清史紀事本末疆域の喪失と軍港租借条約(疆域之喪失及軍港租借条約)

要約

道光二十二年秋七月、中英の江寧条約の第三款で香港の海島をイギリスに給与した。阿片の事で戦って敗れたためで、款文は商船の修理の便に香港一島をイギリスの君主とその世襲者に与え任意に治めさせるというものであった。

咸豊八年夏四月、中露の璦琿条約で黒竜江省東北の沿辺の地をロシアに贈った。ムラヴィヨフが黒竜江を下って河口を占め殖民し、辺界改定を迫ったが、太平軍の戦事に苦しむ政府は拒めず、奕山に璦琿城で会議させ黒竜江を境として東北数千里を割いた。今のアムール省である。

十年秋九月、中英の北京継増条約で香港と相対する九龍司をイギリスに給与した。冬十月、中露続約で吉林省東の沿海、烏蘇里江東岸を割いた。英仏連合軍が北京に入ったときイグナチェフが調停に出た功をもって迫ったもので、ロシアは綏芬河の口にウラジオストク軍港を建てた。

同治三年秋九月の塔城条約でイルティシュ河下流一帯とザイサン泊、八年春三月の科布多界約でアルタイ泊一帯、光緒八年秋七月の伊犁界約で伊犁河下流一帯とバルハシ湖・イシククルを失った。回民の変でロシアが占拠した伊犁は平定後にホルゴス河以東を返させたのみであった。

十三年冬十月、中葡の北京条約でポルトガルに澳門を与えた。澳門は広東の門戸で、明の嘉靖の中ごろから占拠され、道光二十九年以後は租課五百両も納めなかった。洋薬の税と釐金の併徴をめぐる張之洞の上疏により、奕劻らがロサと五十四款を定め、ポルトガルが永く澳門に居って管理することと、清国の首肯なく他国に譲らぬこととを互いに承認した。

十六年春二月、中英の蔵印条約で西蔵西北のラダックをイギリスに譲った。シク教徒がカシミールから東して侵掠しあい、十四年の交兵のとき界約の議中であったからである。

二十年春正月、続議滇緬界約で雲南西方の沿辺、野人山以西と龍川江・潞江下流の地を失った。イギリス人は中国兵のいる所は中国の地と見なすと語ったが、八募・孟拱に兵が無く、当局が老八募の兵も撤したためである。

二十一年夏四月、馬関条約の第二款で台湾全島と澎湖列島を日本に与えた。二十三年春正月、続議ビルマ条約で工隆の全地と那木喀に近い三角地一段をイギリスに劃り与えた。江洪の界内の地をフランスに与えたのをイギリスが責めたからで、三角地は中国の地と認めつつ永く租し管轄権はイギリスに帰した。

二十四年春二月、中独の膠澳租約でドイツに膠州を租した。ドイツは遼東返還を索めながら独り得るところがなく、ロシアの膠州租借の議に先んじようとした。十月に曹州鉅野県でドイツの教士二人が殺されると海艦を膠州湾に近づけた。提督章高元は麻雀に耽って照会を放置し、気づいたときには街市はドイツ兵に満ち、理を論じた高元は幽閉された。公使ハイキングは枢府に六条を立てさせ、膠澳附近方百里を九十九年租してドイツの管轄に帰し、山東全省の鉄道・鉱山もドイツが請け負った。

三月、中露の会訂条約でロシアに旅順口・大連湾を租した。膠澳を奪われて憤ったパヴロフが先例に援ったもので、旅順は中露の船のみ用い、大連湾も口内の一港は兵艦の用、余は通商の口岸とし、期限は二十五年とした。この租界は実に遼東半島に及んだ。

夏四月、中英の香港界址展拓専条で九龍の地址を二千方里広げ、大鵬湾・深州湾も含めて九十九年を期とした。独露が膠州・旅順を租すのに籍口してマクドナルドが迫り、李鴻章の抗議も容れられなかった。五月、威海衛も租し、租期はロシアが旅順に駐る期間と同じとした。

二十五年冬十月、中仏の広州湾租約でフランスに広州湾と二つの海島を租した。フランスは遼東返還を助けて雲南辺の隙地を得たのみで、兵官が殺されたのに藉口して先に闖み入り後から租借を議し、政府は拒めず蘇元春に七条を訂させ九十九年を期とした。

三十一年秋七月、日露のポーツマス和約でロシアが庫頁島の半ばを日本に譲った。庫頁島は黒竜江口に在るが、乾隆五十五年に忘れ遺して喪失し、光緒元年にロシアが千島との交換を名目に全島を占めた。日露の釁でロシア軍は連敗し日本が全島を拠ったので、和を乞うて北緯五十度以南を譲り、両国とも砲台を建てず行軍の地としても用いないと定めた。

年表

道光二十二年(1842年)の江寧条約による香港割譲から光緒三十一年(1905年)の日露ポーツマス和約まで、清が条約によって領土を失い軍港を租借させた経緯を年代順に列挙する。イギリスには香港・九龍・ラダック・雲南辺地・ビルマ境の基工と三角地、ロシアには璦琿条約と北京続約で黒竜江以北・烏蘇里江以東、さらに塔城・科布多・伊犁の各界約で西北辺境の地を失い、ポルトガルには澳門、日本には馬関条約で台湾と澎湖を与えた。光緒二十四年(1898年)には膠州湾をドイツ、旅順・大連をロシア、九龍展拓地と威海衛をイギリス、翌年には広州湾をフランスに租借させ、章高元の膠州失陥や李鴻章の抗議不調などの経緯も記す。

年表(14件)

現代語訳全文

西暦1842年 宣宗道光二十二年

  • 秋七月、中英の江寧(南京)議定条約の第三款にいう、「イギリス国に香港の海島を給与する」と。香港は広州府所属の一島嶼である。時に阿片の事でイギリスと戦って敗れ、ついに割いてイギリス国に与えた。その条款の文にいう、「一、イギリスの商鑑(「商船」の誤りか)は遠路はるばる海を渡るので、往々にして損壊して修補を要するものがある。よろしく沿海の一か所を給与し、船を修理し、また所用の物料を蔵め守るのに便ならしめるべきである。今、大皇帝は香港一島をイギリスの君主およびその後の主位を世襲する者に給与し、常に遠く拠り守って主どり掌り、任意に法を立てて治め理めることを准す」と。

西暦1858年 文宗咸豊八年

  • 夏四月、中露の璦琿条約の第一条にいう、「黒竜江省東北の沿辺の地を割いてロシアに贈る」と。
  • 初め、ロシア人は康熙・雍正の間に結んだネルチンスク(尼布楚)およびキャフタ(恰克図)通商条約では、なお人の欲を満たさなかった。ニコライ(尼古剌士)が即位してから、ムラヴィヨフ(木喇福岳福)を西伯利亜(シベリア)東部総督に挙げ、ひとえに東方経略を務めとして、次第に黒竜江を下り、その河口を占め、北岸に兵を設けて屯守し、その地に殖民した。咸豊三年・五年・六年、しばしば軍艦をもって中国に来て、辺界を改め定める議を迫った。
  • 時に政府はまさに太平軍との戦事に苦しみ、力これを拒むことができず、黒竜江将軍の奕山を遣わしてムラヴィヨフと璦琿城で会議させ、黒竜江をもって両国の境界と定め、ついに東北数千里の地を割いてこれに与えた。今その地はロシアのアムール(阿穆爾)省である。その条款の文は前の第四十六巻の璦琿条約の中に見える。

西暦1860年 文宗咸豊十年

  • 秋九月、中英の北京継増条約の第六款にいう、「イギリス国に九龍司を給与する」と。九龍の地形は一つの小さな土(底本は「一小土」に作る。「一小半島」等の脱字か)で、南は香港と相対する。時にイギリスと北京和約を結び、ついに九龍司の地方一区を割いてイギリス国に与えた。その条款の文にいう、「大清の両広総督労崇光は、粤東の九龍司地方一区を、イギリスの駐紮する者に交付する。粤省に暫く充てられた英仏総局正使にして功により三等宝星を賜ったパークス(巴夏理)が、国に代わって批を立て、永く租すること案に在り。ここに大清の大皇帝は、定めてその地界をイギリスの君主およびその後の嗣ぐ者に付与し、あわせてイギリス属の香港の界内に帰せしめ、その洪埠麪(底本は「洪埠麪」に作る。意味不通)の管轄の及ぶところをもって、庶くは無事を保たんとする」と。
  • 冬十月、中露続約の第一款にいう、「吉林省の東に沿った沿海の地をロシアに割く、すなわち烏蘇里江(ウスリー江)東岸の地である」と。英仏連合軍が北京に入った時、ロシア使のイグナチェフ(伊格那業替福)が調停に乗り出した。ここに至って和議が成り、ロシアは助けたことをもって政府に中露条約の重ねての締結を迫り、烏蘇里・松阿察の二河の以東の地を割譲してこれに与えた。今その地はロシアの沿海州(東海浜省)である。ロシア人はあわせて綏芬河の口にウラジオストク(海参崴)軍港を建てた。その条款の文は前の第四十六巻の北京条約の中に見える。

西暦1864年 穆宗同治三年

  • 秋九月、中露の『塔城条約』が成り、中国はイルティシュ河(額爾斉斯河)下流一帯の地を喪失した。その地は新疆省西北の沿辺の地で、ザイサン泊(斎桑泊)を内に含む。光緒九年にアラクベク河口(阿拉克別克河口)で界を勘定した時に至って、ことごとくこれを失った。ロシアはこれを収めてセミパラチンスク(悉密巴拉庭斯克)の地とした。

西暦1869年 穆宗同治八年

  • 春三月、中露の『科布多界約』が成り、中国はアルタイ泊(阿爾泰泊)一帯の地、すなわち科布多(コブド)西北の沿辺の地を喪失した。時に界を勘定するに当たってこれを失い、今はロシアのトムスク(多木斯克)の地となっている。

西暦1882年 徳宗光緒八年

  • 秋七月、中露の『伊犁界約』が成り、中国は伊犁河下流一帯の地を喪失した。バルハシ湖(巴爾噶什湖)およびイシククル(特穆爾図泊)を内に含む。
  • これより先、新疆に回民の変があり、ロシア人が伊犁を占拠した。天山南路が平定されるに及び、退兵を約束させ、これと和約を定め、ホルゴス河(霍爾果斯河)以東の地を中国に返還させた。ここに至って界碑を建て、ロシア人は伊犁河下流一帯の地を収めてセミレチエ(悉密林慶斯克)の地とした。

西暦1887年 徳宗光緒十三年

  • 冬十月、中葡の『北京条約』の第一・第二款で、ポルトガル国に澳門(マカオ)を与えた。澳門の土股(「土地」の誤りか)は香山県に属し、広東の海面の門戸である。明の嘉靖の中ごろにすでにポルトガル人に占拠され、年ごとに租課五百両を納めていたが、道光二十九年以後は今に至るまで納めていなかった。
  • 咸豊七年、ポルトガル人が来て通商を求め、あわせて条約を立てることを請うたが、許さなかった。同治元年、ふたたび条約を立てることを請い、フランス使のクレチコフスキー(哥士耆)がフランスとの条約に照らして章程を酌み定め、恭親王奕訢がこれを許した。奏が入ると、大臣を派遣して天津に赴かせ、三口通商大臣と会同して処理させた。後に争論があって、澳門に官を設ける件は互換されないままであった。
  • ここに至って洋薬(阿片)の税と釐金とを併せ徴収する一案により、両広総督の張之洞が上疏して「ポルトガル国と商議して処理するのでなければ、澳門の密輸(偸漏)は巡検し取り締まる術がない」と称した。そこで慶親王奕劻・侍郎孫毓汶に命じ、ポルトガル使のロサ(羅沙)と五十四款を定約させ、専約の款を附したが、ついに澳門を割いて贈与することを許した。その第二款の文にいう、
  • 「前にポルトガル国(大西洋国)の首都リスボン(理斯波阿)で結んだ予立の節略の内、『ポルトガル国は永く澳門に居って管理する』という第二款を、大清国はなお異議なく承認する。」
  • その第二款(「第三款」の誤りか)の文にいう、
  • 「前にポルトガル国の首都リスボンで結んだ予立の節略の内、『ポルトガル国は、大清国の首肯を経なければ、永く澳門を他国に譲ってはならないことを承認する』という第三款を、ポルトガル国はなお異議なく承認する。」

西暦1890年 徳宗光緒十六年

  • 春二月、中英の『蔵印条約』が成り、ラダック(拉達克)の地をイギリスに譲った。ラダックは西蔵の西北にある。初め、シク教徒(西克教徒)がカシミール(克什米爾)から東してラダックを侵掠し、これより時に相攻撃しあった。光緒十四年、両国の辺地でまた兵を構え、時にちょうどイギリスと『蔵印界約』を議しており、ラダックはついにイギリスに帰した。

西暦1894年 徳宗光緒二十年

  • 春正月、中英の続議『滇緬界約』が成り、中国は雲南省の西方に沿った沿辺の地を喪失した。野人山以西・以南および龍川江・潞江下流の地が、雲南省の西方に沿った沿辺の地である。
  • これより先、イギリス人がビルマ(緬甸)の北界を探勘した際、使者に語って「中国兵のいる所を見れば、すなわちそこを中国の地と見なして、それ以上入らない」と言った。後に八募(新街)・孟拱を見るに、いずれも中国兵がいなかったので、大金沙江以外の辺地および八募の地は、ついにことごとくイギリスに棄て与えられた。
  • 時に千総の張天明・黄正林が老八募(イラワジ江)を扼え守り、野人山以外・大金沙江以内はみな駐軍の地であり、イギリス人はあえて口出しできなかった。ほどなくして当路の者(当局)はついにその兵を撤去し、しかも外国人を招き入れて大金沙江を渡り野人山に入らせた。ここにおいて大金沙江はついにイギリスに棄て与えられ、野人山の形勢もまた完全でなくなった。滇緬界約を訂して成るに至り、野人山以西の地、龍川江・潞江下流の地は、ついにことごとくイギリスに贈り与えられた。

西暦1895年 徳宗光緒二十一年

  • 夏四月、中日の『馬関条約』第二款で、日本に台湾全島および澎湖列島を与えた。台湾島は東は太平洋に臨み、澎湖列島は台湾海峡を扼え制する。ここに至って日本と『馬関和約』を結び、ことごとく割いてこれに与えた。その款の文は第六十四巻の甲午戦事の和約の中に見える。

西暦1897年 徳宗光緒二十三年

  • 春正月、中英の続議ビルマ条約の第二・第三款で、基工の全地および那木喀に相近い三角地一段をイギリスに劃り与えた。
  • 二十一年五月にフランスと条約を結び、それ以前にイギリスと結んだビルマ界約によって得た江洪の界内の地をフランスに与え、遼東を索め返した報酬とした。イギリス人はこれを聞いて悦ばず、しばしば責める言があった。ここに至ってはじめて条約を訂し、再び索め問わないこととし、あらためて界線を劃して、工隆の全地をイギリス国に劃り帰し、あわせて那木喀に相近い三角地一段を永くイギリス国に租し与えた。
  • その第二款の文(上略)。「那木喀に相近く三角地一段があり、西は南莫江の支河および蛮秀嶺の塁周尖高山に瀕する。この尖高山から嶺に沿って東北し、瑞麗江に至る。この一段の地を、イギリス国は中国の地と認める。ただしこの地方は中国が永くイギリス国に租し与えるものであり、その地を管轄する権はことごとくイギリス国に帰し、中国は関与しない。その毎年の租価がいくらであるかは、今後あらためて議する。」
  • その第三款の文。「瑞麗江の南算に相近く北に転ずる処(瑞麗江と南陽江とが相会する処)から、線は南陽江に沿って上り、その江の源頭である孟哥山に至る。おおよそ北緯二十四度七分、東経九十八度十五分に在る。ここから叢樹の山嶺に沿い、潞江と南邁江とが相会する処に至り、これより潞江に沿って上り、まっすぐ科干の西北界に到り、順って科干の東界に接し、まっすぐ工隆の界上に至る。工隆の会界をイギリス国に劃り帰する。」

西暦1898年 徳宗光緒二十四年

  • 春二月、中独の膠澳租約の第二・第三款で、ドイツ国に膠州を租し与えた。
  • 初め、ドイツ国はロシア・フランスとともに遼東の地を中国に返還するよう索めたが、ロシア人は密約によって非常の利益を受け、フランス人は南方の荒れた甌脱(両国の間の空き地)の広い土地を得たのに、ひとりドイツ人だけが取り残されて何も得られなかった(向隅)。前年の春、ドイツが金門島を索めたのを枢府(軍機処)が拒むと、ドイツ人は憤ること甚だしかった。また中露密約の第九条にロシアが膠州を借り租する議があった(底本は「固」に作る。「因」の誤りか)。ドイツ人はそこでロシアに先んじて制しようとした。
  • たまたまこの年十月、山東曹州鉅野県でドイツ国の天主堂の教士二人が殺された。ドイツはただちに海艦を膠州湾に近づけた。砲台の守将である提督の章高元は、ちょうど幕賓と麻雀(蔴雀)の戯れをしていた。台の兵が往って報じると、高元は「あの艦はたまたまこの地を経るだけだ。我らに何の関わりがあろうか」と言った。しばらくして船が岸に着き、ただちに照会を送ってきたが、高元は賭けの興がまさに酣であり、これを放置した。
  • 賭けに倦んで少し憩うに及び、一人の幕客が開いて見て、はじめてドイツ人が二十四時間以内に全島を明け渡せと勒令していることを知った。高元ははじめて大いに驚き、令を伝えて隊を繰り出し、急ぎ官署を出れば、ドイツ兵はすでに街市に満ちていた。隊は整ったものの、将士はみな空の銃を挟えており、急ぎ庫の中に戻って弾薬を取ろうとすると、庫はすでに敵に占領されていた。
  • 高元は急ぎドイツの将のもとに詣でて理を論じたが、ドイツの将は「吾は本国の訓条を奉じて事を行うのみで、実に理を言うべきものは無い。汝はただ全軍を率いて退出するだけである」と言った。高元が承知しなかったので、ドイツの将はついに高元を幽閉した。北京駐在のドイツ公使ハイキング(海靖)は枢府に迫って条約六条を立てさせ、膠澳附近の方百里の地を強いて借り、ドイツ国が中国において海軍を屯駐する用とし、山東全省の鉄道・鉱山はドイツ国が請け負うものとした。その条款の文は、
  • 「二、大清国の大皇帝は、すでに膠澳の口の南北両面をドイツ国に租し与えることを允し、まず九十九年を限りとする。ドイツ国は租した地において砲台等を築造し、地棧(倉庫)各項を保護し、澳の口を護衛すべきである。」
  • 「三、ドイツ国の租した地は、租期が満了しない間は、中国は治め理めることを得ず、みなドイツ国の管轄に帰し、両国の争いの端を免れさせる。」
  • 三月、中露の会訂条約の第一・第二・第六款および続約の第一款で、ロシア国に旅順口・大連湾を租し与えた。ドイツ人が膠澳を奪ってから、ロシア人は大いに憤り、その使臣パヴロフ(巴布羅福)はついに先例に援って旅順・大連および隣り近く相連なる海面を租借し、ロシア国の海軍が中国北方の海岸において根拠の地を得る備えとし、あわせて鉄道を築いて営口・鴨緑江の中間から海に臨む便宜の処へ接続させた。
  • その第一款の文にいう、「中国は旅順口・大連湾および附近の水面をロシア国に租し与えることを允す。ただしこの租借は、決して中国の大皇帝がこの地を主どる権を侵すものではない。」
  • 第二款の文にいう、「以上の縁由により、租した地段の界は、大連湾の北方を経て、陸地を酌み量って保ち守るに適宜となるよう、その地段に必要なだけ、何里を隔てる必要があればすなわち何里を隔てることを准す。その確かな界限およびこの条約の各項の詳細は、この条約に調印した後、サンクトペテルブルク(聖彼得堡)において許大臣と会同し、ただちに商い訂して別に専条を立てる。この界線を商い定めた後は、すべて租界の線内に劃り入れられた地および附近の水面は、専らロシア国の租用に帰する。」
  • その第六款の文にいう、「両国政府は相許す。旅順の一口はすでに専ら武備の口としたので、ひとり中露の船隻のみ享用を准し、各国の兵船・商船に対しては開かざる口とする。大連湾については、口内の一港を除き、これも旅順口の例に照らして専ら中露の兵艦の用とし、その余の地方は通商の口岸とし、各国の商船は随意に到ることができる。」
  • 続約の第一款の文にいう、「原約の第二条によってロシア国に租し与えた旅順口および大連湾・遼東半島の陸地は、その北界は遼東西岸のアダム湾(亜当湾)の北から起こり、亜当の山脊を貫き過ぎて遼東東岸の皮子窩湾の北の尽きる処に止まる。租界附近の水面および陸地の周囲の各島は、みなロシア国の享用に帰する。あわせて租した地の期限は二十五年をもって満期と議定する。」この条約の租界は実に遼東半島であって、旅順・大連にとどまらない。
  • 夏四月、中英の香港界址展拓専条で、イギリス国が香港の対面の九龍の地址を広げることを准した。咸豊十年の英仏連合軍の役で、すでに九龍司の地方千七百余里を割いてイギリス国に与えていた。ここに至ってドイツ・ロシアが紛々と膠州・旅順を租すことを索めたので、イギリス公使のマクドナルド(竇納楽)はついに勢力均衡の局に籍口して、九龍の租地を広げるよう迫り議した。李鴻章は抗議したが効なく、山の上に砲台を築かないよう請うたが、それも許されず、条約は成った。その条文の大要は、九龍の界址を二千方里広げることを准して新たに租す地とし、あわせてイギリス国の管轄に帰して香港地方を保ち衛る用とし、大鵬湾・深州湾の海面もみなその内に在り、租期もまた九十九年と定めたものである。
  • 五月、中英の威海衛租借議定専条で、イギリス国に威海衛を租し与えた。時にイギリス人はまた威海を索めて、ロシア人の東アジアにおける海権を抵え制しようとした。時に日本兵がすでに退出しようとしていたので、ついに転じてイギリスに与えた。その条文にいう、「今議定する。中国政府は山東省の威海衛および附近の海面をイギリス政府に租し与え、イギリス国が華北において水師(海軍)に適宜な処を得るためとし、あわせてイギリス商人の北洋における貿易を保護するためとする。租期はロシア国が旅順に駐り守る期間と同じに照らすべきである。」

西暦1899年 徳宗光緒二十五年

  • 冬十月、中仏の広州湾租約の第一・第三款で、フランス国に広州湾および二つの海島を租し与えた。
  • これより先、フランス人は中国が遼東を索め返すのを助けたが、わずかに雲南辺の隙地を報酬として得たのみであった。ドイツが膠澳を占め、ロシアが旅順・大連を租し、イギリスが威海を索めてからは、また政府に迫って西江一帯の通商口岸を開かせ、利権を壟断しようとした。
  • フランス人は事の急なるを見て、ついに広州附近でフランス国の兵官が流賊に殺されたことにより、これもドイツ人の故智に倣って、先に広州湾に闖み入り、後から租借を議した。政府はその請いを拒む術が無く、提督の蘇元春に命じてフランス国の全権使と租界の条約七条を議り訂させた。
  • 第一条の文にいう、「和睦の由により、中国国家は広州湾をフランス国家に租し与え、船を停め石炭を積み置く(躉煤)用とする。期は九十九年と定める。ただしその租界の内においては、租す情形を訂め明らかにし、中国が自ら立てる権には妨げがない。」第三款の文にいう、「九十九年の期の内、租した地はすべてフランス一国の管轄に帰し、両国の争いを免れさせる。」

西暦1905年 徳宗光緒三十一年

  • 秋七月、日露のポーツマス(樸子茅斯)和約の第五款で、ロシアが庫頁島(サハリン)の半ばを割いて日本に譲った。
  • 庫頁島は一名を樺太島といい、また薩哈連島ともいう。中国の黒竜江口に在る。乾隆五十五年、忘れ遺したことによってその地を喪失した。以後ロシア国はしばしば庫頁島を侵し、日本と紛争して已まなかった。光緒元年、千島との交換を名目としてその全島を占めた。これより日本海沿岸の北方アジア一帯はことごとくロシアに帰した。
  • 二十九年に至って日露の釁が起こり、ロシア軍は連敗し、日本人はこの年六月に庫頁の全島を争い拠った。ここにおいてロシア人は戦を停めて和を乞い、アメリカのポーツマス(朴子茅斯)城で条約を議し、ロシア人は庫頁島の北緯五十度以南の地を割いて日本に譲り、管領させた。この島はついに日露の分け有つところとなった。その款の文の大略にいう、庫頁島は日露が各々半分を得るが、ただし両国とも砲台を建立することはできず、また行軍の地として用いることもできない、と。
原文(底本)
宣宗道光二十二年,秋七月,中英江寧議定條約第三欵:『給予英國香港海島。』香港屬廣州府屬之一島嶼,時爲鴉片事,與英戰敗,遂割予英國,其條欵文曰:『一、因大英商鑑遠路涉洋,往往有損壞須修補者,自應給予沿海一處,以便修船及存守所用物料。今大皇帝准將香港一島給予大英君主,暨嗣後世襲主位者,常遠據守主掌,任便立法治理。』

文宗咸豐八年,夏四月,中俄璦琿條約第一條:『割黑龍江省東北沿邊地贈俄。』初,俄人以康雍間所訂尼布楚及恰克圖通商條約,猶未滿人慾。自尼古剌士即位,舉木喇福岳福爲西伯利亞東部總督,一以東略爲務,漸下黑龍江,佔其河口,於北岸設兵屯守,殖民其地。咸豐三年、五年、六年屢以兵艦來中國,迫議改定邊界。時政府方苦太平軍之戰事,力不能拒,遣黑龍江將軍奕山與木喇福岳福會議於璦琿城,定以黑龍江爲兩國界,竟割東北數千里地予之!今其地爲俄阿穆爾省,其條欵文見前四十六卷璦琿條約中。

十年,秋九月,中英北京繼增條約第六欵:『給英國九龍司。』九龍地形爲一小土,南與香港相對。時與英訂北京和約,竟將九龍司地方一區割予英國!其條欵文曰:『大清兩廣總督勞崇光將粵東九龍司地方一區交與大英駐紮,粵省暫充英法總局正使功賜三等寶星巴夏理代國立批,永租在案。茲大清大皇帝定即將該地界付與大英君主,並厯後嗣,併歸英屬香港界內,以其該洪埠麪管轄所及,庶保無事。』 冬十月,中俄續約第一欵:『割吉林省迤東沿海地予俄,即烏蘇里江東岸地。』當英法聯軍入北京,俄使伊格那業替福出任調停,至是,和議成,俄以爲助,迫政府重訂中俄條約,割讓烏蘇里及松阿察二河迤東之地予之。今其地爲俄之東海濱省,俄人並於綏芬河口建海參崴軍港,其條欵文見前四十六卷北京條約中。

穆宗同治三年,秋九月,中俄《塔城條約》成,中國喪失額爾齊斯河下游一帶地。其地爲新疆省西北沿邊地,有齋桑泊在內,至光緒九年阿拉克別克河口勘界時,悉失之。俄收爲悉密巴拉庭斯克地。

八年,春三月,中俄《科布多界約》成,中國喪失阿爾泰泊一帶地,即科布多西北沿邊地。時以勘界失之,今爲俄多木斯克地。

德宗光緒八年,秋七月,中俄《伊犂界約》成,中國喪失伊犁河下流一帶地,有巴爾噶什湖及特穆爾圖泊在內。先是新疆回變,俄人佔踞伊犁。及天山南路平定,要約退兵,與定和約,以霍爾果斯河以東地交還中國,至是建立界碑,俄人收伊犁河下游一帶地爲悉密林慶斯克地。

十三年,冬十月,中葡《北京條約》第一第二欵,予葡國澳門。澳門土股屬香山縣,爲廣東海面門户,明嘉靖中即爲葡萄牙人佔踞,歲輸租課五百兩,自道光二十九年以後迄未交納。咸豐七年,葡人來求通商,並請立約,不許。同治元年,復請立約,由法使哥士耆按照法約酌擬章程,恭王奕訢許之。奏入,派大臣前赴天津,會同三口通商大臣辦理。後以爭論,澳門設官事並未互換,至是因洋藥稅釐倂徵一案,粵督張之洞疏稱非與葡國商辦則澳門之偸漏無從巡緝,乃命慶王奕劻、侍郎孫毓汶與葡使羅沙定約五十四款,附專約之款,竟許割澳門贈予之。其第二款文曰:

前在大西洋國(葡萄牙舊稱)京都理斯波阿所訂預立節略內,大西洋國永居管理澳門之第二款大清國仍允無異。

其第二款文曰:

前在大西洋國京都理斯波阿所訂預立節略內大西洋國允准未經大清國首肯則大西洋國永不得將澳門讓與他國之第三款大西洋國仍允無異。

十六年,春二月,中英《藏印條約》成,讓拉達克地予英。拉達克在西藏西北,初西克敎徒(溫都敎)由克什米爾東侵掠拉達克,自是時相攻擊。光緒十四年,兩國邊地復搆兵,時方與英議《藏印界約》拉達克遂歸於英。

二十年,春正月,中英續議《滇緬界約》成,中國喪失雲南省迤西沿邊地、野人山以西南及龍川江潞江下游地爲雲南省迤西沿邊地。先是英人探勘緬甸北界語使者曰見中國兵所在即視爲中國地不再入後見八募(新街)孟拱皆無中國兵而大金沙江以外邊地及八募地遂盡棄於英時千總張天明黃正林扼守老八募(伊拉瓦諦江)野人山以外大金沙江以內皆駐軍之地英人不敢過問未幾而當道竟撤去其兵且招引外人過大金沙江入野人山於是大金沙江遂棄於英而野人山之形勢亦不完至訂滇緬界約成野人山以西地龍川江潞江下游地遂盡贈予英。

二十一年,夏四月,中日《馬關條約》第二款給日本臺灣全島及澎湖列島。臺灣島東臨太平洋,澎湖列島控制臺灣海峽,至是與日本訂《馬關和約》悉割予之。其款文見六十四卷甲午戰事和約中。

二十三年,春正月,中英續議緬甸條約第二第三款劃基工全地及那木喀相近三角地一段予英二十一年五月與法國訂約以前與英訂緬甸界約所得江洪界內之地予法以爲索囘遼東之報酬英人聞之不悅屢有責言至是始訂約不再索問而改劃界線將工隆全地劃歸英國並以那木喀相近三角地一段永租予英國其第二款文(上略)那木喀相近有三角地一段西瀕南莫江之支河及蠻秀嶺之壘周尖高山從此尖高山遵嶺東北至瑞麗江此段地英國認爲中國之地惟是地方乃中國永租與英國管轄其地之權咸歸英國中國不用過問其每年租價若干嗣後再議具第三欵文自瑞麗江於南算相近轉北之處(瑞麗江與南陽江相會處)綫順南陽江上行至該江源頭孟哥山約在北緯二十四度七分東經九十八度十五分自此順叢樹山嶺至潞江與南邁江相會處由此順潞江上行直到科干西北界順接科干東界直抵工隆界上將工隆會界劃歸英國。

二十四年,春二月,中德膠澳租約第二第三款租予德國膠州初德國與俄法同索還遼東地歸中國俄人受密約非常之利益法人得南荒甌脱之廣土獨德人向隅上年春德索金門島樞府拒之德人憤甚又固中俄密約第九條有俄借租膠州之議德人遂欲先發制俄適是年十月山東曹州鉅野縣德國天主堂敎士二人被殺德即以海艦駛近膠州灣礮臺守將提督章高元方與幕賓爲蔴雀戲臺兵往報高元曰彼艦偶經此地耳何預吾事俄頃船抵岸即以照會高元賭方酣置之及賭倦少憇一幕客啟視始知德人勒令於二十四鐘內將全島讓出高元始大驚傳令開隊亟出署則德兵已滿衢市隊旣齊將士皆挾空鎗急返庫中取子藥則庫已爲敵所佔矣高元亟詣德將理論德將曰吾奉本國訓條行事實無理之可言汝但全師退出而已高元不許遂幽之駐京德使海靖迫樞府立約六條強借膠澳附近方百里之地爲德國在華屯駐海軍之用山東全省路礦歸德國承辦其條欵文二大清國大皇帝已允將膠澳之口南北兩面租予德國先以九十九年爲限德國於所租之地應蓋礮台等事以保地棧各項護衛澳口三德國所租之地租期未完中國不得治理均歸德國管轄以免兩國爭端 三月,中俄會訂條約第一第二第六續約第一款租予俄國旅順口大連灣德人旣奪膠澳俄人大憤其使臣巴布羅福遂援例租借旅順大連及鄰近相連之海面以爲準備俄國海軍在中國北方海岸得有根據之地並築鐵路從營口鴨綠江中閒接至濱海方便之處其第一欵文曰中國允將旅順口大連灣暨附近水面租予俄國惟此項所租斷不侵中國大皇帝主此地之權第二欵文曰因以上緣由所租地段之界經大連灣迤北酌視旱地合宜保守該段所需應相離若干里即准相離若干里其確切界限以及此約各項詳細俟此約畫押後在聖彼得堡會同許大臣刻即商訂另立專條此界線商定後所有劃入租界線內之地及附近水面專歸俄國租用其第六欵文曰兩國政府相允旅順一口旣專爲武備之口獨准華俄船隻享用而於各國兵商船隻以爲不開之口至於大連灣除口內一港亦照旅順口之例專爲華俄兵艦之用其餘地方作爲通商口岸各國商船任便可到續第一欵文曰按照原約第二條租與俄國之旅順口及大連灣遼東半島陸地其北界應從遼東西岸亞當灣之北起穿過亞當山脊至遼東東岸皮子窩灣北盡處止租界附近水面及陸地週圍各島均歸俄國享用並議定租地限期以二十五年爲滿此約租界實爲遼東半島非止旅大也 夏四月,中英展拓香港界址專條准英國展擴香港對面九龍地址咸豐十年英法聯軍之役已割九龍司地方千七百餘里給予英國至是因德俄紛紛索租膠旅英使竇納樂遂籍口於均勢之局迫議展擴九龍租地李鴻章抗議無效請無築礮臺於山上亦不允約成其條文大致准展九龍界址二千方里作爲新租之地並歸英國管轄以爲保衛香港地方之用而大鵬灣深州灣海面皆在內租期亦定九十九年 五月中英議租威海衛專條租予英國威海衛時英人復索威海以抵制俄人東亞海權時日兵已將退出遂轉以予英其條文曰今議定中國政府將山東省之威海衛及附近之海面租予英國政府以爲英國在華北得有水師合宜之處並保護英商在北洋之貿易租期應按照俄國駐守旅順之期相同

二十五年,冬十月,中法廣州灣租約第一第三款租予法國廣州灣並兩海島先是法人助中國索還遼東僅獲滇邊隙地之報酬自德佔膠澳俄租旅大英索威海復迫政府開西江一帶通商口岸將壟斷利權法人見事急遂因廣州附近有法國兵官爲游匪所戕亦效德人故智先闖入廣州灣而後議租借政府無以拒其請命提督蘇元春與法國全使議訂租界約七條第一條文曰因和睦之由中國國家將廣州灣租與法國國家作爲停船躉煤之用定期九十九年惟在其租界之內訂明所租情形於中國自立之權無礙第三欵文曰於九十九年期內所租之地全歸法國一國管轄以免兩國爭執。

三十一年,秋七月,日俄樸子茅斯和約第五欵俄割讓庫頁島(庫頁之庫字從厂讀若賖俗呼作庫如猶大之譌猶太爪哇之誤瓜蛙)之半予日本庫頁島一名樺太島又名薩哈連島在中國黑龍江口乾隆五十五年因遺忘而喪失其地以後俄國屢次侵庫頁島與日本紛爭不已光緒元年以千島交換爲名佔其全島自是日本海沿岸之北方亞細亞一帶盡歸於俄至二十九年日俄釁起俄師連敗日人於是年六月爭據庫頁全島於是俄人停戰乞和議約於美國朴子茅斯城俄人割庫頁島北緯五十度以南之地讓予日本管領是島遂爲日俄分有之其欵文大略謂庫頁島日俄各得一半惟兩國均不能建立礮臺又不能用之爲行軍之地。

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