東周列國志第二十一回 管夷吾、智をもって俞児を弁ずる/斉の桓公、兵をもって孤竹を定める (管夷吾智辨俞兒 齊桓公兵定孤竹)

山戎、燕を侵す

  • 話は変わって、山戎は北戎の一種で、令支に国を置き、離支ともいう。その西は燕、東南は斉魯である。令支は三国の間に位置し、地の険しさと兵の強さを恃んで、臣従も貢納もせず、しばしば中原を侵していた。以前にも斉の国境を侵したが、鄭の公子忽に敗られたことがあった。この時、斉侯が覇を図っていると聞き、ついに戎の兵一万騎を率いて燕国を侵し荒らし、燕が斉へ通じる道を絶とうとした。
  • 燕の荘公は防ぎきれず、間道を走らせて斉に急を告げた。斉の桓公が管仲に尋ねると、管仲は答えた。「今の患いは、南に楚あり、北に戎あり、西に狄あり、これらはみな中原の憂い、盟主の責めであります。たとえ戎が燕を病ませていなくとも、なおこれを討つことを考えるべきです。まして燕人が軍に攻められ、救いを求めているのですから」。桓公はそこで大軍を率いて燕を救うことにし、その軍が済水を過ぎるとき、魯の荘公がこれを魯済に迎えた。桓公は戎を伐つことを告げた。魯侯は言った。「君侯が豺狼を剪って北方を安んじられれば、わが国もその恩恵にあずかります。ただ燕人だけのことではありません。寡人も兵を出してお供したく存じます」。桓公は言った。「北方は険しく遠い地、寡人は君侯にご足労をおかけするには忍びません。もし功を遂げれば、それは君侯のご威光のおかげです。そうでなければ、そのとき君侯に兵をお借りするのも遅くはありますまい」。魯侯は「謹んで承ります」と言った。桓公は魯侯に別れを告げ、西北へ向けて進発した。

薊門関の会見と葵茲の兵站

  • さて令支の子(君主)、名は密盧といい、燕の境を蹂躙してすでにふた月に及び、子女を掠奪すること数え切れなかった。斉の大軍が来ると聞いて、囲みを解いて去った。桓公の兵が薊門関に至ると、燕の荘公が出迎え、斉侯の遠征の労をねぎらった。管仲は言った。「山戎は志を得て去りましたが、まだ挫折を経験していません。我が兵が退けば、戎兵は必ずまた来るでしょう。この機に乗じて討ち、北方一帯の患いを除くのがよいでしょう」。桓公は「よろしい」と言った。燕の荘公は自国の兵を率いて先鋒となることを願い出た。桓公は言った。「燕はちょうど兵に疲弊したばかり、どうして再び先鋒として敵陣へ突撃させるに忍びましょうか。君侯はしばらく後軍を率いて、後詰めとして寡人の軍の勢いを添えてくださるだけで十分です」。燕の荘公は言った。「ここから東へ八十里に、無終という国があります。戎の種族ではありますが山戎には従っておりません。招き寄せて道案内とすることができましょう」。桓公は多くの金や絹を出し、公孫隰朋を遣わしてこれを招いた。無終の子(君主)はすぐに大将虎児斑を遣わし、騎兵二千を率いて助戦に来させた。桓公はさらに厚く賞を与え、先鋒とした。
  • 二百里ほど行軍したころ、桓公は山路が険しく狭いのを見て、燕伯に尋ねた。燕伯は言った。「ここは葵茲という地で、北戎が出入りする要路です」。桓公は管仲と相談し、輜重糧食の半分を分けて葵茲に貯め、士卒に木を伐り土を盛らせて関を築かせ、鮑叔牙を留めて守らせ、輸送の任を委ねた。三日休兵し、疲れた者・病んだ者を落として、精鋭のみを用い、道を急いで進んだ。

令支の伏兵計と虎児斑の危機

  • さて令支の子、密盧は斉の兵が討伐に来ると聞き、その将速買を召して計を議した。速買は言った。「彼らは遠くから来て疲れ困っています。陣営がまだ定まらぬうちに乗じて、急に突けば、全勝を得られましょう」。密盧は彼に三千騎を与えた。速買は号令を伝え、四方に散って山谷の中に伏せ、斉兵の到来を待って事を起こそうとした。
  • 虎児斑の先鋒隊がまず到着し、速買はただ百余騎を率いて迎え撃った。虎児斑は奮い立ち、長柄の鉄瓜鎚を手に持ち、速買の頭を目がけて打ちかかった。速買は大声で「しばらく待て」と叫び、大桿刀を構えて相迎えた。数合戦ったところで速買はわざと敗れたふりをして林の中へ引き入れ、一声呼び子(指笛)を鳴らすと山谷じゅうがそれに応じ、伏兵が虎児斑の軍を二つに断ち切った。虎児斑は死に物狂いで戦ったが、馬もまた傷を負い、手をこまねいて縛られるばかりとなった。ちょうど桓公の大軍が到着し、王子成父が神のごとき威力を振るって速買の兵を殺し散らし、虎児斑を救い出した。速買は大敗して去った。
  • 虎児斑は先陣に自国無終の兵を率いていたが、多くの損失を出し、桓公に会うと恥じ入った顔をした。桓公は言った。「勝ち負けは常のこと、将軍は気にすることはない」。そして名馬を賜った。虎児斑は感謝してやまなかった。

伏龍山の攻防

  • 大軍は東へ三十里進み、伏龍山という地で、桓公と燕の荘公は山上に陣を結んだ。王子成父と賓須無は山下に二つの陣営を立て、みな大車を連ねて城とし、巡警を厳しくした。
  • 翌日、令支の子密盧は自ら速買を率い、騎兵一万余を率いて戦いを挑んできた。連続して数度突撃したが、いずれも車を連ねた囲いに阻まれて入ることができなかった。午後になり、管仲が山頭から見ると、戎兵は次第に数を減らし、みな馬から下りて地に横たわり、口汚く罵っていた。管仲は虎児斑の背をなでて言った。「将軍、今日こそ恥をすすぐことができますぞ」。虎児斑は「承知」と応えた。車を連ねた囲いが開くと、虎児斑は自国の人馬を率いて飛び出した。隰朋は言った。「戎兵に計があるのを恐れます」。管仲は言った。「わたしはすでに読み切っています」。すぐに王子成父に一軍を率いて左から出させ、賓須無に一軍を率いて右から出させ、両路で応援して、専ら伏兵を討たせた。
  • もともと山戎は伏兵の計を用いるのを常としていた。斉兵が守りを固めて動かないのを見て、谷中に兵を伏せ、わざと馬を下りて罵り、斉兵を誘おうとしたのである。虎児斑の馬が到るところ、戎兵はみな馬を捨てて逃げた。虎児斑がまさに追撃しようとしたとき、本営で鳴金(引き揚げの合図)が鳴ったのを聞き、すぐに馬を止めて戻った。密盧は虎児斑が追撃してこないのを見て、一声呼び子を鳴らして谷中の人馬を招き寄せ、力を尽くして攻めようとした。ところが王子成父と賓須無の両路の兵が到着して戎兵を散々に討ち破り、戎兵はまた大敗して戻り、多くの馬を失った。
  • 速買は計を献じて言った。「斉が進軍するには、必ず黄台山の谷口から入らねばなりません。わたしどもは木石でこれを塞ぎ、外側には多くの落とし穴や堀を掘り、大軍で守らせましょう。たとえ百万の大軍でも、飛び越えることはできますまい。伏龍山二十余里には水泉が全くなく、必ず濡水から水を汲まねばなりません。もし濡水の流れを堰き止めれば、彼らの軍中は水に乏しくなり、必ず乱れましょう。乱れれば必ず潰えます。わたしどもはその潰えに乗じて攻めれば、勝てないことはありません。一方で改めて孤竹国に救いを求め、兵を借りて助戦させれば、これは万全の策です」。密盧は大いに喜び、計の通りに行った。

聖泉の発見

  • さて管仲は戎兵が退いた後、三日間動きが見えないのを見て、心中疑いを抱いた。間諜に探らせると、報告があった。「黄台山の大路はすでに断ち塞がれています」。管仲は虎児斑を召して尋ねた。「他に入れる道はないか」。虎児斑は言った。「ここから黄台山までわずか十五里、まっすぐその国を突くことができます。もし別の道を求めるなら、西南から大きく回り、芝麻嶺を抜けて青山口に出て、また東に数里転じれば、そこが令支の巣穴です。ただ山は高く道は険しく、車馬の動きが不便です」。相談している最中、牙将連摯が報告に来た。「戎主がわれらの水汲みの道を断ち、軍中は水に乏しく困っております、いかがしましょう」。虎児斑は言った。「芝麻嶺は一帯みな山道で、数日でなければ到着しません。水を携えていかなければ、行くこと自体難しいでしょう」。
  • 桓公は兵士に山を鑿って水を取らせるよう命じ、先に水を得た者には重賞を与えると触れた。公孫隰朋が進み出て言った。「臣が聞くところでは、蟻の穴があるところには水があるといいます。蟻の巣のある所を見て掘るべきです」。兵士は各所を探したが、蟻の巣はなく、また報告に戻った。隰朋は言った。「蟻は冬には暖かい所に就くもの、山の陽(南面)に居ります。夏には涼しい所に就き、山の陰(北面)に居ります。今は冬の月ですから、必ず山の陽にあるはず。むやみに掘ってはいけません」。兵士がその言葉通りにすると、果たして山の中腹から水泉を掘り当て、その味は清らかで澄んでいた。桓公は言った。「隰朋はまさに聖人と言うべきだ」。そこでこの泉を聖泉と名づけ、伏龍山を龍泉山と改めた。軍中は水を得て歓呼して祝い合った。
  • 密盧は斉軍が水に乏しくなっていないと聞いて大いに驚いて言った。「中原の国々にはまさか神の助けでもあるのか」。速買は言った。「斉兵は水があるとはいえ、遠路を経て来ており、糧食は必ず続きません。われらが堅く守って戦わなければ、彼らは糧が尽きて自然に退くでしょう」。密盧はこれに従った。

芝麻嶺越えと令支の敗北

  • 管仲は賓須無に、葵茲へ戻って糧食を取ってくると偽らせ、虎児斑に道案内をさせて、一軍を率いて芝麻嶺へ進発させ、六日を期とした。また牙将連摯に、日々黄台山へ戦いを挑みに行かせ、密盧の兵を引きつけて疑わせないようにした。こうして六日、戎兵は一向に応戦しなかった。管仲は言った。「日数から計算すれば、賓将軍は西路にまもなく達しているはず。彼らが戦わない以上、われらも座して守ってばかりはいられない」。そこで士卒それぞれに一つの袋を背負わせ、中に土を詰め、まず人を遣って空の車二百乗を先に進ませ、落とし穴や堀に出会うたびに土袋で埋めさせた。大軍がそのまま谷口に至り、喊声を上げると、斉軍は木石を運びのけて進んだ。
  • 密盧は自ら患いがないと思い込み、日々速買と酒を飲んで楽しんでいた。突然斉軍が殺到したと聞いて、慌てて馬に跨り迎え撃とうとした。まだ交戦しないうちに、戎兵が報告した。「西路にもまた敵軍が殺到してきました」。速買は小路が破られたと知り、戦う心を失い、密盧を守って東南へ逃げた。賓須無は数里追いかけたが、山道が険しく、戎人が馬を飛ばすように速いのを見て、追いつけずに戻った。馬匹や武具、牛羊・帳幕の類は数え切れないほど遺棄され、すべて斉のものとなった。奪われた燕国の子女も数え切れないほど取り戻した。令支国の人々は、いまだかつてこのような軍威を見たことがなく、みな箪食壺漿(食べ物を捧げ)を持って馬前に降伏した。桓公は一人一人を慰撫し、降った夷人を一人も殺してはならぬと申し付けた。戎人は大いに喜んだ。
  • 桓公は降った戎人を召して尋ねた。「お前の主はこの後、どの国に投じるだろうか」。降戎は言った。「わが国は孤竹と隣国で、もとより親しく睦まじい仲です。近ごろも人を遣わして援兵を乞いましたがまだ届いておりません。今回は必ず孤竹に投じるでしょう」。桓公は孤竹の強弱と道のりの遠近を尋ねた。降戎は言った。「孤竹は東南の大国で、商朝の時代から城郭を持っております。ここから約百余里、卑耳という名の渓谷があります。渓を過ぎればそこは孤竹の国境内です。ただ山道が険しく難行するばかりです」。桓公は言った。「孤竹は山戎に味方して暴虐を行っている。すでに近くにあるからには、まずこれを討つべきだ」。ちょうど鮑叔牙が牙将高黒を遣わし、干し飯五十車を運んで来た。桓公はすぐに高黒を軍前にとどめて用いた。降った戎人の中から精鋭千人を選び、虎児斑の配下に付けて、先の損失分を補わせた。三日休兵した後、出発した。

孤竹国での密盧

  • さて密盧らは孤竹に行き着き、その君主答里呵に会うと、地に倒れ伏して泣き、こう詳しく訴えた。「斉兵は強さを恃んでわが国を侵し奪いました。仇討ちの兵を乞いたく存じます」。答里呵は言った。「わがほうはまさに兵を起こして助けようとしていたのだが、少し体調が悪く、数日遅れてしまい、思いもよらずお前が大きな損害を受けたわけだ。ここには卑耳の渓があり、深くて渡ることができない。わがほうは竹のいかだをすべて拘収して港中に取り込んである。斉兵に翼が生えても飛び越えられまい。彼らが退兵した後、俺とお前とで兵を率いて攻め入り、お前の国土を回復させれば、これほど確実で好都合なことはあるまい」。大将黄花元帥は言った。「彼らが筏を造って渡ってくることを恐れます。兵を渓口に置いて昼夜巡回させ、事なきよう保つべきです」。答里呵は言った。「彼らが筏を造れば、俺が知らぬはずがあろうか」。とうとう黄花の言葉を聞き入れなかった。

険路の焼き払いと上山下山の歌

  • さて斉の桓公の大軍は出発し、十里も行かないうちに、岩のごつごつした山々が道に連なり、怪石が高くそびえ、草木が生い茂り、竹薮が道を塞いでいるのが見えた。詩がこれを証している。

(詩:険しく曲がりくねった山道が青雲に接し、怪石がそびえて道もわからぬほどで、異民族の者でも馬を下りねばならず、石窟に虎が潜んでいはしないかと案じるほどだと詠う)

  • 管仲は硫黄・焔硝など引火する物を取り寄せさせ、草木の間に撒いて火を放たせた。ぱちぱちと激しい音を立てて燃え広がり、まことに草木は根も残らず、狐兎も影を絶ち、火光は天を突き、五日五夜消えなかった。火が消えた後、山を穿って道を開かせ、車の通行に備えさせた。諸将は「山は高く険しく、車を進めるのは骨が折れます」と申し出た。管仲は言った。「戎馬は駆けるのに便利だが、車でなければこれを制することはできない」。そこで上山・下山の歌を作り、軍人に歌わせた。上山の歌にはこうある。

(詩:山は高くそびえ道は曲がりくねり、木々は枯れ立ち頑固な石垣のよう、雲は薄く日は寒々として、我らは車を駆って険しい峰を登る、鳳伯が馭者となり俞児が竿を操り、飛ぶ鳥のごとく羽が生えたようで、山頂を越えることも難事ではないと詠う)

下山の歌にはこうある。

(詩:上りは難しいが下りは易しく、車輪は環のごとく蹄は物を落とすがごとく速く、轟音を立て人々は息を吐きつつ、幾つもの曲がりを経てたちまち平地に至り、戎の巣を打ち砕いて狼煙を消し去り、孤竹に功を刻んで万代に伝えると詠う)

俞児の出現

  • 人夫たちは歌い出すと、互いに唱和し合い、車輪を転がすように速く進んだ。桓公は管仲・隰朋らとともに卑耳の峰に登り、上り下りの地勢を見渡した。桓公は嘆じて言った。「寡人は今日、人力は歌によって奮い立たせられるものだと知った」。管仲は答えた。「臣は昔、檻車に囚われていた時、魯人に追われることを恐れ、やはり歌を作って軍夫に教え、楽しんで疲れを忘れさせ、それで一日に二日分の道を進む功を得たことがあります」。桓公は「その理由は何か」と尋ねた。答えて言った。「およそ人は体を労すれば精神が疲れ、精神を悦ばせれば体のことを忘れるものです」。桓公は言った。「仲父は人情に通じること、ここまでとは」。そこで車と人夫を急がせ、一斉に進発した。
  • いくつかの山頭を過ぎ、また一つの嶺を上ったところ、前方の大小の車がすべて塞がって進めなくなっていた。兵士が報告した。「両側は天然の石壁で、中間の一本道は単騎しか通れず、車を通せません」。桓公は恐れる顔つきになり、管仲に言った。「ここにもし伏兵があれば、寡人は必ず敗れよう」。まさに躊躇していると、突然山の窪みから一つの物が現れ出た。桓公が目を凝らして見ると、人のようで人でなく、獣のようで獣でもなく、身の丈一尺余り。朱の衣に黒い冠をかぶり、両足を露わにし、桓公の面前で何度も拱手して礼をし、まるで出迎えるかのような様子であった。それから右手で衣の裾をつまみ上げ、まっすぐ石壁の中間へ疾走して去った。桓公は大いに驚き、管仲に尋ねた。「卿は何か見えたか」。管仲は「臣には何も見えませんでした」と答えた。桓公はその形状を語った。管仲は言った。「それはまさに臣が作った歌の詞にある『俞児』というものです」。桓公は「俞児とは何か」と尋ねた。管仲は言った。「臣が聞くところでは、北方に登山の神があり、名を『俞児』といい、覇王となる主君があれば現れるといいます。君がご覧になったのは、おそらくそれでしょう。拱手して出迎えたのは、君に行って討伐せよということを示すものです。衣の裾をつまんだのは、前方に水があることを示すものです。右手を使ったのは、水の右側は必ず深いので、君に左へ向かうよう教えているのです」。髯翁(作者の分身的評者)に俞児を知り当てた管仲を論じる詩がある。

(詩:春秋の典籍は数えれば知れることだが、仲父はどこから俞児を識り得たのか、並はずれた人が怪異な出来事を伝えたなどということがあろうか、張華の『博物志』もすべて疑わしいと詠う)

渓を渡って孤竹へ

  • 管仲はさらに言った。「水に阻まれた以上、幸い石壁が守るに足ります。しばらく山上に屯し、人を遣って水勢を明らかにさせ、それから兵を進めましょう」。水を探る者が行って久しく、戻って報告した。「山を下って五里足らずのところが卑耳渓です。渓水は大きく深く、冬でも涸れません。もとは竹のいかだで渡っていましたが、今は戎主が残らず取り上げて港に引き揚げてしまいました。右へ行くほど水は深くなり、一丈余りどころではありません。左へ約三里行けば、水面は広いものの浅く、渡っても膝を没しない程度です」。桓公は手を打って言った。「俞児の予兆が当たった」。燕の荘公は言った。「卑耳渓に渡れる浅瀬があるとは聞いたことがありません。これはおそらく神が君侯の成功を助けたのでしょう」。桓公は「ここから孤竹城まで、道はどれほどか」と尋ねた。燕の荘公は言った。「渓を渡って東へ行くと、まず団子山、次に馬鞭山、また次に双子山と、三山が連なり、約三十里です(これは商朝の孤竹三君の墓です)。三山を過ぎて、さらに二十五里行けば無棣城、すなわち孤竹国君の都です」。
  • 虎児斑は自軍を率いて先に渡ることを願い出た。管仲は言った。「兵が一箇所にまとまって行動し、万一敵に遭えば進退両難になる。二手に分けて進むべきだ」。そこで軍人に竹を伐らせ、藤で貫かせると、たちまちのうちに筏が数百作られた。車を残して筏の運搬に使い、兵士に牽かせた。山を下り、軍馬を二隊に分け、王子成父は高黒とともに一軍を率い、右から筏に乗って渡り正兵となり、公子開方・豎貂は桓公自身に従って後詰めとして呼応し、賓須無は虎児斑とともに一軍を率い、左から水を渡って奇兵となり、管仲は連摯とともに燕の荘公に従って後詰めとして呼応した。いずれも団子山の下で集合することとした。

団子山の戦い

  • さて答里呵は無棣城の中にあって、斉兵の動静を知らなかった。小者を渓へ遣って様子を探らせたところ、渓一面が竹のいかだで埋め尽くされ、兵馬がしきりに渡っているのを見て、慌てて城中に報告した。答里呵は大いに驚き、すぐに黄花元帥に兵五千を率いて防がせた。密盧は言った。「俺はここで功を立てられずにいる。速買を率いて先鋒となりたい」。黄花元帥は言った。「たびたび敗れた者と、ともに事を行うのは難しい」と言い放ち、馬に跨って直ちに出発した。答里呵は密盧に言った。「西北の団子山は東からの要路である。賢君臣にわずらわせてこれを守り、機を見て呼応し救援してほしい。わがほうも後から向かう」。密盧は口では承知したものの、黄花元帥に侮られたことを恨み、心中には不満を抱いていた。
  • さて黄花元帥の兵はまだ渓口に到達しないうちに、高黒の先鋒隊に出会った。両軍は交戦した。高黒は黄花に勝てず、逃げようとしたところに、王子成父がすでに到着し、黄花は高黒を放って王子成父と戦い始めた。五十余合の激戦を経ても勝負がつかなかった。後方の斉侯の大軍がすべて到着し、公子開方は右から、豎貂は左から、一斉に押し寄せた。黄花元帥は心が慌て、軍を捨てて逃げた。五千の人馬は斉兵に大半を殺し尽くされ、残りは全て降った。黄花は単騎で逃走し、団子山近くまで来ると、兵馬が林のように並び、斉・燕・無終の三国の旗が翻っているのが見えた。これは賓須無らが水を渡り、先に団子山を占拠していたのだった。黄花はあえて山を越えようとせず、馬を捨てて樵夫に扮し、小道を伝って山を這い登って脱出した。斉の桓公は大勝し、兵を団子山へ進め、左路の軍馬とともに一処に陣を張り、改めて征討を議した。

令支の滅亡

  • さて密盧は軍を率いてようやく馬鞭山に着いたところ、先陣が報告した。「団子山はすでに斉兵に占領されました」。やむなく馬鞭山に屯営した。黄花元帥は逃げてきて馬鞭山に至り、自軍と思い込んで陣中に入ったが、そこは密盧の陣であった。密盧は言った。「元帥はたびたび勝ってきた将なのに、なぜ単身でここに来たのか」。黄花は無限に恥じ入った。酒食を求めたが得られず、炒った麦一升を与えられた。また馬を求めたが、蹄の割れた馬を与えられた。黄花は大いに恨みを抱き、無棣城に戻って答里呵に会い、兵を求めて仇を報じることを願った。答里呵は言った。「わたしが元帥の言葉を聞かなかったせいで、このようなことになった」。黄花は言った。「斉侯が恨んでいるのは令支です。今日の計としては、ただ密盧君臣の首を斬って斉君に献上し、和睦を結ぶよりほかありません。それで戦わずして退かせられましょう」。答里呵は言った。「密盧は困窮してわがほうを頼り身を寄せてきた者、どうしてこれを売ることに忍びようか」。宰相の兀律古が進み出て言った。「臣に一計あり、敗を転じて功となすことができます」。答里呵は「どのような計か」と尋ねた。兀律古は言った。
  • 「国の北に旱海という地があり、また迷谷ともいいます。砂地で、見渡す限り水も草もありません。もとより国の死者はここに棄てられ、白骨が累々と横たわり、白昼でも幽鬼が見えるほどです。また時折冷たい風が吹き荒れ、風が過ぎる所では人馬とも立っていられず、人に当たれば毛髪に触れただけでたちまち死んでしまいます。また風砂が巻き起こると、目の前も見分けがつきません。もし誤って迷谷に入れば、谷路は入り組んで難しく認めがたく、急いでも出られず、加えて毒蛇猛獣の害もあります。まことに一人に降ったふりをさせ、彼の地へ誘い込めば、戦わずして八九割は死んでしまいましょう。われらは軍馬を整え座して敵の疲弊を待つ。これこそ妙計ではありませんか」。答里呵は言った。「斉兵はそうそうその地へ行くだろうか」。兀律古は言った。「主公は後宮の妻子ご一族とともにしばらく陽山に隠れ、城中の住民にはみな山谷へ避難させ、町を空にさせなさい。それから降った者に斉侯へ告げさせ、『わが主は砂地へ逃れて兵を借りに行った』とだけ言わせるのです。彼らは必ず追いかけてくるでしょう。われらの計に落ちるのです」。
  • 黄花元帥は喜んでこの役を志願した。さらに騎兵千人を与えられ、計の通りに行った。黄花元帥は道中で考えた。「密盧の首を斬らなければ、斉侯はどうして信じるだろうか。もし成功すれば、主公もまた罪を加えることはあるまい」。そこで馬鞭山に至り密盧に会った。さて密盧はまさに斉兵と持久戦のさなかで、黄花の救援が来たことを喜び、喜んで出迎えた。黄花は不意を突いて、馬上のまま密盧の首を斬った。速買は激怒し、刀を掴んで馬に乗り黄花に挑んだ。両軍の兵はそれぞれ主に加勢し、自ら殺し合い、互いに死傷を出した。速買は勝てないと見て、単騎で虎児斑の陣中へ逃げ込み投降した。虎児斑はこれを信じず、兵士に命じて縛らせ斬らせた。哀れなことに令支国の君臣は、ただ中原を侵し乱した罪により、一朝にして非業の死を遂げた。史官の詩がある。

(詩:山には黄台があり水には濡水があり、周囲百里に令支が居城を置いていた、燕山で掠奪したものは今どこにあるのか、国滅び身も亡んだことをただ嘆くばかりだと詠う)

旱海の遭難と老馬識途

  • 黄花元帥は密盧の残兵を併せて斉軍のもとへ直行し、密盧の首級を献上した。詳しく次のように述べた。「国主は国を挙げて砂地へ逃げ、外国に兵を借りようとしています。臣は投降を勧めましたが聞き入れられませんでした。今、自ら密盧の首を斬ってご陣営に差し出しました。乞い願わくは小卒に取り立てていただき、自分の部隊の兵馬を率いて道案内となり、国主を追撃して微力を尽くしたく存じます」。桓公は密盧の首級を見て、信じないわけにはいかなかった。すぐに黄花を先鋒とし、大軍を進発させ、まっすぐ無棣に至ると、果たして空城であり、その言葉が偽りでないことをますます信じた。答里呵が遠くへ逃げることを恐れ、燕の荘公の一隊のみを城の守りに残し、その他をすべて発し、夜を徹して追撃した。
  • 黄花は先に道を探ることを願い出て、桓公は高黒を同行させ、大軍がその後に続いた。すでに砂地に着いたところで、桓公は軍を急がせた。しばらく行っても黄花の消息がなかった。見る間に日が暮れ、ただ見えるのは白茫々とした一面の平砂、黒々とした幾重もの陰惨な霧、冷たく寂しい数群の鳴く幽鬼、荒々しく吹きすさぶ幾陣もの悲しい風であった。寒気が身に迫り、身の毛もよだつばかりで、狂風が地を巻き上げ、人馬ともに驚き、軍馬には邪気に当たって倒れる者が多く出た。この時、桓公と管仲は馬を並べて進んでいた。管仲は桓公に言った。「臣は久しく北方に旱海というものがあると聞いています。極めて恐ろしい場所だと申しますが、おそらくここがそれでしょう。前進すべきではありません」。桓公は急いで軍を収めるよう令を伝えたが、前後の隊はすでにばらばらになっていた。持ってきた火種は風に遭うとすぐ消え、吹いても燃え上がらなかった。管仲は桓公を守りながら馬首を巡らせて急ぎ走った。従う兵士たちはそれぞれ鉦や太鼓を打ち鳴らし、一つには陰気を払うため、二つにはそれぞれの隊が音を聞いて集まるようにするためであった。ただ天は暗く地は惨たる有様で、東西南北まったく見分けがつかなかった。どれほど走ったかもわからないうちに、幸いにも風が止み霧が晴れ、空に出たばかりの細い月が半輪、姿を現した。諸将は鉦鼓の音を聞いて追いついてきて、一箇所に屯営した。夜が明けるまで待ち、諸将を点呼すると欠けはなかったが、隰朋一人だけが見当たらなかった。軍馬は七つ八つに寸断され、損失は数え切れなかった。幸いにも冬の盛りで蟄伏の時期であったため毒蛇は出ず、軍の喧騒で猛獣も潜み隠れていたが、そうでなければ、まことに死傷せずに残った者はわずかであっただろう。
  • 管仲は山谷が険悪で全く人の通う気配がないのを見て、急いで道を探させた。ところが東へ西へと駆けずり回っても、曲がりくねるばかりで出口が全く見つからず、桓公は心中すでに焦りを覚えていた。管仲は進み出て言った。「臣が聞くところでは、老馬は道を知るといいます。無終は山戎と国境を接し、その馬は多く漠北から来たものです。虎児斑に老馬数頭を選ばせ、その行く先を見て随えば、道を得られましょう」。桓公はその言葉に従い、老馬数頭を取って先に放つと、曲がりくねりながらも、ついに谷口を抜け出た。髯翁の詩がある。

(詩:蟻は水を知り馬は道を知る、異類でも人の危難を助けることができるのに、笑うべきは浅はかな者が自分の考えばかりを頼み、誰が己を捨てて忠言を聞き入れるだろうかと詠う)

高黒の忠節

  • さて黄花元帥は斉将高黒を先導して、まっすぐ陽山の道へ進んだ。高黒は後続の大軍が来ないのを見て、黄花にしばらく留まって一斉に進むのを待つよう言った。黄花はひたすら急かした。高黒は心中疑い、馬を止めて進まなかったところ、黄花に捕らえられ、孤竹の主答里呵の前に連れて来られた。黄花は密盧を殺した事実を隠し、ただこう言った。「密盧は馬鞭山で兵敗れて殺されました。臣は詐降の計を用いて、すでに斉侯の大軍を旱海に陥れました。また斉将高黒を捕らえてここに連れてまいりました。ご処分をお待ちしております」。答里呵は高黒に言った。「お前がもし降伏すれば、重く用いよう」。高黒は目を剥いて大いに罵って言った。「わたしは代々斉の恩を受けている。どうしてお前たち犬や羊のような輩に臣従できようか」。さらに黄花を罵った。「お前はわたしをここへ誘い込んだが、わたしは一身の死など惜しくもない。わが主の兵がここに来る日は近い。お前ら君臣は国滅び身も亡ぶことになる。悔いても及ばぬだろう」。黄花は大いに怒り、剣を抜いて自らその首を斬った。高黒はまことの忠臣であった。
  • 答里呵は再び軍容を整え、無棣城を奪い返しに来た。燕の荘公は兵が少なく城も空であったため守り切れず、人に命じて四方から火を放たせた。乱に乗じて城を脱出し、まっすぐ団子山の下に退いて陣を張った。

無棣城の攻略

  • さて斉の桓公の大軍は迷谷を出て、十里も行かないうちに一軍に出会った。人を遣って探らせると、公孫隰朋であった。そこで兵を合流させ、まっすぐ無棣城へ向かった。道中、住民が老いた者を助け幼い子を抱いて次々と歩いているのを見た。管仲が人を遣って問わせると、答えて言った。「孤竹の主が燕兵を追い払い、すでに城に戻りましたので、われらは先に山谷へ避難していましたが、今また元の住まいへ帰るところです」。管仲は言った。「わたしにこれを破る計がある」。そこで虎児斑に腹心の兵士数人を選ばせ、城中の住民に扮して、人々に紛れて城中へ潜り込ませ、夜半に火を挙げることで合図とすることとした。虎児斑が計に従って出発した後、管仲は豎貂に南門を、連摯に西門を、公子開方に東門を攻めさせ、北門だけを彼らの逃げ道として残した。そして王子成父と隰朋にそれぞれ二手に分けて北門の外に伏せさせ、答里呵が城を出たところを待ち構えて捕らえ殺させることとした。管仲と斉の桓公は城から十里の地に陣を張った。
  • この時、答里呵はちょうど城中の火を消し止め、住民を呼び戻して生業に復させたところであった。一方で黄花に兵馬を整えさせ、戦いに備えさせた。その夜、黄昏時になり、突然砲声が四方に上がり、報告があった。「斉兵がすでに到着し、城門を包囲しました」。黄花は斉兵がこれほど早く来ようとは予期せず、大いに驚き、軍民を駆り立てて城壁に登り守らせた。夜半に至り、城中に四五箇所から火の手が上がり、黄花は放火した者を捜索させた。虎児斑は十余人を率いてまっすぐ南門に至り、城門を打ち砕き、豎貂の軍馬を招き入れた。黄花は事態が収拾つかないと知り、答里呵を支えて馬に乗せ、逃げ道を探させたが、北路に兵がいないと聞き、北門を開いて逃げ去った。二里も行かないうちに、松明が縦横に見え、太鼓の音が大地を震わせ、王子成父と隰朋の二手の軍馬が殺到した。開方・豎貂・虎児斑は城を得ると、それぞれ兵を率いて追撃した。黄花元帥は死力を尽くして戦ったが、力尽きて殺された。答里呵は王子成父に捕らえられた。兀律古は乱軍の中で死んだ。夜明けになり、桓公を迎えて入城させた。桓公は答里呵の悪を助けた罪を数え上げ、自ら首を斬り、北門に懸けて戎夷を戒め、住民を安撫した。戎人が高黒の屈せず殺された事を話すと、桓公は大いに嘆息し、すぐにその忠節を記録し、帰国してから改めて遺族への恩典を議することとした。

燕への論功行賞

  • 燕の荘公は斉侯の兵が勝って入城したと聞き、自ら団子山から馬を飛ばして会いに来た。祝賀が終わると、桓公は言った。「寡人は君侯の急に赴き、千里の道を跋渉して、幸いにも成功を収めました。令支・孤竹は一朝にして滅び、五百里の地を開きました。しかし寡人が他国を越えてこれを領有することは、道理として許されません。どうかこれを君侯の封地に加えていただきたい」。燕の荘公は言った。「寡人は君侯のご威光のおかげで宗廟社稷を保ち通すことができました。それで十分です。どうして地を増すことなど望みましょうか。ただ君侯のお計らいのままに」。桓公は言った。「北の辺境は僻遠の地。もし改めて異民族を立てれば、必ずまた叛くことになろう。君侯は辞退なさるな。東の道はすでに通じている。先祖召公の業を勉め修め、周に貢献し、長く北方の藩屏となってくれれば、寡人にとってもこの上ない栄誉となる」。燕伯はついに辞退せずに受けた。
  • 桓公は無棣城で三軍に大いに賞を与え、無終国が助戦の功があったことから、小泉山下の田を与えた。虎児斑は拝謝して先に帰った。桓公は五日休兵してから出発し、再び卑耳の渓を渡り、石壁のところで車を下ろし、整え終えると、ゆっくりと進んだ。令支の一帯が荒れた煙と燃え残りの跡ばかりであるのを見て、思わず胸を痛め、燕伯に言った。「戎主の無道が草木にまで及んだ。戒めなければならない」。鮑叔牙が葵茲関から出迎えると、桓公は言った。「兵糧が不足しなかったのは、みな大夫の功である」。また燕伯に葵茲関に守備を置くよう申し付け、斉の兵を撤収させた。
  • 燕伯は桓公を国境まで見送り、名残惜しくてついに斉の国境に五十余里も入り込んで送ってしまった。桓公は言った。「昔から諸侯が互いに送るときは、国境を出ないものだ。寡人は燕君に礼を欠くわけにはいかない」。そこで送ってきた所までの地を割いて燕に与え、過ちを謝する意を表した。燕伯は固辞したが受け入れられず、やむなく地を受けて帰った。その地に城を築き、燕留と名づけた。斉侯の徳を燕にとどめるという意味である。燕はこれより西北に五百里、東に五十余里の地を増し、初めて北方の大国となった。諸侯は桓公が燕を救い、しかもその地を貪らなかったことから、みな斉の威を畏れ、その徳に感じ入った。史官の詩がある。

(詩:千里の彼方まで兵を率いてけだもののような戎を治め、周王への職貢を果たさせようとする、武を濫用することが良策でないなどと言ってはならない、王を尊び夷を攘うことこそが天下を一つに正す道だと知るべきだと詠う)

魯荘公の薨去

  • 桓公は魯済まで戻り、魯の荘公が水辺で出迎えて労い、宴を設けて祝賀した。桓公は荘公との親しさから、特に二戎で得た捕獲物の半分を分けて魯に贈った。荘公は管仲に采邑があり、名を小穀といい、魯の国境近くにあることを知り、人夫を徴発してこれに代わって城を築かせ、管仲の意を喜ばせた。時に魯の荘公三十二年、周の恵王の十五年であった。この年の秋八月、魯の荘公が薨じ、魯国は大いに乱れた。魯のことがどうなるか知りたければ、次の回をご覧いただきたい。
原文(底本)
話說山戎乃北戎之一種,國於令支,亦曰離支。其西為燕,其東南為齊魯。令支界於三國之間,恃其地險兵強,不臣不貢,屢犯中國。先時曾侵齊界,為鄭公子忽所敗。至是聞齊侯圖伯,遂統戎兵萬騎,侵擾燕國,欲絕其通齊之路。燕莊公抵敵不住,遣人走間道告急於齊。齊桓公問於管仲,管仲對曰:「方今為患,南有楚,北有戎,西有狄。此皆中國之憂,盟主之責也。即戎不病燕,猶思膺之。況燕人被師,又求救乎?」桓公乃率師救燕,師過濟水,魯莊公迎之於魯濟。桓公告以伐戎之事。魯侯曰:「君剪豺狼,以靖北方,敝邑均受其賜,豈惟燕人?寡人願索敝賦以從。」桓公曰:「北方險遠之地,寡人不敢勞君玉趾。若遂有功,君之靈也。不然,而借兵於君未晚。」魯侯曰:「敬諾。」桓公別了魯侯,望西北進發。

  卻說令支子名密盧,蹂躪燕境,已及二月,擄掠子女,不可勝計。聞齊師大至,解圍而去。桓公兵至薊門關,燕莊公出迎,謝齊侯遠救之勞。管仲曰:「山戎得志而去,未經挫折,我兵若退,戎兵必然又來。不如乘此伐之,以除一方之患可也。」桓公曰:「善。」燕莊公請率本國之兵為前隊。桓公曰:「燕方經兵困,何忍復令衝鋒?君姑將後軍,為寡人聲勢足矣。」燕莊公曰:「此去東八十里,國名無終,雖戎種,不附山戎,可以招致,使為嚮導。」桓公乃大出金帛,遣公孫隰朋召之。無終子即遣大將虎兒斑,率領騎兵二千,前來助戰。桓公復厚賞之,使為前隊。約行將二百里,桓公見山路逼險,問於燕伯。燕伯曰:「此地名葵茲,乃北戎出入之要路也。」桓公與管仲商議,將輜重資糧,分其一半,屯聚於葵茲。令士卒伐木築土為關,留鮑叔牙把守,委以轉運之事。休兵三日,汰下疲病,只用精壯,兼程而進。

  卻說令支子密盧聞齊兵來伐,召其將速買計議。速買曰:「彼兵遠來疲困,乘其安營未定,突然沖之,可獲全勝。」密盧與之三千騎。速買傳下號令,四散埋伏於山谷之中,只等齊兵到來行事。虎兒斑前隊先到,速買只引百餘騎迎敵。虎兒斑奮勇,手持長柄鐵瓜鎚,望速買當頭便打。速買大叫:「且慢來!」亦挺大桿刀相迎。略鬥數合,速買詐敗,引入林中,一聲呼哨,山谷皆應,把虎兒斑之兵,截為二段。虎兒斑死戰,馬復被傷,束手待縛。恰遇齊侯大軍已到,王子成父大逞神威,殺散速買之兵,將虎兒斑救出。速買大敗而去。虎兒斑先領戎兵,多有損折,來見桓公,面有愧色。桓公曰:「勝負常事,將軍勿以為意。」乃以名馬賜之。虎兒斑感謝不已。大軍東進三十里,地名伏龍山,桓公和燕莊公結寨於山上。王子成父賓須無立二營於山下。皆以大車聯絡為城,巡警甚嚴。次日,令支子密盧親自帶領速買,引著騎兵萬餘,前來挑戰。一連沖突數次,皆被車城隔住,不能得入。延至午後,管仲在山頭望見戎兵漸漸稀少,皆下馬臥地,口中謾罵。管仲撫虎兒斑之背曰:「將軍今日可雪恥也!」虎兒斑應諾。車城開處,虎兒斑引本國人馬飛奔殺出。隰朋曰:「恐戎兵有計。」管仲曰:「吾已料之矣!」即命王子成父率一軍出左,賓須無率一軍出右,兩路接應,專殺伏兵。原來山戎慣用埋伏之計,見齊兵堅壁不動,乃伏兵於谷中,故意下馬謾罵,以誘齊兵。虎兒斑馬頭到處,戎兵皆棄馬而奔。虎兒斑正欲追趕,聞大寨鳴金,即時勒馬而回。密盧見虎兒斑不來追趕,一聲呼哨,招引谷中人馬,指望悉力來攻。卻被王子成父和賓須無兩路兵到,殺得七零八落,戎兵又大敗而回,乾折了許多馬匹。速買獻計曰:「齊欲進兵,必由黃臺山谷口而入。吾將木石擂斷,外面多掘坑塹,以重兵守之,雖有百萬之眾,不能飛越也。伏龍山二十餘里皆無水泉,必仰汲於濡水。若將濡流壩斷,彼軍中乏水飲,必亂,亂則必潰。吾因潰而乘之,無有不勝。一面再遣人求救於孤竹國,借兵助戰,此萬全之策也。」密盧大喜,依計而行。

  卻說管仲見戎兵退後,一連三日不見動靜,心下懷疑。使諜者探聽。回言:「黃臺山大路已斷塞了!」管仲乃召虎兒斑問曰:「尚有別徑可入否?」虎兒斑曰:「此去黃臺山不過十五里,便可以直擣其國。若要尋別徑,須從西南打大寬轉,由芝麻嶺抄出青山口,復轉東數里,方是令支巢穴。但山高路險,車馬不便轉動耳。」正商議間,牙將連摯稟道:「戎主斷吾汲道,軍中乏水,如何?」虎兒斑曰:「芝麻嶺一派都是山路,非數日不到。若無水攜載,亦自難往。」桓公傳令,教軍士鑿山取水,先得水者重賞。公孫隰朋進曰:「臣聞蟻穴居知水,當視蟻蛭處掘之。」軍士各處搜尋,並無蟻蛭,又來稟復。隰朋曰:「蟻冬則就暖,居山之陽,夏則就涼,居山之陰。今冬月,必於山之陽,不可亂掘。」軍士如其言,果於山腰掘得水泉,其味清洌。桓公曰:「隰朋可謂聖矣!」因號其泉曰聖泉,伏龍山改為龍泉山。軍中得水,歡呼相慶。密盧打聽得齊軍未嘗乏水,大駭曰:「中國豈有神助耶?」速買曰:「齊兵雖然有水,然涉遠而來,糧必不繼。吾堅守不戰,彼糧盡自然退矣。」密盧從之。管仲使賓須無假託轉回葵茲取糧,卻用虎兒斑領路,引一軍取芝麻嶺進發,以六日為期。卻教牙將連摯,日往黃臺山挑戰,以綴密盧之兵,使之不疑。如此六日,戎兵並不接戰。管仲曰:「以日計之,賓將軍西路將達矣。彼既不戰,我不可以坐守。」乃使士卒各負一囊,實土其中,先使人駕空車二百乘前探,遇塹坑處,即以土囊填滿。大軍直至谷口,發聲喊,齊將木石搬運而進。密盧自以為無患,日與速買飲酒為樂。忽聞齊軍殺入,連忙跨馬迎敵。未及交鋒,戎兵報:「西路又有敵軍殺到!」速買知小路有失,無心戀戰,保著密盧望東南而走。賓須無追趕數里,見山路崎嶇,戎人馳馬如飛,不及而還。馬匹器仗,牛羊帳幕之類,遺棄無算,俱為齊有。奪還燕國子女,不可勝計。令支國人,從未見此兵威,無不簞食壺漿,迎降於馬首。桓公一一撫慰,吩咐不許殺戮降夷一人。戎人大悅。桓公召降戎問曰:「汝主此去,當投何國?」降戎曰:「我國與孤竹為鄰,素相親睦,近亦曾遣人乞師未到,此行必投孤竹也。」桓公問孤竹強弱並路之遠近。降戎曰:「孤竹乃東南大國,自商朝便有城郭。從此去約百餘里,有溪名曰卑耳。過溪便是孤竹界內。但山路險峻難行耳。」桓公曰:「孤竹黨山戎為暴,既在密邇,宜前討之。」適鮑叔牙遣牙將高黑運乾糒五十車到,桓公即留高黑軍前聽用。於降戎中挑選精壯千人,付虎兒斑帳下,以補前損折之數。休兵三日,然後起程。

  再說密盧等行至孤竹,見其主答里呵,哭倒在地,備言:「齊兵恃強,侵奪我國,意欲乞兵報仇。」答里呵曰:「俺這裏正欲起兵相助,因有小恙,遲這幾日,不意你吃了大虧。此處有卑耳之溪,深不可渡。俺這裏將竹筏盡行拘回港中,齊兵插翅亦飛不過。俟他退兵之後,俺和你領兵殺去,恢復你的疆土,豈不穩便?」大將黃花元帥曰:「恐彼造筏而渡,宜以兵守溪口,晝夜巡行,方保無事。」答里呵曰:「彼若造筏,吾豈不知?」遂不聽黃花之言。

  再說齊桓公大軍起程,行不十里,望見頑山連路,怪石嵯峨,草木蒙茸,竹箐塞路。有詩為證:

    盤盤曲曲接青云,怪石嵯岈路不分。任是胡兒須下馬,還愁石窟有山君。

管仲教取硫黃焰硝引火之物,撒入草樹之間,放起火來。咇咇剝剝,燒得一片聲響。真個草木無根,狐兔絕影,火光透天,五日夜不絕。火熄之後,命鑿山開道,以便進車。諸將稟稱:「山高且險,車行費力。」管仲曰:「戎馬便於驅馳,惟車可以制之。」乃製上山下山之歌,使軍人歌之。《上山歌》曰:

    山嵬嵬兮路盤盤,木濯濯兮頑石如欄。雲薄薄兮日生寒,我驅車兮上巉岏。鳳伯為馭兮俞兒操竿,如飛鳥兮生羽翰,跋彼山巔兮不為難。

《下山歌》曰:

    上山難兮下山易,輪如環兮蹄如墜。聲轔轔兮人吐氣,歷幾盤兮頃刻而平地。擣彼戎廬兮消烽燧,勒勳孤竹兮億萬世。

人夫唱起歌來,你唱我和,輪轉如飛。桓公與管仲隰朋等,登卑耳之巔,觀其上下之勢。桓公嘆曰:「寡人今日知人力可以歌取也。」管仲對曰:「臣昔在檻車之時,恐魯人見追,亦作歌以教軍夫,樂而忘倦,遂有兼程之功。」桓公曰:「其故何也?」對曰:「凡人勞其形者疲其神,悅其神者忘其形。」桓公曰:「仲父通達人情,一至於此!」於是催趲車徒,一齊進發。行過了幾處山頭,又上一嶺,只見前面大小車輛,俱壅塞不進。軍士稟稱:「兩邊天生石壁,中間一徑,止容單騎,不通車輛。」桓公面有懼色,謂管仲曰:「此處倘有伏兵,吾必敗矣!」正在躊躇,忽見山凹裏走出一件東西來。桓公睜眼看之,似人非人,似獸非獸,約長一尺有餘;朱衣玄冠,赤著兩腳,向桓公面前再三拱揖,如相迓之狀。然後以右手摳衣,竟向石壁中間疾馳而去。桓公大驚,問管仲曰:「卿有所見乎?」管仲曰:「臣無所見。」桓公述其形狀。管仲曰:「此正臣所製歌詞中『俞兒』者是也。」桓公曰:「俞兒若何?」管仲曰:「臣聞北方有登山之神,名曰『俞兒』,有霸王之主則出見。君之所見,其殆是乎?拱揖相迓者,欲君往伐也。摳衣者,示前有水也。右手者,水右必深,教君以向左也。」髯翁有詩論管仲識「俞兒」之事。詩云:

    《春秋》典籍數而知,仲父何從識「俞兒」?豈有異人傳異事,張華《博物》總堪疑。

管仲又曰:「既有水阻,幸石壁可守。且屯軍山上,使人探明水勢,然後進兵。」探水者去之良久,回報:「下山不五里,即卑耳溪,溪水大而且深,雖冬不竭。原有竹筏以渡,今被戎主拘收矣。右去水愈深,不啻丈餘。若從左而行,約去三里,水面雖闊而淺,涉之沒不及膝。」桓公撫掌曰:「俞兒之兆驗矣!」燕莊公曰:「卑耳溪不聞有淺處可涉,此殆神助君侯成功也!」桓公曰:「此去孤竹城,有路多少?」燕莊公曰:「過溪東去,先團子山,次馬鞭山,又次雙子山,三山連絡,約三十里。(此乃商朝孤竹三君之墓。)過了三山,更二十五里,便是無棣城,即孤竹國君之都也。」虎兒斑請率本部兵先涉。管仲曰:「兵行一處,萬一遇敵,進退兩難,須分兩路而行。」乃令軍人伐竹,以藤貫之,頃刻之間,成筏數百。留下車輛,以為載筏,軍士牽之。下了山頭,將軍馬分為兩隊,王子成父同高黑引著一軍,從右乘筏而渡為正兵,公子開方豎貂,隨著齊桓公親自接應;賓須無同虎兒斑引著一軍,從左涉水而渡為奇兵,管仲同連摯隨著燕莊公接應。俱於團子山下取齊。

  卻說答里呵在無棣城中,不知齊兵去來消息。差小番到溪中打聽,見滿溪俱是竹筏,兵馬紛紛而渡,慌忙報知城中。答里呵大驚,即令黃花元帥率兵五千拒敵。密盧曰:「俺在此無功,願引速買為前部。」黃花元帥曰:「屢敗之人,難與同事!」跨馬逕行。答里呵謂密盧曰:「西北團子山,乃東來要路,相煩賢君臣把守,就便接應;俺這裏隨後也到。」密盧口雖應諾,卻怪黃花元帥輕薄了他,心中頗有不悅之意。卻說黃花元帥兵未到溪口,便遇了高黑前隊。兩下接住廝殺。高黑戰黃花不過,卻待要走。王子成父已到,黃花撇了高黑,便與王子成父廝殺。大戰五十餘合,不分勝負。後面齊侯大軍俱到,公子開方在右,豎貂在左,一齊捲上。黃花元帥心慌,棄軍而走。五千人馬,被齊兵掩殺大半,餘者盡降。黃花單騎奔逃,將近團子山,見兵馬如林,都打著齊、燕、無終三國旗號,乃是賓須無等涉水而渡,先據了團子山了。黃花不敢過山,棄了馬匹,扮作樵採之人,從小路爬山得脫。齊桓公大勝,進兵至團子山,與左路軍馬做一處列營,再議征進。

  卻說密盧引軍剛到馬鞭山,前哨報道:「團子山已被齊兵所占。」只得就馬鞭山屯札。黃花元帥逃命至馬鞭山,認做自家軍馬,投入營中,卻是密盧。密盧曰:「元帥屢勝之將,何以單身至此?」黃花羞慚無極。索酒食不得,與以炒麥一升。又索馬騎,與之漏蹄。黃花大恨,回至無棣城,見答里呵,請兵報仇。答里呵曰:「吾不聽元帥之言,以至如此!」黃花曰:「齊侯所恨,在於令支。今日之計,惟有斬密盧君臣之首,獻於齊君,與之講和,可不戰而退。」答里呵曰:「密盧窮而歸我,何忍賣之?」宰相兀律古進曰:「臣有一計,可以反敗為功。」答里呵問:「何計?」兀律古曰:「國之北有地名曰旱海,又謂之迷谷,乃砂磧之地,一望無水草。從來國人死者,棄之於此,白骨相望,白晝常見鬼。又時時發冷風,風過處,人馬俱不能存立,中人毛髮輒死。又風沙刮起,咫尺不辨。若誤入迷谷,谷路紆曲難認,急不能出,兼有毒蛇猛獸之患。誠得一人詐降,誘至彼地,不須廝殺,管取死亡八九。吾等整頓軍馬,坐待其敝,豈非妙計?」答里呵曰:「齊兵安肯至彼乎?」兀律古曰:「主公同宮眷暫伏陽山,令城中百姓,俱往山谷避兵,空其城市。然後使降人告於齊侯,只說:『吾主逃往砂磧借兵。』彼必來追趕,墮吾計矣。」黃花元帥欣然願往。更與騎兵千人,依計而行。黃花元帥在路思想:「不斬密盧之首,齊侯如何肯信?若使成功,主公亦必不加罪。」遂至馬鞭山來見密盧。卻說密盧正與齊兵相持未決,且喜黃花救兵來到,欣然出迎。黃花出其不意,即於馬上斬密盧之首。速買大怒,綽刀上馬來鬥黃花。兩家軍兵,各助其主,自相擊鬥,互有殺傷。速買料不能勝,單刀獨馬,逕奔虎兒斑營中投降。虎兒斑不信,叱軍士縛而斬之。可憐令支國君臣,只因侵擾中原,一朝俱死於非命,豈不哀哉!史官有詩云:

    山有黃臺水有濡,周圍百里令支居。燕山鹵獲今何在?國滅身亡可嘆吁!

  黃花元帥並有密盧之眾,直奔齊軍,獻上密盧首級。備言:「國主傾國逃去砂磧,與外國借兵報仇。臣勸之投降不聽。今自斬密盧之首,投於帳下,乞收為小卒。情願率本部兵馬為嚮導,追趕國主,以效微勞。」桓公見了密盧首級,不由不信。即用黃花為前部,引大軍進發,直抵無棣,果是個空城,益信其言為不謬。誠恐答里呵去遠,止留燕莊公兵一支守城,其餘盡發,連夜追襲。黃花請先行探路,桓公使高黑同之,大軍繼後。已到砂磧,桓公催軍速進。行了許久,不見黃花消息。看看天晚,但見白茫茫一片平沙,黑黯黯千重慘霧,冷淒淒數群啼鬼,亂颯颯幾陣悲風。寒氣逼人,毛骨俱悚,狂飆刮地,人馬俱驚,軍馬多有中惡而倒者。時桓公與管仲並馬而行。仲謂桓公曰:「臣久聞北方有旱海,是極厲害之處,恐此是也,不可前行。」桓公急教傳令收軍,前後隊已自相失。帶來火種,遇風即滅,吹之不燃。管仲保著桓公,帶轉馬頭急走。隨行軍士,各各敲金擊鼓,一來以屏陰氣,二來使各隊聞聲來集。只見天昏地慘,東西南北,茫然不辨。不知走了多少路,且喜風息霧散,空中現出半輪新月。眾將聞金鼓之聲,追隨而至,屯扎一處。挨至天曉,計點眾將不缺,止不見隰朋一人。其軍馬七斷八續,損折無數。幸而隆冬閉蟄,毒蛇不出,軍聲喧鬧,猛獸潛藏,不然,真個不死帶傷,所存無幾矣。管仲見山谷險惡,絕無人行,急教尋路出去。奈東沖西撞,盤盤曲曲,全無出路,桓公心下早已著忙。管仲進曰:「臣聞老馬識途,無終與山戎連界,其馬多從漠北而來,可使虎兒斑擇老馬數頭,觀其所往而隨之,宜可得路也。」桓公依其言,取老馬數匹,縱之先行,委委曲曲,遂出谷口。髯翁有詩云:

    蟻能知水馬知途,異類能將危困扶。堪笑淺夫多自用,誰能舍己聽忠謨?

  再說黃花元帥引齊將高黑先行,逕走陽山一路。高黑不見後隊大軍來到,教黃花暫住,等候一齊進發。黃花只顧催趲。高黑心疑,勒馬不行,被黃花執之,來見孤竹主答里呵。黃花瞞過殺密盧之事,只說:「密盧在馬鞭山兵敗被殺,臣用詐降之計,已誘齊侯大軍,陷於旱海。又擒得齊將高黑在此,聽憑發落。」答里呵謂高黑曰:「汝若投降,吾當重用。」高黑睜目大罵曰:「吾世受齊恩,安肯臣汝犬羊哉?」又罵黃花:「汝誘吾至此,我一身死不足惜,吾主兵到,汝君臣國亡身死,只在早晚,教你悔之無及!」黃花大怒,拔劍親斬其首。真忠臣也!答里呵再整軍容,來奪無棣城。燕莊公因兵少城空,不能固守,令人四面放火。乘亂殺出,直退回團子山下寨。

  再說齊桓公大軍出了迷谷,行不十里,遇見一枝軍馬,使人探之,乃公孫隰朋也。於是合兵一處,逕奔無棣城來。一路看見百姓扶老攜幼,紛紛行走。管仲使人問之,答曰:「孤竹主逐去燕兵,已回城中,吾等向避山谷,今亦歸井里耳。」管仲曰:「吾有計破之矣!」乃使虎兒斑選心腹軍士數人,假扮做城中百姓,隨著眾人,混入城中,只待夜半舉火為應。虎兒斑依計去後,管仲使豎貂攻打南門,連摯攻打西門,公子開方攻打東門,只留北門與他做走路。卻教王子成父和隰朋分作兩路,埋伏於北門之外,只等答里呵出城,截住擒殺。管仲與齊桓公離城十里下寨。時答里呵方救滅城中之火,招回百姓復業。一面使黃花整頓兵馬,以備廝殺。是夜黃昏時候,忽聞炮聲四舉,報言:「齊兵已到,將城門圍住。」黃花不意齊兵即至,大喫一驚,驅率軍民,登城守望。延至半夜,城中四五路火起,黃花使人搜索放火之人。虎兒斑率十餘人,逕至南門,將城門砍開,放豎貂軍馬入來。黃花知事不濟,扶答里呵上馬,覓路奔走,聞北路無兵,乃開北門而去。行不二里,但見火把縱橫,鼓聲震地,王子成父和隰朋兩路軍馬殺來。開方、豎貂、虎兒斑得了城池,亦各統兵追襲。黃花元帥死戰良久,力盡被殺。答里呵為王子成父所獲。兀律古死於亂兵之中。至天明,迎接桓公入城。桓公數答里呵助惡之罪,親斬其首,懸之北門,以警戎夷,安撫百姓。戎人言高黑不屈被殺之事,桓公十分嘆息,即命錄其忠節,待回國再議恤典。

  燕莊公聞齊侯兵勝入城,亦自團子山飛馬來會。稱賀已畢,桓公曰:「寡人赴君之急,跋涉千里,幸而成功。令支孤竹,一朝殄滅,闢地五百里,然寡人非能越國而有之也,請以益君之封。」燕莊公曰:「寡人藉君之靈,得保宗社足矣,敢望益地?惟君建置之。」桓公曰:「北陲僻遠,若更立夷種,必然復叛,君其勿辭。東道已通,勉脩先召公之業,貢獻於周,長為北藩,寡人與有榮施矣。」燕伯乃不敢辭。桓公即無棣城大賞三軍,以無終國有助戰之功,命以小泉山下之田畀之。虎兒斑拜謝先歸。桓公休兵五日而行,再渡卑耳之溪,於石壁取下車輛,整頓停當,緩緩而行。見令支一路荒煙餘燼,不覺慘然謂燕伯曰:「戎主無道,殃及草木,不可不戒!」鮑叔牙自葵茲關來迎,桓公曰:「餉饋不乏,皆大夫之功也。」又吩咐燕伯設戍葵茲關,遂將齊兵撤回。燕伯送桓公出境,戀戀不舍,不覺送入齊界,去燕界五十餘里。桓公曰:「自古諸侯相送,不出境外。寡人不可無禮於燕君。」乃割地至所送之處畀燕,以為謝過之意。燕伯苦辭不允,只得受地而還。在其地築城,名曰燕留,言留齊侯之德於燕也。燕自此西北增地五百里,東增地五十餘里,始為北方大國。諸侯因桓公救燕,又不貪其地,莫不畏齊之威,感齊之德。史官有詩云:

    千里提兵治犬羊,要將職貢達周王。休言黷武非良策,尊攘須知定一匡。

  桓公還至魯濟,魯莊公迎勞於水次,設饗稱賀。桓公以莊公親厚,特分二戎鹵獲之半以贈魯。莊公知管仲有采邑,名曰小穀,在魯界首,乃發丁夫代為築城,以悅管仲之意。時魯莊公三十二年,周惠王之十五年也。是年秋八月,魯莊公薨,魯國大亂。欲知魯事如何,且看下回分解。

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