東周列國志第十四回 衛侯朔、王に抗して国に入る/斉の襄公、狩りに出て鬼に遇う (衞侯朔抗王入國 齊襄公出獵遇鬼)

王姫の斉入嫁と死去

  • さて、王姫は斉に嫁ぎ、襄公と婚礼を挙げた。しかし王姫は生まれつき貞淑で物静かな性格で、言動を慎むたちであった。襄公は放埒で淫らな人物であり、二人の相性はあまりよくなかった。
  • 王姫は宮中に数か月いる間に、襄公が妹を淫した事実をつぶさに耳にし、ひそかに嘆いた。「これほど倫理をないがしろにし理に背くとは、獣にも劣る。私は不幸にも道ならぬ人に嫁いでしまった。これも私の運命であろう。」
  • ふさぎ込んで病を得、一年も経たぬうちに亡くなった。

斉襄公の紀国侵攻

  • 襄公は王姫の死後、いよいよはばかることがなくなった。心中では文姜のことを思い、狩猟を口実にたびたび禚へ出かけた。人を遣わして祝邱の文姜をひそかに禚に迎え、昼夜歓楽にふけった。
  • 魯の荘公が怒りを発することを恐れ、兵威をもって脅そうと考えた。そこで自ら大軍を率いて紀を襲い、郱・鄑・郚の三邑の地を奪った。
  • 兵を酅城に進め、人を遣わして紀侯に「速やかに降伏の書を書け、さもなくば滅ぼされるぞ」と告げさせた。
  • 紀侯は嘆いた。「斉は我らの代々の仇。仇の庭で膝を屈して、生きながらえることを求めたりはせぬ。」
  • そこで夫人の伯姬に書をしたためさせ、人を遣わして魯に救いを求めさせた。
  • 斉の襄公は「紀を救う者があれば、寡人はまずその国を先に攻める」と命令を発した。
  • 魯の荘公は鄭に使者を遣わし、共に力を合わせて紀を救おうと誘った。しかし鄭伯の子儀は、厲公が櫟にあって鄭を襲おうと図っているため、出兵できないと断りの使いをよこした。
  • 魯侯はひとりでは力が及ばず、滑の地まで進んだものの、斉の兵威を恐れて三日そこに留まった後、引き返した。
  • 紀侯は魯の兵が退いたと聞き、もはや守り切れないと悟り、城と妻子をその弟の嬴季に託し、宗廟に別れを告げると大いに泣き、真夜中に城門を開いて出奔し、その後の行方は知れなくなった。

嬴季の降伏と伯姬・叔姬

  • 嬴季は諸大臣に「国のために死ぬことと、宗廟の祭祀を存続させることと、どちらが重いか」と問うた。諸大夫は皆「祭祀の存続の方が重い」と答えた。
  • 嬴季は「もし紀の宗廟を存続させられるなら、自らの身を屈することを何で惜しもうか」と言った。
  • ただちに降伏の書をしたため、斉に服属する臣となり酅で宗廟を守ることを願い出た。斉侯はこれを許した。
  • 嬴季は紀国の土地・戸籍の数をすべて斉に差し出し、叩頭して哀れみを乞うた。
  • 斉の襄公はその戸籍を接収し、紀の廟のそばに三十戸を割いて紀の祭祀に供させ、嬴季を廟主に任じた。
  • 紀の伯姬は驚き恐れて亡くなった。襄公は夫人の礼をもって葬るよう命じ、これによって魯に恩を売ろうとした。
  • 伯姬の妹の叔姬は、かつて嫁入りの際に従ってきた者であったが、襄公は彼女を魯に送り返そうとした。
  • 叔姬は言った。「婦人の道は、嫁いだからには夫に従うもの。生きては嬴氏の妻、死しては嬴氏の霊。これを捨ててどこへ帰れましょうか。」
  • 襄公はそこで彼女が酅にとどまり節を守ることを許した。数年後に亡くなった。
  • 史官はこう賛した。(賛:世が衰え風俗が乱れ、淫らな気風が広まった中、斉侯は妹と乱れ、新台では子の嫁が奪い娶られた。禽獣のふるまいで倫理も秩序も失われた。だが小国の妃嬪でありながら、節を守り貞操を貫いた者もあった。故廟を守り、生まれた国に帰らなかった。卓越している、叔姬よ、その節義は『柏舟』の詩の女性と同じ志であった、という趣旨)
  • 斉の襄公が紀を滅ぼしたのは、周の荘王七年のことである。

楚の随侵攻(側記)

  • この年、楚の武王熊通は、随侯が朝見しないことを理由に、再び兵を興して随を攻めたが、到着する前に薨去した。令尹の鬥祈と莫敖の屈重は、秘してこれを発表せず、奇兵を出して間道からまっすぐ随の城に迫った。随は恐れて講和を求めた。屈重は王命と偽って随侯と盟を結んだ。大軍が漢水を渡り終えてから、はじめて喪を発表した。子の熊貲が即位した。これが文王である。この事はこれ以上語らない。

斉襄公と文姜の再会、荘公との甥舅の会

  • 再び言えば、斉の襄公は紀を滅ぼして凱旋する途中、文姜が道中で兄を出迎え、祝邱まで至って盛大な宴を設けた。両君が相見えるほどの礼を用いて互いに杯をやりとりし、斉軍を大いにねぎらった。
  • また襄公とともに禚の地に至り、そこで留まって歓を尽くした。
  • 襄公は文姜に書を書かせ、魯の荘公を禚の地に招いて会わせようとした。荘公は母の命に背くことを恐れ、禚に赴いて文姜に謁見した。
  • 文姜は荘公に、甥が母方のおじに対する礼をもって斉の襄公に会わせ、あわせて紀の伯姬を丁重に葬ったことへの謝意を述べさせた。荘公も拒みきれず、しぶしぶこれに従った。
  • 襄公は大いに喜び、これもまた宴を設けて荘公をもてなした。
  • 折しも襄公は一女をもうけたばかりで、文姜は荘公の正妃がまだ定まっていないことから、この娘を約束の妃にするよう取り決めさせようとした。
  • 荘公は「あの娘はまだ乳飲み子、私の妃にはふさわしくありません」と言った。文姜は怒って「お前は母方の一族を疎んじるつもりか」と言った。
  • 襄公もまた年齢差が大きいことをはばかったが、文姜は「二十年待って嫁がせても遅くはあるまい」と言った。
  • 襄公は文姜の機嫌を損ねることを恐れ、荘公もまた母の命に背けず、二人ともやむなく承知した。甥と母方のおじという縁の上に、さらに婿と岳父という縁が重なり、情はいよいよ深まった。
  • 二君は連れ立って禚の野で狩りをした。荘公は矢を外すことなく、九度射て九度当てた。襄公はしきりに称賛した。
  • 野人がひそかに魯の荘公を指さして「あれはわが君の仮の子だ」とからかった。荘公は怒り、左右の者にその者を捜し出させて殺させた。襄公もこれを咎めなかった。
  • 史臣は荘公が母だけを立て父を忘れ、親を裏切って仇に仕えたことを論じ、詩にこう誚った。(詩:車中で無念の死を遂げてすでに幾年か経つのに、平然と仇と天を共に戴いている。野人が仮の子と呼んだのを咎めるな、すでに仮の父と縁を結んでいるではないか、という趣旨)

文姜の奔放と国人の風刺

  • 文姜は魯侯と斉侯とが共に狩りをして以来、いよいよはばかることなく、たびたび斉の襄公と一つ所に集うようになった。あるいは防で、あるいは穀で、時には斉の都まで直接赴き、公然と宮中に泊まり、まるで夫婦のようであった。
  • 国人はこれを風刺して「載驅」の詩を作った。(詩:車を疾走させ、簟の敷物と朱塗りの車飾りを整え、魯の道は平らかで、斉の姫は夕暮れに出発する。汶水は滔々と流れ、道行く人は群れをなす。魯の道は平らかで、斉の姫は遊び楽しむ、という趣旨)
  • 「薄薄」は疾駆する様、「簟」は車に敷く席、「茀」は車の後ろの戸、「朱鞹」は朱漆の獣皮で、いずれも車の飾りである。「斉子」は文姜を指し、文姜がこの車に乗って斉へ行くことを言う。「儦儦」は多く群がる様で、その従者の多さを言う。
  • また「敝笱」の詩があり、荘公を風刺している。(詩:破れた魚籠を魚を捕る堰(やな)に仕掛けても、大きな魴や鰥は逃げてしまう。斉の姫が帰ってくると、従者が雲のように多い。破れた魚籠を魚を捕る堰(やな)に仕掛けても、大きな魴や鱮は逃げてしまう。斉の姫が帰ってくると、従者が水のように多い、という趣旨)
  • 「笱」は魚を捕る道具で、破れた網では大魚を制することができないことにより、魯の荘公が文姜を防ぎ止められず、その従者たちの出入りを禁じ得なかったことを喩えている。

五国連合の衛討伐

  • さて、斉の襄公は禚から国に帰ると、衛侯朔が紀を滅ぼした功を祝いに来て、再び衛を伐つ時期を求めた。
  • 襄公は「今、王姫はすでに亡くなったので、この件に支障はない。ただ諸侯と連合しなければ大義名分が立たない。君はしばし待たれよ」と言った。衛侯は謝意を述べた。
  • 数日後、襄公は使者を遣わして宋・魯・陳・蔡の四国の君と会し、共に衛を伐って恵公を復位させることを約した。その檄文にはこうあった。
  • 「天が衛国に禍いを下し、逆臣の洩と職を生じて、勝手に君を廃し君を立てさせた。そのために衛君は国を出てわが国に身を寄せ、今年ではや七年になる。孤は座しても席の安まるときがない。だが辺境に事が多かったため、ただちに誅討に向かうことができなかった。いま幸いにいささかの閑を得たので、わが国の兵賦をことごとく取りそろえ、諸君の後に従って衛君を助け、衛において立つべきでない者を誅したいと願う。」
  • 時は周の荘王八年の冬であった。
  • 斉の襄公は戦車五百乗を出し、衛侯朔とともにまず衛の国境に至った。四国の君もそれぞれ兵を率いて集まった。四国の諸侯とは、宋の閔公捷、魯の荘公同、陳の宣公杵臼、蔡の哀侯獻舞である。
  • 衛の君位にあった黔牟は五国の兵が来たと聞き、公子洩・公子職と相談し、大夫の寧跪を周に遣わして急を告げさせた。
  • 荘王は群臣に「誰か我のために衛を救える者はいるか」と問うた。周公忌父と西虢公の伯は口をそろえて言った。「王室は鄭を伐って威を損なって以来、号令が行われなくなりました。今、斉侯諸兒は王姫の縁の恩をも顧みず、四国を糾合し、君を復位させるという名目のもとに、名分正しく兵力も強大です。とても敵し得ません。」
  • 左班の末席にいた一人が進み出て言った。「お二方の言葉は間違っております。四国はただ強いだけで、どうして名分が正しいと言えましょうか。」皆が見ると、それは下士の子突であった。
  • 周公は「諸侯が国を失い、諸侯がそれを復位させる、これのどこが順でないのか」と言った。
  • 子突は言った。「黔牟の即位は、すでに王命を受けたものです。黔牟を立てたからには、必ず子朔を廃したことになります。お二方は王命に従うことを順とせず、諸侯が君を復位させることを順とされる。それこそ突には理解できません。」
  • 虢公は「戦いの大事は、力を量って行うものだ。王室が振るわなくなって久しい。鄭を伐った戦では、先王自ら軍中におられたのに、なお祝聃の矢を受けられた。それから二代を経てもなお仇を報じられずにいる。まして四国の力は鄭の十倍もある。孤軍で救援に赴けば、卵を石にぶつけるようなもの、みすみす王威を辱め、何の益もない」と言った。
  • 子突は言った。「天下の事は、理が力に勝ることが常であり、力が理に勝るのは変則です。王命の所在こそ、理の集まる所です。一時の強弱は力によりますが、千古の勝敗は理によります。もし理を蔑ろにしても志を得られるとなれば、誰一人立ち上がってそれを問う者がなくなり、千古の是非がここに転倒し、天下にはもはや王は存在しなくなりましょう。お二方は何の面目あって王朝の卿士と号されるのですか。」
  • 虢公はこれに答えられなかった。
  • 周公は「もし今日、衛を救う軍を興すなら、そなたはその任に当たれるか」と問うた。子突は「九伐の法は司馬が掌るもの、突は身分低く才も劣り、まことにその任にふさわしくありません。しかし誰も行こうとする者がいないなら、突はあえて死を惜しまず、司馬の代わりに一行いたしましょう」と答えた。
  • 周公はまた「そなたが衛を救って、必ず勝てると保証できるか」と問うた。子突は「突が今日出師するのは、すでに理において勝っております。もし文王・武王・宣王・平王の御霊のご加護により、義に基づいて言葉を発すれば、四国は罪を悔いましょう。それは王室の福というものであり、突がそれを必ずと言うことはできません」と答えた。
  • 大夫の富辰が「突の言葉はまことに雄々しい。行かせてみるがよかろう。それによって天下に王室に人物がいることを示すこともできる」と言った。周王はこれに従った。まず寧跪を先に衛へ帰して報告させ、周王の軍はそのあと出発した。

周の子突の救援と戦死

  • さて周の虢・周二公は、子突が成功することを妬み、戦車をわずか二百乗だけ与えた。子突は少しも辞退せず、太廟に告げて出陣した。
  • 時に五国の軍はすでに衛の城下に至り、包囲攻撃が急を告げていた。公子洩・公子職は昼夜城を巡守し、王朝の大軍による解囲を待ち望んでいた。
  • ところが子突の軍勢は兵少なく将も乏しく、五国の虎のような大軍にとても対抗できなかった。子突が陣を整えぬうちに大いに討ち破られ、戦車二百乗はまるで熱湯が雪を溶かすようにあっけなく崩れ去った。
  • 子突は嘆いた。「吾、王命を奉じて戦死する。忠義の鬼となるにふさわしい死に方だ。」そして自ら数十人を斬り殺した後、自刎して果てた。
  • 髯翁がこう詠んで讃えた。(詩:たとえ小勢で功を成せずとも、王命の輝きは人々の耳目にはっきりと残る。義を見て勇を発する真の男子、成功と失敗で英雄を論じてはならない、という趣旨)

衛の陥落と黔牟・恵公の処遇

  • 衛国の守城の兵士たちは、周王の軍がすでに敗れたと聞くと、まず自ら逃げ散った。斉の兵が真っ先に城壁に登り、四国もこれに続き、城門を打ち破って衛侯朔を城内に入城させた。
  • 公子洩・公子職は寧跪とともに散り散りになった兵をまとめ、公子黔牟を守って逃げようとしたが、ちょうど魯の兵に出くわし、また一戦を交えた。
  • 寧跪は道を切り開いて先に逃げたが、三公子は皆魯兵に捕らえられてしまった。寧跪は力及ばず助けられぬと悟り、嘆息して秦国へ逃げ延びた。
  • 魯侯は三公子を捕虜として衛に献じたが、衛は処置を決めかね、これを斉に転送した。斉の襄公は処刑人に命じて、洩・職の二公子を処刑させた。
  • 公子黔牟は周王の婿であり、斉侯とは妻どうしが姉妹という相婿の間柄であったため、赦されて誅されず、周へ帰された。
  • 衛侯朔は鐘を鳴らし太鼓を打ち鳴らして、再び侯位に登った。府庫に蔵していた宝玉をすべて斉の襄公に賄賂として贈った。
  • 襄公は「魯侯は三公子を捕らえた。その功は浅くない」と言い、賄賂の半分を分けて魯侯に贈った。さらに衛侯に別の財貨を用意させ、宋・陳・蔡の三国にも分配させた。
  • これは周の荘王九年の事である。

連称・管至父の葵邱駐屯と公孫無知との共謀

  • さて、斉の襄公は子突を敗り、黔牟を放免してから、周王が討伐に来ることを恐れ、大夫の連称を将軍とし、管至父を副として葵邱に兵を駐屯させ、東南からの道を遮らせた。
  • 二将は出発に際して襄公に問うた。「守備の労苦はあえて辞しませんが、いつまでを期限とすればよろしいでしょうか。」
  • 折しも襄公は瓜を食べていたところで、「今、この瓜の熟する時節に発たせるから、来年また瓜が熟する頃に、そなたたちに代わる者を遣わそう」と言った。
  • 二将は葵邱に駐屯し、いつしか一年が経った。ある日、守備の兵が新しい瓜を進上した。二将は瓜が熟したら交代するという約束を思い出した。「今こそ交代の時であるのに、なぜ主公は人を遣わされないのか。」
  • 特に腹心を国中へ探りに遣わすと、斉侯が穀城で文姜と歓楽にふけり、一月あまり戻っていないとの報せが入った。
  • 連称は大いに怒り、「王姫が薨去した後、我が妹が継室になるはずであった。それを無道の暗君は倫理を顧みず、外で淫楽にふけり続け、我々に辺境で野宿をさせている。必ず殺してやる」と言い、管至父に「そなたも我に力を貸してくれ」と言った。
  • 管至父は「瓜が熟したら交代するというのは、主公自らお許しになったこと。もしお忘れになっているなら、むしろ交代を願い出るのがよい。願い出て許されなければ、軍中も皆恨みを抱くようになり、それを利用できよう」と言った。
  • 連称は「善し」と言い、人を遣わして瓜を襄公に献じ、それに乗じて交代を願い出させた。
  • 襄公は怒って「交代はこちらの意思で決める。どうして願い出るのか。もう一度瓜が熟するのを待つがよい」と言った。
  • 使者が戻ってこれを報告すると、連称は憤懣やるかたなかった。管至父に「今、大事を行いたい。どんな手立てがあろうか」と問うた。
  • 至父は言った。「事を起こすには必ず名目となる人物を奉じてから成し遂げるものです。公孫無知は、公子夷仲年の子です。先君の僖公は、夷仲年が同母の弟であったゆえにこれを寵愛し、あわせて無知も寵愛しました。幼い頃から宮中で養育され、衣服や礼式の格式は世子と何ら変わりませんでした。主公が即位してから、無知が以前宮中で主公と相撲をとった際、無知は足をかけて主公を地面に倒してしまい、主公はこれを快く思われませんでした。ある日、無知はまた大夫の雍廩と道を争い、主公はその無礼を怒って、これを疎んじ黜け、その俸禄も大幅に削減いたしました。無知は以来ずっと恨みを抱いており、いつも乱を起こそうと思いながら助力者がいませんでした。我々がひそかに無知と通じ、内外呼応すれば、必ず事を成せましょう。」
  • 連称は「いつがよいか」と問うた。管至父は「主上は用兵を好み、遊猟も好まれ、まるで穴を離れた猛虎のようなもの。制するのは容易でしょう。ただし出遊の時期をあらかじめ知る必要があります。そうでなければ機会を逃します」と言った。
  • 連称は「我が妹は宮中で寵を失っており、これも怨みを抱いている。無知に頼んで我が妹とひそかに計を合わせ、主公の隙をうかがい、夜を日についで知らせてもらえば、事を誤ることはあるまい」と言った。
  • そこで再び腹心を遣わし、公孫無知に書を送った。書にはこうあった。
  • 「賢公孫は亡き先公から嫡子同然の寵愛を受けておられたのに、それが一朝にして削り奪われ、道行く人までも皆、不平に思っております。まして今の君は淫乱と昏愚が日ごとに甚しくなり、政令にも常がありません。葵邱の守備は久しきに及び、瓜の期が来ても交代がなく、三軍の兵士は憤って乱を思っております。もし付け入る隙がございましたら、称ら一同、喜んで犬馬の労を効し、力を尽くして公孫を推戴いたします。称の従妹は宮中で寵を失って怨みを抱いており、天が公孫に内応の資を与えてくださったのです。この機会を逃してはなりません。」
  • 公孫無知は書を得て大いに喜び、すぐさま返書を送った。返書にはこうあった。
  • 「天は淫らな者を厭い、それゆえ将軍の衷情を開かせてくださった。謹んでその内々のお言葉を心に佩し、遅かれ早かれ必ずお応えいたします。」
  • 無知は密かに侍女に連妃への手紙を届けさせ、あわせて連称の書を見せた。「事が成る日には、必ず夫人に立てる」と伝えると、連妃はこれを承知した。

弑逆の謀議と貝邱の狩り・大豕の怪異

  • 周の荘王十一年冬十月、斉の襄公は姑棼の野に貝邱という名の山があり、禽獣が多く集まるので狩りに適していることを知り、あらかじめ徒人の費らに車馬を整えさせ、翌月そこへ狩りに出かけることとした。
  • 連妃は宮人にこの報せを公孫無知に送らせた。無知は夜のうちに葵邱にこの知らせを送り、連称・管至父の二将軍に伝え、十一月上旬に一斉に事を起こすことを約した。
  • 連称は「主上が狩りに出られれば国中は手薄になる。我らが兵を率いてまっすぐ都門に入り、公孫を擁立すればどうか」と言った。
  • 管至父は「主上は近隣諸国と親しくしております。もし援軍を求めて討伐されれば、どう防ぎましょうか。むしろ姑棼に兵を伏せ、まず暗君を殺し、その後に公孫を君に立てるのが万全でしょう」と言った。
  • 葵邱の守備兵たちは長い間外に駐留して、皆家を恋しく思っていた。連称は密かに号令を伝え、それぞれ携帯用の食糧を用意させて貝邱で事を行うこととした。兵士たちは誰もが喜んで従った。ここではこれ以上語らない。
  • さて、斉の襄公は十一月の朔日に車を出して遊覧に出かけた。力士の石之紛如と寵臣の孟陽ら一団だけを連れ、鷹を据え犬を牽いて射猟の準備をし、大臣は誰も従えなかった。
  • まず姑棼(もと離宮があった)に至り、一日中遊び楽しんだ。地元の民が酒肉を献上し、襄公は夜まで飲み楽しみ、そのまま宿泊した。
  • 翌日、車を出して貝邱へ向かった。道すがら木々が生い茂り藤蔓が鬱蒼としているのを見て、襄公は高い丘に車を止め、火を放って林を焼くよう命じ、その後、獲物を包囲して射芸を競わせ、鷹や犬を放たせた。
  • 火は強く風も激しく、狐や兎の類が東へ西へと逃げ惑った。突然一頭の大猪が、牛に似ているが角がなく、虎に似ているが斑もない姿で、火中から走り出て、まっすぐ高い丘に上り、車駕の前にうずくまった。
  • そのとき、皆はそれぞれ馬を走らせ矢を射ていたが、孟陽だけが襄公のそばに立っていた。襄公は孟陽を顧みて「そなた、この猪を射よ」と言った。
  • 孟陽は目を見開いてそれを見つめ、大いに驚いて「猪ではありません、あれは公子彭生です」と言った。
  • 襄公は大いに怒り「彭生がどうして我の前に現れるものか」と言い、孟陽の弓を奪って自ら矢を放ったが、三矢とも当たらなかった。
  • するとその大猪は立ち上がり、前脚を組んで人のように歩き出し、大声で泣き叫んだ。その声は聞くに堪えないほど哀しく凄まじいものであった。
  • 襄公は身の毛もよだつほど驚き、車から転がり落ち、左足をくじき、絹の飾り靴を片方脱げ落としてしまった。それは大猪にくわえられて連れ去られ、たちまち見えなくなった。
  • 髯翁はこう詠んだ。(詩:かつて魯桓公は車中で死んだが、今日は襄公が車中で怪異に遭った。無実の彭生を殺した報いが妖しい姿となって現れたのだ、諸兒(襄公)はいたずらに弓を引くばかりであった、という趣旨)
  • 徒人費や供の者たちは襄公を助け起こし車中に寝かせ、狩りをやめて姑棼の離宮に戻り宿泊した。

徒人費の鞭打ちと連称への内通

  • 襄公は自ら精神が朦朧としているのを感じ、心中も落ち着かなかった。夜中に軍中の時報が二更を打つ頃、襄公は左足の痛みで寝返りを繰り返しては眠れず、孟陽に「そなた、私を支えてゆっくり歩かせてくれ」と言った。
  • 先ほど車から転げ落ちた際、あわただしくて靴を失くしたことに気づいていなかったが、ここに至ってようやく気づいた。徒人費にそれを尋ねると、費は「靴は大猪にくわえられてしまいました」と答えた。
  • 襄公はこの言葉を不快に思い、大いに怒って「そなたは寡人に付き従っていながら、靴の有無に気づかなかったのか。もし本当にくわえ去られたのなら、その時になぜ早く言わなかったのか」と言い、自ら鞭を取り、費の背を打った。血が地に流れ落ちるまで止めなかった。
  • 徒人費は鞭打たれて涙をこらえながら門を出たところ、ちょうど連称が数人を連れて様子を探りに来ているのに出くわした。彼らは徒人費を縄で縛りあげ、「無道の暗君はどこにいるか」と問うた。
  • 費は「寝室におります」と答えた。「もう休まれたのか」との問いに「まだです」と答えた。
  • 連称は刀を振り上げて斬りかかろうとしたが、費は「私を殺さないでください。私がまず入って、あなた方の目や耳の代わりになりましょう」と言った。
  • 連称は信じなかった。費は「私は先ほど鞭で打たれ傷を負い、私自身もこの賊を殺したいと思っているのです」と言い、着物を開いて背中を見せた。
  • 連称はその血まみれの傷を見て、この言葉を信じ、費の縄を解いて内応させることとし、すぐに管至父を招いて兵士たちを率い離宮に討ち入らせた。

斉襄公の最期

  • さて徒人費は身をひるがえして門に入ると、ちょうど石之紛如に出会い、連称が乱を起こしたことを告げた。すぐに寝室に赴き、襄公に告げた。
  • 襄公は驚き惑い、なすすべもなかった。費は「事はもう急を告げています。もし誰かが偽って主公になりすまし、寝台に横たわり、主公はその後ろに潜んでおられれば、もしかすると慌ただしさに紛れて見分けられずに逃れられるかもしれません」と言った。
  • 孟陽は「臣は身に余る恩を受けております。この身をもって身代わりとなりましょう、死を惜しみません」と言った。
  • 孟陽はそのまま寝台に横になり、顔を内側に向けた。襄公は自ら錦の袍をかけてやり、戸の後ろに身を潜めた。
  • 徒人費に「そなたはどうするつもりか」と問うと、費は「臣は紛如とともに力を合わせて賊を防ぎます」と答えた。
  • 襄公は「傷が苦しくはないか」と問うた。費は「臣は死をさえ避けません、傷ぐらい何ほどのこともありません」と答えた。
  • 襄公は嘆いて「忠臣であるな」と言った。
  • 徒人費は石之紛如に兵を率いて中門を守らせ、自らはただ一人で利刃を隠し持ち、賊を迎えるふりをして連称を刺そうとした。そのとき賊たちはすでに大門に攻め入っており、連称が剣を手に先頭に立って道を開いていた。管至父は門外に兵を並べ、他の変事に備えていた。
  • 徒人費は連称の勢いの猛々しさを見て、深く考える暇もなく一歩踏み出して刺しかかった。ところが連称は重い鎧を着ており、刃が通らなかった。逆に連称の一撃を受けて二本の指を斬られ、さらに次の一撃で頭を半ば斬り落とされて、門の中で死んだ。
  • 石之紛如は矛をふるって戦い、十数合を戦ったが、連称は次第に押し込んできた。紛如は次第に後退し、誤って石段に足を取られてよろめいたところを、これも連称の一撃で斬り倒された。
  • こうして寝室に入った。護衛の者たちはすでに驚き散っていた。花模様の帳の中に一人が横たわり、錦の袍で覆われていた。
  • 連称は手を振り下ろして斬った。首が枕から離れ、灯火で照らすと若く髭もない顔であった。連称は「これは主君ではない」と言った。
  • 人を遣わして室中を隅々まで捜させたが、それらしい姿はなかった。連称は自ら燭を取って照らしていくと、ふと戸の敷居の下から絹の飾り靴が一つ覗いているのが見えた。戸の後ろに人が隠れていると気づいた。「諸兒でなければ誰であろうか。」
  • 戸の後ろを開けて見ると、あの暗君は足の痛みのため一塊りになってうずくまっていた。そのもう片方の足には、あの絹の飾り靴が履かれたままであった。
  • 連称が先に見た靴は、あの大猪がくわえ去っていったものであった。それがなぜ敷居の下にあったのか分からない。明らかに恨みを抱いて死んだ者の霊の仕業であり、恐ろしいことである。
  • 連称は諸兒だと見て取ると、まるでひな鳥をつかむように戸の外へ引きずり出し、地面に投げつけた。
  • 大声で罵った。「無道の暗君め。汝は連年兵を用いて武を濫用し民を害した。これは不仁である。父の命に背き公孫を疎んじた。これは不孝である。兄妹で公然と淫らな行いをはばかることもなかった。これは無礼である。遠く国境を守る者たちを思わず、瓜の熟す時期になっても交代させなかった。これは無信である。仁孝礼信の四徳をことごとく失った。どうして人と言えようか。吾は今日、魯桓公のために仇を討つ。」
  • そのまま襄公を幾つにも斬り分け、寝床の褥にその屍を包み、孟陽の屍とともに戸の下に埋めた。
  • 数えれば、襄公が位にあったのはわずか五年であった。
  • 史官はこの事を評して言う。襄公は大臣を遠ざけ、小人たちを寵愛していた。石之紛如、孟陽、徒人費らは、平生襄公の私恩を受け、その昏乱に従い、死を辞さない忠義を示したとはいえ、忠臣の大節と称するには及ばない。連称・管至父は、ただ長い守備が交代されなかったことをもって謀反に及んだのであり、これは襄公の悪行が満ちきったところで、彼ら二人の手を借りたにすぎない。彭生は刑を受けるにあたり「死んでたたりをなす化け物となりお前の命を取ってやる」と叫んだ。大猪の出現は偶然ではなかったのである。
  • 髯翁は費や紛如らの殉死を詠んだ詩を残した。(詩:命を捨てて主に殉じることは忠貞なる行いだが、費と紛如の名は千秋に伝わることもなかった。もし愚かな君主に従って死ぬことを節義に殉じたと称するなら、紂の佞臣であった飛廉や崇虎までも表彰に値することになってしまう、という趣旨)
  • また斉の襄公を嘆く詩がある。(詩:悪の炎が燃え盛るその時に君侯は死に、凶威が消えかける頃に大猪が狂ったように現れた。悪業が満ちれば必ず滅びぬ者はいない、人に善をなすよう勧めるのに躊躇うことはない、という趣旨)

公孫無知の即位

  • 連称・管至父は軍を立て直し、まっすぐ斉国へ攻め入った。公孫無知はあらかじめ私兵を集めており、襄公が凶事に遭ったとの知らせを聞くやいなや、兵を率いて城門を開き、呼応して連称・管至父の二将を城内に迎え入れた。
  • 二将は「かつて先君僖公の遺命を受け、公孫無知を即位させるのだ」と偽って言い立てた。連妃を立てて夫人とした。連称は正卿となり国舅と号し、管至父は亜卿となった。
  • 諸大夫はしぶしぶ列に並んだが、心中では服していなかった。ただ雍廩だけは何度も頭を下げ、かつて道を争った罪を謝し、この上なく卑屈にへりくだった。無知はこれを赦し、そのまま大夫の位に留めた。
  • 高氏・国氏は病と称して朝廷に出なかったが、無知もあえてこれを罷免しなかった。
  • 管至父は無知に、榜を掲げて賢者を招くよう勧め、それによって人望を集めようとした。そこで自分の一族の子である管夷吾の才を推挙した。無知は人を遣わしてこれを召した。
  • 夷吾がこの召しに応じるかどうかは、まだ分からない。次回を見られよ。
原文(底本)
卻說王姬至齊,與襄公成婚。那王姬生性貞靜幽閒,言動不苟。襄公是個狂淫之輩,不甚相得。王姬在宮數月,備聞襄公淫妹之事,默然自嘆:「似此蔑倫悖理,禽獸不如。吾不幸錯嫁匪人,是吾命也!」鬱鬱成疾,不及一年遂卒。

  襄公自王姬之死,益無忌憚。心下思想文姜,偽以狩獵為名,不時往禚。遣人往祝邱,密迎文姜到禚,晝夜淫樂。恐魯莊公發怒,欲以兵威脅之。乃親率重兵襲紀,取其郱、鄑、郚三邑之地。兵移酅城,使人告紀侯:「速寫降書,免至滅絕。」紀侯嘆曰:「齊吾世仇。吾不能屈膝仇人之庭,以求苟活也!」乃使夫人伯姬作書,遣人往魯求救。齊襄公出令曰:「有救紀者,寡人先移兵伐之!」魯莊公遣使如鄭,約他同力救紀。鄭伯子儀,因厲公在櫟,謀襲鄭國,不敢出師,使人來辭。魯侯孤掌難鳴,行至滑地,懼齊兵威,留宿三日而返。紀侯聞魯兵退回,度不能守,將城池妻子,交付其弟嬴季,拜別宗廟,大哭一場,半夜開門而出,不知所終。

  嬴季謂諸大臣曰:「死國與存祀,二者孰重?」諸大夫皆曰:「存祀為重。」嬴季曰:「苟能存紀宗廟,吾何惜自屈?」即寫降書,願為齊外臣,守酅宗廟。齊侯許之。嬴季遂將紀國土地戶口之數,盡納於齊,叩首乞哀。齊襄公收其版籍,於紀廟之旁,割三十戶以供紀祭祀,號嬴季為廟主。紀伯姬驚悸而卒。襄公命葬以夫人之禮,以媚於魯。伯姬之娣叔姬,乃昔日從嫁者,襄公欲送之歸魯。叔姬曰:「婦人之義,既嫁從夫。生為嬴氏婦,死為嬴氏鬼,舍此安歸乎?」襄公乃聽其居酅守節。後數年而卒。史官贊云:

    世衰俗敝,淫風相襲。齊公亂妹,新臺娶媳。禽行獸心,倫亡紀佚。小邦妾媵,矢節從一。寧守故廟,不歸宗國。卓哉叔姬,《柏舟》同式!

按齊襄公滅紀之歲,乃周莊王七年也。

  是年楚武王熊通,以隨侯不朝,復興兵伐隨,未至而薨。令尹鬥祈,莫敖屈重,祕不發喪。出奇兵從間道直逼隨城。隨懼行成。屈重偽以王命,入盟隨侯。大軍既濟漢水,然後發喪。子熊貲即位,是為文王。此事不提。

  再說齊襄公滅紀凱旋,文姜於路迎接其兄,至於祝邱,盛為燕享。用兩君相見之禮,彼此酬酢,大犒齊軍。又與襄公同至禚地,留連歡宿。襄公乃使文姜作書,召魯莊公來禚地相會。莊公恐違母命,遂至禚謁見文姜。文姜使莊公以甥舅之禮,見齊襄公,且謝葬紀伯姬之事。莊公亦不能拒,勉強從之。襄公大喜,亦具享禮款待莊公。時襄公新生一女,文姜以莊公內主尚虛,令其訂約為婚。莊公曰:「彼女尚血胞,非吾配也。」文姜怒曰:「汝欲疏母族耶?」襄公亦以長幼懸隔為嫌。文姜曰:「待二十年而嫁,亦未晚也。」襄公懼失文姜之意,莊公亦不敢違母命,兩下只得依允。甥舅之親,復加甥舅,情愈親密。二君並車馳獵於禚地之野,莊公矢不虛發,九射九中。襄公稱贊不已。野人竊指魯莊公戲曰:「此吾君假子也!」莊公怒,使左右蹤跡其人殺之。襄公亦不嗔怪。史臣論莊公有母無父,忘親事仇。作詩誚云:

    車中飲恨已多年,甘與仇讎共戴天。莫怪野人呼假子,已同假父作姻緣!

  文姜自魯齊同狩之後,益無忌憚,不時與齊襄公聚於一處。或於防,或於穀,或時直至齊都,公然留宿宮中,儼如夫婦。國人作《載驅》之詩,以刺文姜。詩云:

    載驅薄薄,簟茀朱鞹。魯道有蕩,齊子發夕。汶水滔滔,行人儦儦。魯道有蕩,齊子遊遨。

薄薄者,疾驅之貌。簟,席;所以鋪車。茀,車後戶。朱鞹者,以朱漆獸皮。皆車飾也。齊子指文姜。言文姜乘此車而至齊。儦儦,眾貌;言其僕從之多也。又有《敝笱》之詩,以刺莊公。詩云:

    敝笱在梁,其魚魴鰥。齊子歸止,其從如雲。敝笱在梁,其魚魴鱮。齊子歸止,其從如水。

笱者,取魚之器;言敝壞之罟,不能制大魚,以喻魯莊公不能防閑文姜,任其僕從出入無禁也。

  且說齊襄公自禚回國,衛侯朔迎賀滅紀之功,再請伐衛之期。襄公曰:「今王姬已卒,此舉無礙。但非連合諸侯,不為公舉。君少待之。」衛侯稱謝。過數日,襄公遣使約會宋、魯、陳、蔡四國之君,一同伐衛,共納惠公。其檄云:

    天禍衛國,生逆臣洩職,擅行廢立。致衛君越在敝邑,於今七年。孤坐不安席。以疆場多事,不即誅討。今幸少閒,悉索敝賦,願從諸君之後,左右衛君,以誅衛之不當立者!

  時周莊王八年之冬也。

  齊襄公出車五百乘,同衛侯朔先至衛境。四國之君,各引兵來會。那四路諸侯:宋閔公捷,魯莊公同,陳宣公杵臼,蔡哀侯獻舞。衛侯聞五國兵至,與公子洩公子職商議,遣大夫寧跪告急於周。莊王問群臣:「誰能為我救衛者?」周公忌父,西虢公伯皆曰:「王室自伐鄭損威以後,號令不行。今齊侯諸兒,不念王姬一脈之親,鳩合四國,以納君為名,名順兵強,不可敵也。」左班中最下一人挺身出曰:「二公之言差矣!四國但只強耳,安得言名順乎?」眾人視之,乃下士子突也。周公曰:「諸侯失國,諸侯納之,何為不順?」子突曰:「黔牟之立,已稟王命。既立黔牟,必廢子朔。二公不以王命為順,而以納諸侯為順,誠突所不解也!」虢公曰:「兵戎大事,量力而行。王室不振,已非一日。伐鄭之役,先王親在軍中,尚中祝聃之矢。至今兩世,未能問罪。況四國之力,十倍於鄭。孤軍赴援,如以卵抵石,徒自褻威,何益於事?」子突曰:「天下之事,理勝力為常,力勝理為變。王命所在,理所萃也。一時之強弱在力,千古之勝負在理。若蔑理而可以得志,無一人起而問之,千古是非,從此顛倒,天下不復有王矣!諸公亦何面目號為王朝卿士乎?」虢公不能答。周公曰:「倘今日興救衛之師,汝能任其事否?」子突曰:「九伐之法,司馬掌之。突位微才劣,誠非其任。必無人肯往,突不敢愛死,願代司馬一行。」周又曰:「汝救衛能保必勝乎?」子突曰:「突今日出師,已據勝理。若以文、武、宣、平之靈,仗義執言,四國悔罪,王室之福。非突敢必也。」大夫富辰曰:「突言甚壯,可令一往,亦使天下知王室有人。」周王從之。乃先遣寧跪歸報衛國,王師隨後起行。

  卻說周虢二公,忌子突之成功,僅給戎車二百乘。子突並不推諉,告於太廟而行。時五國之師,已至衛城下,攻圍甚急。公子洩公子職晝夜巡守,懸望王朝大兵解圍。誰知子突兵微將寡,怎當五國如虎之眾?不等子突安營,大殺一場,二百乘兵車,如湯潑雪。子突嘆曰:「吾奉王命而戰死,不失為忠義之鬼也!」乃手殺數十人,然後自刎而亡。髯翁有詩贊曰:

    雖然隻旅未成功,王命昭昭耳目中。見義勇為真漢子,莫將成敗論英雄!

  衛國守城軍士,聞王師已敗,先自奔竄。齊兵首先登城,四國繼之,砍開城門,放衛侯朔入城。公子洩公子職同寧跪收拾散兵,擁公子黔牟出走。正遇魯兵,又殺一場。寧跪奪路先奔,三公子俱被魯兵所擒。寧跪知力不能救,嘆口氣,奔往秦國逃難去訖。魯侯將三公子獻俘於衛,衛不敢決,轉獻於齊。齊襄公喝教刀斧手,將洩職二公子斬訖。公子黔牟是周王之婿,於齊有連襟之情,赦之不誅,放歸於周。衛侯朔鳴鐘擊鼓,重登侯位。將府庫所藏寶玉,厚賂齊襄公。襄公曰:「魯侯擒三公子,其勞不淺!」乃以所賂之半,分贈魯侯。復使衛侯另出器賄,散於宋、陳、蔡三國。此周莊王九年之事。

  卻說齊襄公自敗子突,放黔牟之後,誠恐周王來討,乃使大夫連稱為將軍,管至父為副,領兵戍葵邱,以遏東南之路。二將臨行,請於襄公曰:「戍守勞苦,臣不敢辭,以何期為滿?」時襄公方食瓜,乃曰:「今此瓜熟之時,明歲瓜再熟,當遣人代汝。」二將往葵邱駐紮,不覺一年光景。忽一日,戍卒進瓜嘗新。二將想起瓜熟之約:「此時正該交代,如何主公不遣人來?」特地差心腹往國中探信,聞齊侯在穀城與文姜歡樂,有一月不回。連稱大怒曰:「王姬薨後,吾妹當為繼室。無道昏君,不顧倫理,在外日事淫媟。使吾等暴露邊鄙。吾必殺之!」謂管至父曰:「汝可助吾一臂。」管至父曰:「及瓜而代,主公所親許也。恐其忘之,不如請代。請而不許,軍心胥怨,乃可用也。」連稱曰:「善。」乃使人獻瓜於襄公,因求交代。襄公怒曰:「代出孤意,奈何請耶?再候瓜一熟可也。」使人回報,連稱恨恨不已。謂管至父曰:「今欲行大事,計將安出?」至父曰:「凡舉事必先有所奉,然後成。公孫無知,乃公子夷仲年之子。先君僖公以同母之故,寵愛仲年,並愛無知。從幼畜養宮中,衣服禮數,與世子無別。自主公即位,因無知向在宮中,與主公角力,無知足勾主公仆地,主公不悅。一日,無知又與大夫雍廩爭道,主公怒其不遜,遂疏黜之,品秩裁減大半。無知銜恨於心久矣!每思作亂,恨無幫手。我等不若密通無知,內應外合,事可必濟。」連稱曰:「當於何時?」管至父曰:「主上性喜用兵,又好遊獵,如猛虎離穴,易為制耳。但得預聞出外之期,方不失機會也。」連稱曰:「吾妹在宮中,失寵於主公,亦懷怨望。今囑無知陰與吾妹合計,伺主公之間隙,星夜相聞,可無誤事。」於是再遣心腹,致書於公孫無知。書曰:

    賢公孫受先公如嫡之寵,一旦削奪,行路之人,皆為不平。況君淫昏日甚,政令無常。葵邱久戍,及瓜不代,三軍之士,憤憤思亂。如有間可圖,稱等願效犬馬,竭力推戴。稱之從妹,在宮失寵銜怨,天助公孫以內應之資,機不可失!

公孫無知得書大喜,即復書曰:

    天厭淫人,以啟將軍之衷,敬佩裏言,遲疾奉報。

無知陰使女侍通信於連妃,且以連稱之書示之:「若事成之日,當立為夫人。」連妃許之。

  周莊王十一年冬十月,齊襄公知姑棼之野有山名貝邱,禽獸所聚,可以遊獵。乃預戒徒人費等,整頓車徒,將以次月往彼田狩。連妃遣宮人送信於公孫無知。無知星夜傳信葵邱,通知連管二將軍,約定十一月初旬,一齊舉事。連稱曰:「主上出獵,國中空虛,吾等率兵直入都門,擁立公孫何如?」管至父曰:「主上睦於鄰國,若乞師來討,何以禦之?不若伏兵於姑棼,先殺昏君,然後奉公孫即位。事可萬全也。」那時葵邱戍卒,因久役在外,無不思家。連稱密傳號令,各備乾糧,往貝邱行事,軍士人人樂從。不在話下。

  再說齊襄公於十一月朔日,駕車出遊。止帶力士石之紛如,及幸臣孟陽一班,架鷹牽犬,準備射獵,不用一大臣相隨。先至姑棼,(原建有離宮。)遊玩竟日。居民餽獻酒肉,襄公歡飲至夜,遂留宿焉。次日起駕,往貝邱來。見一路樹木蒙茸,藤蘿翳鬱,襄公駐車高阜,傳令舉火焚林,然後合圍校射,縱放鷹犬。火烈風猛,狐兔之類,東奔西逸。忽有大豕一隻,如牛無角,似虎無斑,從火中奔出,竟上高阜,蹲踞於車駕之前。時眾人俱往馳射,惟孟陽立於襄公之側。襄公顧孟陽曰:「汝為我射此豕。」孟陽瞪目視之,大驚曰:「非豕也,乃公子彭生也!」襄公大怒曰:「彭生何敢見我?」奪孟陽之弓,親自射之,連發三矢不中。那大豕直立起來,雙拱前蹄,效人行步,放聲而啼,哀慘難聞。嚇得襄公毛骨俱竦,從車中倒撞下來,跌損左足,脫落了絲文屨一隻,被大豕銜之而去,忽然不見。髯翁有詩曰:

    魯桓昔日死車中,今日車中遇鬼雄。枉殺彭生應化厲,諸兒空自引雕弓。

徒人費與從人等,扶起襄公臥於車中,傳令罷獵,復回姑棼離宮住宿。襄公自覺精神恍惚,心下煩躁。時軍中已打二更,襄公因左足疼痛,展轉不寐,謂孟陽曰:「汝可扶我緩行幾步。」先前墜車,匆忙之際,不知失屨,到此方覺。問徒人費取討。費曰:「屨為大豕銜去矣。」襄公心惡其言,乃大怒曰:「汝既跟隨寡人,豈不看屨之有無?若果銜去,當時何不早言?」自執皮鞭,鞭費之背,血流滿地方止。徒人費被鞭,含淚出門,正遇連稱引著數人打探動靜,將徒人費一索綑住,問曰:「無道昏君何在?」費曰:「在寢室。」又問:「已臥乎?」曰:「尚未臥也。」連稱舉刀欲砍,費曰:「勿殺我,我當先入,為汝耳目。」連稱不信。費曰:「我適被鞭傷,亦欲殺此賊耳。」乃袒衣以背示之。連稱見其血肉淋漓,遂信其言,解費之縛,囑以內應。隨即招管至父引著眾軍士,殺入離宮。

  且說徒人費翻身入門,正遇石之紛如,告以連稱作亂之事。遂造寢室,告於襄公。襄公驚惶無措。費曰:「事已急矣!若使一人偽作主公,臥於牀上,主公潛伏戶後,幸而倉卒不辨,或可脫也。」孟陽曰:「臣受恩踰分,願以身代,不敢恤死。」孟陽即臥於牀,以面向內,襄公親解錦袍覆之。伏身戶後,問徒人費曰:「汝將何如?」費曰:「臣當與紛如協力拒賊。」襄公曰:「不苦背創乎?」費曰:「臣死且不避,何有於創?」襄公嘆曰:「忠臣也!」徒人費令石之紛如引眾拒守中門,自己單身挾著利刃,詐為迎賊,欲刺連稱。其時眾賊已攻進大門,連稱挺劍當先開路。管至父列兵門外,以防他變。徒人費見連稱來勢兇猛,不暇致詳,上前一步便刺。誰知連稱身被重鎧,刃刺不入。卻被連稱一劍劈去,斷其二指,還復一劍,劈下半個頭顱,死於門中。石之紛如便挺矛來鬥,約戰十餘合,連稱轉鬥轉進。紛如漸漸退步,誤絆石階腳跘,亦被連稱一劍砍倒。遂入寢室。侍衛先已驚散。團花帳中,臥著一人,錦袍遮蓋。連稱手起劍落,頭離枕畔,舉火燭之,年少無鬚。連稱曰:「此非君也。」使人遍搜房中,並無蹤影。連稱自引燭照之,忽見戶檻之下,露出絲文屨一隻,知戶後藏躲有人,不是諸兒是誰?打開戶後看時,那昏君因足疼,做一堆兒蹲著。那一隻絲文屨,仍在足上。連稱所見之屨,乃是先前大豕銜去的,不知如何在檻下。分明是冤鬼所為,可不畏哉!連稱認得諸兒,似雞雛一般,一把提出戶外,擲於地下。大罵:「無道昏君!汝連年用兵,黷武殃民,是不仁也;背父之命,疏遠公孫,是不孝也;兄妹宣淫,公行不忌,是無禮也;不念遠戍,瓜期不代,是無信也。仁孝禮信,四德皆失,何以為人?吾今日為魯桓公報仇!」遂砍襄公為數段,以床褥裹其尸,與孟陽同埋於戶下。計襄公在位只五年。史官評論此事,謂襄公疏遠大臣,親暱群小,石之紛如,孟陽,徒人費等,平日受其私恩,從於昏亂,雖視死如歸,不得為忠臣之大節。連稱,管至父徒以久戍不代,遂行篡弒,當是襄公惡貫已滿,假手二人耳。彭生臨刑大呼:「死為妖孽,以取爾命!」大豕見形,非偶然也。髯翁有詩詠費石等死難之事。詩云:

    捐生殉主是忠貞,費石千秋無令名!假使從昏稱死節,飛廉崇虎亦堪旌。

又詩嘆齊襄公云:

    方張惡焰君侯死,將熄兇威大豕狂。惡貫滿盈無不斃,勸人作善莫商量。

  連稱管至父重整軍容,長驅齊國。公孫無知預集私甲,一聞襄公凶信,引兵開門,接應連管二將入城。二將託言:「曾受先君僖公遺命,奉公孫無知即位。」立連妃為夫人。連稱為正卿,號為國舅。管至父為亞卿。諸大夫雖勉強排班,心中不服。惟雍廩再三稽首,謝往日爭道之罪,極其卑順。無知赦之,仍為大夫。高國稱病不朝,無知亦不敢黜之。至父勸無知懸榜招賢,以收人望。因薦其族子管夷吾之才,無知使人召之。未知夷吾肯應召否,且聽下回分解。

訳文の誤りにお気づきの場合はお問い合わせからお知らせください。

© 好古刊行会