東周列國志第五回 虢公を寵して周と鄭が質を交わす/衛の逆臣を助けて魯と宋が兵を興す (寵虢公周鄭交質 助衞逆魯宋興兵)

荘公の抗議と衛の撤兵

  • さて鄭荘公は公孫滑が兵を起こして攻め寄せてくると聞き、群臣に計を問うた。公子呂は言った。「『草を斬るに根を残せば、春が来ればまた芽吹く』と申します。公孫滑は死を逃れただけでも幸いなのに、かえって衛の兵を興させました。これは衛侯が共叔が鄭を襲おうとした罪を知らず、祖母を救うという口実で兵を起こしたに過ぎません。愚考いたしますに、一通の書状を衛侯に送り、事の次第を明らかにするのが一番でしょう。衛侯は必ず兵を国に引き返すはずです。滑の勢いが孤立すれば、戦わずして捕らえることができましょう。」荘公は「その通りだ」と言い、使者を遣わして衛に書を送った。
  • 衛の桓公が書を受け取り、読み上げた。「寤生、再拝して衛侯賢侯殿下に書を奉る。家門不幸にして骨肉相い残なう事態となり、まことに隣国に対し恥じ入るばかりです。しかし京の地を封じ土地を賜ったのは、寡人が兄として弟に薄情であったからではなく、寵を頼んで乱を起こしたのは実に叔段の不恭によるものです。寡人は先人が世々守ってきたものを重んじ、やむなくこれを除きました。母姜氏は、叔段を溺愛したゆえに内心不安を覚え、潁城に避け住んでおられますが、寡人はすでに自らこれを迎え奉養しております。今、逆賊滑は父の非をわきまえもせず、大国に逃げ込みました。賢侯はその不義を知らず、軍勢をわが国に下されました。自省いたしますに寡人に何ら罪を得ることはございません。どうか賢侯、乱賊を誅する声を同じくされ、両国の脣歯の誼を傷つけることのないよう。わが国にとって幸いこの上ございません。」
  • 衛桓公はこれを読み終え、大いに驚いて「叔段が不義を働いてみずから滅びを招いたのだ。寡人が滑のために兵を興したのは、実に逆賊を助けたことになる」と言い、使者を遣わして本国の兵を呼び戻させた。
  • ところが使者が着く前に、滑の兵はすでに廩延が無防備なのに乗じてこれを攻め落としていた。鄭荘公は激怒し、大夫高渠彌に戦車二百乗を出させて廩延を奪還させた。すでに衛の兵は撤退していたため、公孫滑は勢い孤立して敵わず、廩延を棄ててまた衛国へ逃げ込んだ。公子呂は勝ちに乗じて追撃し、まっすぐ衛の郊外にまで至った。
  • 衛桓公は群臣を大いに集め、戦うべきか守るべきかを問うた。公子州吁が進み出て「水が来れば土で塞ぎ、兵が至れば将で迎え撃つまで、何を疑うことがありましょうか」と言った。大夫石碏は奏上した。「なりません、なりません。鄭の兵が来たのは、我らが滑を助けて逆賊に加担したことによるものです。鄭伯からすでに書が届いておりますから、我らもこれに書をもって答え、過ちを認めて謝るのがよいでしょう。兵を労さずして鄭の兵を退けることができます。」衛侯は「卿の言うとおりだ」と言い、石碏に書を作らせて鄭伯に送った。
  • 書にいう。「完、再拝して王卿士鄭賢侯殿下に上る。寡人は誤って公孫滑の言葉を信じ、貴国が弟を殺し母を幽閉し、その弟の遺児(公孫滑)にすら身を寄せる場所を与えなかったと思い込み、それゆえ兵を興しました。今、来書を読み、京城太叔の逆であったことを詳しく知り、悔いても言葉にできません。即日、廩延の兵を引き上げます。もしご賢察を賜れますれば、滑を縛って献上し、旧好を修めたく存じます。どうか賢侯、お図りください。」
  • 鄭荘公はこの書を読み、「衛はすでに罪を認めたのだ。寡人がこれ以上何を求めよう」と言った。

公孫滑への処遇

  • さて国母姜氏は、荘公が衛を討伐する兵を興したと聞き、公孫滑が殺され、太叔の血筋が絶えることを恐れて、荘公に哀願した。「どうか先君武公の遺されたこの一族を思い、その命だけは存えさせてやってほしい。」荘公は姜氏の顔を立てざるを得ず、また公孫滑がすでに孤立無援で何もできないと考えて、衛侯への返書にはただ「教えを奉じて兵を撤収し、修好を図ることといたします。滑には罪がありますが、謀反した弟(叔段)にはこの一子しか残されておりません。どうか貴国にお留め置きいただき、段の祭祀を絶やさぬようにしていただきたく存じます」とだけ記した。同時に高渠彌の兵を呼び戻した。公孫滑は後に衛で老いて死んだ。これは後の話である。

周鄭交質

  • さて周の平王は、鄭荘公が長らく朝廷にいないため、たまたま虢公忌父が来朝し、話が合ったので虢公に「鄭伯父子は長年政を執ってきたが、今は久しく職に就いていない。朕は卿に政務を代わって取り仕切ってほしいのだが、卿は辞退してはならぬ」と言った。虢公は頭を下げて「鄭伯が来ないのは、必ず国中に何か事情があるからです。臣がもし代われば、鄭伯は臣を怨むだけでなく、王をも怨むようになりましょう。臣は謹んでお受けできません」と再三辞退し、本国に帰った。
  • もともと鄭荘公は自身は国にいても、王都に人を置いて朝廷の動静を探らせ、逐一報告させていた。この日の平王が虢公に政を分けようとしたことも、すぐに耳に入った。荘公はその日のうちに車を駆って周に赴き、王に朝見を終えると奏上した。「臣は聖恩を蒙り、父子相継いで政を執って参りましたが、臣は実に才乏しく、職を辱めております。願わくは卿士の爵位を返上し、自分の領国に退いて臣節を守りたく存じます。」
  • 平王は「卿が久しく朝廷に来なかったため、朕は心配し続けておった。今、卿が来たのを見て、まるで魚が水を得たようだ。卿はなぜそのようなことを言うのか」と言った。荘公はさらに奏上した。「臣の国では弟が反逆する変事があり、久しく職を疎かにしておりました。今、国事がほぼ片づいたので、夜を日についで参上した次第です。道々耳にしましたところ、わが王が虢公に政を委ねられるおつもりだとか。臣の才は虢公に万に一つも及びません。どうしてその位に安んじて王に罪を得られましょうか。」
  • 平王は荘公が虢公の事に言及したのを見て、心中恥じ入り顔を赤らめながらも、無理に「朕は卿と久しく離れており、卿の国に何か事があったことも知っていた。それで虢公に数日のあいだ政を管理させ、卿の到着を待とうとしただけだ。虢公は再三辞退したので、朕はすでに帰国を許した。卿はまだ何を疑うことがあろうか」と言った。
  • 荘公はさらに奏上した。「そもそも政とは王の政であって、臣一家の政ではありません。人を用いる権柄は、王ご自身が握られるべきものです。虢公は才が輔佐に堪える人物ですから、臣は当然位を避けるべきです。さもなければ群臣は必ず臣が権勢を貪り、進退の分別を弁えぬ者だと思うでしょう。どうか王よ、お察しください。」
  • 平王は「卿ら父子は国に大功があった。それゆえ相継いで大政を委ねてきた。四十年余り、君臣は互いに心が通じてきた。今、卿は朕を疑う心を抱いているようだが、朕はどう自らの潔白を明らかにすればよいのか。卿がどうしても信じられぬというなら、朕は太子狐を鄭に人質として送ろう、どうか」と言った。
  • 荘公は再拝して辞退し、「政に就き政を退くのは臣下の職分であって、どうして天子が臣に人質を委ねる礼などありましょうか。天下の人が臣を、君主に強要して我が意を通す者だと見なすことを恐れます。臣は万死に値します」と言った。平王は「そうではない。卿は国を治めるのに巧みだ。朕は太子に鄭の風を観させ、それによって目下の疑いを解きたいだけだ。卿がもし固く辞退すれば、それは朕に罪があることになる」と言った。荘公は再三辞退して命を受けなかった。
  • 群臣が奏上した。「私どもが公議いたしましたところ、王が人質を出されなければ鄭伯の疑いを解くことができず、王だけが人質を出されれば鄭伯を臣子の義に背かせることになります。君臣が互いに人質を交換し、両者ともに猜疑を解かれるのがよろしいでしょう。それでこそ上下の恩情を全うできます。」平王は「それがよかろう」と言った。
  • 荘公は人を遣わして世子忽をまず周に人質として送らせ、その後で謝恩した。周の太子狐もまた鄭に人質として赴いた。史官に、この周鄭交質の事を論じ、君臣の分がここに至って全く廃れたと評した詩がある。
  • (詩:腹心手足はもともと私心なきものであったはずが、一体であるはずの君臣が互いに疑い合うとは何と滑稽なことか。人質の交換はまさに市場の商いのようであり、王綱はこれより衰えていくのである、という趣旨の詩)

平王崩御と鄭伯の失脚

  • 人質交換以来、鄭伯は周に留まって政を輔け、しばらくは何事もなかった。平王は在位五十一年で崩じた。鄭伯は周公黒肩とともに朝政を統べた。世子忽を鄭に帰し、鄭に人質としていた太子狐を周に迎えて位を継がせようとしたが、太子狐は父の死を悲しみ、病中に付き添うことができなかったことを悲痛のあまり嘆き、周に着くと薨じてしまった。その子林が跡を継いで立ち、これが桓王である。諸侯は皆喪に馳せ参じ、あわせて新しい天子に謁見した。虢公忌父が真っ先に到着し、その振る舞いはすべて礼にかない、人々に愛された。
  • 桓王は父が鄭に人質となり身を損なったことを悲しみ、しかも鄭伯が長く朝政を専らにしているのを見て、心中疑い恐れた。ひそかに周公黒肩に相談し「鄭伯はかつて先の太子を自国の鄭に人質として置いており、その意はきっと朕を軽んじているのだろう。君臣の間、これでは安心できまい。虢公は事にあたって甚だ恭しい。朕は彼に政を委ねようと思うが、卿の考えはどうか」と言った。周公黒肩は奏上した。「鄭伯は人となりが残酷で恩情に薄く、忠順な臣とは言えません。しかし我が周が洛邑に東遷するにあたり、晋・鄭の功労は甚だ大きなものでした。今、改元の日に、にわかに鄭の政を奪って他人の手に渡せば、鄭伯は憤怒し、必ず跋扈するような振る舞いをするでしょう。慎重にお考えください。」桓王は「朕は座して制せられることに甘んじられぬ。朕の意はすでに決した」と言った。
  • 翌日、桓王は朝議に出御し、鄭伯に「卿は先王の臣である。朕はあえて班列の中に押し込めるようなことはしたくない。卿は自らの分を守るがよかろう」と言った。荘公は奏上した。「臣はとうに政をお返しすべきでした。今すぐ拝辞いたします。」そのまま憤然として朝廷を退出した。人に「若造めが恩義を忘れるとは、輔佐するに値せぬ」と言った。その日のうちに車を駆って帰国した。
  • 世子忽は官員を率いて郭外まで出迎え、帰国の理由を尋ねた。荘公は桓王が自分を用いない旨の言葉を語り、皆いずれも不平の色を見せた。大夫高渠彌が進み出て「我が主は二代にわたって周を輔け、功労は甚だ大きい。しかも先の太子が我が国に人質としてあった間、我らは少しも礼を欠くことはございませんでした。それを今、我が主を捨てて虢公を用いるとは、大いに不義です。いっそ兵を興して周の城を打ち破り、今の王を廃して他の賢い後裔を立ててはいかがでしょう。天下の諸侯で誰が鄭を畏れずにおられましょう、覇者の業も成し遂げられます」と言った。
  • 潁考叔は「なりません。君臣の分は母子の道に等しいものです。主公は自分の母を仇のように扱うことに忍びられなかったのに、どうして自分の君を仇として扱うことに忍びられましょうか。ただしばらく年余り耐え忍び、周に出向いて王に朝見すれば、周王も必ず悔いる心を持つはずです。主公は一時の憤りをもって、亡き先君の節義に殉じた心を傷つけられませんように」と言った。
  • 大夫祭足は「愚考いたしますに、二人の臣の言葉はいずれも用いるべきです。臣は兵を率いて周の境界に至り、凶年で食が乏しいと称して、温・洛の間で食糧を調達いたしましょう。もし周王が使者を遣わして責め立てれば、こちらにも言い分がございます。もし何も言わなければ、その時に主公が朝廷に赴かれても遅くはありません」と言った。荘公はこれを許し、祭足に一隊の軍を率いて事に応じて処置させるよう命じた。

温洛の麦・禾刈り取り事件

  • 祭足は温・洛の国境まで巡り、「本国が凶年で食糧が乏しいため、温の大夫に粟千鍾を求めます」と言ったが、温の大夫は王命を受けていないとしてこれを許さなかった。祭足は「今はちょうど大麦も小麦も熟す頃で、いくらでも食糧に充てられよう。私が自ら取るまでのこと、何を求める必要があろうか」と言い、士卒に鎌を用意させ、手分けして田の麦を残らず刈り取り、満載して戻った。祭足自ら精兵を率いて往来し、後詰めとして呼応し、刈り取りの兵を援護した。温の大夫は鄭の兵が強盛であることを知り、あえて争わなかった。
  • 祭足は国境で三ヶ月余り兵を休め、再び成周の地方まで巡った。時は秋七月中旬、田の早稲がすでに実っているのを見て、兵士に商人のように扮装させ、車を各村里に隠れて配置し、三更の頃、一斉に力を合わせて稲穂を刈り取り、五更には引き上げさせた。成周の郊外は稲穂がすっかりなくなってしまった。守将が気づいて兵を出したときには、鄭の兵はすでに遠く去っていた。
  • 両所からそれぞれ洛京に文書が届き、桓王に鄭の兵が麦や禾を盗み刈った事を奏上した。桓王は激怒し、すぐに兵を興して罪を問おうとした。周公黒肩は奏上した。「鄭の祭足が麦や禾を盗み取ったとはいえ、これは辺境の些細な出来事に過ぎず、鄭伯自身が知っていたことかも定かではありません。小さな怒りをもって親しい間柄を棄てるのは、まことによろしくないことです。もし鄭伯自身が心中不安を感じているならば、必ず自ら来て謝罪し好を修めるでしょう。」桓王はこれを許し、ただ国境の各所に厳重に守りを固めさせ、他国の兵の侵入を許さぬよう命じたが、麦や禾を刈り取った件は特に問い咎めなかった。

石門の盟と鄭忽の辞婚

  • 鄭伯は周王がまったく責める様子を見せないのを見て、果たして心中不安になり、朝見に赴くことを決意した。ちょうど出発しようとしていたところ、「斉国の使臣が到来した」との知らせが届いた。荘公が使臣に会うと、その君僖公の命により、鄭伯に石門での会見を約するというものであった。荘公はまさに斉と結びたいと思っていたので、石門の約に赴いた。二君は相見えて血をすすって盟を結び、兄弟の約を結んで事あるごとに助け合うことを誓った。
  • 斉侯は「世子忽はすでに妻を迎えたか」と尋ねた。鄭伯は「まだです」と答えた。僖公は「私には愛する娘がいる。年はまだ笄を挿す年ごろではないが、頗る才知に恵まれている。もし嫌でなければ、いずれ嫁ぐ約束をさせてほしい」と言った。鄭荘公はうやうやしく承知の意を表した。帰国すると、世子忽にこの事を告げた。忽は「妻とは夫と等しい者であり、それゆえ配偶と申します。今、鄭は小さく斉は大きく、大小が釣り合いません。私は仰ぎ見て望むことなどできません」と答えた。
  • 荘公は「求婚は先方の意によるものだ。もし斉と婚姻を結んで舅・婿の間柄になれば、何事も頼りにできよう。我が子よ、なぜこれを辞するのか」と言った。忽はさらに答えた。「男子たる者、志は自立にあります。どうして婚姻に頼るなどということがありましょうか。」荘公はその志を喜び、無理強いしなかった。
  • 後に斉の使者が鄭に至り、鄭の世子が婚約を望まなかったことを聞き、帰国して僖公に奏上した。僖公は「鄭の世子はまことに謙譲の極みと言えよう。我が娘はまだ幼い、しばらく後日また相談しよう」と嘆じた。
  • 後世の人はこれを詩に詠み、富める家が高きに攀じ登ろうとするのを嘲り、鄭忽が辞婚したことの善さに及ばないとした。
  • (詩:婚姻には家柄が釣り合うことが肝心であり、大小はよく自分で量るべきである。高きに攀じ登ろうとする俗物が、財産をなげうってまで士人の頭巾ひとつを買い求めるのは笑止千万である、という趣旨の詩)

衛桓公の訃報と荘公の予見

  • ある日、鄭荘公がちょうど群臣と周王に朝見する事を相談していたところ、衛桓公の訃報が届いた。荘公が使者に詳しく尋ねると、公子州吁が君を弑した事の顛末が明らかになった。荘公は足を踏み鳴らして「我が国はまもなく兵を受けることになろう」と嘆いた。群臣が「主公はなぜそう推し量られるのですか」と尋ねると、荘公は「州吁はもとより兵を弄ぶことを好み、今すでに簒逆を行った以上、必ず兵威をもって己の志を逞しくしようとするだろう。鄭と衛にはもとより確執がある。彼が兵を試すならば、まず鄭に及ぶに違いない。備えておくべきだ」と言った。

州吁弑逆の経緯

  • さて衛の州吁はどのようにして君を弑したのか。もとを辿れば、衛荘公の夫人は、斉の東宮得臣の妹で、名を荘姜といい、美貌ながら子がなかった。次妃は陳国の娘で厲媯といい、これも子がなかった。厲媯の妹の戴媯は、姉について衛に嫁ぎ、完と晋という二子を生んだ。荘姜は嫉妬しない性質で、完を自分の子として育て、さらに宮女を荘公に薦めた。荘公はこの宮女を寵愛し、州吁を生んだ。
  • 州吁は性格が暴戻で武を好み、兵を論じることを喜んだ。荘公は州吁を溺愛し、その気ままな振る舞いを許した。大夫石碏はかつて荘公を諫めて言った。「私が聞きますに、子を愛する者は正しい道理によって教え、邪に流れさせぬものと申します。そもそも寵愛が過ぎれば必ず驕り、驕れば必ず乱を生じます。主公がもし州吁に位を伝えたいとお思いなら、はっきりと世子に立てるべきです。そうでないならば、少しずつ抑制なさるべきで、そうでなければ驕奢淫佚の禍を招くでしょう。」荘公はこれを聞き入れなかった。
  • 石碏の子石厚は州吁と親交があり、いつも車を並べて狩りに出かけては民の暮らしを騒がせていた。石碏は厚を鞭打つこと五十、空き部屋に閉じ込めて外出を禁じたが、厚は塀を越えて逃げ出し、そのまま州吁の邸に身を寄せて、食事のたびに必ず行動をともにし、家に戻ろうとしなかった。石碏はどうすることもできなかった。
  • 後に荘公が薨じ、公子完が跡を継いで桓公となった。桓公は生まれつき気弱であった。石碏は彼が大事を成せる器ではないことを知り、官を辞して家に籠もり、政に関わらなかった。州吁はますます遠慮がなくなり、日夜石厚と篡奪の計略を練った。
  • ちょうどそのとき平王崩御の訃報が届き、桓王林が新たに立ったので、衛桓公は周に弔問と祝賀に赴こうとした。石厚は州吁に「大事を成すことができます。明日、主公が周へ出立される折、公子が西門で送別の宴を設け、あらかじめ甲士五百を門外に伏せておき、酒が数巡したところで袖から短剣を取り出して刺すのです。手下で従わぬ者があれば、その場で斬首にすればよろしい。諸侯の位も容易く手に入りましょう」と言った。州吁は大いに喜んだ。
  • あらかじめ石厚に壮士五百を率いさせ、西門の外に伏せさせておいた。州吁は自ら車を駆り、桓公を出迎えて宿舎に至ると、すでに宴席が整えられていた。州吁は身をかがめて酒を勧め、「兄君、遠い旅路にあたり、粗酒ではございますが」と言った。桓公は「またしても賢弟に心配をかけるな。この旅は一月余りで戻るゆえ、その間の朝政を賢弟にしばし任せる。くれぐれも用心してくれよ」と言った。州吁は「兄君、ご安心を」と答えた。
  • 酒が半ばまで進んだ頃、州吁は立ち上がり金の杯になみなみと酒を注いで桓公に勧めた。桓公は一気に飲み干し、また盃になみなみと注いで州吁に返礼しようとした。州吁は両手でこれを受けようとしたが、わざと失敗したふりをして盃を地に落とし、慌てて拾い上げて自ら洗い清めた。桓公はその企みに気づかず、新しい盃を取って再び酌み、州吁に送ろうとした。州吁はこの機に乗じて素早く桓公の背後に忍び寄り、短剣を抜いて背後から刺した。刃は胸を突き抜け、桓公はたちまち重傷を負って薨じた。時に周桓王元年、春三月戊申のことであった。
  • 供の者たちは、州吁の武力が人並外れていることをかねてより知っており、しかも石厚が五百の甲士を率いて公館を取り囲んでいたので、皆自分の力では抗しきれないと悟り、やむなく従うほかなかった。空の車に遺骸を乗せて棺に納めて安置し、急病であったと偽った。州吁はそのまま代わって君の位に就いた。石厚を上大夫に任じた。桓公の弟晋は邢国へと逃げ去った。
  • 史臣に、衛荘公が州吁を寵愛して乱を招いたことを嘆いた詩がある。
  • (詩:子を教えるには正しい道理を心得ておくべきであり、育て方を誤って驕り奢らせれば必ず禍を招く。鄭荘公が弟の段を討ち滅ぼしたのは天倫の情に薄い行いではあったが、それでも手をこまねいて滅ぼされた桓侯よりはましである、という趣旨の詩)

州吁の外征準備

  • 州吁は即位して三日、外では弑兄の噂がしきりに広まっていると聞き、上大夫石厚を召して相談した。「隣国に威を示し、それによって国人を抑えたい。どの国を討伐するのがよいか。」石厚は奏上した。「隣国にはいずれも確執がございません。ただ鄭国は、かつて公孫滑の乱を討伐しに来たことがあり、先君荘公は罪を認めて許しを乞いました。これは我が国の恥です。主公がもし兵を用いられるなら、鄭をおいて他にありません。」
  • 州吁は「斉と鄭には石門の盟がある。両国は結んで一党となっている。衛が鄭を伐てば斉が必ず救援するだろう、衛一国でどうして二国に敵し得よう」と言った。石厚は奏上した。「今、異姓の国では宋が公と称し最大です。同姓の国では魯が叔父と称され最も尊ばれています。主公が鄭を討たれるならば、必ず宋・魯に使者を遣わして出兵の助けを求め、あわせて陳・蔡の兵を合わせれば、五国が共に事にあたることになり、何の心配がございましょう。」
  • 州吁は「陳・蔡は小国で、もとより周王に従順だ。鄭が周と最近仲違いしたことも陳・蔡は知っているだろうから、伐てと呼びかければ来ないはずがない。しかし宋・魯のような大国が、果たして強いて動かせるだろうか」と言った。
  • 石厚はさらに奏上した。「主公はその一を知って二を知りません。昔、宋の穆公は兄の宣公から位を受け、穆公が死に臨んだ際、兄の徳に報いようと思い、自分の子馮を差し置いて兄の子與夷に位を伝えました。馮は父を怨み與夷を妬み、鄭に出奔しました。鄭伯はこれを受け入れ、常に馮のために兵を挙げて宋を伐ち、與夷の位を奪おうとしています。今日、鄭を伐つよう誘いをかければ、まさに宋の望むところとなりましょう。魯の国事については公子翬がこれを執っており、翬は兵権を手中にし、魯君を眼中にないもののように扱っております。もし重い賂をもって公子翬に取り入れば、魯の兵は必ず動くこと疑いございません。」

対宋外交

  • 州吁は大いに喜び、その日のうちに魯・陳・蔡の三国へ使者を遣わしたが、宋への使者だけは人選に難儀した。石厚は寧翊という中牟の人物を推薦した。「この者はなかなかの弁舌家です。彼を遣わすのがよいでしょう。」州吁はこれに従い、寧翊に命じて宋に赴かせ兵を請わせた。
  • 宋の殤公は「鄭を伐つとはどういうことか」と尋ねた。寧翊は「鄭伯は無道にして弟を誅し母を幽閉しました。公孫滑がわが国に亡命して参りますと、鄭伯はそれすらも容赦せず、兵を興して討伐に押し寄せて参りました。先君はその強力を畏れ、恥を忍んで謝罪服従いたしました。今、わが君は先君の恥をすすごうと望み、大国とともに仇を同じくすべく、それでお力添えをお願いする次第です」と答えた。殤公は「寡人と鄭とはもとより確執がない。子が『仇を同じくする』と言うのは、いささか行き過ぎではないか」と言った。
  • 寧翊は「左右をお退けください、翊が事の次第を申し上げます」と言った。殤公はすぐに左右を退け、席を寄せて「どのように教えてくれるのか」と尋ねた。寧翊は「君侯の位は、どなたから受け継がれたのですか」と問うた。殤公は「叔父穆公から伝えられたものだ」と答えた。
  • 寧翊は言った。「父が死んで子が継ぐのは古来の常理です。穆公には堯舜のような心があったとはいえ、公子馮は常に位を失ったことを恨みとしており、身は隣国にありながら、その心は片時も宋を忘れることはございません。鄭が公子馮を受け入れたことで、その結びつきはすでに固まっております。ひとたび馮を擁して兵を興せば、国人は穆公の恩を感じ、その子を忘れず、内外に変事が生じれば、君侯の位は危うくなりましょう。今回の挙は名目こそ鄭を伐つとされておりますが、実は君侯のために内に巣くう重大な患いを除くものなのです。君侯がもしこの事を主導されれば、わが国は総力を挙げて出兵し、魯・陳・蔡三国の兵と合わせて力を尽くしましょう。鄭の滅亡もそう遠くはございません。」
  • 宋の殤公はもとより公子馮に対し忌む心があったので、この一席の話がまさにその意に適い、ついに出兵を承諾した。大司馬孔父嘉は、殷の湯王の子孫であり、人となり正直で私心がなかった。殤公が衛の使者の言葉を聞き入れたと知ると、諫めて言った。「衛の使者の言葉は聞き入れてはなりません。もし鄭伯が弟を弑し母を幽閉したことを罪とするならば、州吁が兄を弑して位を篡ったことこそ、罪ではないでしょうか。どうか主公、よくお考えください。」殤公はすでに寧翊に承諾していたので、孔父嘉の諫めを聞かず、日を定めて出兵した。

五国連合による鄭包囲

  • 魯の公子翬は衛国の重い賂を受け取り、隠公の許しを得ないまま、自らも重兵を率いて参陣した。陳・蔡も期日通りに到着したのは、言うまでもない。宋公は爵位が最も尊いため盟主に推された。衛の石厚が先鋒となり、州吁自ら後陣を率い、多くの兵糧や馬の飼料を用意して四国の兵を労った。五国あわせて兵車一千三百乗をもって、鄭の東門を水も漏らさぬほどに包囲した。
  • 鄭荘公は群臣に計を問うたが、戦うべきか和すべきかで意見はまちまちであった。荘公は笑って言った。「諸君の意見はいずれも良策ではない。州吁は新たに簒逆を行い、まだ民心を得ていない。それゆえ旧怨を口実に四国から兵を借り、威を立てて衆を圧しようとしているに過ぎない。魯の公子翬は衛の賂を貪り、事は君の意によるものではない。陳・蔡は鄭に仇はなく、いずれも必戦の意は持っていない。ただ宋国だけは公子馮が鄭にいることを忌み、本気で助力しているだけだ。私は公子馮を長葛に出して住まわせよう。そうすれば宋の兵は必ず動くはずだ。さらに子封に徒歩の兵五百を率いさせ、東門から出て、五国のうち衛の軍だけに狙いを定めて戦いを挑ませ、わざと敗れたふりをして退かせよう。州吁は戦勝の名を得れば、その志はすでに満たされる。国事もまだ定まっておらぬのに、どうして長く軍中に留まっていられよう、その帰還はきっと早いはずだ。聞くところによれば衛の大夫石碏には大いなる忠心があるという。ほどなく衛には必ず内変が起こるだろう。州吁は自らを顧みる余裕もなくなるはずで、どうして我らを害することができようか。」
  • そこで大夫瑕叔盈に一隊の兵を率いさせ、公子馮を長葛へと護送させた。荘公は宋に人を遣わして「公子馮はわが国に死を逃れて参っておりますが、わが国は忍びなくこれを誅することができません。今、長葛にて罪に伏させます。君のご判断にお任せいたします」と告げさせた。宋の殤公は果たして兵を移して長葛を囲んだ。蔡・陳・魯の三国の兵は、宋の兵が動いたのを見て、いずれも旗を返す気配を見せた。突然、公子呂が東門から出て衛に挑戦したとの報が届き、三国の兵は自軍の陣営の塁壁の上から手をこまねいてこれを眺めるだけであった。

衛軍の撤退

  • さて石厚は兵を率いて公子呂と交戦したが、数度も打ち合わぬうちに、公子呂は画戟を引きずるように退いて逃げ出した。石厚が東門まで追い迫ると、門内から兵が呼応して出て公子呂を迎え入れ、城内へ収容してしまった。石厚は東門外の禾稲をすべて刈り取って兵士を労い、兵を引き上げるよう命じた。州吁は「まだ大勝を得ていないのに、どうしてもう帰るのか」と言った。石厚は左右を退けて、兵を引き上げる理由を話した。州吁は大いに喜んだ。石厚が話した理由がいかなるものであったかは、次回を見てのお楽しみ。
原文(底本)
卻說鄭莊公聞公孫滑起兵前來侵伐,問計於群臣。公子呂曰:「『斬草留根,逢春再發。』公孫滑逃死為幸,反興衛師。此衛侯不知共叔襲鄭之罪,故起兵助滑,以救祖母為辭也。依臣愚見,莫如修尺一之書,致於衛侯,說明其故,衛侯必抽兵回國。滑勢既孤,可不戰而擒矣。」公曰:「然。」遂遣使致書於衛。衛桓公得書,讀曰:

    寤生再拜,奉書衛侯賢侯殿下:家門不幸,骨肉相殘,誠有愧於鄰國。然封京賜土,非寡人之不友;恃寵作亂,實叔段之不恭。寡人念先人世守為重,不得不除。母姜氏,以溺愛叔段之故,內懷不安,避居潁城,寡人已自迎歸奉養。今逆滑昧父之非,奔投大國。賢侯不知其非義,師徒下臨敝邑。自反並無得罪,惟賢侯同聲亂賊之誅,勿傷脣齒之誼。敝邑幸甚!

衛桓公覽罷,大驚曰:「叔段不義,自取滅亡。寡人為滑興師,實為助逆。」遂遣使收回本國之兵。使者未到,滑兵乘廩延無備,已攻下了。鄭莊公大怒,命大夫高渠彌出車二百乘,來爭廩延。時衛兵已撤回,公孫滑勢孤不敵,棄了廩延,仍奔衛國。公子呂乘勝追逐,直抵衛郊。衛桓公大集群臣,問戰守之計。公子州吁進曰:「水來土掩,兵至將迎,又何疑焉?」大夫石碏奏曰:「不可,不可!鄭兵之來,繇我助滑為逆所致。前鄭伯有書到,我不若以書答之,引咎謝罪。不勞師徒,可卻鄭兵。」衛侯曰:「卿言是也。」即命石碏作書,致於鄭伯。書曰:

    完再拜上王卿士鄭賢侯殿下:寡人誤聽公孫滑之言,謂上國殺弟囚母,使孫姪無竄身之地,是以興師。今讀來書,備知京城太叔之逆,悔不可言。即日收回廩延之兵,倘蒙鑒察,當縛滑以獻,復修舊好。惟賢侯圖之!

鄭莊公覽書曰:「衛既服罪,寡人又何求焉?」

  卻說國母姜氏,聞莊公興師伐衛,恐公孫滑被殺,絕了太叔之後,遂向莊公哀求:「乞念先君武公遺體,存其一命!」莊公既礙姜氏之面,又度公孫滑孤立無援,不能有為。乃回書衛侯,書中但言「奉教撤兵,言歸於好。滑雖有罪,但逆弟止此一子,乞留上國,以延段祀。」一面取回高渠彌之兵。公孫滑老死於衛。此是後話。

  卻說周平王因鄭莊公久不在位,偶因虢公忌父來朝,言語相投,遂謂虢公曰:「鄭侯父子秉政有年,今久不供職,朕欲卿權理政務,卿不可辭。」虢公叩首曰:「鄭伯不來,必國中有事故也。臣若代之,鄭伯不惟怨臣,且將怨及王矣。臣不敢奉命!」再三謝辭,退歸本國。原來鄭莊公身雖在國,留人於王都,打聽朝中之事,動息傳報。今日平王欲分政於虢公,如何不知。即日駕車如周,朝見已畢,奏曰:「臣荷聖恩,父子相繼秉政。臣實不才,有忝職位,願拜還卿士之爵,退就藩封,以守臣節。」平王曰:「卿久不蒞任,朕心懸懸。今見卿來,如魚得水,卿何故出此言耶?」莊公又奏曰:「臣國中有逆弟之變,曠職日久。今國事粗完,星夜趨朝。聞道路相傳,謂吾王有委政虢公之意。臣才萬分不及虢公,安敢尸位,以獲罪於王乎?」平王見莊公說及虢公之事,心慚面赤,勉強言曰:「朕別卿許久,亦知卿國中有事,欲使虢公權管數日,以候卿來。虢公再三辭讓,朕已聽其還國矣。卿又何疑焉?」莊公又奏曰:「夫政者,王之政也,非臣一家之政也。用人之柄,王自操之。虢公才堪佐理,臣理當避位。不然,群臣必以臣為貪於權勢,昧於進退。惟王察之!」平王曰:「卿父子有大功於國,故相繼付以大政,四十餘年,君臣相得。今卿有疑朕之心,朕何以自明!卿如必不見信,朕當命太子狐,為質於鄭,何如?」莊公再拜辭曰:「從政罷政,乃臣下之職,焉有天子委質於臣之禮?恐天下以臣為要君,臣當萬死!」平王曰:「不然。卿治國有方,朕欲使太子觀風於鄭,因以釋目下之疑。卿若固辭,是罪朕也。」莊公再三不敢受旨。群臣奏曰:「依臣等公議,王不委質,無以釋鄭伯之疑;若獨委質,又使鄭伯乖臣子之義。莫若君臣交質,兩釋猜忌,方可全上下之恩。」平王曰:「如此甚善!」莊公使人先取世子忽待質於周,然後謝恩。周太子狐,亦如鄭為質。史官評論周鄭交質之事,以為君臣之分,至此盡廢矣。詩曰:

    腹心手足本無私,一體相猜事可嗤。交質分明同市賈,王綱從此遂陵夷!

自交質以後,鄭伯留周輔政,一向無事。平王在位五十一年而崩。鄭伯與周公黑肩同攝朝政。使世子忽歸鄭,迎回太子狐來周嗣位。太子狐痛父之死,未得侍疾含殮,哀痛過甚,到周而薨。其子林嗣立,是為桓王。眾諸侯俱來奔喪,並謁新天子。虢公忌父先到,舉動皆合禮數,人人愛之。

  桓王傷其父以質鄭身死,且見鄭伯久專朝政,心中疑懼,私與周公黑肩商議曰:「鄭伯曾質先太子於國,意必輕朕。君臣之間,恐不相安。虢公執事甚恭,朕欲畀之以政,卿意以為何如?」周公黑肩奏曰:「鄭伯為人慘刻少恩,非忠順之臣也。但我周東遷洛邑,晉鄭功勞甚大,今改元之日,遽奪鄭政,付於他手,鄭伯憤怒,必有跋扈之舉,不可不慮。」桓王曰:「朕不能坐而受制,朕意決矣。」

  次日,桓王早朝,謂鄭伯曰:「卿乃先王之臣,朕不敢屈在班僚。卿其自安。」莊公奏曰:「臣久當謝政,今即拜辭。」遂忿忿出朝。謂人曰:「孺子負心,不足輔也!」即日駕車回國。世子忽率領眾官員出郭迎接,問其歸國之故。莊公將桓王不用之語,述了一遍,人人俱有不平之意。大夫高渠彌進曰:「吾主兩世輔周,功勞甚大。況前太子質於吾國,未嘗缺禮。今舍吾主而用虢公,大不義也!何不興師打破周城,廢了今王,而別立賢胤?天下諸侯,誰不畏鄭,方伯之業可成矣!」潁考叔曰:「不可!君臣之倫,比於母子。主公不忍仇其母,何忍仇其君?但隱忍歲餘,入周朝覲,周王必有悔心。主公勿以一朝之忿,而傷先公死節之義。」大夫祭足曰:「以臣愚見,二臣之言,當兼用之。臣願帥兵直抵周疆,託言歲凶,就食溫洛之間。若周王遣使責讓,吾有辭矣。如其無言,主公入朝未晚。」莊公准奏,命祭足領了一枝軍馬,聽其便宜行事。

  祭足巡到溫洛界首:說「本國歲凶乏食,向溫大夫求粟千鍾。」溫大夫以未奉王命,不許。祭足曰:「方今二麥正熟,儘可資食。我自能取,何必求之!」遂遣士卒各備鐮刀,分頭將田中之麥,盡行割取,滿載而回。祭足自領精兵,往來接應。溫大夫知鄭兵強盛,不敢相爭。祭足於界上休兵三月有餘,再巡至成周地方。時秋七月中旬,見田中早稻已熟,吩咐軍士假扮作商人模樣,將車埋伏各村里,三更時分,一齊用力將禾頭割下,五鼓取齊。成周效外,稻禾一空。比及守將知覺,點兵出城,鄭兵已去之遠矣。兩處俱有文書到於洛京,奏聞桓王,說鄭兵盜割麥禾之事。桓王大怒,便欲興兵問罪。周公黑肩奏曰:「鄭祭足雖然盜取禾麥,乃邊庭小事,鄭伯未必得知。以小忿而棄懿親,甚不可也。若鄭伯心中不安,必然親來謝罪修好。」桓王准奏,但命沿邊所在,加意堤防,勿容客兵入境。其芟麥刈禾一事,並不計較。

  鄭伯見周王全無責備之意,果然心懷不安,遂定入朝之議。正欲起行,忽報:「齊國有使臣到來。」莊公接見之間,使臣致其君僖公之命,約鄭伯至石門相會。莊公正欲與齊相結,遂赴石門之約。二君相見,歃血訂盟,約為兄弟,有事相偕。齊侯因問:「世子忽曾婚娶否?」鄭伯對以「未曾」。僖公曰:「吾有愛女,年雖未笄,頗有才慧。倘不棄嫌,願為待年之婦。」鄭莊公唯唯稱謝。及返國之日,向世子忽言之。忽對曰:「妻者齊也,故曰配偶。今鄭小齊大,大小不倫,孩兒不敢仰攀。」莊公曰:「請婚出於彼意,若與齊為甥舅,每事可以仰仗,吾兒何以辭之?」忽又對曰:「丈夫志在自立,豈可仰仗於婚姻耶?」莊公喜其有志,遂不強之。後來齊使至鄭,聞鄭世子不願就婚,歸國奏知僖公。僖公歎曰:「鄭世子可謂謙讓之至矣!吾女年幼,且俟異日再議可也。」後人有詩嘲富室攀高,不如鄭忽辭婚之善。詩曰:

    婚姻門戶要相當,大小須當自酌量。卻笑攀高庸俗子,拼財但買一巾方。

  忽一日,鄭莊公正與群臣商議朝周之事,適有衛桓公訃音到來,莊公詰問來使,備知公子州吁弒君之事。莊公頓足歎曰:「吾國行且被兵矣!」群臣問曰:「主公何以料之?」莊公曰:「州吁素好弄兵,今既行篡逆,必以兵威逞志。鄭衛素有嫌隙,其試兵必先及鄭,宜預備之。」

  且說衛州吁如何弒君?原來衛莊公之夫人,乃齊東宮得臣之妹,名曰莊姜,貌美而無子。次妃乃陳國之女,名曰厲媯,亦不生育。厲媯之妹,名曰戴媯,隨姊嫁衛,生子曰完,曰晉。莊姜性不嫉妒,育完為己子,又進宮女於莊公,莊公嬖幸之,生子州吁。州吁性暴戾好武,喜於談兵。莊公溺愛州吁,任其所為。大夫石碏嘗諫莊公曰:「臣聞愛子者,教以義方,弗納於邪。夫寵過必驕,驕必生亂。主公若欲傳位於吁,便當立為世子。如其不然,當稍裁抑之,庶無驕奢淫佚之禍。」莊公不聽。石碏之子石厚,與州吁交好,時嘗並車出獵,騷擾民居。石碏將厚鞭責五十,鎖禁空房,不許出入。厚踰牆而出,遂住州吁府中,一飯必同,竟不回家。石碏無可奈何。後莊公薨,公子完嗣位,是為桓公。桓公生性懦弱。石碏知其不能有為,告老在家,不與朝政。州吁益無忌憚,日夜與石厚商量篡奪之計。其時平王崩訃適至,桓王林新立,衛桓公欲如周弔賀。石厚謂州吁曰:「大事可成矣!明日主公往周,公子可設餞於西門,預伏甲士五百於門外,酒至數巡,袖出短劍而刺之。手下有不從者,即時斬首。諸侯之位,唾手可得。」州吁大悅。預命石厚領壯士五百,埋伏西門之外。州吁自駕車,迎桓公至於行館,早已排下筵席。州吁躬身進酒曰:「兄侯遠行,薄酒奉餞。」桓公曰:「又教賢弟費心。我此行不過月餘便回,煩賢弟暫攝朝政,小心在意。」州吁曰:「兄侯放心。」酒至半巡,州吁起身滿斟金盞,進於桓公。桓公一飲而盡,亦斟滿杯回敬州吁。州吁雙手去接,詐為失手,墜盞於地,慌忙拾取,親自洗滌。桓公不知其詐,命取盞更斟,欲再送州吁。州吁乘此機會,急騰步閃至桓公背後,抽出短劍,從後刺之。刃透於胸,即時傷重而薨。時周桓王元年春三月戊申也。從駕諸臣,素知州吁武力勝眾,石厚又引五百名甲士圍住公館,眾人自度氣力不加,只得降順。以空車載屍殯殮,託言暴疾。州吁遂代立為君。拜石厚為上大夫。桓公之弟晉,逃奔邢國去了。史臣有詩嘆衛莊公寵吁致亂。詩云:

    教子須知有義方,養成驕佚必生殃。鄭莊克段天倫薄,猶勝桓侯束手亡。

  州吁即位三日,聞外邊沸沸揚揚,盡傳說弒兄之事。乃召上大夫石厚商議曰:「欲立威鄰國,以脅制國人,問何國當伐?」石厚奏:「鄰國俱無嫌隙。惟鄭國昔年討公孫滑之亂,曾來攻伐。先君莊公服罪求免,此乃吾國之恥。主公若用兵,非鄭不可。」州吁曰:「齊鄭有石門之盟,二國結連為黨,衛若伐鄭,齊必救之,一衛豈能敵二國?」石厚奏曰:「當今異姓之國,惟宋稱公為大。同姓之國,惟魯稱叔父為尊。主公欲伐鄭,必須遣使於宋魯,求其出兵相助,並合陳蔡之師,五國同事,何憂不勝?」州吁曰:「陳蔡小國,素順周王。鄭與周新隙,陳蔡必知之,呼使伐鄭,不愁不來。若宋魯大邦,焉能強乎?」石厚又奏曰:「主公但知其一,不知其二。昔宋穆公受位於其兄宣公,穆公將死,思報兄之德,乃舍其子馮,而傳位於兄之子與夷。馮怨父而嫉與夷,出奔於鄭。鄭伯納之,常欲為馮起兵伐宋,奪取與夷之位。今日勾連伐鄭,正中其懷。若魯之國事,乃公子翬秉之。翬兵權在手,覷魯君如無物。如以重賂結公子翬,魯兵必動無疑矣。」

  州吁大悅,即日遣使往魯、陳、蔡三處去訖,獨難使宋之人。石厚薦一人姓寧,名翊,乃中牟人也。「此人甚有口辨,可以遣之。」州吁依言,命寧翊如宋請兵。宋殤公問曰:「伐鄭何意?」寧翊曰:「鄭伯無道,誅弟囚母。公孫滑亡命敝邑,又不能容,興兵來討,先君畏其強力,腆顏謝服。今寡君欲雪先君之恥,以大國同仇,是以借助。」殤公曰:「寡人與鄭素無嫌隙,子曰同仇,得無過乎?」寧翊曰:「請屏左右,翊得畢其說。」殤公即麾去左右,側席問曰:「何以教之?」寧翊曰:「君侯之位,受之誰乎?」殤公曰:「傳之吾叔穆公也。」寧翊曰:「父死子繼,古之常理。穆公雖有堯舜之心,奈公子馮每以失位為恨,身居鄰國,其心須臾未嘗忘宋也。鄭納公子馮,其交已固,一旦擁馮興師,國人感穆公之恩,不忘其子,內外生變,君侯之位危矣!今日之舉,名曰伐鄭,實為君侯除心腹之患也。君侯若主其事,敝邑悉起師徒,連魯、陳、蔡三國之兵,一齊效勞,鄭之滅亡可待矣!」宋殤公原有忌公子馮之心,這一席話,正投其意,遂許興師。大司馬孔父嘉,乃殷湯王之後裔,為人正直無私。聞殤公聽衛起兵,諫曰:「衛使不可聽也!若以鄭伯弒弟囚母為罪,則州吁弒兄篡位,獨非罪乎?願主公思之。」殤公已許下寧翊,遂不聽孔父嘉之諫,刻日興師。

  魯公子翬接了衛國重賂,不繇隱公作主,亦起重兵來會。陳蔡如期而至,自不必說。宋公爵尊,推為盟主。衛石厚為先鋒,州吁自引兵打後,多齎糧草,犒勞四國之兵。五國共甲車一千三百乘,將鄭東門圍得水洩不通。

  鄭莊公問計於群臣,言戰言和,紛紛不一。莊公笑曰:「諸君皆非良策也。州吁新行篡逆,未得民心,故託言舊怨,借兵四國,欲立威以壓眾耳。魯公子翬貪衛之賂,事不繇君,陳蔡與鄭無仇,皆無必戰之意。只有宋國忌公子馮在鄭,實心協助。吾將公子馮出居長葛,宋兵必移。再令子封引徒兵五百,出東門單搦衛戰,詐敗而走。州吁有戰勝之名,其志已得,國事未定,豈能久留軍中,其歸必速。吾聞衛大夫石碏,大有忠心,不久衛將有內變。州吁自顧不暇,安能害我乎?」乃使大夫瑕叔盈引兵一枝,護送公子馮往長葛去訖。莊公使人於宋曰:「公子馮逃死敝邑,敝邑不忍加誅。今令伏罪於長葛,惟君自圖之。」宋殤公果然移兵去圍長葛。蔡、陳、魯三國之兵,見宋兵移動,俱有返旆之意。忽報公子呂出東門單搦衛戰,三國登壁壘上袖手觀之。

  卻說石厚引兵與公子呂交鋒,未及數合,公子呂倒拖畫戟而走,石厚追至東門,門內接應入去。石厚將東門外禾稻盡行芟刈,以勞軍士,傳令班師。州吁曰:「未見大勝,如何便回?」石厚屏去左右,說出班師之故。州吁大悅。畢竟石厚所說甚話,且看下回分解。

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