東周列國志第二十回 晋の献公、卜に背いて驪姫を立てる/楚の成王、乱を平らげて子文を相とする (晉獻公違卜立驪姬 楚成王平亂相子文)
齊桓公の盟会と忘れざる訓戒
- 周の惠王十年、徐・戎はいずれも既に齊に臣従していた。鄭の文公は齊の勢いがますます大きくなるのを見て、その侵伐を恐れ、使者を遣わして盟を請うた。そこで再び宋・魯・陳・鄭の四国の君を会し、幽の地で共に盟った。天下は齊に心を寄せないものがなかった。
- 齊の桓公は帰国すると、大宴を催して群臣をねぎらった。酒が半ばに進んだ頃、鮑叔牙は杯を執って桓公の前に至り、酒を満たして長寿を祝った。桓公は言った。「楽しいものだ、今日の酒宴は」
- 鮑叔牙は言った。「私が聞くところでは『明主賢臣は、楽しみの中にあってもその憂いを忘れない』と申します。主君には出奔されたことを忘れないでいただきたく、管仲には檻に入れられた囚人であったことを忘れないでいただきたく、甯戚には車の下で牛に飼葉をやっていた日々を忘れないでいただきたく存じます」
- 桓公は急いで席を立ち再拝して言った。「寡人と諸大夫がみなそれを忘れずにいられれば、これは齊国の社稷にとって限りない福である」。この日は大いに歓を尽くして散会した。
衛への討伐と桓公の三貴
- ある日、報せがあった。「周王が召伯廖を遣わして参られました」。桓公は迎え入れて館に入れた。召伯廖は惠王の命を宣べ、齊侯を方伯とし、太公の職を修めさせ、自由な征伐の権限を授けると告げた。あわせて言った。「衛の朔は子頹を援けて立て、逆賊に加担し順を犯した。朕はこれを十年懐に抱いてきたが、今に至るまで天の討伐が行われていない。伯舅(齊の桓公)にこれを図っていただきたい」
- 惠王十一年、齊の桓公は自ら戦車と兵を率いて衛を討った。時に衛の惠公朔は既に薨じ、子の赤が立って三年になっていた。これが懿公である。懿公は事の由来を問おうともせず、兵を率いて応戦したが、大敗して帰った。
- 桓公はそのまま城下に迫り、王命を宣揚し、その罪状を数え挙げた。懿公は言った。「それでは先君の過ちであり、寡人には関わりがございません」。そこでその長子開方に金帛五車を運ばせ、齊の軍に納めて講和と免罪を求めさせた。
- 桓公は言った。「先王の制では、罪は子孫に及ばないとされている。もし王命に従うなら、寡人はどうして衛に多くを求めようか」。公子開方は齊国が強盛であるのを見て、齊に仕えたいと願い出た。
- 齊侯は言った。「お前は衛侯の長子であり、序列からすれば国の後継者たるべき身である。どうして君主としての尊い地位を捨てて、寡人の臣下として仕えようとするのか」
- 開方は答えた。「明公は天下の賢侯です。もし鞭を執って左右にお仕えすることができれば、それだけで既に栄幸に過ぎるほどです。どうして君となることに勝らないことがありましょうか」
- 桓公は開方が自分を愛していると考え、大夫に任じ、豎貂・易牙らと同様に寵愛した。齊人はこれを「三貴」と呼んだ。開方はさらに衛侯の末娘の美しさを話した。(衛の惠公は先に女を齊に媵として送ったが、これはその妹である。)桓公は使者を遣わして幣を納め、これを妾として求めた。衛の懿公はあえて辞退できず、すぐに衛姫を齊に送り、齊侯はこれを娶った。既にいた衛姫を長衛姫、新たに来た衛姫を少衛姫と呼び分けた。姉妹はいずれも寵愛を受けた。髯翁に詩がある。
- (詩:衛侯の罪状は山のように重いのに、(桓公は)王命を奉じながら、どうして賄賂を受け取って帰ったのか。尊王の大義を唱えながらも、その裏では利害得失を心に秘めている、という趣旨)
晉国の由来と曲沃武公による本家の簒奪
- 話は変わる。さて晉国は姫姓、侯爵である。周の成王の代に、桐の葉を切って珪の形にし、その弟の叔虞をここに封じた。九代を経て穆侯に至った。穆侯には二子があり、長男を仇、次男を成師といった。穆侯が薨じると、子の仇が立ち、これが文侯である。文侯が薨じると、子の昭侯が立った。昭侯は叔父の桓叔の勢力の強さを畏れ、曲沃をこれに割いて封じ、曲沃伯と呼んだ。晉の号を翼と改め、これを二晉と呼んだ。
- 昭侯が立って七年、大夫の潘父が昭侯を弑し、曲沃伯を迎え入れようとしたが、翼の人々はこれを受け入れず、潘父を殺して昭侯の弟の平を立てた。これが孝侯である。孝侯の八年、桓叔が薨じ、子の鱓が立った。これが曲沃莊伯である。孝侯が立って十五年、莊伯は翼を討ち、孝侯は迎え撃ったが大敗し、莊伯に殺された。翼の人々はその弟の郄を立てた。これが鄂侯である。
- 鄂侯が立って二年、兵を率いて曲沃を討ったが、敗れて隨国に出奔した。子の光が跡を継いだ。これが哀侯である。哀侯の二年、莊伯が薨じ、子の稱が代わって立った。これが曲沃武公である。哀侯九年、武公はその将の韓萬・梁宏を率いて翼を討ち、哀侯は迎え撃って殺された。周の桓王は卿士の虢公林父に命じてその弟の緡を立てさせた。これが小子侯である。
- 小子侯が立って四年、武公はまた彼を誘い出して殺し、そのままその国を併合し、絳に都を定め、そのまま晉の号を称した。晉の庫蔵の宝器をことごとく取って周に運び、釐王に献じた。釐王はその賄賂を貪り、そこで稱を一軍をもって晉侯に任じた。稱は在位すること三十九年にして薨じ、子の佹諸が立った。これが晉の獻公である。
獻公の粛清と齊姜・驪姫
- 獻公は桓叔・莊伯の一族を忌み嫌い、それが患いとなることを恐れた。大夫の士蒍は彼らの党を離散させる計を献じ、これを誘い出してことごとく殺させた。獻公はその功を称え、大司空に任じた。そこで士蒍に絳邑の大城を築かせ、その規模は極めて壮麗で、大国の都に匹敵するものとなった。
- 先に獻公が世子であった頃、賈姫を妃に娶ったが、久しく子ができなかった。また犬戎の主の姪女である狐姫を娶り、重耳という子を生んだ。小戎允姓の女は、夷吾という子を生んだ。武公の晩年、齊に妾を求め、齊の桓公は宗女をこれに嫁がせた。これが齊姜である。時に武公は既に老い、女を御することができなかった。齊姜は年若く美しく、獻公はこれを愛して密通し、一子をもうけたが、密かに申氏に養わせ、それによって申生と名付けた。
- 獻公が即位した年、賈姫は既に薨じており、そこで齊姜を夫人に立てた。時に重耳は既に二十一歳であり、夷吾もまた申生より年長であった。しかし申生は夫人の子であったため、正妻の子か妾の子かを論じて長幼を論じず、そこで申生を世子に立てた。大夫の杜原款を太傅とし、大夫の里克を少傅として、共に世子を輔導させた。齊姜はさらに一女を生んだ後に卒した。獻公はさらに賈姫の妹である賈君を娶ったが、これも子がなかった。そこで齊姜が生んだ女を賈君に育てさせた。
- 獻公十五年、兵を興して驪戎を討った。驪戎は和を請い、その二女を獻公に献じた。長女を驪姫、次女を少姫という。あの驪姫は容貌が息媯に匹敵し、妖艶さは妲己に等しく、智謀は千の策を持ち、詭計は百も出ることに長けていた。獻公の前では、小さな忠義や信義を示し、媚びて寵愛を勝ち取った。また常々政事に参与し、十のうち九は的中させた。それゆえ獻公は彼女を並ぶ者なく寵愛し、一飲一食も必ず彼女と共にした。
- 一年経つと、驪姫は一子を生んだ。名を奚齊という。またさらに一年経つと、少姫もまた一子を生んだ。名を卓子という。獻公は既に驪姫に心を惑わされ、また彼女に子ができたことを喜び、齊姜への恩情をすっかり忘れて、驪姫を夫人に立てようとした。太卜の郭偃に命じて亀の甲で占わせた。
凶兆を退けて驪姫を夫人に立てる
- 郭偃はその卦兆を献じた。その繇(占いの言葉)にいう。
- (占:専有すれば変わり、公の良きものを奪う。薫(香)と蕕(臭)が一緒になれば、十年経ってもなお臭いが残る、という内容)
- 獻公は言った。「どういう意味か」。郭偃は言った。「渝とは、変わることです。心が専ら傾けるところは、心もまた乱れ変わります。ですから『専之渝』と言うのです。攘とは、奪うことです。羭とは、美しいことです。心が変われば善し悪しが逆転します。ですから『攘公之羭』と言うのです。香りのある草を薫といい、臭い草を蕕といいます。香は臭に勝てず、穢れた気は久しく消えません。ですから『十年尚有臭』と言うのです」
- 獻公は一心に驪姫に溺れ、その言葉を信じず、さらに史蘇に命じて筮わせた。《觀卦》の六二を得た。その爻詞にいう。「闚觀は女の貞に利あり(覗き見るような観方は女子にとって正しい道である)」
- 獻公は言った。「内にいて外を観るのは、女子の正しい道である。これ以上の吉があろうか」
- 卜偃は言った。「開闢以来、まず象があり、後に数があります。亀は象であり、筮は尊いものです。筮は亀に及びません」
- 史蘇は言った。「礼には二人の嫡妻はなく、諸侯は再び正妻を娶りません。これがいわゆる『観』というものです。夫人と続けて称するのに、どうして正となりましょうか。正でなければ、何の利がありましょうか。《易》で言えば、これもまた吉とは見えません」
- 獻公は言った。「もし卜筮に定まりがあるなら、それはすべて鬼神の謀にすぎまい」。ついに史蘇・卜偃の言葉を聞き入れなかった。日を選んで廟に告げ、驪姫を夫人に立て、少姫を次妃に封じた。
- 史蘇はひそかに大夫の里克に言った。「晉国は滅びるだろう。どうしたものか」。里克は大いに驚いて問うた。「晉を滅ぼすのは誰か」。史蘇は言った。「それは驪戎であろう」。里克はその意味を理解できなかった。
- 史蘇は言った。「昔、夏の桀は有施を討ち、有施の人はその妹喜を差し出した。桀は妹喜を寵愛し、そのために夏は滅んだ。殷の辛は有蘇を討ち、有蘇氏は妲己を差し出した。紂は妲己を寵愛し、そのために殷は滅んだ。周の幽王は有褒を討ち、有褒の人は褒姒を差し出した。幽王は褒姒を寵愛し、西周はそのために滅んだ。今、晉は驪戎を討ってその女を得て、さらにこれを寵愛している。滅びずにいられようか」
- ちょうどそこへ太卜の郭偃も来た。里克は史蘇の言葉を伝えた。郭偃は言った。「晉は乱れるだけで、滅びるまでには至るまい。かつて唐叔の封建の際、占いに『諸夏を治め、王国を再び興す』とあった。晉の業はまさに大きく、どうして滅びる心配があろうか」
- 里克は言った。「もし乱れるとすれば、いつ頃であろうか」。郭偃は言った。「善悪の報いは、十年を出ないものです。十という数は、満ちる数です」。里克はこの言葉を竹簡に記した。
驪姫の陰謀
- さて獻公は驪姫を寵愛し、その子の奚齊を跡継ぎに立てようと考えた。ある日、驪姫にこれを話した。驪姫は心の中では大いに望んでいた。ただ申生が既に世子に立っており、理由もなく変更すれば、群臣が服さず必ず諫めて阻むであろうと恐れた。また重耳・夷吾は申生と互いに友愛の情深く、三公子が共に左右にいるため、もし話して実行されなければ、逆に警戒されてしまい、事を誤りかねない。
- そこで跪いて答えた。「太子の立位については、諸侯の誰もが知らないことはございません。しかも賢明で罪がありません。君が必ず妾とその子のゆえをもって廃立を行おうとされるなら、妾は自ら死を選びます」。獻公はこれを真心からのものと考え、そこでこの話を差し控えた。
- 獻公には寵愛する大夫が二人おり、梁五・東關五といい、二人とも獻公と共に外部の情報を探り、寵をもって権をほしいままにし、晉人はこれを「二五」と呼んだ。また芸人の施という者がおり、若く美しい容姿で、機転が利き知恵に富み、弁舌が巧みで、獻公は特にこれを寵愛し、宮中に自由に出入りさせ、その行動を制限しなかった。
- 驪姫はそこで施と密通し、その情愛は非常に深かった。彼に心中の計画を打ち明け、三公子を離間させ、徐々に嫡子を奪う計略を謀った。優施は彼女のために策を練った。「必ず封疆を名目にして、三公子を遠くの地へ出して守らせ、その後にこそ中で事を進めることができます。しかしこの事はまた必ず宮中の外の臣が口を開かねば、忠実な謀として通りません。今『二五』が権勢を握っておりますから、夫人は誠意をもって金銭でこれを結びつけ、彼らに進言させれば、主君は必ず聞き入れられるでしょう」
- 驪姫はそこで金や絹を出して優施に渡し、これを「二五」に分け送らせた。優施はまず梁五に会って言った。「君夫人があなたと交誼を結びたいと望まれ、施を遣わして、ささやかながらこの贈り物をお届けになりました」
- 梁五は大いに驚いて言った。「君夫人がなぜ私を必要とされるのか。必ず何か頼みがあるはずだ。あなたが言わなければ、私は受け取れない」。優施はそこで驪姫の計略をすべて彼に告げた。
- 梁五は言った。「必ず東關の助けが必要だ」。施は言った。「夫人は東關どのにも、大夫(あなた)と同様に贈り物をなさいます」。そこで共に東關五の門を訪れ、三人でひと所に集まって謀を打ち合わせた。
三公子の遠隔配置
- 翌日、梁五は獻公に進言した。「曲沃は始めに封じられた地であり、先君の宗廟がある場所です。蒲と屈は、戎狄に近く、国境の要地です。この三邑は、人を置いて主らせない訳にはいきません。宗邑に主がなければ、民は畏敬の心を持たなくなり、国境に主がなければ、戎狄が窺う機会を持ちます。もし太子に曲沃を主らせ、重耳・夷吾にそれぞれ蒲・屈を主らせ、君が中央にあって統制されれば、これは磐石の安泰と申せましょう」
- 獻公は言った。「世子を外に出してよいものか」。東關五は言った。「太子は君の副であり、曲沃は国の副です。太子でなければ、誰がこれを治めましょうか」
- 獻公は言った。「曲沃はそれでよいとしても、蒲と屈は荒野の地だ。どのように守れるだろうか」。東關五はまた言った。「城を築かなければ荒野のままですが、城を築けばそのまま都邑となります」。二人はまた声をそろえて讃美した。「一朝にして二つの都を増やせば、内には封内を守り固め、外には疆土を開拓できます。晉はこれよりますます大きくなりましょう」
- 獻公はその言葉を信じ、世子申生を曲沃に住まわせて宗邑を主らせ、太傅の杜原款を同行させた。重耳を蒲に住まわせ、夷吾を屈に住まわせて、国境を主らせた。狐毛は重耳に従って蒲に行き、呂飴甥は夷吾に従って屈に行った。また趙夙に命じて世子のために曲沃に城を築かせ、以前よりさらに高く広くし、これを新城と称した。士蒍に命じて蒲・屈の二城の築城を監督させた。
- 士蒍は薪と土を集めて簡略に工事を終えた。ある者が言った。「堅固でないのが心配です」。士蒍は笑って言った。「数年の後、これは仇敵の地となるだろう。どうして堅固にする必要があろうか」。そこで詩を賦した。
- (詩:狐の裘は毛が乱れふさふさとし、一国に三人の公がいる。私は誰に従えばよいのか、という趣旨)
- 狐の皮衣は貴い者の服である。尨茸とは乱れた様子である。貴い者が多いことを言い、嫡庶長幼の分別がないことを喩えたものである。士蒍はあらかじめ驪姫が必ず嫡子を奪う謀を持っていることを知っていたため、このように詠んだのである。
- 申生と二公子は、みな遠く晉の辺境に住まわされた。ただ奚齊と卓子だけが、獻公の側に留まった。驪姫はますます媚びを献じて寵を得て、獻公の心を惑わせた。髯翁に詩がある。
- (詩:女色は昔から禍の根であり、驪姫の寵愛は獻公を昏迷させた。むなしく国境の遠くに城を築かせたのは、宮門に伏せられた干戈の禍を招くとは思いもよらなかった、という趣旨)
申生の武功と驪姫の忌み
- 時に獻公は新たに二軍を編成し、自ら上軍を率いた。世子申生に下軍を率いさせ、大夫の趙夙・畢萬を率いて狄・霍・魏の三国を攻めさせ、これを滅ぼした。狄は趙夙に、魏は畢萬に采邑として与えられた。太子の功はますます高まり、驪姫はますますこれを忌み、その謀もますます深く毒々しくなった。この件はここではひとまず置く。
楚の成王の即位と令尹子元の鄭討伐
- さて楚の熊囏・熊惲の兄弟は、共に文夫人(息媯)が生んだ子であったが、熊惲は才知が兄よりも優れ、文夫人に愛され、国人もまたこれに服していた。熊囏は既に位を継ぐと、心中で弟を忌み、常に事にかこつけて彼を誅殺し、後患を絶とうと考えていた。左右には熊惲のために取りなす者が多く、そのため事はぐずぐずと決まらなかった。
- 熊囏は政事を怠り、専ら狩猟を好み、在位三年にして何の施策もなかった。熊惲は隙が既に生じたことを知り、ひそかに死を覚悟した勇士を養い、兄が狩りに出た隙に襲ってこれを殺し、病で薨じたと文夫人に告げた。文夫人は内心疑いを持ったが、事を明らかにしようとはせず、諸大夫に熊惲を君に擁立させた。これが成王である。熊囏は未だ国を治めることもなかったため、君として成らなかったとされ、「堵敖」と号され、王の礼で葬られなかった。
- 叔父の王子善を令尹に任じた。これが子元である。子元は兄の文王が死んで以来、簒立の意図を持っていた。あわせて嫂の息媯を慕っていた。天下の絶色であり、密通したいと考えていた。しかも熊囏・熊惲の二子は年齢がいずれも幼く、自分が叔父にあたる目上の世代であることを恃んで、まったく彼らを眼中に置いていなかった。ただ大夫の鬥伯比が正直無私で、しかも才智に富んでいるのを畏れ、そのためあえて勝手放題には振る舞えなかった。
- ここに至り、周の惠王十一年、鬥伯比が病死した。子元はますます憚るところなく、そこで王宮の傍らに大きな館舎を築き、日々歌舞音楽を奏で、これによって文夫人の心を惑わそうとした。
- 文夫人はこれを聞き、侍者に問うた。「宮の外の楽舞の音はどこから来るのか」。侍者は言った。「これは令尹の新しい館でございます」
- 文夫人は言った。「先君は矛を振るって舞い、武事を習練し、諸侯を征伐された。それゆえ朝貢は朝廷に絶えることがなかった。今、楚の兵が中原に至らなくなって十年になる。令尹は恥を雪ぐ策を図らず、未亡人の傍らで音楽舞踊にふけっている。奇妙なことではないか」
- 侍者はこの言葉を子元に伝えた。子元は言った。「婦人でさえ中原を忘れていない。私は反対にこれを忘れていた。鄭を討たなければ、一人前の男とは言えまい」。そこで兵車六百乗を発し、自ら中軍を率い、鬥御疆・鬥梧に大旗を建てて前隊とし、王孫游・王孫嘉を後隊とした。浩々蕩々と、鄭国目指して押し寄せた。
楚の鄭侵攻と叔詹の空城の計
- 鄭の文公は楚の大軍が来たと聞き、急いで百官を召して協議した。堵叔は言った。「楚兵は数多く盛んで、まだ敵うものではありません。和議を求めるに越したことはありません」
- 師叔は言った。「我らは新たに齊と盟ったばかりです。齊は必ず救援に来ましょう。しばらく壁を堅くして待つのがよいでしょう」
- 世子の華は若く血気盛んで、城を背にして最後の一戦を挑むことを願い出た。叔詹は言った。「三人の言葉のうち、私は師叔の言葉を採ります。しかし私の愚見では、楚兵は久しからずして自ずと退くでしょう」
- 鄭の文公は言った。「令尹自らが将となっているのに、どうして退くだろうか」。叔詹は言った。「そもそも楚が兵を加えて国を攻めるとき、これまで六百乗もの大軍を用いたことはありません。公子元は必勝を期す心を持ち、それによって息夫人に媚びようとしているだけです。勝利を求める者はまた必ず敗北を恐れるものです。楚兵が来ても、私に自ずと退かせる策があります」
- ちょうど協議している最中に、斥候の報告が入った。「楚の軍が桔柣関を突破して進み、既に外郭を破り、純門に入り、まさに逵市に迫らんとしております」。堵叔は言った。「楚の兵は迫っている。和議も無理なら、桐邱に逃れてこれを避けるべきです」
- 叔詹は言った。「恐れることはありません」。そこで甲士(甲冑を着けた兵)を城内に伏せ、城門を大きく開かせ、街の人々には普段どおり往来させ、まったく恐れる様子を見せなかった。
- 鬥御疆らの前隊がまず到着し、このような様子を見て、城上にはまったく動きがないことに疑念を抱いた。鬥梧に言った。「鄭はこのように余裕を見せている。必ず何か奇計があって、我らを城に誘い込もうとしているのだ。軽々しく進むべきではない。令尹の到着を待って相談しよう」。そこで城から五里離れた場所に陣を張った。
- しばらくして子元の大軍が到着し、鬥御疆らはこの城中の様子を報告した。子元は自ら高台に登って鄭の城を望み見た。突然、旗指物が整然と並び、甲士が林のように立っているのを見た。しばらく見た後、嘆じて言った。「鄭には『三良』がいる。その謀は測り知れぬ。万一失敗すれば、どんな顔で文夫人にお会いできようか。さらに虚実を探ってから城を攻めるべきだ」
- 翌日、後隊の王孫游が人を遣わして報告した。「斥候によれば、齊侯・宋・魯の二国の諸侯が、自ら大軍を率いて鄭の救援に来られたとのことです。鬥将軍らはあえて前進せず、特に軍令を待ち、迎撃の準備をしております」
- 子元は大いに驚き、諸将に言った。「もし諸侯が我らの退路を絶てば、我らは腹背から敵を受け、必ず損害を被る。私が鄭を侵して逵市にまで至ったのは、まさに全勝と言えよう」。そこで密かに号令を伝え、人には枚(口に含む木片)を銜えさせ、馬には轡の鈴を外させ、この夜、陣を撤収した。それでも鄭軍が追撃することを恐れ、軍幕を撤去させず、大旗をそのまま建てさせて、鄭人を欺いた。
- 大軍が密かに鄭の国境を出ると、ようやく鐘を鳴らし太鼓を打ち鳴らし、凱歌を歌って帰還した。まず文夫人に報告させた。「令尹は全勝して帰られます」。夫人は答えて言った。「令尹がもし敵を殲滅して功を成したのであれば、国人に宣示し、それによって賞罰の公正を明示し、太廟に告げて、先王の霊を慰めるべきである。未亡人にどうして関わりがあろうか」。子元は大いに恥じた。楚王熊惲は、子元が戦わずして帰ったと聞き、これより不快の意を抱くようになった。
叔詹、楚の空営を見抜く
- さて鄭の叔詹は自ら兵士を督励して城を巡視し、夜通し眠らなかった。明け方になって、楚の陣幕を望み見ると、指して言った。「これは空の陣営だ。楚の軍は逃げ去ったのだ」。人々はまだ信じず、問うた。「どうしてそれが分かるのか」
- 叔詹は言った。「幕は大将の居るところであり、鉦を鳴らし警戒を敷けば、軍中の声も動く。今、群鳥がその上に棲み鳴いているのを見た。だから空の幕だと分かったのだ。私は諸侯の救援軍が必ず到着すると見積もっていた。楚は先にこの情報を聞いて、それゆえに逃げたのであろう」
- ほどなく、斥候の報せがあった。「諸侯の救援軍は果たして到着しましたが、鄭の国境に至る前に、楚の軍が既に去ったと聞き、それぞれ散って本国に帰りました」。人々はようやく叔詹の智謀に服した。鄭は使者を遣わして齊侯の救援の労をねぎらった。これより鄭は齊に感服し、あえて異心を抱かなくなった。
子元の姦計と誅殺
- さて楚の子元は鄭討伐に功をなさなかったため、内心不安を覚え、簒奪の謀はますます急を要するものとなった。まず文夫人と私通し、その後で事を行おうと考えた。ちょうど文夫人が軽い病にかかったので、子元は見舞いにかこつけて王宮に来た。そのまま寝具を移して宮中に泊まり込み、三日間出てこなかった。私兵数百人が宮の外を取り囲んで並んだ。
- 大夫の鬥廉はこれを聞き、宮門に押し入り、まっすぐ寝所まで至った。子元がまさに鏡に向かって鬢を整えているのを見て、これを咎めて言った。「これがどうして人臣が身を清める場所であろうか。令尹は速やかに退かれよ」
- 子元は言った。「これは我が家の宮室であり、射師(鬥廉の役職)に何の関わりがあろうか」。鬥廉は言った。「王侯の貴い身分では、兄弟であっても君臣の別を越えて私的に親しく交わることはできません。令尹は君の近親であるとはいえ、人臣でもあります。人臣は宮門を通れば下り、廟を通れば小走りに進み、その地に咳や唾を吐くことすら不敬とされます。まして寝所に泊まることなど。しかも寡夫人(文夫人)はこのすぐ近くにおられます。嫌疑を招かぬよう男女の別を守るべきことは、令尹もまさかご存じないわけではございますまい」
- 子元は大いに怒って言った。「楚国の政は、我が手中にある。お前がどうして余計な口を出せようか」。左右に命じてその両手を枷にはめさせ、母屋のひさしの下に拘束し、宮の外に出さなかった。
- 文夫人は侍者に急を鬥伯比の子である鬥穀於菟に告げさせ、宮中に入って乱を鎮めるよう求めた。鬥穀於菟は密かに楚王に奏上し、鬥梧・鬥御疆および自分の子の鬥班と共に、真夜中に甲兵を率いて王宮を包囲し、私兵を乱れ斬りにすると、みな驚いて散った。
- 子元はまさに宮女を抱いて酔いつぶれて眠っていたが、夢の中で驚き起き、剣を仗んで外に出た。ちょうど鬥班に出会った。鬥班もまた剣を仗んで中に入った。子元は叫んだ。「乱を起こしているのは小僧か」。鬥班は言った。「私は乱を起こしているのではない。乱を起こす者を誅しに来たのだ」。両者はそのまま宮中で争った。数度も打ち合わないうちに鬥御疆・鬥梧が共に到着した。子元は勝てないと悟り、門を破って逃げようとしたが、鬥班に一剣で首を斬り落とされた。
- 鬥穀於菟は鬥廉の枷を開いて放し、共に文夫人の寝室の外まで至り、頭を下げて安否を伺って退いた。翌朝、楚の成王熊惲は殿に出御し、百官の朝見が終わると、子元の家を滅ぼし、その罪状を大通りに掲げるよう命じた。
- 髯翁が公子元が文夫人を誘惑しようとした一件を論じて詩がある。
- (詩:嘆かわしいことに色欲の胆は身よりも大きく、尊卑も親疎も論じない。狂った振る舞いを軽々しく起こしたことを怪しむな、楚夫人(文夫人)とはすなわち息夫人であったのだから、という趣旨)
鬥穀於菟(子文)の出生譚
- さて鬥穀於菟の祖父の鬥若敖は、鄖子の娘を娶り、鬥伯比を生んだ。若敖が卒すると、伯比はまだ幼く、母に従って鄖国に住み、宮中に出入りしていた。鄖夫人は彼を我が子のように愛した。鄖夫人には娘がおり、伯比とはいとこの間柄であった。幼いときから宮中で共に遊び戯れ、長じてもこれを禁じなかったため、ついに密通するようになった。
- 鄖の娘は身ごもり、鄖夫人はようやくそれに気づいた。そこで伯比を禁じて宮中に入れないようにし、娘には病と偽らせて一室に隠れ住まわせた。出産の時期が満ちると、一子を産んだ。鄖夫人は密かに侍者に命じて衣服で包ませ、宮外へ運び出させ、夢澤の中に棄てさせた。鄖子に隠し通し、また娘の醜聞を広めたくなかったためである。
- 伯比は恥じて、母と共に楚国に帰った。ちょうどその時、鄖子は夢澤で狩猟をしていたが、澤の中に猛虎がうずくまっているのを見て、左右に矢を射させたが、矢はそれて一矢も命中せず、虎はまったく動じなかった。鄖子は心中怪しみ、人を遣わして澤を調べさせた。戻って報告して言った。「虎はちょうど一人の嬰児を抱き、乳を飲ませておりました。人を見てもまったく恐れる様子がございませんでした」
- 鄖子は言った。「これは神物である。驚かしてはならない」。狩猟を終えて帰ると、夫人に言った。「先ほど夢澤に至り、一つの奇妙な事を見た」。夫人は問うた。「何の事ですか」。鄖子はそこで猛虎が嬰児に乳を飲ませていたことを一通り語った。
- 夫人は言った。「夫君はご存じないでしょうが、この子は妾が棄てた子でございます」。鄖子は驚いて言った。「夫人はどうしてこの子を得て棄てたのか」
- 夫人は言った。「夫君、お怒りにならないでください。この子は実は我が娘と鬥甥(伯比)との間に生まれた子です。妾は我が娘の名を汚すことを恐れ、それゆえ侍者に命じて夢澤に棄てさせました。妾が聞くところでは、姜嫄は巨人の足跡を踏んで子を生み、これを氷の上に棄てたところ、飛鳥がその翼で覆ったといいます。姜嫄はこれを神として、成人するまで育て上げ、これを棄と名付けました。彼は后稷の官となり、周代の祖となりました。この子もまた虎に乳を飲ませられた異事があるからには、必ず大貴人となるでしょう」
- 鄖子はこれに従い、人を遣わして子を連れ戻させ、その娘に養育させることを命じた。一年後、娘を楚に送り、鬥伯比と婚礼を挙げさせた。楚の人々は方言で乳を「穀」といい、虎を「於菟」といった。乳虎の意味を取って、その子を穀於菟と名付け、字を子文とした。今、云夢県に於菟郷というのがあり、これが子文の生まれた場所である。
子文の令尹就任と楚政の刷新
- 穀於菟は成長すると、民を安んじ国を治める才能を持ち、文武にわたる方略に長けていた。父の伯比は楚に仕えて大夫となった。伯比が死ぬと、穀於菟が跡を継いで大夫となった。子元が死ぬに及び、令尹の官が空席となった。
- 楚王は鬥廉を用いようと考えたが、鬥廉は辞退して言った。「今、楚と敵対しているのは齊です。齊は管仲・甯戚を用い、国は富み兵は強くなっております。私の才は管仲・甯戚の類には遠く及びません。王が楚の政を改め、中原と抗衡しようとされるなら、鬥穀於菟でなければなりません」。百官はみな声をそろえて奏上した。「必ずこの人物でなければ、その職には相応しくありません」
- 楚王はこれを認め、そこで鬥穀於菟を令尹に任じた。楚王は言った。「齊は管仲を用い、これを仲父と号している。今、穀於菟は楚において尊顕されているのだから、これもまた同じように呼ぶべきだ」。そこで子文と呼んで名で呼ばないこととした。周の惠王十三年のことであった。
- 子文は既に令尹となると、こう宣言した。「国家の禍は、みな君が弱く臣が強いことから生じるものである。すべての百官の采邑は、みなその半分を君主の家に納め返すべきである」。まず鬥氏においてこれを行うと、他の者はあえて従わないわけにはいかなかった。
- また郢城は南は湘潭に極まり、北は漢江に拠る要害の地であるとして、丹陽から都をここに移し、郢都と号した。兵を訓練し武を修め、賢者を進め能ある者に任じた。公族の屈完を賢者として大夫とし、一族の鬥章を才知に富む者として、諸鬥氏と共に軍旅を治めさせた。その子の鬥班を申公とした。楚国は大いに治まった。
齊桓公の伐楚の議と鄣の降伏
- 齊の桓公は楚王が賢者を任じて政治を整えていると聞き、それが中原で勝を争うことを恐れ、諸侯の兵を起こして楚を討とうとした。管仲に問うと、管仲は答えた。「楚は南海で王を称し、地は広く兵は強く、周天子もこれを制することができません。今また子文を政に用い、国境は安泰となっております。とても兵威をもって志を得ることはできません。しかも主君は新たに諸侯を得たばかりで、まだ存亡興滅の徳を諸侯の心に深く浸透させたわけではありません。諸侯の兵は我らのために働いてはくれまいと危惧いたします。今はまさに威徳を広げ、機が熟すのを待って動くべきです。そうすればすべてを万全に保てましょう」
- 桓公は言った。「我が先君は九世の仇に報い、紀国を滅ぼしてその地を全て領有した。鄣は紀の附庸国で、今に至るまでまだ服していない。寡人はこれをも併せて滅ぼそうと思うが、どうか」
- 管仲は言った。「鄣は小国とはいえ、その先祖は太公の支流の子孫であり、齊と同姓です。同姓を滅ぼすのは義に反します。主君は王子成父に大軍を率いさせ紀城を巡視させ、討伐の意向を示すべきです。鄣は必ず畏れて降伏してくるでしょう。そうすれば肉親を滅ぼす汚名を負うことなく、しかも実際に土地を得ることができます」
- 桓公はこの策を用い、鄣君は果たして畏れて降伏を求めた。桓公は言った。「仲父の謀は百に一つも外れることがない」
- 君臣がまさに国事を協議していたところ、突然、側近の者が報告に来た。「燕国が山戎に兵を用いて侵伐され、特に人を遣わして救援を求めております」。管仲は言った。「主君が楚を討とうとされるなら、まず戎を平定すべきです。戎の患いが既に鎮まってこそ、南方の事に専念できましょう」。畢竟、桓公がどのように戎を服させるか、次回を聞け。
原文(底本)
周惠王十年,徐戎俱已臣服於齊。鄭文公見齊勢愈大,恐其侵伐,遣使請盟。乃復會宋、魯、陳、鄭四國之君,同盟於幽,天下莫不歸心於齊。齊桓公歸國,大設宴以勞群臣。酒至半酣,鮑叔牙執巵至桓公之前,滿斟為壽。桓公曰:「樂哉,今日之飲!」鮑叔牙曰:「臣聞『明主賢臣,雖樂不忘其憂。』臣願君毋忘出奔,管仲毋忘檻囚,甯戚毋忘飯牛車下之日。」桓公遽起離席再拜曰:「寡人與諸大夫,皆能毋忘,此齊國社稷無窮之福也!」是日極歡而散。 忽一日,報:「周王遣召伯廖來到。」桓公迎接入館。召伯廖宣惠王之命,賜齊候為方伯,修太公之職,得專征伐。因言:「衛朔援立子頹,助逆犯順,朕懷之十年,迄今天討未彰。煩伯舅為朕圖之。」惠王十一年,齊桓公親率車徒伐衛。時衛惠公朔先薨,子赤立,已三年矣,是為懿公。懿公不問來由,率兵接戰,大敗而歸。桓公乃直抵城下,宣揚王命,數其罪狀。懿公曰:「然則先君之過,與寡人無與也。」乃使其長子開方,輦金帛五車,納於齊軍,求其講和免罪。桓公曰:「先王之制,罪不及子孫。苟遵王命,寡人何多求於衛耶?」公子開方見齊國強盛,願仕於齊。齊侯曰:「子乃衛侯長子,論次序當為國儲。奈何舍南面之尊,而北面於寡人乎?」開方對曰:「明公乃天下之賢侯,倘得執鞭侍左右,榮幸已甚,豈不勝於為君?」桓公以開方為愛己,拜為大夫,寵之與豎貂易牙等。齊人謂之「三貴」。開方復言衛侯少女之美,(衛惠公先曾以女媵齊,此其妹也。)桓公遣使納幣,求之為妾。衛懿公不敢辭卻,即送衛姬至齊,齊侯納之。因以長衛姬,少衛姬別之,姊妹俱有寵。髯翁有詩云: 衛侯罪案重如山,奉命如何取賂還?漫說尊王申大義,到來功利在心間。 話分兩頭。卻說晉國姬姓,侯爵。自周成王時,剪桐葉為珪,封其弟叔虞於此。傳九世至穆侯。穆侯生二子,長曰仇,次曰成師。穆侯薨,子仇立,是為文侯。文侯薨,子昭侯立。畏其叔父桓叔之強,乃割曲沃以封之,謂之曲沃伯;改晉號曰翼,謂之二晉。昭侯立七年,大夫潘父弒之,而納曲沃伯。翼人不受,殺潘父而立昭侯之弟平,是為孝侯。孝侯之八年,桓叔薨,子鱓立,是為曲沃莊伯。孝侯立十五年,莊伯伐翼,孝侯逆戰大敗,為莊伯所殺。翼人立其弟郄,是為鄂侯。鄂侯立二年,率兵伐曲沃,戰敗,出奔隨國。子光嗣位,是為哀侯。哀侯之二年,莊伯薨,子稱代立,是為曲沃武公。哀侯九年,武公率其將韓萬梁宏伐翼,哀侯逆戰被殺。周桓王命卿士虢公林父立其弟緡,是為小子侯。小子侯立四年,武公復誘而殺之,遂並其國,定都於絳,仍號曰晉。悉取晉庫藏寶器,輦入於周,獻於釐王。釐王貪其賂,遂命稱代以一軍為晉侯。稱代凡立三十九年,薨,子佹諸立,是為晉獻公。 獻公忌桓莊之族,慮其為患。大夫士蒍獻計散其黨,因誘而盡殺之。獻公嘉其功,命為大司空。因使大城絳邑,規模極其壯麗,比於大國之都。先獻公為世子時,娶賈姬為妃,久而無子。又娶犬戎主之姪女曰狐姬,生子曰重耳,小戎允姓之女,生子曰夷吾。當武公晚年,求妾於齊,齊桓公以宗女歸之,是為齊姜。時武公已老,不能御女。齊姜年少而美,獻公悅而烝之,與生一子,私寄養於申氏,因名申生。獻公即位之年,賈姬已薨,遂立齊姜為夫人。時重耳已二十一歲矣,夷吾年亦長於申生。因申生是夫人之子,論嫡庶不論長幼,乃立申生為世子。以大夫杜原款為太傅,大夫里克為少傅,相與輔導世子。齊姜又生一女而卒。獻公復納賈姬之娣曰賈君,亦無子。因以齊姜所生之女,使賈君育之。獻公十五年,興兵伐驪戎。驪戎乃請和,納其二女於獻公,長曰驪姬,次曰少姬。那驪姬生得貌比息媯,妖同妲已,智計千條,詭詐百出。在獻公前,小忠小信,貢媚取憐。又時常參與政事,十言九中。所以獻公寵愛無二,一飲一食,必與之俱。踰年,驪姬生一子,名曰奚齊。又踰年,少姬亦生一子,名曰卓子。獻公既心惑驪姬,又喜其有子,遂忘齊姜一段恩情,欲立驪姬為夫人。使太卜郭偃,以龜卜之。郭偃獻兆,其繇曰: 專之渝,攘公之羭。一薰一蕕,十年尚有臭! 獻公曰:「何謂也。」郭偃曰:「渝者,變也。意所專尚,心亦變亂,故曰『專之渝』。攘,奪也。羭,美也。心變則美惡倒置,故曰『攘公之羭』。草之香者曰薰,臭者日蕕。香不勝臭,穢氣久而未消,故曰『十年尚有臭』也。」獻公一心溺愛驪姬,不信其言,更命史蘇筮之。得《觀卦》之六二,爻詞曰:「闚觀利女貞。」獻公曰:「居內觀外,女子之正。吉孰大焉?」卜偃曰:「開闢以來,先有象,後有數。龜,象也。筮,尊也。從筮不如從龜。」史蘇曰:「禮無二嫡,諸侯不再娶,所謂觀也。繼稱夫人,何以為正?不正,何利之有?以《易》言之,亦未見吉。」獻公曰:「若卜筮有定,盡鬼謀矣。」竟不聽史蘇卜偃之言。擇日告廟,立驪姬為夫人,少姬封為次妃。史蘇私謂大夫里克曰:「晉國將亡,奈何?」里克大驚,問曰:「亡晉者何人?」史蘇曰:「其驪戎乎?」里克不解其說。史蘇曰:「昔夏桀伐有施,有施人以女妹喜歸之。桀寵妹喜,遂以亡夏。殷辛伐有蘇,有蘇氏以女妲己歸之。紂寵妲己,遂以亡殷。周幽王伐有褒,有褒人以女褒姒歸之。幽王寵褒姒,西周遂亡。今晉伐驪戎而獲其女,又加寵焉,不亡得乎?」適太卜郭偃亦至,里克述史蘇之言。郭偃曰:「晉亂而已,亡則未也。昔唐叔之封,卜曰:『尹正諸夏,再造王國。』晉業方大,何亡之患?」里克曰:「若亂當在何時?」郭偃曰:「善惡之報,不出十年。十者;數之盈也。」里克識其言於簡。 再說獻公愛驪姬,欲立其子奚齊為嗣。一日,與驪姬言之。驪姬心中甚欲。只因申生已立做世子,無故更變,恐群臣不服,必然諫沮。又且重耳夷吾,與申生相與友愛,三公子俱在左右,若說而不行,反被提防,豈不誤事。乃跪而對曰:「太子之立,諸侯莫不聞。且賢而無罪,君必以妾母子之故,欲行廢立,妾寧自殺!」獻公以為真心,遂置不言。獻公有嬖幸大夫二人:曰梁五東關五,並與獻公察聽外事,挾寵弄權,晉人謂之「二五」。又有優人名施者,少年美姿,伶俐多智,能言快語,獻公尤嬖之,出入宮禁,不知防範。驪姬遂與施私通,情好甚密。因告以心腹之事,謀離間三公子,徐為奪嗣之計。優施為之畫策:「必須以封疆為名,使三公子遠遠出鎮,然後可居中行事。然此事又必須外臣開口,方見忠謀。今『二五』用事,夫人誠以金幣結之,俾彼相與進言,則主公無不聽矣。」驪姬乃出金帛付優施,使分送「二五」。優施先見梁五曰:「君夫人願交懽於大夫,使施致不腆之敬。」梁五大驚曰:「君夫人何須於我?必有囑也。子不言,吾必不受。」優施乃盡以驪姬之謀告之。梁五曰:「必得東關為助乃可。」施曰:「夫人亦有饋,如大夫也。」於是同詣東關五之門,三人做一處商議停當。 次日,梁五進言於獻公曰:「曲沃始封之地,先君宗廟之所在也。蒲與屈,地近戎狄,邊疆之要地也。此三邑者,不可無人以主之。宗邑無主,則民無畏威之心;邊疆無主,則戎狄有窺伺之意。若使太子主曲沃,重耳夷吾,分主蒲屈,君居中制馭,此磐石之安矣。」獻公曰:「世子出外可乎?」東關五曰:「太子,君之貳也。曲沃,國之貳也。非太子其誰居之?」獻公曰:「曲沃則然矣。蒲屈乃荒野之地,如何可守?」東關五又曰:「不城則為荒野,城之即為都邑。」二人又齊聲贊美曰:「一朝而增二都,內可屏蔽封內,而外可開拓疆宇,晉自此益大矣!」獻公信其言,使世子申生居曲沃,以主宗邑,太傅杜原款從行。使重耳居蒲,夷吾居屈,以主邊疆。狐毛從重耳於蒲,呂飴甥從夷吾於屈。又使趙夙為太子城曲沃,比舊益加高廣,謂之新城。使士蒍監築蒲屈二城。士蒍聚薪築土,草草完事。或言:「恐不堅固。」士蒍笑曰:「數年之後,此為仇敵,何以固為?」因賦詩曰: 狐裘尨茸,一國三公,吾誰適從? 狐裘,貴者之服。尨茸,亂貌。言貴者之多,喻嫡庶長幼無分別也。士蒍預知驪姬必有奪嫡之謀,故為此語。申生與二公子,俱遠居晉鄙。惟奚齊卓子,在君左右。驪姬益獻媚取寵,以蠱獻公之心。髯翁有詩云: 女色從來是禍根,驪姬寵愛獻公昏。空勞畚築疆場遠,不道干戈伏禁門。 時獻公新作二軍,自將上軍。使世子申生將下軍,率領大夫趙夙畢萬攻狄、霍、魏三國,滅之。以狄賜趙夙,魏賜畢萬為采邑。太子功益高,驪姬忌之益甚,而謀愈深且毒矣。此事擱過一邊。 卻說楚熊囏熊惲兄弟,雖同是文夫人所生,熊惲才智勝於其兄,為文夫人所愛,國人亦推服之。熊囏既嗣位,心忌其弟,每欲因事誅之,以絕後患。左右多有為熊惲周旋者,是以因循不決。熊囏怠於政事,專好遊獵,在位三年,無所施設。熊惲嫌隙己成,私畜死士,乘其兄出獵,襲而殺之,以病薨告於文夫人。文夫人雖則心疑,不欲明白其事,遂使諸大夫擁立熊惲為君,是為成王。以熊囏未嘗治國,不成為君,號為「堵敖」,不以王禮葬之。任其叔王子善為令尹,即子元也。子元自其兄文王之死,便有篡立之意。兼慕其嫂息媯,天下絕色,欲與私通。況熊囏熊惲二子,年齒俱幼,自恃尊行,全不在眼,只畏大夫鬥伯比正直無私,且多才智,故此不敢縱肆。至是,周惠王十一年,鬥伯比病卒。子元意無忌憚,遂於王宮之旁,大築館舍,每日歌舞奏樂,欲以蠱惑文夫人之意。文夫人聞之,問侍人曰:「宮外樂舞之聲何來?」侍人曰:「此令尹之新館也。」文夫人曰:「先君舞矛,以習武事,以征諸侯,是以朝貢不絕於庭。今楚兵不至中國者十年矣。令尹不圖雪恥,而樂舞於未亡人之側,不亦異乎?」侍人述其言於子元。子元曰:「婦人尚不忘中原,我反忘之;不伐鄭,非丈夫也。」遂發兵車六百乘,自為中軍,鬥御疆鬥梧建大旆為前隊,王孫游王孫嘉為後隊。浩浩蕩蕩,殺奔鄭國而來。鄭文公聞楚師大至,急召百官商議。堵叔曰:「楚兵眾盛,未可敵也,不如請成。」師叔曰:「吾新與齊盟,齊必來救,且宜堅壁以待之。」世子華,年少方剛,請背城一戰。叔詹曰:「三人之言,吾取師叔。然以臣愚見,楚兵不久自退。」鄭文公曰:「令尹自將,安肯退乎?」叔詹曰:「自楚加兵人國,未有用六百乘者。公子元操必勝之心,欲以媚息夫人耳。夫求勝者,亦必畏敗。楚兵若來,臣自有計退之。」正商議間,諜報「楚師斬桔柣關而進,已破外郭,入純門,將及逵市。」堵叔曰:「楚兵偪矣,如行成不可,且奔桐邱以避之。」叔詹曰:「無懼也!」乃使甲士埋伏於城內,大開城門,街市百姓來往如常,並無懼色。鬥御疆等前隊先到,見如此模樣,城上絕無動靜,心中疑惑;謂鬥梧曰:「鄭閒暇如此,必有詭計,哄吾入城。不可輕進,且待令尹來議之。」遂離城五里,扎住營寨。須臾子元大兵已到,鬥御疆等稟知城中如此。子元親自登高阜處以望鄭城。忽見旌旗整肅,甲士林立。看了一回,嘆曰:「鄭有『三良』在,其謀叵測!萬一失利,何面目見文夫人乎?更探聽虛實,方可攻城也。」次日,後隊王孫游遣人來報說:「諜探得齊侯國宋魯二國諸侯,親率大軍,前來救鄭。鬥將軍等不敢前進,特候軍令,準備迎敵。」子元大驚,謂諸將曰:「諸侯若截吾去路,吾腹背受敵,必致損折。吾侵鄭及於逵市,可謂全勝矣。」乃暗傳號令,人銜枚,馬摘鈴,是夜拔寨都起。猶恐鄭兵追趕,命勿撤軍幕,仍建大旆,以疑鄭人。大軍潛出鄭界,乃始鳴鐘擊鼓。唱凱歌而還。先遣報文夫人曰:「令尹全勝而回矣!」夫人謝曰:「令尹若能殲敵成功,宜宣示國人,以彰明罰,告諸太廟,以慰先王之靈。未亡人何與焉?」子元大慚。楚王熊惲,聞子元不戰而還,自是有不悅之意。 卻說鄭叔詹親督軍士巡城,徹夜不睡。至曉,望見楚幕,指曰:「此空營也,楚師遁矣。」眾猶未信,問:「何以知之?」叔詹曰:「幕乃大將所居,鳴鉦設儆,軍聲震動。今見群鳥棲噪於上,故知其為空幕也。吾度諸侯救兵必至,楚先聞信,是以遁耳!」未幾,諜報:「諸侯救兵果到,未及鄭境,聞楚師已去,各散回本國去了。」眾始服叔詹之智。鄭遣使致謝齊侯救援之勞。自此感服齊國,不敢懷貳。 再說楚子元自伐鄭無功,內不自安,篡謀益急。欲先通文夫人,然後行事。適文夫人有小恙,子元假稱問安,來至王宮。遂移臥具寢處宮中,三日不出。家甲數百,環列宮外。大夫鬥廉聞之,闖入宮門,直至臥榻。見子元方對鏡整鬢,讓之曰:「此豈人臣櫛沐之所耶?令尹宜速退!」子元曰:「此吾家宮室,與射師何與?」鬥廉曰:「王侯之貴,弟兄不得通屬。令尹雖介弟,亦人臣也。人臣過闕則下,過廟則趨,咳唾其地,猶為不敬,況寢處乎?且寡夫人密邇於此,男女別嫌,令尹豈未聞耶?」子元大怒曰:「楚國之政,在吾掌握,汝何敢多言!」命左右梏其手,拘於廡下,不放出宮。文夫人使侍人告急於鬥伯比之子鬥穀於菟,使其入宮靖難。鬥穀於菟密奏楚王,約會鬥梧鬥御疆及其子鬥班,半夜率甲以圍王宮,將家甲亂砍,眾俱驚散。子元方擁宮人醉寢,夢中驚起,仗劍而出。恰遇鬥班,亦仗劍而入。子元喝曰:「作亂乃孺子耶!」鬥班曰:「我非作亂,特來誅亂者耳。」兩下就在宮中爭戰。不數合,鬥御疆鬥梧齊到。子元度不能勝,奪門欲走,被鬥班一劍砍下頭來。鬥穀於菟將鬥廉開梏放出,一齊至文夫人寢室之外,稽首問安而退。次早,楚成王熊惲御殿,百官朝見已畢,楚王命滅子元之家,榜其罪狀於通衢。髯翁論公子元欲蠱文夫人之事,有詩曰: 堪嗟色膽大於身,不論尊兮不論親。莫怪狂且輕動念,楚夫人是息夫人。 卻說鬥穀於菟之祖曰鬥若敖,娶鄖子之女,生鬥伯比。若敖卒,伯比尚幼,隨母居於鄖國,往來宮中,鄖夫人愛之如子。鄖夫人有女與伯比為表兄妹之親,自小宮中作伴遊耍,長亦不禁,遂成私情。鄖女有孕,鄖夫人方纔知覺,乃禁絕伯比,不許入宮。使其女詐稱有病,屏居一室。及誕期已滿,產下一子,鄖夫人潛使侍人用衣服包裹,將出宮外,棄於夢澤之中。意欲瞞過鄖子,且不欲揚其女之醜名也。伯比羞慚,與其母歸於楚國去訖。其時鄖子適往夢澤田獵,見澤中有猛虎蹲踞,使左右放箭,箭從旁落,一矢不中,其虎全不動撣。鄖子心疑,使人至澤察之。回報:「虎方抱一嬰兒,喂之以乳,見人亦不畏避。」鄖子曰:「是神物,不可驚之。」獵畢而歸,謂夫人曰:「適至夢澤,見一奇事。」夫人問曰:「何事?」鄖子遂將猛虎乳兒之事,述了一遍。夫人曰:「夫君不知,此兒乃妾所棄也!」鄖子駭然曰:「夫人安得此兒而棄之?」夫人曰:「夫君勿罪。此兒實吾女與鬥甥所生。妾恐污吾女之名,故命侍者棄於夢澤。妾聞姜嫄履巨人跡而生子,棄之冰上,飛鳥以翼覆之,姜嫄以為神,收養成人,名之曰棄,官為后稷,遂為周代之祖。此兒既有虎乳之異,必是大貴人也。」鄖子從之,使人收回,命其女撫養。踰年,送其女於楚,與鬥伯比成親。楚人鄉談,呼乳曰「穀」,呼虎曰「於菟」。取乳虎為義,名其子曰穀於菟,表字子文。今云夢縣有於菟鄉,即子文生處也。穀於菟既長,有安民治國之才,經文緯武之略。父伯比,仕楚為大夫。伯比死,穀於菟嗣為大夫。及子元之死,令尹官缺。楚王欲用鬥廉,鬥廉辭曰:「方今與楚為敵者,齊也。齊用管仲甯戚,國富兵強。臣才非管寧之流明矣。王欲改紀楚政,與中原抗衡,非鬥穀於菟不可。」百官齊聲保奏:「必須此人,方稱其職。」楚王准奏,遂拜鬥穀於菟為令尹。楚王曰:「齊用管仲,號為仲父。今穀於菟尊顯於楚,亦當宇之。」乃呼為子文而不名。周惠王之十三年也。子文既為令尹,倡言曰:「國家之禍,皆由君弱臣強所致。凡百官采邑,皆以半納還公家。」子文先於鬥氏行之,諸人不敢不從。又以郢城南極湘潭,北據漢江,形勝之地,自丹陽徙都之,號曰郢都。治兵訓武,進賢任能。以公族屈完為賢,使為大夫,族人鬥章才而有智,使與諸鬥同治軍旅。以其子鬥班為申公。楚國大治。 齊桓公聞楚王任賢圖治,恐其爭勝中原,欲起諸侯之兵伐楚。問管仲,管仲對曰:「楚稱王南海,地大兵強,周天子不能制。今又任子文為政,四境安堵,非可以兵威得志也。且君新得諸侯,非有存亡興滅之德,深入人心,恐諸侯之兵,不為我用。今當益廣威德,待時而動,方保萬全。」桓公曰:「自我先君報九世之仇,剪滅紀國,奄有其地。鄣為紀附庸,至今未服,寡人欲並滅之,何如?」管仲曰:「鄣雖小國,其先乃太公之支孫,為齊同姓。滅同姓,非義也。君可命王子成父率大軍巡視紀城,示以欲伐之狀。鄣必畏而來降。是無滅親之名,而有得地之實矣。」桓公用其策,鄣君果畏懼求降。桓公曰:「仲父之謀,百不失一!」君臣正計議國事,忽近臣來報:「燕國被山戎用兵侵伐,特遣人求救。」管仲曰:「君欲伐楚,必先定戎。戎患既熄,乃可專事於南方矣。」畢竟桓公如何服戎,且聽下回分解。
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