東周列國志第七回 公孫閼、車を争って考叔を射る/公子翬、諂いを献じて隠公を害す (公孫閼爭車射考叔 公子翬獻諂賊隱公)

鄭莊公、宋衞襲来を隠して兵を引き上げ、同盟を結ぶ

  • さて鄭莊公は世子忽からの急報の文書を受け取ると、すぐに兵を引き上げるよう命令を伝えた。夷仲年と公子翬は自ら本営に来て鄭伯に「私どもは勝ちに乗じてさらに進撃しようとしていたのに、急に兵を引き上げよとの命が下ったのはなぜですか」と尋ねた。
  • 莊公は奸雄で知略に富み、宋・衞が鄭を襲ったことを隠して、ただこう言った。「寡人は王命を奉じて宋を討ち、今、貴国の兵威に頼って二つの邑を割り取ったので、すでに削地の罰としては十分だ。賓王の上爵にある貴国は、王室からもとより尊ばれ礼遇されている。寡人がどうして多くを求めようか。取った郜・防の両邑は、斉・魯それぞれが一つずつ得るべきで、寡人は少しも私しない。」
  • 夷仲年は「貴国が王命をもって兵を徴されたのですから、わが国が真っ先に馳せ参じ、いささか微力を尽くしたのは礼として当然のことです。決して邑を受けるわけにはまいりません」と言い、繰り返し謙譲した。莊公は「公子がどうしても地を受けないと言われるなら、二つの邑はどちらも魯侯に差し上げ、公子の老挑での第一の功に報いよう」と言った。公子翬はそれ以上辞退せず、両手を組んで礼をし、謝意を示した。別の将を分けて遣わし、郜・防の二邑をそれぞれ守らせた。このことはこれ以上語らない。
  • 莊公は三軍を大いにねぎらい、別れに際して夷仲年と公子翬とともに犠牲を刑して盟った。「三国は患難を共にし互いに助け合う。今後戦事あれば、それぞれ兵車を出して助け合う。この言葉に背けば、神明は容赦しない。」

斉侯の称賛と鄭・宋・衞の戴における攻防

  • 夷仲年は帰国し、斉僖公にまみえて防城を取った経緯を詳しく述べた。僖公は「石門の盟に『事あれば共にする』とあった。今邑を取ったとはいえ、道理としては鄭に帰すべきである」と言った。夷仲年は「鄭伯は受け取らず、あわせて魯侯に帰しました」と言った。僖公は鄭伯をこの上なく公正な人物だと考え、しきりに称賛した。
  • また鄭伯が兵を引き上げる途中、本国からの文書をさらに一通受け取った。それには「宋・衞はすでに兵を戴に向けた」とあった。莊公は笑って「私はもとより二国に何もできまいと分かっていた。しかし孔父嘉は兵法を知らぬ者だ。自国の危急を自ら救うべきときに、どうして逆に無関係の相手へ怒りを移すようなことをするのか。私が計をもってこれを取ろう」と言い、四人の将に令を伝え、四隊に分かれさせ、それぞれに策を授け、口をつぐみ太鼓を伏せて、そろって戴国へ進発させた。
  • さて宋・衞は兵を合わせて戴を攻め、さらに蔡国からも援軍を得て、一気呵成に成功するつもりであった。そこへ「鄭国が上将・公子呂に兵を率いさせて戴を救援し、城から五十里の所に陣を張った」との報せが入った。右宰醜は「これは石厚が敗れさせた将だ。まったく戦に耐えられまい。何の恐れることがあろうか」と言った。
  • しばらくして、また「戴君は鄭の兵が救援に来たと知って、門を開いて迎え入れた」との報せがあった。孔父嘉は「この城はもう手に入ったも同然だったのに、思いがけず鄭の兵が助けに来て、また日数がかかる。どうしたものか」と言った。右宰醜は「戴に助っ人が付いた以上、必ず兵を合わせて戦いを挑んでくるでしょう。あなたと私とで共に壁塁に登り、城中の動静を観察し、対策を立てましょう」と言った。
  • 二将がちょうど壁塁の上で指図をしていたところ、突然連珠砲が鳴り響き、城上には一面に鄭国の旗が翻り、公子呂は全身に鎧兜を着け、城楼の外の欄干に寄りかかり、大声で「三位の将軍のお力添えのおかげで、わが君はすでに戴城を手に入れました。厚く御礼申し上げます」と叫んだ。
  • 実は鄭莊公が計を設け、公子呂が戴を救援すると偽らせていたが、実際には莊公自身が戦車の中に潜んでいたのである。ただ(救援と偽って)戴城の中へ騙し入り、そのまま戴君を追い出し、あわせて戴国の軍をも併合しようというものであった。城中は連日の戦いと守りで疲れ果てており、もとより鄭伯の威名は聞こえていたので、誰も抵抗できなかった。数百代にわたって伝わってきた城と堀は、少しの労力もかけずに鄭国のものとなった。戴君は宮中の家族を引き連れ、西の秦へと逃げ落ちた。

孔父嘉の敗走

  • 孔父嘉は鄭伯にまんまと戴城を占領されたのを見て、怒りが胸に満ち、兜を地面に投げつけて「私は今日より鄭とは断じて両立できぬ!」と叫んだ。右宰醜は「あの老獪な男は用兵に長けている。必ず後続の策があろう。もし内外から挟み撃ちにされれば、我らは危うい」と言った。孔父嘉は「右宰の言葉は、いかにも臆病ではないか」と答えた。
  • 話している最中、「城中から人が来て挑戦状を出した」との報せがあった。孔父嘉はすぐに翌日決戦すると返答した。一方で衞・蔡二国と申し合わせ、三手に分かれた軍馬をそろって後方二十里に退かせ、不意の衝突を防ぐこととした。孔父嘉は中央に陣を置き、蔡・衞は左右に陣を張り、隔たりはわずか三里であった。陣を立てたばかりで息もまだ整わぬうちに、突然陣の後ろで一発の砲声が轟き、火光が天を接し、車の音が耳をつんざいた。物見が「鄭の兵が来た」と報告した。
  • 孔父嘉は大いに怒り、方天画戟を手に取り、車に乗って迎え撃った。ところが車の音がぴたりと止み、火の光もすべて消えた。ようやく陣に戻ろうとすると、今度は左手から再び砲声が鳴り、火の光が絶えない。孔父嘉が陣を出て見ると、左の火は消え、右手では連続して砲声が響き、一面の火光が林の外にほのかに見えた。孔父嘉は「これは老獪な男の疑兵の計だ」と言い、「みだりに動く者は斬る」と令を伝えた。
  • しばらくすると、左手にまた火が起こり、喊声が大地を震わせ、「左の陣の蔡軍が襲われた」との報せが入った。孔父嘉は「私が自ら助けに行こう」と言った。ところが陣門を出るや、右手にまた火が盛んに燃え上がり、どこの軍が来たのかまるで分からなかった。孔父嘉は御者に「ただ車を左へ向けろ」と怒鳴った。御者は慌てて、逆に車を右へ推し進めてしまった。行き当たった一隊の兵車と互いに撃ち合い、刺し合った。一更あまり(およそ二時間)たって、ようやくそれが衞国の兵であったと分かった。互いに事情を説明し、兵を合わせて中営に向かうと、その中営はすでに高渠彌に占拠されていた。急いで方向を変えると、右手には潁考叔、左手には公孫閼がおり、両方から兵が攻め寄せてきた。公孫閼は右宰醜と、潁考叔は孔父嘉と、それぞれ組み合って死闘を演じた。
  • 東の空が白み始めると、孔父嘉は戦う気力を失い、血路を切り開いて逃げた。途中で高渠彌と出くわし、また一戦交えた。孔父嘉は乗っていた車を捨て、従う者はわずか二十余人だけとなり、徒歩で命からがら逃げた。右宰醜は戦死した。三国の戦車兵も歩兵もことごとく鄭に捕らえられ、鄭の郊外で奪われていた人畜・輜重も、そっくりそのまま鄭のものとして取り戻された。(これはすべて莊公の巧妙な計略であった。)
  • (詩:史官が「主客・雌雄いまだ分かれていないうちに、莊公の智謀は神のごとく妙であった。まさに鷸蚌の争いのようなもので、結局利益を得たのは網を張った者であった」と詠う趣旨)

鄭莊公の宴と潁考叔の諫言、郕討伐と公子呂の死

  • 莊公は戴城を手に入れ、あわせて三国の軍をも併せ取り、大軍は勝利を収めて意気揚々と満載で帰国した。莊公は大いに酒宴を設け、従軍した諸将をもてなした。諸将は代わる代わる杯を捧げて祝賀した。莊公は得意満面で、酒を地に注いで言った。「寡人は天地祖宗の霊と諸卿の力に頼って、戦えば必ず勝ち、威は上公にも勝る。昔の方伯(諸侯の長)に比べればどうであろうか。」群臣はみな「千歳」と称賛したが、潁考叔だけは黙っていた。莊公は目を凝らして考叔を見た。
  • 考叔は申し上げた。「主君のお言葉には誤りがございます。方伯とは、王命を受けて一方の諸侯の長となり、専ら征伐を行うことができ、命じれば行われぬことなく、呼べば応じぬことのない者を言います。今、主君は王命を借りると称して宋の罪を鳴らされましたが、周天子は実際には何も関知しておられません。しかも檄を伝えて兵を徴したのに、蔡・衞はかえって宋を助けて鄭を侵し、郕・許のような小国は公然と従いませんでした。方伯の威というものが、果たしてこのようなものでしょうか。」
  • 莊公は笑って「そなたの言うとおりだ。蔡・衞は全軍を失ったのだから、すでに小さな懲らしめにはなっただろう。今、郕・許の罪を問おうと思うが、どちらを先にすべきか」と言った。
  • 潁考叔は言った。「郕は斉に隣接し、許は鄭に隣接しております。主君はすでに命に背いた罪を問おうとされているのですから、まずその罪を正しく告げ、一将を遣わして斉の郕討伐を助け、斉に鄭の許討伐への協力を求めるのがよいでしょう。郕を得れば斉に帰し、許を得れば鄭に帰す。そうすれば両国が共に事を成し遂げた誼を失うことがありません。事が終わったら周に戦果を献上すれば、四方の耳目を飾ることもできましょう。」莊公は「よかろう。しかし順序立てて行うべきだ」と言った。
  • そこでまず使者を遣わして郕・許を問罪する旨を斉侯に告げると、斉侯は喜んで承諾した。夷仲年に兵を率いさせて郕を討たせ、鄭も大将・公子呂に兵を率いさせてこれを助け、まっすぐその都に攻め入った。郕の人々は大いに恐れ、斉に講和を求め、斉侯はこれを受け入れた。そのまま使者を公子呂に随行させ鄭に至らせ、許討伐の期日を尋ねさせた。莊公は斉侯と時来の地で会うことを約束し、あらためて斉侯に魯侯にも同様に事を頼んでもらった。時は周桓王八年の春であった。
  • 公子呂は途上で病にかかり帰国したが、まもなく亡くなった。莊公は哭して悲しみ、「子封(公子呂)が長生きできなかったのは、私の右腕を失ったようなものだ」と言った。そこでその家を手厚く弔い、弟の公子元を大夫に取り立てた。ちょうど正卿の位が空いており、莊公は高渠彌を用いようとした。世子忽は密かに諫めて「渠彌は貪欲で狠悪な人物であり、正しい人物ではありません。重く任じてはなりません」と言った。莊公はうなずいた。そこで祭足を上卿に改め、公子呂の位に代え、高渠彌を亜卿とした。このことはこれ以上語らない。

「蝥弧」の大旗をめぐる争い

  • さてその夏、斉・魯二侯はともに時来に到り、鄭伯とじかに出兵の期日を取り決めた。秋七月朔日に、許の地で会合することとし、二侯は命を受けて別れた。鄭莊公は帰国すると、軍馬を大いに閲兵し、日を選んで太宮に祭祀を行い、諸将を教場に集めた。「蝥弧」の大旗をあらためて作り直し、大車の上に立て、鉄の輪で固定した。この大旗は錦で作られ、錦の一辺は一丈二尺、金の鈴二十四個を綴り、旗の上には「奉天討罪」の四大字を刺繍し、旗竿の長さは三丈三尺であった。
  • 莊公は「この大旗を手に持って、平常どおりに歩ける者があれば、先鋒に任じ、輅車を賜おう」と令を伝えた。言い終わらぬうちに、班列の中から一人の大将が進み出た。銀の兜をかぶり、紫の袍に金の甲を身に着け、色黒で虬のような髭を蓄え、濃い眉に大きな目をしていた。見れば大夫・瑕叔盈であった。前へ進み出て「私が持ちましょう」と申し上げ、片手で旗竿を引き抜いてしっかりと握り、前へ三歩、後ろへ三歩と歩き、そのまま車の中に立て直しても、少しも息を切らさなかった。兵士たちはみな喝采した。
  • 瑕叔盈が「御者はいずこか。私のために車を御せ」と大声で呼び、まさに謝恩しようとしたそのとき、班列の中からまた一人の大将が進み出た。雉の羽飾りの冠をかぶり、緑の錦で額を覆い、緋の袍に犀の甲を身に着け、「旗を持って歩くくらい、珍しいことではない。私はこれを舞わせることができる」と口にした。人々が前に進んで見ると、大夫・潁考叔であった。御者は考叔が大言を吐くのを見て、あえて前に出ようとせず、ただ足を止めて見守った。
  • 見ると考叔は左手で衣を払い上げ、右手で鉄の輪を開き、背後から旗を逆さに引き抜いた。身を躍らせて跳び上がると、その旗竿はたちまち抜けて手に収まった。急いで左手を添え、勢いに乗じて体を回し、右手で持ち上げた。左右にくるくると回し、まるで長槍のように、ひゅうひゅうと音を立てて舞わせた。あの旗は巻いてはまた広がり、広がってはまた巻いて、見る者はみな驚き呆れた。莊公は大いに喜んで「まことの虎のような臣だ。この車を先鋒として授けよう」と言った。
  • 言い終わらぬうちに、班列の中からまた一人の若い将軍が進み出た。顔は白粉を塗ったように白く、唇は朱を塗ったように赤く、頭には束髪の紫金冠をかぶり、織金の緑の袍を身に着け、考叔を指さして大声で「そなたが旗を舞わせられるからといって、私が舞わせられないとでも思うのか。この車は置いていけ」と怒鳴り、大股で前に進んだ。
  • 考叔はその勢いが猛烈なのを見て、片手で旗竿をつかみ、片手で車の轅を挟み込み、飛ぶように走り去った。その若い将軍は諦めず、武器架から方天画戟をひっさげ、後を追って教場から駆け出した。大路に至ろうとするところで、莊公は大夫・公孫獲に言伝を伝えて仲裁させた。その将軍は考叔がすでに遠くへ行ってしまったのを見て、恨めしそうに引き返し、「あの者は、姫姓の一族には人物がいないと私を見くびったのだ。必ず殺してやる」と言った。
  • その若い将軍とは誰か。実は公族大夫で、名を公孫閼、字を子都という、男子の中で第一の美男子であり、鄭莊公の寵愛を受けていた者であった。孟子は「子都の美しさを知らない者は、目が無い者である」と言ったが、まさにこの人物のことである。(日頃から寵愛を頼みに驕り高ぶり、しかも勇力もあり、考叔とはもとより仲が悪かった。)そのまま教場に引き返したが、なおも怒気は収まらなかった。莊公はその勇を褒めて「二頭の虎を戦わせるわけにはいかない。寡人が処置を考えよう」と言い、別に車馬を公孫閼に賜り、瑕叔盈にも賜った。二人はそれぞれ謝恩して退いた。
  • (詩:髯翁が「軍法はもとより整然としているのを尊ぶものだが、轅を挟み戟を掉げて勝手な振る舞いをするとは。鄭の朝廷には勇者は多いといえど、無礼な者は命を落とすことになる」と詠う趣旨)

許国の攻略と潁考叔の死

  • 七月朔日に至り、莊公は祭足と世子忽を国に残し、自ら大軍を率いて許城へ進発した。斉・魯二侯は先に城から二十里の所に陣を張って待っていた。三君は会見して礼を交わし、斉侯を中央に、魯侯を右に、鄭伯を左に置いた。この日、莊公は大いに酒宴を設けて歓迎した。斉侯は袖から檄文を一通取り出した。その文には許男が職貢を怠った罪を数え、今、王命を奉じて討伐すると書かれていた。魯・鄭二君はともに読み終え、そろって両手を組んで礼をして「このようであれば、出兵の名分が立つ」と言った。翌日の庚辰の日、力を合わせて城を攻めることを約束し、まず討伐の檄文を城中へ射込ませた。
  • 翌朝、三軍はそれぞれ砲を放って進軍を開始した。許はもともと男爵の小さな国都で、城は高くなく、堀も深くなかったが、三国の兵車がびっしりと取り囲み、水も漏らさぬほどであった。城内は大いに恐れおののいた。ただ許莊公は道義をわきまえた君主で、もとより民心を得ており、みな固く守ることを願ったので、急には落城しなかった。斉・魯二君はもともと主謀者ではなかったので、それほど力を尽くさなかった。結局は鄭の将が力を尽くし、人々は奮い立って、誰もが強さを競った。
  • とりわけ潁考叔は、公孫閼と車を争った一件があったので、なおさら腕前を発揮しようとした。三日目の壬午の日、考叔は轈車の上で「蝥弧」の大旗を脇に挟み、身を躍らせて一気に跳び上がり、いち早く許城に登った。公孫閼は目端が利き、考叔がすでに登城したのを見て、その手柄を妬み、人混みの中に隠れて考叔を狙い定め、素早く一本の不意打ちの矢を放った。これも考叔の命運が尽きるときであったのか、まさに背中の急所に命中し、城上から旗とともに転がり落ちて死んだ。
  • 瑕叔盈はただ考叔が城を守る兵士に傷つけられたと思い込み、一気に怒りが込み上げ、太陽穴から火花が散るほどであった。その場で大旗を取り上げ、一気に城に登り、城を一周した。「鄭君はすでに登城されたぞ」と大声で叫んだ。兵士たちは繍の旗が翻るのを望み見て、鄭伯が本当に登城したと思い込み、勇気百倍となって、そろって城に登った。城門を切り開いて、斉・魯の兵を招き入れた。続いて三君が入城した。許莊公は服を着替えて軍民の中に紛れ込み、衞国へと逃げ落ちた。

許国の処置

  • 斉侯は榜文を出して民を安んじ、許国の土地を魯侯に譲ろうとした。魯隱公は固く辞退して受けなかった。斉僖公は「この事はもともと鄭の計画から出たものだ。魯侯が受けないのなら、鄭国に帰すべきだろう」と言った。鄭莊公は内心では許を手に入れたいと望んでいたが、斉・魯二君が互いに譲り合うのを見て、やむを得ず自分も表向き遠慮するふりをした。
  • ちょうど議論している最中、「許の大夫・百里が幼い子を連れて謁見を求めております」との報せがあった。三君はそろって呼び入れさせた。百里は地に泣き伏し、額づいて哀れみを乞い、「太岳の一線の祀り(許の祖先の祭祀)を延ばしてほしい」と願った。斉侯は「その幼子は誰か」と尋ねた。百里は「わが君に子がなく、この方はわが君の弟で新臣と申します」と答えた。斉・魯二侯はともに憐憫の情を催した。
  • 鄭莊公はその場の様子を見て、機に乗じて話を転じ、「寡人はもとより王命に迫られて、貴君に従い罪を討ったまでのこと。もし土地を我が物にすることを利とするなら、義の挙げではない。今、許君は逃げ落ちたとはいえ、その世々の祭祀を絶やしてはならない。その弟が現に存命し、しかも許の大夫が頼りとなり得る以上、君臣ともにいるのだから、許は彼に返すべきである」と言った。
  • 百里は「私はただ主君が国を失い破れたことによって、六尺の孤児の命を保ってほしいと願うだけです。土地はすでに貴君のお手にあり、どうしてこれ以上望みましょうか」と言った。鄭莊公は「私が許を復興させるのは、真心からのことだ。ただ弟君が年若いため国事に耐えられないことを恐れる。寡人は人を遣わして助けさせよう」と言った。
  • そこで許を東西二つに分け、東の方は百里に新臣を奉じさせて住まわせ、西の方は鄭の大夫・公孫獲に住まわせた。名目上は許を助けるということだが、実際には監視するようなものであった。斉・魯二侯はそれが計略とは知らず、処置がうまく整ったと思い、しきりに称賛した。百里と許叔は三君に拝謝した。三君もそれぞれ帰国した。
  • (詩:髯翁が、鄭莊公の詐術をひたすら詠う。「残忍にも骨肉の情など全く無い、小さな許国に何の親しみがあろうか。東西に分けて監視させておきながら、虚名だけで外の人々を欺いている」という趣旨)
  • 許莊公はついに衞で老いて死んだ。許叔は東の方で鄭の統制を受け、鄭莊公が亡くなってから、公子忽と突が数年にわたり争い、突が入ってはまた出、忽が出てはまた入るということが続いた。鄭国が乱れているそのとき、公孫獲が病死し、許叔はようやく百里とともに計を巡らせ、機に乗じて密かに許都に入り、宗廟を立て直した。これは後の話である。

莊公が考叔を射た者を呪詛させ、公孫閼が死ぬ

  • さて鄭莊公は帰国すると、瑕叔盈を厚く賞し、潁考叔のことを思うと忘れられなかった。考叔を射殺した者を深く恨みながらも、その名が分からずにいた。そこで従軍していた者たちに、百人を一卒として豚一頭を出させ、二十五人を一行として犬一匹と鶏一羽とを出させ、巫女や祝史を呼んで祝文を作らせ、これをもって呪詛させた。公孫閼はひそかに笑いをこらえていた。このような呪詛は三日で終わろうとしていた。
  • 鄭莊公は自ら諸大夫を率いて見物に行った。祝文を焼こうとしたそのとき、一人の男が髪を振り乱し顔を垢まみれにして、まっすぐ鄭伯の前に進み出て、跪いて泣きながら言った。「私、考叔は許城に真っ先に登りましたのに、国に何の背きがございましょう。奸臣・子都に、車を争った恨みから冷たい矢で射殺されたのです。私はすでに天帝に許しを願い出て、彼の命でこの命を償ってもらうことになりました。主君のご配慮に、九泉の下より徳を感じております。」
  • 言い終わると、自ら手で喉を探った。喉から血が噴き出し、たちまち息絶えた。莊公はこの人物が公孫閼であると気づき、急いで人を遣わして助けようとしたが、すでに呼びかけても目覚めなかった。実は公孫閼は潁考叔の霊に取り憑かれ、命を求められて、鄭伯の前で自ら白状したのであった。ここに至って初めて、考叔を射殺したのが閼であったと知れた。鄭莊公はしきりに嘆いた。考叔の霊を感じ入り、潁谷に廟を建てて祀るよう命じた。今の河南府登封県、すなわち潁谷の故地に潁大夫廟があり、また純孝廟とも呼ばれる。洧川にも同様の廟がある。
  • (詩:隴西居士が莊公を批判して「車争いがやっと収まったかと思えば、今度は人の身を傷つけ、国を乱してまったく君主を憚らなかった。もし群臣が法を畏れることを知っていたなら、どうして鶏や犬を殺してまで神明を汚す必要があろうか」と詠う趣旨)

魯国の内乱―公子翬の隠公弑逆

  • 莊公はまた二人の使者を分けて遣わし、礼幣を持たせて斉・魯二国に謝意を伝えさせた。斉国では特に問題はなかった。ただ魯国に遣わした使者が帰り、礼幣を持ち帰り、国書を開かずに戻ってきた。莊公はその理由を尋ねた。使者は申し上げた。「私がちょうど魯の国境に入ったとき、魯侯が公子翬に弑され、すでに新君が立ったと聞きました。国書の内容が合わなくなったため、あえて軽々しくお渡ししませんでした。」
  • 莊公は「魯侯は謙譲で寛容な人物、まさに賢君であったのに、どうして弑されたのか」と言った。使者は言った。「その経緯を私は詳しく聞いております。魯の先君・恵公の正室は早くに亡くなり、寵妾の仲子が継室に立てられ、軌という名の子を産みました。恵公はこの子を跡継ぎに立てようとしていました。魯侯(隱公)はほかの妾の子です。恵公が薨じたとき、群臣は魯侯が年長であることから、彼を君として奉じました。魯侯は父の遺志を継ぎ、常々『国はもともと軌のものである。ただ幼いため、寡人は当座の間、摂政としているだけだ』と言っていました。
  • 「公子翬は太宰の官職を求めました。魯侯は『軌が君位に就いてから、そなた自ら求めるがよい』と言いました。公子翬はかえって魯侯に軌を忌む心があるのではと疑い、密かに魯侯に『利器を人の手に渡してはならぬ、と申します。主君はすでに位を嗣いで君となり、国人も心服しております。千年ののちには、当然子孫に伝えるべきです。どうして摂政という名目のもとに、人に望みを起こさせているのですか。今、軌は年長となり、将来主君に不利益をもたらすことを恐れます。私が彼を殺し、主君のためにこの隠れた憂いを除きましょうか』と申し上げました。
  • 「魯侯は耳を塞いで『そなたは正気を失ったのか、どうしてそのような乱暴なことを言うのか。私はすでに菟裘に宮室を築かせ、老後のために備えており、近いうちに軌に位を伝えるつもりだ』と言いました。翬は黙って退きましたが、内心では言い過ぎたことを後悔しました。魯侯がこの一件を軌に告げてしまい、軌が即位したら自分に罪を科すのではないかと恐れ、夜中に軌のもとへ行き、かえって『主君はそなたが年頃を重ねてきたので、位を争うのではないかと恐れている。今日私を宮中に召し、密かにそなたを害するようにと命じられた』と言いました。
  • 「軌は恐れて計を尋ねました。翬は『あちらに仁義がないなら、こちらも義理立てする必要はない。公子がどうしても禍を免れたいのなら、大事を決行するほかない』と言いました。軌は『あの方が君となって十一年、臣民は心服している。もし大事が成らなければ、かえって我らが災いを受けるだろう』と言いました。
  • 「翬は『私はすでに公子のために計を定めております。主君がまだ即位していない頃、鄭君との狐壤の戦いで捕らえられ、鄭の大夫・尹氏の家に幽閉されたことがありました。尹氏はもとより鐘巫という神を祀っており、主君は密かに祈祷し、魯に逃げ帰ることを謀りました。占って吉と出たので、その事情を尹氏に告げました。当時尹氏はちょうど鄭で不遇であったので、主君と共に魯に逃げてきたのです。そのとき城外に鐘巫の廟を立て、毎年冬の月には必ず自ら祭りに赴きます。今がその時です。祭りには必ず寪大夫の家に宿泊します。私は前もって勇士に人夫の姿をさせて左右に紛れ込ませ、主君に疑われないようにしておきます。眠りに落ちたところを刺し殺すのは、一人の力で十分です』と言いました。
  • 「軌は『その計はよいが、悪名をどう晴らすつもりか』と尋ねました。翬は『勇士に前もって命じて逃亡させ、寪大夫に罪を着せれば、何の問題もない』と言いました。子軌は拝礼して『大事が成れば、太宰の位で報いよう』と言いました。翬は計のとおりに実行し、果たして魯侯を弑しました。今、軌はすでに君位を継ぎ、翬は太宰となり、寪氏を討って罪を晴らそうとしています。国人はみなこれを知っておりますが、ただ翬の権勢を恐れて口に出さないだけです。」
  • 莊公はそこで群臣に「魯を討つのと魯と和するのと、どちらが利があるか」と尋ねた。祭仲は「魯と鄭は代々の誼があります。和するに越したことはありません。私が思うに、魯国から間もなく使者が来ることでしょう」と言った。言い終わらぬうちに、魯の使者がすでに宿舎に到着していた。莊公は人を遣わしてその来意を尋ねさせた。使者は「新君が即位され、特に先君の誼を修めるためにまいりました。あわせて両国の君の会見と盟約とを取り決めたいと存じます」と言った。
  • 莊公はその使者を厚くもてなし、夏四月に越の地で会見し、血をすすって誓いを立て、永遠に誼を渝えないことを約束した。これより魯と鄭の使者の往来は絶えなかった。時は周桓王九年のことである。
  • 髯翁は史書をここまで読んで論じている。「公子翬が兵権を握り、鄭を伐ち宋を伐って、思うままに専断し、逆心はすでに明らかであった。そして弟・軌を殺そうと請うたとき、隱公もまた彼の言葉を乱言だと言った。もしその罪を明らかにして人の集まる市中で処刑していれば、弟の軌もまた必ずその徳に感じ入っただろう。それなのに位を譲ると告げて、弑逆の悪事を招いてしまった。これは優柔不断のなせるわざであり、自ら禍を招いたものではないか」という趣旨の議論をしている。
  • (詩:「跋扈した将軍がほしいままに振る舞い、霜を履んで氷に至る兆しをまったく戒めなかった。菟裘に空しく宮室を築いても老いることはかなわず、寪氏のために誰が不平を訴えてくれようか」と嘆く趣旨)
  • (詩:鐘巫の祭りが無益であったことを譏る趣旨。「狐壤から逃げ帰った折に廟の額を掲げ、毎年祭りを設けて神の恩に報いた。鐘巫の霊験がもし本当に助けとなるなら、天雷を起こして子翬を撃つべきであった」という趣旨)

宋よりの使者

  • さて宋穆公の子・馮は、周平王の末年に鄭へ亡命してから、今なお鄭国にいた。ある日「宋からの使者が鄭に到着し、公子馮を国に迎え入れて君に立てようとしている」との話が伝わった。莊公は「宋の君臣が馮を騙して帰らせ、殺害しようとしているのではないか」と言った。祭仲は「まずは使者に会って、国書を確かめましょう」と言った。国書にどう書かれているか、続きは次回で語られる。
原文(底本)
話說鄭莊公得了世子忽告急文書,即時傳令班師。夷仲年公子翬等,親到老營來見鄭伯曰:「小將等乘勝正欲進取,忽聞班師之命,何也?」莊公奸雄多智,隱下宋衛襲鄭之事,只云:「寡人奉命討宋,今仰仗上國兵威,割取二邑,已足當削地之刑矣。賓王上爵,王室素所尊禮,寡人何敢多求?所取郜防兩邑,齊魯各得其一,寡人毫不敢私。」夷仲年曰:「上國以王命徵師,敝邑奔走恐後,少效微勞,禮所當然,決不敢受邑。」謙讓再三。莊公曰:「既公子不肯受地,二邑俱奉魯侯,以酬公子老挑首功之勞。」公子翬更不推辭,拱手稱謝。另差別將,領兵分守郜防二邑。不在話下。莊公大犒三軍,臨別與夷仲年公子翬刑牲而盟:「三國同患相恤。後有軍事,各出兵車為助。如背此言,神明不宥!」

  單說夷仲年歸國,見齊僖公,備述取防之事。僖公曰:「石門之盟,『有事相偕』,今雖取邑,理當歸鄭。」夷仲年曰:「鄭伯不受,並歸魯侯矣。」僖公以鄭伯為至公,稱嘆不已。

  再說鄭伯班師,行至中途,又接得本國文書一道,內稱:「宋衛已移兵向戴矣。」莊公笑曰:「吾固知二國無能為也!然孔父嘉不知兵,烏有自救而復遷怒者?吾當以計取之。」乃傳令四將,分為四隊,各各授計,銜枚臥鼓,並望戴國進發。

  再說宋衛合兵攻戴,又請得蔡國領兵助戰,滿望一鼓成功。忽報:「鄭國遣上將公子呂領兵救戴,離城五十里下寨。右宰醜曰:「此乃石厚手中敗將,全不耐戰,何足懼哉!」少頃,又報:「戴君知鄭兵來救,開門接入去了。孔父嘉曰:「此城唾手可得,不意鄭兵相助,又費時日。奈何?」右宰醜曰:「戴既有幫手,必然合兵索戰。你我同升壁壘,察城中之動靜,好做準准備。」二將方在壁壘之上,指手畫腳。忽聽連珠砲響,城上遍插鄭國旗號,公子呂全裝披掛,倚著城樓外檻,高聲叫曰:「多賴三位將軍氣力,寡君已得戴城,多多致謝!」原來鄭莊公設計,假稱公子呂領兵救戴,其實莊公親在戎車之中。只要哄進戴城,就將戴君逐出,並了戴國之軍。城中連日戰守困倦,素聞鄭伯威名,誰敢抵敵?幾百世相傳之城池,不勞餘力,歸於鄭國。戴君引了宮眷,投奔西秦去了。

  孔父嘉見鄭伯白占了戴城,忿氣填胸,將兜鍪擲地曰:「吾今日與鄭誓不兩立!」右宰醜曰:「此老奸最善用兵,必有後繼。倘內外夾攻,吾輩危矣!」孔父嘉曰:「右宰之言,何太怯也!」正說間,忽報:「城中著人下戰書。」孔父嘉即批來日決戰。一面約會衛蔡二國,要將三路軍馬,齊退後二十里,以防衝突。孔父嘉居中,蔡衛左右營,離隔不過三里。立寨甫畢,喘息未定,忽聞寨後一聲砲響,火光接天,車聲震耳。諜者報:「鄭兵到了。」孔父嘉大怒,手持方天畫戟,登車迎敵。只見車聲頓息,火光俱滅了。才欲回營,左邊砲聲又響,火光不絕。孔父嘉出營觀看,左邊火光又滅,右邊砲響連聲,一片火光,隱隱在樹林之外。孔父嘉曰:「此老奸疑軍之計。」傳令「亂動者斬!」少頃,左邊火光又起,喊聲震地,忽報:「左營蔡軍被劫。」孔父嘉曰:「吾當親往救之。」纔出營門,只見右邊火光復熾,正不知何處軍到。孔父嘉喝教御人:「只顧推車向左。」御人著忙,反推向右去。遇著一隊兵車,互相擊刺。約莫更餘,方知是衛國之兵。彼此說明,合兵一處,同到中營。那中營已被高渠彌據了。急回轅時,右有潁考叔,左有公孫閼,兩路兵到。公孫閼接住右宰醜,潁考叔接住孔父嘉,做兩隊廝殺。東方漸曉,孔父嘉無心戀戰,奪路而走。遇著高渠彌,又殺一陣。孔父嘉棄了乘車,跟隨者止存二十餘人,徒步奔脫。右宰醜陣亡。三國車徒,悉為鄭所俘獲。所擄鄭國郊外人畜輜重,仍舊為鄭所有。(此莊公之妙計也。)史官有詩云:

    主客雌雄尚未分,莊公智計妙如神。分明鷸蚌相持勢,得利還歸結網人。

  莊公得了戴城,又兼了三國之師,大軍奏凱,滿載而歸。莊公大排筵宴,款待從行諸將。諸將輪番獻卮上壽。莊公面有德色。舉酒瀝地曰:「寡人賴天地祖宗之靈,諸卿之力,戰則必勝,威加上公,於古之方伯如何?」群臣皆稱千歲。惟潁考叔嘿然。莊公睜目視之。考叔奏曰:「君言失矣!夫方伯者,受王命為一方諸侯之長,得專征伐;令無不行,呼無不應。今主公託言王命,聲罪於宋,周天子實不與聞。況傳檄征兵,蔡衛反助宋侵鄭,郕許小國,公然不至。方伯之威,固如是乎?」莊公笑曰:「卿言是也。蔡衛全軍覆沒,已足小懲。今欲問罪郕許,二國孰先?」潁考叔曰:「郕鄰於齊,許鄰於鄭。主公既欲加以違命之名,宜正告其罪,遣一將助齊伐郕,請齊兵同來伐許。得郕則歸之齊,得許則歸之鄭,庶不失兩國共事之誼。俟事畢獻捷於周,亦可遮飾四方之耳目。」莊公曰:「善!但當次第行之。」乃先遣使將問罪郕許之情,告於齊侯。齊侯欣然聽允。遣夷仲年將兵伐郕,鄭遣大將公子呂率兵助之,直入其都。郕人大懼,請成於齊,齊侯受之。就遣使跟隨公子呂到鄭,叩問伐許之期。莊公約齊侯在時來地方會面,轉央齊侯去訂魯侯同事。時周桓王八年之春也。公子呂途中得病歸國,未幾而死。莊公哭之慟曰:「子封不祿,吾失右臂矣!」乃厚卹其家,錄其弟公子元為大夫,時正卿位缺,莊公欲用高渠彌。世子忽密諫曰:「渠彌貪而狠,非正人也。不可重任。」莊公點首。乃改用祭足為上卿,以代公子呂之位。高渠彌為亞卿。不在話下。

  且說是夏,齊魯二侯皆至時來,與鄭伯面訂師期。以秋七月朔,在許地取齊,二侯領命而別。鄭莊公回國,大閱軍馬,擇日祭告於太宮,聚集諸將於教場。重制「蝥弧」大旗,建於大車之上,用鐵綰之,這大旗以錦為之,錦方一丈二尺,綴金鈴二十四個,旗上繡「奉天討罪」四大字,旗竿長三丈三尺。莊公傳令:「有能手執大旗,步履如常者,拜為先鋒,即以輅車賜之。」言未畢,班中走出一員大將,頭帶銀盔,身穿紫袍金甲,生得黑面虯鬚,濃眉大眼。眾視之,乃大夫瑕叔盈也。上前奏曰:「臣能執之。」隻手拔起旗竿,緊緊握定。上前三步,退後三步,仍豎立車中,略不氣喘。軍士無不喝采。瑕叔盈大叫:「御人何在?為我駕車!」方欲謝恩,班中又走出一員大將,頭帶雉冠,綠錦抹額,身穿緋袍犀甲,口稱「執旗展步,未為希罕,臣能舞之。」眾人上前觀看,乃大夫潁考叔也。御者見考叔口出大言,更不敢上前,且立住腳觀看。只見考叔左手撩衣,將右手打開鐵綰,從背後倒拔那旗。踴身一跳,那旗竿早拔起到手,忙將左手搭住,順勢打個轉身,將右手托起。左旋右轉,如長槍一般,舞得呼呼的響。那面旗捲而復舒,舒而復捲,觀者盡皆駭然。莊公大喜曰:「真虎臣也!當受此車為先鋒。」言猶未畢,班中又走出一員少年將軍,面如傅粉,唇若塗朱,頭帶束髮紫金冠,身穿織金綠袍,指著考叔大喝道:「你能舞旗,偏我不會舞,這車且留下!」大踏步上前。考叔見他來勢兇猛,一手把著旗竿,一手挾著車轅,飛也似跑去了。那少年將軍不捨,在兵器架上,掉起一柄方天畫戟,隨後趕出教場。將至大路,莊公使大夫公孫獲傳語解勸。那將軍見考叔已去遠,恨恨而返,曰:「此人藐我姬姓無人,吾必殺之!」那少年將軍是誰?乃是公族大夫,名喚公孫閼,字子都,乃男子中第一的美色,為鄭莊公所寵。孟子云:「不知子都之姣者,無目者也。」正是此人。(平日恃寵驕橫,兼有勇力,與考叔素不相睦。)當下回轉教場,兀自怒氣勃勃。莊公誇獎其勇曰:「二虎不得相鬥,寡人自有區處。」另以車馬賜公孫閼,並賜瑕叔盈。兩個各各謝恩而散。髯翁有詩云:

    軍法從來貴整齊,挾轅拔戟敢胡為!鄭庭雖是多驍勇,無禮之人命必危。

  至七月朔日,莊公留祭足同世子忽守國,自統大兵望許城進發。齊魯二侯,已先在近城二十里下寨等候。三君相見敘禮,讓齊侯居中,魯侯居右,鄭伯居左。是日莊公大排筵席,以當接風。齊侯袖中出檄書一紙,書中數許男不共職貢之罪,今奉王命來討。魯鄭二君俱看過,一齊拱手曰:「必如此,師出方為有名。」約定來日庚辰,協力攻城,先遣人將討檄射進城去。

  次早三營各各放砲起兵。那許本男爵,小小國都,城不高,池不深,被三國兵車,密密扎扎,圍得水洩不漏。城內好生驚怕。只因許莊公是個有道之君,素得民心,願為固守,所以急切未下。齊魯二君,原非主謀,不甚用力。到底是鄭將出力,人人奮勇,個個誇強。就中潁考叔,因公孫閼奪車一事,越要施逞手段。到第三日壬午,考叔在轈車上,將「蝥弧」大旗,挾於脅下,踴身一跳,早登許城。公孫閼眼明手快,見考叔先已登城,忌其有功,在人叢中認定考叔,颼的發一冷箭。也是考叔合當命盡,正中後心,從城上連旗倒跌下來。瑕叔盈只道考叔為守城軍士所傷,一股憤氣,太陽中迸出火星,就地取過大旗,一踴而上,遶城一轉。大呼:「鄭君已登城矣!」眾軍士望見繡旗飄颺,認鄭伯真個登城,勇氣百倍,一齊上城。砍開城門,放齊魯之兵入來。隨後三君並入。許莊公易服雜於軍民中,逃奔衛國去了。

  齊侯出榜安民,將許國土地,讓與魯侯。魯隱公堅辭不受。齊僖公曰:「本謀出鄭,既魯侯不受,宜歸鄭國。」鄭莊公滿念貪許,因見齊魯二君交讓,只索佯推假遜。正在議論之際,傳報:「有許大夫百里引著一個小兒求見。三君同聲喚入。百里哭倒在地,叩首乞哀,願延太岳一線之祀。」齊侯問:「小兒何人?」百里曰:「吾君無子,此君之弟名新臣。」齊魯二侯,各淒然有憐憫之意。鄭莊公見景生情,將計就計,就轉口曰:「寡人本迫於王命,從君討罪,若利其土地,非義舉也。今許君雖竄,其世祀不可滅絕。既其弟見在,且有許大夫可託,有君有臣,當以許歸之。」百里曰:「臣止為君亡國破,求保全六尺之孤耳!土地已屬君掌握,豈敢復望?」鄭莊公曰:「吾之復許,乃真心也。恐叔年幼,不任國事,寡人當遣人相助。」乃分許為二:其東偏,使百里奉新臣以居之;其西偏,使鄭大夫公孫獲居之。名為助許,實是監守一般。齊魯二侯不知是計,以為處置妥當,稱善不已。百里同許叔拜謝了三君。三君亦各自歸國。髯翁有詩單道鄭莊公之詐。

  詩曰:

    殘忍全無骨肉恩,區區許國有何親?二偏分處如監守,卻把虛名哄外人。

許莊公老死於衛。許叔在東偏受鄭制縛,直待鄭莊公薨後,公子忽突相爭數年,突入而復出,忽出而復入。那時鄭國擾亂,公孫獲病死,許叔方才與百里用計,乘機潛入許都,復整宗廟。此是後話。

  再說鄭莊公歸國,厚賞瑕叔盈,思念潁考叔不置。深恨射考叔之人,而不得其名。乃使從征之眾,每百人為卒,出豬一頭;二十五人為行,出犬雞各一隻,召巫史為文,以咒詛之。公孫閼暗暗匿笑。如此咒詛,三日將畢。鄭莊公親率諸大夫往觀。纔焚祝文,只見一人蓬首垢面,逕造鄭伯面前,跪哭而言曰:「臣考叔先登許城,何負於國?被奸臣子都挾爭車之仇,冷箭射死。臣已得請於上帝,許償臣命。蒙主君垂念,九泉懷德!」言訖,以手自探其喉;喉中噴血如注,登時氣絕。莊公認得此人是公孫閼,急使人救之,已呼喚不醒。原來公孫閼被潁考叔附魂索命,自訴於鄭伯之前。到此方知射考叔者,即閼也。鄭莊公嗟嘆不已。感考叔之靈,命於潁谷立廟祀之。今河南府登封縣,即潁谷故地,有潁大夫廟,又名純孝廟。洧川亦有之。隴西居士有詩譏莊公云:

    爭車方罷復傷身,亂國全然不忌君。若使群臣知畏法,何須雞犬黷神明?

  莊公又分遣二使,將禮幣往齊魯二國稱謝。齊國無話。單說所遣魯國使臣回來,繳上禮幣,原書不啟。莊公問其緣故。使者奏曰:「臣方入魯境,聞知魯侯被公子翬所弒,已立新君。國書不合,不敢輕投。」莊公曰:「魯侯謙讓寬柔,乃賢君也,何以見弒?」使者曰:「其故臣備聞之。魯先君惠公元妃早薨,寵妾仲子立為繼室,生子名軌,欲立為嗣。魯侯乃他妾之子也。惠公薨,群臣以魯侯年長,奉之為君。魯侯承父之志,每言:『國乃軌之國也,因其年幼,寡人暫時居攝耳。』子翬求為太宰之官。魯侯曰:『俟軌居君位,汝自求之。』公子翬反疑魯侯有忌軌之心,密奏魯侯曰:『臣聞「利器入手,不可假人。」主公已嗣爵為君,國人悅服,千歲而後,便當傳之子孫。何得以居攝為名,起人非望?今軌年長,恐將來不利於主,臣請殺之,為主公除此隱懮何如?魯侯掩耳曰:『汝非痴狂,安得出此亂言!吾已使人於菟裘築下宮室,為養老計,不日當傳位於軌矣。』翬默然而退,自悔失言。誠恐魯侯將此一段話告軌,軌即位,必當治罪。夤夜往見軌,反說:『主公見汝年齒漸長,恐來爭位。今日召我入宮,密囑行害於汝。』軌懼而問計,翬曰:『他無仁,我無義。公子必欲免禍,非行大事不可。』軌曰:『彼為君已十一年矣,臣民信服。若大事不成,反受其殃。』翬曰:『吾已為公子定計矣。主公未立之先,曾與鄭君戰狐壤,被鄭所獲,囚於鄭大夫尹氏之家。尹氏素奉祀一神,名曰鐘巫。主公暗地祈禱,謀逃歸於魯國。卜卦得吉,乃將實情告於尹氏。那時尹氏正不得志於鄭,乃與主公共逃至魯。遂立鐘巫之廟於城外,每歲冬月,必親自往祭。今其時矣。祭則必館於寪大夫之家。吾預使勇士充作徒役,雜居左右,主公不疑。俟其睡熟刺之,一夫之力耳。』軌曰:『此計雖善,然惡名何以自解?』翬曰:『吾預囑勇士潛逃,歸罪於寪大夫,有何不可?』子軌下拜曰:『大事若成,當以太宰相屈。』子翬如計而行,果弒魯侯。今軌已嗣為君,翬為太宰,討寪氏以解罪。國人無不知之,但畏翬權勢,不敢言耳。」莊公乃問於群臣曰:「討魯與和魯,二者孰利?」祭仲曰:「魯鄭世好,不如和之。臣料魯國不日有使命至矣。」言未畢,魯使已及館驛。莊公使人先叩其來意。言:「新君即位,特來修先君之好,且約兩國君面會訂盟。」莊公厚禮其使,約定夏四月中,於越地相見,歃血立誓,永好無渝。自是魯鄭信使不絕。時周桓王之九年也。髯翁讀史至此,論公子翬兵權在手,伐鄭伐宋,專行無忌,逆端已見;及請殺弟軌,隱公亦謂其亂言矣。若暴明其罪,肆諸市朝,弟軌亦必感德。乃告以讓位,激成弒逆之惡,豈非優柔不斷,自取其禍!有詩嘆云:

    跋扈將軍素橫行,履霜全不戒堅冰。菟裘空筑人難老,寪氏誰為抱不平。

又有詩譏鐘巫之祭無益。詩曰:

    狐壤逃歸廟額題,年年設祭報神私。鐘巫靈感能相助,應起天雷擊子翬。

  卻說宋穆公之子馮,自周平王末年奔鄭,至今尚在鄭國。忽一日傳言:「有宋使至鄭,迎公子馮回國,欲立為君。」莊公曰:「莫非宋君臣哄馮回去,欲行殺害?」祭仲曰:「且待接見使臣,自有國書。」不知書中如何,且看下回分解。
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