倭船は傷が重かった。各将士は奮い勇んで力を尽くした」と称し、鴻章が褒賞・叙位を請うた者は十余人であった。そして伯謙は軍中で斬られ、事に死んだ諸人はみな差等をつけて手厚く恤まれた。この役で陣没した者には、なお定遠の砲を管した外国人の将である厄格路士・余錫爾の二人がいた。
- まもなく廷議は、海軍・陸軍の失利をみな鴻章の咎に帰し、三眼花翎を抜き去り、黄馬褂を剥ぎ取るよう命じた。宋慶に北洋軍務を幇弁するよう命じ、御前侍衛・承恩公の桂祥に馬歩の各営を統帯して山海関一帯に至り駐紮するよう命じた。
- 秋九月、恭親王奕訢が海軍事務を総理し、会同して軍務を処理した。
- 九連城および安東県が失守した。これより先、朝廷は宋慶に毅軍を率いて旅順から、劉盛休に銘軍を率いて大連湾から、依克唐阿に鎮辺等の軍を率いて黒竜江から、みな東辺の九連城に赴くよう命じていた。時に平壌の諸軍は合わせて二十余営であったが、葉志超はまったく配置をせず、節々に潰え退いて前に進まず、安州になお馬歩八営がいたのもこれを棄て置いて顧みず、ついに鴨緑江を退き過ぎてはじめて止まった。
- 鴨緑江は中国と朝鮮の界であり、江の北の中国の九連城と、江の南の朝鮮の義州とが水を隔てて相望む。時に鴨緑江以北に駐屯する諸軍は、宋慶・依克唐阿・劉盛休に平壌から敗れ帰った各軍を合わせて約七十余営であり、依克唐阿の一軍を除けばみな宋慶の節度を受けた。
- 九連城は南は鴨緑江に倚り、東は靉河を枕とし、河の東に虎山があって険塞となる。さらに東は安平河口に至り、河を踰えれば蘇甸となり長甸となる。その九連城以西は安東県であり、さらに西は大東溝で鴨江の口である。宋慶は九連城に駐し、聶士成は虎山を守り、劉盛休は江岸を守り、依克唐阿は安平河口・長甸の各隘を守り、豊伸阿(「豊陞阿」の誤りか)・聶桂林は安東の諸城邑を守った。
- 二十二日、日本の第一軍が義州に集まった。二十六日、その支隊が東路の鴨緑江上流に出て、安平河口の対岸から徒渉して渡り、依(克唐阿)の軍はたちまち潰えて寛甸に奔った。二十七日、その大隊が義州のやや東の、虎山と相対する対岸から浮橋を架けて江を渡り、銘軍がまず潰え、諸軍がこれに続いた。宋慶が軍を遣わして争わせたが、敵軍はすでに渡り終えていたので、退いて鳳凰城を保った。二十八日、日本人は九連城に入り占拠し、別に支隊を遣わして安東を陥れ、豊伸阿・聶桂林は岫巌州に奔った。その第二軍は海路から金州の西の花園港を襲い占拠し、進んで皮子窩に至り、旅順に逼った。詔して宋慶に軍を返して救援に赴かせた。
- 冬十月、日本兵が鳳凰城を陥れた。宋慶がすでに退いて摩天嶺を扼えていたので、日本兵はついに鳳凰城に入って占拠した。依克唐阿もまた寛甸を棄てて北走した。
- 畿輔に諸軍が雲のごとく集まったことにより、恭親王奕訢に軍務を督弁させ、慶親王奕劻に軍務を幇弁させ、尚書翁同龢・協弁大学士李鴻藻・歩軍統領栄禄・侍郎長麟に会同して商議させた。
- 日本兵が金州・大連湾・岫巌州・旅順を陥れた。日本兵はすでに金州を陥れ、進んで大連湾を陥れ、また岫巌を陥れ、豊伸阿らは析木城に奔った。日本兵は大連湾を占拠すること十日、はじめて旅順に向かった。旅順の船渠(船塢)総弁である道員の龔照嶼および諸将は守り防ぐ計を立てず、ただ漁舟を海の入り江に舫って逃げる備えをするばかりであった。日本兵がすでに南関嶺を占拠すると、椅子山・案子山・松樹山等の砲台が相継いで守れなくなり、旅順はついに陥落した。照嶼および諸将は軍中に雑り乱れ、あるいは煙台に逃げ、あるいは復州に奔った。照嶼はほどなく捕らえて訊問された。
- 提督の聶士成が連山関を回復した。宋慶がすでに旅順の救援に返ったので、士成は摩天嶺を守り、しばしば日本兵を退け、日本の将である富蘭三造を撃ち殺し、ここに至って連山関を回復した。
- 十一月、日本兵が析木城を陥れ、ついで海城を陥れ、まもなくまた復州を陥れた。これより先、日本兵がしきりに析木城に迫ると、副都統の豊仲阿(「豊陞阿」の誤りか)・記名提督の聶桂林がひそかに城を逃げ出し、兵は主将を失ってついに潰えた。
- 侍郎の張蔭桓・巡撫の邵友濂に日本に往って和を議するよう命じた。朝廷は蔭桓に天津に至って李鴻章と和戦の事を議するよう命じた。まもなく税務司のデトリング(徳璀琳)を遣わし、鴻章が日本の総理大臣伊籐博文(「伊籐」は「伊藤」の誤りか)に致す書を齎して日本に往かせたが、日本はこれを却けた。鴻章はそこで員を派して会議することを請い、ここに至って蔭桓・友濂を派して往かせ、アメリカ公使を仲介とし、あわせてアメリカ人のフォスター(福世徳)を聘して和約の締結を助けさせた。
- 十二月、両江総督の劉坤一に軍務を督弁するよう命じ、関内外の防剿の各軍はみなその節制に帰させた。まもなくまた宋慶および湖南巡撫の呉大澂に軍務を幇弁するよう命じた。
- 日本兵が蓋平を陥れ、まもなく山東の落鳳岡から上陸して栄城を陥れ、威海衛を陥れ、かたわら文登・寧海を襲って、みなこれを陥れた。
西暦1895年 徳宗光緒二十一年
- 春正月、日本兵が劉公島を陥れ、海軍の全隊が捕獲された。
- 海軍は大東溝の敗戦の後、兵艦は旅順に留まって修理・整備していた。旅順が危うくなるに及び、移って威海に駐した。前年十一月の末、鎮遠が暗礁に触れて傷を受け、管帯の総兵林泰増(「林泰曾」の誤りか)が自殺した。威海の南幇の砲台がすでに陥ると、丁汝昌は北幇の各台を毀ち、陸地ではただ劉公島だけがなお残った。
- 日本人は南幇の砲台をもって澳(入り江)内の諸艦を攻め、あわせて魚雷艇を口内に入れて狙撃し、定遠は雷に中り、来遠は撃ち沈められ、威遠・靖遠らもまた相継いで沈み、魚雷艇十二隻は口を駛り出て遁れたが、全数捕獲された。
- 島内の兵は騒ぎ立てて生きる路を乞うた。諸外国人の将、提督銜のドイツ人ハンネケン(漢納根)、参将のドイツ人ハップマン(哈卜門)、游撃のイギリス人テイラー(戴楽爾)、ドイツ人アヴィーセン(阿璧成)、アメリカ人マクギフィン(馬吉芬)もまた、しばらく降を乞うことを許すよう請うた。
- 総兵の劉歩蟾は自ら縊れて死に、汝昌と劉公島の守将である総兵の張文宣とは、ともに薬を仰いで死んだ。営務処の道員牛昶炳は諸将および洋員を召して降ることを議し、(降書を)草して海軍提督の印を署し、白旗を掲げ、日本軍のもとに詣でて降った。ここにおいて海軍艦隊の大小二十三隻はことごとく日本の有となった。
- 日本は康済の船に汝昌ら諸人の柩を載せて煙台に還し、水陸の将士・居民は放って西に渡らせた。この役でともに死んだ者には、なお総兵の楊用霖・都司の黄祖蓮がいる。
- 大学士・直隷総督・一等粛毅伯の李鴻章に、日本と和約を議するよう命じた。張蔭桓・邵友濂が日本の広島に到ると、日本もその内閣総理大臣一等伯の伊籐博文、外務大臣一等子の陸奥宗光に来て会議させた。互いに勅書を校べ合わせるに及び、「旨を請う」という語があったため、博文らは委任の権が完全でないとして会議を拒絶し、蔭桓らを送り帰した。そしてアメリカ公使に語り、「中国がまことに位望の隆重な大員を派し、これに全権を与えるならば、なお随時に議を開くことができる」と言った。そこで改めて鴻章を派し、前の駐日使臣である李経方を参賛とし、なおアメリカ人のフォスター(福世徳)を従わせた。
- 二月、日本兵が営口を陥れた。初め、四川提督の宋慶、奉天将軍の依克唐阿、吉林将軍の長順らがしばしば海城を攻めたが利あらず、朝廷は布政使の魏光燾、按察使の陳湜、道員の李光久らに命じて軍を募って北に援けさせた。湖南巡撫の呉大澂は劉坤一の軍を幇弁して山海関に駐し、正月に関を出て田荘台に至り、海城に逼って軍を置いた。
- この月の初め、たびたび進攻したが利あらず、敵兵はついに海城から来り犯した。依克唐阿・長順はこれを禦いだが利あらず、そこで遼を援けるという名目で兵を率いて東に去り、牛荘の勢いはますます孤立した。敵兵が来襲すると、光燾・光久は軍を督して力戦したが、ついに敵し得なかった。牛荘は失われたものの、両軍の殺傷は相当(互角)であり、敵軍は湘軍が人ごとに死を恐れないのを見て、それ以上ふたたび雷池を一歩も越えようとはしなかった。
- 宋慶は牛荘の失守を聞いて軍を率いて田荘台の救援に返ったが、至らないうちに敵は虚に乗じて営口を襲い占拠し、大澂は夜に石山站に奔り、田荘台もまた守れなかった。これより遼陽・錦州は声援を阻み絶たれた。
- 東辺道の張錫鑾が寛甸・長甸および香炉溝を克ち復した。これより先、朝廷は聶士成に畿疆の救援に入るよう命じ、陳湜を代わりとして摩天嶺を守らせた。時に鳳凰城の敵兵は甚だ少なく、錫鑾は新たに東辺道を授けられ、定辺軍を統べて進んで寛甸に逼り、しばしば戦ってみな勝ち、続けて寛甸・長甸・香炉溝等の地を回復した。
- 日本兵が澎湖を陥れた。日本海軍が澎湖の媽祖宮を攻めたが、台を守る兵がこれを撃ち退けた。まもなく敵兵が文良港から上陸し、守将の知府朱上泮らは台湾に遁れ、澎湖はついに失われた。
- 日本の暴客が李鴻章を馬関で刺し、鴻章は銃弾に中って頬骨を傷つけられた。鴻章は馬関に到り、日本の伊籐博文・陸輿宗光(「陸奥宗光」の誤りか)と春帆楼で会議した。博文は鴻章に語って言った、「中堂とお別れして以来十年、中国は少しも成法を改めず、ここに至った。ともに遺憾に思うところである」と。議を開くに及び、鴻章はまず停戦することを請うたが、博文は大沽・天津・山海関を質とすることを要求したので、議はついに調わなかった。そこであらためて、停戦の議はしばらく棚上げにしてただちに和を議することにした。博文は言った、「すでにそうであるならば、停戦の節略は撤回すべきである。以後ふたたび持ち出すことを許さない」と。互いに揉み合ったが、なお決しなかった。
- 鴻章はこの日、会場から帰る途中、突然刺客の小山豊太郎に遇った。銃で鴻章を撃ち、左の頬骨に中り、弾は左目の下に深く入り、一たび目まいを起こしてほとんど絶えんばかりであった。日本の官吏で警報を聞いて容態を問いに来る者は絡繹として絶えず、博文・宗光もまた自ら詣でて慰問し、誠懇に謝罪し、憂いを顔色に表した。日本の天皇および国じゅうの臣民もひとしく深く震え悼んだ。宗光はさらに鴻章の子の経方にひそかに語って言った、「中堂は身に重傷を受けられたが、幸いに命には至らなかった。中堂の不幸は中国国家の大幸である。この後、和款はきっと商議しやすくなり、日中の戦事はこれより止むであろう」と。
- 時にこの警報が欧米に伝わり、みな大いに騒いだ。日本人は恐れ、そこで奉天・直隷・山東の停戦を允し、二十五日を限りとし、すべて条約六款を訂した。
- 三月、李鴻章は日本の伊籐博文らと馬関で和約十一款・別約三款を議定して成った。
- 博文らは擬した和約の底稿を交付した。その大綱を総べれば四款に分かれる。一に朝鮮の自主、二に地の譲与、三に兵費、四に通商の権利である。鴻章は第一の朝鮮自主のほかは、残りはみな極力駁議し、兵費一万万両の賠償、奉天の安東・寛甸・鳳凰城・岫巌および澎湖列島の割譲、通商は一に各国の成例のとおりとすること、を請おうと擬した。
- 時に鴻章の創はすでに癒え、ふたたび春帆楼に至って意を刻んで折衝したが、少しも譲歩は無かった。博文は最後の条約の稿を交付して鴻章に語り、「今回はただ允すか允さぬかの二言で決する」と言った。その稿は初めに擬した所に比べると、割地では寛甸が減らされ、賠款は二万万両に減らされ、子口税および内地の釐税を減らせという要求も削られていた。鴻章はふたたび数たび弁論した(「瓣論」は「辯論」の誤りか)が、博文は堅く譲ろうとせず、ただ、もし三年の内に償款を還し清めることができれば一律に利息を免ずること、および威海衛の駐兵費を半分減らすことを声明しただけであった。
- この晩、博文は哀的美敦書を送り届けて決絶を示したので、鴻章はやむを得ず、ついに議を定めた。
- かつて光緒十一年正月に博文が天津に来て条約を議した時、フランスとの和局はすでに成っており(「己」は「已」の誤りか)、鴻章は驕ること甚だしく、虎狼のようなフランスですら耳を垂れて範に就いたのだ、小さな日本ごときに何ができようか、と考え、傲然として博文に臨んだ。博文はこれを恥とした。後に博文は、張蔭桓らが和を請うた時、随員の伍廷芳にひそかに語って、「前に天津で李中堂の尊厳を見たが、今に至ってもそれを思うとなお胸が慄える」と言った。けだし得意の時に宿憾を洩らした言葉である。ゆえに今回、博文が報復を謀る意気は、当年の鴻章に少しも劣らなかった。鴻章は忍んで受け入れ、条約はついに成った。いわゆる馬関条約である。
- その最も重要なものは、一、中国は朝鮮を自主の国と認める。二、中国は日本に奉天南辺等の地・澎湖列島・台湾全島および台湾に附属する各島嶼を譲与する。三、両国は員を派して共同で疆界を劃定する。四、中国は日本に軍費二万万両を給し、八回に分けて交付し清める。五、日本は、中国が譲与した地方の人民が界外に退去すること、および両国が員を派して台湾に至って地方を引き継ぐことを准す。
- 六、重慶・沙市・蘇州・杭州を開き、また日本の汽船は宜昌から重慶に至り、上海から呉淞および運河に駛り進んで蘇州・杭州に至ることができる。あわせて日本人が内地で貨物を購い、暫く棧房を租りて貨を蔵め、随意に工商業・製造に従事することを許す。七、中国境内の日本軍隊を撤回する。八、日本は暫く威海衛に駐軍し、将来、賠款の交付が清み、通商行船の約章が批准され、関税抵当の方法が確定した後に、日本軍ははじめて撤回する。
- 九、両国は俘虜を交還する。また戦役中に日本の軍務に関渉した中国人は一律に罪を免ずる。十、本約は互換を准す日から兵を按めて戦を息める。十一、本約の批准の後、本年四月十四日に煙台で互換すると定める。
- その別約は、一、暫く威海に駐する日本軍は一旅団を過ぎてはならず、中国から毎年、軍費として庫平銀五十万両を貼り交付する。二、劉公島および威海衛の口・湾の沿岸の五日本里以内の地方は日本軍の駐紮する所とし、中国軍は近く逼ったり陣を据えたりしてはならない。三、日本の駐軍する所の地方の政務は、なお中国の官の管理に帰する。軍事上に関渉する犯罪は日本の軍官が審断して処理する。
- 夏四月、ロシア・ドイツ・フランスの三国が日本の遼東の地の割拠を阻み、日本は遼東を返還して、兵費三千万両を増して索め、これに与えた。
- 日中の戦事の前、政府はしばしばイギリス・ロシアに調停を求めた。日本人は使者を遣わして来り告げて言った、「東方の事は、我ら東方の両国が自ら了えることを願う。他国をその間に参らせてはならない」と。時に政府は憤りを蓄えることすでに甚だしく、ますます欧州人を嗾して力で日本を脅させようとした。しかしイギリス人は、以前に北洋が海軍教練官のラング(琅咸理)を辞めさせた隙により、ついに調停の任に出ようとしなかった。政府はロシア人に重く賂し、ロシアはそこでフランス・ドイツと連合して公文を日本の外務省に致して抗議し、三国の軍艦を分けて長崎・遼海に泊めた。日本はついに遼東を中国に帰すことを允した。
- 時に和約はまだ批准・互換されていなかった。政府は四品京堂の伍廷芳・侍郎の聯芳を換約使として派し、日本使の伊東已正治と煙台で会って約を換えた。また李経芳(「李経方」の誤りか)を割台使として派し、日本使の樺山資紀と日本艦の中で約を換えた。その後、日本人は遼東を贖う費として一万万両を索めたが、また三国の公断により、三千万両でこれを償った。
- 日本と条約を定めた前後の処理の事情を宣示した。李鴻章がまだ東に渡らないころ、朝廷は三品以上の官に和戦を議するよう命じた。割地・賠款の議が定まるに及び、朝野は大いに騒ぎ、台湾の臣民の争いはとりわけ力があり、中外の封章・電奏で款議を阻むものは、すべて百十通も上った。両江総督の劉坤一は「戦って勝たなくとも、なお方法を設けて支え持ちこたえることはできる」と言い、直隷総督署理の王文韶もまた「聶士成らの軍はかなり見込みがあり、必ず一戦できる」という語であった。
- 湖広総督の張之洞の語はとりわけ激しく、割地の事はとりわけ万々行うべきでないとし、理の是非をもってその不可なること三つを論じ、勢の利害をもってその不可なること六つを言った。あわせて鴻章を捕らえて刑部に交わして罪に処し、李経芳を撤回して免職とし厳しく処断し、帝が太后を奉じて西に行幸し、南北に戦守の備えをさせるよう請う等の語があった。ここに至って条約を批准し定めるに当たり、特に前後の処理の事情、およびやむを得なかった苦中(「苦衷」の誤りか)を明白に宣示した。
- 五月、台湾の官民が巡撫署理の唐景崧を推して総統とし、自立を宣告した。
- これより先、日中が戦を停めて和を議した際、湖広総督の張之洞は、台湾をイギリスに贈ってイギリス朝廷に和約を主持させ、日本人の要挾を抵え制することを主張し、総税務司のハート(赫徳)にその意をイギリス首相のローズベリー(羅士勃雷)侯および外務大臣のキンバリー(金不里)に達せさせたが、イギリス人は辞して受けなかった。
- 台湾を割く条約が定まると、台湾の人は憤激し、主事の邱逄甲がまっさきに自主の議を建て、壇に登って新竹で衆に誓い、示しを出して台湾の民に告げ、台湾民主国を建て、共和の故事に循い、景崧を公挙して大総統とし、議院を開き国旗を製することを議した。
- 和議がすでに定まると、朝廷は景崧以下に兵民を率いて台を離れるよう命じ、南洋・広東に軍火・勇丁を私かに台湾の地に運ぶことを禁止させた。時に台湾の人は議して、各国の保護、およびフランスに抵当に入れる議は、みな成らなかったと言った。景崧は、官弁で留まる者は録用し、去ろうとする者は自由にさせるよう令した。ここにおいて提督の楊岐珍および道府の各員はみな内地に渡った。
- この月の初二日、景崧は台湾総統の印を受けた。印文には「台湾民主之章」とあった。国旗は藍地に黄の虎、長方形の五幅で、虎の首は内に向かい、尾が高く首が低い。内部・外部・軍部等を設け、鈔幣および郵政局の券を発行した。
- 五日を越えて日本兵が至り、基竜(基隆)の北の澳底から上陸した。台北城中の姦民が内応を約した。十二日、姦民が総統府に火を放つと、景崧は微服して走り出て、ヨーロッパ船に乗って南に渡り、広州湾を経て帰った。十五日、日本兵が来て城を収め、台北は亡んだ。
- 秋九月、日本が台南の府城を取った。台北がすでに陥ると、台南は僻して一隅に在り、餉(軍資)と械(兵器)はすでに涸れて守るに足りず、鎮・道以下および中路を守っていた台湾の紳士である邱逄甲・林朝棟らは相継いで内地に渡った。台南では土匪が蜂のごとく起こった。紳士たちが総統の印章を総兵の劉永福に上ったが、永福は受けず、なお幇弁と称して府城に入り、防守を議した。
- 五月以来、日本は時々兵艦をもって安平等の口を窺い、陸軍は新竹を占拠し、永福の部下および団民が拒み戦って、互いに勝負があった。七月の初め、彰化が失守した。ここに至って餉・械はみな竭き、飢えた軍はことごとく潰え、土匪が敵を引き入れて城に入れ、永福はドイツの商船に乗って内地に渡り、台南は亡んだ。
史論(編者曰)
編者はいう。日中の役では、輿論はみな李氏に矢を集めて、彼が国際法に明るくなく、朝鮮が各国と条約を立てるのを聴して上国としての主権を失い、日本人に口実とするところを持たせたためだ、と言う。しかし実際には、両国が釁を醸したのは、ことごとくこれによるものではない。中国の最初の横浜領事である范氏は、中国の僑民の権利を主張し、往々にして日本人が堪えられないようなことをした。また琉球の件の交渉の中で、北洋艦隊が長崎に遊弋して示威し、水兵と長崎の警察とが関勒(もつれ争うこと)を起こすのを主動し、長崎の警察に刀を佩びさせないようにした。この二つの役は、当時の日本人はみなこれを大きな辱めとした。日本人が報復を思うことは久しかったのである。ここに至ってついに一たび発して遏め得なくなった。その咎がどうしてことごとく李氏一人に在ろうか。
原文(底本)
德宗光緒二十年,夏六月,以日本兵襲踞朝鮮王宮,幽朝王,命總兵衛汝貴等率師赴援。是年四月間,朝鮮東學黨作亂,駐朝通商委員袁世凱屢電北洋大臣李鴻章,請派兵助剿。鴻章派海軍濟遠、揚威二艦赴仁川、漢城護商,並調直隸提督葉志超率淮勇千五百向牙山。未至而亂黨悉平之。報至,時日本已派兵五千抵仁川,朝鮮大震,請中國先行撤兵,不允。與日本會商同時撤兵,日本則約中國協同干預朝鮮內政。相持久不決,鴻章與督署方日冀英、俄出爲調處。北京、倫敦、聖彼得堡函電紛馳,英、俄亦託必爲出力。遷徙經月,戰備未具,及上月下旬,日兵陸續調赴朝鮮者已及萬餘。既入朝京,使臣大烏圭介率之入宮,殺衛兵,困朝王。世凱亟電致鴻章,懇召回面商和戰,志超亦電請撤兵回國,以戍軍久役署,兩受病爲辭。鴻章先後爲請於部署,皆不允,令世凱留朝,志超擇地移紮,而命汝青統盛軍馬,步三千進平壤。提督馬玉崑統毅軍二千進毅州,分起由海道至大東溝登岸。飭志超移紮平壤。 日本海軍迎擊運兵船於豐島,沈燬英商高陞輪船,並擄操江運船,駐牙山際軍亦敗於成歡。先是,派赴朝鮮各兵,僱英商三輪船分運,而以灄遠、廣乙二兵輪衛之。為日人偵知,襲擊於豐島海面。濟遠管帶方伯謙見敵近,惶恐匿鐵甲最厚處,繼而柁毀於礮。大副游擊瀋壽昌中礮歿,守備柯建章繼之,又陣亡,黃承勳又繼之,亦死。伯謙亟令高懸白旗,下懸日旗,駛歸威海。英輪高陞,遂被擊沉,廣乙受重傷自焚,管帶守備楊建洛及弁兵死者七百餘。時駐牙山兵退回公州,統將葉志超沿途揑報勝仗,及至成歡,與敵遌,迎戰敗績,復稱連日殲斃倭兵五千餘人,得旨賞給這士銀二萬兩,獎敘將弁數十人。 秋七月,與日本宣戰,布告中外,並飭駐日公使汪鳳藻下旗回國。 命葉志超總統駐紮平壤諸軍。時馬玉崑統毅軍,衛汝貴統盛軍,提督佐寶貴統奉軍,副都統豐陞阿統奉天之盛軍,皆由陸路渡鴨綠江至平壤。志超敗趨公州後,亦繞王京北走達平壤,志超方以成歡之役鋪張戰績,政府信之,遂拜總督之命。志超固解,因詐病請急,懇請回籍京醫。朝旨不許。 八月,日本陸師攻平壤,葉志超等軍敗績,記名提督左寶貴等死之,志超夜棄平壤北走。平壤為朝鮮要鎮,城垣壯闊,綿延十餘里,諸軍萬七千齊集於此。將帥日置酒高會,而軍士盜掠民婦之事時有所聞,以衛汝貴之盛軍為尤甚。志超恇怯無能,惟依李鴻章函電之部署,築壘城內外以自保。馬玉崑率四營繞出江東為犄角勢,衛汝貴、豐陞阿二軍十八營駐城江南岸,左寶貴六營守北山城上,志超與聶士誠居城中。是月十二三四等日,日兵已逼近,互相挑戰,操作相當。至十五日晚,敵以右翼隊陷大同江左岸橋里之礮臺,更渡江以衝平壤之正面而師團長本隊爲其後援以左翼隊自羊角島下渡大同江十六日在江岸與馬隊相遇劇戰敵軍死傷頗多礮臺卒被陷時寶貴退守牡丹臺鏖戰甚力敵軍連發開花礮寶貴負傷陣殁諸軍遂大亂午後四時半許志超徧於城上懸白旗乞停戰是夜全軍紛紛宵遁敵要擊於山隘鎗礮環轟潰兵囘旋不得出死者二千餘平壤遂陷事聞命四川提督宋慶總統諸軍志超汝貴旋均違問 海軍提督丁汝昌率全師與日本師船戰於大東溝口外海面敗績先是六月之杪日本兵船擊燬高陞運船及廣乙兵輪濟遠遁匿威海汝昌率全軍在威海衛堵塞口門爲自守計迨京外交章彈劾始佯遣偏師開出口外或三十里而止或五十里而止啟碇出口閱五六小時卽囘輪飛電北洋大臣稱某船巡邏至某處並無倭兵蹤跡是月初旬北洋濟師平壤以招商局輪船五艘載運總兵劉盛休銘軍兵丁八營以海軍全隊十二艘翼之十七日安抵大東溝陸軍旣登岸十八日海軍將返旅順兵艦泊距口外十二海里之地至午刻遥見西南方有煙東來知日艦將至汝昌傳令列陣作人字形鎮遠定遠兩艦爲人字之首致遠靖遠經遠來遠濟遠廣甲超勇揚威及水雷船張人字之兩翼開戰後平遠廣丙始來會敵艦十二艘駛近列陣作一字形魚貫猛撲俄易而爲太極陣裹人字於其中汝昌令諸艦先開礮以示威礮聲未絕敵船麇至與人字陣末二艦逼近俄而圈入人字陣脚致遠經遠濟遠三艘皆挖出圈外致遠管帶提督銜記名總兵鄧世昌亟語大副游擊陳金揆曰敵艦惟吉野速率稱最苟沈之足以奪其氣遂開足汽機向吉野飛駛吉野趨避時敵以魚雷快船攻定遠致遠駛出定遠之前擊沉之而日本之扶桑大艦飛駛來擊致遠彈雨紛飛致遠力戰逾三時之久船身已受重傷仍開機前駛欲撞扶桑與同沉未至中其魚雷遂及溺世昌金揆同時落水舟中二百五十人皆覆没世昌被沉後遇救出水以闔船倂命義不獨生仍復奮擲自況死經遠甫被日艦圈出火勢陡發管帶升用總兵林永升發礮以攻敵激水以救火仍復井井有條遥見一敵艦似已受傷卽鼓輪追之敵放水雷相拒不及避亦炸沉水弁中彈腦裂陣亡同死者二百七十人而濟遠管帶方伯謙卽七月閒遇敵艦豐島逃囘旅順者也是日甫交綏伯謙先挂本船已受重傷之旗以吿主將遂駛退時揚威已擱淺濟遠撞之碎其舵葉揚威沉没管帶叅將林履中及同殞者百五十餘人伯謙驚駭飛遁入旅順口超勇亦沉管帶叅將黃建勳及船中百五十餘人皆隨船焚溺同没同時繼濟遠駛逃者有廣甲艦旣遁出陣外祗防後追不顧前路至三山島東擱礁管帶爲澄海營守備吳敬榮陣中自經遠致遠揚威超勇沉濟遠廣甲逃餘如鎮遠定遠來遠靖遠平遠廣丙受創甚已不能軍日艦雖或受重傷或遭小損然未喪一艘而鴻章反奏稱海軍各艦於八月十八日在大東溝洋面與倭艦接仗力挫兇鋒倭船傷重各將士奮勇出力請與獎敘者十餘人而斬伯謙於軍死事諸人均優卹有差是役陣殁者尙有定遠管礮洋將厄格路士余錫爾二人旋廷議以海陸軍失利皆歸咎於鴻章命拔去三眼花翎禠去黃馬褂命宋慶幫辦北洋軍務御前侍衛承恩公桂祥(后父太后胞弟)統帶馬步各營至山海關一帶駐紮。 秋九月,恭親王奕訢總理海軍事務會同辦理軍務 九連城及安東縣失守先是朝命宋慶率毅軍自旅順劉盛休率銘軍自大連灣依克唐阿率鎮邊等軍自黑龍江皆赴東邊九連城時平壤諸軍共二十餘營葉志超漫無布置節節潰退不前安州尙有馬步八營亦棄置不顧竟退過鴨綠江始止鴨綠江爲中國與朝鮮界江以北中國之九連城與江以南朝鮮之義州隔水相望時諸軍駐鴨綠江以北者宋慶依克唐阿劉盛休合平壤敗歸各軍約七十餘營除依克唐阿一軍外皆秉宋慶節度九連城南倚鴨綠東枕靉河河東有虎山爲險塞再東至安平河口踰河爲蘇甸爲長甸其九連城以西爲安東縣再西則大東溝爲鴨江口宋慶駐九連城聶士成守虎山劉盛休守江岸依克唐阿守安平河口長甸各隘豐伸阿聶桂林守安東諸城邑二十二日日本第一軍集義州二十六日其枝隊出東路鴨綠江上游從安平河口對岸徒涉而渡依軍遽潰奔寬甸二十七日其大隊從義州稍東與虎山相值對岸架浮橋渡江銘軍先潰諸軍繼之宋慶遣軍來爭敵軍已畢渡乃退保鳳凰城二十八日日人入踞九連城別遣枝隊陷安東豐伸阿聶桂林奔岫巖州其第二軍由海道襲踞金州西之花園港進抵皮子窩偪旅順詔宋慶囘軍赴援。 冬十月,日本兵陷鳳凰城宋慶旣退扼摩天嶺日兵遂入踞鳳凰城依克唐阿亦棄寬甸北走 以畿輔諸軍雲集命恭親王奕訢督辦軍務慶親王奕劻幫辦軍務尙書翁同龢協辦大學士李鴻藻步軍統領榮祿侍郎長麟會同商辦 日本兵陷金州大連灣岫巖州旅順日本兵旣陷金州進陷大連灣復陷岫巖豐伸阿等奔析木城日兵踞大連灣十日始向旅順旅順船塢總辦道員龔照嶼及諸將不爲守禦計惟艤漁舟海曲備逃遁日兵旣踞南關嶺椅子山案子山松樹山等礮臺相繼不守旅順遂陷照嶼及諸將雜亂軍中或逃煙臺或奔復州照嶼尋拏問 提督聶士成復連山關宋慶旣囘援旅順士成守摩天嶺屢郤日兵擊斃日將富蘭三造至是收復連山關。 十一月,日本兵陷析木城遂陷海城旋又陷復州先是日兵迭撲析木城副都統豐仲阿記名提督聶桂林潛逃出城兵無主將遂潰 命侍郎張蔭桓巡撫邵友濓往日本議和朝命蔭桓至天津與李鴻章議和戰事旋遣税司德璀琳賫鴻章致日本總理大臣伊籐博文書往日本日本郤之鴻章乃請派員會議至是派蔭桓友濓往由美公使爲介並聘美員福世德助訂和約。 十二月,命兩江總督劉坤一督辦軍務關內外防剿各軍均歸節制尋又命宋慶及湖南巡撫吳大澂幫辨軍務日本兵陷蓋平旋自山東落鳳岡登陸陷榮城陷威海衛旁襲文登寧海皆陷之。 二十一年春正月,日本兵陷劉公島,海軍全隊被擄。海軍自大東溝戰敗後,兵艦留旅順修整。及旅順危,移駐威海。上年十一月杪,鎮遠觸礁受傷,管帶總兵林泰增自殺。威海南幫礮臺旣陷,丁汝昌燬北幫各臺,陸地惟劉公島尙存。日人以南幫礮臺攻澳內諸艦,並以魚雷艇入口狙擊,定遠中雷,鑿沉來遠,威遠、靖遠等亦相繼沉,魚雷艇十二艘駛出口遁,全數被擄。島內兵譁噪匃生路。諸洋將提督銜德人漢納根、叅將德人哈卜門、游擊英人戴樂爾、德人阿璧成、美人馬吉芬,亦請姑許乞降。總兵劉步蟾自縊死,汝昌與劉公島守將總兵張文宣均仰藥死,營務處道員牛昶炳召諸將及洋員議作降,草署以海軍提督印,懸白旗,詣日本軍降。於是海軍艦隊大小二十三艘悉爲日有。日本以康濟(中國小兵船)船載汝昌諸櫬還煙臺,而縱水陸將士居民西渡。是役同死者尙有總兵楊用霖都司黃祖蓮。 命大學士直隸總督一等肅毅伯李鴻章與日本議和約張蔭桓邵友濓抵日本廣島(時日皇移駐於此)日本亦令其內閣總理大臣一等伯伊籐博文外務大臣一等子陸奧宗光來會議及互校敕書因有請旨語博文等謂委任之權不完全拒絕會議送蔭桓等囘國而語美使謂中國誠派有位望隆重大員畀以全權仍可隨時開議乃改派鴻章以前駐日使臣李經方(鴻章子)爲叅贊仍以美員福世德從。 二月,日本兵陷營口初四川提督宋慶奉天將軍依克唐阿吉林將軍長順等屢攻海城不利朝命布政使魏光燾按察使陳湜道員李光久等募軍北援湖南巡撫吳大澂幫辦劉坤一軍駐山海關正月出關抵田莊臺偪海城而軍是月初屢次進攻不利敵兵遂自海城來犯依克唐阿長順禦之不利遂以援遼爲名率兵東去牛莊勢益孤敵兵來襲光燾光久督軍力戰卒以不敵牛莊雖失兩軍殺傷相當敵軍見湘軍人人敢死亦不復再過雷池一步宋慶聞牛莊失守率軍回救田莊臺未至敵乘虛襲踞營口而大澂夜奔石山站田莊臺亦不守自是遼陽錦州聲援阻絕 東邊道張錫鑾克復寬甸長甸及香爐溝先是朝命聶士成入援畿疆以陳湜代守摩天嶺時鳳凰城敵兵甚少錫鑾新授東邊道統定邊軍進偪寬甸屢戰皆捷連復寬甸長甸香爐溝等地 日本兵陷澎湖日本海軍攻澎湖媽祖宫守臺兵擊郤之旋敵兵由文良港登陸守將知府朱上泮等遁臺灣澎湖遂失 日本暴客刺李鴻章於馬關鴻章中鎗傷顴鴻章抵馬關與日本伊籐博文陸輿宗光會議於春帆樓博文語鴻章曰與中堂別來十年中國毫無改變成法以至於此同爲抱歉及開議鴻章請先停戰博文要以大沽天津山海關爲質議遂不諧乃更議暫擱停戰之議卽便議和博文曰旣若爾則當將停戰之節略撤囘以後不許再爲提及彼此磋磨仍未決鴻章是日自會所歸途中突遇刺客小山豐太郎以鎗擊鴻章中左顴彈子深入左目下一暈幾絕日官聞警來問狀者絡繹不絕博文宗光亦躬詣慰問誠懇謝罪憂形於色日皇及舉國臣民同深震悼宗光且私語鴻章之子經方曰中堂身受重傷幸未致命中堂不幸中國國家之大幸此後和款必易商辦中日戰事將從此止矣時警聞播歐美皆大譁日人恐乃允奉天直隸山東停戰以二十五日爲限凡訂約六款。 三月,李鴻章與日本伊籐博文等在馬關議定和約十一款另約三款成博文等將所擬和約底稿交出綜其大綱分四款一朝鮮自主二讓地三兵費四通商權利鴻章以第一朝鮮自主外餘皆極力駁議擬請賠兵費一萬萬兩割奉天之安東寬甸鳳凰城岫巖及澎湖列島通商一如各國成例時鴻章創已愈復至春帆樓刻意磋商毫無讓步博文交末次約稿語鴻章曰此次但允不允兩言而決其稿視初次所擬於割地減去寬甸賠款減至二萬萬兩要減子口税及內地釐税亦刪去鴻章復數與瓣論博文堅不肯讓惟有聲明若能於三年內還清償款則一律免息及威海衛駐兵費減去一半耳是晚博文送到哀的美敦書(戰書)以示決絕鴻章不得已遂定議當光緒十一年正月博文來天津議約也時法人和局己就鴻章驕甚以爲虎狼之法尙且帖耳就範蕞爾日本其何能爲傲然以臨博文博文恥之後博文於張蔭桓等請和之時私謂隨員伍廷芳(與博文前在美國同學)曰前在天津見李中堂之尊嚴至今思之猶悸葢得意時洩宿憾之言也故此次博文謀報復之意氣不稍減於鴻章當年鴻章忍受約遂成所謂馬關條約者也其最要則一中國認朝鮮爲自主之國二中國讓予日本奉天南邊等地澎湖列島臺灣全島暨附屬臺灣各島嶼三兩國派員公同劃定疆界四中國給日本軍費二萬萬兩分作八次交清五日本准中國讓與地方人民退去界外及兩國派員至臺灣交接地方六開重慶沙市蘇州杭州及日輪得從宜昌至重慶從上海駛進吳淞及運河以及蘇州杭州並許日人在內地購貨得暫租棧房存貨任便從事工商業製造七撤囘中國境內之日本軍隊八日本暫行駐軍威海衛將來賠欵交清通商行船約章批准確定關税抵押辦法之後日軍始行撤囘九兩國交還俘虜又戰役中關涉日本軍務之華人一律免罪十本約擬准互換日起按兵息戰十一本約批准後定於本年四月十四日在煙臺互換其另約一暫駐威海之日軍不得過一旅團由中國每年貼交軍費庫平銀五十萬兩二劉公島及威海衛口灣沿岸在五日本里以內地方爲日軍駐紮之所華軍不得偪近或紮據三日本駐軍之處地方政務仍歸華官管理關涉軍事上之犯罪歸日本軍官審斷辦理。 夏四月,俄德法三國阻日本割據遼東地日本退還遼東增索兵費三千萬兩予之中日戰事之前政府屢求調停於英俄日人使使來吿曰東方之事願我東方兩國自了之無爲使他國參於其閒時政府蓄憤已甚益嗾歐人以力脅日本而英人以前北洋辭退海軍敎練官琅咸理之𨻶終莫肯出任調停政府重賂俄人俄乃聯合法德以公文致日本外部抗議而以三國軍艦分泊長崎遼海日本遂允以遼東歸中國時和約尙未批准互換政府派四品京堂伍廷芳侍郎聯芳爲換約使與日使伊東已正治會於煙臺換約又派李經芳爲割臺灣使與日使樺山資紀換約於日艦中已而日人索贖遼東費一萬萬兩復由三國公斷以三千萬兩償之 宣示與日本定約先後辦理緣由方李鴻章之未東渡也朝命三品以上官議和戰迨割地賠欵議定朝野大譁臺灣臣民爭尤力中外封章電奏阻欵議凡百十上江督劉坤一謂戰而不勝尙可設法撐持署直督王文韶亦以聶士成等軍頗有把握必可一戰之語鄂督張之洞語尤激謂割地之事尤爲萬不可行以理之是非論其不可有三以勢之利害言其不可有六並論將鴻章拏交刑部治罪撤囘李經芳革職嚴辦請帝奉太后西幸飭南北備戰守等語至是將批准定約特將先後辦理緣由及不獲已之苦中明白宣示。 五月,臺灣官民推署巡撫唐景崧爲總統宣吿自立先是中日停戰議和鄂督張之洞主張以臺灣贈英而請英廷主持和約以抵制日人之要挾及總税司赫德爲達其意於英相羅士勃雷侯暨外部大臣金不里英人辭而不受割臺之約定臺人憤激主事邱逄甲首建自主議登臺誓衆於新竹出示吿臺民建臺灣民主國循共和故事公舉景崧爲大總統議開議院製國旗及和議旣定朝命景崧以下率兵民離臺飭南洋廣東禁止私運軍火勇丁赴臺地時臺人議曰各國保護並議抵押於法國皆不成景崧令官弁留者錄用欲去者聽於是提督楊岐珍及道府各員均內渡是月初二日景崧受臺灣總統印文曰臺灣民主之章國旗藍地黃虎文長方五幅虎首內向尾高首下設內部外部軍部等行鈔幣及郵政局劵越五日日本兵至由基龍北之澳底登陸臺北城中姦民約爲內應十二日縱火總統府景崧微服出走乘歐舶南渡由廣州灣而歸十五日日本兵來收城臺北亡。 秋九月,日本取臺南府城臺北旣陷臺南僻在一隅餉械已涸不足守鎮道以下及守中路之臺紳邱逄甲林朝棟等相繼內渡臺南土匪蠭起紳士上總統印章於總兵劉永福永福不受仍稱幫辦入府城議防守自五月以來日本時以兵艦窺安平等口而陸軍踞新竹永福所部及團民拒戰互有勝負七月初彰化失守至是餉械皆竭饑軍悉潰土匪引敵入城永福登德國商船內渡臺南亡 編者曰:中日之役輿論咸集矢於李氏謂由其不明國際法聽朝鮮與各國立約失上國之主權致日人有所藉口實則兩國釀釁不盡由於此中國最初之横濱領事范氏主張中國僑民之權利往往有使日人不能堪者及球事交涉中北洋艦隊游弋長崎爲示威主動水兵與長崎警察關勒使長崎警察不得佩刀斯二役也當時日人咸引以爲大辱日人思報復久矣至是遂一發而不可遏其咎豈盡在李氏一人乎哉?!
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