清史紀事本末チベット・インド条約の改訂(改訂蔵印条約)

要約

光緒十六年春二月、駐蔵大臣の升泰とイギリスの総理印度大臣ランズダウンが孟加臘城で会議して蔵印条約八款が成った。イギリスはインドを併合し哲孟雄・不丹・廓爾喀を保護国とし北のチベットを図った。チベット人は逼迫を懼れ、十四年正月に哲孟雄へ兵を入れ龍吐に堡塞を築いた。総理衙門は入蔵を停めるかわり龍吐の関所を撤去させ、拒む文碩を召還して升泰に代えた。イギリスは龍吐を攻め壊し、八月にチベット兵は敗れて咱利・亜東の隘路を失い、升泰は辺境でチベット兵を解散させ独脊嶺でポールと会議した。約は境界を定め、哲孟雄をイギリスの属地と認め、印蔵の通商路と交渉を開き、通商・遊牧・文書往来を別議とし、六か月以内にロンドンで正約を交換するとした。

十九年冬十月、何長栄と赫政がポールとダージリンで通商・交渉・遊牧の条約九款と続款を議定した。亜東を二十一年に開市し税関を設け、総税務司ハートに管轄させ、五年間は徴税しないとした。境界標の設置を中国が許さず入蔵の自由も完全でなく、イギリスは不満であった。

イギリスは威圧、ロシアは懐柔で西蔵を争い、日清戦争後チベット人は中国を頼らずロシアに傾き、北京陥落の報がラサに届くとロシアが誘って密約を結んだ。イギリスはロシアが南下できぬのに乗じ、条約の不履行を口実に、大佐ヤングハズバンドの遠征隊がマクドナルド将軍の大軍と合流し、歩兵八百五十・騎兵百五十・砲六十でギャンツェへ進発した。緇納でチベットが停止を請うと平和の使命だと告げて進み、チベット軍千五百を破り死傷五百・捕虜二百を出した。有泰は前進を止められず、パクリの会議にも怯えて行かなかった。イギリス軍は台巴謨阿湖でチベット兵八百を撃退し、嘉維でも戦い、兵力は四千六百に達した。四月、駐英公使の張徳彝はインド総督に進兵を停めさせ各条を北京で商定せよと請うが、成らなかった。五月、ギャンツェ占領後も有泰を待ったが、妾を連れ柳林子で酒宴を張り、人々は歯ぎしりした。休戦の議も要領を得ず砲塁は破られ、六月二十八日、イギリス軍はラサに入り、ダライ・ラマの勒朗結は逃げた。七月、会議に来なかった理由を問われた有泰が権限なく商上に制せられたと言うと、ヤングハズバンドは中国が主権を持たぬ確証とし、条約十款をチベット側に調印させた。哲孟雄との境界に碑を立て、亜東のほかギャンツェ・ガルトクを開き、兵端を開いた罪として兵費五十万ポンド・七百五十万元を三年に分け償わせ、完済まで英兵は春丕に駐留し、イギリスの許可なく他国は西蔵の事に関与できぬとした。約の翌日、有泰は臨機の調印の追認を請い、勒朗結は位を剥奪され西家子違西喇麻が代任した。各国公使が抗議し、ロシア公使ポコチロフは西蔵を開くなら庫倫・新疆の事権を譲れと迫り、政府は有泰を責めて条約を廃棄させ、四川総督の錫良は協議を命じられて辞退し、唐紹儀が全権大臣として改議に赴いた。

三十二年夏四月、外務部侍郎の唐紹儀とイギリス公使サトウが『蔵印正約』六条を北京で結んだ。紹儀は三十一年正月からインドで費利夏と協議したが成らなかった。その間ヤングハズバンドは後蔵のパンチェン・ラマをインドに入れた。『英蔵条約』はこの約に附されて一切承認され、名を中英続訂印蔵条約と改めたにすぎない。イギリスは西蔵を占領併合も政治干渉もせず、中国も他国の干渉を許さず、附約第九款の権利は中国だけが享受するとした。

編者はいう、光緒十八年、探険家笛羅女史は西蔵から帰り、中国のチベット人への扱いはヨーロッパ人の植民地の扱い方だと語った。これは乾隆朝の原約の功績である。後の人が実行に力めず外交に任せたので干渉の禍が生じ、二つの約が前約を承認するに及んで、西蔵は条約のない内地にも及ばなくなり、戦事があれば我が方の進兵さえ阻まれた。西蔵は中英が共同保護する国となったのではないか。ああ西蔵よ、ああ西蔵の宗主国よ、と。

年表

イギリスのインド併合後に始まるチベットをめぐる争いを、光緒十六年(1890年)から三十二年(1906年)まで条約の推移として述べる。駐蔵大臣升泰とイギリス側が蔵印条約八款を結び、次いで何長栄・赫政とポールがダージリンで通商章程九款を議定したが、イギリスは不満を残した。日露開戦に乗じてヤングハズバンド・マクドナルドが遠征軍を率いてギャンツェを経てラサに入り、ダライ・ラマの勒朗結は逃げ、有泰は交渉を避けて英蔵条約十款が押しつけられた。清はロシアらの抗議を受けて条約を否認し、唐紹儀を派遣して交渉させ、最後にサトウ公使と蔵印正約六条を北京で結んだが、英蔵条約はそのまま附約として承認された。

年表(4件)
  • 西暦1890年 徳宗光緒十六年駐蔵大臣升泰とイギリスがベンガルで会議し、蔵印条約八款を結ぶ
  • 西暦1893年 十九年何長栄・赫政がポールとダージリンで通商・交渉・遊牧の条約九款を議定し、亜東の開市を定める
  • 西暦1904年 三十年イギリス軍がラサに入って英蔵条約十款を迫り、清は唐紹儀を全権として改訂に当たらせる
  • 西暦1906年 三十二年唐紹儀とサトウ公使が北京で蔵印正約六条を結び、英蔵条約を附約として承認する

現代語訳全文

西暦1890年 徳宗光緒十六年

  • 春二月、駐蔵大臣の升泰とイギリスの総理印度大臣ランズダウンが、孟加臘城(ベンガルの城市)で会議し、蔵印条約八款が成った。
  • はじめイギリス人はインドを併合してしまうと、急いで北のチベットを図ろうとした。まず哲孟雄(シッキム)・不丹(ブータン)・廓爾喀(ネパール)の三国を収めて保護国とした(底本は「保護」の下に「国」字を欠くか)。チベット人はイギリスの逼迫を懼れ、あわせて哲部がひそかにイギリス人と結んだことを恨み、そこで光緒十四年正月に兵を哲孟雄に入れ、龍吐に堡塞を築き、厳重に兵備を敷き、商人・旅人の往来を断ち切った。
  • イギリス人は兵を出してこれを撃とうとした。総理各国事務衙門はこれを聞き、北京駐在のイギリス公使ウェード(威妥瑪)と約を定めて、イギリス兵のチベット入りを停止させ、その上でチベット人に命じて速やかに龍吐の関所の建物を撤去させた。駐蔵大臣の文碩は上疏して抗議し、その地はチベットの地であるから撤去のしようがないと述べた。政府はその迂遠で誤った議論を斥け(底本は「拆」に作る。「斥」の誤りか)、文碩を召還して、升泰をこれに代えた。
  • まもなくイギリス人の麻葛蕌が兵を率いて哲孟雄に至り、龍吐の関所の建物を攻め壊し、チベット兵は退き還った。八月、チベット兵はまたイギリス兵と攻撃し合ったが、チベット兵は敗れ、咱利・亜東・朗熱などの隘路が同時に失われた。そこで升泰は官吏を派遣して辺境に赴かせ、イギリス兵を阻み止め(底本は「阻至」に作る。「阻止」の誤りか)、あわせて自ら辺境に至り、チベット兵に解散を命じた。イギリスの官吏ポール(保爾)と国境の事務を協議し、総理衙門もまた税務司の赫政を派遣して行かせ、協議を手伝わせた。ほどなくポールは升泰と約して独脊嶺に至って会議し、ここに至って約が成った。合わせて八条である。

  • 一、チベットと哲孟雄の境界を定める。

  • 二、中国は哲孟雄をイギリスの属地と認める。
  • 三、インドとチベットの通商の路および外交の交渉を開く。
  • 四、別に蔵印通商の約を定める。
  • 五、別に哲孟雄の境域内での遊牧の事を定める。
  • 六、別にインド・チベットの官吏の交渉の文書の往来を定める。
  • 七、この約の批准の後、六か月を限り、駐蔵大臣とイギリスの駐印大臣が、それぞれ官吏を派遣して、第四・第五・第六の別に協議するとした事を会商する。
  • 八、この約の批准から六か月以内に、ロンドンで正約を交換する。

西暦1893年 十九年

  • 冬十月、四川越巂営参将の何長栄、税務司の赫政が、イギリスの政務司ポールとダージリンで蔵印の通商・交渉・遊牧の条約九款を議定し、また続款の条も成った。
  • これは光緒十六年の約に従って、国境の事務・商務を適切に協議し、詳細な章程を定めたものである。引き続き協議した条款を数えると九条。一、チベットの亜東を通商の口岸として開く。二、賃借と建物の設置。三、交渉の案件。四、洋関の税則。五は六と同じく、交渉の案件。七、交際の儀礼文書。八、同前(底本は九条というが八までしか挙げず、条目の表記にも乱れがある)。
  • その内容で最も重要なものは、亜東を光緒二十一年に開市し、税関を設け、総税務司ハート(赫徳)にこれを管轄させること、五年以内は徴税しないことである。ただしイギリス人はチベットと哲孟雄の境界の地に境界の標を立てようとしたが、中国が許さず、イギリス人のチベット入りの自由の権利もまた完全ではなかった。イギリス人は不満のまま二十九年に至り、ついに兵を率いてチベットを侵す事が起こった。

西暦1904年 三十年

  • 秋八月、三品卿の唐紹儀に命じて、西蔵に赴いて事件を調査処理させた。
  • これより先、ロシア人とイギリス人はチベットを争っていたが、イギリス人の対チベット政策はもっぱら威圧であり、ロシア人はもっぱら懐柔を用いた。そこで日清戦争以後、チベット人は中国が頼りにならないことを知り、ロシアと結んで援けの翼とし、イギリスを防ごうとして、ロシアに傾いた。連合軍が北京を陥れたという報せがラサに届くと、中国の威信は地に墜ち、ロシアはそこでチベットを誘って密約を結んだ。
  • 二十九年に至り、日露が開戦しようとしたので、イギリス人はその時機に乗じ、ロシアが南下できないのを見て、チベット人が光緒十六年・十九年の条約を履行できないことを口実にし、前年九月十八日、その大佐ヤングハズバンド(栄赫鵬)に遠征隊を率いさせ、インドから兵を進めた。十一月六日、チベットの境の花梨に達して軍を駐め、三か月余り、マクドナルド(麦都那)将軍の大軍が来るのを待った。合流して、この年の二月十一日にギャンツェ(江孜)を指して進発した。合わせて歩兵八百五十、騎兵百五十、砲六十を数えた。
  • 五日、緇納に到着した。チベットの衛戍の地である。この日、チベット政府は使者を送ってイギリス軍に入れ、進むのをやめるよう請うた(底本は「忽」に作る。「勿」の誤りか)。ヤングハズバンドは、今回の来訪は平和の使命を帯びているだけだと告げた。強いて進んでやまないので、チベット軍千五百がこれを防ぎ、ついに戦端が開かれ、マクドナルドはあやうく負傷するところであった。ほどなくチベット兵は大敗し、死傷五百、捕虜二百であった。
  • 十八日、駐蔵大臣の有泰が人をイギリス軍に遣わして、その前進を止めさせようとしたが、聞き入れられなかった。ただ有泰にパクリ(帕克里)へ赴いて和を議すること、光緒十六年の条約どおりに処理することを約すれば、ただちに兵を休めてもよいと言った。有泰は商上(チベットの当局)が支給に応じないこと、烏拉(人夫・駄獣の徴発)が整わず出発できないことを口実にし、怯えて進まなかった。
  • 二十日、マクドナルドは台巴謨阿湖に進み、チベット兵八百を撃退し、死傷ははなはだ多かった。翌日、イギリス人はグルカ兵およびインド兵をそれぞれ一個中隊派遣し、嘉維の山峡の下でチベット兵と戦った。六時間を経て、イギリス軍の死傷二十五、チベット人は二百であった。
  • 三月十三日、イギリス軍はギャンツェ以東の峡路に到着し、チベット軍千五百がこれを守った。だが砲を撃っても命中させられず、イギリス軍は安然とまっすぐ進んだ。
  • 四月十二日、駐英公使の張徳彝が外務部に電報し、すでにイギリスの藩部と協議し、インド総督の唵士六に電報して進兵を停止させ、協議中の各条は北京駐在のイギリス公使サトウ(薩道義。底本は「薩逍義」に作る)と商定していただきたい(底本は「請與駐畢。英使薩逍義商定」に作る。「請與駐京英使薩道義商定」の誤りか)、その上でチベットに電報して速やかに処理させたい、と述べた。政府はサトウ公使との議論がまとまらず、そのままにした。
  • 十三日、イギリス軍は巴拉村および付近の村落を襲って占拠した。十八日、ヤングハズバンドは有泰に牒して告げ、本月二十五日までにギャンツェに来て会議せよと期限を切った。二十四日、チベット軍が坎馬のイギリス軍の砲台を襲ったが、うまくいかず、死者は百六十四人であった。このときイギリスの兵力の総数はすでに四千六百人であった。
  • 五月十三日、イギリス軍はギャンツェを占領した後も、なお有泰が協議に来るのを待った。有泰はやはり進もうとせず、日々チベットの妾五、六人を連れて柳林子に赴き、酒宴を設け、踊り、涼をとっており、チベット人はみな歯ぎしりした。
  • 十六日、チベット人はイギリス軍に休戦を乞い、ラサからの使節が来るのを待ってほしいと言い、イギリス人はこれを許し、三日と約した。十九日、チベット政府の代表がギャンツェに至り、ヤングハズバンドと会議したが要領を得ず、また休戦の期限を三日延ばした。二十二日、休戦の期限が満ちると、ヤングハズバンドはまた進攻を命じ、ギャンツェの砲塁を破った。
  • 六月一日、ヤングハズバンドは遠近に檄を伝え、ラサに入って和を議する事を布告した。翌日、隊を抜いて進行した。七日、イギリス軍が拿亜孜に至ると、チベット政府の代表者が来て、ラサは宗教の聖地であって国事を協議する場所ではない、使節を帰してギャンツェに戻していただきたい、と言った。イギリス人は許さなかった。二十八日、イギリス軍はラサに入り、ダライ・ラマの勒朗結は逃げた。
  • 七月六日、ヤングハズバンドはそこで有泰に会いに行き、中国の責任を告げ、その上で有泰が会議の約に赴かなかった理由を詰問した。有泰は自ら、権限がなく商上に制せられ、人夫の支給に応じてもらえないのだと言い、自分に罪がないことを明らかにしようとした。ヤングハズバンドは笑ってうなずき、ただちにこれを証拠として、中国がチベットにおいて主権を持たない確証とした。
  • 二十二日、条約十款を並べ、チベットの人々に迫ってただちに調印させた。

  • 一、チベットの番人は、いま庚寅の条約の第一款に従い、哲孟雄との境界(底本は「哲雄孟」に作る)に境界碑を重ねて立てることを承諾する。

  • 二、チベットの番人は、亜東関のほか、あわせてギャンツェ・ガルトク(噶大克)の二か所に埠を開いて通商することを承諾し、イギリス・チベットの商民はいずれも自由に往来できる。癸巳年に立てた通商の約で、不適切な箇所があれば、チベットの番人と協議して改定しなければならない。改定の後は、以上に挙げた三か所はみな遵守して処理すべきである。その商民がインドへ赴くには、現行の道路によって転運すべきであり、もし別に商務の盛んな地があれば、改めて協議して商埠を増設する。
  • 三、癸巳の条約はきわめて不適切であるから、別案として西蔵から番の官吏を派遣し、イギリスと協議して改める。
  • 四、税則はいったん取り決めた後は、再び加増してはならない。
  • 五、インドの境界から亜東・ギャンツェ・ガルトクの三か所の境界まで、沿道に関所などを設けてはならない。もしそれぞれの道が険しく通行しがたければ、やはりチベットが修理しなければならない。またその三か所には西蔵が番の官吏を設置し、そこに駐在するイギリスの官吏が駐蔵大臣および漢・番の各官に送る文書があれば、みなその官吏が受け取り取り次ぐものとする。将来ほかの地に商埠を増設する場合も、これにならって処理すべきである。
  • 六、チベットの番人が条約を守らず、イギリスの辺務大臣に罪を犯し、みだりに兵端を開いたのであるから、チベットから兵費五十万ポンド、ルーブルにして七百五十万元を賠償し、三年に均等に分けて支払うこととし、西暦千九百五年の元旦を第一期とする。その金をどこで受け渡すかについては、イギリスが先に照会するものとし、あるいはダージリンで受け渡してもよい。
  • 七、前の六款を実力をもって実行させようとするので、インド兵・イギリス兵はなお春丕に駐留を続け、三年の後、商埠がすでに開かれ(「已來」は「已開」の誤りか)、賠款が清算されてから、はじめて撤退する。そうでなければなおその地に駐留する。
  • 八、インドの境界からギャンツェおよび前蔵の地方まで、およそ要害の険阻な区域は、みなチベットの番人が平坦に修改しなければならない。
  • 九、今後、イギリスの許可を経なければ、いずれの国の人であろうと、西蔵の土地を売買・賃貸してはならず、また一切の処理すべき事柄に関与してはならず、またいずれの国も官民を派遣して城に至らせ(底本は「薊城」に作る)、チベットの番人とともに諸事を処理させてはならず、また道路の修理・築造および鉱山の開発などの事に干渉してはならず、また各種の不動産および一切の価値ある財産を、外国人に抵当・交換・賃貸・売却してはならない。
  • 十、この約はイギリスの辺務大臣ヤングハズバンドとダライ・ラマの勒朗結が、九月二日に、西招で調印し印を捺す。約文は英文および番文で書き、英文を基準とする。

  • 約が成ると、その翌日、有泰は上奏してこれにもとづき政府に電報で報告し、なお臨機の処置として先に調印したことをお認めいただきたいと請い、あわせて勒朗結が逃亡したことを述べ、ただちに旨を伝えて位を剥奪されたいと請うた。詔して西家子違西喇麻に代任させ、その上で厳しく勒朗結を捕らえさせ、また有泰にイギリス公使とチベットの地の通商の事を協議させた。

  • ほどなくロシア・ドイツ・アメリカ・イタリアの公使が取り巻いて抗議を起こし、ロシアがとりわけ激しく、その駐京公使ポコチロフ(璞科第)はしきりに外務部に言明して、「中国がもし軽々しく西蔵を開放するなら、中国は庫倫・新疆などの地の事権をロシアに譲らねばならず、また別に専約を立てねばならない」と言った。そこで政府ははじめて電報を発して有泰を責め、条約を廃棄させた。有泰は電報で全権を専任していただきたいと請うたが、政府はやはり力を尽くして議論し反駁せよと命じ、あわせて四川総督の錫良にバタン(巴塘)に赴いて有泰と協議するよう命じた。錫良は返奏して、四川省が旱害に苦しみ土匪が蜂起していることを口実に、辞退して行かなかった。ここに至って、直隷津海関道の唐紹儀に命じて現職を解かせ、三品京堂候補として副都統の銜を加え、全権大臣に任じ、西蔵に赴いて『英蔵条約』を協議し改めさせた。

西暦1906年 三十二年

  • 夏四月、外務部侍郎の唐紹儀とイギリス公使サトウが、『蔵印正約』六条を北京で結んで成った。
  • 唐紹儀は三十年八月に命を受けてチベットに赴くこととなったが、十一月になってようやく出発し、三十一年正月にインドに至り、イギリスの議約専使の費利夏と協議したが折り合わなかった。二月、詔して唐紹儀に駐英公使を引き継がせ、まっすぐイギリスの首都に赴き、チベットに行くには及ばないと命じた。このときダライはすでに庫倫から西寧に引き返していた。十二月、ヤングハズバンドが突然兵を派遣して後蔵のパンチェン・ラマを擁してインドに入れた。唐紹儀はインドで条約を協議し、すでに一年を経て、舌は疲れ筆は禿びたが、ついに議がまとまらず、外務部から奏請して協議を京師に移して行うこととした。ちょうど日露が休戦し、日本公使小村寿太郎が来て遼瀋の約を議することになったので、唐紹儀を召還した。唐紹儀はそこで参賛の梁士詒を連れて帰り、参賛の張蔭棠をインドに留めた。
  • 唐紹儀が帰ると、なお命じてサトウ公使とチベットの事を交渉させ、往復して揉み合い、ここに至ってようやく決着がついた。合わせて正約六条である。そして光緒三十年にヤングハズバンドとダライが結んだ『英蔵条約』は、なおこの約の後に附され、一切これを承認し、ただ名称を中英続訂印蔵条約と改めただけであった。かくてこの月の四日に正約に調印した。

  • 一、光緒三十年七月二十八日にイギリスとチベットが結んだ約およびその英文・漢文の約本は、現に立てるこの約に附し、附約とする。双方ともこれを切実に遵守することを承認し、あわせて改訂・批准の文書もまたこの約に附す。もし何らかの手立てを講ずべき時に遭えば、双方は随時手立てを講じ、その約の中の各節を切実に処理する。

  • 二、イギリス国家はチベットの領域を占領併合せず、また西蔵の一切の政治に干渉しないことを承諾する。中国国家もまた、ほかの外国がチベットの領域およびその一切の内治に干渉するのを許さないことを承諾する。
  • 三、光緒三十年七月二十八日にイギリスとチベットが結んだ約の第九款の中の第四節に声明された各項の権利は、中国だけが享受できるほかは、ほかの国家およびほかの国の国民が享受することを許さない。ただし中国と協議して定めた上で、その約の第二款に指定された各商埠において、イギリスは電線を設けてインド領内に通報する利益を得るものとする。
  • 四、光緒十六年・十九年に中国とイギリスが定めた二度の『蔵印条約』に載せる各款は、この約および附約に違背しないものであれば、すべて切実に施行すべきである。
  • 五、この約は中文・英文に分けて書き、すでに細かく照合して一致しているが、解釈をめぐって争うときは、やはり英文を基準とする。
  • 六、この約は両国の大皇帝が批准し調印しなければならない。両国の全権大臣が調印した日から、三か月を限ってロンドンで交換する。この約は中文・英文それぞれ四部、合わせて八部を書き、両国の全権大臣が調印し印を捺して証拠とする。

史論(編者曰)

編者はいう。光緒十八年、イギリスの有名な探険家である笛羅女史が両蔵(「西藏」の誤りか)から帰って、人に語って「中国のチベット人に対するやり方は、まったくヨーロッパ人が植民地を扱う方法である」と言った。当時の人はみなその言葉をもっともだとした。これはすなわち乾隆朝に定めた原約の功績なのである。後の人がその実行に力を入れず、チベット人が外国と交渉するのに任せたので、ついにイギリス人が干渉する禍が生じた。かくて『英蔵の約』が成り、北京で改めて定めた『中英続訂印蔵条約』が前の約をそっくり一つ一つ承認するに及んで、西蔵の地はついにイギリス人の干渉を受けるに至り、条約のない内地と同等ですらなくなり、戦事があれば我が方の進兵さえ阻まれるようになった。それならば西蔵は、やはり中国とイギリスが共同で保護する国となったのではないか。ああ西蔵よ、ああ西蔵の宗主国よ。

原文(底本)
德宗光緒十六年,春二月,駐藏大臣升泰與英國總理印度大臣蘭士丹,在孟加臘城,會議藏印條約八款成。初英人既併有印度,急欲北图西藏。先收哲孟雄、不丹、廓尔喀三国为保护藏人懼英之逼,并憾哲部之私结英人,遂於光緒十四年正月遣兵入哲,築堡塞於龍吐,嚴陳兵備,阻絕商旅。英人將出兵擊之。總理各國事務衙門聞之,與駐京英使威妥瑪定約,停止英兵入藏,而飭令藏人速撤龍吐卡房。駐藏大臣文碩抗疏爭,謂地為藏地,撤無可撤。政府拆其迂謬,撤文碩還,代之以升泰。旋英人麻葛蕌帶兵至哲,攻毀龍吐卡房,藏兵退還。八月,藏兵復與英兵相攻擊,藏兵敗,咱利、亞東、朗熱等隘同時失去,於是升泰派員赴邊,阻至英兵,並自至邊境,勒令藏兵解散。與英員保爾會商界務,總理衙門亦派稅務司赫政往,幫同商議。尋保爾約升泰至獨脊嶺會議,至是約成,計八條:一、訂定藏哲之界。二、中國認哲孟雄為英國屬地。三、開印藏通商之路及外交交涉。四、另訂藏印通商之約。五、另訂哲孟雄界內遊牧之事。六、另訂印藏官員交涉之文移往來。七、此約批准後,限六個月,由駐藏大臣暨英國駐印大臣,各派員會商第四、第五、第六另議之事。八、此約批准六個月內,在倫敦互換正約。

十九年,冬十月,四川越巂營參將何長榮,稅務司赫政與英國政務司保爾在大吉嶺議定藏印通商、交涉、遊牧條約九款,又繼款之條成,此遵十六年之約,妥議界務、商務,詳細章程,計接議條款九條:一、開西藏亞東為通商口岸。二、租傭建置。三、交涉案件。四、洋關稅則。五同六、交涉案件,七、交際儀文。八、同。其內容之最重要者,亞東以光緒二十一年開市,設稅關,以總稅務司赫德轄之。限五年以內不徵稅,惟英人欲於藏哲交界處立界牌,中國不許而英人入藏自由之權利亦不完全。英人怏怏至二十九年,遂有率兵侵藏之事。

三十年,秋八月,命三品卿唐紹儀前往西藏查辦事件。先是,俄人與英人爭藏,英人對藏政策全以威逼,俄人則純用懷柔,於是中日戰爭以後,藏人知中國之不可恃,欲結俄為援翼以禦英,乃傾嚮於俄。及聯軍陷北京之報達拉薩(藏京),中國威信墜地,俄乃誘藏結密約。至二十九年,日俄將開戰,英人乘其時,俄人不能南下,乃籍口藏人於光緒十六年、十九年之條約不能履行,於上年九月十八日,遣其大佐榮赫鵬率遠征隊,由印度進兵。十一月初六日,達於藏境之花梨駐軍,三月有奇,俟麥都那將軍大兵之至,會齊,以是年二月十一日指江孜進發,計共步兵八百五十,馬兵百五十,礮六十。五日,抵緇納,藏衛戍地也。是日,藏政府使使入英軍,請忽進。榮赫鵬告以此次之來,帶平和的使命而已。強進不止,藏軍千五百拒之,遂開戰,麥都那幾負傷。俄而,藏兵大敗,死傷五百,捕虜二百。十八日,駐藏大臣有泰(即前大臣升泰之弟)遣人至英軍,止其前進,不聽,但約有泰赴帕克里議和,照十六年條約辦理,願即休兵。有泰藉口商上不肯支應,烏拉不能啟程,怯不進。二十日,麥都那進臺巴謨阿湖,擊退藏兵八百,傷亡甚眾。翌日,英人派格爾卡斯兵及印度兵,各一中隊,與藏兵戰於嘉維山峽下,歷六小時,英軍傷亡二十五,藏人二百。三月十三日,英軍抵江孜以東峽路,藏軍千五百守之。以發礮不能命中,英軍安然直進。四月十二日,駐英使臣張德彝電達外務部,言已商英藩部,謂電印度總督唵士六停止進兵,所議各條,請與駐畢。英使薩逍義商定,電藏速辦。政府與薩使議不諧,置之。十三日,英軍襲據巴拉村及附近村落。十八日,榮赫鵬牒告有泰,限以本月二十五日至江孜會議。二十四日,藏軍襲坎馬之英軍礮臺,不利,死者百六十四人。時英國兵力總數已有四千六百人。五月十三日,英軍既佔領江孜,仍盼有泰赴議。有泰仍不敢進,日挈藏姬五六人,赴柳林子備酒、跳舞、納涼,藏人皆切齒。十六日,藏人乞英軍休戰,以待拉薩使節之至,英人許之,約以三日。十九日,藏政府代表至江孜,與榮赫鵬會議,不得要領,復展休戰期限三日。二十二日,休戰期滿,榮赫鵬復下命進攻,破江孜礮壘。六月初一日,榮赫鵬傳檄遠近,佈告入拉薩議和之事。翌日,拔隊進行。初七日,英軍至拿亞孜,藏政府代表人來言,拉薩為宗教聖地,非商議國事之所,請回使節,返於江孜,英人不許。二十八日,英軍入拉薩,達賴喇嘛勒朗結遁。七月初六日,榮赫鵬乃往見有泰,告以中國之責任,且詰有泰不赴約之故。有泰自言無權受制商上,不肯支應夫焉,以自明無罪。榮赫鵬笑頷之,即以此據為中國在藏無主權之確證。於二十二日,列條約十款,迫藏眾即畫押:一、西藏番人,現允遵照庚寅(光緒十六年)約章之第一款,將哲雄孟邊界,重立界碑。二、西藏番人,應允除亞東關外,並在江孜、噶大克二處,開埠通商,英藏商民均可聽便往來,其癸巳年(光緒十九年)所立商約,所有不妥處須與藏番商議,改定後,以上所開之三地均須遵辦,其商民前往印度,應就現行道路轉運,如另有商務興旺之地,再行商酌添設商埠。三、癸巳約章,甚不妥協,應另案由西藏派番官與英國商改。四、稅則一經訂妥後,不得再加。五、由印度邊界至亞東、江孜、噶大克三處边界,沿途不得設立關卡等,如各該處道路險峻難行,仍須由藏修理,又該三處應由西藏設立番官,所有駐紮該處之英官,如有文件致駐藏大臣及漢番各官,均應由該官接迎,將來他處添設商埠亦應仿此辦理。六、因藏番不遵約章,開罪英國邊務大臣,妄動兵釁,應由藏賠給兵費五十萬磅,合盧布七百五十萬元,勻作三年付給,以西厯千九百零五年元旦為首期,至該款定於何地交收,應由英國先行咨會,或即在大吉嶺交收。七、因欲將前六款實力辦到,故印兵、英兵仍行留駐春丕(即城備),俟三年後,商埠已來,賠款已清,方行撤退,否則仍駐該處。八、由印度邊界至江孜及前藏地方,凡扼塞之區,均須由藏番修改平易。九、此後如不經英國允許,則無論何國人,不得典賣租給西藏土地,又不得預聞一切應辦事宜,又無論何國不得派遣官民薊城,協同藏番辦理各事,又不得干預修道並築路開礦等事,又各樣恒產及一切值錢產業,不得與外人抵押、對換、租賣。十、此約由英國邊務大臣榮赫鵬與達賴喇嘛勒朗結,於九月二日(西厯),在西招畫押蓋印,約文用英文及番文繕寫,以英文為準。約既成,翌日有奏據以電告政府,猶以從權辦理先行簽約為請,並言勒朗結潛逃,請即傳旨褫革。詔以西家子違西喇麻代任,而嚴緝勒朗結,卽令有泰與英使協商藏地通商之事。旋俄、德、美、義公使環起抗議,而俄尤劇,其駐京公使璞科第屢向外務部聲言:「中國若輕易開放西藏,則中國須將庫倫、新疆等地事權讓俄,亦須另立專約。」於是政府始發電責有泰,使廢約。有泰電請專派全權,政府仍令其竭力議駁,並命川督錫良赴巴塘,與有泰協商。錫良覆奏藉口於川省患旱,土匪蠭起,辭不往,至是命直隸津海關道唐紹儀開缺,以三品京堂候補,加副都統銜,授爲全權大臣,前往西藏商改《英藏條約》。

三十二年,夏四月,外務部侍郎唐紹儀與英使薩道義訂《藏印正約》六條於北京成。紹儀自三十年八月奉命赴藏,至十一月始成行,於三十一年正月至印度,與英議約專使費利夏議不諧。二月,詔以紹儀接任駐英公使,命直赴英京,毋庸赴藏。時達賴已自庫倫折回西寧,十二月,榮赫鵬忽派兵擁後藏班禪入印,而紹儀在印磋商條約,旣已經年,舌瘏筆秃,迄無成議,由外務部奏請移至京師商辦。時值日俄休戰,日使小村壽太郎來議遼瀋約,乃召紹儀還國。紹儀遂挈參贊梁士詒歸,留參贊張蔭棠於印。紹儀旣歸,仍諭令與薩使交涉藏事,往復磋磨,至是始克就緒,計正約六條。而光緒三十年,榮赫鵬與達賴所訂之《英藏條約》仍附是約之後,一切承認之,惟改稱中英續訂印藏條約而已。遂於是月初四日簽押正約。

一、光緒三十年七月二十八日,英藏所立之約暨其英文、漢文約本,附入現立之約,作爲附約,彼此允認切實遵守,並將更訂批准之文據,亦附入此約。如遇有應行設法之時,彼此隨時設法,將該約內各節切實辦理。

二、英國國家允不佔倂藏境,及不干涉西藏一切政治。中國國家亦應允不准他外國干涉藏境,及其一切內治。

三、光緒三十年七月二十八日,英藏所立之第九欵內之第四節,所聲明各項權利,除中國獨能享受外,不許他國國家及他人國民享受。惟經與中國商定,在該約第二欵指明之各商埠,英國應得設電線通報印度境內之利益。

四、所有光緒十六、十九年,中國與英國所定兩次《藏印條約》,其所載各欵如與本約及附約無違背者,槪應切實施行。

五、此約分繕中文、英文,業已細較相符,惟辯解之時仍以英文爲準。

六、此約須由兩國大皇帝批准畫押,自兩國全權大臣畫押之日起,限三個月在倫敦互換。此約中文、英文各繕四分,共八分,兩國全權大臣畫押蓋印爲憑。

編者曰:當光緒十八年,英國有名之探險家笛羅女史自兩藏歸,語人曰:「中國之對藏番,純用歐人待殖民地之法。」時人皆韙其言。是則乾隆朝所定原約之功效也。自後人奉行不力,任藏人與外國交涉,遂有英人干預之患。而《英藏之約》以成,及在北京更定所設《中英續訂印藏條約》舉前約而一一承認之,於是西藏地方遂至受英人干涉,竟不能與無條約之內地同等,遇有戰事,且阻我進兵矣。然則西藏不仍爲中英公同保護國耶,嗚呼西藏,嗚呼西藏主國!

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