清史紀事本末光復軍の頓挫(光復軍之頓挫)

要約

光緒三十三年夏五月、安徽巡撫の恩銘が道員の徐錫麟に銃撃されて死んだ。錫麟は浙江山陰の人。科挙を棄てて浙江師範学堂に入り、紹興府学堂の監督となって大通・明遠の両学堂を創設し、日本で志士と交わって光復を志とした。金を納めて道員となり安徽候補となり、恩銘に激賞されて巡警処会辦・巡警学堂堂長となった。その間に陳伯平・馬宗漢と光復会を組織し、演説会で種族の大義をにじませ、黄漢光復軍は安慶の両学堂に生まれ紹興の諸校に広まったが、方略を深く隠して誰も首脳と知らなかった。

上海で捕らえられた党人の名簿から首領が錫麟の別名だと知れ、端方の命を受けた恩銘が錫麟と協議すると、錫麟は表向き承諾した。恩銘の捜索で党人は多く災難にかかり、錫麟は憤って満洲人官吏を殺そうとした。常備軍は銃器も操典も整わず緑営も空虚で、錫麟はこの時機に乗じようとした。すでに二月に家族を浙江へ帰らせており、各機関に準備を急がせ二十八日の蜂起と定めた。巡警学堂の卒業試験に巡撫が臨む規定を利用して巡撫を殺し、次に満洲人官員を殺して南京へ下る計であったが、恩銘は二十六日に改めさせた。錫麟は前日に城内の満洲人官吏に閲兵を請い、一網打尽の計とした。

当日朝、花庁の地下に爆薬を埋めて宴の後に閲兵をと請うたが、恩銘が先に閲兵せよと指示したので計画は行えず、謀が漏れたかと疑って危険を冒そうと考えた。恩銘と各官ら五十余人が着くと先に内場の学科試験をと請うた。兵生が礼をするとき、錫麟は進み出て「大帥に申し上げます、本日、革命軍が事を起こします」と言った。爆弾は発火せず、馬宗漢の一発は右手に当たったのみで手が震えて続かず、錫麟は長靴から速射銃二挺を取り出して撃ち、七発が命中し最後は小腸を貫いた。文巡捕の陸永頤はかばって死に、車徳文らは負傷し、顧松と門番は撃ち殺された。恩銘は撫署でなお錫麟を捕らえよ、巡警学堂に罪はないと言ったが、西洋医が腹を切っても薬液の弾は溶けており死んだ。

錫麟は「この刺客はこの職道が片づけます」と言いながら撃ったので、諸官は散りながら彼の仕業と疑わなかった。学生には撫台は顧松に刺されたと偽って軍械所を占拠し、包囲されても大門を守り兵卒六人を射殺して六時間持ちこたえた。錫麟は塀を越えて逃げ、伯平は射殺され、宗漢と学生・人夫二十一名は捕らえられた。兵は一万元の賞でようやく攻め入ったが軍服だけが残り、午後四時に錫麟は捕らえられた。寝室から白旗、弾薬、「討虜大元帥」の印、党人の書簡が、私宅からも光復軍の大旗が出た。

督練所の訊問で馮煦が恩師をなぜ撃ったかと問うと、厚遇は私恩、刺したのは天下の公の憤りだと答えた。孫文の一党かと問われては、孫文では私を指揮するに足りぬ、これは私と宗漢子・光復子のしたことで、学生は脅されて従ったにすぎず罪は私一人が引き受けると言った。新甫は死んだかと問い、聯裕が軽傷だと偽って心肝をえぐるぞと言うと、大笑し、それならば新甫は死んだ、志が遂げた以上身を刻まれても惜しくないと言い、まず恩銘、次に端方・鉄良・良弼を殺すつもりだったと続けた。供述では、官を得たのは排満のため、表向きの立憲は人心を籠絡する中央集権にすぎず、立憲が早く進むほど漢人は早く死ぬ、満洲人を殺しつくしてから立憲を図っても遅くない、顧松は漢奸ゆえ殺したと述べた。

司・道は張汶祥が馬新貽を刺した先例に倣って心臓をえぐろうと議し、馮煦は斬首が国法で心をえぐるのは私刑だと争い、斬首の後にえぐると定まった。その晩、東轅門の下で斬られ、享年三十五。心臓は恩銘の遺体の前に供えられ、護衛隊の某はその肝を煮て食った。遺体は二十七日に北門外に埋められた。刑に臨んで錫麟は平然と、こういう死を得た以上恨みはないと言った。宗漢もほどなく殺された。

六月、浙江巡撫の張曾敭が紹興大通女学校の校長・秋瑾を捕らえて殺した。瑾は革命の鼓吹を天職とし、日本で共愛会を組織し、帰国して潯渓学校で教え、『中国女報』を唱えて女権を提唱した。錫麟の事が失敗すると、曾敭は馮煦の電報を受けて党人を捜索した。仇家の郷紳・胡道南が知府の貴福に、瑾が武器弾薬を学校に隠し平洋党と結んで事を起こすと密告した。貴福は瑾と代々のつきあいであったが、兎死狐悲の感から省城に馳せて変を告げた。曾敭は李益智を紹興に遣わして合同で捕らえさせ、貴福に取り調べのうえ即座に処刑せよと電令した。初四日の夜、大通学校を襲って発砲し、学生二人を死なせ七人を傷つけ、瑾と教員の程毅・学生六人を捕らえた。焼いた鎖や煉瓦に跪かせる厳刑にも証拠は出ず、瑾はただ「秋雨秋風愁殺人」の七字を書いた。衣の帯から拳銃が出たと称し凶器を帯びたと決めつけ、翌朝軒亭口で殺した。享年三十三。巻き添えは女子教育界に多く、孫徳清・許仲清は巨額を寄付して免れ、同仁学堂の学生八人と戯捐公所などの幹事員・学生八人も捕らえられ、毓秀・震旦は解散、李鍾嶽らは罷免された。浙江の人々が騒ぎ立て、曾敭は転任を求めたが江蘇も山西も拒み、病と称して湖北に住んだ。貴福も寧国の知府に移ろうとして拒まれ行方が知れず、道南は人に殺され、益智は広東の花艇で焼け死んだ。遺体は葬る者がなかったが、徐寄塵・呉芝瑛の両女史が西泠橋のほとりに葬り「鑑湖女侠秋瑾之墓」と題した。のち御史の常徽が墓をならせと上疏したが、議は差し止められ、家族が密かに改葬した。

年表

浙江山陰の徐錫麟が光復を志し、道員として安徽に入り込んで陳伯平・馬宗漢らと光復会を組織し、陸軍小学堂・巡警学堂と紹興の諸学校に光復軍を広げた経緯を述べる。光緒三十三年(1907年)五月、名簿露見を恐れた錫麟は巡警学堂の卒業式で安徽巡撫恩銘を銃撃して死なせ、軍械所に拠って戦ったが捕らえられ、供述で排満革命の宗旨を述べたのち斬られた。伯平は射殺され、宗漢も殺された。六月には紹興大通学校の校長秋瑾が貴福・李益智に捕らえられ、証拠のないまま軒亭口で処刑され、浙江巡撫張曾敭・貴福はともに世論に排斥された。

年表(1件)

現代語訳全文

西暦1907年 徳宗光緒三十三年

  • 夏五月、安徽巡撫の恩銘が、道員の徐錫麟に銃撃されて死んだ。錫麟およびその仲間の陳伯平らは、いずれも営兵に殺された。
  • 錫麟は浙江山陰の人で、沈着雄偉にして大志を抱き、胆力と見識は人並みはずれ、とりわけ権謀に長けていた。当時、中国の政治はゆるみ果て、官吏は萎縮して振るわず、錫麟は人と時局を論ずるたびに嘆き悲しみ、すすり泣いて涙を流し、自分を抑えることができなかった。その父の梅生はかつて厳しくいさめたが、錫麟は意に介さなかった。
  • 二十歳を過ぎてのち、廩生の身分で郷試の副榜に合格したが、科挙が人を縛ることのはなはだしいのを知ってこれを棄て、浙江師範学堂に入った。卒業すると、山陰県学堂の堂長、紹興府学堂の監督となり、紹興大通学堂・明遠学堂を創設し、のちにドイツに遊学して警察学堂に入り卒業した。その後日本に至り、かの地の豪傑の士、および内地から東に渡ってその間に居留していた志士たちと交わり、民族の義理と亡国の旧聞とを知りつくし、慷慨して奮い立ち、毅然として光復を一生の志とした。
  • 新しい中国は大破壊なくしては成らないと考え、政界を手はじめの場としようとして、そこで帰国し、金を納めて道員となり、安徽で候補(補職待ちの官)となった。当局者に対して偽りの説を述べ、危急切迫のさまを説いて動かし、大いに恩銘に激賞され、ただちに陸軍小学堂の会辦に任命された。
  • 一年あまりして、巡警処会辦および巡警学堂堂長に改めて任じられた。錫麟はその間に、同郷の陳伯平、余姚の馬宗漢とともに光復会を組織し、日曜日になるといつも巡警学堂に集まり、講堂で学生を教え、演説会を開いた。その意図は最新の知識を注ぎ込んで警察界の同学を揺り動かすことにあり、種族の大義・革命の真諦については、常に言葉つきのあいだにほのかににじませたので、聴く者は皆これに激昂し、民族思想のあふれ広がることは一日千里の勢いがあった。
  • こうして黄漢光復軍は安慶の陸軍小学堂・巡警学堂に生まれ、紹興の大通・明遠・毓秀・潯渓・同仁・震旦・蚕業の各学校に広まった。手はずが整うのを待って、軍と警察とを連合させて目的を達しようと考えていた。
  • ところが錫麟は、天性は高く華やかでありながら、性情は緻密で、方略を練るにあたってもまた深く隠して外に出さなかったので、安徽中の当局者には誰一人、彼が光復軍の首脳であることを知る者がなかった。恩銘はかつて人に語って言った、「徐道員は仕事ぶりが真面目で、身の持し方も清廉である。まことに得がたい人材だ」と。
  • ちょうど上海で党人の葉某が捕らえられ、同志の名簿が手に入り、その多くが安徽に𪊽(群れ)集まっていること(底本は「𪊽」に作る。「麇」の誤りか)、そしてその首領が錫麟の別名であることが知れ、両江総督の端方は恩銘に電報して厳密に偵察させた。当時、錫麟は警察長であったから、恩銘は彼と協議した。錫麟は表向きこれを承諾したが、内心では事の漏れることと不測の事態とを恐れ、先手を打って制しようとした。
  • また錫麟は海外の同志たちと常に消息を通じ、武器弾薬はいずれも大通などの場所から密かに運んでいたが、恩銘は早くに情報を得て、部下に厳重な捜索逮捕を命じ、あわせて各省に電報して防備させたので、党人には災難にかかる者が多く、武器弾薬の失われた額もはかり知れなかった。錫麟は憤り、安徽じゅうの満洲人官吏を打ち殺して、害を受けた同志たちの復讐をしようとした。
  • 当時、安徽省には常備軍二標があったとはいえ、その第一標はちょうど調練にとりかかったところで、まだ銃器を支給されておらず、第二標はまた全員が徴集したばかりの兵で、なおさら操典を知らなかった。緝捕・巡防の各隊は兵数が少なく、そのほかの緑営は隊伍が空虚で、兵は訓練を受けておらず、何もせず座して食らうばかりであった。錫麟はこの時機を利用して事を起こそうとした。
  • この年の二月のあいだに、すでに家族を浙江に帰らせてあった。ここに至って密かに各機関と約束して速やかに準備を整えさせ、その月の二十八日に一斉に事を起こすと期日を定めた。
  • ちょうど巡警学堂の兵生の組が卒業の時期にあたり、連日、校内の試験が終わろうとしていた。規定では巡撫が自ら臨んで大試験を行い、それによって(警備の)立ち番に振り分けることになっていた。東西両区の巡警を試験的に置く足がかりとするため、錫麟は二十八日に卒業式を挙行し、巡撫を殺すことを手はじめの方法とし、続いて安徽省の満洲人官員を殺そうとした。そのほかの文武の官は、鞭打たずとも駆り立てられ、むち打たずとも走るであろうと考えた。事が定まればただちに長江を溯(さかのぼ)ってまっすぐ南京へ下り(底本は「溯江直下南京」に作る。安慶から南京は下流にあたり、「溯」は字の乱れか)、そののちゆっくりと大計を定めるつもりであった。
  • たまたま恩銘は二十八日に幕僚の章某の母の誕生祝いをしなければならず、期日を二十六日に改めよと命じた。錫麟は期日があまりに切迫していて急いでも間に合わないと強く言った。恩銘が収支委員の顧松を呼んでこれを尋ねると、松は一切用意はできていると答えたので、そのまま期日が定まった。
  • 錫麟はやむを得ず、その前日に自ら衣冠を正して出向き、城内じゅうの文武の満洲人官吏に学堂に来て操練を閲兵するよう請い、必ず来させて一網打尽にする計とした。
  • 当日の朝八時、花庁に盛大な宴を設け、あらかじめ地下に爆薬を埋め、諸官に宴が終わってから操練を閲兵するよう請うた。その意図は、巡撫以下をことごとく酒宴の席で灰燼としてしまうことにあった。ところが恩銘から、先に操練を閲兵し後で宴を設けよとの指示が出たので、錫麟は予定の計画がすべて実行できないことを知り、しかも謀がすでに外に漏れたかと疑った。巡撫を撃っても死ぬ、撃たなくても死ぬ、失敗して死ぬくらいならば、いっそ危険を冒して一度やってみるほうがよいと考えた。
  • そこで全体の官・兵・学生に整列を命じ、自ら操場に出て演説し、諸君は団体を結び、祖国を救うべきだと説いた。言葉つきは激昂し、声は遠近に響きわたった。学生たちはにわかにこの言葉を聞いて、なおその真意のありかを理解できずぼんやりしている者もあった。
  • ほどなく恩銘および三司・道・府・県の各印官・委員ら五十余人が前後して学堂に到着した。恩銘が席に着いて外場の操演を閲兵しようとすると、錫麟は先に内場の学科試験を検分してほしいと請うた。恩銘は司・道を率いて第三の棟の礼堂に入った。錫麟は軍服姿で階上に立ち、学生たちは列をなして迎えた。まず官生が督辦に謁する礼を行い、恩銘が答礼を終え、兵生がまさに礼を行おうとしたとき、錫麟は進み出て言った、「大帥に申し上げます、本日、革命軍が事を起こします」と。
  • 恩銘は驚き、答える間もなく銃声が起こった。そのとき錫麟はまず爆弾を地に投げたが、発火しなかった。馬宗漢が進み出て一発撃ち、恩銘の右手に命中した。宗漢は刺客として臨みながら顔色はうろたえ、手が震えて二度目を試みることができなかった。錫麟はそこで長靴の胴から六連発の速射銃二挺を取り出し、左右の手に握って、代わるがわる恩銘に向けて撃ちまくった。さらに続けて七発が命中し、唇・腰のあたりおよび両腿がみな傷つき、最後には尾骶部から小腸を貫き通し、そのまま倒れ伏した。
  • このとき、文巡捕の陸永頤、武巡捕の車徳文が身をもってかばい、永頤はその場で死に、徳文もまた重傷を負った。道員の巣鳳儀は腿を負傷し、首府の龔鎮湘は背を負傷し、顧松と門番一人はともに撃ち殺された。
  • 恩銘が銃弾を受けると、藩司の馮煦は戈什(護衛兵)に命じて背負わせて輿に乗せ、撫署に送り返した。恩銘はなお大声を出すことができ、必ず徐錫麟を捕らえて按察使の獄に拘禁せよと言い、あわせて巡警学堂の全体はまったく関わりがないから、疑いや恐れを生じさせるなと言った。一方では城門を閉ざすよう命じ、兵を出して巡邏・逮捕にあたらせ、さらに各営を呼び寄せて大局を保たせた。
  • また腹の中がひどく慟(痛)むと言い(底本は「慟」に作る。「痛」の誤りか)、急ぎ西洋医を呼んで弾を取り出させるよう求めた。医者が来ると、弾は臓腑に入っており、腹を切り開かなければ助からないと言った。恩銘はそのときすでに口がきけず、ただ手で腹を指し、早く切るよう促した。そこで一度切り、二度切ったが、いずれも弾のありかは見えなかった。思うにその弾は薬液で作られており、血に触れるとすぐに溶けるものであったからで、恩銘はこのために死んだ。
  • 変事が突然に起こったとき、人々の動揺はことのほか激しかった。錫麟は両手に銃を握り、落ち着きはらって撃ちながら、口では「大帥、ご安心ください、この刺客はこの職道(道員たる私)が必ず片づけます」と言っていたので、礼堂の外では誰も銃声がどこから起こったのか分からなかった。「刺客」の二字を聞くや、諸官は鳥獣のように散り、それでもなお錫麟の仕業とは疑わなかった。
  • 錫麟は恩銘が運び去られたのを見ると、すぐに学生を偽って言った、「撫台はすでに顧松に刺された。我々は軍械所に行って守らねばならぬ」と。刀を抜いて礼堂を出、伯平・宗漢とともに、左手に刀を執り、右手に銃を握り、学生を率いて隊伍を整えて進んだ。
  • 軍械所に到着すると、所員の周家煜は逃げ、錫麟らは入ってここを占拠した。防戦のため、学生とともに所内に貯えてあった新旧の大砲を取って試し用いようとしたが(底本は「及學生取…」に作る。「及」は「與」の誤りか)、いずれも使いこなせず、そのうちに兵勇が大挙して来て包囲した。このとき兵を統べていたのは、緝捕営管帯の杜春林、中軍兼巡防営標統の劉利貞、稽査局員で知県の労文琦らであった。錫麟は急ぎ伯平・宗漢に命じて前後の大門を守らせ、下士官・兵卒六人を射殺し、六時間の長きにわたって持ちこたえた。
  • 錫麟は勢いがかなわないと見て、身を返して所内に入り、塀を越えて逃げ去った。伯平は緝捕営の兵勇に射殺され、宗漢はその場で捕らえられ、前後して学生および人夫二十一名が捕らえ拘禁された。
  • 各営の兵が軍械所を囲んで攻めたとき、多くは前へ進もうとしなかった。馮煦は道員の黄潤九を遣わして督促させたが、それでも進まなかったので、錫麟を捕らえた者には洋銀一万元を賞与すると布告したところ、兵たちはようやく奮い立って攻め入った。見ると錫麟の軍服が地に脱ぎ捨てられており、すでに変装して逃げ出したことが知れた。
  • 報告が撫署に達すると、一同顔を見合わせて色を失った。一方ではなお厳重な捜索を命じ、一方では賞を増す旨の布告を出し、徐錫麟の行方を知って報告できた者には洋銀五千元、逮捕を拒まれて傷を受け死んだ者には洋銀二千元を賞与するとした。
  • 午後四時になって、錫麟はついに捕らえられた。さらに巡警学堂の錫麟の寝室から白旗一旒が発見された。それには四言の韻文が書かれており、光復の挙兵の意を寓していた。ほかに弾薬四箱、銃砲多数、刀三十振り、「討虜大元帥」の印一顆、布告百余枚、ならびに党人の書簡八通があり、いずれも安徽での謀議を語ったものであった。また奉天の大侠・馮麟閣を働きかけた証拠、および弟の徐偉の書簡に「浙江・安徽での仕事は、兄が自分で見はからって定めよ」などとある語もあった。ほどなくその私宅からも書簡が非常に多く、写真百余枚、および光復軍の大旗一旒が発見された。
  • 錫麟は督練所に護送され、そこで両司(布政使・按察使)による合同の訊問を受けた。馮煦は言った、「中丞はお前の恩師であるのに、お前はどうしてこれほど心肝のない仕打ちをしたのか」と。錫麟は言った、「彼が私を待遇したのは実に厚かったが、それは私的な恩恵である。私が彼を刺したのは、天下の公の憤りによるものだ」と。
  • 煦はまた問うて言った、「お前は結局、孫文の一党なのか」と。答えて言った、「孫文では私を指揮するには足りない。この事は、ただ私と、私の友の宗漢子・光復子とがやったことだ。軍械所の攻撃に従った学生たちは実際には事情を知らない。あのとき私が銃で脅したので、やむを得ずついて来たのだ。私の罪は私一人で引き受ける。数十人の学生の罪もまた私一人で引き受ける。私の身を寸刻みにされてもかまわない。どうか他人に累を及ぼさないでほしい」と。
  • そこで錫麟が問うて言った、「新甫は死んだか」と。臬司の聯裕は錫麟をだまして言った、「まだだ。ほんの軽い傷を受けただけだ。西洋医の治療を受けてすでに全快し、明日は自らお前を訊問するだろう」と。錫麟はこれを聞くと、顔色がにわかに変わり、うなだれて黙った。聯裕はまた言った、「お前は罪を知っているか。明日はお前の心肝をえぐり取るぞ」と。錫麟は悟って大笑して言った、「それならば新甫は死んだのだ。新甫が死ねば、私の志は遂げられた。私の志が遂げられた以上、この身を千万の切れ端に刻まれても惜しくはない。取るに足らぬ心肝など、どうして気にかけよう」と。そのうえ聯裕を指さして言った、「お前は運よく死ななかったな」と。
  • 聯裕は大いに震え上がって倒れかかった。(錫麟は)ついで言った(底本は「既而曰」に作り、主語は示されないが、内容から発言者は錫麟)、「お前を殺しても結局のところ何の益もなく、殺さなくても何の害もない。私はもともと、まず恩銘を殺し、次に端方、次に鉄良、次に良弼を殺すつもりであった」と。
  • 馮煦は言った、「お前は日ごろ撫台に謁見したことがありながら、私室で撃たず、今日になってはじめて撃ったのはなぜか」と。答えて言った、「役所の中は私的な場であり、学堂は公の場である。大丈夫が事を行うには、衆目のもとで明らかにさせねばならぬ」と。また同志が合わせて何人いるかを問うたが、堅く答えなかった。さらに教習のうちに同謀の者がいるかと問うと、答えて言った、「この連中は衣食のために来ている者ばかりで、ともに謀るに足る者は一人もいない」と。
  • そこで紙と筆を与えて言った、「お前自身で数語を書いて供述書としてもらえるか」と。答えて言った、「よろしい」と。その供述書に言う。
  • 私はもともと革命党の首領であり、道員として安徽に官を得たのは、もっぱら排満のために来たのである。政界に身を投じたのは、人に気づかれ防がれることのないようにするためだ。
  • 満洲人が我が漢族を虐げてから、もう三百年近くになる。その表向きの立憲を見るに、天下の人心を籠絡するものにすぎず、実は中央集権を主とし、それによって権力の制度を膨張させうるというものだ。しかしそれは実際には満洲人の妄想であって、ひとたび立憲すれば革命はできなくなると考えているのだ。
  • ところが知らないのだ、中国人の程度は立憲には足りていないということを。私の考えでは、立憲は万が一にもやり遂げられないが、革命は誰にでもやり遂げられる。もし中央集権をもって立憲とするならば、立憲が早く進むほど、我が漢人は早く死ぬことになる。
  • 私はただ革命の宗旨を固く握っている。ひとたび時に乗じて立ち上がり、満洲人を殺しつくせば、自然に漢人は強盛になる。そのうえで立憲を図っても遅くはない。
  • 私が排満の志を抱いてからすでに十余年になる。今日ようやく目的に達した。もともとは恩銘を殺したのち、さらに端方・鉄良・良弼を殺し、漢人のために復讐するつもりであったのに、恩銘を殺した直後に捕らえられてしまい、実に満足しがたい。
  • 私の今日の考えは、ただ恩銘と毓鍾山とを殺そうというだけであった。恩銘はおそらくすでに撃ち殺されたであろうが、惜しいことに毓鍾山は得をした。このほかの各官員はみな誤って傷つけたのであり、ただ顧松だけは漢奸である。彼が「会辦が謀反する」と言ったので、彼を殺したのだ。趙廷璽は私を捕らえようとしたので、私もまた彼を撃とうとしたが、惜しくも逃げられた。
  • お前たちは撫台は良い官で、私を厚く遇したと言う。それは確かにそうだ。しかし私は排満を宗旨としている以上、満洲人の官としての善し悪しを問うわけにはいかない。撫台が私を厚遇したことについては、個人の私的な恩恵に属する。私が撫台を殺したのは排満という公の道理である。この挙はもともとゆっくり図るつもりであった。ところが撫台が近ごろ革命党の摘発を非常に厳しくし、しかも面と向かって私に革命党の首領を捕らえよと言いつけたので、その害に遭うことを恐れ、先手を打って制したのであり、しかも衆人の前で彼を殺そうとしたのだ。
  • このほか文武の官は私に服従しないわけにいかず、まっすぐ南京へ下れば破竹の勢いとなりえた。私はこれによって大いなる名を享けられる。これこそ私の最も得意とするところである。
  • お前たちは繰り返し、私の親しい友二人がすでに一緒に捕らえられているが、いずれも姓名を白状しようとせず、将来、私の大いなる名と並んで不朽に伝わることができないのは惜しいことだ、と言う。その論もまたもっともだ。しかしこの二人は実に学問があり、日本ではいずれも名を知られていた。私の聞くところでは、軍械所で撃ち殺されたのは光復子・陳伯平であり、これは実に私の親友である。捕らえられたのはおそらく私の友の宗漢子であろう。もとより別号で呼ばれ、本当の姓名はない。
  • お前たちの言う、すでに捕らえたという黄復は、浙江人ではあっても私は面識がない。学生たちは程度が低すぎて、一人として用いるに足る者はなく、みな事情を知らない。お前たちが私を殺し、私の両手両足を刻み、私の全身を切り砕くのはいずれも構わないが、学生を無実の罪で殺さないでほしい。みな私に誘われ迫られてそうなったのだ。
  • 革命党が安慶に多いのは、実は私一人が排満のために光復軍を創設しようとしたからであり、私を助けたのはただ光復子・宗漢子の二人だけである。無辜の者を巻き添えにしてはならない。私は孫文とは宗旨が合わない。彼にはまた私を刺客に差し向ける資格などない。私は自分がまもなく死ぬことを知っており、私の宗旨の大要を数語自ら書きしるして、天下後世に皆が私の名を知るようにする。これに過ぎる栄誉はない。

  • そのとき司・道の官が集まって議し、張汶祥が馬新貽を刺した先例に倣い、心臓をえぐり出して(被害者の霊に)供えることにした。聯裕と毓秀はいずれも、先に心をえぐり出し後で斬首するという説を主張した。労文琦もこれに同調したが、馮煦は強く不可を主張して言った、「斬首は国法であり、心をえぐるのは私刑である。私をもって公を廃してはならぬ」と。そこで斬首したのちに心をえぐると定まった。

  • その晩、宋芳賓・労文琦の監視のもと、東轅門の下で斬られた。享年三十五であった。そのうえで心臓をえぐり出して皿に載せ、恩銘の遺体の前に供えた。護衛隊の某はさらにその肝を取って煮て食い、味はきわめて美であったと言った。その遺体はほどなく四枚の板で釘づけにして封じ、屋外の地に置かれたが、大雨が土砂降りに降り、一昼夜やまなかった。二十七日の午前になって、ようやく北門の外に埋められた。
  • 錫麟が刑に臨んだとき、先に写真を撮らせたが顔色は平然としており、言った、「功名富貴は心に快いものではない。今日このような死を得たからには、もう恨みはない」と。宗漢もほどなくまた殺された。
  • 六月、浙江巡撫の張曾敭が、紹興大通女学校の校長・秋瑾を捕らえて殺した。秋瑾はかねて革命を鼓吹することを天職としており、かつて日本に遊学し、同志とともに共愛会を組織したが、取締の風潮(騒動)によって帰国し、潯渓学校で教鞭をとった。その教育は順序を追って進み、成績は諸学校の首位であった。さらに『中国女報』の創刊を唱え、女権を提唱して家庭の良き導き手たらんことを期した。
  • 徐錫麟の事が失敗すると、曾揚(曾敭の誤りか)は安徽巡撫の馮煦から電報の知らせを受け、党人を捜索した。瑾はそのとき紹興にあって錫麟の組織した大通学校の校長を務めていた。ちょうど同郷の富裕な郷紳・胡道南は瑾の仇家であり、知府の貴福に密告して、瑾が武器弾薬を学校の中に隠し、まさに事を起こそうとしており、嵊県の平洋党と結んで外からの呼応とさせようとしている、と言った。
  • 貴福の父と瑾の父とは同僚の友であり、瑾は代々のつきあいの家であるゆえに貴福の家に出入りすることが非常に親密で、貴福もまた常に彼女を重んじ、かつて瑾に対句を贈って「競争天演、雄冠地球(競い争うは天の進化、雄たること地球に冠たり)」と書いた。瑾の別の字が競雄であったからで、一時世に伝えられ誦された。ここに至って貴福は道南の言を容れ、また恩銘のことがあったので兎死狐悲の感を抱き、そこで微行して夜道を行き、省城に馳せて変を告げた。
  • 曾敭はただちに巡防営統領の李益智を紹興に派遣して合同で捕らえさせ、ほどなく貴福に電令して、捕らえたのち取り調べて明らかにしたうえ、その場で処刑せよとした。
  • 益智は到着すると、その月の初四日の夜、貴福とともに兵を率いて大通学校に至った。ちょうど夏休みの期間で、学校に残っていた学生はわずか十余人であり、みな驚き恐れて途方に暮れた。貴福はいきなり発砲を命じ、二人を死なせ、七人を傷つけた。瑾は拘束され、教員の程毅および学生六人もまた捕らえ去られた。
  • 貴福は山陰・会稽の両県とともに厳刑による苛酷な取り調べを行ったが、匪徒に通じた確かな証拠は何もなかった。焼いた鎖や焼いた煉瓦の上に無理に跪かせ、むごたらしい叫び声が役所の外まで達した。程毅は死にかけては生き返ることが六度に及んだ。瑾は堅く認めず、ただ「秋雨秋風愁殺人(秋の雨、秋の風、人を愁い殺す)」の七字を書いただけであった。武器弾薬を捜索しても見つからなかったので、瑾の衣の帯の中から拳銃一挺が出てきたと称し、これを身に凶器を帯びていたものと決めつけ、ただちにこれを根拠として裁きを成立させた。翌朝、瑾を郡城の軒亭口で殺した。享年三十三であった。
  • この事件の巻き添えになった者は、女子教育界においてとりわけ多かった。前監督の孫徳清は長く拘束されて釈放されず、洋銀五千元の寄付を強要されてようやく出獄でき、富裕な郷紳の許仲清は捕らえられ拘留されたが、これもまた洋銀十万元を寄付してやっと免れた。さらに同仁学堂の学生八人が捕らえ拘禁され、戯捐公所およびその付設の学堂の幹事員と学生もまた八人が捕らえ去られた。毓秀・震旦の各学校はみな解散を強いられた。そして貴福の刑名の幕僚である陳某、山陰知県の李鍾嶽は、いずれもこの事件の不当を争ったために罷免され追い払われた。
  • 省から委員として派遣された道員の陳翼棟が到着して事件の記録を調べたときにも、やはり咎める言葉があり、あわせて嵊県には乱の知らせがないことを調査して、兵を引き上げるよう求めた。貴福は曾揚(曾敭の誤りか)の意向を受けて、承知しないと言い張った。そこで浙江の人々は大いに騒ぎ立て、曾敭は自ら落ち着かなくなり、ついに転任を求め、そこで江蘇巡撫に移った。江蘇の人はこれを拒み、さらに山西に転じようとしたが、山西の人もまたこれを拒んだ。曾敭は自分が受け入れられないことを知り、そのとき病と称して湖北に住んだ。貴福もまた前例にならって転任を求め、そこで安徽の寧国の知府に移ったが、寧国の人もまた例にならってこれを拒み、そのまま行方が知れなくなった。道南はほどなく人に殺され、益智は広東の大沙頭の花艇の中で焼け死んだ。
  • 秋瑾が殺されたとき、遺体は路上にさらされ、あえて引き取って葬る者がなかった。のちに石門の徐寄塵、桐城の呉芝瑛の両女史が西湖の西泠橋のほとりに地を選び、石を築いてこれを葬り、碑に題して「鑑湖女侠秋瑾之墓」と記した。一年あまりして、満洲人の御史である常徽が上疏して、その墓をならしてしまい、寄塵・芝瑛を処罰するよう請うたが、事はすでに年を越えており、ほかの朝廷の士たちもすでにその実情を調べ知っていて、国人の憤りを刺激することを恐れ、その議を差し止めて追及しなかった。ただ浙江の当局者に意を含ませ、密かに瑾の家族に自分で改葬して立ち去らせた。
原文(底本)
__TOC__德宗光緒三十三年夏五月,安徽巡撫恩銘為道員徐錫麟鎗斃。錫麟及其黨陳伯平等,均為營兵所殺。錫麟,浙江山陰人,沈雄有大志,膽識過人,尤擅權畧。時中國政治廢弛,官吏萎靡不振,錫麟每與人慟論時局,輒欷歔流涕,不能自已。其父梅生嘗切戒之,而錫麟不顧也。弱冠後,以廩生中副車;知科舉縛人甚烈,棄之,入浙江師範學堂。既卒業,為山陰縣學堂堂長,紹興府學堂監督,剏辦紹興大通學堂、明遠學堂,後游學德國,入警察學堂畢業。後至日本,與彼都豪傑之士及內地志士東渡居留其間 者相周旋,洞悉民族之義理、亡國之舊聞,慷慨激發,毅然以光復爲職志。知新中國非大破壞不爲功,欲以政界爲著手地,遂返國,納貲爲道員,候補安徽,詭說當事,危切悚動,大爲恩銘所激賞,即委任之爲陸軍小學堂會辦。逾年,改委廵警處會辦及廵警學堂堂長,錫麟乃以其間與同邑陳伯平、餘姚馬宗漢組織光復會,值星期日輒集廵警學堂,敎習學生於講堂,開演說,意在灌輸最新智識,以激盪警界同學,而於種族之大義、革命之眞諦,常隱隱流露於詞氣之間,衆皆爲之激昂,民族思想之泛溢有一日千里之勢。於是黃漢光復軍遂發生於安慶之陸軍小學、廵警學堂,而流布於紹興之大通、明遠、毓秀、潯溪、同仁、震旦、蠶業各學校。方擬俟佈置完善,聯合軍警實達目的。顧錫麟天資雖高華,而性情縝密,籌畫方略又復深藏不露,以故皖中諸當道無人知其爲光復軍首腦者。恩銘且嘗語人曰:『徐道辦事認眞,操守廉潔,洵不易才也!』適上海捕獲黨人葉某,得同黨人名錄,知多𪊽集於皖,而其首領即錫麟之別名,江督端方電吿恩銘嚴密偵探。時錫麟爲警察長,故恩銘與之協商,錫麟陽諾之而陰懼事洩且不測,欲先發制之。又錫麟與海外諸同志時通消息,軍火均由大通等處潛運,恩銘得信早,飭屬嚴切查拏,並通電各省爲之防範,以故黨人多罹於禍,軍火耗散亦不貲。錫麟憤,欲撲殺皖中滿吏,爲被害各同志復仇。時皖省雖有常備軍兩標,其第一標方從事於操練,未發鎗械;第二標又悉初徵之兵,更不諳操法,緝捕廵防各隊兵單人少,其餘綠營則行伍空虛,兵未習練,無事坐食而已。錫麟欲利用此時機以發難。是年二月間,已遣其眷屬歸浙,至是陰約各機關速爲整備,訂期是月二十八日同舉。適廵警學堂兵生班屆畢業之期,連日校中攷試將竣,照章應由廵撫親臨大攷,以便撥充站崗。爲試辦東西兩區廵警地步,錫麟遂欲於二十八日舉行卒業式,以殺廵撫爲下手之方,尋戮皖省之滿員,此外文武可以不鞭而驅,不策而馳。事定即溯江直下南京,而後徐定大計。會恩銘以二十八日須祝幕府章某母壽,令改期二十六日。錫麟力言爲期太促,赶辦不及。恩銘傳收支委員顧松問之,松以一切齊備對,遂定期。錫麟不得已,乃於前一日親自衣冠詣請闔城文武滿吏蒞堂閱操,期必到以爲一網盡之之計。是晨八時,設盛讌於花廳,預埋炸藥於地下,請各官讌畢閱操,其用意欲使廵撫以下悉爲灰燼於樽俎之間。而恩銘有先閱操後設讌之命,於是錫麟知預定一切計畫均不能實行,且疑謀已外露,意擊廵撫死,不擊亦死,與其失敗而死盍若冒險一試爲之。即下令全體官兵生站隊,親往操場演說,爲諸君當結團體,救祖國,語次激昂,聲震遠近。諸生驟聞是言,尙有茫然不解其命意之所在者。旋恩銘及三司道府縣各印委人員五十餘先後至堂,恩銘將升座,閱外場操演,錫麟請先攷內場功課,恩銘率司道入第三進禮堂,錫麟戎服立階上,學生等列隊迎,先由官生行謁督辦禮,恩銘答禮畢,兵生正擬行禮時,錫麟趨進曰:『報吿大帥,今日革命軍起事。』恩銘愕然,未及答而鎗聲已發。其時錫麟先擲炸彈於地,未觸發,馬宗漢赶擊一鎗,中恩銘右手。宗漢行刺,神色倉皇,手顫不能再試,錫麟即於靴統內突出六響快鎗兩支,握左右手,輪向恩銘轟擊,復連中七鎗,唇腰際及兩腿皆受傷,最後由尾閭洞穿小腸,遂仆地。時文廵捕陸永頤、武廵捕車德文以身遮護,永頤登時斃,德文亦獲重傷。道員巢鳳儀傷腿,首府龔鎮湘傷背,顧松及一門役皆擊死。恩銘既中鎗,藩司馮煦命戈什背負輿中,送返撫署,恩銘猶能大呼,務將徐錫麟拏獲,收禁司監,并謂廵警學堂全體毫不干涉,毋滋疑畏。一面飭令關閉城門,派兵廵邏緝捕,加調各營以保大局。復稱腹中慟甚,速請西醫起彈。及醫生至,謂彈入臟腑,非剖腹不救。恩銘時已不能言,惟以手指腹,促其速剖。乃一剖再剖,均不見彈之所在,蓋其彈爲藥水製造,見血即化也,而恩銘遂坐是死。當變起倉猝時,人情恐慌特甚,錫麟手握雙鎗,從容施放,口中猶稱大帥放心,此刺客職道定可辦到,故此禮堂外皆不知鎗聲所自起。一聞刺客二字,各官乃鳥獸散,尙不疑爲錫麟所爲也。錫麟見恩銘去後,即僞語學生曰:『撫臺已爲顧松所刺,我等須往軍械所保護。』拔刀出禮堂,與伯平、宗漢左執刀,右握鎗,率學生整隊行。既抵軍械所,所員周家煜逃,錫麟等入據之。爲抵禦計,及學生取局中所存新舊各礟試用皆不得手,而兵勇大至圍之。時統兵者爲緝捕營管帶杜春林、中軍兼廵防營標統劉利貞、稽查局員知縣勞文琦等。錫麟急令伯平、宗漢守住前後大門,鎗斃弁勇六人,相持六小時之久。錫麟見勢不敵,遂返身入所,越牆逸去,伯平爲緝捕營勇擊斃,宗漢當場被執,先後捕繫學生及夫役二十一名。當各營兵圍攻軍械所時,多不肯向前,馮煦遣道員黃潤九往督催,仍不進,乃傳令獲錫麟者賞洋一萬元,各兵始奮勇攻入。見錫麟戎衣遺地下,知已改裝出走。報至撫署,相顧失色,一面仍飭嚴緝,一面出示加賞,能知徐錫麟下落報吿者賞洋五千元,因拒捕中創身死者賞洋二千元。至午後四時,錫麟乃弋獲,復於廵警學堂錫麟之寢室起出白旗一面,上書四言韻語,寓光復起事之意。子彈四箱,鎗炮多支,刀三十把,討虜大元帥印一顆,吿示百餘張,並黨人書信八件,皆謀皖語,並有運動奉天大俠馮麟閣之證據,及其弟徐偉書有浙皖辦事,兄自酌定等語。旋於其私宅起出信件甚多,相片百餘張,及光復軍大旗一面。錫麟解至督練所,即由兩司會訊,馮煦曰:『中丞爲爾之恩師,爾何無心肝乃爾?』錫麟曰:『彼待我誠厚,然私惠也。我之刺彼,乃天下之公憤也。』煦又問曰:『爾究係孫文之黨否?』曰:『孫文不足以指揮我,此事僅我與我友宗漢子光復子所爲。其隨攻軍械所之學生實不知情。當時我以鎗迫之,不得已而隨行,我之罪我一人當之,即數十學生之罪亦我一人當之。寸磔我身可矣,幸無累及他人。』因問曰:『新甫(恩銘字)死未?』臬司聯裕紿之曰:『未也,僅受微傷耳。經西醫診治已全愈,明日當親自訊爾。』錫麟聞言,色遽變,垂首不語。聯裕又曰:『爾知罪否?明日將割爾心肝矣。』錫麟悟而大笑曰:『然則新甫死矣。新甫死,我志償。我志既償,即挫我身爲千萬片亦所不惜。區區心肝何屑顧及?』且指聯裕曰:『爾幸不死。』聯裕大震幾踣,既而曰:『殺爾固無濟,即不殺爾庸何傷。我本擬先殺恩銘,次端方,次鐵良,次良弼。』馮煦曰:『爾平日嘗謁見撫臺,而不擊之於私室,乃至今日始擊之,何也?』曰:『署中私室也,學堂公地也,大丈夫作事須令衆目昭彰。』又問其同黨共有若干,堅不答。更問敎習中有同謀者否,曰:『此輩爲衣食起見,無一足與謀者。』因授以紙筆,謂曰:『請爾自書數語備作供詞可乎?』曰:『可。』其供詞云:我本革命黨首領,以道員就官安徽,專爲排滿而來。投身政界,使人無可防覺。滿人虐我漢族將近三百年矣,觀其表面立憲,不過牢籠天下人心,實主中央集權,可以膨脹權制,然實滿人之妄想,以爲一立憲即不能革命。殊不知中國人程度不夠立憲,以我理想,立憲是萬萬作不到,革命是人人作得到。若以中央集權爲立憲,越立憲得快,我漢人越死得快。我只拿定革命宗旨,一旦乘時而起,殺盡滿人,自然漢人強盛,再圖立憲不遲。我蓄志排滿已十餘年矣,今日始達目的,本擬殺恩銘後再殺端方、鐵良、良弼,爲漢人復仇,乃竟於殺恩銘後即被拏獲,實難滿意。我今日之意僅欲殺恩銘與毓鍾山(名秀)耳。恩銘想已擊死,可惜便宜毓鍾山,此外各員均係誤傷,惟顧松係漢奸。他說會辦謀反,所以將他殺死。趙廷璽他要拏我,故我亦欲擊之,惜被走脱耳。爾等言撫臺是好官,待我甚厚誠然,但我既以排滿爲宗旨,即不能問滿人作官之好壞。至於撫臺厚我,係屬個人私惠,我殺撫臺乃是排滿公理,此舉本擬緩圖。因撫臺近日稽查革命黨甚嚴,又當面囑我拏革命黨首領,恐遭其害,故先發以制之,且欲當衆將他殺死。此外文武不能不服從我直下南京可以勢如破竹,我從此可享大名,此實我最得意之事。爾等再三言我密友二人現已一併拏獲,均不肯供出姓名,將來不能與我大名並垂不朽,未免可惜,所論亦是,但此二人實有學問,在日本均知名。以我所聞,在軍械所擊死者爲光復子陳伯平,此實我之好友。被獲者或係我友宗漢子,向以別號稱並無眞姓名。若爾等所說已獲之,黃復雖係浙人,我不相識,衆學生程度太低,無一可用之人,均不知情。爾等殺我,刴我兩手兩足,將我全身砍碎,均可不要冤殺學生,皆是爲我所誘偪使然。革命黨多在安慶者,實我一人爲排滿事欲剏光復軍,助我者僅光復子宗漢子二人,不可拖累無辜。我與孫文宗旨不合,他也不配使我行刺。我自知即死,將我宗旨大要親書數語,使天下後世皆知我名,不勝榮幸之至!
時司道聚議,援張汶祥刺馬新貽例,剖心致祭。聯裕毓秀皆主先挖心後斬首之說。勞文琦附和之,馮煦力持不可,曰:『斬首國法也,挖心私刑也,不得以私廢公。』遂定斬首後再挖心。當晚由宋芳賓、勞文琦監斬於東轅門下,時年三十五也。復將心挖出置碟內,供於恩銘屍前。衛隊某並取其肝烹而食之,謂味極美。其屍旋用四塊板封釘,置於露地,大雨傾盆,一日夜不止。二十七日午前,始掩埋於北門外。方錫麟之臨刑也,先拍小影而神色自若,曰:『功名富貴,非所快意。今日得此死,且不憾矣!』宗漢旋亦被殺。 六月,浙江廵撫張曾敭捕殺紹興大通女學校校長秋瑾。秋瑾向以鼓吹革命爲天職,嘗赴日本游學,與同志組織共愛會,因取締風潮歸國,主講潯溪學校,敎育循序而進,成績爲各校冠。復倡辦中國女報,冀以提倡女權,作家庭良導師。徐錫麟事敗,曾揚得皖撫馮煦電吿,搜索黨人,瑾時在紹興任錫麟所組之大通學校校長,會同邑富紳胡道南,瑾仇家也,吿密於知府貴福,言瑾藏軍火校中,將爲變,勾嵊縣平洋黨爲外應。貴福之父與瑾之父爲寅友,瑾以通家故,往來貴福家甚密,貴福亦恆雅重之,嘗贈瑾聯語曰:「競爭天演,雄冠地球」以瑾別字競雄也,一時傳誦。至是貴福入道南言,又以恩銘故有兎死狐悲之感,乃微服宵行馳省吿變。曾敭立派廵防營統領李益智赴紹會捕,旋電令貴福拏獲後訊明,就地正法。益智至遂於是月初四夜會同貴福率兵至大通學校,適值暑假期內,學生留校者僅十餘人,時皆驚懼失措。貴福遽命開鎗,致斃二人,傷七人。瑾被拘,敎員程毅及學生六人亦捕去。貴福與山陰、會稽兩縣嚴刑酷審,並無通匪實據,迫令跪火練、火磚,慘聲達於署外。程毅瀕死而復蘇者六次,瑾堅不承,惟書『秋雨秋風愁煞人』七字而已。因搜軍火無著,謂在瑾衣帶中起出手鎗一支,指爲身帶凶器,遽援以具獄。翌晨殺瑾於郡城之軒亭口,時年三十有三也。是役株連者,衆女學界尤甚。前監督孫德淸久拘不釋,勒捐洋五千元得出獄,富紳許仲淸被拏在押,亦捐洋至十萬元乃免,復捕繫同仁學堂學生八人,戲捐公所,及附設之學堂幹事員與學生亦捕去八人。毓秀、震旦各學校皆迫令解散,而貴福之刑幕陳某、山陰知縣李鍾嶽均以爭此案不平被撤逐。及省委道員陳翼棟至查閱案卷,亦有責言,並調查嵊縣無亂耗,請撤兵。貴福承曾揚旨,持不允,於是浙人大譁,曾敭不自安,遂求調,乃移撫江蘇。蘇人拒之,更調山西,晉人又拒之。曾敭知不見容,於時乃乞病居鄂(曾揚爲鄂督之洞之兄子),貴福亦援例求調,乃移守安徽之寧國,寧人亦循例拒之,遂不知所終。道南旋爲人所殺,益智焚死於粵之大沙頭花艇中。當秋瑾之被殺也,暴屍道路,無敢收葬者。嗣石門徐寄塵、桐城吳芝瑛兩女士卜地西湖西泠橋畔,築石葬之,題碣曰:『鑑湖女俠秋瑾之墓』逾年,滿御史常徽上疏請夷其冢而治寄塵、芝瑛罪,時事越年,餘朝士已廉得其實,懼激國人憤格,其議不究,但授意浙當道,密令瑾之家屬自行遷葬去。

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