清史紀事本末拳匪の乱と庚子和約(拳匪之乱及庚子和約)

要約

光緒二十六年夏五月、近畿で拳匪が起こり、剛毅・趙舒翹に良郷・涿州を視察させた。義和拳はもと梅花拳・金鐘罩、白蓮教の残党、嘉慶に始まり光緒の中ごろ山東の清平に満ちた。前年、沂州の教案で公使に訴えられ任を解かれたのを恨む毓賢は、二月に山西巡撫となり、匪はみな義民で神技があり殺すは羽翼を切るに等しいと朝貴に書を贈った。端王載漪は溥儁の大阿哥冊立に公使が入賀せず非難したのを憤り、剛毅は后党で帝への恨みが外国人に及び、ともに私憤を晴らそうとした。袁世凱が東撫となり十余団を撲滅すると残党は直隷に流れ、裕禄は放任した。匪は神が憑けば銃砲を恐れぬと説き、洪鈞老祖・梨山聖母を神とし、扶清滅洋を名目に洋人・教民を十毛に分けて殺し、劫殺焚掠し、女子の紅灯照も助けた。淶水では副将楊福を殺し、鉄路の電柱・電線を壊し、教民を焼き殺すこと数百か所。裕禄は匪首を上賓のごとく引見し、曹福田らを褒奏した。剛毅は涿州で跪香を強いられ、天が義和拳を降して洋人を滅ぼすと復命し、団練とし端王に統率させよと請うた。李蓮英も賛成し、太后は曹福田を召見して護衛の拳民に銀二千両を賞した。壇醮の煙は城内に満ち、王公や栄寿公主の邸も数百人を住まわせ、都中の数万は収拾できなかった。

載漪に総署を管理させ、啓秀・溥興・那桐を大臣とし、那桐は速やかな宣戦を請い、啓秀は宣戦の諭旨を起草した。董福祥の甘勇は入衛するや匪と合して教会堂を壊し前門外一帯の四千余戸を焼き、東城の洋貨店は匪の放火で四千余戸に延焼した。甘勇は日本公使館書記官杉山彬を永定門外で殺し、総署はロシア公使の書信を隠して奏さなかった。李秉衡は入京して開戦を主張し、翰林院から地雷を仕掛けよと説いた。裕禄が大沽砲台の要求を奏すると、太后は外交団の照会を読み「我が家の事に干渉するのか」と激怒した。栄禄は公使館攻撃を諫めて叱られ、再度の御前で太后は、皇帝は政を執れぬとみずから認めたと言い、咸豊十年の英仏軍を引いて報復の時だと述べた。帝は公使の天津護送を請うた。趙舒翹は内地の洋人殲滅を請い、許景澄は使臣を殺せば兵端を招くと言い、袁昶は各国が内政に干渉するとは信じぬと述べて漢奸と罵られ、聯元は玉石ともに焼かれると説いて斬れと命じられたが救われた。載勛・載瀾を団練大臣とした。載瀾は玉皇降臨を見たと語り、太后も武后の故事を語った。

八か国が大沽砲台を取り、シーモアは楊村で阻まれ、羅栄光は引き渡しを拒んだが守りきれなかった。劉坤一は公使館の数人を屠るため兵は出せぬと上疏し、袁世凱は乱民放任を驕り子を奉ずるごとしと極言した。李鴻章は召されても出発せず公使館保護を請うて一面的だと責められ、使臣保衛を請うた福建の善聯・許応騤らには和の一字を胸中に存すなと厳旨が下った。ドイツ公使クリンデは総署会議に誘われ東単牌楼で神虎営の安海に銃殺された。洋人一人五十両、女四十両、子ども三十両の懸賞が乱兵を動かした。宣戦の詔が下ると、啓秀は僧普済の神兵十万を、曾廉らは玉泉山の水を公使館に注ぐ法を、彭青藜らは戸ごとの捜殺を請い、神怪の上書は数百に及んだ。拳匪は順治門の教会堂を焼き、甘勇は翰林院に放火し、太后は石上から眺めた。洋人を拷問して殺した甘勇に五百金を賞し、教民九百人を荘親王邸外で処刑した。審理の芬車は残酷で屠伯と呼ばれた。各省に義和団を招集し助戦させよと命じ、東北の文武大吏は奉じた。毓賢が山西の洋人を尽く殺したと奏して嘉賞され、栄禄が婦女子の殺戮を諫めると、太后は洋人が政を返せと迫る以上報いねばならぬと答えた。載勛を歩軍統領とし、剛毅とともに団を統率させ英年・載瀾を添えた。劉坤一は張之洞と連絡し余聯沅を派して東南保護約款九条を議定した。上海租界は各国が共同保護し、長江・蘇杭の内地は督撫が外国商民・宣教師を保護し相侵さず、兵輪の停泊や砲台への接近も制限し、長江沿岸は安んじた。

大阿哥が帝を鬼子の弟子と呼び、董福祥が栄禄を漢奸と罵ると、太后は攻撃停止と和議を命じたが、裕禄が天津大勝の虚報を電奏するとまた攻めよと命じた。六月、天津では兵匪が連合して租界を攻め、聶士成は前に匪を剿して譴責され、八里台の救援で緑気砲に阻まれ挟撃されて陣没し、天津は陥ち、朝旨は一度の試みにも堪えぬと責めた。太后は賈誼の三表五餌を引いて外交手腕を誇り、宋慶・馬玉崑・裕禄に天津回復を命じた。李鴻章は七度電報し、太后が政策を改めねば北上せぬと述べた。秋七月、許景澄と袁昶は剿匪と首禍の懲罰を三度上疏したため、密諭の「即殺」を「保護」に改めたと李秉衡に告発されて斬られ、張蔭桓も新疆で殺された。栄禄に公使の護送を命じたが、数日前に載漪が啓秀に命じて公使を誘い出し途中で殺そうとしたので公使は応じなかった。全権の李鴻章は停戦と露英日の調停を求め、妖人を誅し邪匪を信ずる大臣を罷めよ、一兵一餉もなく北上しても乱兵妖民に死ぬだけだと覆奏した。連合軍は北倉・楊村で宋慶らを破り、裕禄は自殺した。欽差大臣李秉衡は拳匪三千を従え自ら大師兄を拝し、八宝法物を擁して河西塢に赴いたが、張春発らは敗れて死者十に五、六、陳沢霖の軍も潰え、馬頸で薬を仰いで死に通州は陥ちた。太后ははじめて熱河への逃亡を考え、帝に殉じよと命じたが栄禄が諫め、載漪らを斬首して外国人に謝する諭が下った。徐用儀は徐桐・載漪の恨み、立山は載瀾の私怨、聯元は公使館攻撃停止を請うて崇綺と衝突し袁昶の同党とされて殺された。

公使館は五十七日攻めても陥ちず連合軍が到着し、董福祥は広渠門外で敗れ掠奪して西へ去り、露日軍が東直・斉化門から、英兵が水門から入った。夜明け、太后は農婦に扮し、帝の在京を請うた珍妃を李蓮英に命じて井戸に突き落とし、帝は救えず徒歩で宮を出た。扈従は溥儁・奕劻・載漪・載勛ら宗室と剛毅・那桐・趙舒翹・英年、馬玉崑の兵千人で、沿道は彼らに略奪され、三日で懐来、四日で宣化に着いた。王懿栄・寿富らは城が破られて死に、徐桐は縊死、崇綺は保定で自殺した。罪己の詔を下し太原巡幸を宣布した。八月、雁門関で太后は熱河を思い出すと語り、宮中の掠奪を聞いて怒った。奕劻を帰京させ李鴻章と商議させ、劉坤一・張之洞を添えた。ロシア兵はチチハルを取り、鳳翔は璦琿で陣没、寿山は自殺した。太原では毓賢に、洋人が引き渡しを求めるゆえ革職するかもしれぬと語り、開缺して錫良を代えた。張之洞は当陽行幸を請うたが、鹿伝霖の言で長安に定めた。

閏八月、ドイツ公使は端王・董福祥・荘親王・剛毅の四凶引き渡しを停戦の条件とし、載勛・溥静・載濂・載瀅を革爵、載漪を宗人府に下し、英年・剛毅・趙舒翹も議処した。クリンデと杉山彬には祭りを賜わった。ロシア兵は営口・遼陽・盛京を取り、東三省は失われた。連合軍は山海関・北塘砲台を取り、保定では廷雍らを銃殺し、永平の重燠らは旅順に送られ奕劻の請いで釈され、皇陵も封鎖された。潼関への途上、侯馬で剛毅は追及を恐れ血を吐いて死んだ。剛毅は一字も読めず、東南の民財を搾り拳乱を醸した二大罪があり、前年、三凶誅殺を奏請した沈鵬は革職永禁とされた。九月、西安に駐蹕し、朝夕の芝居だけは北京と同じだった。載漪は革爵して圏禁、載瀾・英年は降調、趙舒翹は革職留任、毓賢は極辺で苦役とされた。十月、董福祥は兵を率いるため罪を加えられず甘粛に帰された。

十二月、和議大綱十二か条を許可した。親王を専使としてドイツに派して碑を建て、首禍を厳懲し許景澄ら被殺の各員の名誉を回復し、殺害のあった城鎮で五年間試験を停め、杉山彬の件を日本に謝し、暴かれた墳墓に碣碑を建て、軍火の輸入を禁じ、海関銀四百五十兆両を賠償し、公使館護衛の兵を常駐させ、大沽砲台を削平して通路に駐兵し、仇視を永禁する諭旨を掲示し、謁見の礼節を改める。太后は載漪らの罪を軽くしようとし、啓秀・徐承煜を有罪と認めず、徐用儀ら五人の復官にも不満で張之洞の難色を信じたが、ロシア外務部が楊儒に、議がまとまらねば漕運を断ち別に政府を立てる謀があり、張之洞の論駁は言いがかりだと告げ、ついに許可した。

年表

光緒二十六年(1900年)五月から十二月(1901年)までの、義和拳の蜂起と八か国連合軍の北京入城、そして庚子和約大綱十二か条の受諾までを記す。毓賢・載漪・剛毅・趙舒翹らが拳民を「義民」と信じて西太后を動かし、公使館攻撃と各国への宣戦に至った。許景澄・袁昶・徐用儀・立山・聯元ら諫止した大臣は次々に殺され、聶士成・裕禄・李秉衡は敗死し、天津・通州が陥ちて西太后は光緒帝を連れて宣化・太原を経て西安に逃れた。南方では劉坤一・張之洞・袁世凱が詔を奉ぜず《東南保護約款九条》を結んで戦火を避けた。最後は載漪ら禍首の処断と、李鴻章・奕劻による和議大綱の許可で決着する。

年表(8件)

現代語訳全文

西暦1900年 徳宗光緒二十六年夏五月

  • 徳宗の光緒二十六年、夏五月、近畿(京師周辺)一帯で拳匪が事を起こしたため、協弁大学士の剛毅、順天府府尹の趙舒翹に命じて、急ぎ良郷・涿州などの地におもむき、情勢を見てこさせた。
  • 義和拳はもと梅花拳といい、また金鐘罩とも称した。白蓮教の遣孽(「遺孽」の誤りか)、すなわち生き残りの一派であって、嘉慶の時に始まった。嘉慶十七年三月、これを逮捕せよとの詔が出たが、その後も党与は日ごとに増えていった。光緒の中ごろからは山東の清平に満ちあふれ、定陶などの地を寇した。
  • 前年、毓賢が山東巡撫であったとき、沂州の教案(キリスト教にからむ事件)のことで、北京駐在の各国公使が政府に訴えてその任を解かせたので、毓賢はこれを恨んでいた。この年二月、毓賢は山西巡撫に簡放(任命)されると、そこで朝貴に書を贈り(底本は「胎書朝青」に作る。「貽書朝貴」の誤りか)、匪はみな義民であり、そのうえ用いるに足る神技をもっていると説いた。いま国事が日ごとに衰えているのは民の志が伸びないからである、もしこのうえ拳民を殺すならば、みずから羽翼を切り落とすのと変わらない、というのである。
  • 端王載漪は、その子の溥儁が大阿哥に立てられたとき、各国公使にそれとなく入賀(祝賀の参内)を促したが、公使は応じず、そのうえ非難のことばさえあったので、はなはだしく憤っていた。剛毅は后党(西太后の一派)であって、かねて帝に恨みを抱いており、その恨みが外国人にまで及んでいた。そこで彼らはみな毓賢のことばを深く信じ、拳匪を利用して私憤を晴らそうとした。
  • 地方官は上意を迎え、剿滅を口にすることをはばかり、匪の勢いはいよいよ猖獗をきわめた。袁世凱が毓賢に代わって東撫(山東巡撫)となるに及んで、もっぱら剿滅を主とし、十余りの大きな一団を撲滅し、山東の省内は宴然(「晏然」の誤りか)として安らかとなり、残党は直隷に流れ込んだ。
  • 直隷総督の裕禄はその蔓延するにまかせた。そこで拳匪は公然と邪説を唱え、田舎の無知な者たちを呼び集めた。その法は神を主とし、神がその身体に憑くとたちまち武芸に精通し、銃砲をも恐れぬようになると説く。人が壇に入るたびに、いわゆる大師兄(底本は「大師凡」に作る。「大師兄」の誤りか)なる者がその者のために符を焼き呪を誦し、老祖師がその神訓を宣揚するのである。その神を洪鈞老祖・梨山聖母という。その宗旨は扶清滅洋を名目とし、およそ洋人および教民(キリスト教徒)、ならびに洋人のために働く者、洋語を話し洋貨を用いる者を、等級に分けた。十毛という名目があり、ひとたびその手に落ちれば必ず殺して赦さなかった。そうしてこれにかこつけて刀を舞わせ跳びはね、劫殺焚掠(略奪・殺害・放火)をほしいままにした。また紅灯照という者たちがあり、みな女子であって、義和拳と相たすけて行動した。
  • 匪が淶水にあったとき、督標副将の楊福を殺害し、さらに盧漢鉄路・京津鉄路の電柱、京津から張家口に至る電線を壊し、教民を焼き殺すこと数百か所に及んだ。裕禄はこれを究明処断せず、それどころか匪の首領を招き入れて引見し、上賓のようにもてなした。郷里の無頼(底本は「無流」に作る。「無賴」の誤りか)の徒が千人百人と群れ集まり、「義和拳」の三字を記した名刺を持てばそのまま役所の内に入り、総督と分庭抗礼(対等の礼をとる)することができた。匪の中の頭目、たとえば曹福田・張徳成・輯以文霸之王徳成(底本は「輯以文霸之王德成」に作る。「輯以文霸之」は底本の乱れか)らについて、裕禄はその名を公然と取りまとめて上奏文に入れ、褒めことばを添えて(底本は「加以改語」に作る。「褒語」の誤りか)登用の足がかりとした。政府もまた手厚くこれに答えた。
  • 外国人から責めることばがあり、そのうえ兵を北京に入れようとしていると聞くに及んで、はじめて剛毅と趙舒翹に命じて出向いて視察させたのであるが、諭旨はなお良莠雑出(善良な者と不逞の者とが入りまじっている)といい、拳民の中には遊勇(放浪の兵)が多く、会匪がその間に紛れ込んでいるのだ、ということばを用いていた。つまり最後まで拳民を乱を起こす匪徒とは見なさなかったのである。
  • 剛毅が涿州に着くと、拳匪は跪香(香をささげてひざまずくこと)を強い、そのことばには欺きが多かった。剛毅は趙舒翹にも一緒に礼拝させた。趙舒翹は心の中でその妄であることを知っていたが、剛毅の手前、異を立てることができなかった。北京に帰って復命し、天が義和拳を降して洋人を滅ぼすのだ、と述べた。
  • そして太后に、拳民を集めて団練とし、端王にこれを統率させるよう請うた。総管太監の李蓮英もその説に賛成した。太后はこれを信じ、ひそかに命じて拳民を召集して北京に入れ、大師兄の曹福田を召見してその義勇をほめた。両宮(帝と太后)が西苑から大内に移ったときには、瀛秀門から西華門まで沿道に列をなして(底本は「排到」に作る。「排列」の誤りか)拳民が太后を護衛したので、銀二千両を賞賜し、ねぎらいを手厚くした。そこで人々は争って信じ従った。
  • 壇を設け醮(道教の祭儀)を営み、柵をめぐらした場がほぼ一面に広がり(底本は「柵場跆徧」に作る。「跆」は「殆」の誤りか)、香の煙が城内に満ちて、黒い霧のようになった。王公の邸第、また大公主すなわち栄寿公主――恭王奕訢の娘で、太后が引き取って自分の娘とした者、その邸は安定門大街の大仏寺の裏手にある――そのいずれもが、拳匪をそれぞれ数百人ずつ招いて中に住まわせ、これを満漢を保護するのだと称した。各営の兵卒もまたその大半が拳匪の徒であった。都の中に数万の者がいて、来たり去ったりすることは蝗のようであり、大局はついに収拾のつかぬものとなった。

  • 端郡王載漪に命じて、総理各国事務衙門を管理させた。礼部尚書の啓秀、工部左侍郎の溥興、内閣学士の那桐は、いずれも総理各国事務衙門大臣上行走とされた(底本は「在部理各國事務衙門大臣上行走」に作る。「總理」の誤りか)。載漪はかつて「もし彼に総署を掌らせて外国人と交渉させるならば、困難な事などけっして起こりはしない」と言っていた。那桐は封事(密封の上奏)をたてまつり、政府が速やかに(底本は「遠」に作る。「速」の誤りか)各国に向けて宣戦し、その援軍が到着するのを待たぬようにと請うた。啓秀はあらかじめ宣戦の諭旨を起草し、玉璽を捺すよう願い出た。太后はこのとき事を重んじてなお発しなかったが(底本は「太后時難持重未發」に作る。「難」は衍字か)、心中では彼らのすることをよしとしており、みな特に総署に入るよう任命したのである。

  • 甘粛提督の董福祥が入衛(都の警備)のため北京に着いた。董福祥はもと降伏した匪であり、その配下の甘勇もまた匪であって、もとより紀律というものがなかった。北京城に入るや、匪と力を合わせて教会堂を攻め壊し、街市を焼き略奪した。火の手が広がった地域は、大柵欄・珠宝市・糧食店・煤市街・煤市橋・観音寺・楊梅竹斜街・廊房・頭条胡同・二条胡同・西河沿から、前門外の屠城に及び、楼の東西の河包巷、前門橋、西は大街の西一帯まで、四千余戸がことごとく灰燼に帰した。翌日には西単牌楼・講画堂を焼き、千余戸に延焼した。東城一帯の洋貨店は匪に火を放たれ、さらに四千余戸に延焼した。火は城闕にまで及び、煙と炎は三日のあいだ絶えなかった。

  • 甘軍が日本公使館書記官の杉山彬を永定門外で殺害した。このとき各国公使はみなわが身を危ういものと感じていた。ロシア公使は政府に書を送り、他の国が動乱に乗じて中国に不利をはかろうとしていること、ロシアと中国とは親睦すること二百余年であるから、義として告げるべきであることを述べた。総署はこれを隠して上奏しなかった。ロシア公使が拝謁を請うたのも許さなかった。ここに至って各国は兵を派して入衛(都の警備)させた。日本兵が北京に入ろうとしたとき、杉山彬は停車場まで出迎えに行ったが、永定門を出たところで董福祥の兵に殺害され、そのうえ路上でその屍を裂かれた。

  • 巡閲長江水師大臣の李秉衡を召して北京に来させた。李秉衡は以前、教案のために職を罷められ、奉天に赴いて事件を取り調べるよう命じられ、さらに水師を巡閲するよう命じられていたが、ここに至って兵を率いて北京に入るよう命じられた。景州まで行軍したとき、その配下の道員陳沢霖は匪を助けて村落数か所を攻め壊した。北京に着くと、太后は寧寿宮でこれを召見し、語り合うこと日を移した。李秉衡は力をこめて開戦を主張し、そのうえ義民は用いることができる、兵法をもってこれを部勒(部隊として統制)すべきだと述べ、あわせて公使館を攻めること、翰林院から地雷を仕掛けて爆破して突入することを主張した。のちに董福祥がその計のとおりに実行したが、翰林院が焼けただけで公使館は無事であった。

  • 太后が二度にわたって殿に出御し、君臣を召して対問した。この日、直隷総督裕禄の奏報に、洋人が大沽砲台を強く要求しているとあり、政府がただちに宣戦するよう請うてきた。太后ははなはだ怒り、ただちに儀鸞殿に出て、軍機を召して会議した。載漪・啓秀・那桐がさらに外交団の照会一通を進呈すると、太后はこれを読んでますます怒って言った。「あの連中は、あろうことか我が家の事に干渉しようというのか。これが忍べるなら、何が忍べぬことがあろう。外国人の無礼はここに至った。予は誓って必ずこれに報いる」。載漪はそこで公使館を攻めることを請うた。大学士の栄禄が諫めて言った。「兵を交えるときも使者はその間に立つものです。公使館を囲み攻めるという挙は、けっして行ってはなりません。もし端王らの主張のとおりにすれば、宗廟・社稷は危うくなりましょう。そのうえ使臣数人を殺したところで、国威を宣揚する(底本は「頤揚」に作る)に足るものでもありません」。太后は叱って退出させ、改めて諸臣にあまねく尋ねたが、みな決裂を主張した。

  • 太后は宮に入って少し休み、また政殿に出御して、王公・軍機・六部・九卿・科道・内務府大臣・各旗都統を召見した。帝を召し寄せて到らせると、太后は厲しい声で言った。「皇帝はみずから、政権を執り掌ることができぬと認めた。どうして外国人が干渉すべきことであろうか。いま各国公使の照会は、中国の主権を陵辱すること、まことにはなはだしい」。また漢人の諸大臣に語って、心を同じくし力を合わせて国家に報いるべきだと述べた。さらに言うには、咸豊十年(底本は「咸十年」に作る)、英仏の連合軍が北京を出たとき、もし一隊の有力な軍があってこれを遮って殺していたなら、敗を転じて勝とすることができたはずである、しかし今日に至って、我らが報復すべき時期が来たのだ、と。あわせて帝の意見はどうかと問うた。帝は長く躊躇したのち、太后に栄禄のことばを聴き、公使館を攻めず、各国公使を護送して天津に送りとどけるよう請うた。
  • 刑部尚書の趙舒翹は、上諭を明発して内地の洋人を滅ぼし尽くし、外国人の間諜を絶つよう請うた。吏部左侍郎の許景澄が進み出て言った。「中国と外国が条約を結んでから数十年、民と教(キリスト教徒)が相攻める事件は、無い年とてありません。しかしそれは賠償金で済むだけのことです。ただ外国の使臣を攻め殺すことだけは、必ず兵端を招きます。各国が協力して我が国を謀るとき、何をもってこれを防ぎましょうか」。太常寺卿の袁昶が言った。「臣は総署に勤めること年久しく、外国人はみな和平で道理を説く者であると見ております。太后に政を帝に返すよう請うた照会があるとは信じません。臣の愚見によれば、各国はけっして中国の内政に干渉するには至りますまい」。載漪は大いに怒り、袁昶を漢奸だと罵った。太后は袁昶に退がるよう命じ、戸部尚書の立山を顧みて問うた。立山は答えて言った。「拳匪(底本は「拳菲」に作る)は烏合の衆であり、その術は効かぬものが多うございます」。載漪は憤然として言った。「その心を用いるのだ。どうして術などを問うことがあろう。立山は必ずや夷と通じている。だからこそ朝廷で言い争う(底本は「廷辨」に作る)のだ」。内閣学士の聯元が言った。「もし使臣の身が保たれなければ、他日、連合軍が入城したとき、玉石ともに焼かれる禍いがありましょう」。載漪は怒ってこれを叱って言った。「聯元はいましがた公使館から来た者だ。二心を抱いている。罪は誅すべきである」。太后もまた怒り、ただちに聯元を斬れと命じたが、左右の者が力をつくして救ったのでやんだ。これより以後、あえて進言する者はなくなった。
  • 太后はただちに軍機に命じて開戦の諭を宣布させ、各省に伝達させた。また、まず太廟に祭りを致すべきだと言った。載勛・載瀾を団練大臣に任じ、また各国公使に対しその日の夕方までに北京を去るよう期限を切り、そのまま栄禄に命じて天津まで護送させることとしたが、そののちにはまた各国公使に平常どおり安んじて居るようにと諭した。諸臣が退出したのち、載漪と載瀾だけが残った。載瀾が太后に告げて言った。「臣が義和団の練習を見ておりましたとき、にわかに玉皇が降臨なさり、拳民の忠勇をほめたたえるのを見ました」。太后もまた、唐の武后が国に当たっていたとき、玉皇がやはり降臨したことがあるという話をした。

  • 英・露・独・仏・米・伊・墺・日本の八か国が大沽砲台を攻め、これを占拠した。このとき政府はすでに匪を助けて洋人を仇としていた。英国提督のシーモアが各国の兵を統べて北京に入ろうとしたが、楊村まで来て阻まれ、引き返した。北京の公使館は包囲され、天津でも兵と匪が租界を攻めた。シーモアは天津総兵の羅栄光に面会して、南北の砲台を明け渡し、連合軍が代わって守ることを請うた。羅栄光は許さず、そこで戦いが始まった。相持すること終日、ついに守りきれなかった。

  • 各省の兵を召して援けに来させた。勤王の軍を徴集せよとの命が下ると、鹿伝霖・錫良らは遠くからこれに応じたが、南方の総督・巡撫はみな詔を奉じなかった。江督(底本は「江都」に作る。両江総督の意)の劉坤一は上疏して言った。「もし外国からの侮りを防ぐというのであれば、臣はただちに北上いたします。しかし公使館の中の孤立した数人の洋人を屠り殺すというのであれば、堂々たる中国の兵隊をもってこのような挙に出ることは願いません」。疏が届くと、諭旨は南北は相たよるものであって二つに分かれてはならぬと言い、また『左伝』の「唇亡びて歯寒し」を引いて説いた。東撫(山東巡撫)の袁世凱もまた、朝廷が乱民を放任し、ついに国を挙げてこれの言うなりになるに至っているのは、たとえば驕り子を奉ずるようなもので、禍いは口にするに忍びない、と極言した。

  • 両広総督の李鴻章を召して北京に来させた。李鴻章はすぐには出発せず、ただ上疏して、勅して公使館を保護されるよう懇請し、邪術を信じないことによって国を保たれるよう請うた。懿旨はその一面的な物言いをすべきでないと責めた(底本は「責具」に作る。「責其」の誤りか)。時を同じくして、袁世凱を経て届いた福建からの、将軍善聯・総督許応騤らの、使臣を保衛されたいという各摺片についても、厳しい旨を下して言った。「和の一字は、けっして胸中に存してはならぬ。もしその将軍らが朝旨を誤解し、海疆に万一の失があれば、その各将軍らの責任を問うぞ」。

  • ドイツの駐京公使クリンデが殺害された。その前日、載漪らは書を送ってクリンデ公使に総署での会議に来るよう約していた。この朝、クリンデ公使が東単牌楼まで行ったところ、載漪の統べる神虎営の兵である満州人の安海に銃殺された。これより先、政府は懸賞の掲示を出し、洋人一人を殺した者には銀五十両、洋人の女一人を殺した者には銀四十両、洋人の子ども一人を殺した者には銀三十両を賞するとしていた。乱れた兵が賞を望んだために、この変が起こったのである。載漪はクリンデ公使の首級を東安門にさらせと命じようとしたが、袁昶が力争したのでやめになり、袁昶がこれを棺に納めた。

  • 詔を下して各国に宣戦した。これより匪の類もまた盛んになり、禍いを首めた者たちは叫びわめいて暴れ回った。九卿・科道は、つぎつぎと公使館を攻める策を条陳した。尚書の啓秀は、五台山の僧普済に神兵十万があるから、普済を召して逆夷をともに殲滅されたいと言った。知府の曾廉、編修の王竜文は、水を切って城に注ぐ法を用い、玉泉山の水を引いて公使館に注げば必ずことごとく溺死させられると請うた。学士の彭青藜、御史の劉家謨は、詔して義民の至るところ、戸ごとに探して殺し、乱の源を絶たれたいと請うた。御史の彭述は、義和拳が呪すれば砲は発火せず、その防ぎ方はきわめて神妙であって、夷兵を恐れることはないと言った。徐道焜は、洪鈞老祖(底本は「洪均老祖」に作る)がすでに五竜に命じて海口を守らせているから、夷の船はことごとく沈むはずだと言った。陳嘉言は、関壮穆(関羽)の帛書を得た、そこには夷はおのずから滅びるとあると言った。編修の蕭栄爵(底本は「簫榮爵」に作る)は、夷狄には君父無きこと二千余年、天はまさに義民の手を借りてこれをことごとく滅ぼそうとしている、この時機を失ってはならないと言った。郎中の左紹佐は、郭嵩燾・丁日昌の屍を戮して天下に謝されたいと請うた。主事の万東鑑は、曾国藩が天津教案を処理したときに殺された十六人について、卹典を議されたいと請うた。このとき神怪を説いて上書する者は、このようなものが数百を数えた。

  • 廷臣で付和する者が多くなると、載漪はそこで拳匪に順治門のフランス教会堂を焼かせた。甘勇は翰林院に火を放ち、それによって公使館まで延焼させようと望んだ。太后はいずれも宮中の高い石の上に立ってこれを眺めていた。甘勇がある洋人一人を捕らえ、荘親王の邸に献じ、拷問すること三時間にも及んだ。叫び声は惨たらしくて聞くに忍びなかった。訊問が終わるとこれを殺した。太后は命じて甘勇に五百金を賞したが(底本は「命賞些甘勇五百金」に作る。「些」は衍字か)、これは賞格に掲げられた額に比べれば十倍に増したものであった。さらに教民九百人を捕らえ、みな夜明けどきに荘親王の邸の外で刑を執行した。審理に当たったのは理藩院侍郎の胎穀、部署行走の芬車・桂春であり、残酷をきわめたが、なかでも芬車がとくにはなはだしかった。時の人は彼を劊子手(首斬り役人)になぞらえ、また屠伯という名をおくった。

  • 各省に命じて義和団を招き集めて戦いを助けさせた。そこで東北一帯では、文武の大吏が命を奉ずることつつしみ深く、ほとんど全体が一致した。

  • 山西巡撫の毓賢が、山西省の洋人を誘い出してことごとく殺したと奏報し、手厚い詔をもって嘉賞された。毓賢の疏には、すでに謀って山西の洋人を誘い出し、ことごとく捕らえ、みな撫署において処決し、網を漏れた者はいないと称してあり、懿旨は褒め讃えることこの上なかった。栄禄が諫めて言った。「殺戮が婦女子にまで及んでは、どうして国威を揚げるに足りましょうか。全世界の笑いものになりはしないかと恐れます。そのうえ老仏爺の仁慈という名誉にも損があるかと存じます(底本は「名譽京有損」に作る。「京」は「亦」の誤りか)」。太后は微かに笑って言った。「そなたの言うことはまことにもっともである。しかし洋人が予に政を返せと迫るのだ。予はこれをもって報いないわけにはゆかぬ。いまあの連中は魚が筌(うえ)の中を泳いでいるようなものだ。いったい誰が中国のまことの主人であるかを、もう見きわめたであろう」。

  • 荘親王載勛を歩軍統領に任じた。このとき、歩軍統領の崇礼が洋人・教民の捕縛に力を尽くさなかったので、改めて載勛を派したのである(底本は「時新因派」に作る。「時以原派」の誤りか)。

  • 載勛・剛毅に命じて義和団を統率させ、あわせて左右翼の総兵(底本は「總後」に作る)英年・載瀾を派して共同で処理させた。拳匪が公使館を攻めはじめたときには、みな一日二日のうちに剿除(底本は「剃除」に作る)できると言っていた。董福祥もまたしばしば公使館を焼き壊したと報告してきた。ところが事が二十余日を経ても、洋兵の死者はいくらもなく、かえって匪徒の骸骨が東交民巷の入口に散らばっていた。そこで載漪が奏して、拳民は十数万もあり、首領が多すぎて号令がまちまちに出ているから、大臣を派して督率させていただきたい(底本は「請派大臣高度」に作る)と言った。それでこの命があったのである。

  • 両江総督の劉坤一が各国の上海駐在領事と《東南保護約款九条》を締結して成った。このとき、義和団を南下させて各省で兵勇に拳を教練させ、さらに兵を進めて上海を攻撃するという知らせがあり(底本は「進兵攻攻擊上海」に作る。「攻」の一字は衍字か)、外国人は租界に重兵を置いて(底本は「置威重兵」に作る。「威」は衍字か)多方面に備えを設けた。劉坤一は東南でふたたび兵の争いが起これば全局がいよいよ糜爛すると恐れ、中央の命令を奉じなかった(底本は「前不奉中央命令」に作る。「前」は「遂」の誤りか)。都督の張之洞と連絡をとり、上海道の余聯沅を派遣して、各国領事と《東南保護約款九条》を議定した。長江沿いの各省はこれによって安んじた。その文に言う。

  • 一、上海道台の余は、いま南洋大臣の劉、両湖都憲の張の面示を奉じ、各国領事官と会商して方法を定める。上海租界は各国が共同で保護し、長江および蘇州・杭州の内地はいずれも各総督・巡撫が保護し、たがいに相侵さず、中国・外国の商民の生命財産を保全することを主とする。

  • 二、上海租界を共同で保護する章程は、すでに別に条款を立ててある。
  • 三、長江および蘇州・杭州の内地にある各国の商民・宣教師の産業は、いずれも南洋大臣の劉、両湖都憲の張が、切実に保護することを認め引き受け、あわせて各省の総督・巡撫に通知し、また各文武の官吏に厳しく命じて、一体となって真剣に保護させる。すでに掲示を出して流言を禁じ、匪徒を厳しく捕らえている。
  • 四、長江の内地は、中国の兵力ですでに地方を安静にするに足りている。各江岸にすでに来ている各国の兵輪は、従来どおり停泊してよいが、ただ水夫らを取り締まって上陸させてはならない。
  • 五、各国が今後もし中国の総督・巡撫と商議して承諾を得るのを待たず、多数の兵輪を長江などの地に乗り入れるに至り、そのために人民が疑いを抱き、事にかこつけて釁端を開き、外国商人・宣教師の人命・産業を損壊することがあれば、事後に中国は賠償を認めない。
  • 六、呉淞および長江の各砲台については、各国の兵輪はけっして砲台に近づいて停泊してはならず、また砲台の真正面に当たる場所に停泊してはならない。兵輪の水夫もまた砲台附近の地で操練してはならない。たがいに誤って犯すことのないようにするためである。
  • 七、上海製造局・火薬局の一帯には、各国は兵輪をそこへ遊弋させに行かせないことを承諾する(底本は「忽往遊弋」に作る。「忽」は「勿」の誤りか)。停泊すること、および洋兵・巡捕を派して行かせることもしない。たがいに相侵さぬようにするためである。この局の軍火(底本は「此局軍大」に作る)は、もっぱら長江内地の土匪を防ぎ剿し、中国・外国の商民を保護する用に供するものであって、総督・巡撫が取り出して用いることがあっても、各国は驚き疑うには及ばない。
  • 八、内地において、各国の宣教師および遊歴する各洋人は、僻遠でまだ〔防備の〕設けられていない地方(底本は「遇偏解未經設地方」に作り、不通。「偏僻」「未經設防」の誤りか。〔 〕は訳者の補い)に出会ったならば、けっして危険を冒して行ってはならない。
  • 九、およそ租界内の一切の防護の方策を講ずる事は、いずれも静かに処理し、けっして大げさに騒ぎたてて人心を揺るがしてはならない。

  • 諭を下して各国公使館の囲攻を停止させた。これより先、ある日、大阿哥が帝を「鬼子(外国人)の弟子」と呼び、帝が階の上で泣いて訴えたことがあった。諸王公および匪の群れが階の下に集まり、その声はざわめき立っていた。太后は大いに怒り、載漪らを叱って退出させ、匪の頭目一名を外宮門で斬った。また董福祥が面と向かって栄禄を弾劾し、大砲を借り用いて公使館を攻めることを許さぬといって、これを漢奸とののしった。太后はますます怒り、載漪も董福祥もみな荒唐無稽で頼みにならぬと知って、そこで諭を下して公使館攻撃を停止させ、あわせて栄禄に命じて各国公使館におもむいて和議を商議させた。三時間ののち、裕禄の天津からの電奏が届き、大勝を報じて、洋人が天津を攻め、死者ははなはだ多く、あわせてその兵輪二隻を撃沈した、天津の洋人はほとんど剿滅し尽くしたと言ってきた。そこで太后の方針はまた一変し、あらためて力を加えて公使館を攻めよと命じたのである。

西暦1900年 光緒二十六年六月

  • 天津が失われた。五月の中旬以後、天津の拳匪は教会堂を焼き、教民を殺した。総督の裕禄は拳匪の頭目および紅灯照の首領を護符と頼み、これらに洋兵を共に防がせたので、兵と匪が連合し、租界の洋兵と攻め合った。連合軍が大沽を攻め取ったのちには援兵が大いに集まり、そこで大挙して天津を攻めた。提督の聶士成ははじめ城南の海光寺に軍を駐め、のちに連日力戦して、跑馬砲および八里台・小営門の砲台を奪い取った。連合軍が八里台を襲うと、聶士成は引き返して救いに向かったが、敵は緑気砲をもって攻め進んだ。防ぎきれず、聶士成は陣中に没し、天津はついに陥落した。緑気砲というのは、実に炸裂弾よりも毒であって、命中して裂けるとき、その気に触れれば立ちどころに死ぬ。文明の戦争においては使用を禁じられているものである。敵は拳匪を野蛮なものと見たので、一度これを試みたのである。聶士成は落垡堡で匪を剿し、百余人を殲滅したために、厳しい旨で譴責されていた。ここに至って、連合軍が前からこれを撃ち、拳匪が後ろからこれに乗じたので、進退きわまり、ついに難に遭ったのである。ところが朝旨はかえって、洋式操練を研究すること多年に及びながら、ついに一度の試みにも堪えなかった、これを言うのはまことに痛恨にたえぬ、と責めたという。

  • 提督の宋慶・馬玉崑、総督の裕禄に命じて天津を回復させた。天津敗北の報が北京に入ると、栄禄は太后に拝謁して「もし北京が失われたならば、いかがなさいますか」と言った。太后は賈誼のことばを引いて、「三表を建て、五餌を設ける」うんぬんと言った。三表とは、信をもって諭し、愛をもって諭し、好をもって諭すことである。五餌とは、文繡(美しい織物)によってその目を壊し、美食によってその口を壊し、音楽によってその耳を壊し、高い堂と広い建物によってその腹を壊し、篤い礼と厚い待遇によってその心を壊すことである。そのうえ太后は、自分の外交手腕は外国人に対処するのに十分だと自慢した。ここに至って、連合軍が進み迫るのを見ると、宋慶らに力を尽くして防ぎとめるよう命じた。

  • 李鴻章に命じて直隷総督に調補(転任)させ、あわせてロシアの郵便船に便乗して海路を北上するよう命じた。李鴻章は七度の電報で、速やかに行くことはできないと述べ、そのうえ太后が政策を改めないかぎり、けっして北上しないと言った。

西暦1900年 光緒二十六年秋七月

  • 吏部侍郎の許景澄、太常寺の袁昶(底本は「太常寺袁昶」に作る。「太常寺卿」の脱字か)を殺した。許景澄と袁昶は三度上疏して、拳匪を剿し、禍いを首めた者を懲らすよう請うたので、載漪と剛毅はこれを深く憎んだ。李秉衡(底本は「李秉銜」に作る)が北京に着くと、奏して、連絡の使者を捕らえ、許景澄が夷に通じた書信の証拠を捜し出したこと、また太后がさきに各省に寄せた密諭、すなわち洋人に出会ったらすぐに殺せと命じたものが、うっかり漏らされてしまったこと、近ごろ聞くところでは陝西署撫臣の端方、河南撫臣の裕長、および蒙古の各地が奉じた諭旨では、「即殺」の字がすべて「保護」の字になっており、いま調べたところ袁昶・許景澄がひそかに改めたものと分かったこと、を述べた。太后は大いに怒って言った。「二人は大胆にもほしいままに諭旨を改めた。これは趙高のやったことと何の違いがあろう」。そして車裂の刑に処してさらせと命じた。大学士の王文韶が力をつくして諫めたので、はじめて即座に斬れと命を改めた。また諭を伝えて、前侍郎の張蔭桓を新疆の戍所で殺させた。袁昶は刑に臨んで言った。「予はただ、久しからずして再び天日を見、僭妄の者どもが消え滅びることを望むばかりだ」。監斬官の載瀾がこれを叱ると、袁昶は厲しい声で言った。「予は死ぬが罪はない。汝らこそ狂い愚かにして国を乱す者、その罪こそ死に当たる。予の名は長く天地の間に留まり、世の人の愛敬を受けるであろう」。振り返って許景澄を顧みて言った。「人が死ぬのは家に帰るようなものだ。何を恐れることがあろうか」。載瀾がまっすぐ前に出てこれを打ち、刑を執行する者はただちにその刃を下ろした。許景澄の刑を監したのは刑部侍郎の徐永燈であった。

  • 栄禄の兵に命じて各国公使を護って天津に行かせた。このとき、オランダ・オーストリア両国の公使館および道勝銀行はいずれも焼き壊され、各国の兵と教民は英国・日本などの公使館を堅く守っていた。李鴻章・劉坤一および外国駐在の各使臣は、しばしば外国公使および洋人を保護するよう請い、各国の使臣を保護することはそのまま自国の使臣を保護するゆえんであり、中国にいる洋人を保護することはそのまま外国にいる中国人を保護するゆえんである、と述べたが、回答は無かった。ここに至って、はじめて公使館攻撃の停止を命じたのである。栄禄に命じて兵を派して公使を護って天津にやらせ、それによって連合軍の前進を阻もうとした。あわせて公使らにスイカ・酒・野菜・果物などの品を贈った。これより先、数日前に、載漪は啓秀に命じて書を送り各国公使を総署の会議に約束させ、ひそかに衛隊を連れて、公使館を離れさせたうえで途中に待ち伏せて殺そうとしたのであった。つまり一方では書を送って招き、一方ではしばしば攻撃に出ていたのである。ここに至って護送の命が下っても、各国公使はみなあえて応じなかった。

  • 李鴻章を全権大臣に授け、電報で各国と商議してまず停戦するよう命じ、また電令してロシア・イギリス・日本などの国に駐在する使臣の楊儒・羅豊禄・李盛鐸にそれぞれ国書を手渡させ、三国が戦事を調停するよう求めた。これは軍機の請いに従ったもので、これを時に乗じて勝ちを取る挙であるとし、列強の猜忌をあおろうとしたのである(底本は「蓋狗軍機之請」「欲列強猜忌雖異也」に作る)。各国政府はこの電文を読んで、みなその理由が分からなかった。李鴻章は覆奏して言った。「ただちに妖人を処刑し、邪匪を信任する大臣を罷免し、外国公使を安全に連合軍の大営まで送りとどけていただきたい。しからば臣は病をおして暑さを冒し、赴いてまいります(底本は「力疾冒署顓行」に作る)」。また言った。「寄諭を拝受いたしましたが、太后にはなお誠信をもって和を議されるご意志が無く、朝政はなお跋扈する奸臣の手にあり、いまなお拳匪を忠義の民と信じておいでのようであります。臣には一兵一餉もございません。もしみだりに北上いたしましても、ただ乱兵と妖民のために死ぬだけで、国には少しも益するところがございません」。

  • 楊村が失われ、裕禄が死んだ。連合軍は天津を占拠したのち、しばしば北京の公使館から援けを乞う知らせを得たので、大挙して道を分けて進攻した。馬玉崑(底本は「馬王崑」に作る)・宋慶・裕禄は北倉・蔡村・楊村でこれを防いだが、みな敗れて退いた。裕禄はある棺屋に逃げ隠れ、まもなくピストルで自殺した。潰えた兵は四方に散り、通州・張家湾などの地を略奪して空にした。

  • 李秉衡を欽差大臣に授け、河西塢におもむいて軍を視察させた。李秉衡は太后の前で毅然として督師の任を引き受け、あわせて宗廟社稷はけっして再び恥辱を受けるには至りますまいと力説した(底本は「宗廟社稷悶決不至再受恥辱」に作る。「悶」は「斷」の誤りか)。そこで前敵提督の張春発・万本華・夏辛酉、按察使の陳沢霖の四軍を総統するよう命じられた。李秉衡は拳匪三千人を従えたいと請い、みずからその大師兄を拝した。拳匪はそれぞれ引魂幡・混天大旗・雷火扇・陰陽瓶・九連環・如意鉤・火牌飛剣を持ち、李秉衡を擁して進んだ。これを八宝法物といった。河西塢に着いて軍隊を集め、戦うに及んで、張春発・万本華(底本は「本化」に作る)・夏辛酉はみな敗績し、死者は十のうち五、六に及んで、潞水はそのために流れなくなった。陳沢霖は武清から陣営を移したが、砲声を聞くと全軍ことごとく潰え、李秉衡は通州に走った。載漪はなお董福祥に命じて拳匪と合わせて公使館攻撃を強めさせた。武衛軍・虎神営・神機営、諸軍はみな集まり、必ずこれを破って憤りを雪ぐと誓った。

  • 兵部尚書の徐用儀、戸部尚書の立山、内閣学士の聯元を殺した。このとき連合軍はすでに通州に迫っていたが、禍いを首めた諸臣は凶暴の炎をかえって熾んにし、殺そうと欲する者があれば、太后はこれに従わないことがなかった。徐用儀はさきに軍機に在任したとき、かつて大学士の徐桐を弾劾したことがあり、徐桐はこれを恨んでいた。さきに溥儁が大阿哥に立てられたとき、載漪は徐用儀に賛成しないことばがあったので、やはりこれを憎んでいた。ここに至って禍いが起こった。時に年七十九、刑に臨んで怨みのことばはなく、ただ言った。「あの僭妄の者どもが、どうして久しく存えられよう。予が洋人の入京しないうちに死ぬのは、まさに願うところだ」。立山はさきに載瀾と妓女の緑柔を争って隙があったので、ここに至って載瀾は彼を陥れて報いたのである。その宅(底本は「廌宅」に作る。「第宅」の誤りか)がフランス教会堂に隣り合っており、地下道を掘って洋人に食物を補給した事があると言い立てた。聯元はかつて上疏して公使館攻撃の停止を請い、戸部尚書の崇綺がこれを責めると、聯元は衣を払って立ち去った。そこで袁昶と同党であると言い立てられた。刑場に赴くとき、にわかに大師兄が紅い衣冠で宣武門から出てくるのが見えた。荒々しい馬を疾駆させ、馬の後ろに巨大な物を一つ引きずって刑場まで来た。それが立山であるとはじめて分かった。手足を縛って馬の蹄につながれ、顔かたちはもう毀れ果てていた。このとき載瀾は上疏して、敵に通じた諸臣にはなお大学士の王文韶、戸部尚書の廖寿恒がいるから、あわせて除いて朝廷の列を清められたいと請うた。太后はこれを許したが、ちょうど連合軍が入京したのでやんだ。

  • 李秉衡(底本は「李秉衛」に作る)の兵が馬頸で潰え、李秉衡(底本は「秉衛」に作る)は死んだ。連合軍は追撃して通州を占拠した。李秉衡は軍を督して河曲塢(「河西塢」の誤りか)を取り返そうとはかり、武清県の馬頸という地まで来て敵に遭った。張春発らの軍はみな戦うことを願わず、あいついで退却した。李秉衡は薬を仰いで死に(底本は「秉耳抑葯以死」に作る)、通州は陥落した。急報が届き、栄禄が入って告げると、君臣は相対して泣き、太后ははじめて熱河に逃れようとした。大阿哥は護衛して同行することを請い、帝は北京に留めてその友人である外国人と講和させよと言った。太后は、逃げ出すよりは国に殉じたほうがましだと言い、帝に殉じるよう命じたが、栄禄が力をつくして諫め、あわせて太后に北京に留まるよう請うた。そして諭を下して載漪らを斬首して外国人に謝することとした。このとき太后はなお拳民の法術で北京を保てるかと望みをかけていたので(底本は「法術可求北京」に作る。「求」は「保」の誤りか)、なお激しく公使館を攻めさせていた。この日、栄禄を召見すること八度、載漪を五度、軍機を五度に及んだが、みな黙って対坐し一言もなかった。

  • 連合軍が北京に入り、太后は帝を連れて宣化へ逃れ出た。京師の兵と匪は公使館を力攻すること五十七日に及んでなお陥とせず、そのうちに連合軍が到着した。董福祥は広渠門外で迎え撃って敗績し、兵を放って大いに掠奪しながら西へ去った。輜重は道に連なった。ロシア・日本の軍がそこで東直・斉化の二門から先に入り、英国兵もまた水門から公使館に入った。そして平陽・永定の両門を占拠した。

  • この日の夜明け、太后は田舎の農婦に扮し、藍色の夏布の上着を着て、漢人風に髪を結い、帝と皇后にも藍色の木綿の単衣を着せた。逃げ出すに当たり、妃嬪は同行を許さぬと命じた。珍妃が進み出て太后に、帝は北京に留まって人心を鎮めるべきですと言った。太后は答えず、ただ厲しい声で李蓮英に命じて寧寿宮の外の大井の中に突き落とさせた。帝は寵妃の死を目の前に見ながら救うことができず、悲憤のきわみに達して、身を震わせるほどであった。太后は帝と皇后を引き連れて徒歩で宮の北門を出、騾馬の車に乗って行き、朝陽門に至って、日本軍に向けて停戦の旗を掲げ、城門を開いて出た。
  • 従って行ったのは、大阿哥の溥儁、慶親王奕劻、喀爾喀親王の那彦国、端郡王載漪、荘親王載勛、貝勒の載瀾・載瀛・載瀅、貝子の毓橚、輔国公の載瀾、鎮国将軍の載淅・溥侗・溥賢・溥静、剛毅、那桐、趙舒翹、英年、呉汝梅、および各部の堂官十二人(底本は「各郡堂官」に作る。「各部」の誤りか)、小軍機三人、馬玉崑の兵千人、ならびに神機営・虎神営(底本は「虎神芝」に作る。「芝」は「營」の誤りか)の、公使館攻撃に功の無かった旗兵数百人であった。
  • 日暮れに貫市に着いたが、太后も帝ももう一日食べていなかった。火炕に寝たのは、夜具が無かったからである。沿道の住民や商店はみな、駕に扈従する兵に略奪されて空になった。行在を定めて駐まるときには、万騎千乗が強引に買い、強引に取って、さらに目を覆うばかりであった。駕が通り過ぎたあとには、何一つ残っていなかった。三日で懐来県に着き、さらに四日で宣化府に着いた。将軍の延茂、祭酒の王懿栄・熙元、侍読の宝豊・崇寿、庶常の寿富らは、みな北京の城が破られたときに死んだ。徐桐もまた首をくくった。克勤郡王の晋祺は洋兵に強いられて毎日死体を背負わされ、尚書の懐塔布は公使館のために糞を担ぎ、鞭笞を受けるまでになった。大学士の栄禄、尚書の崇綺は保定に逃れ、崇綺はそこで自殺した。

  • 詔を下して罪己(みずからを責める)し、あわせて太原に巡幸すると宣布した。部院の堂官に班を分けて速やかに行在に赴くよう命じ、また各総督・巡撫に辺防を整頓し、力を尽くして国境を固めるよう命じた。

西暦1900年 光緒二十六年八月

  • 太后が帝を連れて山西の大同府に着いた。太后は道中ずっと顔色がやすらかで、雁門関を過ぎたとき、しばらく停まれと命じて言った。「この風景を見ると、熱河のことを思い出さずにはいられぬ」。また帝に語って言った。「このたび北京を出て、世の中を見ることができたのも、なかなか楽しいことだ」。帝は言った。「人の心は喜び楽しむときには、自然にそうなるものです」。まもなく連合軍が宮中に入り、財宝を掠め取ったと聞いて、太后ははなはだ荒々しく怒り、従う者はみな脚をふるわせた。

  • 奕劻に命じて北京に帰り、李鴻章と共同で一切の事宜を商議処理させた。

  • 劉坤一・張之洞を添えて派し、共同で和議を商議処理させた。まもなく李鴻章が栄禄を派して共同で処理させるよう請うたので、太后はこれを許し、あわせて便宜行事(臨機の処置)を認めた。のちに各国が接待することを望まなかったため、栄禄はそこで西安の行在に赴いた。

  • ロシア兵がチチハルを占領し、黒竜江将軍の寿山が死んだ。はじめ、六月の中ごろ、海蘭泡(ブラゴヴェシチェンスク)のロシア兵が、チチハルを通ってハルビンに至り鉄路を保護すると称した。寿山はこれを拒んだ。ロシア兵はそこで璦琿副都統の鳳翔と戦端を開き、鳳翔は陣中に没して、璦琿は失われた。七月、ロシア兵は大北嶺を占領し、この月、チチハルに至って、寿山は自殺した。拳乱が起こりはじめたとき、東三省では次々にこれに呼応した。寿山の幕僚たち、および工部郎中の王煥が力をつくして禁ずるよう請うと、寿山は大いに怒り、王煥を役所から追い出したが、まもなく人をやって追いかけて連れ戻し、これを殺した。ここに至って一月も経たぬうちに、寿山もまた敗れて死んだのである。

  • 太后が帝を連れて太原府に着き、府署に駐蹕した。毓賢に語って言った。「いま山西の境内に洋人がいないのは、そなたの力である。しかし連合軍がそなたを引き渡せと急しく求めておる。予はあるいはそなたを免職して、外国人の耳目をごまかすことになるかもしれぬ」。毓賢は答えて言った。「臣が洋人を剿し殺しましたとき、すでに免職・処罰の覚悟をいたしております」。太后は続いてみずから毓賢が洋人を殺害した場所に行き、あわせてその処理の始末を詳しく尋ねた。まもなく毓賢に開缺(職を解くこと)を命じ、湖南布政使の錫良をこれに代えた。このとき錫良は勤王のために行在に来ていたのである。

  • 陝西の省城に駐蹕の場所をしかるべく準備するよう命じた。李鴻章は各国の意向を奏陳し、しばしば回鑾(北京への還幸)を請うたが、許されなかった。連合軍が一師団を山西に派そうとしていると聞くに及んで、群臣を召して対問し、北京に帰るべきか否か、および南方あるいは中央、または陝西へ遷都するかという問題を討論した。栄禄・王文韶・鹿伝霖は力をつくして北京に帰ることを請うた。このとき張之洞から行在に摺が届き、湖北の当陽に行幸されたいと請うていた。その地は中央に位置し、形勢はきわめてよく、また地名もめでたく、中興の兆しとすることができる、そもそも天子は常に陽に当たる(当陽)ものであるから、というのである。太后のほうは、長安は古の帝王の都であり、山川が四方を塞ぎ、上流の地を占めているから、陝西に都するのが便利だと言った。そして署撫の端方に命じてただちに一切を準備させた。これは鹿伝霖のことばを容れたもので、長安は険しく堅固で、西の辺境に僻していて、外国の兵が容易には来られないからであった。

西暦1900年 光緒二十六年閏八月

  • 拳匪を放任した諸臣を懲治した。連合軍は和議がまだ開かれないうちから(底本は「和議團未開時」に作る。「團」は衍字か)、まず拳党を主持した者を懲罰処断するよう求めた。ドイツ公使もまた、ドイツ皇帝の訓条であるとして、四凶を引き渡さないかぎり停戦を許さないと言った。四凶とは、端王を第一、董福祥を第二、荘親王をその次とし、それに剛毅である。ここに至って、諭して荘親王載勛、怡親王溥静、貝勒の載濂・載瀅の爵位と職を革め、端郡王載漪は一切の差使を取り上げて宗人府に下して厳しく議させ、輔国公の載沢、左都御史の英年はその衙門に下して厳しく議させ、大学士の剛毅、刑部尚書の趙舒翹は都察院・吏部に下して処分を議させた。

  • ドイツ公使クリンデ、日本書記官杉山彬を手厚く弔した。李鴻章・劉坤一・張之洞・袁世凱は連名で上疏して、厦門の英国領事が善聯に電報で告げたところによれば、ドイツの兵隊がまだすべて中国に到着しないうちに、先に特旨を下してクリンデ公使を手厚く弔するのがよい、また新任のドイツ公使も鉄路大臣の盛宣懐に、ただ光緒皇帝がみずからドイツ皇帝に電報を発し、使臣クリンデの殺害について切実に惜しみ悼む意を示して、手厚く礼をもって弔することしかない、と語った、と述べた。ここに至って、諭して一壇の祭りを賜わり、その柩(底本は「樞」に作る)がドイツに帰り着いたとき、さらに一壇の祭りを賜わることとし、杉山彬の弔いの礼もまたこれと同じにした。

  • ロシア兵が営口および遼陽を占領し、まもなく盛京に入った。将軍の増祺(底本は「增棋」に作る)は義州に逃れた。このとき吉林もまたロシアに占拠され、東三省はすべて失われた。

  • 連合軍が山海関を占領した。

  • 連合軍が北塘砲台を占領した。

  • 奕劻を全権大臣に授け、李鴻章と共同で和議をしかるべく商議させ、劉坤一・張之洞に共同で商議処理させた。

  • 連合軍が保定に至り、布政使の廷雍らを殺した。はじめ、廷雍は拳匪をはなはだ力をこめて信奉し、彼らが西洋人の医師および教民数十人を焼き殺すのを放任した。ここに至って、英国提督のジャールスが兵を率いて保定に来ると、廷雍の配下の振遠十営はあえて出て防がなかった。ジャールスは入城し、廷雍および城守尉の奎恒、参将の王占魁を捕らえて去り、まもなくみな銃殺した。

  • 連合軍が永平に入り、知府の重燠を捕らえた。重燠はわざと拳匪を放任し、ロシア人を多数殺害させていた。ここに至って、ロシア軍は重燠および都司の錫光、把総の賈桂一を捕らえ、旅順に送って訊問した。奕劻らがロシア公使に婉曲に請うたので、まもなく釈放して帰らせた。

  • 連合軍が兵を分けて易州に行き、皇陵を封鎖し、あわせて兵を派して見張らせた。また兵を分けて東陵にも行った。

  • 太后が帝を連れて潼関に着いた。太原から出発し、聞喜県の侯馬という地まで来たとき、剛毅が病没した。剛毅は一字も読めぬほどで、「皋陶」の「陶」の字を字そのままの音で読み、獄囚が病死することをいう「瘐斃」の「瘐」の字をいつも「痩」の字に改め、敗走する敵を追うことをいう「追奔逐北」の「北」の字を「比」の字と誤った。前年の冬、編修の沈鵬が三凶を誅するよう奏請し、その中に「天下を率いて皇上に叛く者は、剛毅である」とあった。原疏は翰林院の堂官の疑うところとなり(底本は「所疑似『格』字。」に作る。「所格」の誤りか)、そこで新聞紙上に掲載された。まもなく掌院学士が詞臣を甄別(勤務評定)し、沈鵬を、心を失い病み狂って、みずから道理に背くことに甘んじていると弾劾したので、沈鵬は免職され、永久に監禁された。しかし剛毅の生涯の、国を誤り民に禍いした罪を総括すれば、東南の民の財を搾り取ったことと、拳乱を醸成したこととの二大事が最もはなはだしい。ここに至って、連合軍が自分を厳しく求めていると知り、恐れおののいて血を吐いて死んだ。太后ははなはだこれを惜しんだ。

西暦1900年 光緒二十六年九月

  • 太后が帝を連れて西安に着き、撫署に駐蹕した。行在の諸事は草創であったが、ただ朝夕に芝居を演じさせることだけは、北京にいたときと同じであった。

  • 拳匪を放任し庇った諸臣への懲治を加重した。奕劻らが行在に電報して、おおよそ次のように述べた。「各国公使はみな端王を罪の首魁と指し、剛毅・趙舒翹もまた禍いを醸した首悪であるとして、厳しい処断を要求しております。さきにドイツ皇帝はすでに、執政の王大臣ならびに各省の大小の臣工はみな死罪に論ずべきであり、そうしてはじめて各国の心を折り伏せるに足る、と明言しております。聞くところではドイツ統帥のワルデルゼーはなお連合軍に保定を攻めに行かせており、その意に追撃の心が無いとは保しがたく、必ずや禍いの首魁を得て気を晴らそうとするものと思われます。いま自ら進んで懲罰処断することができれば、その西進を止められましょう」。ここに至って、載漪の爵を革め、載勛・溥静・載瀅とともに宗人府に下して圏禁(幽閉)することを命じた。載濂は爵を革め、載瀾・英年は降調(降格転任)、趙舒翹は免職留任とした。毓賢は免職し、きわめて辺遠の地に送って苦役に当たらせた。

西暦1900年 光緒二十六年冬十月

  • 甘粛提督の董福祥に、免職留任として、兵を率いて急ぎ甘粛に帰り、要害を扼して防備を設けるよう命じた。このとき連合軍は董福祥の罪を治めよと堅く求めていたが、太后は彼が兵を率いているために、あえて罪を加えることができず、ただ甘粛の原籍に帰ることを命じただけであった。

西暦1901年 光緒二十六年十二月

  • 奕劻・李鴻章が電奏した和議大綱十二か条を許可した。

  • 一、ドイツ公使を殺害した一事については、中国から親王を専使としてドイツに派遣し、皇帝の慚じ悔いる意を代表して伝え、あわせて被害の場所に徳を銘した碑を建てる。

  • 二、禍いを引き起こした諸人を厳しく懲らし、また前年に、諸国の国際法にはなはだ悖る極悪の罪を力をつくして論駁して殺された各員の名誉を回復する。各国の人民を殺害し陵虐した城鎮では、五年以内は文武の各試験を行ってはならない。
  • 三、日本の書記生を殺害した事については、中国は必ず手厚く栄誉を与える典礼を用いて日本政府に謝さねばならない。
  • 四、各国人民の墳墓を汚し暴いた場所には、碣碑を建てる。
  • 五、軍火および軍火を製造するための材料は、中国に運び入れることを許さない。
  • 六、中国は、各国の人および外国のために勤めていた中国人の身体・家・財産が受けた公私の各損失を賠償することを承諾する。
  • 七、各国は兵隊を常駐させて公使館を護衛する。
  • 八、京師から海辺までは往来の暢通する道路を空けておかねばならず、大沽などの砲台は一律に削り平らげる。
  • 九、各国が兵を駐めてその通路を守る。
  • 十、軍民人等が諸国を仇視することを永久に禁ずる諭旨を貼り出す。
  • 十二、総理各国事務衙門、ならびに各国の駐在公使が皇帝に謁見する際の礼節を改める。(底本は「十一」の条を欠き、「十」の次に「十二」を掲げる。)

  • 末尾には、以上の各款は、もし中国国家が承諾して各国の意にかなうのでなければ、京畿一帯に駐屯する兵隊を撤退させる望みを許しがたい、と述べてあった。条約がまとまると、奕劻らはこれによって奏上し、あわせて奏して言った。「各国のことばの意は決然としていて、弁論を容れません。宗社も陵寝も、みな他人の掌握の中にあります。存亡の機は、一刻の猶予も容れません。速やかにご決断ください」。疏が届くと、太后はなお載漪ら諸人の罪を軽くしようとし、また啓秀・徐承煜を有罪とは認めず、さらに徐用儀ら五人の名誉回復に大いに不満であった。そのうえ張之洞がまた封事をたてまつって、各条款について一つ一つ難色を示した(底本は「著署辦難」に作る)。太后はこれを信じ、なお奕劻らに方法を講じて交渉するよう命じた。まもなく覆奏して言うには、ロシア外務部の維持が駐在公使の楊儒にひそかに告げて、「もし議がまとまらなければ、聞くところでは各国には春になって漕運の道を断ち(底本は「截泰運道」に作る)、あるいは別に政府を立てるという謀りごとがあり、禍いは測り知れぬものに至るのではないかと恐れます。張之洞が論駁した各節に至っては、みな無理な言いがかりに属します。張総督は外に在ること多年、いささか経験もあろうに、なお北京に二十年いた書生そのままの習いを脱していないとは思いもよらぬことでした。そもそも局外で事を論ずるのはたやすいものです」と言った、とのことであった。ここに至って、はじめてそのとおりに許可したのである。

原文(底本)
德宗光緒二十六年夏五月,因近畿一帶拳匪滋事,命協辦大學士剛毅、順天府府尹趙舒翹馳赴良鄉、涿州等處查看情形。義和拳本名梅花拳,又稱金鍾罩,爲白蓮教遣孽,始於嘉慶時。十七年三月,有詔逮捕,其後黨日益多。自光緒中葉,彌滿於山東之清平,冦定陶等地。上年毓賢爲山東巡撫,因沂州教案,由駐京各國公使訴諸政府撤其任,憾之。是年二月,毓賢簡放山西巡撫,遂胎書朝青,謂匪皆義民,且有神技可用。今國事日衰,由於民志未伸,若再殺拳民,無異自翦羽翼也。端王載漪因其子溥儁立為大阿哥,時諷各使入賀,不應,且有違言。憤甚,剛毅后黨,夙有憾於帝,遂仇及外人,故皆深信毓賢言,欲利用拳匪以快其私憤。地方官希旨,不敢言剿,匪勢愈猖。及袁世凱代毓賢為東撫,一意主剿,撲滅十餘巨股,東省宴然,餘黨流入直隸。總督裕祿聽其蔓延,於是公倡邪說,號召鄉愚。其法以神為主,言神附其體即精武藝,不畏槍礮,每有人入壇,有所謂大師凡者為之焚符誦咒,而老祖師宣揚其神訓焉。其神曰洪鈞老祖、梨山聖母,其宗旨以扶清滅洋為名,凡洋人及教民,與為洋人服役,能洋語用洋貨者,分別等差。有十毛之目,一落其手,必殺無赦,遂借此舞刀跳躍,劫殺焚掠。又有紅燈照者,皆女子,與之相輔而行。當匪在淶水,戕殺督標副將楊福,又燬盧漢鐵路、京津鐵路電桿、京津至張家口電線,焚殺教民數百處,裕祿不為究辦,且延匪目入見,待如上賓。鄉里無流棍徒聚千百人,持義和拳三字名帖即可身入衙署,與總督分庭抗禮。匪中頭目,如曹福田、張德成輯以文霸之王德成等,裕祿且公彙其名入奏報,加以改語為錄用地步,政府亦優答之。及聞外人有責言,且將調兵入京,始命剛毅與舒翹前往查看,而諭旨仍良莠雜出。及拳民中多有遊勇,會匪溷跡其間為詞,蓋終不以拳民為作亂之匪徒也。剛毅至涿州,拳匪勒令跪香,語多欺罔。剛毅令舒翹隨同禮拜,舒翹心知其妄,然以剛毅故不敢立異,回京覆命言天降義和拳以滅洋人。請太后收集拳民為團練,即以端王統之,總管太監李蓮英亦贊成其說,太后信之,密令召集入京,召見大師兄曹福田,獎其義勇。兩宮由西苑遷入大內,自瀛秀門至西華門沿路排到,拳民護衛太后,賞銀二千兩,慰勞有加,於是爭相信從。設壇建醮,柵場跆徧,香煙滿城,結為黑霧。王公府第,大公主榮壽公主為恭王奕訢女,太后撫為己女,邸在安定門大街大佛寺後身,皆招拳匪各數百人入居之,謂之保護滿漢,各營卒亦居大半。都中數萬,來去如蝗,大局遂不可收拾矣!

命端郡王載漪管理,總理各國事務衙門。禮部尚書啟秀、工部左侍郎溥興、內閣學士那桐均在部理各國事務衙門大臣上行走。載漪嘗言:『若使彼掌總署與外人交涉,必無困難之事發生。』那桐上封事,請政府遠向各國宣戰,勿待其援軍之至。啟秀預擬宣戰諭旨,呈請蓋璽。太后時難持重未發,而心善諸人所為,皆特派入總署。

甘肅提督董福祥入衛,至京,福祥本降匪,所部甘勇亦匪,素無紀律,既入京城,與匪合力攻燬教堂,焚掠街市。火勢蔓延之地由大柵欄、珠寶市、糧食店、煤市街、煤市橋、觀音寺、楊梅竹斜街、廊房、頭條胡同、二條胡同、西河沿,延及前門外屠城,樓東西河包巷、前門橋,西及大街西一帶四千餘家,同歸於燼。翌日焚西單牌樓、講畫堂,延燒千餘家,東城一帶洋貨鋪被匪縱火,又延燒四千餘家,火延城闕,煙燄三日不絕。

甘軍戕日本使館書記官杉山彬於永定門外,時各國公使皆自危。俄使致書政府,言他國將借亂事圖不利於中國,俄與中國親睦二百餘年,義當告。總署匿不上聞,俄使請入見亦不許,至是各國派兵入衛。日本兵將入京,杉山彬至車站迎候,方出永定門即為董福祥之兵所戕,且裂其屍於道。

召巡閱長江水師大臣李秉衡來京。秉衡前以教案罷職,命至奉天查辦事件,又命巡閱水師,至是命帶兵入京。行至景州,所部道員陳澤霖助匪攻燬村落數處。抵京,太后召見寧壽宮,語移日,秉衡力主戰,且言義民可用,當以兵法部勒之,並主張攻使館,由翰林院安置地雷轟入。後董福祥如其計行,翰林院被焚而使館仍無恙。

太后兩次御殿,召對君臣。是日直督裕祿奏報,洋人力索大沽礮臺,請政府即與宣戰。太后怒甚,立即出儀鸞殿,召軍機會議。載漪、啟秀、那桐復進呈外交團照會一件,太后閱之益怒曰:『彼族竟敢干預我家事,此能忍,孰不能忍!外人無禮至此,予誓必報之!』載漪因請攻使館,大學士榮祿諫曰:『兵交使在其間,圍攻使館之舉決不可行。若如端王等所主張,則宗廟、社稷危矣。且殺數使臣,亦不足以頤揚國威。』太后叱之出,復遍詢諸臣,皆主張決裂。太后入宮稍息,復御政殿召見王公、軍機六部、九卿、科道、內務府大臣、各旗都統。宣帝至,太后厲聲曰:『皇帝自己承認,不克執掌政權,豈外人所以干預?今各使之照會,陵辱中國主權實甚矣!』又語諸漢大臣,當同心協力,以報國家。又言咸十年,英法聯軍出京時,設有一得力之軍隊,截而殺之,即可轉敗為勝。但到今日,予等報復時期至矣。並問帝意如何。帝遲疑久之,乃請太后聽榮祿之言,勿攻使館,護送各使至津。刑部尚書趙舒翹請明發上諭,滅除內地洋人,以絕外人間諜。吏部左侍郎許景澄進曰:『中外締約數十年,民教相攻之事,無歲無之。然不過賠款而已。惟攻殺外國使臣,必召兵端,各國協而謀我,何以禦之?』太常寺卿袁昶曰:『臣在總署供差有年,見外人皆和平講理,不信有請太后歸政之照會。據臣愚見,各國必不致干涉中國內政。』載漪大怒,斥袁昶為漢奸。太后命昶退,顧問戶部尚書立山,對曰:『拳菲烏合,其術多不效。』載漪憤然曰:『用其心爾,奚問術乎?立山必與夷通,乃敢廷辨!』內閣學士聯元曰:『倘使臣不保,他日聯軍入城,恐有玉石俱焚之禍。』載漪怒斥之曰:『聯元方自使館來,懷貳心,罪當誅!』太后亦怒,命立斬聯元,左右力救之而止,自是無敢進言者。太后即命軍機宣佈開戰之諭,傳達各省。又言當先致祭太廟。派載勛、載瀾為團練大臣,又限各使當夕離京,即著榮祿護送往津,既又諭各使照常安居。諸臣既退,載漪、載瀾獨留,載瀾告太后曰:『臣觀義和團練習時,忽見玉皇降臨,稱獎拳民之忠勇。』太后亦謂唐武后當國時,玉皇亦曾降臨云。英、俄、德、法、美、意、奧、日本八國攻大沽礮臺,據之。時政府既助匪仇洋,英提督西摩爾統各國兵入京,至楊村被阻折回。北京使館被圍,天津兵匪亦攻租界。西摩爾面請於天津總兵羅榮光,讓出南北礮臺,由聯軍代守。榮光不允,遂開戰。相持竟日,卒至不守。召各省兵入援。徵集勤王軍之命下,鹿傳霖、錫良等遙應之,而南方督撫皆不奉詔。江都劉坤一疏言:『苟禦外侮,則臣當立即北上。若屠戮使館中孤立之數洋人,則不願以堂堂中國之兵隊,而為此等舉動也。』疏入,諭旨言南北相倚,不可歧貳,又引《左傳》唇亡齒寒以為言。東撫袁世凱亦極言朝廷縱亂民,至舉國以聽之,譬若奉驕子,禍不忍言矣。召兩廣總督李鴻章來京。鴻章不即行,但疏懇敕護使館,請無信邪術以保國。懿旨責具不應作一面語,同時由袁世凱轉到福建,將軍善聯、總督許應騤等,請保衛使臣各摺片。亦降嚴旨有曰:『和之一字,萬不可存於胸中,倘該將軍等誤會朝旨,海疆萬一有失,惟各將軍等是問云。』德國駐京公使克林德被戕。先日,載漪等函約克使赴總署會議,是晨,克使行至東單牌樓,為載漪所統神虎營兵滿人安海所鎗殺。先是,政府出示懸賞,殺一洋人者賞銀五十兩,殺一女洋人者賞銀四十兩,殺一洋孩者賞銀三十兩。亂兵希賞,至有此變。載漪當令以克使首級梟示東安門,因袁昶力爭而止,昶棺殮之。下詔與各國宣戰,自是匪類亦熾,首禍諸人,叫囂墮突。九卿科道,紛紛條陳攻館之策,尚書啟秀言:五台僧普濟有神兵十萬,請召普濟會殲逆夷。知府曾廉、編修王龍文請用決水灌城之法,引玉泉山水灌館,必盡淹斃之。學士彭青藜、御史劉家謨請詔義民所至,按戶搜殺,以絕亂源。御史彭述謂義和拳咒礮不燃,其御至神,無畏夷兵。徐道焜言洪均老祖已命五龍守海口,夷船當盡沒。陳嘉言云得關壯穆帛書,言夷當自滅。編修簫榮爵言夷狄無君父二千餘年,天將假手義民盡滅之,時不可失。郎中左紹佐請戮郭嵩燾、丁日昌之屍以謝天下。主事萬東鑑謂曾國藩辦天津教案所殺十六人,請議卹。時上書言神怪似此者以百數。廷臣附和既眾,載漪遂令拳匪燒順治門法國教堂。甘勇縱火翰林院,冀以延燒使館,太后皆立宮中高石之上觀之。甘勇當獲一洋人,獻莊邸,刑訊至三小時之久。呼𥸤之聲,慘不忍聞,訊畢殺之。太后命賞些甘勇五百金,較之賞格所開加至十倍矣。復逮獲教民九百,皆於黎明時在莊邸外行刑,承審者為理藩院侍郎胎穀、部署行走芬車、桂春,備極殘酷,而以芬車為尤甚,時人擬之為劊子手,又諡之曰屠伯。命各省招集義和團助戰,於是東北一帶,文武大吏,奉令惟謹,幾於全體一致。山西巡撫毓賢奏報誘殺晉省洋人悉盡,優詔嘉獎。毓賢疏稱已計誘山西洋人,盡數擒獲,均在撫署處決,無漏網者,懿旨褒獎備至。榮祿諫曰:殺戮及於婦孺,何足以揚國威,恐為全球所笑。且老佛爺(滿人對於太后之尊稱)仁慈之名譽京有損。太后微哂之曰:『汝言誠是,但洋人迫我歸政,我不得不以此報之。此時彼族如魚游筌中,當已認明究竟孰為中國真主人翁也。』命莊親王載勛為步軍統領。時新因派步軍統領崇禮緝捕洋人、教民不力,改派載勛。命載勛、剛毅統率義和團,並派左右翼總後英年、載瀾會同辦理。當拳匪初攻使館時,皆謂旦夕間便可剃除。董福祥且屢以使館見燬入告,乃事閱二十餘日,洋兵死者無幾,而匪徒骸骨遍於東交民巷口,於是載漪奏言:拳民十數萬,首領太多,號令歧出,請派大臣高度,故有是命。兩江總督劉坤一與各國駐滬領事訂立《東南保護約欵九條》成。時有派義和團南下各省教練兵勇習拳及進兵攻攻擊上海消息,外人置威重兵於租界,多方設備。坤一恐東南再起兵釁,全局益形糜爛,前不奉中央命令。聯絡都督張之洞派上海,道余聯沅,與各國領事議訂《東南保護約欵九條》,沿江各省,賴以此安,其文曰:

  一、上海道臺余,現奉南洋大臣劉,兩湖都憲張面示,與各國領事官會商辦法。上海租界歸各國公同保護,長江及蘇杭內地均歸各督撫保護,兩不相擾,以保全中外商民生命財產為主
  二、上海租界公同保護章程,已另立条欵。
  三、長江及蘇杭內地各國商民教士產業均歸南洋大臣劉,兩湖都憲張允認切實保護,並移知各省督撫,及嚴飭各該文武官員,一體認真保護。現已出示禁止謠言。嚴拿匪徒。
  四、長江內地,中國兵力已足使地方安靜,各江岸已有各國兵輪者,仍照常停泊,惟須約束水手人等不可登岸。
  五、各國以後如不待中國督撫商允,竟至多派兵輪駛入長江等處,以致百姓懷疑,籍端啟衅,燬壞洋商、教士、人命、產業,事後中國不認賠償。
  六、吳淞及長江各礮臺,各國兵輪,切不可近臺停泊及緊對礮臺之處。兵輪水手亦不可在礮臺附近地方操練,彼此免致誤犯。
  七、上海製造局、火葯局一帶,各國允兵輪忽往遊弋。駐泊及派洋兵巡捕前往,以期各不相擾。此局軍大,專爲防剿長江內地土匪,保護中外商民之用,設有督撫提用,各國毋庸驚疑。
  八、內地如有各國洋教士及遊歷各洋人,遇偏解未經設地方,切勿冒險前往。
  九、凡租界內一切設法防護之事,均須安靜辦理,切勿張皇以搖人心。

下諭停止圍攻各國使館。先是,一日,大阿哥呼帝爲鬼子徒弟,帝泣訴堦上,諸王公及匪衆聚於堦下,聲洶洶。太后大怒,叱載漪等出,斬匪首一名於外宮門。又以董福祥面劾榮祿,不允,借用大礮攻使館,詆之爲漢奸。太后益怒,知載漪、福祥皆荒謬不可恃,乃下諭停攻使館,並命榮祿赴各使館商議和局。閱三小時,裕祿自天津電奏至,報大捷,言洋人攻天津,死者甚衆,並擊沉其兵輪二艘。天津洋人,剿滅幾盡。於是太后之宗旨又一變,復命加功攻使矣。 六月,天津失守,自五月中旬後,天津拳匪焚教堂,殺教民,總督裕祿恃拳匪頭目及紅燈照首領爲護符,使共禦洋兵,遂兵匪聯合,與租界洋兵相攻。及聯軍攻據大沽後,援兵大集,乃大舉攻津。提督聶士成初駐軍城南海光寺,後連日力戰,奪據跑馬礮、八里臺及小營門礮臺。聯軍襲八里臺,士成回救,敵人以綠氣礮進擊,不能敵,士成陣沒,天津遂陷。綠氣礮者,實毒於炸彈,中進裂時,觸其氣立死,爲文明戰爭所禁用。敵人以野蠻視拳匪,故一試之。士成以剿匪落垡堡,殲滅百餘人,被嚴旨中斥。至是,聯軍擊之於前,拳匪乘之於後,進退維谷,遂及於難。而朝旨反責其講求洋操多年,乃竟不堪一試,言之殊堪痛恨云。 命提督宋慶、馬玉崑,總督裕祿恢復天津。天津敗報入京,榮祿入見太后,言「若北京有失,將若何?」太后引賈誼之言,「建三表、設五餌」云云。三表,以信諭,以愛諭,以好諭也;五餌,文繡以壞其目,美食以壞其口,聲樂以壞其耳,高堂遠宇以壞其腹,隆禮厚優以壞其心也。且自詡其外交手段足以對付外人。至是,見聯軍進逼,命宋慶等竭力堵禦。 命李鴻章調補直隸總督,並命其借坐俄國信船由海道北上。鴻章七電言不能速行,且謂太后非改變政策,決不北上。 秋七月,殺吏部侍郎許景澄、太常寺袁昶。景澄、昶三上疏請剿拳菲,懲禍首,載漪剛毅深惡之,及李秉銜至京,奏言捕獲信差,搜出景澄通夷信據,又太后前寄各省密諭,命其但遇洋人即殺,忽使泄漏。近聞陝西署撫臣端方、河南撫臣裕長及蒙古各處所奉諭旨,凡即殺字,皆係保護字,今查出爲袁昶、許景澄所竊改。太后大怒,曰:『二人膽敢擅改諭旨,此何異趙高之所爲?』命車裂以徇。大學士王文韶力諫,始改命立斬。又傳諭殺前侍郎張蔭桓於新疆戍所。昶臨刑曰:『予惟望不久重見天日,消滅僭妄。』監斬官載瀾斥之,昶厲聲曰:『予死而無罪,汝輩狂愚亂國,罪乃當死!予名將長留於天壤,受世人之愛敬!』回顧景澄曰:『人死如歸家耳,奚懼爲?』載瀾徑前擊之,行刑者立下其刃。景澄監刑者爲刑部侍郎徐永燈。 命榮祿兵護各國公使往天津時,荷、奧兩使館及道勝銀行皆被燬,各國兵及教民堅守英、日等館,李鴻章、劉坤一及駐外各使臣屢請保護外使及洋人,言保護各國使臣,正所以自保使臣;保護在華洋人,正所以保護在洋華民,不報。至是,始下令停止攻館。命榮祿派兵護使往津,以阻聯軍前進。並饋使官以西瓜、酒、蔬果、水果等物。先是,數日前,載漪令啓秀函約各使至總署會議,忽帶衛隊,欲誘其離館而要殺之於途也。乃一面致函要請,一面又數往攻擊。至是,護送命下,各使皆不敢應。 授李鴻章爲全權大臣,命電商各國先行停戰,又電令駐俄、英、日本等國使臣楊儒、羅豐祿、李盛鐸分遞國書,求三國調停戰事,蓋狗軍機之請,以爲此乘時取勝之舉,欲列強猜忌雖異也。各國政府閱此電文,皆莫名其故。鴻章覆奏:『請立將妖人正法,罷黜信任邪匪之大臣,安送外國公使至聯軍大營,則臣當力疾冒署顓行。』又言:『接請寄諭,似太后仍無此誠信儀和之意,朝政仍在跋扈奸臣之手,猶信拳匪爲忠義之民。臣無一兵一餉,若冒昧北上,唯死於亂兵妖民,而於國毫無補益也。』 楊村失守,裕祿死之。聯軍既據天津,屢得北京使館乞援之信,遂大舉分路進攻。馬王崑、宋慶、裕祿禦之北倉蔡村、楊村,皆敗退。裕祿逃匿一棺材店,既而用手槍自殺。潰兵四散,搶刦通州張家灣等處一空。 授李秉衡爲欽差大臣前往河西塢(俗呼河西務)視師。秉衡在太后前毅然自任督師,並力言宗廟社稷悶決不至再受恥辱,乃命總統前敵提督張春發、萬本華、夏辛酉,按察使陳澤霖四軍。秉衡請拳匪三千人以從,親拜其大師兄,各持引魂幡、混天大旂、雷火扇、陰陽瓶、九連環、如意鉤、火牌飛劍,擁秉衡以行,謂之八寶法物。至河西塢,收集軍隊,及戰,春發、本化、辛酉皆敗績,死者十之五六,潞水爲之不流。澤霖自武清移營,聞礮聲,全軍悉潰,秉衡走通州。載漪猶命董福祥合拳匪加攻使館,武衛軍、虎神營、神機營,諸軍皆會,誓必破之以雪憤。 殺兵部尚書徐用儀,戶部尚書立山,內閣學士聯元。時聯軍已偪通州,而首禍諸臣,凶燄轉熾,凡所欲殺,太后無不從之。用儀前官軍機時,嘗劾大學士徐桐,徐桐憾之。前溥儁立爲大阿哥,載漪以用儀有不贊成語,亦惡之。至是禍作,時年七十九,臨刑無怨詞,但曰:『彼僭妄者豈能久存?予死於洋人未入京之前,乃所願也!』立山前與載瀾爭妓綠柔有隙,及是,遂傾之以報,謂其廌宅隣於法國教堂,有挖地道接濟洋人食物事。聯元嘗上疏請停攻使館,戶部尚書崇綺責之,聯元拂衣行,遂謂其與袁昶同黨。及赴市,忽見大師兄紅衣冠由宣武門出,怒馬驟馳,騎後拖一巨物至刑所,始知爲立山。縛手足,繫諸馬蹄,面目已毀敗矣。時載瀾疏言通敵諸臣,尚有大學士王文韶,戶部尚書廖壽恆,請並除之以清朝列。太后許之,會聯軍入京而罷。 李秉衛兵潰於馬頸,死之。聯軍追據通州,秉衛督軍規取河曲塢,至武清縣馬頸地方遇敵,張春發等軍均不願戰,相率退擊。秉耳抑葯以死,通州陷。警聞,榮祿入告,君臣相對泣,太后始欲奔熱河。大阿哥請護行,留帝在京與其朋友外國人講和。太后言出走不如殉國,令帝殉之,榮祿力諫,並請太后留京。降諭將載漪等斬首以謝外人。時太后仍希望拳民法術可求北京,故仍猛攻使館,是日召見榮祿八次,載漪五次,軍機五次,皆默對無一言。 聯軍入京,太后挈帝出奔宣化,京師兵匪力攻使館五十七日猶未下,而聯軍已至,董福祥迎戰於廣渠門外,敗績,縱兵大掠而西,輜重相屬於道,俄、日軍遂由東直、齊化二門先入,英兵亦由水門入使館,遂佔平陽、永定兩門。是日黎明,太后扮鄉間農婦,服藍夏布衫,梳漢式頭,令帝后服藍布衣襌。將出奔,傳令妃嬪不許隨行。珍妃入言於太后,謂帝應留京以鎮人心,太后不答,但厲聲命李蓮英推寧壽宮外之大井中。帝目視其寵妃之死而不能救,悲憤之極,至於戰慄。太后拏帝后徒步出宮北門,乘騾車行,至朝陽門,向日本軍懸止戰旗,開城而出。從行者,大阿哥溥儁,慶親王奕劻,喀爾喀親王那彥國,端郡王載漪,莊親王載勛,貝勒載瀾、載瀛、載瀅,貝子毓橚,輔國公載瀾,鎮國將軍載淅、溥侗、溥賢、溥靜、剛毅、那桐、趙舒翹、英年、吳汝梅及各郡堂官十二人,小軍機三人,馬玉崑之兵千人,及神機、虎神芝攻使館無功之旗兵數百。暮至貫市,太后及帝不食已一日矣。睡火炕,無被褥故也,沿途居民鋪戶皆被扈駕兵搶刦一空。及駐蹕時,萬騎千乘,強買強取,更不堪厲目,駕過後,靡有孑遺焉。三日至懷來縣,又四日至宣化府,將軍延茂,祭酒王懿榮、熙元,侍讀寶豐、崇壽,庶常壽富等皆於北京城破時死之,徐桐亦自縊。克勤郡王晉祺爲洋兵所迫,日負死屍,尚書懷塔布爲使館擔糞,至被鞭𥬝。大學士榮祿、尚書崇綺遁至保定,崇綺即自殺。 下詔罪己,並宣布將巡太原。命部院堂官分班速赴行在,又命各督撫整頓邊防,力固疆圍。 八月,太后挈帝至山西大同府。太后一路神色安舒,過雁門關,命暫停,曰:『觀此風景,不禁思及熱河。』又語帝曰:『此次出京,得觀世界,亦頗樂也。』帝曰:『人心當喜樂時自然如此。』俄聞聯軍入宮,掠取財寶,太后甚躁怒,從者皆股栗。 命奕劻回京,會同李鴻章商辦一切事宜。 添派劉坤一、張之洞會同商辦和議,旋因李鴻章請派榮祿會同辦理,太后允之,並准其便宜行事,後因各國不願接待,榮祿遂赴西安行在。 俄兵佔齊齊哈爾,黑龍江將軍壽山死之。初,六月中,海蘭泡俄兵假道齊齊哈爾至哈爾濱保護鐵路,壽山拒之,俄兵遂與璦琿副都統鳳翔開戰,鳳翔陣歿,璦琿失守。七月,俄兵佔大北嶺,是月,至齊齊哈爾,壽山自殺。拳亂初作時,東三省紛紛應之,壽山幕及工部郎中王煥請力禁,壽山大忿,逐煥出署,旋使人追之返,殺之,至是未逾月,壽山亦敗死。 太后挈帝至太原府駐蹕府署,語毓賢曰:『今山西境內無洋人,汝之力也,但聯軍索汝甚急,予或將汝革職以掩外人耳目。』對曰:『臣剿殺洋人時,已預備革職治罪矣。』太后隨親往毓賢戕害洋人之處,並詳詢辦理始末,尋命毓賢開缺,以湖南布政使錫良代之。時錫良以勤王至行在也。 命於陝西省城酌備駐蹕之所,李鴻章奏陳各國之意,屢請回鑾,不允,及聞聯軍欲派一師至山西,乃召對羣臣,討論應否回京,及在南方或中央、陝西遷都問題。榮祿、王文韶、鹿傳霖力請回京,時張之洞有摺至行在,請駕幸湖北之當陽,言地處中央,形勢絕佳,又地名亦吉,可爲重興之兆,蓋天子恆當陽也。太后則謂長安爲古帝王都,山川四塞,集據上遊,都陝便。飭署撫端方即爲預備一切,蓋入鹿傳霖之言,以長安險固,僻在西陲,外兵不易至也。 閏月,懲治縱容拳匪諸臣。聯軍於和議團未開時,先索懲辦主持拳黨之人,德使亦稱德皇訓條,非交出四凶,不准停戰。四凶,端一、董二、莊次,及剛毅也。至是,諭將莊親王載勛,怡亲王溥靜,貝勒載濂、載瀅革去爵職,端郡王載漪撤去一切差使,交宗人府嚴議,輔國公載澤,左都御史英年交該衙門嚴議,大學士剛毅,刑部尚書趙舒翹交都察院吏部議處。 優卹德國公使克林德、日本書記官杉山彬。李鴻章、劉坤一、張之洞、袁世凱合疏稱,廈門英領事電告善聯,謂宜趁德國兵隊未全至華,先降特旨優卹克使,新德使亦語鐵路大臣盛宣懷,惟有光緒皇帝親自電致德國皇帝,將使臣克林德被害切實惋惜,優加禮卹。至是,諭令賜祭一壇,其樞回抵德國,再賜祭一壇,杉山彬卹禮亦如之。 俄兵佔營口及遼陽,旋入盛京,將軍增棋遁至義州。時吉林亦爲俄據,東三省全失。 聯軍佔山海關。 聯軍佔北塘礮臺。 授奕劻爲全權大臣,會同李鴻章妥商議和,劉坤一、張之洞會商辦理。 聯軍至保定,殺布政使廷雍等。初,廷雍信奉拳匪甚力,縱其焚殺西醫及教民數十,至是,英提督賈爾斯率兵至保定,廷雍所部振遠十營不敢出禦。賈爾斯入城,執廷雍及城守尉奎恆、𠫵將王占魁以去,尋皆鎗斃之。 聯軍入永平,執知府重燠故縱拳匪,戕害俄人多名,至是,俄軍執重燠及都司錫光、把總賈桂一,送旅順訊問,由奕劻等婉請於俄使,尋釋歸。 聯軍分兵往易州,封閉皇陵,並派兵看守,又分兵往東陵。 太后挈帝至潼關,自太原啟鑾,行至聞喜縣侯馬地方,剛毅病歿。剛毅目不識丁,皋陶之「陶」字讀本音,獄囚瘐斃之「瘐」字輒改爲「瘦」字,追奔逐北之「北」字誤爲「比」字。上年冬,編修沈鵬奏請誅三凶,有曰:「率天下而叛皇上者,剛毅也。」原疏爲翰林院堂官所疑似「格」字。,遂揭載報端。旋掌院甄別詞臣,𠫵鵬喪心病狂,自甘悖謬,鵬革職,永遠監禁。而綜其生平誤國殃民之罪,則以搜拮東南民財及醖釀拳亂兩大端爲最。至是,知聯軍索之急,恐懼,嘔血死,太后甚婉惜之。 九月,太后挈帝至西安,駐蹕撫署。行在諸事草剏,惟日夕演戲,如在北京時。 加重懲治縱庇拳匪諸臣。奕劻等電行在,略稱:「各使僉指端王罪魁,剛毅、趙舒翹亦釀禍首惡,要求嚴辦。前德皇已明言執政王大臣並各省大小臣工均應論死罪,始足以折服各國之心。聞德統帥瓦德西(一作「華德司」)仍令聯軍往攻保定,難保不意存追襲,必欲得禍首而甘心。此時能自行懲辦,當可止其西犯。」至是,命載漪革爵,與載勳、溥靜、載瀅同交宗人府圈禁。載濂革爵,載瀾、英年降調,趙舒翹革職留任。毓賢革職,發極邊充當苦差。 冬十月,命甘肅提督董福祥革職留任,帶兵馳回甘肅,扼要設防。時聯軍堅索治福祥罪,太后因其帶兵,未敢加罪,僅命還甘肅原籍。 十二月,允奕劻、李鴻章電奏和議大綱十二條:

 一、戕害德使一事,由中國派親王專使至德,代表皇帝慚悔之意,並於被害處樹立銘德之碑。
 二、嚴懲肇禍諸人(斬決、賜死、永禁及永不起用,凡百餘人。)及昭雪上年力駁殊悖諸國義法極惡之罪被害各員(許景澄等)。其戕害陵弱各國人民之城鎮,五年內不得舉行文武各攷試。
 三、戕害日本書記生事,中國必須用優榮之典以謝日本政府。
 四、污瀆發掘各國人民墳墓之處,建立碣碑(當付各費銀兩。京師一帶每處一萬兩,外省每處五千兩)。
 五、軍火及專爲製造軍火之材料,不準運入中國(自本年七月初四日起,禁止進口二年)。
 六、中國允賠補各國人及爲外國執事之中國人身家財產所受公私各虧(共海關銀四百五十兆兩)。
 七、各國常駐兵隊,護衛使館(中國民人概不準在界內居住)。
 八、京師至海邊須留出往來暢行通道,大沽等礮臺一率削平。
 九、由各國駐兵留守通道(係黃村、郎坊、楊村、天津、軍糧城、塘沽、蘆臺、唐山、淶州、昌黎、秦皇島、山海關)。
 十、張貼永禁軍民人等仇視諸國之諭旨(定兩年之久在各府、廳、州、縣張貼永禁仇視諸國各會之旨)。
 十二、改變總理各國事務衙門,並各國駐使覲見皇帝禮節。

末言以上各款,若非中國國家允從,足適各國之意,難許有撤退京畿一帶駐紮兵隊之望。約成,奕劻等據以入告,且奏言:「各國詞意決絕,不容辯論。宗社陵寢,均在他人掌握,存亡之機,間不容緩,請速決。」疏入,太后猶欲減輕載漪諸人罪,並不認啟秀、徐承煜爲有罪,又大不滿意徐用儀五人之昭雪,而張之洞復上封事,於各條款著署辦難。太后信之,仍命奕劻等設法磋商,尋覆奏言。俄外部維持密告駐使楊儒:「若議不成,聞各國有開春截泰運道,或另立政府之謀(時外人有擁戴李鴻章或袁世凱之意),恐禍致莫測,至張之洞所駁各節,皆屬無理取鬧,不料張督在外多年,稍有閱厯,仍是二十年在京書生之習,蓋局外論事易也。」至是,始照允。

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