清史紀事本末自立軍の失敗(自立軍之失敗)

要約

光緒二十六年秋七月、秦鼎彝が安徽の大通で兵を挙げたが勝てず日本へ逃れた。康有為らは日本で保皇会の名で華僑から巨金を募り、瀏陽の唐才常に上海で同志を集めさせて内応とし、林圭も漢口の衆をもって応じた。鼎彝は水師を説き、巡撫衛隊管帯の孫道毅と結んだが、許鼎霖に探知されて巡撫王之春に密告され、急ぎ塩局を占領したが邱顕銘らの兵に敗れた。汪鎔は白話報で民智を開き、政変の後は鼓吹を力め、会党を結合して発難の地とすべく、湖南の志士を定王台に大会したが資金に窮し、漢口で期を約した。南路は楊暨、西路は何来保が主った。大通の失敗後、湖南巡撫兪廉三が張之洞の意に迎合して党人を捜索し、兄の汪鑑が劣紳の王先謙に密告したので、鎔は薬をあおって死に、瑤も下獄し、鑑は知県に保挙された。

唐才常は漢口で起兵を謀って殺された。長沙の畢永年は会党と結び、日本で孫文らに会って香港で興中会を組織し数省を鼓動したが、軍資に乏しく発せなかった。才常はその資金で譚嗣同の旧部下を連絡し、永年と勤王か光復かを一日一夜論じて合わず、永年は慟哭して去り僧となった。才常は上海に正気会を組織し、のち自立と改めて張園に国会を開いた。数千の志士は容閎を会長、厳復を副会長、才常を総幹事に公推し、林圭・沈藎が幹事となった。圭は漢口に自立国会を設けて富有票を配り、旅館を会友の寄宿所とし、会章に満洲を国家と認めぬと記した。五軍を分立して大通を鼎彝、安慶を田邦璿、常徳を陳猶竜、新堤を藎、漢口を圭が統べ、才常を督弁として数十営を募った。

部署が整わず期を緩めたが、長江の防備で知らせが大通に達せず、大通はすでに事を起こしており呼応が間に合わず潰え、期はさらに遷って二十七日の夜に事は敗れ、才常・圭・李炳寰・邦璿ら十三人が捕らえられ、翌日さらに七人が殺された。才常はかつて張之洞に両湖の独立擁立を諷し、之洞は熟知しながら決せず、才常が絶交を示して排外するならまず之洞を殺すと揚言し、武昌に拠る謀が知れると捕らえた。才常は獄壁に「余れる好頭顱を以て故友に酬い、真の面目無くして群魔に見ゆ」と題した。傅慈祥ら四人は日本留学の陸軍学生で休暇中に謀に与って死んだ。挙国が声を同じくしたのは永年の十余年の奔走の力であった。

これより湖北では嫌疑に渉る者百余人が死に、両湖は騒然となった。湖南では汪鎔のほか唐才中・蔡鍾浩・何来保ら百余人が死に、楊暨のみ免れた。李運航は炳寰への家書を証拠に処断され、舒閏祥は士は殺すべきも辱むべからずと言って殉じた。沈藎は新堤で起ち、崇陽・監利・臨湘・沅州・湘潭が呼応したが中軍が失われて潰え、藎は武昌へ走った。二十九年六月、藎は北京で捕らえられ殺された。天津で連合軍に凶徒の名と罪状を致して載勛・載漪らを誅殺流竄させ、また聯俄党の密約を日本の新聞に載せたので、復官を望む慶寛と呉式釗が李蓮英を通じて密告した。太后は再審に及ばず打ち殺せと命じ、鞭打つこと四時間、なお死なぬので縄で頸を絞めた。輿論は沸き、上海の愚園に千人が追悼し、英外相ランズダウンも上院で論じ、西洋の新聞はその死は日露の開戦にも増して人心を震動させたと言った。

編者はいう、自立軍は世にいう勤王の師である。会章に忠君愛国の実を講ずるとあるので保皇の証拠と指されるが、序には頭を腥羶に低れ奴隷に甘んじているといい、我が族類でなければその心は必ず異なるともある。内地は風気が開けず民権や変法を聞けば顔色を変えたので、唐氏は忠君愛国の名に藉らなければ号召できぬと考え、畢永年氏や章炳麟氏の詰問を顧みなかった。林圭氏・秦鼎彝氏らの天与の才が軽々しく結びつけられるはずもない。まして後に民軍を興して漢族を光復した者は自立軍の軍将から出たのである。諸同人の隠れた志は、急ぎ明らかにして天下に示さずにいられようか、と。

年表

光緒二十六年(1900年)から二十九年(1903年)まで、唐才常を督弁とする自立軍の挙兵と壊滅を記す。康有為の保皇会の資金を背景に、唐才常が上海で正気会・国会を組織し、林圭が漢口に自立国会を設けて五軍を分立したが、秦鼎彝の大通挙兵が先に露見して敗れ、汪鎔は兄に密告されて自殺した。湖広総督張之洞は擁立の誘いに応ぜぬまま突如踏み込み、唐才常・林圭・李炳寰・田邦璿ら二十人を捕らえて殺し、両湖で二百人余りが死んだ。生き延びた沈藎も新堤で敗れ、北京で聯俄密約を暴露したため二十九年に杖殺され、その惨死は内外の輿論を大きく揺るがした。

年表(2件)

現代語訳全文

西暦1900年 徳宗光緒二十六年

  • 秋七月、秦鼎彝が安徽の大通で兵を挙げたが、勝つことができず、日本へ逃れた。鼎彝は湖南長沙の人で、一名を郵、また俊傑ともいった。前年の秋、日本へ渡って遊学し、この年の二月に上海へ帰った。当時、康有為らは日本に居て、保皇会の名義で海外の華僑から巨額の金を募り、劉陽(「瀏陽」の誤りか。唐才常の出身地)の唐才常を上海で同志を集めさせて内応とし、大挙を図ろうとしていた。一時その声勢はすこぶる人心を震動させ、湘陽(後文では湘陰)の林圭も奕(「亦」の誤りか)漢上(漢口一帯)の衆に因ってこれに応じた。
  • 鼎彝はそこで上海から安徽の大通に至り、水師の弁卒(下級の武官と兵卒)を働きかけて、共に挙事を図り、また安徽巡撫の衛隊管帯である孫道毅と深く結び合い、ひそかに軍大(「軍械」の誤りか)をこれに送り与えて、呼応の計とした。まさに漢上と期日を約して同時に発しようとしたところ、大通保甲局委員の許鼎霖に探知され、巡撫の王之春に密告されて、戒厳の令が下された。
  • 彝は事が漏れたのを見て、あわただしく事を起こし、水師を督率して塩局を占領した。局員の銭綬甫は逃げ、防営管帯の蕭鎮江は中立を守った。之春は急報を聞き、営官の邱顕銘を遣わして所部を率いて大通に至って防ぎ禦がせ、また蕪湖防営統領の李本欽に、近くから大隊を率いて大通に来させ、軍勢を助けさせた。鼎彝は兵を指揮して搏闘すること甚だ力を尽くしたが、ついに兵が少なかったために敗れ、残った衆は四散し、鼎彝はわずかに身一つで免れて、そのまま日本へ走った。
  • 汪鎔が湖南で挙事を謀ったが、事が漏れて自殺した。鎔は安徽の人で、幼くして父の任官に従って湖南に遊んだ。ドイツが膠州・澳(膠州湾一帯)を占拠して以来、外患が日ごとに急なのを感じ、蕪北に白話報を創設して、民智を開き通じさせることを自らの任とした。まもなく政変が起こり、朝廷の士で殺された者は六人、連座に及んだ者は甚だ多かった。鎔は憤然として言った。「康某は日ごとに変法を言い、清の朝廷に忠を尽くしたのに、それでも満人に容れられず、みだりに誅殺・流竄に遭った。天下の事はまだ為しうるだろうか」。そこで鼓吹することいよいよ力めた。
  • この年の五月に及び、拳匪の乱が起こって列強と釁(あらそい)を開き、大局はいよいよ危うくなった。当時、唐才常は上海で破壊を唱え、林圭らは漢皋(漢口)で挙事を謀っていた。鎔はしきりに湖南の会党を結合して発難の地としようと思い、湖南省の志士を定王台に大会したが、経済(資金)の欠乏に掣肘されて大いに事を設け施すことができず、あらためて漢口に赴いて挙兵の期日を約した。当時、南路を主るのは清泉の楊暨、西路を主るのは武陵の何来堡で、いずれも呼応を謀っていた。
  • まもなく大通が失敗し、湖南巡撫の兪廉三は総督張之洞の意向に迎合して、党人を大いに捜索した。鎔の兄の鑑は県佐として長沙で欠員を待っており、昇進に熱中していたので、劣紳の王先謙に密告し、鎔と連なる者をことごとく列挙して漏らすところがなかった。先謙はこれを廉三に上げ、そこで捕吏(底本「緹綺」、「緹騎」の誤りか)が四方に出た。鎔はちょうど漢口から帰ったところで、捕らえられると聞き、初めて兄に売られたと知って、薬をあおって死んだ。さらにその次兄の瑤も逮捕され、獄に下された。鑑は功を叙せられて知県に保挙された。
  • 唐才常が湖北の漢口で起兵を謀ったが、事が発覚して殺された。これより先、長沙の畢永年は幼くして衡陽の王氏の遺書を読み、慨然として種族(民族)の思想を具えた。弱冠の後、すぐに郷中の会党と結び合い、後日これを利用する地とした。瀏陽の潭嗣同(「譚嗣同」の誤りか)はその人となりを深く敬い、交わりを結んだ。政変の数日前、永年は北京に至って政局を観察し、康有為を訪ねたが、話が合わず、そこで書を嗣同に送り、利害を歴々と陳べて立ち去るよう勧めた。嗣同は果たさず、永年はそこで東へ渡った。嗣同はついに禍に遭った。
  • 永年は日本に至り、広東香山の孫文、日本人の宮崎寅蔵に会い、語り合っていずれも大いに意気投合し、やがて日本人の平山周を伴い(底本「揩」、「偕」の誤りか)中国に帰って運動し、湖南省に出入りすること三度に及んだ。各会党の首領とともに香港に赴き、興中会を組織した。湖南・湖北から長江一帯、両広・福建・浙江の間まで、みな彼に鼓動されて、期を定めて大挙しようと謀ったが、軍資と武器に乏しかったため、遅れて発せなかった。
  • 当時、有為は保皇会の資金を得ており、才常はその資に因って、嗣同の旧部下である師襄らを連絡し、南方で発難して嗣同のために復讐しようと考え、別に組織するところがあった。永年もまた才常と〔宗旨が〕反していたので(底本「永年亦才常反」、字の脱落か)、往ってこれを説き、勤王か光復かをめぐって互いに一日一夜論じ合ったが、ついに宗旨が合わず、永年は慟哭して去り、〔世を〕棄てて僧となり、広東の普陀に居た。その部下はそこで才常に帰した。
  • 〔才常は〕ひそかに長江の上流・下流に布置して武漢を窺い、これに乗じて襲い取り、根拠地にしようとした。才常はさらに上海で正気会を組織して機関とし、やがて会名を自立と改め、張園で国会を開いた。至った志士は数千人、香山の容閎を会長に、福建候官の厳復を副会長に、才常を総幹事に公推し、林圭および長沙の沈藎はいずれも幹事となった。圭は湘陰の人で、才常の弟子であり、また永年の親友でもあった。
  • 初め日本に遊学し、前年の冬に帰国したが、同行したのは慈利の李炳襄(後文では炳寰)・田邦璿、武陵の蔡鍾浩、長沙の秦鼎彝、および才常の弟の才中の合わせて五人で、湖南の運動に着手することを建議した。日本人一人を連れ、学校あるいは新聞社・訳書局を建て、ひそかに自立会の機関部を設けようとしたが、実行できなかった。
  • 圭はそこで漢口に至り、自立国会を設け、富有票を配布し、自立軍を起こし、地区を分けて旅館を設け、会友やその他の党徒が往来し寄宿する場所とした。こうして東南独立の基礎はすでに立った。その旅館は、漢口にあるものを賓賢公、襄陽のものを慶賢公、沙市のものを制賢公、荊州のものを集緊公、岳州のものを益賢公、長沙のものを招賢公といった。会章を刊行して、新たに自立の国を造ると称した。その規条には「満洲を国家と認めない」および「本国会は深く危亡を懍れる」といった語があった。
  • 五軍を分立し、大通を前軍として鼎彝がこれを統べ、安慶を後軍として邦璿が統べ、常徳を左軍として竜陽の陳猶竜が統べ、新堤を右軍として藎が統べ、漢口を中軍として圭が自ら統べた。そして才常を督弁に推し、途を分けて兵勇数十営を増募した。上流は四川の宜昌(宜昌は湖北、底本のまま)に界し、下流は江西の武穴(武穴は湖北、底本のまま)に界し、南は湖南の荊州(荊州は湖北、底本のまま)に界し、北は漢の襄陽(「漢」は湖北の意か、底本のまま)・随州・当陽・応山・麻城に界し、中路は沔陽・新堤・沙洋・嘉魚・蒲圻・崇陽・監利で、みなその勢力範囲の及ぶところであった。
  • 諸事がほぼ定まったとき、北方で拳乱の事が起こった。圭はこの時機を利用して起とうと思い、才常に上海を発つよう促した。才常は漢口に至り、当月十五日に大挙する期を定めたが、部署が整わないので、これを緩めた。ところが長江の防備が厳しく、軍の知らせが大通に達せず、期日になって大通はすでに事を起こしており、後方の路が呼応に間に合わず、援けなく潰えた。その後たびたび期日を遷し、二十五日となり、二十九日となったが、そこで事は敗れた。ときに二十七日の夜であった。
  • 才常・圭・炳寰・邦璿および長沙の瞿河清・向聯陞、沅陵の王天曙、湖北潜江の傅慈祥、広東香山の黎科・黄自福、福建漳浦の鄭保晟、直隷宛平の蔡成煜、同時に繋がれた者は十三人であった。翌日さらに七人が捕らえられ、みな殺された。
  • 才常が漢口にいたとき、日本人に藉りて湖広総督の張之洞に殷勤を通じ、自立軍が之洞を擁立して両湖を挙げて独立を宣言させようと、それとなく諷したことがあった。之洞は先にこれを頷いていたので、自立軍が兵力を厚く集め、しばしば長江を渡って兵を点検したときも、また大通前軍の敗北がこのときすでに十余日経っていたときも、之洞はもとよりみな熟知していながら発覚させなかった。しかし結局は疑い迷って自ら決することができなかった。才常は之洞にはもはや望みがないとして、之洞に絶交を示し、外国人に揚言して言った。「もし張之洞が満廷の偽りの諭旨を奉じて排外するなら、私は必ずまず張之洞を殺し、外国人を保護する事を自ら任じよう」。この語はしだいに之洞の耳に入った。継いで、才常らの為すところが自分と全く反対であり、しかも漢口在留の各国領事に布告し、武昌に拠って独立しようとしていることを探知し、之洞はそこで突然事を発して彼を擒えた。才常は獄の壁に詩を題し、その中に「余れる好頭顱(この首)を以て故友に酬い、真の面目無くして群魔に見ゆ」の句があった。
  • 圭の人となりは沈着で猛く、条理があり、軍中の一切を主宰して、連絡の力が甚だ大きかった。その国を謀る忠、経てきた境遇の艱難は、とりわけ同志の中でも傑出したものであった。炳寰は志と趣向が弘大で、文思は敏捷で豊かであり、圭に従って軍中の文書を扱い、事に遇えば助言・立案が颯爽としており、記室(書記)の才であった。邦璿は気魄がとりわけ雄大で、学識は流俗を絶しており、安慶の計画が失敗してから漢口に退き、詩数章を遺した。これを読めばみな凜々として生気があった。慈祥・科・保晟・成煜(底本は「慈祥、科保、晟、成煜」と区切る。黎科・鄭保晟の誤りか)の四人は日本に留学していた陸軍学生で、当時、夏期の休暇で帰って謀に与り、幾日もたたずに難に及んだ。
  • 永年は宗旨としては急進を主としながら方略に富み、人と交わるには誠を開いて公を布いたので、多くの賢者が喜んでその用となった。漢口の事が起こる以前、一人が唱えて国を挙げて声を同じくしたのは、みな永年一人が十余年の間に奔走し呼号した力によるものであった。
  • これより湖北では人を殺さない日がなく、護軍営の二百人を漢口の鉄政局に駐屯させ、行跡がいささかでも嫌疑に渉る者はみな免れず、およそ百余人が死んだ。湖南の数もこれに見合っていた。思うに湖南巡撫の兪廉三が之洞の意を承けて、劣悪な武弁である劉俊棠・楊明遠・熊海門や劣悪な官員の王祖蔭らを任用し、功を求め利を狙って、思うままに捜索したので、同時に両湖は騒然となった。
  • 湖南で事に死んだ者のうち最も著名なのは、汪鎔のほか、唐才中・蔡鍾浩・何来保・方成祥・徐徳・姚小琴・李生芝・汪楚珍・李英・徐崑・陳保南・易瑞林・李広順・莫海楼・長庚・李如海・沈竹亭および按察使の幕僚である李運航で、並び死んだ者もまた百余人であった。ただ楊暨のみが逃れて免れた。
  • 才中は、その兄の才常が漢口で逮捕された際に難を脱し、新堤へ奔り、まもなく湖南に入って軍を集め、ついに難に及んだ。鍾浩は事を処理するのに機敏で、初めは才常に従って漢口で部署に就き、事が敗れて武陵に帰り、まさに謀り画するところがあったが、たちまち逮捕された。来保は辰州で捕らえられ、檻車で長沙に送られて殺された。生芝は漢口の事が敗れた後、さらに慈利で沙市の会衆を連合して十余営を成し、再挙を図った。当時「慈利官班子」という呼び名があり、その勢力範囲の大きさはおおよそ察せられる。運航は漢口の寓居を検査され、証拠として、彼が炳寰に寄せた家書が湖南への進兵の事に言及して「一路進み来たらば当に王者の師たるべし、殺戮が過ぎてはならない」と言っているのを押さえられ、ついにこれによって判決が定まった。年を越して廉三はさらに長沙の舒閏祥を名指しで捕らえるよう命じた。閏祥はこれを聞いて憤って言った。「士は殺すべきであっても辱めるべきではない」。そして薬を飲んで殉じた。
  • 沈藎が湖北の新堤で起兵し、近隣の崇陽・監利および湖南の臨湘・沅州・湘潭が各々起って応じたが、みな敗れた。藎は新堤にいて、漢口がぐずついて事を仕損じたと聞き、急ぎ新堤で事を起こした。すると崇陽・監利および湖南の臨湘・沅州・湘潭などの邑が群がり起って呼応した。当時すでに中軍が失われていたため人心は散り乱れ、軍はついに潰えた。黄南陽・李寿金・曾広文・王昌年はみな捕らえられて死んだ。藎は武昌へ走った。

西暦1903年 徳宗光緒二十九年

  • 夏六月、沈藎が京師で捕らえられ、命によりその場で杖のもとに打ち殺された。藎は新堤の失敗の後、中央での運動に着手しようとして北京に走り、天津に至った。当時、聯合軍は津沽に屯集しており、藎は名刺を通じて聯合軍の諸将士に謁し、なかでも日本の将帥ととりわけ親しく交わった(底本「尤治」、「尤洽」の誤りか)。奉魁の案件に藉りて満族に報復し尽くそうと謀り、そこで諸々の凶徒の名およびその罪状を条を分けて列挙し、聯合軍に致した。これによって載勛・啓秀・載漪・載瀾の輩は、それぞれ誅殺され流竄されてほぼ尽き、聞く者は快と称した。
  • 藎はすでに北京に住むこと二年になっていた。ときあたかも聯俄党(ロシアとの連携を唱える一派)がロシア人と北京で密約を結んだ。藎はこれを探知し、ことごとく日本の各新聞に掲載させた。これにより政府は東京の留学生および各友邦から詰責を受けることになった。
  • 内務府郎中の慶寛という者があり、以前、身元が不明朗であるとして御史の鍾徳祥に弾劾され、その家を籍没された。職を失ってから日々復官を思ったが得られず、かつて劉学詢に随って海外に至り、康有為を捕らえようと謀ったが、これも成らなかった。また検討の呉式釗も、初めは自ら新党に附いたが、後に沈鵬の事に連座して職を奪われた。二人はもとより藎を知っており、彼を陥れて復職を図ろうとし、そこで互いに協力して謀り、藎の以上の三事を告発した。まずこれを湖広総督の張之洞、前の駐日公使の李盛鐸に相談し、しかる後に権勢ある宦官の李蓮英を通じて密告した。
  • 即日、旨が伝えられ、歩軍統領が工巡局と協同して、城内の三条胡同で藎を捕らえた。獄に上ると、太后は再審の上奏に及ばぬとして、打ち殺せと命じた。そこで竹の鞭でその背を鞭打つこと四時間の長きに及び、血肉は飛び散り、惨酷なさまは言いようもなかったが、それでもまだ死なないので、縄でその頸を絞めてようやく絶命した。ときに当月の初八日であった。
  • 藎が惨死してから、国中の輿論は大いに沸き立った。上海の人士は愚園で大追悼会を開き、至った男女は千人に及んだ。外国人もまた大いに不平として、中国政府がこのように野蛮では、各国は実に平等に相対することが難しく、ただ強硬な手段によって恐れさせるほかない、と考えた。そして外務部には各国駐在の公使からの警報が次々に届き、各国政府はこの事を見て、中国で高位に居る者が長く安んじていられない情勢になると予測しており、しかも某々の国は庚子の年に匪を庇った旧案を重ねて蒸し返し、当時の首謀者で幸いにも罪を免れた者を探し出して、この時に改めて罪を正そうとしている、と伝えた。英国外務大臣のランズダウン(藍斯唐)はさらに上院でこの事の非を論じた。それゆえ各西洋新聞の論はみな、沈藎の死が人心を震動させたことは、日露の開戦にも増すものだ、と言った(底本「尤當」、「尤甚」の誤りか)。

史論(編者曰)

  • 編者は言う。自立軍は世人のいわゆる勤王の師である。その会章に「務めて海内の仁人志士を合わせ、共に忠君愛国の実を講じ、それによって時の艱難を済う」とあるので、人はこれを保皇の動かぬ証拠だと指した。しかしその序には「頭を腥羶(異民族)に低れ、自ら奴隷に甘んじている」とあり、また「我が族類でなければ、その心は必ず異なる」ともある。その軍中の真相が究極どのようなものであったかは、ただその言葉づかいの間を見るだけでも、すでに隠々と流れ出ているものがある。
  • 思うに平らかな心で論ずれば、当時、内地の風気はまだ開けておらず、民権や変法を談ずるのを聞けば、顔色を変えて逃げ出さない者はなかった。唐氏はもとよりそれを知っており、中国には数千年の習慣があり、満清には三百年にわたる馴致と服従があるのだから、忠君愛国という名目に藉らなければ天下に号召するに足りない、と考えた。それゆえ当時の人傑である畢永年氏や余杭の章炳麟氏らは、みな常にこの点をもって反駁し詰問したが、唐氏は顧みなかった。
  • そうでなければ、当日の軍中の健将である林圭氏・秦鼎彝氏・汪鎔氏・沈藎氏はみな天から与えられた才であるのに、どうして軽々しく人にまるめこまれて結びつけられようか。まして、この後に特に民軍を興して我が漢族を光復した者は、まさに自立軍の軍将から出たのである。とすれば、唐氏および当年その事に当たった諸同人の隠れた志は、どうして急ぎ掲げ明らかにして天下に示さずにいられようか。
原文(底本)
德宗光緒二十六年,秋七月,秦鼎彞起兵於安徽之大通,不克,走日本。鼎彞,湖南長沙人,一名郵,又名俊傑。上年秋,東渡日本遊學,是年二月返滬。時康有爲等居日本,以保皇會名義募集海外華僑巨欵,使劉陽、唐才常在滬招集同志,為內應,將圖大舉,一時聲勢頗震動,湘陽林圭奕因漢上之眾以應之。鼎彞乃自滬至皖之大通,運動水師弁卒,共圖起事,並與皖撫衛隊管帶孫道毅深相結納,密輸軍大予之,以為響應計。方與漢上約期並發,為大通保甲局委員許鼎霖偵悉,告密巡撫王之春,下令戒嚴。彞見事洩,倉猝發難,督率水師,佔領鹽局,局員錢綬甫逃,防營管帶蕭鎮江守中立。之春聞警,派營官邱顯銘率所部至通捍禦,並令蕪湖防營統領李本欽就近率大隊來通,以助軍勢。鼎彞揮兵搏鬬甚力,卒以兵單寡敗績,餘眾四散,鼎彞僅以身免,仍走日本。 汪鎔謀起事於湖南,事洩自殺。鎔,安徽人,幼從父宦遊湖南。自德據膠、澳,感於外患日亟,剙設白話報於蕪北,以開通民智自任。未幾,政變,朝士被殺者六人,株連甚眾,鎔憤然曰:「康某日言變法,為清廷效忠,尚不見容於滿人,橫遭誅竄,天下事尚可為乎?」因鼓吹益力。及是年五月,拳匪亂作,開釁列強,大局益危。時唐才常倡破壞於滬上,林圭等謀舉事於漢臯,鎔亟思結合湖南會黨,以為發難地。大會湘省志士於定王臺,以掣於經濟之缺乏,不能大有所設施,復赴漢約師期。時主南路者,為清泉楊暨,主西路者為武陵何來堡,均謀響應。未幾,大通失敗,湘撫俞廉三迎合督臣張之洞意旨,大索黨人。鎔兄鑑以縣佐候缺長沙,熱中於進,乃告密於劣紳王先謙,凡與鎔有連者,悉羅列無遺。先謙上之廉三,乃緹綺四出,鎔方自漢歸,聞被捕,始知為兄所賣,仰藥死之。復逮其次兄瑤,下之獄。鑑敘功,得保知縣。 唐才常謀起兵湖北之漢口,事發被殺。先是,長沙畢永年幼讀衡陽王氏遺書,慨然具種族思想。弱冠後,即結納鄉中會黨,以為異日利用地。瀏陽潭嗣同深敬其人,因與締交。政變之前數日,永年至北京,觀察政局,造康有為,語不合,乃為書抵嗣同,厯陳利害,勸之行。嗣同不果,永年遂東渡。嗣同卒及於禍,永年至日本,晤廣東香山孫文、日本人宮崎寅藏,與語,皆大合,旋揩日人平山周回華運動,出入湘省者凡三次。偕各會黨首領赴香港,組織興中會。自湘、鄂至長江一帶,兩粵、閩、浙之間,皆為所鼓動,方謀剋期大舉,以乏餉械故,遲遲未發。時有為得保皇會款,才常欲因其資,聯絡嗣同舊部師襄等發難南方,為嗣同復仇,方別有所組織,永年亦才常反,因往說之,以勤王光復相與辨論一日夜,卒以宗旨不合,永年慟哭而去,棄為僧,居粵之普陀,所部遂歸於才常。密布長江上下遊,窺武漢,欲因而襲取之,為根據地。才常復組織正氣會於上海,以為機關,尋易會名為自立,開國會於張園,志士至者數千,公推香山容閎為會長,福建候官嚴復為副會長,才常為總幹事,林圭及長沙沈藎皆幹事。圭,湘陰人,為才常弟子,而亦永年摯友也。初遊學日本,上年冬返國,偕行者,慈利李炳襄、田邦璿,武陵蔡鍾浩,長沙秦鼎彞,及才常之弟才中共五人,建議欲著手湖南之運動。挈一日本人,擬建立學校或報館、譯書局,暗設自立會機關部,不果行。圭乃至漢口,設自立國會,散放富有票,起自立軍,分地段以設旅館,為會友及其他黨徒往來寄宿之處,而東南獨立之基礎已立。其旅館在漢口者曰賓賢公,襄陽曰慶賢公,沙市曰制賢公,荊州曰集緊公,岳州曰益賢公,長沙曰招賢公。刊布會章,稱新造自立之國。其規條有不認滿洲為國家,及本國會深懍危亡等語。分立五軍,以大通為前軍,鼎彞統之;安慶為後軍,邦璿統之;常德為左軍,龍陽陳猶龍統之;新堤為右軍,藎統之;漢口為中軍,圭自統之。而推才常為督辦,分途增募兵勇數十營。上遊則界四川之宜昌,下遊則界江西之武穴,南則界湘之荊州,北則界漢之襄陽、隨州、當陽、應山、麻城,中路則沔陽、新堤、沙洋、嘉魚、蒲圻、崇陽、監利,皆其勢力範圍所及。諸事粗定,值北方拳亂事作,圭思利用此時機而起,促才常發上海。才常至漢,定期是月十五日大舉,以部署未整,緩之。而長江防範嚴,軍耗不能達大通,至期而大通已舉事,以後路不及響應,無援而潰。後屢遷期,而二十五,而二十九,至是,事敗,時二十七夜也。才常、圭、炳寰、邦璿及長沙瞿河清、向聯陞、沅陵王天曙、湖北潛江傅慈祥、廣東香山黎科、黃自福、福建漳浦鄭保晟、直隸宛平蔡成煜,同繫者十三人。翌日又捕獲七人,皆見害。方才常之在漢也,嘗藉日本人爲通殷勤於鄂督張之洞,諷以自立軍將擁之挈兩湖宣言獨立。之洞先頷之,故當自立軍之厚集兵力,時時過江點兵。又大通前軍之敗,距是時已十餘日,之洞固皆熟聞之而不予發覺,然卒狐疑莫能自定。才常以之洞無復可望,乃示絕於之洞,而揚言於外人曰:『倘張之洞奉滿廷之僞諭以排外(是年五月,聯軍攻大沽,之洞電奏北京言:『臣應不帶兵北上禦敵,恭候朝命。』 後爲江督劉坤一阻止。),吾必先殺張之洞,以自任保護外人之事。』語浸聞於之洞。繼又偵知才常等之所爲與己絕反對,且將布吿在漢各國領事。據武昌獨立,之洞乃突發而擒之,才常題詩獄壁,中有『賸好頭顱酬故友,無眞面目見羣魔。』之句。圭爲人沈鷙有條理,主持軍中一切,交通之力甚大。而其謀國之忠,厯境之艱尤,爲同人中之傑出者。炳寰志趣弘偉,文思敏瞻,從圭治軍書,遇事贊畫翩翩,記室才也。邦璿魄力尤雄,學識絕流俗,自安慶計畫失敗,退至漢口,遺詩數章,讀之皆凜凜有生氣。慈祥、科保、晟、成煜四人乃留學日本陸軍學生,時以暑假歸與謀,不數日而及於難。永年宗旨主急進而多方略,與人交,開誠布公,故羣賢樂爲之用。漢事未起以前,一夫倡說舉國同聲,皆永年一人十餘年間奔走呼號之力也。自是湖北殺人無虛日,以護軍營二百人駐漢口鐵政局,形跡之稍涉嫌疑者皆不免,約死百餘人。湖南數亦稱是,葢湘撫兪廉三承之洞旨任用劣弁,劉俊棠、楊明遠、熊海門劣員王祖蔭等,要功覬利,恣意搜索,同時兩湖騷然。其在湖南死事之最著稱者,汪鎔外,爲唐才中、蔡鍾浩、何來保、方成祥、徐德、姚小琴、李生芝、汪楚珍、李英、徐崑、陳保南、易瑞林、李廣順、莫海樓、長庚、李如海、沈竹亭及臬幕李運航,騈死者亦百餘人,惟楊暨走免。才中自其兄才常被逮於漢口以脱於難奔新堤旋入湘以集軍遂及於難鍾浩治事機警始從才常部署於漢上事敗返武陵方有所謀畫忽被逮來保被執於辰州檻送長沙殺之生芝於漢上事敗之後復於慈利聯合沙市會衆成十餘營圖再舉時有慈利官班子之號其勢力範圍之大可以槪見運航以漢寓檢查信據得其寄予炳寰家書言及進兵湖南事有曰一路來當爲王者之師毋得殺戮過甚遂以是定讞逾年廉三復名捕長沙舒閏祥閏祥聞之憤言曰士可殺不可辱因飲藥以殉 沈藎起兵於湖北之新堤附近之崇陽監利及湖南之臨湘沅州湘潭各起應之皆敗績藎在新堤聞漢上以迂緩失事亟起發難於新堤而崇陽監利與湖南臨沅潭等邑羣起響應時因中軍已失人心渙散師遂潰黃南陽李壽金曾廣文王昌年皆被執死之藎走武昌。

二十九年,夏六月,沈藎被執於京師命立斃杖下藎自新堤失敗之後欲著手中央之運動乃走北京至天津時聯軍屯聚於津沽藎通刺謁聯軍諸將士而與日帥尤治謀藉奉魁案以盡復滿族因條列諸凶名及其罪款致諸聯軍於是載勛啟秀載漪載瀾之徒分別誅竄幾盡聞者稱快藎旣居北京二年時值聯俄黨與俄人訂密約於北京藎偵知之悉爲揭載於日本各新聞於是政府備受東京留學生及各友邦之詰責有內務府郎中慶寬者前以身家不清爲御史鍾德祥所劾籍其家旣落職日思復官不得嘗隨劉學詢至海外謀捕康有爲亦不獲又檢討吳式釗初亦自附於新黨後以沈鵬事牽連禠職二人固皆識藎欲陷之以圖開復乃相與協謀發藎以上三事先商之鄂督張之洞前駐日使臣李盛鐸然後因權閹李蓮英以吿密即日傳旨步軍統領協同工巡局捕藎於城內三條胡同旣上獄太后命毋庸覆奏捶斃之乃以竹鞭鞭背至四時之久血肉横飛慘酷萬狀而猶未死以繩勒其頸始絕時月之初八日也自藎慘死後國中輿論大譁上海人士大開追悼會於愚園男女至者及千外人亦大不平以爲中國政府如此野蠻各國實難以平等相待惟有以強硬手段使之恐懼而外部疊接駐紮各國使臣警報謂各國政府觀於此事逆料中國居大位者將有不得久安之勢且有某某等國將重翻庚子庇匪舊案索當時罪魁之倖免者於此時再行正罪英外部大臣藍斯唐更於上議院論及此事之非故各西報持論皆謂沈藎之死震動人心較之日俄開戰尤當。

編者曰:自立軍,世人所謂勤王之師也。因其會章有曰:『務合海內仁人志士,共講忠君愛國之實,以濟時艱。』人遂指爲保皇之鐵證。然其序則有曰:『低頭腥羶,自甘奴隸。』又曰:『非我族類,其心必異。』此其軍中之眞相究爲何,若但觀其詞氣之間,已有隱隱流露者矣。葢平心論之,是時內地風氣未開,聞談民權變法者莫不色駭而却走,唐氏固知之,以爲中國有數千年之習慣,即滿淸有三百年之馴伏,非藉忠君愛國之名詞,不足以號召天下,故一時人傑如畢永年氏、餘杭章炳麟氏皆常以此相駮詰,而唐氏勿顧也。不然當日軍中之健將如林圭氏、秦鼎彞氏、汪鎔氏、沈藎氏皆天縱之才,豈輕爲人所嬲合者?況後此之特起民軍以光復我漢族者,即出於自立之軍將也。是則唐氏及當年在事諸同人之隱志又烏可不亟爲揭明之以示天下!

訳文の誤りにお気づきの場合はお問い合わせからお知らせください。

© 好古刊行会