東周列國志第九回 斉侯、文姜を送って魯に嫁がせる/祝聃、周王を射て肩に当てる (齊侯送文姜婚魯 祝聃射周王中肩)

文姜と兄・諸兒の禁じられた情

  • さて斉僖公には二人の娘がおり、いずれも絶世の美女であった。長女は衞に嫁ぎ、すなわち衞宣姜である。この話は後にあらためて述べる。
  • 次女の文姜は、秋の水のような澄んだ瞳、芙蓉のような顔立ちで、花に喩えれば花も言葉を解し、玉に喩えれば玉も香を放つほどの、まことに絶世の佳人、古今に類なき美女であった。しかも古今の学問に通じ、口を開けば文章となるので、文姜と号された。
  • 世子・諸兒は、もとより酒色を好む人物で、文姜とは兄妹とはいえ、それぞれ母を異にしていた。諸兒は文姜よりわずか二歳年上で、幼い頃から宮中で共に過ごし、共に遊び戯れていた。文姜が次第に成長し、花のように玉のように美しくなると、諸兒はすでに情欲を抱くようになり、その才色を見るたびに、しかも軽薄な振る舞いも相まって、しばしば戯れかける様子を見せた。
  • 文姜もまた生まれつき淫らな性質で、しかも礼儀をわきまえない人物であったので、言葉での戯れも、時には巷の卑猥な話にまで及び、まったく憚ることがなかった。諸兒は身の丈高く体格も立派で、白い顔に朱の唇、生まれながらの美男子であり、文姜とはまさに似合いの一対であった。ただ惜しいのは、同じ家に生まれ、兄妹という立場に分かれてしまい、夫婦として結ばれることができないことであった。
  • 今や二人は一つの場所で戯れ合い、男女の別なく振る舞い、ついには肩を並べ手を取り合うほどとなり、あらゆることをするに至った。ただ周囲の宮人が目にすることを憚って、ただ同衾して肌を合わせることだけができずにいた。これも斉侯夫妻が子女を溺愛し、前もって防ぎ止めることをしなかったために、子女が禽獣のような行いに至ったのであり、後に諸兒が身を弑され国を危うくしたのも、禍いはすべてここに由来する。
  • 鄭の世子忽が北戎の軍を大いに破ってからというもの、斉僖公は文姜の前でしきりに彼の英雄ぶりを褒め称え、婚姻を議した。文姜はこの上なく喜んだ。しかし世子忽が固く辞退して応じないと聞くと、心中鬱々として、ついに病を得た。夕暮れには熱を発し朝には冷え込み、精神は朦朧とし、半ば座り半ば横たわるようになり、寝食ともに廃してしまった。
  • (詩:「二八の年頃、深窓に籠もる乙女は羞じらいを知らず、一つの恋心が眉間に鎖のようにわだかまる。鸞や凰のような佳き縁は情の絲網にはかからず、残るは野の鳥や家の鶏ばかりで、どれもこれも愁いの種でしかない」という趣旨の詩)
  • 世子・諸兒は病を見舞うという口実で、しばしば閨中に入り込み、寝台の傍らに座り込み、体中を撫で回し、病状を尋ねた。ただ人目があるので、乱れるまでには至らなかった。
  • ある日、斉僖公がたまたま文姜のもとを見舞いに訪れ、諸兒が部屋にいるのを見て責めた。「そなたは文姜と兄妹とはいえ、礼として嫌疑を避けるべきである。今後はただ宮人を遣わして見舞わせるだけにし、自ら行ってはならぬ。」諸兒はうやうやしく返事をして退いたが、これより互いに会う機会は稀になった。
  • ほどなく、僖公は諸兒のために宋の女を娶らせた。魯・莒からも媵(付き添いの妻)が加わった。諸兒は新婚の相手に心を奪われ、兄妹の行き来はますます疎遠になった。文姜は深窓に籠もり寂しさを覚え、諸兒を思い続け、病はますます重くなったが、心中では思いをめぐらせつつも、なかなか口に出すことができなかった。まさに「唖者が黄柏(にがい木)の味をなめても、自分の苦しさは自分にしか分からない」というありさまであった。
  • (詩:「春草は春の霞に酔い、深窓の人は独り眠る。積もる恨みに顔は老い、相思う心は燃え立つ。幾たびか明月の夜、夢は郎(愛しい人)のもとへと飛んでゆく」という趣旨の詩)

魯桓公の求婚と文姜の快復、諸兒と文姜の詩の贈答

  • さて魯桓公は即位した年、すでに年齢を重ねていたが、まだ夫人を娶っていなかった。大夫・臧孫達が進み出て「昔から、国君は十五歳で子をもうけるものです。今、主君の内主(正妻)はまだ空位のままで、将来、器(後継ぎ)を主とすることをどうして望めましょうか。これは宗廟を重んじる道ではございません」と申し上げた。
  • 公子翬は「私が聞くところ、斉侯には愛娘・文姜がおり、鄭の世子忽に嫁がせようとしたが果たせなかったとのこと。主君、これを求められてはいかがでしょうか」と言った。桓公は「よかろう」と言い、すぐに公子翬を遣わして斉に婚姻を求めさせた。
  • 斉僖公は文姜が病中であることを理由に、しばらく期日を延ばすよう求めた。宮人はその後、魯侯が求婚してきたという喜ばしい知らせを文姜に伝えた。文姜はもともと、時が過ぎ去ることを思い患う症であったので、この知らせを得て心が少し落ち着き、病もしだいに軽くなっていった。
  • 斉と魯が宋公の一件で共に稷に会したとき、魯侯は面と向かって再び婚姻の話を持ち出した。斉侯は翌年を期すと約束した。魯桓公三年に至って、桓公は自ら嬴の地に赴き、斉侯と会見した。斉僖公はその懇ろな態度に感じ入り、これを許した。魯侯はそこで嬴の地で納幣(結納)を行い、通常の礼よりも一段と手厚く行った。僖公は大いに喜んだ。
  • 秋九月に、自ら文姜を送って魯で成婚させることを約束した。魯侯は公子翬を遣わして斉へ迎えに行かせた。斉の世子・諸兒は、文姜が他国へ嫁ぐと聞き、以前からの狂おしい思いがふたたび湧き上がるのを抑えられず、宮人に花を贈らせるふりをして、詩を添えて文姜に届けさせた。
  • (詩:「桃の花咲き、あでやかに霞のごとし。戸口にありながら今折らずにおけば、散り落ちて枯れ草くずとなるばかり。ああ、また嘆かわしいことよ」という趣旨の詩)
  • 文姜はこの詩を受け取り、すでにその心情を察して、詩をもって答えた。
  • (詩:「桃の花咲き、あでやかに輝くばかり。今折らずにおいたとして、来る春がないわけでもあるまい。くれぐれも、また念を押して」という趣旨の詩)
  • 諸兒はその返詩を読んで、文姜が自分に心を寄せていると知り、慕う思いはいっそう募った。

文姜の輿入れ

  • ほどなく、魯の上卿・公子翬が斉へ赴き、文姜を迎えることとなった。斉僖公は愛娘のことゆえ、自ら送り届けようとした。諸兒はこれを聞き、父に「妹が魯侯に嫁ぐと聞きます。斉と魯は代々の誼のある間柄、まことに喜ばしいことです。ただ魯侯自ら迎えに来られないのですから、必ず近しい者が送り届けねばなりません。父上は国事の身であり、遠くへ出向くのはよろしくないでしょう。私が不才ながら、代わりに参りとうございます」と願い出た。
  • 僖公は「私はすでに自ら送り届けると口約束している。どうして約束を違えられようか」と言った。言い終わらぬうちに、「魯侯は讙の邑に駕を留め、もっぱら迎えを待っている」との報せが届いた。僖公は「魯は礼儀の国である。途中まで迎えに出ているのは、まさに私が魯の国境まで入る労を煩わせまいとしてのことだろう。私は行かねばならぬ」と言った。諸兒は黙って退いた。姜氏(文姜)の心中にも、何か失ったような思いがあった。
  • ときに秋九月上旬、婚礼の吉日が迫っていた。文姜は後宮の妃たちに別れを告げ、東宮に赴いて兄・諸兒に別れを告げた。諸兒は酒を用意してもてなし、二人は互いに目を見交わし、離れがたい思いであったが、そこには元妃(諸兒の正妻)も同席していた。しかも父・僖公が宮人を遣わして見張らせていたため、言葉を交わすこともできず、ひそかに嘆息するばかりであった。別れ際に、諸兒は車の前まで近寄り、ただ一言「妹よ、忘れるな、あの『くれぐれも』の句を」と言った。文姜は「兄上こそご自愛を。また会える日があるでしょう」と答えた。
  • 斉僖公は諸兒に留守を命じ、自ら文姜を讙まで送り、魯侯と対面した。魯侯は婿と舅(しゅうと)の礼をもって迎え、宴席を設けてもてなした。従者たちにもみな厚い賜り物があった。僖公は別れを告げて帰国した。魯侯は文姜を都に連れ帰り成婚した。一つには斉が大国であること、二つには文姜が花のように美しいことから、魯侯は彼女をこの上なく寵愛した。三日目に廟に参り、大夫や宗婦たちがみな参上して君夫人にお目通りした。僖公はさらに弟の夷仲年を遣わして魯を訪問させ、姜氏の様子を尋ねさせた。これより斉と魯は親密になった。この件はこれ以上語らない。
  • (詩:無名子が文姜の輿入れの一件のみを詠う。「昔から男女は嫌疑を慎むべきもの、兄妹の間柄でどうして隔てを置かなかったのか。ただ別れ際に『お体を大切に』という言葉をかけたばかりに、後日、後宮を汚す結果を招いてしまった」という趣旨)

周桓王、鄭伯の政を奪う/陳の篡奪と周の三軍編成

  • さて話は変わって、周桓王は鄭伯が王命を偽って宋を討ったと聞いてより、心中大いに怒り、ついに虢公林父に独り朝政を執らせ、鄭伯を用いなくなった。鄭莊公はこれを聞いて桓王を怨み、五年にわたって朝見しなかった。
  • 桓王は「寤生(鄭莊公)の無礼はあまりにひどい。もし討たなければ、人々はこれに倣うようになるだろう。朕は自ら六軍を率いて、その罪を鳴らそう」と言った。虢公林父は「鄭は代々卿士として勤めた功があります。今その政柄を奪われたために、朝見しないのです。詔をもって召し出せばよく、自ら赴いて天子の威を軽々しく扱うことはございません」と諫めた。
  • 桓王は怒りの色を露わにして「寤生が朕を欺いたのは一度や二度ではない。朕は寤生と誓って両立せぬ」と言った。そこで蔡・衞・陳の三国を召し、共に兵を挙げて鄭を伐つこととした。
  • このとき陳侯・鮑がちょうど薨じ、その弟・公子佗(字は伍父)が太子・免を弑して自ら立ち、鮑を桓公と諡した。国人は服さず、次々と逃げ散った。周から徴兵の命があったが、公子佗は即位したばかりで、あえて王命に背くことができず、兵車と歩卒を糾合し、大夫・伯爰諸に統率させて鄭国へ進発させた。蔡・衞もそれぞれ兵を遣わして従軍させた。
  • 桓王は虢公林父に右軍を率いさせ、蔡・衞の兵をこれに属させ、周公黒肩に左軍を率いさせ、陳の兵をこれに属させ、自らは大軍を率いて中軍とし、左右と呼応させることとした。

鄭の対応策―公子元の献策

  • 鄭莊公は王の軍が迫っていると聞き、諸大夫を集めて策を問うたが、群臣は誰も先に答えようとしなかった。正卿・祭足は「天子が自ら兵を率いて、我らの不朝を責めるのは、名分が正しく理にかなっています。使者を遣わして謝罪し、禍いを転じて福となすのがよいでしょう」と言った。
  • 莊公は怒って「王は私の政権を奪い、さらに兵を加えてきた。三代にわたって王室に尽くしてきた功績が、東流の水のごとく無駄になってしまう。今回もしその鋭気を挫かなければ、宗社は保てないだろう」と言った。
  • 高渠彌は「陳と鄭はもとより睦まじく、その援軍はやむを得ないものでしょう。蔡・衞は我らと昔からの仇敵であり、必ず力を尽くしてくるでしょう。天子は自ら憤って出馬されたのですから、その鋭鋒は当たれません。城壁を固めて待ち、相手の勢いが緩んだところで、戦うなり和するなり、思いのままにするのがよいでしょう」と言った。
  • 大夫・公子元は進み出て「臣として君と戦うのは、道理として正しくありません。速やかに事を運ぶべきで、遅らせるべきではありません。私は不才ながら、一計を献じたく存じます」と言った。莊公は「そなたの計はどのようなものか」と尋ねた。
  • 子元は言った。「王の軍はすでに三つに分かれておりますので、我らも三軍に分けて対応すべきです。左右二軍はそれぞれ方陣を結び、左軍で敵の右軍に当たり、右軍で敵の左軍に当たらせます。主君自らは中軍を率いて王に当たるのです。」莊公は「これで必ず勝てるか」と尋ねた。
  • 子元は言った。「陳佗は君を弑して新たに立った身で、国人はこれに従っておりません。無理やり徴兵に応じたのですから、その心は必ず離れています。もし右軍にまず陳の兵を不意打ちさせれば、必ず逃げ散るでしょう。さらに左軍にまっすぐ蔡・衞を襲わせれば、蔡・衞は陳の敗北を聞いて、これもまた潰走するでしょう。しかる後に兵を合わせて王卒を攻めれば、勝てないことはありません。」莊公は「そなたの敵情の見立ては掌を指すように明快だ。子封(公子呂)は死んでいなかった(=そなたがいる限り、それに匹敵する者を失ってはいない)」と言った。
  • ちょうど協議している最中、国境の役人から「王の軍はすでに繻葛に至り、三営が連なり途切れることがございません」との報せが入った。莊公は「ただ一営を破りさえすれば、あとは破るまでもない」と言った。
  • そこで大夫・曼伯に一軍を率いさせて右翼とし、正卿・祭足に一軍を率いさせて左翼とし、自らは上将・高渠彌、原繁、瑕叔盈、祝聃らを率いて、中軍に「蝥弧」の大旗を立てた。
  • 祭足が進んで「『蝥弧』の旗は宋・許を討ったときに用いたものです。『奉天討罪』の文言は、諸侯を伐つには相応しくとも、王を伐つのには相応しくございません」と言った。莊公は「寡人はそこまで考えが及ばなかった」と言い、すぐに別の大旗に換えさせ、瑕叔盈に持たせることとした。「蝥弧」は武庫に置き、以後は用いないこととした。
  • 高渠彌は言った。「私が周王を見るに、かなり兵法に通じているようです。今回の戦いは通常のものとは異なりますので、『魚麗』の陣を布くべきかと存じます。」莊公は「『魚麗の陣』とはどのようなものか」と尋ねた。高渠彌は言った。「甲車二十五台を一偏とし、甲士五人を一伍とします。車一偏を前に立て、別に甲士二十五人(五人組を五つ)を後に従えて隙間を塞ぎます。車上の甲士が一人傷つけば、伍の者がすぐにその欠員を補い、進むことはあっても退くことはありません。この陣法は極めて堅固で密であり、破られにくく勝ちやすいのです。」莊公は「よかろう」と言った。三軍は繻葛に近づき、陣を布いた。

繻葛の戦い

  • 桓王は鄭伯が出師して抵抗すると聞き、怒りは言葉にできないほどであった。自ら出陣して戦おうとしたが、虢公林父がこれを諫め止めた。翌日、それぞれ陣立てを整え、莊公は「左右の二軍はみだりに動いてはならぬ。ただ軍中の大旗が動くのを見てから、一斉に進軍せよ」と令を下した。
  • さて桓王は鄭を責める言葉をひととおり用意しており、専ら鄭君が陣頭に立って言葉を交わしに来るのを待ち構え、これによって鄭の気勢を挫こうとしていた。しかし鄭君はただ陣を布いたまま、陣門を固く守り、まったく動く様子がなかった。桓王は人を遣わして戦いを挑ませたが、誰も応じる者がなかった。
  • 午後になる頃、莊公は王卒がすでに気力を怠らせたと見て取り、瑕叔盈に大旗を振らせた。左右の両翼は一斉に鼓を打ち鳴らし、鼓の音は雷のように轟き、それぞれ奮い立って前進した。
  • さて曼伯は左軍に斬り込んだ。陳の兵にはもとより戦意がなく、たちまち逃げ散り、かえって周の兵を混乱させた。周公黒肩は制止できず、大敗して逃げ去った。
  • さて祭足は右軍に斬り込み、蔡・衞の旗印を見定めて突き崩した。二国の兵は抵抗しきれず、それぞれ道を求めて逃げ散った。虢公林父は剣を手に執って車の前に立ち、軍兵に「もし乱れて動く者があれば斬る」と令を発した。祭足はあえて迫らなかった。林父はゆっくりと退き、一兵も損なわなかった。
  • さて桓王は中軍にいたが、敵陣から鼓の音が天を震わせるのを聞き、出撃と知って迎え撃つ構えをした。すると兵卒たちが口々にささやき合い、隊伍がたちまち乱れた。実は潰走してきた敗兵を見て、左右の二営が敗れたと悟り、中軍までも足場を失ったのである。
  • そこへ鄭の兵が壁のように押し寄せた。祝聃を先頭に、原繁を後に、曼伯と祭足も勝ちに乗じた兵を率いて力を合わせて攻めかかった。車は傾き馬は倒れ、将は落命し兵は死んでいった。桓王は速やかに退くよう令を発し、自ら殿を務め、戦いながら退いた。
  • 祝聃は繍の車蓋の下に周王がいると見て取り、目を凝らして狙いを定め、一矢を放った。矢は正しく周王の左肩に命中した。幸い甲が厚く堅牢であったため、傷はさほど重くはなかった。祝聃は車を駆って前進しようとしたところ、まさに危急のとき、虢公林父が来て救援に入り、祝聃と切り結んだ。原繁と曼伯もそろって進み出て、それぞれ英雄ぶりを見せた。
  • 突然、鄭の中軍で鉦の音が急を告げるように鳴ったので、それぞれ兵を収めた。桓王は兵を率いて三十里退いて陣を張った。周公黒肩もそこに至り、「陳の人々が力を尽くさなかったために、敗北に至りました」と訴えた。桓王は面目なさそうに「これは朕の人を見る目のなさゆえの過ちである」と言った。

鄭莊公、周王を慰問させる

  • 祝聃らは軍を返し、鄭莊公に会って「私はすでに王の肩を射ました。周王は肝を潰し、まさに追撃して、あの者を生け捕りにしようとしておりました。どうして鉦を鳴らして呼び戻されたのですか」と言った。
  • 莊公は言った。「もとより天子が明察を欠き、徳をもって怨みとされたことによって、今日応戦せざるを得なかったのだ。諸卿の力に頼って、社稷を失わずに済んだだけで十分だ。これ以上何を求めようか。そなたの言うように天子を捕らえたとして、どう始末をつけるつもりか。王を射ることさえ許されないのに、まして万一重傷を負わせ命を落とさせでもすれば、寡人には弑君の汚名が残ることになる。」
  • 祭足は言った。「主君のお言葉はまことにもっともです。今わが国の兵威はすでに立ちました。おそらく周王は必ず恐れ入っていることでしょう。使者を遣わして御機嫌を伺い、いささか懇ろな言葉をかけ、肩を射たのが主君のご本意ではなかったことを知らしめるのがよいでしょう。」莊公は「この使いは、そなたでなくてはならぬ」と言った。
  • そこで牛十二頭、羊百匹、粟や馬草などの品を百余台の車に積ませ、夜を徹して周王の陣営へ届けさせた。祭足は幾度も叩頭し、口上で申し上げた。「死罪に値する臣・寤生は、社稷が滅びるのを忍びがたく、兵を率いて自衛いたしましたところ、思いがけず軍中に不心得の者があり、王のお体を犯してしまいました。寤生は戦々恐々として震え上がる思いでございます。謹んで陪臣・足を遣わし、陣営の門にて処罰をお待ちしつつ、御無事をお伺い申し上げます。粗末な貢物ではございますが、労軍の用にお使いください。どうか天の王よ、憐れんでお赦しください。」
  • 桓王は黙ったまま、内心恥じ入る様子であった。虢公林父が傍らから代わって答えた。「寤生はすでにその罪を悟っているのだから、寛大に赦すべきである。使者はそのまま謝恩するがよい。」祭足は再拝稽首して退出し、各営を残らず巡って御機嫌を伺った。
  • (詩:史官が「神業のような矢を誇らしげに王の肩に集めたが、思いもよらず君臣の分は天地ほどに隔たっている。陣を構えて公然と一歩も譲らなかったくせに、かえって虚礼をもって王にへつらうとは」と嘆く趣旨)
  • (詩:また髯翁が、桓王が軽々しく兵を挙げて鄭を伐ち、自ら恥辱を招いたことを譏る趣旨。「明珠を弾丸にして雀を撃つとは昔から譏られること、どうして天王が自ら出陣する必要があろうか。檄を四方に伝えて爵位を貶めるだけにしておけば、鄭の人々とてどうして王威を畏れなかったであろうか」という趣旨)

周王、鄭を不問に付す

  • 桓王は兵敗れて周に帰り、その憤りは収まらなかった。檄を四方に伝えて、共に鄭の寤生が王を無き者のごとく扱った罪を鳴らそうとした。虢公林父は諫めて「王は軽々しく兵を挙げて功を失いました。もし檄を四方に伝えれば、自らその敗北を明らかにするようなものです。諸侯のうち、陳・衞・蔡の三国を除けば、一つとして鄭の与党でないものはございません。徴兵しても応じる者はなく、いたずらに鄭に笑われるだけでしょう。しかも鄭はすでに祭足を遣わして労軍と謝罪をしております。これを機に赦しを与え、鄭が自ら新たになる道を開くべきです」と言った。桓王は黙り込み、これより二度と鄭の事を口にしなかった。

蔡侯、陳の内乱に乗じる

  • さて蔡侯は、周に従って鄭を伐つために兵を遣わしていたが、軍中で陳国の篡奪の乱を探り知り、人心が公子佗に服していないことを知って、兵を率いて陳を襲おうとした。勝敗はどうなるか、続きは次回で語られる。
原文(底本)
話說齊僖公生有二女,皆絕色也。長女嫁於衛,即衛宣姜,另有表白在後。單說次女文姜,生得秋水為神,芙蓉如面,比花花解語,比玉玉生香,真乃絕世佳人,古今國色。兼且通今博古,出口成文,因此號為文姜。世子諸兒,原是個酒色之徒,與文姜雖為兄妹,各自一母。諸兒長於文姜只二歲,自小在宮中同行同坐,覷耍頑皮。及文姜漸已長成,出落得如花似玉。諸兒已通情竇,見文姜如此才貌,況且舉動輕薄,每有調戲之意。那文姜妖淫成性,又是個不顧禮義的人,語言戲謔,時及閭巷穢褻,全不避忌。諸兒生得長身偉幹,粉面朱唇,天生的美男子,與文姜倒是一對人品。可惜產於一家,分為兄妹,不得配合成雙。如今聚於一處,男女無別,遂至並肩攜手,無所不至。只因礙著左右宮人,單少得同衾貼肉了。也是齊侯夫婦溺愛子女,不預為防範,以致兒女成禽獸之行,後來諸兒身弒國危,禍皆由此。自鄭世子忽大敗戎師,齊僖公在文姜面前,誇獎他許多英雄,今與議婚,文姜不勝之喜。及聞世子忽堅辭不允,心中鬱悶,染成一疾,暮熱朝涼,精神恍惚,半坐半眠,寢食俱廢。有詩為證:

    二八深閨不解羞,一樁情事鎖眉頭。鸞凰不入情絲網,野鳥家雞總是愁。

世子諸兒以候病為名,時時闖入閨中,挨坐牀頭,遍體撫摩,指問疾苦。但耳目之際,僅不及亂。一日,齊僖公偶到文姜處看視,見諸兒在房,責之曰:「汝雖則兄妹,禮宜避嫌。今後但遣宮人致候,不必自到。」諸兒唯唯而出,自此相見遂稀。未幾,僖公為諸兒娶宋女。魯莒俱有媵,諸兒愛戀新婚,兄妹蹤跡益疏。文姜深閨寂寞,懷念諸兒,病勢愈加,卻是胸中展轉,難以出口。正是:「啞子漫嘗黃柏味,自家有苦自家知。」有詩為證:

    春草醉春煙,深閨人獨眠。積恨顏將老,相思心欲燃。幾回明月夜,飛夢到郎邊。

  卻說魯桓公即位之年,年齒已長,尚未聘有夫人。大夫臧孫達進曰:「古者,國君年十五而生子。今君內主尚虛,異日主器何望?非所以重宗廟也。」公子翬曰:「臣聞齊侯有愛女文姜,欲妻鄭世子忽而不果。君盍求之?」桓公曰:「諾。」即使公子翬求婚於齊。齊僖公以文姜病中,請緩其期。宮人卻將魯侯請婚的喜信,報知文姜。文姜本是過時思想之症,得此消息,心下稍舒,病覺漸減。及齊魯為宋公一事,共會於稷,魯侯當面又以姻事為請。齊侯期以明歲。至魯桓公三年,又親至嬴地,與齊侯為會。齊僖公感其慇懃,許之。魯侯遂於嬴地納幣,視常禮加倍隆重。僖公大喜。約定秋九月,自送文姜至魯成婚。魯侯乃使公子翬至齊迎女。齊世子諸兒聞文姜將嫁他國,從前狂心,不覺復萌,使宮人假送花朵於文姜,附以詩曰:

    桃有華,燦燦其霞。當戶不折,飄而為苴。吁嗟兮復吁嗟!

文姜得詩,已解其情,亦復以詩曰:

    桃有英,燁燁其靈,今茲不折,詎無來春?叮嚀兮復叮嚀!

諸兒讀其答詩,知文姜有心於彼,想慕轉切。

  未幾,魯使上卿公子翬如齊,迎取文姜。齊僖公以愛女之故,欲親自往送。諸兒聞之,請於父曰:「聞妹子將適魯侯,齊魯世好,此誠美事。但魯侯既不親迎,必須親人往送。父親國事在身,不便遠離,孩兒不才,願代一行。」僖公曰:「吾已親口許下自往送親,安可失信?」說猶未畢,人報:「魯侯停駕讙邑,專候迎親。」僖公曰:「魯,禮義之國,中道迎親,正恐勞吾入境。吾不可以不往。」諸兒默然而退。姜氏心中亦如有所失。其時,秋九月初旬,吉期已迫。文姜別過六宮妃眷,到東宮來別哥哥諸兒。諸兒整酒相待,四目相視,各不相捨,只多了元妃在坐。且其父僖公遣宮人守候,不能交言,暗暗嗟嘆。臨別之際,諸兒挨至車前,單道個「妹子留心,莫忘『叮嚀』之句。」文姜答言:「哥哥保重,相見有日。」齊僖公命諸兒守國,親送文姜至讙,與魯侯相見。魯侯敘甥舅之禮,設席款待。從人皆有厚賜。僖公辭歸。魯侯引文姜到國成親。一來,齊是個大國,二來,文姜如花絕色,魯侯十分愛重。三朝見廟,大夫宗婦,俱來朝見君夫人。僖公復使其弟夷仲年聘魯,問候姜氏。自此齊魯親密。不在話下。無名子有詩,單道文姜出嫁事。詩云:

    從來男女慎嫌微,兄妹如何不隔離?只為臨歧言保重,致令他日玷中闈。

  話分兩頭。再說周桓王自聞鄭伯假命伐宋,心中大怒。竟使虢公林父獨秉朝政,不用鄭伯。鄭莊公聞知此信,心怨桓王,一連五年不朝。桓王曰:「鄭寤生無禮甚矣!若不討之,人將效尤。朕當親帥六軍,往聲其罪。」虢公林父諫曰:「鄭有累世卿士之勞,今日奪其政柄,是以不朝。且宜下詔徵之,不必自往,以褻天威。」桓王忿然作色曰:「寤生欺朕,非止一次。朕與寤生誓不兩立!」乃召蔡、衛、陳三國,一同興師伐鄭。是時陳侯鮑方薨,其弟公子佗字伍父,弒太子免而自立,謚鮑為桓公。國人不服,紛紛逃散。周使徵兵,公子佗初即位,不敢違王之命。只得糾集車徒,遣大夫伯爰諸統領,望鄭國進發。蔡衛各遣兵從征。桓王使虢公林父將右軍,以蔡衛之兵屬之;使周公黑肩將左軍,陳兵屬之;王自統大兵為中軍,左右策應。

  鄭莊公聞王師將至,乃集諸大夫問計,群臣莫敢先應。正卿祭足曰:「天子親自將兵,責我不朝,名正言順。不如遣使謝罪,轉禍為福。」莊公怒曰:「王奪我政權,又加兵於我,三世勤王之績,付與東流。此番若不挫其銳氣,宗社難保。」高渠彌曰:「陳與鄭素睦,其助兵乃不得已也。」蔡衛與我夙仇,必然效力。天子震怒自將,其鋒不可當,宜堅壁以待之。俟其意怠,或戰或和,可以如意。」大夫公子元進曰:「以臣戰君,於理不直,宜速不宜遲也。臣雖不才,願獻一計。」莊公曰:「卿計如何?」子元曰:「王師既分為三,亦當為三軍以應之。左右二師,皆結方陣,以左軍當其右軍,以右軍當其左軍,主公自率中軍以當王。」莊公曰:「如此可必勝乎?」子元曰:「陳佗弒君新立,國人不順,勉從徵調,其心必離。若令右軍先犯陳師,出其不意,必然奔竄。再令左軍逕奔蔡衛,蔡衛聞陳敗,亦將潰矣。然後合兵以攻王卒,萬無不勝。」莊公曰:「卿料敵如指掌,子封不死矣!」正商議間,疆吏報:「王師已至繻葛,三營聯絡不斷。」莊公曰:「但須破其一營,餘不足破也。」乃使大夫曼伯,引一軍為右拒;使正卿祭足,引一軍為左拒;自領上將高渠彌、原繁、瑕叔盈、祝聃等,建「蝥弧」大旗於中軍。祭足進曰:「『蝥孤』所以勝宋許也。『奉天討罪』,以伐諸侯則可,以伐王則不可。」莊公曰:「寡人思不及此!」即命以大旆易之,仍使瑕叔盈執掌。其「蝥弧」寘於武庫,自後不用。高渠彌曰:「臣觀周王,頗知兵法。今番交戰,不比尋常,請為『魚麗』之陣。」莊公曰:「『魚麗陣』如何?」高渠彌曰:「甲車二十五乘為偏,甲士五人為伍。每車一偏在前,別用甲士五五二十五人隨後,塞其闕漏。車傷一人,伍即補之,有進無退。此陣法極堅極密,難敗易勝。」莊公曰:「善。」三軍將近繻葛,扎住營寨。

  桓王聞鄭伯出師抵敵,怒不可言,便欲親自出戰。虢公林父諫止之。次日各排陣勢,莊公傳令:「左右二軍,不可輕動。只看軍中大旆展動,一齊進兵。」

  且說桓王打點一番責鄭的說話,專待鄭君出頭打話,當陣訴說,以折其氣,鄭君雖列陣,只把住陣門,絕無動靜。桓王使人挑戰,並無人應。將至午後,莊公度王卒已怠,教瑕叔盈把大旆麾動,左右二拒,一齊鳴鼓,鼓聲如雷,各各奮勇前進。且說曼伯殺入左軍,陳兵原無鬥志,即時奔散,反將周兵衝動。周公黑肩阻遏不住,大敗而走。再說祭足殺入右軍,只看蔡衛旗號衝突將去。二國不能抵當,各自覓路奔逃。虢公林父仗劍立於車前,約束軍人:「如有亂動者斬!」祭足不敢逼。林父緩緩而退,不折一兵。再說桓王在中軍,聞敵營鼓聲震天,知是出戰,准備相持。只見士卒紛紛耳語,隊伍早亂。原來望見潰兵,知左右二營有失,連中軍也立腳不住。卻被鄭兵如牆而進,祝聃在前,原繁在後,曼伯祭足亦領得勝之兵,並力合攻。殺得車傾馬斃,將隕兵亡。桓王傳令速退,親自斷後,且戰且走。祝聃望見繡蓋之下,料是周王。盡著眼力覷真,一箭射去,正中周王左肩。幸裹甲堅厚,傷不甚重。祝聃催車前進,正在危急,卻得虢公林父前來救駕,與祝聃交鋒。原繁曼伯一齊來前,各騁英雄。忽聞鄭中軍鳴金甚急,遂各收軍,桓王引兵退三十里下寨。周公黑肩亦至,訴稱:「陳人不肯用力,以至於敗。」桓王赧然曰:「此朕用人不明之過也!」

  祝聃等回軍,見鄭莊公曰:「臣已射王肩,周王膽落,正待追趕,生擒那廝。何以鳴金?」莊公曰:「本為天子不明,將德為怨,今日應敵,萬非得已。賴諸卿之力,社稷無隕足矣,何敢多求!依你說取回天子,如何發落?即射王亦不可也。萬一重傷殞命,寡人有弒君之名矣!」祭足曰:「主公之言是也。今吾國兵威已立,料周王必當畏懼。宜遣使問安,稍與慇懃,使知射肩,非出主公之意。」莊公曰:「此行非仲不可。」命備牛十二頭,羊百隻,粟芻之物共百餘車,連夜到周王營內。祭足叩首再三,口稱:「死罪臣寤生,不忍社稷之隕,勒兵自衛。不料軍中不戒,有犯王躬。寤生不勝戰兢觳觫之至!謹遣陪臣足,待罪轅門,敬問無恙。不腆敝賦,聊充勞軍之用。惟天王憐而赦之!」桓王默然,自有慚色。虢公林父從旁代答曰:「寤生既知其罪,當從寬宥,來使便可謝恩。」祭足再拜稽首而出,遍歷各營,俱問安否。史官有詩嘆云:

    漫誇神箭集王肩,不想君臣等地天。對壘公然全不讓,卻將虛禮媚王前。

又髯翁有詩譏桓王,不當輕兵伐鄭,自取其辱。詩云:

    明珠彈雀古來譏,豈有天王自出車?傳檄四方兼貶爵,鄭人寧不懼王威!

  桓王兵敗歸周,不勝其忿。便欲傳檄四方,共聲鄭寤生無王之罪。虢公林父諫曰:「王輕舉喪功,若傳檄四方,是自彰其敗也。諸侯自陳、衛、蔡三國而外,莫非鄭黨。徵兵不至,徒為鄭笑。且鄭已遣祭足勞軍謝罪,可借此赦宥,開鄭自新之路。」桓王默然。自此更不言鄭事。

  卻說蔡侯因遣兵從周伐鄭,軍中探聽得陳國篡亂,人心不服公子佗,於是引兵襲陳。不知勝敗如何,且看下回分解。

訳文の誤りにお気づきの場合はお問い合わせからお知らせください。

© 好古刊行会