東周列國志第十九回 傅瑕を擒えて厲公が国に復す/子頹を殺して恵王が正に返る (擒傅瑕厲公復國 殺子頹惠王反正)

管仲、鄭の攻略を献策する

  • さて齊の桓公が帰国すると、管仲は上奏した。「東遷以来、鄭より強い国はありません。鄭は東虢を滅ぼしてこれに都を置き、前は嵩山、後は黄河、右は洛水、左は済水を擁し、虎牢の険は天下に聞こえております。それゆえかつて莊公はこれを恃んで宋を討ち許を兼ね、朝廷の軍にも抗いました。今また楚と党を組んでおります。楚は僭称した国であり、地は広く兵は強く、漢陽の諸国を呑み込み、周に敵対しております。君がもし王室を守り諸侯に覇を唱えようとお考えなら、楚を攘わないわけにはいきません。楚を攘うには、まず鄭を得なければなりません」
  • 桓公は言った。「私は鄭が中原の要衝であることを知っており、久しくこれを取り込もうと思っていたが、良い策がなくて困っていた」
  • 甯戚が進み出て言った。「鄭の公子突は君となって二年、祭足に追放されて子忽が立てられました。高渠彌が忽を弑して子亹を立て、我が先君(斉襄公)が子亹を殺すと、祭足はまた子儀を立てました。祭足は臣として君を追放し、子儀は弟として兄を簒奪しました。分を犯し倫を逆らうものであり、いずれも声をあげて討つべきものです。今、子突は櫟にあって日々鄭に戻る策を練っており、しかも祭足は既に死んで鄭国には人材もありません。主君は一将を櫟に遣わし、突を送り込んで鄭に入れれば、突は必ず主君の恩義を懐き、北に向かって齊に朝することでしょう」
  • 桓公はこれをもっともだと思い、そこで賓須無に兵車二百乗を率いさせ、櫟城の二十里外に駐屯させた。賓須無はあらかじめ人を遣わして齊侯の意向を伝えた。

鄭の厲公突の復位計画

  • 鄭の厲公突は先に祭足が死んだという知らせを聞き、密かに腹心の者を鄭国に遣わして様子を探らせた。突然、齊侯が兵を遣わして自分を送り帰国させようとしていると聞き、心中大いに喜び、城を出て遠くまで出迎え、盛大な宴を催した。二人が語り合っているうちに、鄭国に遣わした使者が戻り、報告した。「祭仲は既に死に、今では叔詹が上大夫となっております」
  • 賓須無は言った。「叔詹とはどのような人物か」。鄭伯突は言った。「国を治める良才ではあるが、将たる才ではない」
  • 使者はまた申し上げた。「鄭の都城には一つの奇怪な出来事がございます。南門の内に一匹の蛇がおり、長さ八尺、青い頭に黄色い尾でした。門の外にもう一匹の蛇がおり、長さ丈余、赤い頭に緑の尾で、門の中で三日三晩戦い、勝負がつきませんでした。国人がこれを見物すること市のごとくでしたが、あえて近づく者はおりませんでした。十七日後、内側の蛇が外側の蛇に咬み殺され、外側の蛇はそのまま城内に入り、太廟の中でにわかに姿を消しました」
  • 須無は身をかがめて鄭伯に祝賀を述べた。「君の位は定まりましょう」。鄭伯突は言った。「どうしてそれが分かるのか」
  • 須無は言った。「鄭国の外側の蛇は即ち君のことです。長さ丈余なのは君が長兄であるからです。内側の蛇は子儀のことです。長さ八尺なのは弟だからです。十七日で内側の蛇が傷つけられ、外側の蛇が城に入ったのは――君が出奔されたのは甲申の年の夏、今はまさに辛丑の年の夏、ちょうど十七年になります。内側の蛇が傷ついて死んだのは、子儀が位を失う兆しであり、外側の蛇が太廟に入ったのは、君が宗廟の祭祀を主られる徴です。我が主君はまさに天下に大義を申し伝え、君を正位に納れようとしておられます。蛇の争いがちょうどこの時に当たったのは、これぞ天意ではないでしょうか」
  • 鄭伯突は言った。「まことに将軍の言われる通りであれば、生涯決して恩義に背きません」。賓須無はそこで鄭伯と計を定め、夜、大陵を襲うこととした。

大陵の陥落と傅瑕の投降

  • 傅瑕は兵を率いて出て戦ったが、両軍が交戦するうち、思いもかけず賓須無が背後に回り込み、先に大陵を撃破して齊国の旗を打ち立てた。傅瑕は力及ばずと悟り、車を降りて投降するしかなかった。
  • 鄭伯突は傅瑕が十七年間自分に抵抗し続けてきた恨みを持ち、歯を食いしばり、左右に大声で「斬って報告せよ」と命じた。傅瑕は大声で叫んだ。「君は鄭に入られたくないのですか。なぜ私を殺すのですか」
  • 鄭伯突はこれを聞いて呼び戻して問うた。傅瑕は言った。「君がもし私の命一つを赦してくださるなら、私は子儀の首を梟してご覧に入れましょう」
  • 鄭伯突は言った。「お前にどのような策があって子儀を殺せるというのか。ただの甘言で寡人を騙し、脱走して鄭に帰りたいだけであろう」
  • 瑕は言った。「今、鄭の政はことごとく叔詹が掌っており、私と叔詹はとても親しい間柄です。君が私を赦してくださるなら、私は密かに鄭国に入り、詹と謀りましょう。子儀の首は必ず御前に献じられることになりましょう」
  • 鄭伯突は大声で罵った。「老いぼれの悪党め、あえて我を欺くのか。私が今お前を城に入れれば、お前は叔詹と共に兵を挙げて我に抵抗するであろう」
  • 賓須無は言った。「瑕の妻子は今大陵におります。人質として櫟城に囚えておきましょう」。傅瑕は頭を地に打ちつけて哀れみを求めた。「もし私が信義を失えば、私の妻子を誅してください」。そして天と太陽を指して誓った。鄭伯突はそこで彼を放免した。

傅瑕の計略と叔詹の呼応

  • 傅瑕は鄭に至り、夜、叔詹に会いに行った。詹は瑕を見ると大いに驚いて言った。「お前は大陵を守っていたはずなのに、どうしてここまで来たのか」
  • 瑕は言った。「齊侯は鄭の位を正そうとし、大将賓須無に大軍を統率させ、公子突を送って帰国させようとしています。大陵は既に失われ、瑕は夜通し逃げてここまで来ました。齊軍は朝夕にも到着するでしょう。事態は危急です。あなたが子儀の首を斬り城を開いて彼を迎えれば、富貴を保つことができ、また生霊の塗炭を免れることもできましょう。禍を転じて福となすのは、この時にあります。さもなければ、悔いても及びません」
  • 詹はこれを聞いて黙り込み、しばらくして言った。「私はかつて故君を迎え立てる議を主唱していたが、祭仲に阻まれた。今、祭仲は既に亡くなった。これは天が故君を助けているのだ。天に逆らえば必ず咎めがある。ただどのような計を出せばよいか分からない」
  • 瑕は言った。「櫟城に通信し、速やかに進軍させましょう。あなたは城を出て偽って敵を防ぐふりをし、子儀は必ず城に臨んで戦いを観るでしょう。私はその隙をうかがって事を図ります。あなたが故君を城に導き入れれば、大事は定まりましょう」
  • 叔詹はその謀に従い、密かに人を遣わして書を突に届けた。傅瑕はその後、子儀に謁見し、齊兵が突を助けて大陵が陥落したことを訴えた。子儀は大いに驚いて言った。「孤は重い賄賂をもって楚に救援を求めよう。楚の兵が到着すれば、内外から挟み撃ちにし、齊兵を退けられよう」。叔詹はわざとその手配を遅らせた。二日過ぎても、まだ使者を発していなかったが、斥候の報告が入った。「櫟の軍は既に城下に到着しております」
  • 叔詹は言った。「私が兵を率いて出て戦いましょう。君は傅瑕と共に城に登って堅く守ってください」。子儀はこれを本当だと信じた。

子儀の死と厲公の復位

  • さて鄭伯突が先に兵を率いて到着し、叔詹はわずかに交戦してから、賓須無が齊兵を大いに進めると、叔詹は車を返して逃げるふりをした。傅瑕は城上から大声で叫んだ。「鄭の軍は敗れました」。子儀は元来勇気に乏しく、すぐに城を下ろうとした。瑕は後ろから彼を刺し、子儀は城上で命を落とした。叔詹は城門を開かせ、鄭伯は賓須無と共に城に入った。
  • 傅瑕はまず宮中の掃討に赴き、子儀の二人の子に出会うと、共にこれを殺した。突を迎えて復位させた。国人は元より厲公になついていたため、歓声が地を震わせた。厲公は賓須無を厚く賄い、冬十月に自ら齊の朝廷に赴いて盟を請うことを約した。須無は辞して帰った。
  • 厲公は復位して数日、人心はすっかり定まった。そこで傅瑕に言った。「お前は大陵を守り十七年、力を尽くして寡人に抵抗した。旧君への忠と言えよう。今、生を貪り死を畏れ、また寡人のために旧君を弑した。お前の心は測り知れぬ。寡人は子儀のために仇を討ってやろう」。力士に押し出させ、市場で斬らせた。その妻子だけはしばらく赦して誅さなかった。髯翁に嘆きの詩がある。
  • (詩:鄭の突は世に稀な奸雄であり、人を借りて事を成し遂げてはまた誅した。傅瑕は僅かな生を惜しまなかったが、忠の名を万古に呼ばれるようになった、という趣旨)

復位後の粛清と論功

  • 原繁は真っ先に子儀の擁立を唱えたため、罪に問われることを恐れ、病と称して隠居した。厲公が人を遣わして責めると、彼は自ら首を吊って死んだ。厲公はまた自らを追放した罪を治め、公子閼を殺した。強鉏は叔詹の家に避難し、叔詹が彼のために生かしてくれるよう求めたので、死は免れたが足を切られた。公父定叔は衛国に出奔した。三年後、厲公は彼を召して復帰させ、言った。「共叔に後継がいないようにしてはならない」。祭足は既に死んでいるので問わなかった。叔詹はそのまま正卿となり、堵叔と師叔はそろって大夫となった。鄭人はこれを「三良」と呼んだ。

鄄の会と幽の盟、盟主号の確定

  • さて齊の桓公は鄭伯突が既に位に復したと知り、また衛・曹の二国も去年のうちに盟を請うていたので、諸侯を大いに会し、いけにえの獣を殺してその血で盟約を定めようと考えた。
  • 管仲は言った。「君は新たに覇業を挙げられたばかりです。必ず簡便を旨とした政をとるべきです」
  • 桓公は言った。「簡便とはどのようなことか」。管仲は言った。「陳・蔡・邾は北杏の会以来、齊に仕えて二心がありません。曹伯は会に参加しなかったものの、既に宋討伐には従いました。この四国は、これ以上わざわざ煩わせる必要はありません。ただ宋・衛だけはまだ会ったことがありません。まずこの二国と一度会うべきです。諸国が心を一つにするのを待って、盟約を挙行すればよいでしょう」
  • 言い終わらないうちに、急な報せが入った。「周王が再び単蔑を遣わして宋への答礼の聘問を行うため、既に衛国に至っております」
  • 管仲は言った。「宋のことは成るでしょう。衛は道の途中にあります。君は自ら衛の地に行かれて会を開き、諸侯と親しむべきです」。桓公は宋・衛・鄭の三国を約し、鄄の地で会うこととした。単子と齊侯を合わせて五者となり、血をすすって盟うことはせず、会釈し譲り合う略式の礼だけで散会した。諸侯は大いに喜んだ。
  • 齊侯は人心が悦び従っているのを知り、そこで宋・魯・陳・衛・鄭・許の諸国を幽の地に大いに会し、血をすすって盟い、初めて盟主の号を定めた。これは周の釐王三年の冬のことである。

楚文王の熊囏・熊惲の誕生と息媯の悲しみ

  • さて楚の文王熊貲は、息媯を得て夫人に立てて以来、この上なく寵愛した。三年のうちに二子を生んだ。長男を熊囏、次男を熊惲といった。息媯は楚の宮中に三年いたが、決して楚王に言葉を交わそうとはしなかった。楚王はこれを怪しんだ。
  • ある日、口をきかない理由を問うた。息媯は涙を流して答えなかった。楚王がしきりに言うよう求めると、答えて言った。「私は一婦人でありながら二人の夫に仕えることになりました。たとえ節を守って死ぬことができなかったとしても、どうして人に向かって言葉を発する顔がございましょうか」。言い終わると涙が止まらなかった。胡曾先生に詩がある。
  • (詩:息が亡んで身は楚王の家に入り、振り返れば春風の中の一輪の花のよう。旧を悲しんで言葉を発せず常に涙をぬぐい、ただ容華(美貌)を持つことを恨むばかり、という趣旨)

楚王の蔡討伐と鄭への圧力

  • 楚王は言った。「これはみな蔡の獻舞のせいだ。孤は夫人のためにこの仇を討とう。夫人よ、憂えるでない」。そこで兵を興して蔡を討ち、その外郭に入った。蔡侯獻舞は肌脱ぎになって罪に伏し、庫蔵の宝玉をことごとく出して楚に賄い、楚の軍はようやく退いた。
  • ちょうど鄭伯突が使者を遣わし復位を楚に告げた。楚王は言った。「突は復位して二年経ってから、ようやく孤に告げてきた。孤を甚だしく怠慢に扱ったものだ」。そこでまた兵を興して鄭を討った。鄭は罪を謝して和議を請い、楚王はこれを許した。
  • 周の釐王四年、鄭伯突は楚を畏れ、あえて齊に朝しなかった。齊の桓公は人を遣わしてこれを咎めさせた。鄭伯は上卿の叔詹を齊に遣わし、桓公に言わせた。「わが国は楚の兵に苦しめられ、朝な夕なに城を守り、肩を休める暇もなく、それゆえ歳事(毎年の朝貢)を修めることができませんでした。君がもし威をもって楚に加えてくださるなら、わが君はあえて朝夕齊の朝廷に立たないことがありましょうか」
  • 桓公はその不遜さを憎み、詹を軍府に幽閉した。詹は隙を見て鄭国に逃げ帰った。これより鄭は齊に背いて楚に仕えた。この件はここでは深く述べない。

楚文王の死

  • さて周の釐王は在位五年で崩御した。子の閬が立ち、これが惠王である。惠王の二年、楚の文王熊貲は淫らで暴虐、政を顧みず、用兵を好んだ。先年、かつて巴君と共に申国を討った際、巴の軍を驚かせ乱したことがあった。巴君は怒り、そこで那処を襲撃し、これに勝った。守将の閻敖は涌水を泳いで逃げた。楚王は閻敖を殺した。閻氏の一族は王を怨んだ。ここに至り、巴人と共に楚を討つことを約し、内応を願い出た。
  • 巴の兵が楚を討ち、楚王は自ら将となってこれを迎え撃ち、津で大戦した。ところが不意に閻氏の一族数百人が楚軍を装って陣中に紛れ込み、まさに楚王を狙い定めていた。楚軍は大いに乱れ、巴兵はこれに乗じ、ついに楚は大敗した。楚王は頬に矢を受けて逃げた。巴君はあえて追撃せず、兵を収めて帰国し、閻氏の一族もこれに従い、そのまま巴人となった。
  • 楚王は方城に戻り、夜、城門を叩いた。鬻拳は門内から問うた。「君は勝たれましたか」。楚王は言った。「敗れた」。鬻拳は言った。「先王以来、楚の兵は戦って勝たないことはありませんでした。巴は小国です。王自ら将となって敗れたとあっては、人に笑われずにおられましょうか。今、黄が楚に朝しておりません。もし黄を討って勝てば、なお自らを弁じることができましょう」。そして城門を閉ざして受け入れなかった。
  • 楚王は憤然として兵士に言った。「この行で再び勝てなければ、寡人は帰らぬ」。そこで兵を移して黄を討った。王自ら太鼓を打ち、士卒は死戦し、黄の軍を踖陵で破った。この夜、陣営で眠ると、息侯が怒気満々として現れ、夢の中で言った。「孤に何の罪があって殺されたのか。また我が国土を奪い我が妻室を穢した。私は既に上帝に訴え出た」。そして手で楚王の頬を打った。楚王は大声で叫んだ。目が覚めると矢傷が破れ、血が止まらなくなった。急いで軍を返させ、湫の地に至って、夜半に薨じた。
  • 鬻拳は喪を迎えて帰葬した。長子の熊囏が跡を継いだ。鬻拳は言った。「私は王に二度逆らった。たとえ王が私を誅さなくとも、私はどうして生を偸めようか。私はあの世で王にお供する」。そして家人に言った。「私が死んだら、必ず絰皇に葬れ。子孫に私が門を守っていたことを知らせるためだ」。そのまま自ら首を刎ねて死んだ。熊囏はこれを憐れみ、その子孫を代々大閽(門番の長)とさせた。
  • 先儒の左氏は鬻拳を君を愛した者として称えたが、史官には彼を非難する詩がある。
  • (詩:君を諫めるのにどうして兵をもってしようか。門を閉ざして受け入れなかったのもまた驚くべきことだ。もしこの事を忠愛と称えるならば、乱賊たちが次々にこれを口実にするであろう、という趣旨)

子頹の乱と鄭の厲公の介入

  • 鄭の厲公は楚文王の凶事を聞き、大いに喜んで言った。「私はもう憂うことがなくなった」。叔詹は進み出て言った。「私が聞くところでは『人に依る者は危うく、人に臣たる者は辱められる』と申します。今、齊と楚の間に国を立てているのですから、辱められないなら危うくなる、これは長久の計ではありません。先君の桓公・武公・莊公は三代にわたり王朝の卿士でした。それゆえ列国の中で筆頭の地位にあり、諸侯を征服することができたのです。今、新王が跡を継がれ、聞くところによれば虢・晉の二国が王に朝したところ、王はこれに饗宴と賜物をもって遇せられ、また玉五対、馬三匹を賜られたとのことです。君は周に朝貢し、王の寵を頼りに先世の卿士の業を修めるに越したことはありません。そうすればたとえ大国であっても畏れるに足りません」
  • 厲公は「よろしい」と言った。そこで大夫の師叔を周に遣わして朝見を請わせた。師叔は戻って報告した。「周室は大乱です」
  • 厲公は問うた。「どのような乱の様子か」。答えて言った。「かつて周の莊王は寵妾の姚姫、いわゆる王姚を寵愛し、子頹を生みました。莊王はこれを愛し、大夫の蒍国をその教育係としました。子頹は生まれつき牛を好み、かつて数百頭の牛を養い、自ら飼育し、五穀で飼い、美しい刺繍を纏わせ、これを『文獣』と呼びました。出入りするたびに、従者はみな牛に乗って行き、勝手気ままに踏み荒らしました。また密かに大夫の蒍国・邊伯・子禽・祝跪・詹父と結び、往来は非常に頻繁でした。釐王の代には、これを禁じることもありませんでした。今、新王が即位されると、子頹は叔父の列にあることを恃んで、驕慢さはますます甚だしくなりました。新王はこれを憎み、その党を抑え、子禽・祝跪・詹父の田を奪われました。新王はまた宮殿の側に庭園を築くにあたり、蒍国には菜園が、邊伯には家があり、いずれも王宮に近かったため、王はこれをみな取り上げ、その庭園を広げられました。また膳夫の石速が食事の給仕が精細でなかったため、王は怒ってその禄を取り上げました。石速もまた王を恨みました。そこで五大夫は石速と共に乱を起こし、子頹を君として奉じて王を攻めました。周公忌父と召伯廖らが死力を尽くして防ぎ、乱勢の者は勝つことができず、そこで蘇に出奔しました。かつて周の武王の時、蘇忿生が王の司寇となり功があり、蘇公と呼ばれ、南陽の田を領地として授かりました。忿生が死に、その子孫は狄に制せられ、そこで王に背いて狄に仕え、しかもまだ領地を周に返還していませんでした。桓王八年、蘇子の田を我が先君莊公に与え、我が国の周に近い田と交換されました。これにより蘇子と周との確執はますます深まりました。衛侯朔は周が黔牟を立てたことを憎み、また以前からの怨みもあったため、蘇子はそこで子頹を奉じて衛に出奔し、共に衛侯が軍を率いて王城を討ちました。周公忌父は敗れ、召伯廖らと共に王を奉じて鄢に出奔しました。五大夫らは子頹を尊んで王とされましたが、人心は服しておりません。君がもし兵を興して王を迎え入れられれば、これは万世の功でございましょう」
  • 厲公は言った。「よろしい。とはいえ、子頹は懦弱で、頼みとするのは衛・燕の勢力だけであり、五大夫には何ほどのこともできまい。寡人は改めて人を遣わして道理を説かせよう。もし禍を悔いて正道に反り、干戈を動かさずに済めば、それに越したことはあるまい」
  • 一方で人を遣わして鄢へ王を迎えに行かせ、しばらく櫟邑に行幸させることとした。厲公は以前十七年間櫟に居て宮室が整っていたためである。一方で使者を遣わして王子頹に書を送った。
  • 書にいう。「突が聞くところでは、臣として君を犯すこと、これを不忠といい、弟として兄を犯すこと、これを不順と申します。不忠不順には、天の禍がこれに及びます。王子は誤って奸臣の計を聞き入れ、その君を放逐されました。もし禍の広がるのを悔い、天子を奉じて迎え、身を縛して罪に服されるならば、富貴を失うことはありません。さもなければ、退いて一隅に処し、藩服(臣下の国)に準ずるならば、なお天下の人々の口に申し開きができましょう。王子よ、速やかにこれをお図りください。」
  • 子頹はこの書を得て、なお躊躇して決めかねた。五大夫は言った。「虎に騎る者は勢いに乗ればもう下りられません。どうして万乗の位にありながら、また臣下の位に退く者がありましょうか。これは鄭伯が人を欺く言葉です。聞くべきではありません」。頹はそこで鄭の使者を追い出した。
  • 鄭の厲公はそこで櫟にて王に朝し、王を奉じて成周に襲い入り、伝国の宝器を取り、再び櫟城に戻った。時に惠王三年であった。

鄭虢の連合による王城攻略

  • この冬、鄭の厲公は使者を遣わして西虢公と会し、共に義兵を起こして王を迎え入れることを約した。虢公はこれを承諾した。惠王四年の春、鄭・虢の二君は弭の地で兵を会した。夏四月、共に王城を討った。鄭の厲公は自ら兵を率いて南門を攻め、虢公は兵を率いて北門を攻めた。
  • 蒍国は慌てて宮門を叩き、子頹に会いに行った。子頹は牛の世話がまだ終わっていなかったため、すぐには会おうとしなかった。蒍国は言った。「事は急を要します」。そこで子頹の命だと偽って伝え、邊伯・子禽・祝跪・詹父に城壁に登って守備させた。周の人々は子頹に従っておらず、王が来られたと聞くと、雷のように歓声をあげ、争って城門を開いて出迎えた。
  • 蒍国はまさに国書を起草し、衛に援軍を求める使者を遣わそうとしていた。書がまだ書き終わらないうちに、鐘や太鼓の音が聞こえ、人が報せに来た。「旧王が既に入城されて朝廷に座っておられます」。蒍国は自ら首を刎ねて死んだ。祝跪・子禽は乱軍の中で死んだ。邊伯・詹父は周の人々に縛られて手柄として献上された。
  • 子頹は西門から逃げようとし、石速に飾りをつけた牛を先頭に押し立てさせたが、牛の体は肥え歩みは遅く、ことごとく追手に捕らえられ、邊伯・詹父と共に斬首された。髯翁に子頹の愚かさを嘆く詩がある。
  • (詩:父王の寵愛を笠に着て横行し、その驕慢は休むことを知らず、私交を頼んで隙に乗じ奸謀を起こした。一年の南面(君主の座)で何を成し得たのか、ただ門を閉ざして牛を飼うのがふさわしかった、という趣旨)
  • また一詩は齊の桓公が既に盟主を称しながら、義を唱えて王を納れることを鄭・虢に譲ってしまったことを咎めている。詩にいう。
  • (詩:天子は都を追われ宗廟は恥辱を受けたのに、鄭と虢が忠謀を尽くした。策に遺漏なきはずの仲父(管仲)が、どうして当時の第一の功績を彼らに譲ってしまったのか、という趣旨)

惠王の復位と鄭虢の恩賞、鄭の厲公の薨去

  • 惠王は復位すると、鄭に虎牢以東の地、および王后の鞶鑒(帯飾りの鏡)を賞した。西虢公には酒泉の邑、および酒器数点を賞した。二君は謝恩して帰った。鄭の厲公は道中で病を得て、帰国して薨じた。群臣は世子の捷を奉じて即位させた。これが文公である。

田氏の祖・敬仲、齊に亡命する

  • 周の惠王五年、陳の宣公は公子禦寇が謀反を企てていると疑い、これを殺した。公子完、字は敬仲は、陳の厲公の子で、禦寇と親しかったため、誅殺を恐れて齊に出奔した。齊の桓公は彼を工正に任じた。
  • ある日、桓公は敬仲の家に赴いて酒を飲み大いに楽しんだ。日が暮れてきて、燭を求めて歓を尽くそうとした。敬仲は辞退して言った。「私は昼のもてなしについてのみ占いを立てましたが、夜については占っておりません。あえて蝋燭を継ぐことはできません」。桓公は言った。「敬仲は礼を知る者だ」と讃嘆して帰った。桓公は敬仲を賢者と見なし、彼を田の地に食邑として住まわせた。これが田氏の祖である。

文姜の死と魯莊公の婚姻、鄭の請盟

  • この年、魯の莊公は婚姻を図る事のため、齊の大夫高傒と防の地で会った。さて魯夫人の文姜は、齊の襄公が変事に遭って以来、日夜哀しみ憶い、咳の病を得た。内侍が莒の医者を招いて脈を診させた。文姜は久しく独り身であったため、色欲を抑えられなくなり、莒の医者を留めて食事を共にし、これと密通した。
  • その後、莒の医者は帰国し、文姜は治療を口実に、二度莒に赴き、莒の医者の家に宿った。莒の医者はさらに人を推薦して自分に代わらせ、文姜は年老いてますます淫らになったが、それでも終始齊の襄公に及ばないことを恨んでいた。周の惠王四年秋七月、文姜の病はますます重くなり、ついに魯の別寝で薨じた。臨終に際して莊公に言った。「齊女は今、十八歳になった。お前は速やかに娶り、後宮の位を正すがよい。決して喪の期間を終えるまで待つ制にこだわらず、私を九泉の下で懸念させ続けることのないように」。またこう言った。「齊はまさに覇を図っている。お前は謹んでこれに仕え、代々の友好を絶やさないように」。言い終わると息を引き取った。
  • 莊公は常の礼に従って喪を執り行った。遺命に従い、その年のうちに婚儀を議したいと考えた。大夫の曹劌は言った。「大喪がまだ殯(仮埋葬)の状態にあるうちは、急いではなりません。喪が三年で終わるのを待って行うべきです」
  • 莊公は言った。「我が母は私に命じたのだ。凶事に乗じて急ぐのは急ぎすぎであり、喪が終わるのを待つのは遅すぎる。その中を取るのがよかろう」。そこで一周忌の後、高傒と改めて以前の約束を確認し、自ら齊に赴いて納幣の礼を行うこととした。齊の桓公もまた魯の喪がまだ終わっていないため、期日を緩めることを求めた。惠王七年に至って、ようやく議が定まり、秋を吉日とすることとなった。
  • 時に莊公は在位二十四年、年は既に三十七歳であった。齊女の歓心を得ようと望み、万事において極めて贅を尽くした。また父桓公が齊国で薨じたことを念い、今再び齊女を娶ることに心中不安を感じ、そこで桓宮を建て直し、その柱を赤く塗り、その桷(垂木)に彫刻を施し、これによって亡き父の霊を慰めようとした。大夫の御孫は切に諫めたが、聞き入れられなかった。
  • この夏、莊公は自ら齊に赴いて親迎した。秋八月に至り、姜氏は魯に至り、夫人に立てられた。これが哀姜である。大夫や宗婦たちは小君(夫人)への謁見の礼を行い、一様に幣(贈り物)を用いた。
  • 御孫はひそかに嘆いて言った。「男の贄(進物)は大きければ玉や絹、小さければ鳥であり、これによって物の等級を表す。女の贄は木の実や干し肉にすぎず、これによって誠意を表すものである。今、男女が同じ贄を用いるのは、区別がないということだ。男女の別は国の大節であるのに、夫人によってこれが乱されている。あの夫人は終わりを全うできないのではないか」
  • 姜氏が魯に嫁いで以来、齊魯の友好はますます固まった。齊の桓公はまた魯の莊公と兵を合わせて徐を討ち、戎を討ち、徐・戎はいずれも齊に臣従した。鄭の文公は齊の勢いがますます大きくなるのを見て、その侵伐を恐れ、そこで使者を遣わして盟を請うた。後の事がどうなるか、次回を見よ。
原文(底本)
話說齊桓公歸國,管仲奏曰:「東遷以來,莫強於鄭。鄭滅東虢而都之,前嵩後河,右洛左濟,虎牢之險,聞於天下,故在昔莊公恃之,以伐宋兼許,抗拒王師。今又與楚為黨。楚,僭國也,地大兵強,吞噬漢陽諸國,與周為敵。君若欲屏王室而霸諸侯,非攘楚不可;欲攘楚,必先得鄭。」桓公曰:「吾知鄭為中國之樞,久欲收之,恨無計耳!」甯戚進曰:「鄭公子突為君二載,祭足逐之而立子忽;高渠彌弒忽而立子亹;我先君殺子亹,祭足又立子儀。祭足以臣逐君,子儀以弟篡兄,犯分逆倫,皆當聲討。今子突在櫟,日謀襲鄭,況祭足已死,鄭國無人。主公命一將往櫟,送突入鄭,則突必懷主公之德,北面而朝齊矣。」桓公然之。遂命賓須無引兵車二百乘,屯於櫟城二十里之外。賓須無預遣人致齊侯之意。鄭厲公突先聞祭足死信,密差心腹到鄭國打聽消息。忽聞齊侯遣兵送已歸國,心中大喜,出城遠接,大排宴會。二人敘話間,鄭國差人已轉,回說:「祭仲已死,如今叔詹為上大夫。」賓須無曰:「叔詹何人?」鄭伯突曰:「治國之良,非將才也。」差人又稟:「鄭城有一奇事:南門之內,有一蛇長八尺,青頭黃尾;門外又有一蛇,長丈餘,紅頭綠尾;鬥於門闕之中,三日三夜,不分勝負。國人觀者如市,莫敢近之。後十七日,內蛇被外蛇咬死。外蛇竟奔入城,至太廟之中,忽然不見。」須無欠身賀鄭伯曰:「君位定矣。」鄭伯突曰:「何以知之?」須無曰:「鄭國外蛇即君也,長丈餘,君居長也。內蛇子儀也,長八尺,弟也。十七日而內蛇被傷,外蛇入城者,君出亡以甲申之夏,今當辛丑之夏,恰十有七年矣。內蛇傷死,此子儀失位之兆;外蛇入於太廟,君主宗祀之徵也。我主方申大義於天下,將納君於正位,蛇鬥適當其時,殆天意乎!」鄭伯突曰:「誠如將軍之言,沒世不敢負德!」賓須無乃與鄭伯定計,夜襲大陵。

  傅瑕率兵出戰,兩下交鋒,不虞賓須無繞出背後,先打破大陵,插了齊國旗號,傅瑕知力不敵,只得下車投降。鄭伯突銜傅瑕十七年相拒之恨,咬牙切齒,叱左右:「斬訖報來!」傅瑕大呼曰:「君不欲入鄭耶?何為殺我?」鄭伯突喚轉問之。傅瑕曰:「君若赦臣一命,臣願梟子儀之首。」鄭伯突曰:「汝有何策,能殺子儀?不過以甘言哄寡人,欲脫身歸鄭耳。」瑕曰:「當今鄭政皆叔詹所掌,臣與叔詹至厚。君能赦我,我潛入鄭國,與詹謀之,子儀之首,必獻於座下。」鄭伯突大罵:「老賊奸詐,焉敢誑吾?吾今放汝入城,汝將與叔詹起兵拒我矣。」賓須無曰:「瑕之妻孥見在大陵,可囚於櫟城為質。」傅瑕叩頭求哀:「如臣失信,誅臣妻子。」且指天日為誓。鄭伯突乃縱之。傅瑕至鄭,夜見叔詹。詹見瑕,大驚曰:「汝守大陵,何以至此?」瑕曰:「齊侯欲正鄭位,命大將賓須無統領大軍,送公子突歸國。大陵已失,瑕連夜逃命至此。齊兵旦晚當至,事在危急。子能斬儀之首,開城迎之,富貴可保,亦免生靈塗炭。轉禍為福,在此一時。不然,悔無及矣!」詹聞言嘿然,良久曰:「吾向日原主迎立故君之議,為祭仲所阻。今祭仲物故,是天助故君。違天必有咎,但不知計將安出?」瑕曰:「可通信櫟城,令速進兵。子出城,偽為拒敵,子儀必臨城觀戰,吾覷便圖之。子引故君入城,大事定矣。」叔詹從其謀,密使人致書於突。傅瑕然後參見子儀,訴以齊兵助突,大陵失陷之事。子儀大驚曰:「孤當以重賂求救於楚,待楚兵到日,內外夾攻,齊兵可退。」叔詹故緩其事。過二日,尚未發使往,諜報:「櫟軍已至城下。」叔詹曰:「臣當引兵出戰。君同傅瑕登城固守。」子儀信以為然。

  卻說鄭伯突引兵先到,叔詹略戰數合,賓須無引齊兵大進,叔詹回車便走。傅瑕從城上大叫曰:「鄭師敗矣!」子儀素無膽勇,便欲下城。瑕從後刺之,子儀死於城上。叔詹叫開城門,鄭伯同賓須無一同入城。傅瑕先往清宮,遇子儀二子,俱殺之。迎突復位。國人素附厲公,歡聲震地。厲公厚賄賓須無,約以冬十月親至齊庭乞盟。須無辭歸。厲公復位數日,人心大定。乃謂傅瑕曰:「汝守大陵,十有七年,力拒寡人,可謂忠於舊君矣。今貪生畏死,復為寡人而弒舊君,汝心不可測也!寡人當為子儀報仇!」喝令力士押出,斬於市曹。其妻孥姑赦弗誅。髯翁有詩嘆云:

    鄭突奸雄世所無,借人成事又行誅。傅瑕不愛須臾活,贏得忠名萬古呼。

原繁當先贊立子儀,恐其得罪,稱疾告老。厲公使人責之,乃自縊而死。厲公復治逐君之罪,殺公子閼。強鉏避於叔詹之家,叔詹為之求生,乃免死,刖其足。公父定叔出奔衛國。後三年,厲公召而復之,曰:「不可使共叔無後也!」祭足已死勿論。叔詹仍為正卿,堵叔師叔並為大夫,鄭人謂之「三良」。

  再說齊桓公知鄭伯突已復國,衛曹二國,去冬亦曾請盟,欲大合諸侯,刑牲定約。管仲曰:「君新舉霸事,必以簡便為政。」桓公曰:「簡便如何?」管仲曰:「陳、蔡、邾自北杏之後,事齊不貳。曹伯雖未會,已同伐宋之舉。此四國,不必再煩奔走。惟宋衛未嘗與會,且當一見。俟諸國齊心,方舉盟約可也。」言未畢,忽傳報:「周王再遣單蔑報宋之聘,已至衛國。」管仲曰:「宋可成矣。衛居道路之中,君當親至衛地為會,以親諸侯。」桓公乃約宋、衛、鄭三國,會於鄄地。連單子齊侯,共是五位,不用歃血,揖讓而散。諸侯大悅。齊侯知人心悅從,乃大合宋、魯、陳、衛、鄭、許諸國於幽地,歃血為盟,始定盟主之號。此周釐王三年之冬也。

  卻說楚文正熊貲,自得息媯立為夫人,寵幸無比。三年之內,生下二子,長曰熊囏,次曰熊惲。息媯雖在楚宮三載,從不與楚王說話。楚王怪之。一日,問其不言之故。息媯垂淚不答。楚王固請言之,對曰:「吾一婦人而事二夫,縱不能守節而死,又何面目向人言語乎?」言訖淚下不止。胡曾先生有詩云:

    息亡身入楚王家,回看春風一面花。感舊不言常掩淚,祇應翻恨有容華。

楚王曰:「此皆蔡獻舞之故,孤當為夫人報此仇也,夫人勿憂。」乃興兵伐蔡,入其郛。蔡侯獻舞肉袒伏罪,盡出其庫藏寶玉以賂楚,楚師方退。適鄭伯突遣使告復國於楚。楚王曰:「突復位二年,乃始告孤,慢孤甚矣。」復興兵伐鄭。鄭謝罪請成,楚王許之。周釐王四年,鄭伯突畏楚,不敢朝齊。齊桓公使人讓之。鄭伯使上卿叔詹如齊,謂桓公曰:「敝邑困於楚兵,早夜城守,未獲息肩,是以未修歲事。君若能以威加楚,寡君敢不朝夕立於齊庭乎?」桓公惡其不遜,囚詹於軍府。詹視隙逃回鄭國。自是鄭背齊事楚。不在話下。

  再說周釐王在位五年崩。子閬立,是為惠王。惠王之二年,楚文王熊貲淫暴無政,喜於用兵。先年,曾與巴君同伐申國,而驚擾巴師。巴君怒,遂襲那處,克之。守將閻敖游涌水而遁。楚王殺閻敖。閻氏之族怨王。至是,約巴人伐楚,願為內應。巴兵伐楚,楚王親將迎之,大戰於津。不隄防閻族數百人,假作楚軍,混入陣中,竟來跟尋楚王。楚軍大亂,巴兵乘之,遂大敗楚。楚王面頰中箭而奔。巴君不敢追逐,收兵回國,閻氏之族從之,遂為巴人。楚王回至方城,夜叩城門。鬻拳在門內問曰:「君得勝乎?」楚王曰:「敗矣!」鬻拳曰:「自先王以來,楚兵戰無不勝。巴,小國也,王自將而見敗,寧不為人笑乎?今黃不朝楚,若伐黃而勝,猶可自解。」遂閉門不納。楚王憤然謂軍士曰:「此行再不勝,寡人不歸矣!」乃移兵伐黃。王親鼓,士卒死戰,敗黃師於踖陵。是夜,宿於營中,夢息侯怒氣勃勃而前曰:「孤何罪而見殺?又占吾疆土,淫吾妻室,吾已請於上帝矣!」乃以手批楚王之頰。楚王大叫一聲。醒來箭瘡迸裂,血流不止。急傳令回軍,至於湫地,夜半而薨。鬻拳迎喪歸葬。長子熊囏嗣立。鬻拳曰:「吾犯王二次,縱王不加誅,吾敢偷生乎?吾將從王於地下!」乃謂家人曰:「我死,必葬我於絰皇,使子孫知我守門也。」遂自剄而死。熊囏憐之,使其子孫,世為大閽。先儒左氏稱鬻拳為愛君,史官有詩駁之,曰:

    諫主如何敢用兵?閉門不納亦堪驚。若將此事稱忠愛,亂賊紛紛盡借名。

  鄭厲公聞楚文王凶信,大喜曰:「吾無憂矣!」叔詹進曰:「臣聞『依人者危,臣人者辱。』今立國於齊楚之間,不辱即危,非長計也。先君桓武及莊,三世為王朝卿士,是以冠冕列國,征服諸侯。今新王嗣統,聞虢晉二國朝王,王為之饗醴命宥,又賜玉五瑴,馬三匹。君不若朝貢於周,若賴王之寵,以修先世卿士之業,雖有大國,不足畏也。」厲公曰:「善。」乃遣大夫師叔如周請朝。師叔回報:「周室大亂。」厲公問:「亂形如何?」對曰:「昔周莊王嬖妾姚姬,謂之王姚,生子頹,莊王愛之,使大夫蒍國為之師傅。子頹性好牛,嘗養牛數百,親自餵養,飼以五穀,被以文繡,謂之『文獸』。凡有出入,僕從皆乘牛而行,踐踏無忌。又陰結大夫蒍國、邊伯、子禽、祝跪、詹父,往來甚密。釐王之世,未嘗禁止。今新王即位,子頹恃在叔行,驕橫益甚。新王惡之,乃裁抑其黨,奪子禽、祝跪、詹父之田。新王又因築苑囿於宮側,蒍國有圃,邊伯有室,皆近王宮,王俱取之,以廣其囿。又膳夫石速進膳不精,王怒,革其祿,石速亦憾王。故五大夫同石速作亂,奉子頹為君以攻王。賴周公忌父同召伯廖等死力拒敵,眾人不能取勝,乃出奔於蘇。先周武王時,蘇忿生為王司寇有功,謂之蘇公,授以南陽之田為采地。忿生死,其子孫為狄所制,乃叛王而事狄,又不繳還采地於周。桓王八年,乃以蘇子之田,畀我先君莊公,易我近周之田。於是蘇子與周嫌隙益深。衛侯朔惡周之立黔牟,亦有夙怨,蘇子因奉子頹奔衛,同衛侯帥師伐王城。周公忌父戰敗,同召伯廖等奉王出奔於鄢。五大夫等尊子頹為王,人心不服。君若興兵納王,此萬世之功也。」厲公曰:「善。雖然,子頹懦弱,所恃者衛燕之眾耳,五大夫無能為也。寡人再使人以理諭之,若悔禍反正,免動干戈,豈不美哉?」一面使人如鄢迎王,暫幸櫟邑。因厲公向居櫟十七年,宮室齊整故也。一面使人致書於王子頹。書曰:

    突聞以臣犯君,謂之不忠;以弟奸兄,謂之不順。不忠不順,天殃及之!王子誤聽奸臣之計,放逐其君,若能悔禍之延,奉迎天子,束身歸罪,不失富貴。不然,退處一隅,比於藩服,猶可謝天下之口。惟王子速圖之!

子頹得書,猶豫未決。五大夫曰:「騎虎者勢不能復下。豈有尊居萬乘,而復退居臣位者?此鄭伯欺人之語,不可聽之。」頹遂逐出鄭使。鄭厲公乃朝王於櫟,遂奉王襲入成周,取傳國寶器,復還櫟城。時惠王三年也。

  是冬,鄭厲公遣人約會西虢公,同起義兵納王。虢公許之。惠王四年之春,鄭虢二君,會兵於弭。夏四月,同伐王城。鄭厲公親率兵攻南門,虢公率兵攻北門。蒍國忙叩宮門,來見子頹。子頹因飼牛未畢,不即相見。蒍國曰:「事急矣!」乃假傳子頹之命,使邊伯、子禽、祝跪、詹父登陴守禦。周人不順子頹,聞王至,歡聲如雷,爭開城門迎接。蒍國方草國書,謀遣人往衛求救。書未寫就,聞鐘鼓之聲,人報「舊王已入城坐朝矣!」蒍國自刎而死。祝跪子禽死於亂軍之中。邊伯詹父被周人綁縛獻功。子頹出奔西門,使石速押文牛為前隊,牛體肥行遲,悉為追兵所獲,與邊伯詹父一同斬首。髯翁有詩嘆子頹之愚云:

    挾寵橫行意未休,私交乘舋起奸謀。一年南面成何事?只合關門去飼牛。

又一詩說齊桓公既稱盟主,合倡義納王,不應讓之鄭虢也。詩云:

    天子蒙塵九廟羞,紛紛鄭虢效忠謀。如何仲父無遺策,卻讓當時第一籌?

惠王復位,賞鄭虎牢以東之地,及后之鞶鑒。賞西虢公以酒泉之邑,及酒爵數器。二君謝恩而歸。鄭厲公於路得疾,歸國而薨。群臣奉世子捷即位,是為文公。

  周惠王五年,陳宣公疑公子禦寇謀叛,殺之。公子完,字敬仲,乃厲公之子,與禦寇相善,懼誅奔齊,齊桓公拜為工正。一日,桓公就敬仲家飲酒甚樂。天色已晚,索燭盡歡。敬仲辭曰:「臣止卜晝,未卜夜,不敢繼以燭也。」桓公曰:「敬仲有禮哉!」贊嘆而去。桓公以敬仲為賢,使食於田,是為田氏之祖。是年魯莊公為圖婚之事,會齊大夫高傒於防地。卻說魯夫人文姜,自齊襄公變後,日夜哀痛想憶,遂得嗽疾。內侍進莒醫察脈。文姜久曠之後,慾心難制,遂留莒醫飲食,與之私通。後莒醫回國,文姜託言就醫,兩次如莒,館於莒醫之家。莒醫復薦人以自代,文姜老而愈淫,然終以不及襄公為恨。周惠王四年秋七月,文姜病愈劇,遂薨於魯之別寢。臨終謂莊公曰:「齊女今長成十八歲矣。汝當速娶,以正六宮之位。萬勿拘終喪之制,使我九泉之下,懸念不了。」又曰:「齊方圖伯,汝謹事之,勿替世好。」言訖而逝。莊公喪葬如常禮。遵依遺命,其年便欲議婚。大夫曹劌曰:「大喪在殯,未可驟也。請俟三年喪畢行之。」莊公曰:「吾母命我矣。乘凶則驟,終喪則遲,酌其中可也。」遂以期年之後,與高傒申訂前約,請自如齊,行納幣之禮。齊桓公亦以魯喪未終,請緩其期。直至惠王七年,其議始定,以秋為吉。時莊公在位二十四年,年已三十有七歲矣。意欲取悅齊女,凡事極其奢侈。又念父桓公薨於齊國,今復娶齊女,心終不安,乃重建桓宮,丹其楹,刻其桷,欲以媚亡者之靈。大夫御孫切諫,不聽。是夏,莊公如齊親迎。至秋八月,姜氏至魯,立為夫人,是為哀姜。大夫宗婦,行見小君之禮,一概用幣。御孫私嘆曰:「男贄大者玉帛,小者禽鳥,以章物采。女贄不過榛栗棗脩,以告虔也。今男女同贄,是無別也。男女之別,國之大節,而由夫人亂之,其不終乎?」自姜氏歸魯後,齊魯之好愈固矣。齊桓公復同魯莊公合兵伐徐,伐戎,徐戎俱臣服於齊。鄭文公見齊勢愈大,恐其侵伐,遂遺使請盟。不知後事如何,且看下回分解。

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