清史紀事本末宣統帝の嗣立(宣統嗣立)

要約

光緒三十四年冬十月、醇親王載灃を摂政王とした。帝は前年秋以来病んで出御しないこと二年余、前月来朝したダライ・ラマ勒朗結を仁寿殿で接見し、初六日には紫光閣で宴を賜ったが、初十日の太后の万寿節には病が重く礼を行えず、勒朗結に「誠順賛化西天大善自在仏」の号を封じた。二十日、太后も不予となり、載灃に暫く朝政を摂らせた。

載灃の子の溥儀を宮内で教育し上書房で読書させた。太后は帝の病が癒えぬと知りながら皇太子を立てず、二十日に溥儀を宮中に入れ皇后に養育させた。生まれて三年、母は故大学士栄禄の娘。太后が奕劻に命じて奏上させると、帝は嗣を立てるのに年長の者をもってするのは道理にかなうと言い、醇親王が摂政すると聞いて喜び「託すべき人を得た」と。

二十一日酉の刻、帝が崩じた。遺詔にいう、朕は気血弱く、去年の秋に病んで危篤に至った。皇太后の懿旨を奉じ摂政王載灃の子溥儀を嗣皇帝とする。臣工は年次の準備事項に従い、九年の後に憲法を頒布して朕の志を全うせよ、と。太后は嗣皇帝に穆宗と大行皇帝の祧を承けさせ、摂政王を監国、太后を太皇太后、兼祧の母后を皇太后とした。二十二日未の刻、太皇太后葉赫那拉氏が崩じた。

安慶駐屯の馬隊砲隊の隊官熊成基が秋の演習に乗じ二十六日の夜明けに城を襲ったが、城中は堅く守り軍艦にも攻められ桐城・樅陽へ退き、成基はのちハルビンで捕らえられ吉林で死んだ。十一月、嗣皇帝が即位し明年を宣統元年とし、大行皇帝の廟号を徳宗、陵を崇陵、太皇太后の諡を孝欽顕皇后とした。変通旗制処を設け、太后に隆裕皇太后の徽号を奉り、奕劻に世襲罔替を命じ、諭旨に軍機大臣が署名する制を定めた。十二月、禁衛軍を編成し監国摂政王が統率し、王文韶が卒し、京漢鉄道を収め返し、軍機大臣袁世凱を帰郷させ、那桐を軍機大臣上学習行走とした。

宣統元年、郵伝部尚書陳壁を浪費と人員水増しで革職し徐世昌を代えた。三月、各国の専使が梓宮に拝謁し、山陵に移し立山・徐用儀・許景澄・聯元・袁昶に諡を追贈した。夏四月、載振を日本、戴鴻慈をロシアに遣わし答礼とし、各省の財政を藩司らの統轄に帰した。五月、翁同龢の原官を復し、監国摂政王が海陸軍大元帥を代理し軍諮処を設けた。六月、呂海寰は李徳順の私利を見落とした責で免ぜられた。秋七月、日本と東三省五案条款を結び、安奉鉄道改築も吉長借款契約とあわせ完結した。八月、張之洞が卒し、福州の大火と大風で死者百余人、沈没船二千余艘。冬十月、端方は梓宮を送る際、行宮の外で写真を撮らせて李国杰に弾劾され、冥銭を焼く際に神路を横切った罪に問われて革職された。孫家鼐が卒した。十二月、御花園の東に池を掘り玉泉山の水を引き、九層三十九間の水殿を造り太后を奉養するとした。太后自ら「霊沼軒」と題したが俗に水晶宮と呼ばれ、費用は帑金百万以上、退位の時もなお成らず。

二年春正月、ダライ・ラマ勒朗結の名号を剥奪した。趙爾豊が勒朗結はロシアと協約を結んだと電報し、趙爾巽が四川から大軍を入れ兵が拉薩に至ると、勒朗結はインドへ出奔して英露に訴え、朝廷は爾豊に別の霊童を立てさせた。二月、山西の交城・文水の民が禁煙のため暴動し平らげられた。広東の党人汪兆銘らは監国摂政王の暗殺を謀り捕らえられ、監国は党禍を恐れ寛大の名を得ようと永遠禁錮に止めた。三月、湖南の省城で米価高騰の折に飢民が平糶を求め、巡撫岑春蓂の義糶の議を王先謙が妨げ、葉徳輝が米を出さなかったので、飢民は撫署と教会堂・学堂を焼き、春蓂は職を解かれ、文武官と悪紳が懲らされた。六月、山東の萊陽・海陽の民が苛税に抵抗し、殺傷数百人に及んだ。火耗などの悪例が重なり、萊陽では紳士王圻らが畝・家屋・頭数に課税し、県官朱槐之が悪紳をかばい兵を動かした。秋七月、湯寿潜は盛宣懐を蘇浙鉄道の罪魁と電斥し革職された。九月、四川の定郷の兵が変を起こし雲南の中甸に逃げたが平定され、十二月、雲南大姚県の民が暴動して県城が陥ちたがまもなく平定された。載振をイギリス王戴冠の専使としたが、イギリスは軽んじて席次をエジプトの前、インドの後の三十六位に置き、政府は劉玉麟を叱責した。三年春正月、イギリス兵が片馬を占拠し、駐英公使に撤兵を請わせ、東三省に疫病が流行した。二月、四川の徳格など三土司を改土帰流し、黄興らが広州で総督の衙門を焼いたが官軍に撃退され死者七十二人、興は香港に逃げた。先に孫文・黄興は日本で同盟会を立て、鎮南関・河口で事を起こして敗れていた。夏四月、江蘇の諮議局が張人駿と予算案を争い議員が総辞職し、吉林省城の大火で民家一万余戸を焼いた。閏月、安徽・江蘇など七省に大水、漢陽の大火で家屋八千余軒・船千余艘が焼け死者百余人。八月、民軍が湖北の武昌で事を起こし、湖南・江西・陝西など十三省が相次いで呼応し、冬十二月二十五日、詔を下して退位を宣布した。

年表

光緒三十四年(1908年)の徳宗の崩御と幼帝溥儀の即位から、宣統三年(1911年)十二月の退位詔書までを扱う篇。西太后は病篤い帝のために醇親王載灃を摂政王とし、その子溥儀を宮中に入れて大統を継がせ、自らも二十二日に崩じた。監国摂政王の下で袁世凱が罷免され、禁衛軍の編成や官制の改編が進む一方、ダライ・ラマ勒朗結の名号剥奪、湖南の飢民暴動、山東萊陽・海陽の抗税暴動、汪兆銘の摂政王暗殺未遂などが相次いだ。宣統三年には黄興の広州蜂起と武昌の民軍蜂起が起こり、各省が呼応して清朝は退位に至る。

年表(4件)

現代語訳全文

西暦1908年 徳宗光緒三十四年

  • 冬十月、醇親王載灃を授けて摂政王とした。帝は前年秋に入って以来病を患い、殿に出御しないこと二年余であった。前月、ダライ・ラマの勒朗結が来朝し、二十日に帝はなお努めて仁寿殿に出御して接見した。この月の初六日には、また紫光閣に出御して宴を賜った。初十日に至り、太后の万寿節に、勒朗結が徒衆を率いて祝いを述べたが、帝はすでに病が重く、自ら赴いて礼を行うことができず、ただ旨を伝えて勒朗結に「誠順賛化西天大善自在仏」の号を加え封じた。二十日に至り、太后もまた不予(病気)となったので、載灃に命じて暫く朝政を摂らせた(「暫設」の「設」は「摂」の誤りか)。
  • 載灃の子の溥儀に宮内で教育を受け、あわせて上書房で読書するよう命じた。当時、太后は帝の病が起き上がれぬものとなろうと知っていたが、まだ皇太子が立てられていなかった。そこでこの月の二十日に溥儀を取って宮中に入れ、皇后に命じてこれを養育させた。生まれて三年であり、その母は醇親王邸の福晋で、故大学士栄禄の娘である。
  • 太后はほどなく慶親王奕劻に命じて帝のもとに行き奏上させた。帝は言った。「嗣を立てるのに年長の者をもってするのは、道理にかなったことではないか。」続いて醇親王が摂政すると聞き、帝は喜んで言った。「託すべき人を得た。」
  • 帝が崩じた。この月の二十一日酉の刻のことである。遺詔におおよそ次のようにいう。「朕の身は気血がもとより弱く、去年の秋のうちに病んで以来、治療して今日に至るも、日ごとに重くなり、そのため危篤となって起き上がれぬに至った。思うに神器はきわめて重要なものであり、速やかに適任の人に伝え託すべきである。ここに皇太后の懿旨を謹んで奉じ、摂政王載灃の子溥儀をもって大統を承け継がせ、嗣皇帝とする。必ずや慈愛の御心を仰ぎ体して、託されたところを謹んで承けることができるであろう。中外の臣工は、必ず前回の諭旨を謹んで尊び、それぞれ年を追っての準備すべき事項に従い、着実に処理せよ。そうすれば九年ののちに憲法を頒布し、朕の成し遂げられなかった志を全うすることができよう。」
  • 太后が命じて、嗣皇帝に穆宗を承け継いで嗣とし、あわせて大行皇帝の祧(祭祀の継承)をも承けさせた。
  • 摂政王を監国とした。
  • 太后を尊んで太皇太后とし、兼祧の母后を皇太后とした。
  • 太皇太后葉赫那拉氏が崩じた。この月の二十二日未の刻のことである。
  • 安徽で馬隊・砲隊の兵が変を起こした。安慶に駐屯する馬隊・砲隊の隊官である熊成基が、秋の演習に乗じて事を起こそうとした。この月の二十六日の夜明けに、衆を率いて城を襲った。城中は厳しく守って入ることができず、また長江中の軍艦に攻められ、そのまま西北の桐城・樅陽などの地へ退いて逃げ、衆は次第に潰え散った。成基はのちハルビンで逮捕され、吉林で死んだ。
  • 十一月、嗣皇帝が即位し、明年を宣統元年とした。
  • 大行皇帝に尊諡を奉って「同天崇運大中至正経文緯武仁孝睿智端倹寛勤景皇帝」とし、廟号を「徳宗」、陵を「崇陵」とした。
  • 大行太皇太后に尊諡を奉って「孝欽顕皇后」とした。
  • 監国摂政王の礼節を頒示した。
  • 変通旗制処を設立した。
  • 太后に徽号を奉って「隆裕皇太后」とした。
  • 奕劻に親王の世襲罔替を命じ、あわせて王公大臣にそれぞれ差をつけて恩を加えた。
  • 諭旨に軍機大臣が署名する制度を定めた。
  • 十二月、別に禁衛軍を編成し、監国摂政王が兼ねて統率することとした。
  • 大学士王文韶が卒し、諡を文勤と与えた。
  • 京漢鉄道を収め返した。
  • 軍機大臣袁世凱に、職を解いて郷里に帰り病を養う(「養苛」の「苛」は「痾」の誤りか)よう命じた。
  • 那桐に軍機大臣上学習行走を命じた。
  • 外務部右侍郎の梁敦彦を外務部尚書署理とした。

西暦1909年 末帝宣統元年

  • 春正月、郵伝部尚書の陳壁(「陳璧」の誤りか)を、費用の浪費と人員起用のみだりな水増し(「胃濫」は「冒濫」の誤りか)を理由に免職とした。
  • 東三省総督の徐世昌を郵伝部尚書とした。
  • 三月、各国から派遣された徳宗景皇帝の梓宮(御柩)に対する専使が拝謁した。
  • 徳宗景皇帝の梓宮を山陵に移し奉った。
  • 故戸部尚書の立山、兵部尚書の徐用儀、吏部侍郎の許景澄、内閣学士の聯元、太常寺卿の袁昶に追って諡を与えた。
  • 夏四月、貝子銜鎮国将軍の載振に日本国へ、法部尚書の戴鴻慈にロシアへ赴くよう命じ、梓宮を送るために専使を派遣してくれたことへの答礼とした。
  • 各省の財政をすべて藩司、あるいは度支司の統括審査に帰し、その他の一切の局所は、一年の期限を与えて順次に廃止することを命じた。
  • 五月のうちに、前協弁大学士翁同龢の原官を復した。
  • 監国摂政王が暫く海陸軍大元帥を代理することとし、あわせてまず軍諮処を専設した。
  • 六月、督弁津浦鉄道大臣の呂海寰が、路局の局員李徳順が私利を図ったのを見落とした責により、その職務を解かれ、郵伝部尚書の徐世昌がこれに代わった。
  • 秋七月、両江総督の張人駿を南洋勧業会の会長に派した。
  • 日本と東三省の五案条款を締結した。日本は安奉鉄道の改築の件によって自由に行動し、交渉は決裂しかねないところまで行ったが、ここに至って、その他の諸案および吉長借款契約とあわせ、条款を結んで案を完結させた。
  • 八月、大学士張之洞が卒し、諡を文襄と与えた。
  • 福建の福州で大火と大風があり、死者は百余人、負傷者は二百余人、沈没した船舶は二千余艘であった。
  • 法部尚書の戴鴻慈に軍機大臣上行走を命じた。
  • 九月、軍機大臣の鹿伝霖を大学士とし、吏部尚書の陸潤庠を協弁大学士とした。
  • 冬十月、直隷総督の端方を、ほしいままに勝手なふるまいをし、大体をわきまえないとして免職とした。端方は徳宗の梓宮を送るにあたり、人に命じて太后の行宮の外で写真を撮らせ、散秩大夫の李国杰に弾劾された。そこで、冥銭を焼く際に、乗り物で神路を横切ったことをもって罪に問われ、ついに免職となった。
  • 大学士孫家鼐が卒し、諡を文正と与え、陸潤庠を大学士、戴鴻慈を協弁大学士とした。
  • 十二月、意見を上申する諸臣に、私見を抱いたり、些細な事柄を数え立てて大体をわきまえなかったりしてはならないと戒める諭を出した。
  • 留学して専門を修めた詹天佑・厳復らに、進士・挙人をそれぞれ差をつけて賞与した。
  • 監国が太后の懿旨を面前で承り、明年正月初十日の万寿節は、皇帝が宮内で礼を行うこととし、慶賀は取りやめることとした。当時、太后は延熙宮に住んでいた。大内の御花園の東に土の高まりが一区画あり、かねて占い師の言によって建築に適さないとされていた。帝が即位した後、ここに水殿を造営して太后を奉養することとし、四囲に池を掘り、玉泉山の水を引いてこれを取り巻かせた。殿はすべて九層、一層が九間、また四隅にそれぞれ一亭があり、合わせて三十九間である。銅を棟とし、ガラスを壁とし、四方の眺めは空しく明るく、その中に入る者は、身を瑠璃の世界に置いたかのようであった。壁の夾層の中には水を入れて魚を飼い、下層の床板もまたガラスで作られていて、首を垂れて覗くと、池の中を泳ぐ魚が一つ一つ数えられ、荇や藻が入り交じって、青々と絵のようであった。床板はまた開閉することができ、時に開けて持ち上げれば、小舟に乗って宮外まで直通できた。中層・上層もまたガラスを用い、上層の頂には、さらにガラスの水槽がいくつかあって、魚を飼うのに用いられた。階段はみな宮外に置かれ、東南の亭の中から曲がりくねって取り巻きながら次第に登るので、自分では登っていることに気づかない。太后は自ら扁額を書いて「霊沼軒」と題したが、俗には「水晶宮」と呼ばれた。この度の工事の費用は帑金すでに百万以上(底本は「百萬,以上」に作る)に達したと聞くが、退位の時にも、なお工事は終わっていなかった。

西暦1910年 末帝宣統二年

  • 春正月、阿旺鶏布蔵吐布丹甲錯済寨汪曲却勒朗結のダライ・ラマの名号を剥奪した。勒朗結は光緒三十年六月にイギリス兵を避けてクーロン(庫倫)に至って以来、朝廷はダライ・ラマの名号(「句號」は「名號」の誤りか)を剥奪するよう命じていたが、その後、勒朗結は西寧に引き返した。三十四年、詔してその来朝を諭し、封号を加え賜った。前年には、あわせて官員を派して護送し、チベットに帰らせた。十二月に至り、駐蔵大臣の趙爾豊が突然政府に電報で告げ、勒朗結がロシアと協約を結んだと述べ、政府から各国の公使に牒して、その協約(「該曰」は「該約」の誤りか)は中国皇帝の認可を経ていないので無効とする旨を告げるよう請うた。当時、爾豊の兄の爾巽が四川を総督しており、ただちに大軍を派してチベットに入らせ、爾豊がチベットの政治に干渉することの後ろ盾とした。この年の正月初三日、四川の兵が拉薩に至り、勒朗結はその夜のうちにインドへ出奔した。ここに至ってその法号を剥奪するよう命じ、爾豊に別に霊異のある幼童を選んで立てさせ、ダライ・ラマとすることとした。勒朗結は政府の暴を英に訴え、イギリス公使は外務部に質した。部は、ダライが叛逆を謀ったのでこれを退けたのであり、わが国のチベットの政治に対する方針には何の変更も無いと答えた。勒朗結はさらにロシアに訴え、イギリス・ロシアともに口やかましく言い立て、インドの仏教徒は空前絶後の盛大な儀式を挙げて勒朗結を歓迎しようとしていたという。
  • 戴鴻慈が卒し、郵伝部尚書の徐世昌を協弁大学士とした。
  • 内閣学士の呉郁生に軍機大臣上学習行走を命じた。
  • 今後、内外の文武・満漢の諸臣が事件を上申するときは、一律に「臣」と称することと定めた。
  • 二月、山西の交城・文水の両県(底本は「交城文、水兩縣」と読点を置く)の人民が禁煙のために暴動を起こし、まもなくこれを討ち平らげた。
  • 広東の党人の汪兆銘らが監国摂政王の暗殺を謀り、事が漏れて捕らえられ、永遠の監禁を命じられた。これより先、兆銘らはいずれも死刑と定められていたが、当時、監国は党の禍が朝夕絶えないのに鑑み、いよいよその怒りを重くすることを恐れ、恨みを解く挙に出て、寛大の名を得ようとした。粛親王善耆もまたこれに賛成して事に当たった。そこで法部に命じ、治安を乱し害したという罪で二人の判決を定めさせ、いずれも無期徒刑に処したうえ、加重して永遠の禁錮とした。
  • 三月、湖南の省城で飢民が暴動を起こし、巡撫の衙門および教会堂・学堂を焼き壊した。これより先、前年に長沙府の属地は秋の収穫が乏しく、この年、悪徳商人がさらに米を省外に運び出して外国人に売り、郷民が境で阻んだが果たせず、米価はそのために高騰した。この月の初五日、飢民数百が撫署に押しかけ、平糶(廉価での米の放出)を要求した。巡撫の岑春蓂は紳士に寄付を勧め、まず義糶を行うことを議した。悪辣な紳士の王先謙が真っ先にこの議を妨げ、葉徳輝は穀物を一万余石も蓄えながら、米を出すことを承知しなかった。そこで変乱が起こるに至った。無頼の民やならず者が集まって数千に達し、火を放って署および教会堂・学堂を焼いた。先謙らはなお撫臣が変乱を招いたのだと責め、別に巡撫を任命する(「簡易」は「簡放」の誤りか)よう電請し、孔憲教・楊鞏が議を唱え、藩司の荘賡良を擁立した。少数の悪辣な紳士によって巡撫に推され、徒党を組んで撫臣を陥れ、力を尽くして止まなかった。事が奏聞される(「事間」は「事聞」の誤りか)と、朝廷は春蓂の職を解くよう命じ、湖北藩司の楊文鼎を派遣して赴かせ、暫く湖南巡撫を署理させ、まもなく湖広総督の瑞澂(底本は「瑞澈」に作る)に文鼎と会同して徹底的に取り調べるよう命じた。あらためて調査して明らかになったところでは、地方の文武官の処理がまずかったことと、紳士が私情を挟んで乱を醸したこととがあり、それぞれ懲らしめるよう請う上奏をした。上疏が差し出されると、文武の各員のうち、春蓂・賡良、巡警道の頼承裕(底本は「賴、承裕」に作る)、塩法道の柳延熙、長沙協都司の貴齢、左営守備の周長泰、浦防所の所長・遊撃の龔培林(底本は「所」字が重複している)、警務委員で知県の周騰は、いずれも免職とされ、その他は降調・革留のうえ査察して議することとされた。悪辣な紳士の前国子監祭酒王先謙、分省補用道の孔憲教は、いずれも五級降して転用とされた。吏部主事の葉徳輝、候選道の楊鞏は、いずれも免職とされ、地方官に引き渡して厳しく取り締まらせることとされた。
  • 奉天巡撫の職を廃した。
  • 夏四月、彗星が西北に現れ、一月余りで消えた。
  • 郵伝部左侍郎(底本は「佐侍郎」に作る)の汪大燮に日本国への出使を命じた。
  • 五月、江蘇の沛県で男が女に変わった。県城の東八十里の喬厲荘の潘氏の子は、年六歳で、夜半に驚いて数声泣き、翌朝、自ら下体に異常があると言った。母がこれを調べると、すでに女に変わっていた。
  • 進士館の留学卒業者項驤らに、それぞれ差をつけて褒賞を与えた。
  • 六月、山東の萊陽・海陽県の人民が苛税に抵抗して暴動を起こし、官兵に殺傷された者が数百人にのぼった。これより先、民間では銅元で銭糧を納めるのにみな七掛けで計算されていたが、この年の春、海陽県の方奎は徴収を始めるにあたってさらに五掛けで計算し、そのうえ火耗・軽封・封尾・塩金・徳麦などの諸々の悪しき慣例の付加を加えたので、正規の租税一両につき、民間が納めるのに大銭三千七百八十文を要した。民は命令に堪えられず、乱の兆しがついに芽生えた。萊陽ではまた地方自治を始めたことにより、紳士の王圻らがほしいままに苛酷な徴収を行い、畝ごとに検地して重い税をかけ、正規の租税を上回った。家屋の間口にも税があり、頭数にも税があり、牛馬にもまた常時の捐があった。民間が少しでも抵抗すると、県官の朱槐之はさらに悪辣な紳士をかばい、苛斂が思いどおりにならないと、みだりに刑罰を用いてほしいままにふるまい、ついには禍乱を醸すに至った。そのうえ罪を曲思文に帰し、彼が衆をそそのかして乱を謀ったと言い、兵を動員して討伐し、略奪・殺戮・乱暴は盗賊よりもひどかった。それでもなお兵力が足りないとして、さらに朝旨によって第五鎮の練軍を急派して討伐を助けるよう請うた。凶悪な下級武官どもはほしいままに殺戮を行い(底本は「助剿凶殘劣弁。」と句読を置く)、死傷者はほとんど千人に及んだ。
  • 六月、各地の総督・巡撫に地方官の選任を慎重にするよう命じる諭を出した。萊陽・海陽の禍に鑑みてのことである。
  • 秋七月、職を解かれていた江西提学使で浙江鉄道総理の湯寿潜を免職とし、鉄道の事に干与することを許さないこととした(底本は「革開缺江西提學,使浙路總理湯壽潛職」と読点を置く)。寿潜は浙江の鉄道の事について、軍機処に電報を打ち、郵伝部侍郎の盛宣懐を蘇浙鉄道の罪魁禍首であるとそしり、彼を旧任に復させるべきではないとして、成命を取り消すか、あるいは鉄道の事から転出させて天下に謝すよう請うた。廷旨は、その荒謬・狂悖を斥け、厳しく譴責した。
  • 大学士の鹿伝霖が卒し、諡を文端と与えた。
  • 各省に交渉使を設けた。
  • 外務部右丞の沈端麟にオーストリアへの出使を命じた。
  • 八月、外務部右丞の劉玉麟にイギリスへの出使を命じた。
  • 陸軍部尚書の蔭昌に、近畿各鎮訓練大臣を兼ねさせた。
  • 近畿の陸軍をいずれも陸軍部の直接管轄に帰属させ、近畿督練公所を廃止するよう命じた。
  • 四川の塩茶道を塩運使に改め、あわせて奉天塩運使を設けた。
  • 徐世昌を大学士・吏部尚書とし、李殿林を協弁大学士とした。
  • 江海関道の蔡乃煌を免職とした。度支部が、乃煌は款項の処理において利を貪り私腹を肥やし、心根が狡猾で、大局を顧みないと弾劾する上奏をしたことにより、免職を命じたのである。
  • 九月、四川の定郷で兵が変を起こし、雲南の中甸に逃げ込み(底本は「竄䧈」に作る)、まもなく官軍に討ち平らげられた。
  • 留学卒業生の呉乃琛らに、進士・挙人をそれぞれ差をつけて賞与した。
  • 進士館の留学卒業者銭崇威らに、それぞれ差をつけて褒賞を与えた。
  • 陸軍留学卒業生の黄承恩らに挙人を賞与し、あわせてそれぞれ差をつけて軍職を授けた。
  • 散秩大臣・一等蕭毅侯の李国杰にベルギーへの出使を命じた。
  • 冬十一月、陸軍留学卒業生の李宣倜らに挙人を賞与し、あわせてそれぞれ差をつけて軍職を授けた。
  • 北洋大学堂の卒業生の馮熙敏らに進士を賞与し、あわせてそれぞれ差をつけて職を授けた。
  • 十二月、雲南の大姚県の人民が暴動を起こし、県城が陥落したが、まもなく官軍に討ち平らげられた。
  • 東三省総督の錫良、直隷総督の陳夔龍、両江総督の張人駿、湖広総督の瑞澂(底本は「瑞瀓」に作る)、雲貴総督の李経義を、外省の官制の参訂に派した。
  • 留学した陸軍卒業生の李兆綸ら・林鳳遊ら、工科卒業生の陳祖良、法政科卒業生の鄭際平に挙人を賞与し、あわせてそれぞれ差をつけて職を授けた。
  • 貝子銜鎮国将軍の載振を頭等専使としてイギリスに派遣し、イギリス国王の戴冠を祝わせた。当時、イギリス人は載振が皇室の遠い一族で、政界でもまた重要な地位を占めておらず、そのうえ載振が妓女の楊翠喜を妾にした一件があったことから、とりわけこれを軽んじた。載振がイギリスに着いてみると、その席次は三十六位で、エジプトの使者の前、インドの使者の後ろに置かれ、亡国の賤しい奴隷と同列に見なされた。載振が帰ると、政府はたいそう憤り、もっぱら罪を駐英公使の劉玉麟に帰し、公文の中で貴州を書き出さなかったことや、その他の文言に不適切なものが多かったせいだとして、厳しい旨で叱責した。

西暦1911年 末帝宣統三年

  • 春正月、イギリス兵が片馬を占拠したことにより、駐英公使にイギリス政府へ撤兵を請うよう命じた。中英のビルマ国境の事務は久しく解決しておらず、前年の秋のうちにイギリスは兵を派して片馬に駐屯させた。雲貴総督および雲南の紳士・人民はしばしば力を尽くして争うよう請うた。外務部は駐英公使の劉玉麟に速やかにイギリス政府と交渉するよう命じた。
  • 東三省に疫病が流行した。
  • 二月、四川の徳格・春科・高日の三土司を改土帰流し、辺北道・登科府などの官を設け、あわせて巴塘・打箭炉を巴安・康定の二府に改め、康安道を設けた。
  • 駐蔵幇弁大臣を廃止し、改めて左右の参賛を設けた。
  • 全国の軍隊に訓諭六条を発した。
  • 黄興らが広州で事を起こし、総督の衙門を焼いたが、官軍に撃退され、死者は七十二人、興は香港に逃げ帰った。これより先、広東香山の人である孫文が初めて興中会を創立し、ひそかに革命を謀った。光緒二十一年十月、広州で事を起こそうと謀ったが、事が漏れて海外に逃れ、会員の陸皓東らがこれによって死んだ。文がロンドンに至ると、駐英公使の龔照瑗に捕らえられたが、イギリス政府の干渉によって、ようやく釈放された。また湖南長沙の人である黄興という者が、陳天華・宋教仁らと華興会を創立し、二十六年十月に長沙で事を挙げようと謀ったが、事が漏れて日本に逃れた。ほどなく文が日本に至り、そこで興らと合同して同盟会を創立し、ひそかに武器を購入し、会党を糾合して、福建・広東・雲南で事を起こそうと考えた。三十三年十一月、ベトナムから広西の鎮南関を攻め、石輔山の砲台三座を奪ったが、まもなく武器弾薬が続かず敗れた。三十四年三月、興はまたベトナムの海防から雲南の河口・南渓などの地に攻め入り、兵を分けて蛮耗・開化・蒙自などの地を攻めたが、まもなくやはり敗退した。宣統二年正月に至って、広東の新軍が巡警と衝突して事を起こしたので、興らはまた機に乗じて事を起こしたが、防営に数百人を撃ち殺され、残りの衆は潰え散った。この月の二十九日午後四時ごろ、興は同志百余人を率いて総督署を攻めに行ったが、当時、署中の警備はきわめて厳しく、入ることができなかった。官軍が蜂のように群がり至り、勢いは敵しがたく、ついに敗れ、死者は七十二人であった。興は城壁を伝って(「繾」は「縋」の誤りか)抜け出し、香港に渡った。
  • 夏四月、江蘇の諮議局が両江総督の張人駿と予算案について争い、議員全体が辞職した。
  • 本年秋季に禁衛軍および近畿各鎮の陸軍を集め、永平府で大演習を行うよう諭した。
  • 吉林省城で大火があり、まる一昼夜を経てようやく鎮火した。城内の官銭局、陸軍糧飼餉局、高等審判庁、検察庁、財政局、官書局、図書館はみな一片の瓦も残らず、監獄は半ばがた焼け、度支司の官署がとりわけひどかった。民家の焼失はおよそ一万余戸、財産の損失はおよそ二十余万、被災した人口はおよそ三分の二であった。
  • 六月、太后は、帝が七月のうちに毓慶宮で入学して読書することにより、弼徳院院長の陸潤庠らを派して読書を授けさせた。
  • 黒い虹が天に現れ、九宿を越えてまた現れた。西北から起こり、うねりながら東南に至って没した。
  • 閏月、広東の禁財条例を施行した(「分行」は「頒行」の誤りか)。
  • 安徽・江蘇・江西・浙江・湖南・奉天・黒竜江で大水があった。
  • 漠陽(「漢陽」の誤りか)で大火があった。この月の十六日の晩に起こり、たちまち水上と陸上(「際」は「陸」の誤りか)がともに燃え、翌日の午後五時になってようやく鎮火した。陸上で焼けた家屋は八千余軒、水中で焼けた船もまた千余艘、舵主で焼け死んだ者および溺死した者は百余人であった。
  • 木星が現れ、光が東南を射た。
  • 各省の府治の首県を廃止するよう命じた。
  • 秋七月、監国摂政王が禁衛軍を校閲した。
  • 八月、民軍が湖北の武昌で事を起こし、湖南・江西・陝西・貴州・山西・雲南・浙江・江蘇・広西・安徽・広東・福建・四川が前後して呼応した。
  • 九月、乙丑の朔に日食があった。
  • 乙卯の望に月食があった。
  • 冬十二月二十五日、詔を下して退位を宣布した。
原文(底本)
德宗光緒三十四年,冬十月,授醇親王載灃爲攝政王。帝自上年入秋以來患疾,不御殿者兩載餘,上月達賴喇麻勒朗結來朝二十日,帝猶勉御仁壽殿接見。是月初六日,復御紫光閣賜讌,至初十日,太后萬壽節,勒朗結率徒祝嘏,帝已疾甚,不能親詣行禮,但傳旨加封勒朗結爲誠順贊化西天大善自在佛。至二十日,太后亦不豫,乃命載灃暫設朝政。 命載灃之子溥儀在宮內教養,並在上書房讀書。時太后知帝疾將不起,而未有儲貮,乃於是月二十日取溥儀入宮,命皇后鞠之。生三年矣,其母爲醇邸福晉,故大學士榮祿女也。太后尋命慶王奕劻往奏帝。帝曰:『立嗣以長,不亦順乎?』繼聞醇王攝政,帝喜曰:『付託得人矣!』 帝崩,時是月二十一日酉刻也。遺詔略曰:『朕躬氣血素弱,自去年秋間不豫,醫治至今,日以增劇,以致彌留不起。顧念神器至要,亟宜傳付得人,茲欽奉皇太后懿旨,以攝政王載灃之子溥儀入承大統爲嗣皇帝,必能仰體慈懷,欽承付託。中外臣工,務當恪尊前次諭旨,各按逐年籌備事宜,切實辦理。庶幾九年以後,頒布立憲,克終朕未竟之志!』 太后命以嗣皇帝承繼穆宗爲嗣,兼承大行皇帝之祧。 以攝政王爲監國。 尊太后爲太皇太后,兼祧母后爲皇太后。 太皇太后葉赫那拉氏崩,時是月二十二日未刻也。 安徽馬礮兵變,駐安慶馬礮隊官熊成基欲乘秋操起事。是月二十六日黎明,率衆襲城。城中嚴守不得入,又爲江中兵艦所攻,遂向西北桐城、樅陽等處退走,衆漸潰散。成基復於哈爾濱被捕,死於吉林。 十一月,嗣皇帝即位,以明年爲宣統元年。 上大行皇帝尊諡,曰:『同天崇運大中至正經文緯武仁孝睿智端儉寬勤景皇帝』,廟號:『德宗』,陵曰:『崇陵』。 上大行太皇太后尊諡曰:『孝欽顯皇后』 頒示監國攝政王禮節。 設立變通旗制處。 上太后徽號曰:『隆裕皇太后』 命奕劻以親王世襲罔替,並加恩王公大臣有差。 定諭旨由軍機大臣署名之制。 十二月,另編禁衛軍,由監國攝政王兼統。 大學士王文韶卒,予諡文勤。 收還京漢鐵路。 命軍機大臣袁世凱開缺回籍養苛。 命那桐在軍機大臣上學習行走。 以外務部右侍郎梁敦彥署理外務部尚書。

末帝宣統元年,春正月,郵傳部尚書陳壁以用欵靡費,調員胃濫革職。 以東三省總督徐世昌爲郵傳部尚書。 三月,各國派送德宗景皇帝梓宮專使覲見。 德宗景皇帝梓宮奉移山陵。 追予故戶部尚書立山,兵部尚書徐用儀,吏部侍郎許景澄,內閣學士聯元,太常寺卿袁昶諡。 夏四月,命貝子銜鎮國將軍載振往日本國,法部尚書戴鴻慈往俄國,答謝派遣專使來送梓宮。 命各省財政統歸藩司,或度支司綜核,其餘一切局所,予限一年次第裁撤。 五月間,復前協辦大學士翁同龢原官。 監國攝政王暫行代理海陸軍大元帥,並先行專設軍諮處。 六月,以督辦津浦鐵路大臣呂海寰失察,路局局員李德順營私,開去差使,以郵傳部尚書徐世昌代之。 秋七月,派兩江總督張人駿爲南洋勸業會會長。 與日本訂立東三省五案條款成。日本因安奉鐵路改築事,自由行動,交涉幾致決裂,至是,並其他諸案及吉長貸款契約,訂立條款完案。 八月,大學士張之洞卒,予諡文襄。 福建福州大火大風,死者百餘人,傷者二百餘人,船舶沉沒者二千餘艘。 命法部尚書戴鴻慈在軍機大臣上行走。 九月,以軍機大臣鹿傳霖爲大學士,吏部尚書陸潤庠協辦大學士。 冬十月,直隸總督端方以恣意任性,不知大體,革職。端方因送德宗梓宮,令人在太后行宮外攝影,爲散秩大夫李國杰所劾,乃坐以焚化冥鏹時,乘輿橫衝神路,遂革職。 大學士孫家鼐卒,予諡文正,以陸潤庠爲大學士,戴鴻慈協辦大學士。 十二月,諭誡建言諸臣,不得懷挾私見,及毛舉細故,不知大體。 賞給遊學專門詹天佑、嚴復等進士、舉人有差。 監國面奉太后懿旨,明年正月初十日萬壽,皇帝在宮內行禮,停止慶賀。時太后居延熙宮,大內御花園之東有土阜一區,向以日者之言,不宜建築。帝登極后,於此興修水殿以奉養太后,四圍浚池引玉泉山水環繞之。殿凡九層,層九間,又四角各有一亭,計三十九間。以銅爲棟,以玻璃爲牆,四望空明,入其中者,如置身琉璃世界。牆之夾層中,置水蓄魚,下層地板亦以玻璃爲之,俯首而窺,池中游魚一一可數,荇藻參差,青翠如畫。地板又可開闔,時或揭起,駕小舟直達宮外。中層、上層亦用玻璃,上層頂上,更有玻璃缸數事,爲蓄魚之需。樓梯皆置宮外,由東南亭內曲折環繞漸升而不自知也。太后自題扁額曰『靈沼軒』,而俗呼曰『水晶宮』。聞此次工程費帑已達百萬,以上,遜位之時,尚未畢工也。

二年,春正月,革阿旺雞布藏吐布丹甲錯濟寨汪曲却勒朗結達賴喇嘛名號。勒朗結自三十年六月避英兵至庫倫,朝命革去達賴喇嘛句號,及勒朗結折回西寧。三十四年,詔諭其來朝賜加封號,上年,並派員護送回藏。至十二月,駐藏大臣趙爾豐忽電告政府,謂勒朗結與俄國訂結協約,請政府牒告各國使臣,謂該曰非經中國皇帝認可,則作爲無效。時爾豐之兄爾巽督川,即派大軍入藏,以爲爾豐干涉藏政之後援。是年正月初三日,川兵至拉薩,勒朗結即於是夜出奔印度,至是命禠去其法號,令爾豐別選靈異幼童擇立,以爲達賴。勒朗結愬政府之暴於英,英公使質於外務部,部答以達賴謀叛,故黜之,吾國對於西藏政治,無所變更也。勒朗結復愬俄,英、俄皆嘖有煩言,而印度佛教徒方擬舉空前絕後之盛儀以歡迎勒朗結云。 戴鴻慈卒,以郵傳部尚書徐世昌協辦大學士。 命內閣學士吳郁生在軍機大臣上學習行走。 定嗣後內外文武滿漢諸臣陳奏事件,一律稱臣。 二月,山西交城文、水兩縣人民因禁烟暴動,旋討平之。 廣東黨人汪兆銘等謀刺監國攝政王,事洩,被獲,命永遠監禁。先是,兆銘等均定爲死刑,時監國鑒於黨禍日夕相尋,恐益重其怒,乃作釋怨之舉,博寬大之名。肅王善耆又從事贊成,遂飭法部以擾害治安定擬判決二人,皆處以無期徒刑,加重永遠禁錮。 三月,湖南省城饑民暴動,焚毀巡撫衙門及教堂學堂。先是上年,長沙府屬秋收歉薄,是年奸商復運米出省,售於外人,鄉民阻境不獲,米價因之而昂貴。是月初五日,饑民數百擁之撫署,要求平糶。巡撫岑春蓂議勸紳捐,先辦義糶。劣紳王先謙首先梗議,葉德輝積穀萬餘石,不允出糧,遂至變起。莠民痞棍,聚至數千,縱火焚署及教堂學堂。先謙等仍歸咎撫臣激變,電請簡易巡撫,孔憲教、楊鞏倡議,擁戴藩司莊賡良。由少數劣紳推爲巡撫,朋陷撫臣,不遺餘力。事間,朝命春蓂開缺,派湖北藩司楊文鼎前往,暫行署理湖南巡撫,旋命湖廣總督瑞澈會同文鼎,徹底查究。復經查明,地方文武辦理不善,及紳士挾私釀亂,奏請分別懲儆。疏入,文武各員,春蓂、賡良,巡警道賴、承裕,鹽法道柳延熙,長沙協都司貴齡,左營守備周長泰,浦防所所所長遊擊龔培林,警務委員知縣周騰均著革職,餘降調革留察議。劣紳前國子監祭酒王先謙,分省補用道孔憲教均著降五級調用。吏部主事葉德輝,候選道楊鞏均著革職,交地方官嚴加管束。 裁奉天巡撫缺。 夏四月,彗星見於西北,月餘乃滅。 命郵傳部佐侍郎汪大燮出使日本國。 五月,江蘇沛縣男化爲女。縣城東八十里喬厲莊潘氏子,年六歲於夜分時驚哭數聲,次晨自言下體有異,母驗之,已變爲女。 予進士館遊學畢業員項驤等獎勵有差。 六月,山東萊陽、海陽縣人民因抵抗苛稅暴動,爲官兵殺傷數百人。先是,民間以銅元兌納錢糧皆按七折扣算,是年春,海陽縣方奎開徵更按五折釦算,加以火耗、輕封、封尾、鹽金、德麥諸陋規,正供一兩。民間所納需大錢三千七百八十文。民不堪命,亂機遂萌。萊陽則以開辦地方自治,紳士王圻等肆意苛徵,履畝重稅。過於正供,間架有稅,有頭有稅,牛馬亦有常捐。民間稍有抵抗,縣官朱槐之復袒劣紳,苛斂不遂,淫刑以逞,及至釀成禍變。復歸罪於曲思文,謂其煽衆謀亂。調兵剿辦,劫殺淫暴,甚於盜賊。顧猶以兵力之不足,復請朝旨派第五鎮練軍馳赴助剿凶殘劣弁。肆其鋤戮,死傷者幾及千人。 六月,諭飭各督撫慎選牧令,有鑒於萊陽、海陽之禍也。 秋七月,革開缺江西提學,使浙路總理湯壽潛職,不准干預路事。壽潛爲浙江路事,電軍機處詆郵傳部侍郎盛宣懷爲蘇浙路罪魁禍首,不應令其回任,請收回成命,或調離路事以謝天下。廷旨,斥其荒謬、狂悖,予嚴譴。 大學士鹿傳霖卒,予諡文端。 設各省交涉使。 命外務部右丞沈端麟出使奧國。 八月,命外務部右丞劉玉麟出使英國。 命陸軍部尚書蔭昌兼充訓練近畿各鎮大臣。 命近畿陸軍均歸陸軍部直接管轄。裁撤近畿督練公所。 改四川鹽茶道爲鹽運使,並設奉天鹽運使。 以徐世昌爲大學士、吏部尚書,李殿林協辦大學士。 革江海關道蔡乃煌職,因度支部奏參乃煌於辦理欵項罔利營私,居心狡詐,不顧大局,令革職。 九月,四川定鄉兵變,竄䧈雲南中甸,旋被官軍剿平。 賞給遊學畢業生吳乃琛等進士、舉人有差。 予進士館遊學畢業員錢崇威等獎勵有差。 賞給陸軍遊學畢業生黃承恩等舉人,並授軍職有差。 命散秩大臣一等蕭毅侯李國杰出使比國。 冬十一月,賞給陸軍遊學畢業生李宣倜等舉人,並授軍職有差。 賞給北洋大學堂畢業生馮熙敏等進士,並授職有差。 十二月,雲南大姚縣人民暴動,縣城失守,旋爲官軍剿平。 派東三省總督錫良、直隸總督陳夔龍、兩江總督張人駿、湖廣總督瑞瀓、雲貴總督李經義參訂外省官制。 賞給遊學陸軍畢業生李兆綸等、林鳳遊等,工科畢業生陳祖良,法政科畢業生鄭際平舉人,並授職有差。 派貝子銜鎮國將軍載振爲頭等專使往英國,賀英君加冕。時英人以載振爲皇室疏族,於政界又不占重要之位置,且以載振納妓楊翠喜一事,故尤輕視之。及載振抵英,其坐席在三十六位,廁於埃及使之前,印度使之後,與亡國賤奴等視。載振歸,政府憤甚,乃一歸咎於駐英使臣劉玉麟,謂係公文中未將貴州敘出及其他揭詞多有不合,嚴旨申飭之。

三年,春正月,因英兵佔據片馬,命駐英使臣請英政府撤兵。中英緬甸界務久未解決,上年秋間英派兵駐片馬,雲貴總督及雲南紳民屢請力爭,外務部命駐英使臣劉玉麟速與英政府交涉。 東三省疫。 二月,四川德格、春科、高日三土司改流,設邊北道、登科府等官,並改巴塘、打箭爐爲巴安、康定二府,設康安道。 裁撤駐藏幫辦大臣,改設左右參贊。 派全國軍隊訓諭六條。 黃興等起事於廣州,燬總督衙門,被官軍擊退,死者七十二人,興走還香港。先是,有廣東香山人孫文始剏興中會,潛謀革命。光緒二十一年十月,謀起事於廣州,事洩,走海外,會員陸皓東等死之。文至倫敦,爲駐英使臣龔照瑗所捕,因英政府干涉,始得釋放。又有湖南長沙人黃興者,與陳天華、宋教仁等剏華興會,二十六年十月謀舉事於長沙,事洩,走日本。尋文至日本,乃與興等合剏同盟會,密購軍火,糾合會黨,思於閩、廣、雲南起事。三十三年十一月,由越南進攻廣西鎮南關,奪石輔山礮臺三座,旋以軍火不濟而敗。三十四年三月,興又自越南海防攻入雲南河口、南溪等處,分兵攻蠻耗、開化、蒙自等處,旋亦敗退。至宣統二年正月,廣東新軍因與巡警交閧起釁,興等又乘機起事,爲防擊斃數百人,餘衆潰散。是月二十九日午後四時許,興率同志百餘人往攻督署,時署中防範極嚴,不得入。官軍蜂擁至,勢不敵,遂敗,死七十二人,興繾城出渡香港。 夏四月,江蘇諮議局與兩江總督張人駿爭預算案,全體議員辭職。 諭以本年秋季調集禁衛軍及近畿各鎮陸軍,在永平府大操。 吉林省城大火,厯一畫夜始熄,城內官錢局、陸軍糧飼餉局、高等審判廳、檢察廳、財政局、官書局、圖書館皆片瓦無存,監獄燒毀殆半,以度支司署爲尤甚。民居被燬約萬餘戶,財產損失約二十餘萬,人口遭難約三分之二。 六月,太后因帝七月內在毓慶宮入學讀書,派弼德院院長陸潤庠等授讀。 黑虹見天,越九宿復見,起自西北,蜿蜓至東南而沒。 閏月,分行廣東禁財條例。 安徽、江蘇、江西、浙江、湖南、奉天、黑龍江大水。 漠陽大火。是月十六日晚起,一時水際並焚,至翌午五時始熄,計際上被焚之屋八千餘所,水中被焚之船亦千餘艘,舵主焚斃及溺死者百餘人。 木星見,光射東南。 命裁各省府治首縣。 秋七月,監國攝政王校閱禁衛軍。 八月,民軍起事湖北之武昌,湖南、江西、陝西、貴州、山西、雲南、浙江、江蘇、廣西、安徽、廣東、福建、四川先後響應。 九月,乙丑朔,日食。 乙卯望,月食。 冬十二月二十五日,下詔宣布退位。

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